MAGIC STORY

神河:輝ける世界

EPISODE 19

サイドストーリー:在り方を定めるものは

Abbey Mei Otis
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2022年2月9日

 

永岩城(えいがんじょう)、寺院の庭園

襲撃十分前

 

兵子(へいこ)ちゃん、待って」 十歳の声に、典華(のりか)は精一杯の威厳を込めてみせた。そしていつものように、従妹に対して全く効果はなかった。

 前方で兵子があずまやの蔦をくぐり、その先の茶室の様子を見ようとしていた。近頃、参拝者たちが永岩城を訪れては茶園に現れた霊について皇に嘆願を行っていた。大気が揺らめき、飛ぶ鳥を喰らうという。統合の始まりだと参拝者たちは推測していた。精霊の領域への入り口が開いているのだ。

 兵子はまだ八歳、家の敷地から離れてよい年齢ではない。典華もはるばる庭園区域まで足を伸ばすのは許されていなかった。だが兵子は典華をまるめ込み、冒険へと乗り出した。典華の方も従姉として、山崎家の長姉としての責任は熟知していたが、兵子にせがまれて自分も統合を見てみたくなったのは確かだった。

 そしていつものように、気が付くと彼女は兵子が先走りすぎるのを止めようとしていた。

 兵子は片手を伸ばし、二本の指の甲で脚の脇を叩いた。『落ち着いて』を表す秘密の合図。ふたりはこの合図を沢山練習し、そして無視していた。

 典華は落ち着きなどしなかった。「兵子ちゃん、戻ってきなさい」だが茶室のそばに奇妙なものを発見し、彼女の言葉は途切れた。水面に光が踊るように、大気がゆらめいていた。大きくなっていってるような?

 枝が折れる音がして、兵子があずまやへと入り込むのが見えた。光の切れ目は両腕を広げた幅よりも大きく伸び、熱く白く輝いていた。典華を見上げ、兵子は別の合図を送った。右足の爪先で左足のかかとを叩く。『大丈夫、このまま行こう』の意。

 兵子は統合へと踏み出し、片手を伸ばした。光の切れ目は震え、更に広がった。何かがその隙間から無理矢理出て来ようとしている。ぼんやりとしたローブに包まれた、人間の倍ほどもある姿。腹から一本の剣が突き出て、柄は背中に埋まっていた。顔はなく、黒い煙がうねってふたりに触れようとしていた。兵子はそれを見つめ、立ちすくんだ。

慈悲無き者》 アート:Fariba Khamseh

 黒い煙は濃くなり、らせんを描き、影の渦と化した。神が飛び出し、渦が兵子へと襲いかかった。

 神が飛びかかった瞬間、典華は考えるよりも先に動いた。彼女は身を投げ出して従妹を闇の渦の前から突き飛ばした。跳んだはずが、着地はしなかった。代わりに彼女は苦痛の光の中に宙づりになっていた。思考はなく、筋肉も皮膚も骨もなく、そしてその瞬間は過ぎ去った。細胞がばらばらになるような痛み。今から自分は隙間だらけになるのだ。決して癒えることのない、無数の鋭く小さな傷を受けて。

 目は見えず、けれど身体が地面に落ちたのを感じた。


霜剣山市(そうけんざんし)中央

襲撃から十年後

 

 風が音を立てて路地を吹き抜け、上着を貫通してくる寒さに兵子は大声で罵った。冬支度は万全だと思っていたが、永岩城の庭園での冬と、山岳地帯の霜剣山市での冬は全く別物だと実感していた。

 心のどこかで彼女はこの寒さを歓迎した。何も知らない、知る者もいないこの街に独りで来たのだから。十八歳の誕生日を迎えると同時に、家族から逃げてきたのだから。もう一分たりとも永岩城にいたくはなかった。恥辱の証のように自分の名を両親が口にする様は、典華の怪我について一家が自分を責めたてる様は、もう耐えられなかった。

 その何よりも、兵子はずっと典華と目を合わせることができなかった。従姉を見るたびに、あの神に襲われた後、九か月間も病院の寝台に横たわったままの典華を思い出した。それでも典華は皇国の医師に与えられた人工神経の扱いを覚え、日に日に強くなっていった。彼女は皇国の侍となる試験に備え、あの襲撃で失ってしまったのではと家族が怖れる全てをこなした。そして訪ねる勇気を兵子が奮い起こした頃には、典華はどこか遠い存在になってしまっており、訓練や同期の友人たちに入れ込んでいた。そして兵子は、あんなにいつも前にいたのに、気が付けば後塵を拝していた。

 そして今彼女は、満足な風除け装置入りの服もなく、見知らぬ街の凍える街路を歩いていた。そしてこの冷気をあまり満喫できていなかった。彼女はまた、ひどく空腹だったのだ。

反逆のるつぼ、霜剣山》 アート:Lucas Staniec

 角を曲がると街路は人に溢れていた。彼らは所有する限りの衣服を着込んでいるようにも見えた。長く曲がりくねった人の列が、街路の中央の巨大なかまどに続いていた。腰ほどの高さもある大釜から、ふたりの給仕人が柄杓で粥をよそっていた。

 その様子は永岩城、皇の謁見を求める参拝者の列を思い出させた。あの参拝者たちはいつも顔をしかめて疲れ切っていたが、ここの雰囲気は寒気と裏腹に温かかった。列の人々は笑みを交わし、子供たちは大人の足元を駆け回っていた。

 兵子は群衆をよけ、食事のできる場所を探した。そして大釜の隣を通過しようとした時、給仕人のひとりが呼びかけた。

「食べ物が欲しかったら並んでよ!」

 彼女は困惑した。「え?」

 その給仕人はかぶりを振った。「割り込みは駄目だ」

「え、いや私それが欲しいわけじゃ」 彼女の言葉はかき消えた。

 給仕人は兵子を上から下まで見つめた。「腹減ってるんだろ」

「他に必要としてる人がいるってこと。私はお金があるし。蜂起軍の人を探してるんだけど」

「蜂起軍を探してる、けどうちらの飯を食べるのはもったいないって?」 給仕人は片眉を上げた。

 突風がひとつ吹き抜け、兵子に残る平静を奪っていった。「そうじゃなくて」

 給仕人は小さくお辞儀をした。「うちら全員が戦士なんだけどな?」

 丸顔に鋭敏な瞳、給仕人の頭上には持ち手の長い急須の影が三つ、物憂げに宙に浮いていた。兵子が返答を考えていると、区画の先から皇国のメカが三機現れた。

『この集会は認可されていません』 増幅された声が鳴り響いた。『車両の通行の妨げとなっています』

 メカは前進し、炊き出しの列から人々を歩道へと追いやった。給仕人はひしゃくを振り回して群衆へと声を上げた。「大丈夫だ、場所を変える! 何もしなくていい――」

 だがその言葉をメカが遮った。それは風に鎧を鳴らしながら、大釜の前に立ちはだかった。先頭のメカは胸のスロットから輝く一枚のチケットを吐き出した。『この炊き出しは認可されていません。異議申し立てがある場合は皇国兵站部へ――』

 ビシャッ。雪玉がひとつ、メカの後頭部に命中した。融けかけた雪が白い装甲に流れ下った。メカが旋回し、兵子にもその背後の様子が見えた。列を成していた人々の多くは、もはや冬服に包まれてはいなかった。膨れた衣服の下、彼らは光沢のある特別製の外骨格型装置をさらけ出していた。陶製の装甲に輝く割れ目が走っていた。

 そのメカは踏み出し、何枚ものチケットを吐き出した。『この増強技術の所持は許可されていません。異議申し立てが――』

 ビシャッ。また別の雪玉は、今度は正反対の方角から命中した。

 兵子は掌を顔にあて、今投げた雪玉の冷たさを和らげた。

「うーん、逃げよう」 給仕人の声は落ち着いていた。急須が頭のすぐ近くで旋回していた。「ほら」 その声に兵子は走った。


 建物の隙間に隠れながら、刀鍛冶屋の暖かな壁から壁へと何時間も走り続けたように思えた。やがて追跡してくるメカの金属音は聞こえなくなった。ずぶ濡れで震え、ひどい装いのまま最初に見つけたカフェに入って、それらから逃げられたと兵子はようやく確信できた。

 中は暗く、蒸気と息遣いに満ちていた。炉で温められた湯のパイプが壁を伝い、部屋に暖気を提供していた。低い卓の上には光るディスプレイが置かれ、人々が会話を交わしていた。輝くメニューやニュースの見出しが壁に流れていた。

 目が慣れると、兵子は奥のカウンターへ向かった。あの給仕人がそこにいて、昆布巻きを深鍋に放り込んだ。すると長い持ち手の急須がみっつその深鍋の上に浮かび、沸騰する湯を注いだ。兵子は唖然とした。「あれ?」

 給仕人の鋭い瞳が睨みつけた。「逃げるの上手なんだな」

「経験がありますので」

 その返答に給仕人は破顔した。「さっき言ったよな、あんたは腹減ってそうだって。けど今は本気で腹減ってるだろ?」

 兵子は反論しなかった。カウンターの椅子に座し、彼女は湯気の立つ煮汁と昆布巻きの椀にがっついた。表面には金貨のように脂が浮いていた。食べながら、彼女は説明を試みた。「ありがとう、それとごめんなさい。何の計画もなくここに来たんです。ただ理想那(りそな)さんに会えるかなと思って」

 給仕人は笑い声をあげた。「誰もが理想那に会いたがってる。あんた何か特別なことはできるのか?」

「何も」

「特別なことはできない?」

「ええ、それでも」

「冗談だ。あんたはよくやる。うちは千得(ちえ)ってんだ」 柄杓を持ったまま、給仕人はお辞儀をした。そして兵子の背後を示した。「後ろ見てみな。理想那はそこだ」

 薄暗い隅に、大きめの外套をまとった人物が座っていた。兵子が振り返ると同時に、その人物は立ち上がってフードを脱いだ。理想那は長身で厳めしく、髪を赤い紐でまとめ、目の周りを縁取っていた。その声は温かく、だが断固としていた。「雪玉を投げるなんてのは馬鹿なことだよ」

 腹が膨れた兵子は憤慨をはっきりと口にした。「誰でもそう言うんです、そうすれば私を止められるみたいに」

 理想那は低い笑い声を発した。「言葉で窘められてただけなら、あんたは甘やかされて育った金持ちの子ってことだ」

 兵子は鋭く言い返そうとしたが、脳内の囁きが止めた。待って。彼女は反論を飲みこむと、真摯にふるまうと決めた。「私の一家は皇国に仕えています。ですが私自身はもうその一員ではありません。一員ではいられなくなったんです。新しく始めるためにここへ来ました」 彼女は理想那の目を見つめた。「正義を信じる人たちの所で、それを見つけられればと思ったんです」

 理想那の厳しい視線が、度量に和らぐのがわかった。希望があるかもしれない。

「あんたはいい腕をしてる。足も速い。けど衝動的だ」

「そんなに衝動的じゃありません!」

 理想那は溜息をついた。「ま、この千得が言ってるんだ。保証人になるって」

 千得が割って入った。「感じるものがあってね」

 理想那は兵子へと身をのり出した。「ここで生きるのは簡単じゃないよ。もっと良くなるとか皇国はいつも言ってくる。けどいつも、私たちは支え合って生き延びるので精いっぱいだ。本当にそんな生き方を望むの?」

 兵子は腹の奥深くが温まるのを感じた。それは熱いスープのお陰かもしれない。あのメカに雪玉が命中したのを見た満足からかもしれない。背を向けていても感じる、千得の笑みの暖かさかもしれない。兵子は理想那と目を合わせた。「はい」


永岩城、皇宮

襲撃から二十年後

 

 典華は治療用の椅子に座し、深呼吸をした。小さな針が身体を突き、皮膚を刺した。彼女の両腕と両脚、そして背中は複雑な青緑色の模様で覆われていた。それは刺青にも似ているが、近くで見るとむしろ立体的であるのがわかる。典華の皮膚を覆う増強装置。

 あの名も知らぬ神に襲われた後、典華の身体は数週間に渡って麻痺し、痛みに苦しめられた。いつになれば、どうすれば回復するのかは誰にもわからなかった。皇国は認可されたばかりの人工神経を一家に提案し、九か月をかけてそれは地衣類のように彼女の皮膚の上に成長していった。薬の効果が消えて身体を起こした時、典華は陶酔を感じた。苦痛はもはや彼女の歯を鳴らす怪物ではなく、宥めることのできる相棒だった。

 以来ずっと、彼女はその苦痛から忍耐と休息を学んできた。行動と同じほどに、静寂の価値を学んだ。身体が動く時には訓練をし、動かない時には歴史や詩や植物学の書物に目を通した。自分の感情を制御し、かつて自らの影のように可愛がっていた従妹については考えすぎないよう努めた。感情が頻繁に昂るような時には、装置をアップデートするために医師を訪ねた。

 老学者のように史詩を引用し、数週間も続けて欠席するこの生徒の扱いを学院の教師たちは当初決めかねた。彼女は熱心に耳を傾けることで教師たちの信頼を勝ち取り、さまざまな問題を新たな角度から見た。卒業すると、彼女は皇国顧問である直美(なおみ)の補佐官となった。そして皇が失踪した。直美の影響力が増すほどに、典華の責任も増していった。彼女は永岩城にて統合担当局の主任に就いた。かつて自分に襲い掛かかった、あの神を吐き出したものと同じ現象の。そして四年が過ぎた。

 この日、医療機械にてアップデートを行いながら、典華は直美との先日のやり取りを思い返していた。一週間前、師は典華を戦略室へと呼び出した。そこでは国の地図がホログラムで表示され、列車の動きは飛行メカ、ちらつく統合のゲートまでも再現されている。典華が入室すると、直美は地図の南方を示した。「霜剣山市の無法者たちは手に負えなくなりつつあります。貴女にはそこで指揮を行って頂きたいのです」

秩序の柱、直美》 アート:Joshua Raphael

「霜剣山市ですか?」 典華の中で何かが強張った。

「確かに遠く寒い場所です。そして魅力的な仕事とはならないでしょう」 直美は言葉を切った。「ですが重要な任務だと考えています。貴女の経歴を考えるに、このゲートを取り扱うのは簡単ではないと思われますが」

 典華は反論しようとし、だが止めた。師の語りには、他の者が目を背けたがる真実を告げる力があった。自分は永岩城での日々に疲弊している。変わるべき時なのだと。

 同時に、機械音がアップデートの完了を告げた。典華は身体を起こし、活気がみなぎるのを感じたが内なる強張りは残っていた。寒く魅力のない仕事だからではない、変化は歓迎する。だが霜剣山市で何かが待ち受けている気がした。まだ言葉にできない予感があった。


霜剣山市、倉庫地区

襲撃から二十年と六か月後

 

 時間は真夜中過ぎ、兵子と千得は列車強盗に向かっていた。いつかもっと違った夜を一緒に過ごせるのだろうか、兵子はそう思い描いた。料理店で人間観察をしたり、着飾って芝居を見たり。けれど霜剣山市はずれの操車場に、糧食を山積みにした皇国の列車が停まっているという噂を聞きつけた時、ふたりは他に何も考えられなかった。そのためふたりはこれまでの沢山の夜と同じように軽装鎧と黒い外套をまとい、曲がり角の先を探り、影の中を駆けた。

 月は雲に隠れ、操車場は静かだった。貨物車両には錆びたひとつの錠がかかっているだけだった。千得の急須たちが凝縮した蒸気を錠に浴びせると、機構は砕け散った。

 だが千得は眉をひそめた。「簡単すぎる」

「まさしく力の使いどころだったってことじゃなくて?」

 千得は疑わしげに視線を動かした。「簡単すぎるんだ」

 力を込めると引き戸が開いた。車両には数百人分もの食糧が積まれていた。米袋の山や小麦と大麦の樽、干し魚や野菜の印がついた箱の間を歩くのがやっとだった。

 兵子は嫌悪感にかぶりを振った。「こんなに溜め込んでるとかどういうつもりなの。みんな、子供のためにごみを漁ってるのに」

 千得は兵子の腕を軽く突いた。「お喋りは後、まずは動く。新しい行政官が来たばっかりだって聞いてるよ。すごく厳しいのが」 千得は箱を持ち上げ、持ち込んだホバー式の荷車に乗せた。

 兵子は千得の隣に急ぎ、荷運び台を持ち上げた。「その行政官には感謝してもらいたいわね。ここの食べ物は忘れられそうになってたところを、私たちがたまたまここにいて正当な持ち主に帰すんだから。霜剣山市の飢えた人々に」

 ふたりの背後であざ笑う声が上がった。「実に献身的な国民だ」 また兵子の腕に軽く触れるものがあり、だが今回は千得ではなかった。刀に手を伸ばすよりも速く、自動式の手錠がふたつ、彼女の背中で両手首を拘束した。千得も同じだった。皇国の執行人がふたりを車両から引きずり出して地面に投げ出し、屈みこんで囁いた。「司令官殿から直々にお話があるそうだ」

 冷たい土が兵子の頬をこすった。千得の頭部に浮かぶ急須は鋭い悲鳴を上げ続けていた。その音の先から、軽く正確な足音と増強鎧の金属音が届いた。執行人たちは飛びのき、敬礼をした。「司令官殿!」

 自分たちを見つめる新たな存在を兵子は感じた。物思うような声が上がった。「霜剣山市の恐るべき無法者たちがこんなにも……不器用だとは思いませんでしたよ」

「うちは無法者じゃない、料理人だ」 千得が吐き捨てた。

 司令官は皮肉を込めて返答した。「この街では両方を兼ね備えられる、そう聞いております」

 その口調にある何かが、兵子の心を辛辣に突き刺した。

 執行人たちは兵子と千得の肩を掴み、無理矢理立たせた。司令官は黄金で縁取られた白の鎧をまとっていた。その兜は折り紙を模した精緻な折り目で顔を覆い、後頭部ではふたつの扇のように広がっていた。

 ふたりの汚れた顔を見て、その司令官は後ずさった。装甲の手が刀の柄に触れ、そして放した。どこか動揺した声が発せられた。「ここで何をしているのです?」

 千得までも囚われてしまったことを兵子は恥じ、だがその質問は彼女の憤慨を呼び戻した。「何をしてるのかって? そっちこそ何をしてるのよ、何千人分もの食糧を罠に使うとか! この街で何してるのよ、誰もお前なんて必要としてないのに!」 兵子は横向きに突っ込もうとし、またも地面に倒れた。そして声を上げながら身体を起こそうとした。「飢えて死ねばいいのよ、そうやって思い知りなさい!」

 そして突き刺さるような後悔の痛みに、彼女は言葉を切った。その司令官の左手に兵子の注意が引き寄せられた。ごくゆっくりと、二本の指の甲が鎧の脚に触れられた。

『落ち着いて』

 兵子の意志とは裏腹に、疑問が滝のように次々と流れていった。典華のはずがない。ありえない。蜂起軍として感情を出さないよう教え込まれていたが、呼吸の変化に千得は鋭く兵子を見つめた。

 両手を背中に拘束されたまま、兵子は精一杯姿勢を正した。「気が変わった。模範囚になるわ」 彼女は執行人たちへと笑みをひらめかせた。「国への奉仕、お疲れさま」

 執行人たちは冷笑を向け、だが司令官が割って入った。「この者たちには私が尋問を行います。下がって結構です」 だが執行人たちがためらっていると、司令官は叫んだ。「今すぐです!」そして彼らは線路の先へと退散した。

 彼らの姿が見えなくなると、司令官は頭を下げて兜を脱いだ。暗闇の中でも、典華の瞳は兵子の記憶の通りで、けれど今や大人の顔になっていた。典華は兵子の視線を受け止め、一瞬、兵子は病院の寝台に横たわる従姉の記憶を突きつけられた。またも息が詰まるのを感じた。隣で千得が情報を組み立てているのがわかった。無言の疑問に答えるため、兵子は言った。「この人は山崎典華、私の従姉。子供の頃仲良しだったの」 最後の説明に、言外の意味を千得が察してくれると願って。

 千得はしばし黙っていたが、口を開いた。「つまり、強情な娘が家族から逃げ出したってわけ」

 典華は笑い声をあげた。彼女は宙に文字を描くと、手錠が弾けるように解けた。

 兵子は立ち上がり、千得に手を貸した。彼女は従姉の、その顔以外のあらゆる箇所を見つめた――鎧、靴、血に汚れていないきらめく刀。「欲しいもの全てを手に入れたって感じね」

「そうでもありません」 典華の声はまるで喜んでいるようだった。「もっといい再会場所を選びたかったものです」

 兵子の両手に感覚が戻り、同時に怒りも戻ってきた。笑うなんてどういうつもり? 「冗談を言ってるんじゃないの。何でここにいるのよ、皆が飢えてるって時に!」

「判っています。その通りです。私は誰ひとり死なせたくはありません。それを正しに来たのです。そして兵子ちゃん、貴女の姿を見てわかりました。これは良い機会です」

 典華は滑らかに外交的な話へと移行し、それは兵子を更なる怒りで満たした。「私は利敵行為はしない」 その言葉は静かな夜を切り裂いた。

 典華の表情が強張った。「私たちは皇国の家で育ちましたね」

「ええ。私は家を出たけど」

「そして今、貴女は子供のようにふるまっている」

「実際、この子は蜂起軍としてふるまってるよ」 千得が割って入った。「聞いたことあるかな、蜂起軍は誰も受け入れる。生まれ育ちがどれほど……芳しくなくても」

 典華は得意そうに笑った。「ええ、蜂起軍については沢山聞き及んでいます」

 兵子は吐き気を覚えた。だから自分は家を出たのだ。自分たちの関係は簡単な話ではない。言葉を発するほどに、物事が速やかに露わになっていく。彼女は典華へと食ってかかった。「私らは捕虜ってわけ?」

 典華は一歩下がった。「そのようなことは決してしません」

「そ、ありがたいわ。じゃあ行こ」

「兵子ちゃん、離れていかないで」 典華の声は必死に響いた。「ねえ、今回は」

「私に命令しないで」

「お願いしているの。どうか、兵子ちゃん、待って」

 その言葉に兵子は凍り付いた。辛かった。辛いと認めることが辛かった。長いことずっと響いていたその言葉。兵子はひとつ深呼吸をし、千得へと向き直った。

「先に行って。罠だったって理想那さんに伝えて。私は大丈夫だってことも」

 千得は兵子の肩を掴んだ。「皇国の司令官の所に置き去りにできるわけないだろ? 従姉だからって」

 兵子は千得の頬に手を当てた。「そういう所さ、愛してる。けどお願い、私を信じて」

「そういう所、何だって?」

「今すぐここを離れて欲しいってこと」

「もう一度言ってくれ」

「愛してる、今すぐここから出ていって」

 千得は典華の目の前までやって来た。「聞いた? そこの奴がたった今言った通り、あの子はうちを愛してる。で、うちはまだ言ったことはないんだけど、あの子を愛してる。だから、ほんのちょっとでも傷つけてみろ、この急須が見えるか? こいつらの湯気は人の皮膚なんて一瞬で融かしてしまえる。わかったな?」

 線路の先で、千得は兵子へと投げキッスをすると、影の中へ消えた。

 典華は再び兵子へと向き直った。「本当に蜂起軍の一員なのですね」

 その声に苦々しさを隠せず、兵子は答えた。「私は本当の家族に必要とされなかった」

 典華は口元を歪めた。「誰もが家族に反抗したがります。けれど国全体に反抗はしないものです」

「私がどう感じたっていいじゃない、私の心配する必要なんてないのに」

 典華は距離を詰め、兵子のシャツを掴んだ。「私が兵子ちゃんを心配してないとでも? どうしてそんなこと言うの?」

 兵子の心臓が高鳴った。典華の目に涙が浮かぶのが見えた。彼女は口ごもって言った。「そうじゃないとは言ってない」

 典華は手を放し、素早く涙を拭った。「全く、相変わらず私を苛立たせる方法をよくわかっているんだから」

 兵子は典華を睨みつけた。「私がここにいるって知ってたんでしょ? だからその任務を受けた。私が役に立つと思って」

 今や典華は視線を落としていた。「確信はしていませんでしたが、予感はありましたよ。そして私の予感はだいたい当たります」

 兵子は一歩下がった。「典華ちゃんのことは聞いてるよ。野心があるんでしょ。国の詩人にして戦士。私はただの踏み台のひとつってこと?」

詩人、山崎典華》 アート:Magali Villeneuve

「貴女はどうなのです? 選んだ家族を自惚れから飢えさせるのですか? 私を嘲るために?」

「典華ちゃんも家の人たちと同じじゃないの。あの事故のせいで、私は典華ちゃんに一生負い目を感じて生きなきゃいけないって思ってる、逃げることもできないように」

 ふたりはにじり寄った。典華は冷淡に告げた。「私があの瞬間を、全身の神経で忘れられないまま一生を過ごさなければならないのと同じようにですか。私も逃れられないのですよ」

 その言葉に、兵子は耐えられないような痛みが胸を刺すのを感じた。彼女はそれを怒りへと変えた。「もういいでしょ」 彼女は典華を押しのけて立ち去ろうとしたが、従姉は刀を横向きに構えて立ちはだかった。鋼のきらめきに兵子はうなり、自身の刀を抜いた。典華は旋回し、三度の跳躍で向かってきた。兵子は刃に炎をまとわせ、真剣な面持ちで動いた。怒りのままの激しい動きで、彼女は典華の喉を狙った。

 だが典華の動きは完璧だった。彼女は牽制し、離れ、一撃で兵子を叩きのめした。兵子はしたたかに倒れ、頬骨を線路に強打した。血の味を感じた。顔面を血が流れ下るのがわかった。

 典華はすぐさま飛びかかり、兵子の喉元に刀を押し付けた。その息は荒かった。「馬鹿! 貴女に償わせるために来たんじゃないのに。赦すために来たのに」

 刃の圧力が消え、刀が線路に音を立てて落ちた。典華は立ち上がり、兵子は身体を起こしてうずくまった。彼女は仮面のように感情を押し殺した。もし口を開いたなら、泣きだしてしまいそうだった。

 典華は下がり、両手を身体の脇で広げた。「兵子ちゃん。もういいのですよ」

「私はよくない」 兵子は声を詰まらせた。「私はもう昔の私じゃない」

 典華はかぶりを振った。「私だってそうです。けれど機会をくださいな、兵子ちゃん」

 兵子は抵抗した。「これは遊びじゃない。台帳の数字とか地図に配置する駒みたいに考えてるけど、ここには典華ちゃんの知らない世界があるの」

「では見せてくれませんか?」 兵子に目を合わせたまま典華は屈みこみ、刀を拾い上げて鞘に収めた。「霜剣山市を見せてくれませんか?」 冷静な、落ち着いた声は長年の外交術に鋭く鍛えられていた。

 典華がもたらす可能性を兵子は想像せずにいられなかった。誰も食べ物に困らない街。誰も死ぬことのない冬。だがその未来視は瞬いて消えた。「典華ちゃんと一緒には街を歩けないよ」 兵子は言葉を切った。自らの血にうねる大きな変化を理解しようとするよりは、目の前の問題を考える方がたやすい。「刀を抜いて、私は捕虜だってふうに行動して」

 典華は同意を渋った。「私が蜂起軍の一員だったとして、窓の外を見たら皇国兵が愛する兵子ちゃんに刀を突きつけている。私だったら窓から何かを投げますね」

「逆でも同じかもしれないよ」

「では一緒に危険を冒してみますか?」

 今度は兵子が同意を渋る番だった。「典華ちゃんは危険を冒したことなんてないのに」

 典華の皮肉的な笑みが戻ってきた。「驚くかもしれませんけれど、私だってこの二十年で変わったのですよ」

 ふたりは操車場を離れ、ともに街の中心部を目指した。街路は静かだった。見られている、兵子にはそうわかった。緊張した――このことで理想那に追い出されるかもしれない。千得は離れていくかもしれない。第二の家族にも、最初の家族のようにあっけなく拒絶されるかもしれない。

 密集した木造建築の区画をふたりは通過していった。バルコニーには洗濯物が干され、雪の上の足跡が家々の玄関へと続いていた。兵子はそれらを指さした。「ここの集合住宅は土地を失った農民とか、家のない家族のためのもの。蜂起軍は暖房と水と電力を提供してる。向こうにあるのは朝食を出す食堂。あの坂の先には学校があって、立ち退きさせられた家の子供たちのための学校がある」 彼らが皇国の宣伝を沢山学べるように、彼女はそう言いかけてやめた。

 兵子は苛立ちとともに気付いた。自分は典華の反応を気にしており、褒めてもらいたがっていると。典華は熱心に耳を傾けながら、明敏かつ論理的な質問をしていた。「食糧の寄付はどのような体制で?」「調理の業務を管理しているのはどなたですか?」

 地熱を炉に供給する仕組みを話しながら、ふたりは角を曲がった。その瞬間、典華が言葉を詰まらせた。理想那が斧を彼女の喉元へと突きつけ、蜂起軍の戦士たちがふたりを取り囲んだ。

 理想那は低い声をあげた、「散歩は終わりだ」 彼女は典華の襟部分に斧で触れた。その胸鎧の下、青緑色の輝きが兵子には見えた。

 千得が兵子へと駆け寄り、髪を除けて額の擦り傷を見つめた。そして典華を鋭く睨みつけた。「一瞬だ、そう言ったのを覚えているか?」

 兵子は極めて注意深く言葉を選んだ。「大丈夫です、理想那さん。千得。司令官と私は理解し合うために来たんです」

「兵子」 理想那は叱責するように言った。「皇国兵は回りくどい話しかしない。お前を言葉で罠にかけるつもりだ」

「わかってます、話を聞いて下さい。司令官殿は皇国の倉庫の中身を明け渡すことに同意してくれました。農民へと税金を強要することも止めるそうです」

 軽蔑を浮かべ、理想那は典華を見た。「行政官、それは本当か?」

 典華は黙ったままでいた。必死の思いで、兵子は右足の爪先で左足のかかとを叩いた。大丈夫、このまま行こう。

 押し付けられた理想那の斧に妨げられながらも、典華はひとつ深呼吸をした。「その合意を尊重します」

 兵子は大きな安堵を感じ、だが理想那は鼻を鳴らした。「そんなので足りるものか。皇国が怠惰だから人が死んでいく。ダムのひび割れを埋めたって何にもならない。ダムを壊さなきゃいけないんだ」

「ひとつの街を養うために、貴女は大変な役割をこなしていらっしゃいます。ですがひとつの国を統べることと同じではありません」 典華は冷静に言った。「議会は目の前の人々だけでなく、全ての人々のための決定を行わねばならないのです」

 兵子は典華の冷静さに感心する自身に気が付いた。理想那に切り裂かれる前に、従姉が口を閉ざしてくれればいいのだが。

 理想那が言い返した。「人々に決定を任せれば、お前が統治する必要はなくなる」

「貴女は何千もの人々に尊敬される指導者です。ならばお分かりでしょう、そのように単純なものではないと」

「単純にできる」 理想那は厳めしく口元を歪めた。「それを複雑にしているのは皇国だ」

「じゃあ、私たちを放っておいてくれればいい」 兵子が割って入った。その議論が白熱しないよう必死に、彼女は従姉のように声の平静を保とうと努めた。典華を見て、彼女は続けた。「皇国はここの技術をもう規制しない。その代わり自分たちで泥棒には対処する。霜剣山市は自由な街になる。それでどう」

 深く、推し量れない瞳で典華は兵子を見つめた。「喉元に斧を突きつけられていなければ、その提案を検討するのはもっと簡単になると思いますが」

 兵子は頷き、そして驚いたことに、理想那は武器を収めた。

 典華は鎖骨を撫でた。「直美先生と議会にかけ合います。先生方の承認なくして、私の言葉に効力はありません」

 千得が笑いだした。「それかよ? また堂々巡りだ。あんたらが真摯に話し合うってどうしてわかる?」

 今度は典華が千得を全力で睨みつける番だった。ふたりはしばし見つめ合い、やがて典華が言った。「私も痛みは十分に知っています。私が被る以上のものを見たくはありません」

 千得の急須が宙に静止した。頷き、「じゃあここでは合意だ。そういうことで」

 理想那がふたりの間に踏み込んだ。「お前に二言はないかもしれないが、それで反乱が収まるわけではない。皇国はお前が埋め合わせようとする以上の苦しみをもたらしてきたのだから」

 兵子は身構え、だが典華は頭を下げた。「そうであれば、私はここで真摯に貴女がたに接した、そう覚えていて頂くことを願うだけです」

「皇国が真摯だった試しなんてない」 理想那は取り囲む戦士たちに身振りをした。「お前たちからは目を離さない。兵子、行政官殿を霜剣山の外まで連れて行け」


 ふたりは雪深い街の外に続く道を辿った。辺りの窓越しに、炉の暖かな光が輝いていた。歩きながら、兵子は従姉の様子を観察した。典華の心の動きがわかった。発言すべき会議と書くべき提議。協定と取り引き。伺いをたてるべき専門家、査定すべき技術、選別すべき規制。

「本当にできるって信じてるの?」 兵子はそう尋ねた。

 典華は考えこんだ。「自分たちの決定を常に信じているわけではありません。それでも私たちは正しい道を選択した、そう信じています」

「それが反乱に繋がるとしても?」

 典華は指先で融ける雪のひとひらを見つめ、そして兵子へと振り返った。その瞳は悲嘆と愛に満ちていた。「それでも、です」

将軍、山崎兵子》 アート:Magali Villeneuve

 ふたりは皇国の駐屯地へと辿り着いた。入り口付近ではメカやドローンとともに執行人たちがひしめき合っていた。優美で断固とした動きで、典華は警戒を解くよう彼らに指示した。本で見た英雄みたい、兵子はそう思った。兵士たちはその後に続く。政治家も譲歩する。敵ですらも尊敬せずにはいられない。

 まるでその思考を読んだかのように、典華は視線を鋭くした。「兵子ちゃん、私たちは敵同士だと思っています?」

 続く兵子の返答はこれまでの人生で最も真摯、だがそれは今この時までわからなかったものだった。「ううん」その一言で彼女は止めた。話したいことは沢山ありすぎた。正反対の人生を十年も歩んできたのだから。子供の頃の秘密の合図の中に、今や自分たちを隔てる距離を表すようなものは存在しない。兵子は言葉を注意深く選んだ。「けど仲間同士かどうかは、まだわからない」

 典華は頷いた。「そうですね」

 ふたりは握手を交わした。抱擁はなかった。典華が執行人たちの列へ向かうと、敬礼が彼女を出迎えた。兵士の全員が彼女を追い、辺りが静かになるまで兵子は見守った。そして彼女は背を向けて山道を引き返していった。火の灯る街で、家族が待っている。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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