MAGIC STORY

神河:輝ける世界

EPISODE 18

サイドストーリー:新紀元機関

Grace Chan
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2022年2月8日

 

 カツマサに先導されて迷路のような通路を進みながら、コトリは全身が浮き立つのを感じていた。これまでも師は秘密の実験室に何度も連れてきてくれていたが、この最深部は初めてだった。隠蔽の幕に通路は影と化し、扉は消えた。コトリに見えたのはごく一部だけだった――輝く魔法に覆われた、やけに引き延ばされた身体。腕ほどもある針を生やした巨大な機械。檻の柵の中、毛むくじゃらの陰鬱な顔。

 また別の幕をくぐり、コトリはカツマサに続いてドーム状の部屋に入った。壁から柔らかな青い光が放たれていた。部屋の中央には台座になっていたが、その上には何もなかった。

「コトリ、知っていると思うが、私が弟子の中でも一番信頼しているのは君だ」 カツマサは背後に腕を組んで言った。「この七年間、君は決断力と献身によって並外れた存在であると証明してきた。私の側近の中でも、最も優れていると言っていい」

 コトリは師へと顔を上げた。その額に埋め込まれたテレパス装置が輝き、長い耳は鋭い顎と幅広の肩に影を落としていた。皮膚には年齢が刻まれ始めているが、決して衰えてはいなかった。大田原(おおたわら)では、その名は尊敬を込めて口にされている。命を与える者、メカの人形師、未来の工学者カツマサ。

命を与える者、カツマサ》 アート:Heonhwa Choe

「誉めすぎです、先生。空中ではヒデジの方がずっと素早いですし」

「ヒデジか。あれには冷静さが欠けている。ゆえに決して大成はしない」 カツマサは口元を歪め、そして表情を暗くした。「何にせよ、呪わしいメカが追いつけないのであれば、操縦士の速度は問題ではない」

 その言葉は以前にも聞いていた。カツマサは長年に渡ってその技術の改良を目指していた。思考から行動までの間隙を縮める――だが定命と機械との正確な同調は困難だった。腹を立てた師が、三年をかけた実験を燃やし尽くす様をコトリは見たことがあった。

「言うまでもなく、この研究は機密扱いだ」 カツマサは隠蔽の幕へと身振りをした。「君も絶対に機密を守ると誓った。この実験は他の部門にわずかでも察知されるわけにはいかないのだ。そう、未来派として言うが、進歩とは我々を突き動かす原動力だ。とはいえコトリよ、全ての科学者が君や私のように道義をわきまえているわけではない。彼らが何もかも自分たちの功績だと主張し、我々には塵ひとつ残さないだろう。そして皇国に嗅ぎつけられたなら――ああ、更に悪いことになる。そういった独善的な空論家どもは、我々が成し遂げようとしているものを正しく理解することはない。わかるね?」

 コトリは頷いた。衣服の分厚い布の下、皮膚がぴりぴりとした。以前にも秘密の研究へと連れてきてもらってはいたが、今回、師の声に宿る奇妙な興奮は……それとは異なっていた。

 カツマサの額の装置が閃いた。何かが動いた――隠蔽の幕がまたひとつ消えた。何もなかった台座の上に、巨大なメカが鎮座していた。二本の力強い脚の上に、幾何学的形状をした銀色の上半身。太い腕の先端は組み合い鉤のような手で、肩甲骨からは剃刀のように尖った翼がぎらついていた。

「綺麗」 コトリは感嘆の声を発した。

「新世代メカの試作品だ。最初の工程としての名は新紀元機関――君にはその操縦士になってもらいたい」

 低く響く音を発し、そのメカは小さな昇降台を床へと伸ばした。コトリがその上に立つと、留め具が靴を固定した。彼女は持ち上げられ、耳が風を切り、操縦席へと格納された。透き通ったハッチが音もなく彼女を密閉した。

 その場所から見たカツマサは、不意に小さな人影となった。暗い床に際立つ薄く小さな点。巨大な金属の足で踏み潰してしまえるような。

 コトリは座席に背を預けた。一本の輪が頭部に巻き付き、冷たく柔らかく感じた。彼女は慣例となっている確認事項を呟いた――緊急脱出装置、通信ポータル、制御系エンチャント、エネルギーの状態、安全ベルト。形状は少し異なるが、操作系は本質的に同じだった。

 インターフェースが起動した。

 そこはもはや狭苦しい、薄暗い操縦席ではなかった。コトリは宙に浮いていた。自分の身体が、ありえないほどに大きくなっていた。上半身は難攻不落の壁、両腕は身体の脇に巻かれ、ごく軽い命令でコンクリートの壁をも砕く。鋼の両脚はエネルギーを満たされ、震えていた。

 感覚の全てが咆哮をあげた。隣の建物で、ふたりの科学者が研究文書の漏洩について囁き合っているのが聞こえた。一匹の齧歯類が壁を駆け、その震えを感じ取れた。カツマサの汗腺からかすかに鼻をつく化学的な、アンモニアにも似た何かが漂うのを嗅ぎ取った。

 そして視界――こんな視界を経験するのは初めてだった。部屋を覆う隠蔽の幕は透明も同然だった。壁は薄紙だった。もし試みたなら、師の皮膚の下、骨までも透けて見えるかもしれない。

 自身の右腕を持ち上げると、逞しい拳が円蓋の天井へと向けられた。爪先を動かすと即座に反応し、床に金属音が鳴った。これまでにもメカと一体化したことはあったが、動きは雑で伝達エラーと遅延を伴い、ひどく酔った。こんなにも完璧な同調を、カツマサ先生はどうやって?

 コトリは更に深く浸透し、元の身体を完全に手放した。その下で何かがちらついていた――暗く、力強く、とても目をひく何かが。

 とても遠くから、カツマサが呼びかける声が聞こえた。「気をつけろ――もし何か異常を感じたら、すぐに切――」

 感情の猛攻撃が叩きつけられた。高揚、好奇心、怯え、憤怒、恐怖の波また波が、パルサーのように小さな一点から発せられた。

 コトリは我を失いそうな興奮の中にいた。

勝利械(しょうりかい)

開闢機関、勝利械》 アート:Wisnu Tan

 その声はコトリのものではなかった。それが声なのかどうかも定かでなく――むしろ優しく冷たい一本の指が、心に押し付けられたようだった。

 彼女は接続を切った。

 身体は汗に濡れ、呼吸は荒かった。

 座席。視界。血と肉の身体。カツマサが床から手を振っている。コトリは頭から輪を引きはがした。

 数分後、彼女はメカから降りた。冷静に、だが汗の粒がそれは嘘だと告げていた。カツマサは目を輝かせていた。

「仰天しただろう? 滑らかな制御、ほぼ遅延もなく、エネルギーの流れは力強く――」

「先生、何かおかしかったような――」

「ああ悔しい。時々、私自身が操縦士だったらと思うよ……」

「先生、この機械にはどんな新技術が?」

「私自身のひらめきがそれだ。ああコトリ、君は水を得た魚のように新紀元機関に馴染んでいたね。君たちはとも、我が研究者人生の最高傑作となるだろう。毎日訓練をしてほしい。息をするように練習するのだ。今月末には戦闘準備を終えてほしい。宜しいかね?」


 大田原の都心部に行くなら、夜明けの頃が一番いい。コトリはこの天上都市の上層部、とあるコーヒー店を選んでいた。彼女は窓際の席に座し、霧の海から優雅に伸びる尖塔や建物が薔薇色の光に燃え立つ風景を満喫していた。開いた屋根から涼しい風が流れ込み、雨の香りを運んできた。

 コトリは苦めのコーヒーを口にすると、そっと他の客を観察した。豪華な金糸のローブをまとい、コーヒーとビスケットを囲む中年のムーンフォーク三人は、何かを疑っているような様子はない。けれど逆側に座る黒ずくめの人物は帳纏いの可能性が高い――未来派の秘密が決して他者に渡らぬように働く、専門の諜報員。

 自分の住居からここまでは遠い。彼女は薄闇の中を運河沿いに歩いて普段とは異なる駅を使用し、追跡者をまくために中央広場へと迂回して人混みの中を通った。新紀元機関に関わり始めて以来、コトリは監視の目が増えたことに気付いていた。誰かが自分の動きを確認している。それが競争相手によるものなのか、それともカツマサ自身なのかはわからなかった。

 彼女は疑問に思いすぎないように努めた。

 すらりとした人影が席に滑り込んだ。コトリは身構え、だが相手がフードを脱いで錯視の仮面を切るとそれが旧友の有馬(ありま)であると気づいた。偽りの顔が消え、溌剌として黒い瞳と茶色の肌、意地悪そうな笑みが現れた。

「大袈裟でごめん。今週はいつもより脅迫が多くて。だから用心に用心を重ねていたの」

「脅迫? 一体どうしたの?」

「言ったことなかったっけ? ああ。三年前に昇進してからずっと、熱心なファンからのメールを受け取っててね。どういうのかはわかるでしょ。才能不足で耳ばっかり鋭い無能な研究者はさ、大田原の外で生まれ育った奴が未来派でいい地位につくのが気にいらないってこと」 有馬はメニューをめくり、チャイを一杯と揚げ餃子を二皿選んだ。「何にせよ久しぶりだね、コトリちゃん。何だかこそこそしてるけど、どうしたの?」

 有馬の気安さにほっとして、コトリは掌をコーヒーの杯で温めた。ふたりが出会ったのは学校でのこと、当時十二歳の有馬が六歳のコトリの相棒としてあてがわれたのだった。今や有馬は大田原の若き科学者の中でも最も話題に上る一人であり、コトリは操縦士の期待の星となっていた。頻繁に会っているわけではないが、今もふたりは互いを家族のように思っていた。

「カツマサ先生の新しい計画に加わってるんだ。すごい設計で。話したいのはやまやまだけど、まだ機密事項だから」

 有馬は神妙な顔をした。「何をしろって言われてるの?」

「いつもと同じ。先生は機械を知るためにいい操縦士を必要としてる。このごろはずっと訓練続き。複雑だし、旧世代のメカよりも理解するのがずっと難しくてさ」

 給仕がやって来て、香ばしく揚げられた茸と葱の餃子とチャイを置いていった。

「コトリちゃんさ、何でまだあの先生についてるの?」

「どういう意味?」

 有馬は餃子をひとつ突き刺し、宙で振った。「言いたいことはわかるでしょ。確かにあの『命を与える者』は優秀だけど、私はコトリちゃんみたいに心酔したことはない」

「心酔なんてしてないよ。有馬、先生は私が十三の時からずっと指導してくれてたんだから。知識も時間もふんだんに取ってくれて。恩が沢山ある。それに有馬が何と言おうと、先生は才能ある科学者だよ。その隣にいれば、私もいろいろたくさん学べるってこと」

「けどコトリちゃん、あの人はうさんくさいよ。ね、食べてる? 二人分頼んだんだから――ほら。一日やることが沢山あるって言ったじゃない。私はあの先生のやり方は好きじゃないな。わかる? 秘密の中にまた秘密を隠して。閉鎖の幕でできた折り紙箱みたいに。知ってるだろうけど噂されてるよ。私の所でも。あの先生の研究は不自然だって」

「私たちが実際に何をやってるかを皇国に知られたら、大田原全体がシャットダウンされかね――」

「皇国兵の話じゃなくて、未来派がそう話してるってこと。私らと同じような」

 コトリは餃子を口に押し込み、憤慨を込めて噛んだ。熱い肉汁が舌を焼いた。「私が知る限り、カツマサ先生は道義に反することは何もしてない。それに有馬――わかるよね、何か怪しいことをやれって言われたら、私はきっぱり断るってことくらい」

「コトリちゃんを信頼してないってことじゃないよ」 有馬は眉をひそめ、卓に両肘をついた。「何ていうか……誰かが一本の木を枯らそうとして、毎日少しずつ削っていったとしたら、その木だけじゃなくて森を見てみるまで全く気づかないかもしれない、みたいな」

 コトリはうめき声を発し、両手で顔を覆った。「樹海の兵団みたいな言い方しないでくれる?」

「はいはい」 有馬はくすりと笑った。「ともかく気をつけなよ、いい? 私がやらないようなことはやらない。それでどう?」


 寝つきの悪い日が続いていた。時にコトリは寝台に横になりながら、カツマサとの会話を、新紀元機関との訓練を、そして一日の動きを数時間もかけて思い返した。何か見逃していなかっただろうかと。

 有馬は会議のために永岩城(えいがんじょう)へ行っており、自分もほんの数日でも大田原から逃れられればとコトリは願った。空中都市の霧は彼女の心までも入り込み、思考を滞らせているように思えた。

 ある最悪の夜、彼女は自室を離れて清々しい空気の中に出て、まどろむ建物とわずかな星を見つめた。訓練場は四区画先にあり、そこに至る道は隠匿され、出入り口は警護の魔法で守られていた。

 例のメカは彼女に反応するようになっていた。暗い試合場を横切ってコトリが近づくと、それは自ら幕を解いて起動音とともに覚醒した。「こんにちは、勝利械」 コトリが冷たい脚に手を触れて囁くと、それはハッチを開いて昇降口を下ろし、彼女をその心の核へと収めた。

 コトリは勝利械に対しても昔からの手順を適用していた。戦闘前の確認事項を呟き――緊急脱出装置、ポータル、エンチャント、エネルギー、ベルト――各操作盤を順に叩き、確認済みの印を入れていく。そして左手首につけた編み紐の腕輪を三度ひねった。子供の頃に祖父から貰った贈り物。そして小声で、勇気の神の導きを求める祈りを呟いた。

 迷信深いわけではないが、この手順は次元そのものが正常な状態にあると感じさせてくれた。そして最高の操縦士であるためには、全てが正常な状態であると骨の髄まで感じなければならない。

天才操縦士、コトリ》 アート:Aaron J. Riley

 頭部を輪で固定して勝利械の身体へ沈みこむと、心の雲がさっと晴れた。疲労が。長年の訓練で得てきた、張りつめた感覚が。カツマサ先生の関心を失う怖れが、二番目に甘んじる怖れが。失敗の怖れが。今ここにあるのは本気の訓練のみ。この夜に、時間の経過すら消えた。コトリは静かに、メカの滑らかな関節と広々とした外殻まで自らを拡張していった。

 ふたりは訓練場内を駆けた。矢のような動きは静物画の細部のように冷静かつ精密だった。時に思考と動きの間隙はあまりに短く、全く感じ取れないこともあった。時に、思考そのものが消失した――動きだけが、勝利械の内の自身だけがあった。恐ろしく、そして浮き立つ感覚。制御を完全に任せてしまったらどうなるのだろう――手綱を完全に機械へ委ね、自分は退いたなら?

 それは研ぎ澄まされた自らの知覚なのか、それとも勝利械からの新しくも奇怪な賜物なのかはわからなかった。この訓練場は長いこと使っており、その長さも幅も、床の凹凸も熟知していた。けれど勝利械はその広がりに何かをしたのだろうか――曲げ、伸ばし、より高い跳躍や弧を描く横滑りを可能とするために。一度ふたりは旋回を誤り、保護材が巻かれた柱に衝突しかけて咄嗟に身構えた。だが衝撃はなかった。またある時は、ほんの数秒だけ小雨が降るのを感じた。まるで一瞬だけ、屋根が存在しなくなったかのように。

 名前以上のものが聞けるかもしれない。コトリはそう考え、メカの深層を探った。渦を巻くようにそれは入ってきた――文字が視界に流れ込み、身体の感覚が分解され再構築された。輝かしく枝を広げた母聖樹(ぼせいじゅ)、その下に縮こまるネオンの都和市(とわし)の摩天楼。困惑と好奇心が入り混じったほろ苦い感情。

「勝利械?」 コトリは問いかけてみた。「そこにいるの?」

 だがそれ以上の言葉はなかった――それを名前だと受け取ったあの単語ひとつの後は、何もなかった。

 間延びした空間の中、世界は混沌としながらも明瞭で、コトリ自身の過去の出来事もまた分解されて彼女へと取り込まれていった。大田原の中心部で、カツマサがとある授賞式へと向かっている。「コトリよ。君の昔馴染みの友人、有馬か。付き合うのは止めるべきではないかね。長年の経験から言うが、余所者は未来派の集団の内に必然的な揉め事をもたらす。私を信じるのだ」

 父親が自分を、震えおののく少女を、冷たく氷の張った運河の端へと連れてきた。「飛び込め、コトリ。そうやって泳ぎを覚えるんだ」

 そして、決して過去のものではない映像が。カツマサが研究室の机に身をのり出し、その周囲を折り紙のドローンが旋回している。コトリ自身の手がその背後に現れ、カツマサの首筋へとナイフを伸ばす。刃は音もなく頸動脈を切り裂く。紙吹雪のような、きらめく血飛沫。

 コトリは接続を切り、息を切らして震えながら座席にもたれかかった。勝利械に制御を預けすぎた。これからは、自分の方で同調をしっかりと保つ方がいいだろう。


 光揺らめく都和市の上空、偽装された航空機を帳纏いの操縦士が駆っていた。勝利械の中のコトリは巨大な脚を床に磁力で固定し、船倉に立っていた。メカに比較すれば遥かに小さな、もう五人の帳纏いと皇国の侍がひとり、船倉の壁沿いに腰かけていた。尖った耳をした狐人の侍は扇状の肩鎧をまとい、帳纏いたちは暗い色の分厚いローブに偽装の仮面をつけていた。

 勝利械の目を通し、コトリは都市の風景を見下ろした。前回訪れた時よりも街は成長しているように見えた。溝が彫られた多層の塔と高架の線路が、ホログラフィックの茸のように広がり増えていた。

 航空機は巨大な母聖樹の根元、込み入った街路をめがけて降下した。強化されたコトリの視界に目的地が映し出された。特徴のない円形の建物。輝く摩天楼の中ではほとんど見えないと言ってもいいような。

「勢団員が母聖樹の下にいるのは普通じゃない」 コトリは小声で呟いた。勝利械から、反響するような好奇心の急上昇が感じられた。都和市内でも、勢団の無法者たちは下層街に留まるのが普通だ。

 数日前、カツマサはコトリの戦闘準備が整ったと判断し、勢団員の隠れ家を検挙する任務をあてがった。「君にとっては初めてのものだ。皇国が主導する任務だ――侍が説明してくれる。慎重に進めたいそうだ。君は彼らの支援に回ることになる」

 機体は傾斜のある地面に勢いよく着地した。コトリ以外の者たちは、メカを待つことなくすぐさま立ち上がった。帳纏いはベルトから武器を抜き――柄から展開する長剣、紙のように薄い手裏剣へと変形するダイアモンドの粒――そして隠蔽ローブを起動した。狐人の侍は隠密性など気にしていないようだった。外へと向かう中、月光がその兜にきらめいた。

 他の者たちが急ごうとも、コトリは決して気を散らさなかった。自分が彼らを必要とする以上に、彼らは自分を必要としているのだから。彼女は勝利械の密閉幕を起動し、確認を繰り返し、左手首の腕輪をひねると、傾斜した屋根の上へと踏み出した。

 母聖樹地区はもつれた根や空中に張り出した橋により、メカを進めるのは難しい。眼下の街路では数人の地元民が、頭上の出来事に気付くことなく歩いていた。コトリは注意深く進み、付属画面に映るデータを見つめた。誤った場所に足をかけたなら、重みで崩れてしまう。

「ここだ」 皇国の侍がメカへと頷きかけた。

 勝利械の右脚を下ろし、コトリは狙いをつけて屋根を殴りつけ、穴をあけた。木の梁と粘土のタイルが砕け散り、塵が巻き上がった。彼女は真っ先に暗闇の中へと飛び降り、石の地面に着地した。他の者たちも勢いよく彼女に続いた。

 コトリは辺りを眺め、勝利械の強化視覚を用いて建物の構造を調べた。何かがおかしいように思えた。見張りの人員も、警戒する手下も、警備システムもない。粗末な建物――中央に大きな区画、そこに付属する小さな部屋がふたつ。

 小部屋のひとつには食糧と妨害装置の箱が数個置かれていた。もうひとつには人間ほどの熱反応が七つ、身を寄せて縮こまっていた。

「ここは勢団の隠れ家じゃない」 帳纏いのひとりが呟き、コトリは気付いた。間違った指示を与えられたのは自分だけではない。

「偽情報を?」 別のひとりが侍へと言い放った。

 侍が反論した。「この任務の情報だ」

 熱反応のひとつが素早く扉へと動き――

「七人」 コトリが割って入った。「妨害装置です。そっち!」

 扉が勢いよく開かれた。妨害装置が大気を反響させ、勝利械の自動システムを遮断して帳纏いの外套と仮面を無効化した。木製の鎧をまとう灰色の髪の頑強な女性が、しなやかな剣を掲げて突入してきた。石と小枝、そして奇妙な青い光がまるで重力フィールドに捕らえられたかのように、その身体を取り巻いていた。

 樹海の兵団、自然主義者にして反技術を掲げる非主流派の集団。彼らは神河じゅうに点在する小さな支部を隠れ家として活動している――コトリたちはそのひとつに穴を蹴り開けたのだった。

 もう六人の、木の鎧をまとう見習いたちが飛び出した。雑多な混成――槍をもった年長の男性がふたり、ナイフを振り回す痩せこけた若者がふたり、そして蛇の尾で身体を高く持ち上げた大蛇人がふたり。最初の女性のように神と繋がった者はいなかった。

 コトリの頭がふらついた。メカを素早く再起動させる間、勝利械を手動で制御する。カツマサは犯罪組織を武装解除させるためではなく、樹海の僧たちを排除するために自分を送り込んだのだ。確かに、樹海の兵団は好きではない――彼らはサイバ未来派は非道であるとして嫌い、しばしば研究中枢を攻撃して弱体化させる――それでもこの急襲と暗殺の任務は間違っているように思えた。

 再起動が完了した。帳纏いと侍は戦闘に突入し、コトリは大田原へと緊急メッセージを送った。

『カツマサ先生――勢団員ではなく樹海の兵団? 説明を願います』

 そのメッセージは師の額のインプラントから、脳へと直接届く。彼女は十秒待った。そして二十秒。

 返信はなかった。

 妨害装置を掴み、若者のひとりが彼女へと向かってきた。コトリは――勝利械は払いのける動きで相手の手を切り落とした。若者は悲鳴をあげて膝をついた。コトリは――勝利械はその頭を一本の指で突き、気絶させた。

 大蛇人が背後に回り、メカの脚へと組み合い鉤を投げようとした。コトリは――勝利械は脇によけながら正確な回し蹴りを放った。大蛇人は壁に叩きつけられ、床に滑り落ちて動かなくなった。

 コトリはもう一度試みた。

『先生! 訳がわかりません。返信してください』

 神と繋がったあの逞しい女性を残し、樹海の兵団は全員が倒れた。皇国の侍は脇腹に槍を受けていたが、命に別状はないようだった。帳纏いたちは無傷だった。

 最後の兵団員はメカを見上げて睨みつけ、その両目に嫌悪と憤怒が燃え上がった。

「お前たちは存在しちゃいけない」 その女性が威嚇するように言った。「お前を作った奴は、自然をねじ曲げて怪物に変えた」

 兵団員は氷水を魔法で作り出し、メカへと放った。コトリはそれを防いで矢弾で反撃した。驚いたことに、相手の女性は水を打ちつけてその大半を防ぎ、逃れた数本は木の鎧に当たった。

 神と繋がる樹海の兵団は、精霊の相棒との絆を高めるための焦点を身に着けている――コトリはそう聞いたことがあった。その女性は滑らかな灰色の石を首から下げていた。鋭く尖った小石が放たれると、コトリは――勝利械は脇によけてその首飾りを狙った。

 鋼の指が石を掴み、同時に首筋を切り裂いた。

 その女性は泡立つ血を吐きながら床に倒れ込んだ。

 蛇に似た精霊がその身体から分離した。小石と小枝、水滴が旋風に乗ってその精霊の周囲に渦巻いていた。恐らくは小川の神。倒れた女性に、その長い身体が巻き付いた。

 コトリは――勝利械はその石を片手で砕き、だが神は変化しなかった。その焦点は神と定命の繋がりだけに作用するのかもしれない――定命が死した今は不要なのかもしれない。

 帳纏いのひとりが剣を展開し、ゆっくりと近づいた。神は今もその女性の死体に巻き付いたままでいた。小石の棘にきらめく水滴のたてがみ、薄青のオーラ。埃っぽい床に水の跡がついていた。精霊ではあるが、十分な実体を持っていた。

 不意にコトリの内に恐怖が渦巻いた。それは自分の、あるいは勝利械の、それとも他の誰かからの?

 帳纏いは小川の神の上に静止し、武器を構えた。

 神は身をよじったが遅かった。刃は神の尾を切り裂き、霧の飛沫が弾けた。

 帳纏いは再び構えた。

 コトリの内の恐怖は次第に鋭さを増し、喉から腹を焼いていった。勝利械は片腕を上げて鋼の矢を放った。

 鎧の隙間、顎の真下を突かれ、帳纏いは床へと崩れ落ちた。

 他の帳纏いたちの叫びが聞こえたが、遠くから届いたように感じた。勝利械へと発射を命じてはいなかった。自分は命じていなかった。腕を下ろそうとしたが、メカは反応しなかった。何もかもが突然澄んだかのように、ガラスのように鋭く、動きは緩く見えた。傷を負った神が兵団の死骸の上で悶えている。帳纏いたちの貫くような視線。カツマサ先生の嘘。カツマサ先生の沈黙。そして勝利械――この数週間疑っていたもの、けれどその可能性は恐ろしすぎて、認めたくなかったもの。

 このメカの中には神がいる。


『コトリ』

 聞き慣れない声、だが自分の名を呼ぶその口調にコトリははっとした。帳纏いのひとりがコトリの――勝利械の視界に入ってきた。

「先生?」

 帳纏いは首をかしげた。不気味なほどの無表情、光のない両目。その額のインプラントが光っていた。カツマサが遠隔操作しているに違いない。

万象監視》 アート:Aaron J. Riley

「コトリ。君には繰り返すまでもないだろう。あらゆる操縦士が訓練で最初に叩きこまれることだ。メカの従属系統が不全を起こしたなら、同調を無視して自力で制御するのが操縦士の義務だ」

 コトリは一瞬だけ目を閉じた。同調は既に不安定になっていた。アドレナリンと副腎皮質ホルモンの急上昇が接続に影響し、彼女は勝利械から切断され、脆く柔らかく小さな身体に戻された――そして短い機械音が数度鳴り、メカから放り出された。喉に不快なものが上がってきて、コトリは嘔吐をこらえた。

「コトリ。君は常に道理をわきまえている。任務を妥協するな。君の経歴に傷がつくのを見たくはない。後で私から全て説明する。わかったかね? 君には間違ったことをしてほしくないのだ」

 コトリは目を開けた。そしてカツマサに支配された帳纏いを、自らの目と勝利械の目の両方で見た。互いが互いに重なり、ちぐはぐな幽霊のようだった。勝利械を制御することはできた。けれどそうしたなら、中に囚われた神にどんな傷を与えてしまうだろう?

 けれどそうしなければ、他の誰かへと制御を委ねることになる。

 不意に、コトリの恐怖は静かな落ち着きへと薄らいだ。同調が再び安定した。彼女は勝利械に呼びかけ、この数週間で自らの身体のように馴染むようになった闇の中へ、メカの核へと沈み――

 そして身を任せた。


 勝利械が制御を手にした時、それは彼女へとほんの僅かな間だけ、真の姿を明かした。染み渡るような闇のオーラ。滝のように長い、もつれた長い黒髪。言葉にならない不安でできた身体。沢山の、目のない顔。

 勝利械の身体は金属の針で繋ぎ止められていた。輝く糸が精巧な刺繍よりも複雑に、千もの異なる方法で神を機械に束縛していた。カツマサだけが解くことのできる結び目。

 その様子はコトリを恐怖と悲しみで満たし、だが同時に理解もした。

「コトリ!」 カツマサが悲鳴を上げた。だがその声は柔らかく、哀れと言ってよく、矛盾に埋もれていた。勝利械がその帳纏いを壁に叩きつけると、声は途切れた。インプラントの光が消えた。

 それはコトリの理解を超えていた。神に制御を委ねたメカは、自分が操縦していた時よりも遥かに強力だった。勝利械の力は倍増していた。建物の存在すら意義を感じなかった。実際、本当に必要とあらば勝利械は壁を歪め、床を曲げられるのだから。

 裏切りを罵りながら、残る帳纏いたちがメカへと襲いかかった。ひとりが支援に回っており、勝利械はまずその女性を片付けた。わずか数秒で残りも黙った。負傷していたあの侍は戦意を失い、命乞いをした。

 コトリの視界に光の点が幾つも弾けた。自らの身体との接続が切れ、極小の部位へとありえないほどに圧縮されるのを感じた――痛む指先、強張った内臓。そして次第に感覚が戻ってくると、目の前の光景に口の中が苦味で溢れた。

 円形のその部屋は一変していた。砕けた木材、割れたタイル、使用済みの手裏剣、見当違いに曲がった四肢、そして血の細流が床のそこかしこにあった。樹海の兵団もコトリの仲間たちも切りさいなまれて倒れ、誰が誰かもわからなかった。あの青い神は相棒の死体に今も巻き付いていた。

 壁は勝利械の力で奇妙に曲がり、ねじれていた――カツマサですら恐らく理解していなかったであろう力で。壁の一か所の歪みは特に大きく、気味の悪いエネルギーが音を立てて明滅していた。塵や血の雫がその歪みへと引き寄せられていた。

 小川の神はようやく身体を解き、壁のちらつきへと這っていった。それは立ち止まり、メカを振り返った。その神と勝利械との間に言葉なき会話があったのだろうか、コトリはそう訝しんだ。そして小川の神は歪んだ壁へと浮かび上がり、消えた。

 それは統合の歪み、コトリはそう推測した。定命の領域である現し世と、精霊の領域である隠り世の不安定な融合。放置しておいたなら、その揺らぎは広がって両方の領域に傷をもたらすだろう。

「勝利械」 コトリは息を吐いた。「何をしたの?」

 コトリが心底驚いたことに、返答があった。『私の行いではないが、おそらくは副作用だ』

 重々しく邪な声。コトリは自分が見たものを思い出した。影のようなオーラ、大口を開けた幾つもの顔、不安でできた身体。ほんの一瞬前、彼女は言葉に言い表せない恐怖を感じていた。けれど今はその恐怖は和らぎ、悲しみへと萎れていた。勝利械は機械の骨組みに再び落ち着いた。同調が再び安定し、応答が返ってきた。完璧に。

 カツマサは今も空の上、大田原にいる。いずれにせよ、この任務の顛末を知ることになるだろう。もし今すぐに自首すれば、自分の経歴はそこまで傷つかないかもしれない。不安定な接続によるもの、そう言い訳をして幾らか評価を取り戻せるかもしれない。

 けれど大田原に戻ったならこのメカは間違いなく解体され、勝利械は始末されるか別の実験に転用されるだろう。何故か、有馬の顔が心に浮かび上がった。困惑と罪悪感に流されそうになるのをコトリは感じた。沢山の人を殺してしまった。神を見殺しにしようとした。

「どうしよう、勝利械」

 何か力強いものがメカの内にうねった、まるで岩に打ち付ける波のような。『我々自身の道を行こう』

 崩れた部屋をコトリは見渡した。破れた障子戸から涼しい風が流れ込んだ。強化された視覚で、彼女は壁の先を見た。取り囲む建物は、母聖樹の巨大で節くれだった枝を灯篭のように照らし出していた。

ジャングルのうろ穴》 アート:Lucas Staniec

 逃亡は永続的な解決策ではない、それはわかっていた。逃げることはできる、けれど逃げたなら戦いが待っているだろう。当然の報い。けれど少なくとも、起こってしまった物事を考え、情報を集め、次なる行動を決めるだけの時間は持てるだろう。

 定命と神、ふたりの意志は、水が下流へと流れるかのようにたやすく融和した。

「そうしようか」

 血と埃が渦巻く統合の歪みからコトリは――勝利械は離れた。触れると、木の扉は崩れ去った。外に出ると、夜明けを告げるかすかな光が母聖樹の大枝を縁取るのが見え、けれどその根の下には絶えることのない影が横たわっていた。

 密閉の幕を起動し、コトリは――勝利械は兵団の隠れ家を離れ、闇の中へと足を踏み入れた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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Kamigawa: Neon Dynasty

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