MAGIC STORY

神河:輝ける世界

EPISODE 17

サイドストーリー:自省と再生の刃

Emma Mieko Candon
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2022年2月7日

 

 七人が社に集まり、問題の中心を取り囲んでいた。若者も老人も――これは珍しいことだった。この遠辺集落のような場所では、老人のみが集められるのが普通だ。宿泊所として提供された醸造所の倉庫の屋上から、ちし郎は彼らの目に宿る畏敬の念を見た。振り返る者がいたとしても、目撃されることはない――彼は大柄ではあるが、それ以上に影の中に身を隠す術に長けていた。

 それに、彼らがその忌々しい社以外のものに注意を向けるとも思わなかった。

 ちし(ろう)は三本の腕を胸の前で組み、残る一本で顎の鱗を撫でた。隣に屈みこむ現地の娘、あや()は彼の腕の緊張を見てとった。

「皆、怖がってるのよ」 自衛するように彼女は言った。

「あいつらが?」 ちし郎はそう尋ねた。あや里から返答はなく、彼は肩をすくめた。「そうだろうな」

 ここの住人は愚か者だ。遠辺集落にやって来た頃、ちし郎はそう思った。彼らはちし郎の恐ろしい評判を知りながら雇った。繊細な者であれば気分が悪くなるような、真実であるからこそおぞましい最悪の話を。彼の狡猾さと、金のためなら殺しを厭わない心持ちは、逆に考えれば自分たちの首を守ってくれると考えたのだ。つまり、睨みつけて片手をその鋭い銀の刃に手をかけさえすれば、彼らは命令に従う。ちし郎は彼らに、可能な限り屋内に留まり、絶対に独りで出歩くなと告げた。そして気を付けて日常生活を送り、作戦を悟られないようにしろと。

折れ刃のちし郎》 アート:Lius Lasahido

 ちし郎は彼らへと、集落の表通りの外れにある小さな社への参拝を止めろと何度となく諭した。だが彼らは無視した。必ず一人また一人とやって来て、膝をついて夢を見るような崇敬とともに社を見つめた。まるで眠れない子供が、大好きな祖父の物語に耳を傾けるかのように。

 ともかく、そうして集まっているべきではない――特に今は、死が彼らの首筋へと熱心に息を吹きかけているのだから。

 ちし郎はあや里へと牙をむき出しにした。「これ以上しくじる前に中へ戻れと伝えろ」

 彼女は顔をしかめ、だが瓦屋根を滑り降りて固く黒い舗装路へと着地した。あや里は活発な娘で、腕と顔に傷を持ち、ちし郎が雇われた直後から彼の右腕(彼女いわく、第三の)を名乗っていた。彼女には暴力の才能があり、地代を徴収しようとする勢団員をナイフだけでしばしば追い払っていた。

 雇われて間もない頃、彼は老人たちに尋ねた。彼らの災難の源となった勢団の斥候も、あや里の刃に倒れたのかと。彼らは無言の緊張した視線を交わし、曖昧な答えをよこした。当初ちし郎は、彼らの愛しい娘がそのように早まった行いをしたのか否か、意見がまとまっていないのだと推測した。だがその数日後には……

 ちし郎が見つめる中、あや里は村人たちが集まる社へと近づき、彼らをなだめすかして立たせ、仕事に戻るよう伝えた。彼らは名残惜しそうに、わびしく荒廃した社へと澱んだ視線を向けた。つまり、ちし郎が知りたいものはそこにある。

 全員が立ち去ると、ちし郎は倉庫の屋根から滑り降りた。筋肉質の巨体と尾の力にもかかわらず、一切の瓦をずらすことも、着地の際に音を立てることもなかった。彼は埃っぽい道を横切り、自分の目で確かめるためにその社へと向かった。

 遠辺集落はその名の通りの場所だ――かつて樹海の境にあった慎ましい村は、次第に都和市(とわし)に包囲され、最新かつ最も人目を向けられない集落のひとつとなった。母聖樹(ぼせいじゅ)の巨大な幹からは遠く離れ、光の輪郭をまとう皇国の摩天楼の影からは下層街の一部であるとみなされる。舗装された表通りの先には荒れ野が続き、後退しつつある森の荒れ果てた端へと伸びていた。

 集落内の樹木のほとんどは、意図的にそこに植えられていた。最も目立つものとして、集落の正式な入り口となっている門には、下層街の運河から移植された一対の桜の木が植えられていた。

 人為的ではない唯一の樹木が、その社だった。それは大通りの行き止まりで舗装を突き破っていた。暗い色の根が何かを探るように潜り込み、巨大な背中に持ち上げられたかのように。より薄い色の細い根が入り組んでねじれ、渦巻くようにそれを取り囲んでいた。社そのものは小さいながら、自然にできたものだった。黒く巨大な根の奇妙な古いもつれが、ちし郎の拳ほどのうろ穴を作り出していた。その中に、薄い色の根が固まってもつれ合い、ごつごつとした心臓のような外見をしていた。そしてそれはよく見ると、脈打っていた。

無尽活力の御神体》 アート:Johannes Voss

 その社の中には神が眠っている、集落の者たちはそう言っていた。どのような神なのかは判明していない――それが話す時は、耳障りな呟きと砕けた夢、途切れ途切れの痛みを伴う凝集してぼやけた映像を通してだった。それはこの都和市の隅、伐採された樹海の影か何かだろうと思われた。

 太陽が沈みかける中、ちし郎は社に近寄った。背負った銀の刀はその金属の重さ以上のものはなく、それが落とす影も彼自身のそれと同じく生気のない黒色をしていた。神は口を開いてはくれないだろうが、彼もその存在は疑わなかった。息や不人情のように現実的だった。そして崇敬を向ける人々へとこの神が愛を返したとしても、必然的に彼らに失望することになるのだろう。

 そのようなものとして、彼は神へと警告を与えにやって来たのだった。

「これ以上、ここの者たちを困らせないでくれ」

 神は何も言い返さなかった。ちし郎も特に驚きはしなかった。相手は自分勝手な生物、彼は既にそう思っていた。


 昔、ちし郎には大切なものがあった。樹海の境界を侵害する未来派を共に狩る者たち。友人と呼べる、仲間と呼べる存在。翡翠を散りばめた刀は、自らの延長というだけではなかった――彼自身の魂が神と、すなわち神河そのものと共鳴し合ったものだった。

 ちし郎という存在全ての中において、ちし郎自身の大きさは全くもって問題にならないものだった。その大半は偉大なる怪磨(かいま)、互いの絆と共に成し遂げるもの全てによって鍛えられた、暗く輝く刃だった。

 数度、ちし郎は捕えた未来派を殺すのではなく、自身についての説明を試みたことがあった。ある者は彼を大いに怖がり、取り憑かれていると、従って全くもってありえないと考えた。別の未来派はちし郎自身が怪磨であるかのように接し、自分を解放させるために服従を装った。三人目の言葉はこうだった。「なるほど、考えよう。次元そのものが折り畳まれるのを見る時がある――その中に私自身が包まれているのが」

 ちし郎の内で怪磨が身動きをし、言った。『新たな枝が分かれ、開花を願う。寒気は退き、新芽は勇敢に顔を出す』

 ちし郎はその未来派、ムーンフォークの女性を観察しようと近寄った。真珠色の顔は思考に皺が刻まれ、繊細なその手は口に当てられていた。「そしてそう感じた時、お前はどうする?」 彼はそう尋ねた。

「貴方が私を捕らえた時と同じことを」

 その厚かましくもある正直さを、ちし郎は賞賛した。彼はこの女性と手下たちを樹海の奥深くで追い詰めたのだった。この未来派の一団は神を理解しようとしていた。まずはそれらを最も適した生息地に隔離し、次にその生息地を最も基本的な要素へと分解し解剖する――そうすれば、その神もまた分解し解剖できると願って。

 ちし郎と仲間たちは他の未来派を殺害していたため、自分もそうなると彼女は確信していた。だがちし郎は全ての技術や装置を奪った上で、彼女が荒そうとしていた森の奥深くで解放した。逃げ延びるか死ぬかは神が決めてくれる。神にはそうする権利がある。

「そのようなことは止めて欲しかった」 ちし郎の仲間たちはそう言った。

「そうする必要があったのだ」

 彼は言い直した。「俺は――怪磨もそうしたがっている。だからそうする。そうしなければならない」

 ちし郎たちにはひとつの義務があった。ちし郎の内の怪磨の存在を、神河における両者の存在を定義する。森と仲間意識を、次元とその束縛を。ちし郎たちは常に、理解しようとすることから始めていた。

 あるいは、それが問題だったのかもしれない――自分たちの存在そのものに書き込まれた根本的な欠陥。尋ね、耳を傾け、助言を与え、あるいは受け取ることに熱心すぎたのだ。それはやがて、ちし郎たちを壊してしまった。


 遠辺集落が抱える問題とは無孤勢団(むこせいだん)だった。何もなければ静かな集落を、このギャングは苦しめていた。得意とする暴力の手段は勢団ごとに異なる――毒、刃、あるいは呪い。無孤勢団は狡猾で静かな盗みの技を重んじており、威圧的な行動に出ることは滅多にないはずだった。

無孤勢団の伏兵》 アート:Raymond Swanland

 彼らの斥候が遠辺集落の街路で死んでいなければ、状況は異なっていたかもしれない。問題はその男が殺されたという事実以上に、その殺され方と理由だ――ちし郎はそう考えた。

 老人たちから返答にならない返答を受け取った後も、はっきりとした話は聞けていなかった。あや里は、その斥候を殺したのは自分だと遠回しに主張した。だがちし郎は疑っていた。彼女はその死体を集落と樹海の間の荒れ地に遺棄しようとしていた。ちし郎が死体を見たところ、皮膚の下には根が這い、大きく開いた口からもつれながら伸び出ていた。

 無孤勢団は切り落とした手首を集落の門に釘付けにし、報復の意志を伝えた。その手は近ごろ皇国学院で学ぶようになった集落の若者、じぇん(ぞう)という技師のものだった。翌日、彼は通りで震えおののきながら、息も絶え絶えに放置されていた。

「一週間です」 じぇん造は老人たちとあや里に伝えた。その手首には、白い光を放つ義手が取り付けられていた。「それまでに立ち去るか、死ぬか」

 死者ひとりの報復として、無孤勢団は集落ひとつを焼き尽くすつもりなのだ。神に奪われたひとりに対して、勢団は等価とは言えない仕返しを目論んでいる。

 あるいはここの人々は、ちし郎が思うよりも賢明なのかもしれない。何といっても、自分を雇ったのだから。彼らが愛する神は彼らを守ってくれない、そう悟ったのだという推測もできた。

 そのためちし郎は集落でも強健な住人たちへと、家々と樹海の間の荒れ地にて剣と矢の正しい使い方を教えた。手先が器用な者たちは醸造所の倉庫へと連れて行き、ちし郎が説明する装置を屑鉄から組み上げた。技師のじぇん造は倉庫の隅で義手を動かす練習をしながら、隣人たちが組み上げた装置を仕上げていた。

「違法極まりないですねえ」 じぇん造がそう尋ねる声色は、非難よりも好奇心を帯びていた。彼は刻み込んだ木と繊細な金属でできた箱を掌に乗せ、内部構造をいじった。

「ああ」 ちし郎はそう返答しただけで、後は何も言わなかった。

 妨害装置の作り方は、ある種の人々だけが知っている。鉤爪が肉から生命を引き裂くように、金属から魔法を引き裂く装置は、樹海へと身を捧げた者だけが作れる。ちし郎はもはや何にも身を捧げていないが、かつてはそうしていた。当時得た少なくない数の学びは、傷跡とともに今も生きている。

 すなわち作戦とは、無孤勢団を集落の表通りの先、樹海の外れまでおびき寄せることだった。言うまでもなく、勢団はあの社を求めているのだから。そこで彼らを罠にはめる。所定の場所に勢団が来たなら、正確に配置した妨害装置を素早く続けざまに作動させる。こちらの装備に対し、無孤勢団は間に合わせの武器を使わざるを得なくなる。そして樹海へと、その内に潜む神へと追い詰められる。

 つまり、集落の人々は無孤勢団へと選択肢を与えるのだ、自分たちが与えられたように。逃げるか、それとも侵入のかどでお前たちを憎む存在に直面するか。


 その週末の夜、月はなかった。ちし郎は茶店の屋根に潜んでいた――三階建てのこの建物は、集落で一番高い。そして習性となっているかのように、あや里も彼の隣に黙って身を潜め、必要とあらばいつでも彼の命令を遂行しようとしていた――だがやがて、小声でしきりに悪態をつき始めた。

 彼女はちし郎の隣から離れ、屋根を横切って危うく影の中から出かかった。ちし郎はその直前、鱗の手で彼女の首筋を掴んで止めた。

 あや里は身体を強張らせ、だが抵抗はしなかった。そして憤慨の対象へと顔を向けてみせた。じぇん造が醸造所と倉庫の間の小道に屈みこんでいた。妨害装置が設置された箇所のひとつ。

「あいつ、どういうつもり?」 あや里は非難に息を鳴らした。「勢団はもう来てるってのに。刺されるよ」

 他の住人たちは静かに待っていた。路地に、あるいは扉の背後に隠れ、ひとたび妨害装置が作動したなら飛び出して無孤勢団を追い込む。彼らはちし郎自ら訓練した者たちで、棍棒や焼き串を振り回せる力を持っていた。じぇん造は未だ回復しきっておらず、同じことができる状態ではない。

「何かあったに違いない」 ちし郎がじぇん造を見ると、醸造所の板張りの壁に取りつけられた装置を素早い手の動きで何やら触っていた。

「勢団に見られるよ」 あや里の声には怖れの熱ではなく、不安な確信があった。都和市から集落への入り口に顔を向け、彼女は視線を鋭くした。

 無孤勢団がやって来た。

 先陣が影の中を駆け、しなやかな人影が暗い角から屋根に上がった。背後に続く者たちは急ぐことなく進み、武器となるエナメル質の柄や杖を肩の装甲からぶら下げていた。近づきながら、彼らは一つまた一つと武器を点火した。不気味な光が不可視の刃を縁取り、刀や鎌、何らかの尖った武器の形を見せた。

 彼らの背後にはメカがあった。桜材で作られ、一部に彫刻が施され、一部は節くれ立った瘤となって湾曲した背骨の関節を模していた。引きずった腕の関節は三つ、脚にはもっと沢山。頭はなく、くぼんだ腹部にある操縦席を薄い色の覆いが隠していた。

 そしてその前に、唐突な速度と恐るべき衝撃で動く巨体の獣がいた。運河に生息する死体喰らいの蛙。喉を膨らませ、ゆっくりと瞬きをする目はぞっとする好奇心に輝いていた。その上には自信に満ちた様子の男が軽快にまたがり、鋭い視線で辺りを探っていた。

「遠辺よ――逃げちゃいねえよな」 蛙乗りが声を上げた。けだるい声ながら、それは冷笑とともに夜を裂いた。「隠れてんのはわかってる。けど無孤勢団は化け物じゃねえ。今だけ待ってやる。逃げるか、それとも好きなようにしな」

カエル乗り、達成》 アート:Justine Cruz

 冷静に考えたなら、これは奇妙だと思うかもしれない。無孤勢団はここの神に報復するために来たのではなかったか? そうであれば、何故犠牲者へと逃げるよう告げる? 隠れ場所から追い出すため、かもしれない。とは言えただの市民が無孤勢団のような相手から隠れられるだろうか?

 そのような思考がちし郎の心をよぎり、そして希薄に残り続けた。何かが彼の心の深淵で身動きをした。暗く、苦しい何かが。無意識に彼は銀の刀の柄に手を触れた。

 蛙乗りは威圧するように喋り続け、影の中の斥候のひとりが路地へと入り込んだ。そこではじぇん造が先程までいじっていた妨害装置を必死に隠そうとしていた。

「私に行かせて」 ナイフを握り締めた拳のように、きつい声色であや里は言った。「何をしたかを探られるわけにはいかない。あいつら――」

 彼女は言葉を切り、だがちし郎は気にしなかった。彼の注意は今や、不意の問題に向けられていた――声を上げている男に。

 達成(たつなり)。無孤勢団の情報を集める中でちし郎はその名を把握していたが、ほぼそれだけだった。声を聞いたことも、顔を見たこともなかった。その男が持つ刀を見たこともなかった。

 けれど、それが。金属の刃はかすかな桃色と、無孤勢団の装置が放つ微光にぎらついていた。黒い金属の柄は、長く使い込まれて汚れていた。

 よく知っていた。

 そしてその顔と……達成が発する怠惰な御託。飢えた笑みの刺々しさ。

 それもよく知っていた。

 古傷が開くように、舌に感じる血の味のように、腹に感じる嫌気のようによく知っていた。ちし郎にもあのように、落ちぶれた時があった。不平を嘆き、大口を開けた深みに入り、今や彼はその只中の、小さく暗い虚無だった――満たされることを願う虚無。

 この空虚を抱えて長い時を過ごしてきた。それに名を与える気はなかったが、明白ではあった。不実と裏切り。欠けてしまった自分自身。そして、それを満たそうと思ったこともなかった。癒える類の傷ではない。

 だが、今は。あの男を見て、乾いた土に水が浸みこむように。達成の心臓を引き裂いて手にしたなら、あるいはようやく、充足というものを知るのだろうか。

 ああ。それは身勝手でぞんざいな、不浄な殺人だろう。けれどちし郎は危険なほどにそれを欲した。そうすれば、二度とこんな思考に束縛されることもない。

「ちし郎」 切迫した囁きが彼の名を呼んだ。かすかに。「ちし郎、待って――」

 だがちし郎は既に降りていた。

 その巨体で勢いをつけ、彼は屋根から飛び降りた。無孤勢団は驚く間もなく、ちし郎の刃に喉を切り裂かれた。

 死にかけた勢団員を放置し、ちし郎は刃を振るいながら次の獲物をめざした――輝く刃の薙刀を構えた見張り。その女性は飛び退こうとしたが、ちし郎は既に相手の武器、刃のすぐ下を二本の右手で掴んでいた。彼はそれをもぎ取った。相手が倒れ込んでくると、ちし郎は銀の刃を敵の鎧の隙間に差し込み、腹部を刺した。

 その頃には、襲撃を知らせる叫びと暴力の騒音が街路に響いていた。狼狽は死に物狂いの行動へと移っていった。

 ちし郎はそれらの咆哮を一切気に留めず、達成の鋭い視線を受けとめた。蛙も振り返りかけ、その身体は緊張して強張り、歯は空腹に湿ってぎらついていた。その上の達成は頭をのけぞらせ、甲高い笑い声を発した。それは高まる騒音の中にかき消えた。

 それは自分が死に直面したと知る男の、喜びと狂乱の笑い声だった――生き延びる唯一の希望は、こちらが先に殺すこと。


 あの未来派を樹海の深くに置き去りにした直後、ちし郎と仲間たちは兵団の隠れ家へと帰還した。滝の傍の小さな低木林、下に流れる川は樹海の端に位置する小村へと続いている。その村は兵団と友好関係にあり、別の支部からの物資を届けて隠してくれていた。

 ひとりの若者が――むしろ少年が――彼らを待っていた。都和市で生まれ育った小柄な人間。誰とも面識はなかったが、その少年は合言葉を知っていた。ちし郎が後に知ったことには、彼の友人は兵団のスパイだった。そして友情が突然終わりを告げてしまう前に、真実を引き出したのだという。

 その夜も、少年は同じように彼らから真実を引き出した。彼は熱心な生徒のふりをした――そこには十分な渇望があった。森のことを、森に恵みをくれる精霊のことをもっとよく知りたい、そう言った。

 ちし郎は言った。「お前の住む街にも精霊は沢山いるだろう」

「森の精霊とは違います」 少年はちし郎が背負う緑色の刃を見つめた――神との絆が形を成した武器。その視線にはかなりの羨望があった。欲望があった。それでも……

 それは奇妙だと怪磨も考えた。彼はちし郎へと告げた。『空になった巣。落ちた雛。干上がった泉、渇いた家畜』

 ちし郎も同意見だった。この少年は憧れを隠そうともせず、その憧れに応えてくれるかもしれないものへと手を伸ばしている。それでもまだ何も掴めていない。満たせるようなものはない、そう思うのは何故なのだろう?

 ちし郎は少年を憐れんだ。仲間たちも同じく。

 だから、彼らは耳を傾けた。話した。食事をともにし、だが気付かなかった――ちし郎と仲間たちは持ち込まれた食糧に手をつけたが、少年はそうしなかったことに。

 その夜、ちし郎と仲間たちは眠りに落ちた。動けない眠りに。朦朧としながら目覚めた時、枝の間に低い月が見えた。

 動けなかった。見える限り、他の全員がそうだった。息をしていない者すらいた。その喉から流れ出た血が、轟音を立てる滝の脇、苔むした土に浸みこんでいた。

 あの少年はちし郎を覗き込むようにうずくまり、だが何か別のものを探していた。彼は森の中の闇を果敢に見つめていた。影の中に潜む姿が恐ろしい息の音とともに揺れ、苛立つ巨大な鉤爪が地面に突き立てられ、枝分かれした牙が小刻みに震えた。大いなる恐怖、怪磨。

「どうして黙って立ってる?」 毒で動けなくなった幾つもの身体を彼は手で示した。少年の手には一本の刀が握られていた――よく知る刀が。ちし郎と神との絆の刃、それが奪われていた。彼の手から離れたそれは光を宿さず、だが月光をひらめかせた。「こいつらが愛しくないのか?」

 ちし郎は全身で怪磨の返答を感じた。『肉から突き出た骨。腐敗に喘ぐ』

 神の怒りが無力に燃え上がった。ちし郎との無二の絆がもたらしたもの。怪磨は生来、その故郷に縛られている。だがちし郎との絆によって、彼が怪磨を持ち歩く限り定命の領域のいかなる場所でも行動できる。一方で、ちし郎が被った毒は怪磨をも弱らせていた。

 大いなる怪磨は今や、愚かにも毒を受けたちし郎にその動きを妨げられていた。仲間たちが一人またひとりと殺害されても、怪磨には何もできなかった――その少年が奪った刀が、ちし郎を殺そうと狙いを定めても。

 その残忍な一瞬、ちし郎は痺れた喉から何かを絞り出そうともがいた。心は悲嘆と怒りと恐怖で完全に曇り、それが口から漏れ出ても何なのかはわからなかった。止めろ、何故だ、そう言おうとした。だが発したのは、弱弱しいしわがれ声だけだった。

 少年は嘲るようにちし郎を見下ろした。嫌そうに――あるいは嬉しそうに? 彼は歯をむき出しにし、怪磨へと向き直った。「さあ。俺の欲しいものはわかるだろ。俺と繋がれ、そうすればこいつを殺す必要はなくなる」

 愚かな。ちし郎は絶望した。絆を強要できると思うとは、どれほど馬鹿なのだろう? 都会人はここまで堕ちてしまったのか?

 違う。この必死の少年を見てちし郎は感じ、そして肺から喉へと寒気が上がってきた。少年はその渇望ゆえに孤独なのだ。同じ必要に駆り立てられた神ですら、少年を歓迎することはない――求めるだけで何も与えようとしない、与えるという概念を持たない定命に身を委ねる神はいない。

 では今、自分には、怪磨に与えられる何かは残っているのだろうか?

 大いなる怪磨は小刻みに震えたままでいた。半透明の影でできた猪の頭部を低くし、きらめく目がちし郎をとらえた。

 ちし郎は思考を送った。『俺はこのまま死ぬ。お前は自由だ』

 怪磨はよろめき、息は熱風となって木々を揺らした。『嵐に木は揺れ、根は土にしがみつく。しがみつく。しがみつく』

 少年は顎に力を込め、ちし郎の動かない喉の上に刃を掲げた。

 ちし郎の心の根が音を立てて切れた。同時に、少年が手にした刃も砕けた。

 怪磨の咆哮に森は悲鳴を上げた。幾つもの影が弾け出て、怪磨の巨体が駆け、少年とちし郎の両方に凄まじい勢いでのしかかった。

 鱗の窪みに、ちし郎は神の猛烈な重みを感じた――だが踏み潰されてはいなかった。そしてこの瞬間、彼は孤独だった。

 まさしく。長年、孤独というものをちし郎は感じていなかった――そこには常に怪磨がいた。

 だが今、怪磨の声は聞こえなかった。

 静寂の中でちし郎は粗く息をし、枝の間の月を見上げた。自分が小さく、脆く、力及ばないと感じた。そしてどうにか横向きに身体を起こし、あの少年や相棒がどうなったのかを確かめようとした。

 身体を引きずり、ちし郎はよろよろと川岸へ向かった。神の姿はなく、刀も、自分たちの絆を壊したあの少年の姿もなかった。

 呆然と、何も考えることもできぬまま、ちし郎は怪磨の帰りを待った。だが夜が明けて陽光が枝の上から差しても、そこにいるのは彼だけだった。ようやく彼は苦労して身体を起こし、滝の下の村の様子を見に向かった。そして眼下の殺戮の様子を見て、怪磨が最後にひらめかせた映像がちし郎の内に流れ込んだ。倒された木。裂かれた根。

 村は廃墟と化し、村人たちも同じ運命を辿っていた。樹海の根に、一夜にして奪われていったのだ。こんなにも狂暴に。

 怪磨を失い、ちし郎は独り残された。更には、この惨状はあの少年ではなく自分にあるのだという罪悪感が浸みていた。自分の弱さが、屈した心がそうさせたのだと。

 最終的に彼は仲間たちの、そして見つけられる限りの村人の死体を火葬し、無言で立ち去った。そして不承不承、刀の腕を売るようになり、以来そうして生きてきた。

 だからこそ遠辺集落の神に彼は注意を向けた。その神が人々を愛しているとしても、ちし郎はそれを信頼する気にはなれなかった。

 そうであっても今、ちし郎はそれを守るのだ。彼が最も激しく憎むのは自分自身だが、その次に憎むのは、神を傷つけようとするこの男だった。


 妨害装置はばらばらに起動した。無孤勢団の武器が切れて集落の一区画が闇に包まれたが、他の区画は脅威を輝かせたままだった。

 動力の切れた鎧の重みに潰されそうになり、ひとりの侍が膝をついた。住人たちは杖や剣を手に取り囲んで叩き、切りつけた。

 忍者が村人のひとりに短剣を続けざまに投げた。一人また一人と犠牲者はよろめいて倒れ、短剣が紫色の炎を点火させると悲鳴を上げた。

 じぇん造はのたうつように表通りへと飛び出し、だが起動しようとしていた装置を無孤勢団のメカの不気味な腕に叩き落された。装置は彼とメカの間に落ち、じぇん造はそれを拾おうとしたが、鉤爪の足をひび割れた道路にめり込ませてメカが迫った。

 あや里がするりと割って入り、じぇん造に体当たりをしてメカの軌道から彼を救った。ふたりは滑って離れ、だがメカは攻撃の最中に旋回し、不気味なほど優雅に機体をひっくり返すと、地面に転がったままの装置の前に着地した。長く繊細な指でメカはそれを拾い上げ、操縦席を覆うぼろぼろのヴェールの前に掲げ、その価値を見積もった。

 ごくわずかにメカの手が握られ、装置は砕け散った。

 そして、メカがふたりに迫った。

 だがそれは不器用に前によろめいた。何かが背中を攻撃したのだった。メカは身体をよじって振り返ろうとしたが、ちし郎は既にメカの背骨に絡むように登っていた。

 彼を振り落とそうとメカは悶えたが、ちし郎は操縦席の横へと這い進み、二本の腕で天井板を開いた。そして三本目の腕で覆いのヴェールを引き裂くと、四本目で脈打つ緑色の妨害装置を操縦者の手に押し付けた。

 操縦者はそれを見つめ、そして恐怖を顔に浮かべた。自分はワイヤーとチューブの束によって、このメカに編みこまれている。そして今にも、この装置が爆発したなら、メカもろとも死ぬことになる。

 ちし郎はそれを待つ気はなかった。彼がメカから飛び降りた直後、装置はうなりを上げた。機械の巨体は彼の背後で地面に倒れた。

 ちし郎は進み、じぇん造とあや里も立ち直っていた。じぇん造は彼に礼を言おうとしたが、あや里が止めた。煙を通して、ちし郎は彼女が顔に浮かべた憤怒と軽蔑を認めた。

 ちし郎は彼女を止めようとした、それが過ちだった。今や、村人たちが――彼女と同じ村人たちが――死んでいるのだ。彼の過ちで。

 その怒りは理解できた。他の誰かの我儘で仲間を失うのというのはどういうものか、彼はわかっていた。

 それでも彼は止まる気はなかった。達成を追うことだけを考えた。溺れる者が空気を求めるように、ちし郎はその死を求めていた。

 達成は争いから既に離れていた。カエルに乗って騒々しく通りを駆け抜け、一切の抵抗を無視してその先に座す社へ向かっていた。そしてそこで刃を下ろして待っていた――ちし郎がかつて手にしていた刃。再生されて蘇り、定命の金属で曇って。まだ攻撃はしていなかった。神を殺すには、一撃では足りないと知っているのだ。

 ちし郎は達成へと近づいた。血にまみれて息は荒く、銀の刃は臓物で汚れていた。

 カエル乗りの表情は冷たく、川の流れのように深い恨みを宿していた。「お前か」まるで昔からの友に接するように、達成は言った。「穴の中で丸くなって死んだかと思ったんだがな」

「その刀を下ろせ」 ちし郎が告げた。

「何でそうする必要がある?」

「俺がそれでお前を殺す」

 達成は頭をのけぞらせ、信じられないというようにまたも興奮した笑い声をあげた。「神と繋がる奴か! お前らは全員そうだ――独善的で意志が強い。世界が自分の言う通りにしてくれるんだからな!」

「惨めな奴だ」 ちし郎は敵意を向けながらも、ひとつの事実が胸の内に入り込み、広がっていくのを感じた。「憎いんだな、神が」

 達成は顎を強張らせた。何年も前――あの夜、奪った刃をちし郎の喉を切ろうとした時のように。「勢団の奴を殺した奴が憎い、それだけだ」

 今度はちし郎が笑う番だった。それは煙のように腹の底から出て胸を満たした。達成は奪った刃の柄を強く握りしめ、それを掲げた。叩くべきはその社か、それとも目の前の狂った戦士か、見極められないかのように。

「憎むのも当然だ」 ちし郎が言い放った。「神はお前の本質を見抜く。お前は何もない、空虚な人間だ」

 そもそも、達成が無孤勢団の斥候をここに送り込んだのは、その憎しみからだったのだろう。都和市では神を殺す機会などほとんど存在しない。遠辺集落の小さな新しい社は、この中身のない男の怒りと怖れの魅力的な標的に見えたに違いない。

 ちし郎の言葉は、どんな刃よりも冷酷に達成を切り裂いたようだった。その男の顔は怒りを超えて苦痛に歪んだ。手にした刃がちし郎へと突き出された――だがちし郎は動かず、銀の刃を緩く掴んだままでいた。

 虚無、彼はそれを考えていた。中身のない男は迫り、だがちし郎へとその刃を突き立てたとしても、更なる虚無がそこにあるだけだろう。それのどこが可笑しいのかは言えず、だが漏れ出たのはその音だけだった。自分たちは両方とも、何もない、運にも恵まれない生き物なのだと、恐ろしいほど深く実感しながら。

 かつては祝福を受けていた刃はちし郎の腹、肋骨のすぐ下をとらえた。それは更に深く押し込まれ、喉まで血が沸き上がった。

 そして血とともに、他の何かが。光と熱がちし郎の傷から広がり、彼の笑い声を通して放たれた――声色が変化した。絶望からの空ろな吠え声から、満たされつつある奇妙な咆哮へと。

 ちし郎を刺した箇所から根が這い出て、達成はあからさまな恐れに目を見開いた。根は細く白く、だが次第に黒く、太くなっていった。根は刃を登って迫り、達成は恐怖とともに手を放した。

 社の神が目覚め、ちし郎へと語りかけた。『樹はその内なる爪を貪る。根は血に浸され、伸び、また伸びる』

 それが意味するものは。この者の復讐をお前のものとせよ。命ずる。切望する。我がために、そうするのだ。


 根は槍のように、地面から獰猛な勢いで弾け出た。強くむち打つようにうなりを上げて脚を登り、上半身に巻き付いた。

 悲鳴が宙を切り裂き、だが喜びと安堵の叫びもまた上がった。人々は見たのだ、神がついに立ち上がり、自分たちを救ってくれるのを――逃げようとする勢団員を掴むため、黒い木の根が家々の壁や屋根を引き裂いたとしても。

 ちし郎が目指すのは達成だけだった。彼は荒く咳き込んだが、血を吐き出しはしなかった。そして銀の刀を手放し、別の手で腹部に刺さったままの刀の柄を握った。神はこの刀を取り戻せと命じた。掌の中で脈打っているように思えた――かつて、この刀が自分たちの神聖な契約の核であった時と同じように。神は、進めと彼を促した。

 達成は再びカエルに乗り、逃げ出していた。地面から根が奔流のように弾け出る中、カエルは恐怖の鳴き声を上げて跳ねていた。

 神が再びちし郎へと語りかけた。聞き覚えがある、そう思わないよう彼は務めた。『森の土は古き骨を取り戻す』

 ちし郎は胸から刃を引き抜いた。血が流れ出るのは明白で、その通りに一瞬、血が噴き出そうとして――彼の内から穴を塞ぐようにうねり出てきた根がそれを止めた。痛みはまだあったが、それ以上に、高揚と必要が彼にはあった。

 達成はまだ生きている。生かしてはおけない。

 考えるよりも速く、ちし郎は地面から弾け出る根に捕まり、宙へと運ばれていった。その高所から辺りの状況が理解できた。

 無孤勢団は都和市の方角へ撤退しようとしていた。そこであれば道路基盤は頑丈で、根も入り込めない。達成も彼らと共におり、カエルは怒れる神の掌握から跳ねて逃れていた。

 ちし郎の瞼の裏に映像がうねった。急降下する鷹。突撃する虎。噛みつく蛇――

「そこまで明確でなくていい」 彼は口に出して言った。そして無慈悲な喜びに高揚しながら跳んだ。

 素早くかつ完璧に、ちし郎とその刃、そしてそれらの内なる力は一直線に標的へと迫った。

 迫るちし郎の影に気付き、達成は振り返って目を見開いた。対峙するか身を守るかという一瞬の後、彼は乗騎から身を投げ出した。

 ちし郎はカエルへと切りかかった。彼は刃でその肉を切り裂き、吠え声が夜に響いた。その声が苦しい息に変化し、やがて止むまで彼は切り続けた。

 カエルの身体は醜悪な二つの塊と化した。だがそれが地面に崩れるや否や、その滋養に満たされ開花したいと願う根に掴みかかられ、吸い尽くされた。

 ちし郎は振り返り、刃から血糊を払った。灯火の中、その刃は緑色にきらめいた。

 道に飛び降りた達成は着地に失敗し、片脚を負傷していた。それは誤った方向に曲がっていた。ちし郎は達成へと迫った。相手は歯をむき出しにし、両目は苦悩の涙に濡れていた。

 ちし郎は打ちひしがれたその男に迫った。これでは足りない、血管がそう叫んでいた。この男は既に何人も殺しており、生かしておけば繰り返すだろう。見苦しい悪意と毒とともに見上げる様は、この男そのものであり――

 その打ちひしがれた視線の中にある何かが、ちし郎の刃を止めさせた。達成は今も自暴自棄に笑っていたが、それが恐怖を隠すためとは思えなかった。

「何故だ?」 ちし郎は思わず問いただした。「何故――こんなことを?」

 達成は笑い声を喉に詰まらせた。「わかってるだろうが。お前は選ばれた。俺には何もない。自分でそう言っただろうが。さあ殺せ」

 達成の言葉には暗く刺々しい怒りがあった。だがその下に、脆くも消えることのない、絶望があった。

 そしてその絶望は、ちし郎の胸に痛みをもたらした。達成が先程突き刺した場所で、その痛みは脈打った。

 静かな夜に熱風が吹き抜けた。ちし郎が視線を上へ向けると、途方もなく大きな虚無の影が、倒れた達成の上で身を震わせていた。ようやく、彼はあの小さく不格好な社に住まう神の正体を受け入れた。縄張りに足を踏み入れただけの勢団員を貪った、そして今、自分たちに迫る影は馴染み深くもあり異質でもあり――その威厳は、かつて怪磨だったもの。

 その神の姿を、焼けつく輝きが稲妻のように貫いた。毒のような光が閃くごとに、また別の映像がちし郎の心に燃え上がった。

『砕け。潰せ。貪れ。この不実な卑劣感を殺せ――そして次を殺せ。更に殺せ』

 吹きすさぶ風に、更なる叫びが上がった。集落の中から、怯えた悲鳴と苦痛の喘ぎが――逃げる無孤勢団ではなく、安全だからと家の中に留まっていた者たち。だが根はまだ満たされていなかった。怪磨もまた。

「何故だ?」 ちし郎は再び尋ねた。考えて尋ねたのではなく、その言葉は彼の口から無意識に発せられた。

 怪磨が返答した。『定命の肉と定命の行い。同類を裏切るだけの心を持ちうるのは、ある種の生物のみ』

 その言葉にちし郎は理解した。神は自分たちの破滅を求めている。無孤勢団かどうかは関係なく、怪磨は全員を消し去るつもりなのだ。過ちを免れられないという罪のために。

 怪磨が塞いだ傷をちし郎は固く掴んだ。それは化膿したように熱かった。

 次の瞬間、ちし郎の世界が傾いた。何者かが彼を背後から叩きつけてよろめかせたのだ。鎧をまとった無孤勢団の荒くれ者がちし郎を押しのけ、その隙に達成を地面から抱え上げた。

 仲間が彼を確実な死から救い出して運び出す間、達成は呆然としたままでいた。ちし郎の驚きはもう少し早く収まった――そして新たな目的意識が取って代わった。

 裏切り、堕落、死、彼はその全てを見てきた。そう、それも何度も何度も。だがそれらの物事は終わりではない。決してそうではない。


 背後の光景へとちし郎は振り返った。あらゆる場所で地面は砕かれ、怪磨の根に蹂躙されて建物が崩壊していた。人々は自分たちの神の容赦ない憎悪から逃げようともがいていた。

 そこに、街路の中央に、大いなる怪磨が現れた。けば立つどっしりとした背中と鋭く枝分かれした牙は、裏切りと憎しみがひとつの姿を成したものだった。それは影から色彩のある現実へと踏み出し、その姿を目にした者は、炎のようにその毛皮に走る憤怒に言葉を失った。

 一目見るだけで知ることができた。それは不意に大地から現れた神、愛と気配りで育もうとしてきた神――だがそれが醸し続けた怒りを宥めるには至らなかったのだ。怪磨は全員を殺そうとしていた。

鎮まらぬもの、怪磨》 アート:Filip Burburan

 ちし郎は、そうさせるつもりはなかった。

 彼はあや里とじぇん造の様子を伺った。名を呼ぶとふたりは恐怖から解き放たれたように、油断なく彼を見つめた。ちし郎は都和市の方角を顎で示した。時間はなく、そう伝えるのが精一杯だった。

 そして若者ふたりが生存者をかき集めて街へ向かわせる中、ちし郎はかつての友へと進み出た――刃を手にして、根をその胸に抱えて。

「怪磨よ、何故このような死までも求める?」 壊れた舗装路と損なわれた死体の間を滑りながら、彼は問いかけた。「彼らはお前を愛していた、それはわかるだろう」

 怪磨はちし郎に対峙し、だが彼を見つめてはいなかった。深い翠緑にしてまばゆく燃える神の凝視は、ちし郎の背後の空間に向けられていた。都和市と、そこへ向かって逃げる人々へと。

 だがちし郎の前進を止めたのは怪磨の視線ではなく、怪磨が告げたものだった。かつてのように映像と感覚として、だが今そこには恐ろしいほどの明確さがあった。怪磨はそれらの死の正当性を、この次元の意志としてではなく――

『勢団に木の登り方と静かな殺し方を教えたちし郎。未来派に妨害装置から身を守る方法を教えたちし郎。かつて神と絆を結んだ、今や不実と悪意のちし郎。信条ではなく金で動き、憎むのは自身だけでなく――』

「俺がお前を憎んでいる、そう思っているのか」 怪磨の裁きが四肢に脈打つ中、鈍い痛みがちし郎の胸へと這い上がってきた。

 かつて怪磨という存在を定めた者が、今やそれを憎んでいる、ならば怪磨も憎む以外に何ができるだろうか? その憎しみはかつて怪磨の世界から遠く離れ、理解の及ばないものだった。けれど今やそれは怪磨を砕き、それゆえ怪磨に残された全てとなっていた。

 今ようやく、ちし郎は理解した。達成は自分と怪磨の絆を断ち切った刃などではなかったのだ。彼はただの支点に過ぎず、その重みで自分たちの繋がりは切れたのだ。その残忍さという重みはちし郎と怪磨の両方を破滅させた――互いの中に鋭い残忍さを残し、自身がもたらす痛みに傷つき、他者へとその痛みを強要することだけを求めた。

 かつてちし郎は考えた。定命がいつ死ぬかは――死ぬべきかどうかは――神が選択するのだと。今、彼はその選択を自らの血塗られた手に掴んだ。そしてこれまでに、何度も何度も選択してきた。

 それでも、今……

 集落は軋み、砕け散ろうとしていた。それでもちし郎は言葉を発した。

「お前は、誰を選ぶのだ?」 怒りに言葉は途切れ途切れで、けれど彼の声に熱はなかった。ちし郎は、ただ裁きを返すために尋ねた。「お前はお前自身の影だ。残忍な幽霊だ。お前は定命を見捨て、けれど俺たちは神河の根や花と同じ――鳥や狼と同じだ。お前が俺たちを拒むのは、また傷つくのを恐れるからだ。それを選んだのではなかったか? ともに傷つくことを。全てのために。ただひとりの悪意で、破滅してしまうつもりか?」

 ちし郎は怪磨と目を合わせた。ぼやけて狡猾、溺れてしまいそうな黒い深淵が揺らぐことなく見つめてくる。腹の底でちし郎は思った。『殺し合おうか』

 そして頭蓋から尾へと、一本のひび割れが彼に走った。ひとつの映像がその中から弾け出た。『爛れた身体が濁した清き泉、悪臭の水面に自らの映し身――それは自らの肉体、身体を突き刺す根は王冠と鉤爪を成し、それは死とともに泉を汚す』

『ああ』ちし郎は思い、そして怪磨の中にも認識が広がるのを見た。その瞬間は過ぎると、怪磨の怒りは自らを串刺しにした。

『ああ。もう、殺し合っていたか』


 大蛇人(おろちびと)とその神は、もはやかつてと同じではなかった。互いの絆もまたひとつの記憶となり、息が詰まるような夜が深まる中、ふたりは共に悲嘆にくれた。怪磨の根はもはや悶えていなかった。集落は破壊されたが、壊滅には至っていなかった。

「怪磨、改めて正そう」 ちし郎はそう言い、頭を低くした。そして彼は互いの絆であった刃を差し出した。「どうしても必要だというなら、お前から俺の人生を切り離そう」

 結局のところ、自分は自分自身を見ていたのだ――毒された泉に浸る定命の肉体は怪磨の神性と絡み合い、その腐敗と過ちを知ることを余儀なくされた。

 怪磨が身体を傾けると、奇妙な音が発せられた。神は砕けた地面に音をたてて倒れ、たわんで曲がった身体の周囲に塵を巻き上げた。その音を内から発したまま、怪磨は再び震えた。笑い声、ちし郎は唐突にそう気づいた。年老いて疲れた、生気のない笑い声。

「正さなくともよい」 年老いた喉から、怪磨は初めて声を発した。初めて、だが元からあったのだ。湿ってかすれ、不気味なほど定命の声に似たそれは、謝罪だった。「私は私であり続ける。私がなるものになる。だが可能であったとしても、かつての私にはもはやなりたくない」

 古い、詮索するような気配に、ちし郎は再び痛みを覚えた。怪磨にその姿を与え、突き動かした疑問。自分とは異なる何かに手を届かせる方法を、この神はいつも探していた。

 ちし郎はためらいながら、何も持たない掌を怪磨の巨大な鼻面に伸ばした。神はそれが触れるがままにさせた。「ならば、どうすればお前に平穏が与えられる?」

「それは私に与えられて然るべきものなのか?」

「そうではないかもしれない」 ちし郎はそう答えた。彼らは怪磨の怒りがもたらした瓦礫の中に立っていた。それは怪磨の残酷さがもたらした、ほんの一部に過ぎない。それでも。「だが、お前が手に入れてくればいいと思う」

「ならば再び、お前を私に与えよ」 その言葉は他の何よりも滑らかに発せられた。怪磨の望みは、欲するものは明白だった。ちし郎は怪磨の黒い瞳に映る自身を見て、一瞬、彼らはともに輝いた。「お前を再鍛したように私を作り直せ。私の不寝番であれ。私の守りであれ。私の信念と絆であれ」

 ちし郎は思考で返答した。『できない。そうであってはならない』 そして続けた。『何故また私を信頼できる?』

 だがそれこそ、絆が成せるものだった。互いの内に希望を失おうとも、映し出された姿の中に再びそれを見つけ出す。

 ちし郎は今一度、絆の刃を互いの間に低く構えた。すると細い割れ目が刃に走った。破片が一つまた一つと剥がれ落ち、その下から彼らの再生の光が輝き現れた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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