MAGIC STORY

神河:輝ける世界

EPISODE 15

メインストーリー第4話:突入

Akemi Dawn Bowman
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2022年1月26日

 

 皇は魁渡(かいと)と向かい合って立っていた。近くの灯篭が放つ琥珀色の輝きが、彼女のしなやかな体格と大きな帽子の影に半ば隠れた顔の影を際立たせていた。

 十年前、皇が戻るまでここには足を踏み入れないと魁渡は誓った。そして今、彼女はここにいる――自分と同じ、プレインズウォーカーとして――皇宮の壁に取り囲まれて。

 永岩城(えいがんじょう)に郷愁は感じなかった。皇の桜庭園に立っていながらも、自分のものではない夢の中に立っているようだった。まるで、間違ったパズルの一片であるかのように。

 皇の瞳にも空虚さがあった――彼女も、この居心地の悪さを感じているのだろう。

 タミヨウが巻物を巻き上げて注意深く鞄に差し込み、数時間続いていた不可視の呪文を解いた。「正門で陛下の帰還を報告すべきだったと思うのですが」 そして首を横に振った。その絹のような優雅さは、決して会得できないと魁渡には思えた。「陛下の帰還を永遠に隠してはおけません」

「永遠に秘す必要はありません」 皇は静かに言った。早朝の風に純白の髪が揺れた。「ほんの少しだけで構いません」彼女は玄関へと向かい、香醍(きょうだい)の社へ続く扉を開くとその中へ消えた。

 喉が詰まるような感覚を魁渡は努めて無視した。この再会を十年近く夢見ていた。けれど皇は、大田原(おおたわら)であのメカを止めて以来、ほとんど自分を見てくれてもいない。

 時は自分と皇を、他人同士に変えてしまったのかもしれない。

 彼女は神河の皇なのだ。少女時代の友情など、ほとんど考慮に値しないものなのかもしれない。

「長い年月を経ての帰還は、とても感慨深いに違いありませんね」 子守歌のようなタミヨウの声が届いた。そして言葉ではない声が続いた。『陛下だけではなく、貴方にとっても』

 魁渡は顔をしかめた。「それは運よく当たった推測ですか、それとも俺の心を読んで?」

「込み入った思考まで読むことはできません。ですが貴方の瞳は真実を宿しています」 タミヨウは自分たちが立つ庭園を身振りで示した。「以前、ここに来たことがあるのですね。きっと何度も」

 魁渡は歯を食いしばり、近くの花を見つめた。以前よりも萎れているようで、神の姿もなかった。

 子供の頃、皇の庭園は大好きな場所のひとつだった。けれど今は? まるで命の抜け殻、忘れ去られた墓地、あるいは神のいない社のようだった。

 皇が帰ってくるという希望を魁渡は決して失わなかった。だが、皇国の誰もが同じ信念を抱いていたのではなかったのかもしれない。

「子供のころ、ここで会っていたんです」 魁渡は静かに言った。「俺は永岩城の一員だってずっと思えずにいました。けれど陛下は……」 続く言葉は真剣なものだった。「陛下がいたからこそ、俺はずっとここにいたんです」

 タミヨウは頷いた。「そしてここを離れた理由でもあるのですね。プレインズウォーカーとなった道へ」

 魁渡は疲れたような笑い声を発した。「運命とか、物事は理由があって起こるとかそういう話はいいです。俺は、人生ってのはひと続きの選択だって信じています」 彼は肩をすくめた。「その選択肢が気に入らなかったら、泣いて頼むか戦うか、盗み取って変えたっていい」

 タミヨウは額に皺を寄せたが、感心したようではなかった。「とても冷酷な楽観主義をお持ちなのですね」

 彼は返答しようとし、だが社の奥深くから奇妙なうめき声のような音が響いた。香醍の声――叫びであり、同時に歌であり、囁きでもある。タミヨウはその扉に視線を走らせ、魁渡にはわからない何かを心で探ったが、彼は許可を待ちはしなかった。彼は香醍と皇のもとへ駆け出した。木の床に鳴り響く足音は、十年前に同じ場所を駆けた時の心臓の高鳴りのようだった。

 あの夜、部屋の中にいたのはテゼレットだった。あの金属の腕の男を、十年間追ってきた。

 魁渡は最後の角を曲がって急停止した。そして彼を待っていたのはテゼレットではなく――遂に皇と再会を果たした香醍だった。

 その黄金色の身体は霧の中深くまで伸び、浅い水面に半ば隠れていた。神は心地悪いように悶え、低く下げた顔には皇の手が置かれていたが、額の黒い球体は魁渡が覚えているよりもくすんでいた。

 香醍は痛みに苦しむようにうめいた。すると皇はひるみ、腹部を掴んだ。

 タミヨウが急いでその隣にやって来た。「陛下の灯はまだ不安定なのです。助力なしに神河に留まることはできません」

 皇の指先が震えていた。この次元に留まろうという抵抗は簡単なものではない。

「助力ってどうすれば?」 両腕に力を込め、魁渡はふたりへと近づいた。「俺は何ができますか?」

 タミヨウの紫色の瞳が皇に向けられた。ふたりは魁渡を加えずに会話を交わした。

 除け者にされたことは気にしなかった。ただ、友のために力を尽くしたかった。

 皇は短く頷き、タミヨウは魁渡を見て手を差し出した。「現実チップを」

 一切の躊躇なく、魁渡はそれをポケットから取り出すとタミヨウの掌に押し付けた。「それでプレインズウォークを止められるんですか?」

 タミヨウはクラゲの脚に似たそのワイヤーを見つめ、そして皇の手をとった。「しばしの間、この装置が灯を安定させてくれるでしょう。ですが根本的な解決策ではありません。詳細に調べない限り、全体的な影響がどのようなものかもわかりません――そして、そのどれかが危険を及ぼす可能性もあります」

 皇は顎を強張らせた。その頭上で、香醍は困惑に吠えていた。「成すべきことを成すのです」

アート:Alix Branwyn

 タミヨウは現実チップを皇の手の甲に置いた。瞬時に基盤が光を発し、エネルギーを脈打たせる血管のようにワイヤーが皮膚へと融合した。皇は小さな悲鳴を上げて痛みをこらえ、やがて現実チップは彼女自身の小さな延長のように収まった。

 香醍は動きを止め、皇はひとまず落ち着いたように見えた。

 魁渡が見つめる中、皇は今一度表情を歪め、苦しむように両手で頭を抱えた。彼はすぐさまタミヨウへと向き直った。「軽脚(けいぎゃ)先生を呼んできて下さい――陛下が戻ってきたって知らせないと。それに先生なら何か力になってくれるかもしれません!」

 タミヨウは無言で頷き、扉へ向かっていった。皇が膝をつくと、魁渡もその隣に屈み、支えるようにその肩に手を置いた。今や、形式など問題ではなかった。

 訓練以外で、皇にそのように触れるのは禁じられているはずだった。けれど今目の前にいるのは神河の皇ではない――苦しむ友なのだ。

「どうすればいいですか?」 魁渡の視線は皇の手に降りた。「これのせいで痛むなら、取り除けます」

「いいえ」 皇は息を詰まらせ、だが即答した。「そうでは――ありません。見えるのです」 苦しむように、彼女の指先が頭を引っかいた。「実験室が見えます。怪物が」

 ジン=ギタクシアス。魁渡は眉をひそめた。現実チップは機械の隣にあった。どういうわけか、今もそのふたつは繋がっているということだろうか?

 皇はひるみ、だが少しするとその額の皺は消え、表情が和らいだ。彼女は両手で魁渡の腕を掴んだ。抱擁――とは言えず、けれどそれに最も近いものだったかもしれない。

 彼女は顔を上げ、困惑を浮かべた。「魁渡さん?」

「ここにいます」 彼は声を震わせた。この言葉を告げるために、十年待ったのだ。

 皇は浅く息をついた。「あの怪物が――理想那(りそな)浅利(あさり)の蜂起軍に、私の帰還を伝えています。彼らは皇宮を強襲しようとしています。神河に皇が帰還したという噂が広まる前に、皇国の不意を突きたいのです」

 魁渡は急いで考えを巡らせた。「蜂起軍が来るなら、侍に知らせないといけません。永岩城が危機に瀕しています」

 皇は魁渡の両腕に力を込めた。「私たちはあの怪物を止めなければ。神を実験台にし、無辜の存在を苦しめているのです」 彼女はかぶりを振った。「定命と精霊の領域、その戦争を再び起こさせるわけにはいきません」

「ジン=ギタクシアスはそれを望んでいるんですか? 戦争を?」 魁渡は冷静だった。神の乱は千年以上前の出来事だ。歴演衆(れきえんしゅう)や古文書はその詳細を保存しているかもしれないが、そのような遠い昔はほとんどの人々にとって神話に等しい。現実の出来事というよりも伝説だと言えるだろう。

 本当にそれがまた起こると?

 それは理にかなっていないように思えた。神と人を対立させるには、もっと簡単な方法が確実に存在するだろう。ジン=ギタクシアスは統合のゲートを襲撃することも、白昼堂々と神を殺戮することもできるはずだ。

 違う。戦争じゃない――何か別のものだ。ジン=ギタクシアスが神に何をしようとしているのかは判明していない。それは極秘に行われていて、更にタメシは質問をしすぎたということで殺されたのだ。

「ジン=ギタクシアスの計画はわかりませんが、テゼレットが関わっているのは間違いありません」 香醍を見上げると、神は遥か頭上で今も揺れていた。その腹部には黄金色の肢が何百本と悶えており、こんなにも恐ろしい姿だったと彼は初めて気づいた。「陛下が姿を消したあの夜、テゼレットは現実チップの試作品を香醍に使ったんです。たぶん、神を支配する方法を探して」

「テゼレットの望みは問題ではありません。ですが私の民を危険にさらすというのであれば、止めるまでです」

 魁渡は皇の目を見つめ、そして不意に我に返った。長いこと見つめながら、彼は昔からの友の面影をそこに探していた。そして離れようとしたが、皇は魁渡の腕に力を込めた。

「私を探していてくれたのですよね」 そっと、彼女は言った。「あれから長い間、ずっと」

 彼はきょとんとして、頬を赤らめた。「どうしてそれを?」

「長年、多くの次元を旅してきました。行方不明の皇を探す神河人のプレインズウォーカーなんて、人々はなかなか忘れないものです」 彼女は力なく笑みを浮かべた。「時に、貴方のすぐ後ろに迫ることもありました。私がこの灯を制御できたなら、もっと早く再会できていたかもしれません」

 魁渡は胸の痛みをまたも感じた。皇を探している間ずっと、彼女の方でも自分を探しているのかもしれないなどとは考えたこともなかった。

「故郷へお連れするのに、こんなに長い時間がかかってしまいました。申し訳ありません」

「期待はしていませんでしたよ。貴方は何にでも遅刻していましたからね――私たちの訓練にすら」

「え? そんなことは――」 皇の声に隠された笑い声に、魁渡は言葉を切って溜息をついた。「遅れたのは一度だけです」

 皇は微笑んだ。その瞳は内気な日の出のように輝いた。まるで、長い時を経てようやく真に満たされたかのように。

 年月を経て自分たちは変わってしまったかもしれない。だが今この瞬間、真には何も変わっていないと魁渡は感じていた。友人同士がふたり、皇宮で語り合っている。この次元の支配とかそのようなものなど気にもせずに。

 そして今は、ふたりを隔てる絹の仕切りすら存在しなかった。

 香醍は頭上で歌いながら、霧の中へと退いていった。

「まだ困惑しているのです」 皇はそう認めた。「私との繋がりが原因で――灯の揺らぎが、彼女にも大いに影響しているのです」

「安定させる方法はないんですか?」 魁渡は尋ねたが、皇は返答しなかった。彼女はただ、香醍が広大な部屋へと姿を消す様子を見つめていた。

 外でかすかな足音が響き、社の扉が勢いよく開かれた。戸口には軽脚と英子(えいこ)が立っており、そのすぐ背後にタミヨウが浮いていた。

 軽脚は唖然とし、その両目は皇から魁渡へ、そして再び皇へと移った。魁渡はすぐさま皇の肩から手を離し、ふたりは揃って立ち上がった。

 皇は断固として優雅に顎を上げた。「軽脚さん、ご無沙汰しておりました。私が不在の間、よく神河を守って下さいました。皇宮の働きに心から感謝致します」

 軽脚はただよろめいてお辞儀をしたのではなかった――倒れたも同然だった。英子は深く頭を下げた。眩しい光の下、その顔色は蒼白になっていた。

 皇は口元を歪めた。「どうか――堅苦しい挨拶をしている暇はありません。今この時にも、理想那と浅利の蜂起軍が永岩城を目指しています。ただちに戦いの準備をさせなければなりません」

アート:Ekaterina Burmak

 軽脚は立ち上がり、困惑に鼻先をひきつらせた。「何故、そのようなことを御存知なのですか?」

 魁渡を一瞥すると、皇は手の甲を差し出して現実チップを見せた。「この装置が、持ち出された場所の設備と今なお繋がっているようなのです」

 タミヨウは床に足をつけた。「今起こっていることを見たのですか?」

 皇は頷いた。「あの怪物は蜂起軍に私の帰還を報告しています。そして今であれば不意をつけると考え、襲撃を計画しています」

「けど、ジン=ギタクシアスは永岩城を攻撃して何か得るものがあるのか?」 魁渡は肩を強張らせた。「あの怪物が欲しがってるのは実験体であって、支配の座じゃない」

「戦いを攪乱として利用したいのかもしれません」 皇の瞳から生気が薄れた。「香醍を狙っているのかもしれません。あるいは、単に盗まれたものを取り戻したいだけか」 彼女は現実チップを一瞥した。それが彼女を不安にさせているとしたら、よく隠せていると言えた。「何にせよ、戦いが迫りつつあります。備えなくてはなりません」

「現実チップは危険なものです、例え最も高貴な方の手にあろうとも」 タミヨウは両腕を掲げ、その声はありありと警告を帯びていた。「神河のためにできる最良の行動は、今のうちにそれを破壊してしまうことです」

「絶対に駄目です」 魁渡は反論した。頭に血が上るのがわかった。「そのチップは陛下のプレインズウォークを防ぐ唯一の手段なんです。それが無かったら、陛下はまたこの先十年、いやもっと長い間、失踪してしまうかもしれないんですよ」 断固とした意志を示すように、彼はかぶりを振った。「他のやり方を見つけ出すべきです」

 考えこむように、皇はその装置を見つめた。「我が家へ帰り着く手段もなしに、多元宇宙を放浪したくはありません。ですが神河を守るためであれば……」

「神河は皇を必要としています」 軽脚が割って入った。「陛下こそ、陛下の民にとっての最良の存在です」

 魁渡の隣で、英子は腕を組んで頷いた。「反乱に対してはこれまでずっと備えてきました。皇国の侍はいつでも戦えます――陛下と香醍をお守りします」

 魁渡はタミヨウへと真剣な眼差しを向けた。「何か他の手段でジン=ギタクシアスを止めないと」

「脅威をもたらすことなく現実チップが存在しえるのかはわかりません。ですが、もっと差し迫った危険があります。あの実験室に残してきた研究内容です」 タミヨウは考えるように言葉を切った。「実験室を破壊したなら、そこで進んでいた計画の全てを破壊したなら――あるいは、現実チップとの繋がりを断つことで、陛下は灯をよりよく制御できるかもしれません」

 部屋に満ちる不安と希望は、まるで触れられるほどに明白だった。

「俺がやります」 魁渡が声を上げた。「俺がタメシの研究所を破壊します」 胸のかすかな痛みを無視して彼は軽脚を見つめ、そしてその視線を姉へと移した。「皇宮の保管室にある爆弾が幾つか欲しい。研究所に突入してそれを設置して、外から起爆する」

 非難を示すように、英子は表情を歪めた。「魁渡、それは没収品よ。規制違反のね。貴方はそんなことは知らないかもしれないけれど」

 魁渡は嘲るように片眉を上げた。「使う気がないものを何で大切にしまい込んでるんだよ?」

「安全にできるようになるまで保管してあるの」

 魁渡は両手を広げた。「俺はまさしくそれを提案してるんだよ! 爆弾を安全に処理する。タメシの研究所の中で。なるべくなら現実チップの機械のすぐ隣で」

 英子は弟を睨みつけた。「建物を爆破するなんてのは――」

「魁渡さんの言う通りです」 皇が割って入り、英子は――そして軽脚は――硬直した。「あの研究所と、その研究内容は全て破壊しなければなりません」 彼女は軽脚へと向き直った。「私たちが相手取っているのは、他次元からの敵です。神河の誰もかつて見たことのない脅威です。不認可の武器を使用するのは理想的とは言えませんが、それが最高の解決策です。そしてそうすることで、永岩城の皇国兵は全員、最も必要とされる場所で戦えるでしょう」

 英子と軽脚は了承に頭を下げた。

「魁渡さん、手助けが必要になるでしょう」 身体の脇で指を上品に動かしながら、タミヨウが言った。「前回、彼らはメカを用いて貴方を追いました。大田原でどれほどの手下が今も貴方を探しているかわかりません」

 魁渡は眉をひそめた。「来てくれるんですか?」

「ひとりのプレインズウォーカーよりは、ふたりの方が良いはずです」 タミヨウは事もなげに返答した。

「私も一緒に行きます」 即座に皇も動いた。「研究所内を幻視しました。きっと役に立つはずです。それに神を解放しなければなりません」

「僭越ながら、陛下はここで必要とされるお方です」 耳を低くして軽脚が言った。「民は陛下の導きを求めるでしょう」

「皇宮が導いてくれるはずです、私の不在の間そうしていたように」 皇の返答に悪意や皮肉はなかった――彼女は事実を告げているに過ぎなかった。

 だが魁渡は皇の声に込められた感情の変化を察した。神河はもはや彼女が離れた時の姿ではない。自分がどこに入り込むべきかを迷っているのだ。子供の頃のほとんどの年月、魁渡がそうだったように。

 英子はためらったが口を開いた。「そのジン=ギタクシアスが現実チップを探しているなら、ここが最も安全です。城壁と、陛下を守ると誓った侍に取り囲まれたこの場所こそが」

 軽脚は返答するように一瞬だけ尾を振った。同意の意志表示。魁渡はそれをよく知っていた――英子は何度も受け取っていたが、彼は一度たりとてなかった。

 他のことで英子を妬みはしはなかったが、これだけは違った。

 皇はしばし立ち尽くし、どちらを選ぶべきか考えを巡らせた。彼女は神河の皇であり、放浪者でもある――だが、それぞれの役割は異なるものであるべきかもしれない。やがて彼女は言った。「ここに留まります」

 軽脚と英子は頷き、衛兵へと報告するため社を離れた。タミヨウはふたりを追い、だが戸口で止まった。

 魁渡は動かなかった。今も、友の沈黙の背後にあるものを読み取ろうとしていた。

 皇は答えを探すように、霧の中を見つめていた。

「陛下以上に現実チップを守れる奴は神河にいません。壁が何枚あったって同じです」 魁渡は静かに告げた。「けど、そんなことはとっくにご存知だったんじゃないですか」

 彼女は魁渡の視線を受け止めた。「神河に対する私の義務は、ただ強さを示すという以上のものです。時に、人々を強くするための更なる何かを与えねばなりません」

「陛下を守らないとって皆に思わせることで、ですか?」

「人々を団結させる、戦う目的です。歴演衆は私たちの歴史を昔からそう記してきました」 皇は香醍を示した。「そして、守るべき存在を。敵が香醍を欲しているなら、私は必ず守ります。ですが……約束して下さい。研究所を爆破する前に、捕らわれた神は全て解放すると」

「約束します」

 タミヨウは顔をそむけ、聞いていないふりをしていた。だがその思考が魁渡の心に滑り込んだ。『行きましょう。先は長いのです』

 魁渡は短く頷き、扉へと向かった。肩越しに振り返ると、皇は香醍が身を隠す霧の中へ踏み入った。陛下が二度と姿を消すことのないよう、その力になるための手段を見つけてみせる。彼は無言でそう約束した。


 大田原に魁渡とタミヨウが辿り着いた頃には、空には杏と李の色をした影が伸びていた。夕闇が迫っていた。

 表通りは静か、だがそれは特に珍しくもない。屋根の上、あるいは路地から見つめる下層街の手下たちの気配はなかった。魁渡や友人たちを地面に探すメカの姿もまた。

 まるで自分たちは追われてなどいなかったかのように。

 だが懸念は魁渡の頭を離れなかった。確かに、ジン=ギタクシアスの手下たちがこの浮遊都市に群れていないのは驚くべきことではない。結局のところ彼らは余所者であり、未来派の中核からは遠く離れた所で動くものだ。だが一方で……

 簡単すぎる、魁渡はそう考えていた。

 タミヨウは同じ疑念を顔に浮かべた。『大田原にいた敵は、浅利の蜂起軍に合流して永岩城に向かっているのかもしれません』

 皇国兵が向き合おうとしているものを、魁渡は羨ましいとは思わなかった。彼らは神河でも最高の戦士たち、名高い精鋭の学院で訓練を受けた者たちなのだ。とはいえ彼らは一世紀以上を比較的平和のうちに過ごしてきた。戦争というものを歴史記録でしか知らないのだ。

 けれど蜂起軍は違う。奮闘し、戦うことこそが生き延びることだと彼らは知っている。彼らが育った雪深い火山地帯は過酷な場所だ。真の忍耐とはどのようなものかを知っている――そして勝つためには何を犠牲にすればよいのかも。

 皇国兵の手腕を疑ってはいない。けれど犠牲については?

 陛下の安全のために、彼らは現実チップを差し出すだろうか? そしてもし陛下がさらわれたら……彼女を取り戻すため、皇の座を差し出すだろうか?

 軽脚先生はそんなこと絶対に許さない、魁渡の内にその思考が響いた。皇の座はただの椅子ではなく、ひとつの地位なのです――いつもそう言っていた。そして皇の座を差し出すことは、神河をひとつにまとめる象徴を差し出すことと同じなのだと。

 皇国を心から信頼しているわけではない、けれど皇の隣には軽脚先生と英子がいる。魁渡はふたりを心から信頼していた。

 タメシの研究所へと急ぎ、魁渡とタミヨウは誰にも見られることなく中へと滑り込んだ。魁渡が前回侵入した形跡はまだ残っていた。監視カメラの妨害はまだ機能しており、床は傷つき汚れていた。手下たちが急いで自分を追いかけた証拠。

 そして実験室の扉は施錠されていなかった。

 眉をひそめ、魁渡は操作盤の前でためらった。何かがおかしい。まるで全く警戒がされていないようだった。ジン=ギタクシアスの何か月もの実験がこの先にそっくりあるというのに。こんなに隙だらけにしておくなんてありえない。あるいは――

 魁渡は凍り付いた。あるいは、既に実験内容をどこかに移しているか。

 小声で罵り、魁渡は駆けこんだ。背後でタミヨウの鋭い警告が上がったが、彼は無視した。時間をかけることの問題を失念していた。もう手遅れかもしれない。

 あの実験室へ続く角を曲がると、長いガラス窓の先に設備が見えた。それらは今もまだネオンの色に輝いていた。

 けれど神の姿は……

 窓に辿り着くまでもなく、魁渡はその不在を察した。ガラスに額をつけて見ると、金属製の寝台の上にはかすかに輝く灰だけが残されていた。神がその姿を失った唯一の証拠。

 罪悪感が骨を噛むようだった。魁渡はガラスから離れ、現実チップを見つけた部屋へと向かった。あの機械はまだ置かれており、稼働していた。だがそのワイヤーに繋がれた神の姿はなかった。タメシと同じ運命をたどったのだ。

 拳を握り締め、魁渡はタミヨウへと向き直った。「遅かった。神を救えなかった」 神が何をされているかを二度も見ておきながら、自分自身の理由で背を向けたのだ。自分の目的の方が大事だと言い聞かせて――陛下を見つけ出すことが全てだと。

 だからと言って、こんなふうに死なせるつもりはなかった。

 それに、陛下に約束したのだ……

 タミヨウの顔に感情はなく、彼女は冷静だった。「魁渡さんの過ちではありません。何が起こるかなど、知りようもなかったのですから」

アート:Marta Nael

 彼は両腕を大きく回し、機械を顎で示した。「あれを壊さないと。全部です。二度と神を傷つけられないように」

「私たちが真に欲するのは、神などではない」 低く物憂げな声が届いた。

 すぐさま魁渡とタミヨウは振り返った。少し離れて、桃色の瞳と金属の片腕の男が立っていた。

 テゼレット。

「お前」 魁渡の声は荒々しく響いた。

 魁渡の表情を見つめ、テゼレットは相手を認識した。「皇宮にいた小僧か――屋根の上の」 その声は嘲りを帯びていた。「腹を立てているようだな、昔も今も」

 タミヨウが一歩踏み出した。「神ではないのなら、何故そんなにも多くの神を殺害したのです?」

「神と精霊の領域の繋がりを試す必要があったのだよ、存在の内における物質的・非物質的な繋がりを研究するために――肉体と魂を。そして神はファイレクシアが真に求めるよりも、それらを遥かにたやすく行き来する」 テゼレットは歯をひらめかせ、両目は野火のように燃え上がった。「礼を言わせてもらおう」

 魁渡は顔をしかめた。「礼だって?」

 ぞっとするような金属音が響いた。影の中からジン=ギタクシアスが現れ、ぼやけた悪夢のようにテゼレットの隣にやって来た。ジン=ギタクシアスが金属の鉤爪を伸ばして身を乗り出しても、テゼレットは全く動じなかった。

「研究ノ更ナル発展ノタメ、プレインズウォーカーヲ我ラガ研究室ニ連レテキタコトニ」 ジン=ギタクシアスの声には不気味な喜びがあった。

 魁渡は身体を強張らせ、そしてタミヨウと慎重な視線を交わした。

『彼らが求めているのは』 タミヨウの思考が入り込んできた。『実験体です――神ではなく、プレインズウォーカーを』

 魁渡が刀を手にした時には、既に下層街の手下たちが部屋のあらゆる場所から現れていた。ずっと待っていたのだ、自分がここに戻ってくるのを。

 これは罠だった――そして自分たちはまっすぐに入り込んでしまった。

 タミヨウの思考が圧をかけてくるのを無視し、魁渡は自らの尖った刃に集中した。彼は心で刀を分離させ、手裏剣を鋭い速度で放った。星型の刃は全て、テゼレットの胸元を目指した。

 だがそれらは、金属の腕の男の寸前の宙で静止した。

 テゼレットは嘲り、瞳の光が陰ったかと思うと、手を翻して手裏剣を魁渡とタミヨウに送り返した。ふたりは揃って後ずさり、衝撃に身構えた。だがそれは来なかった。

 刃はふたりの皮膚のすぐ上に浮かび、身動きを牽制していた。

 タミヨウは巻物へと手を伸ばしたが、天井から金属の帯がはがれて彼女の手に巻き付いた。強固な拘束。彼女は瞬きをし、すると鞄から巻物の一本が浮かび上がった。だがテゼレットが小さく舌打ちをした。

「私ならそんなことはしない、友達を死なせたくないならば」 テゼレットはそう警告した。

 タミヨウが魁渡を一瞥すると、彼の喉元の手前には手裏剣がふたつ浮いていた。その皮膚を貫くには、一秒もかからないだろう。

「俺のことは気にしないでください」 魁渡は息を荒げて言った。「それに、こいつは俺たちを必要としています。神が何をされたかを見ました――ここの機械に繋がれてました、どれほど長くかはわかりませんが。その台に連れていくまで、俺たちを殺すことはないでしょう」

 ジン=ギタクシアスの声は金属製の昆虫が鳴くようだった。「実験体ガ複数イレバ、我等ノ知識ヲ拡充スル更ナル機会トナル。ダガ片方ノ生産性ニ問題ガアルナラバ、一体デ充分デアロウ」

 テゼレットは嘲るように魁渡を見た。「私を探っていたプレインズウォーカーはお前だな。皇を探して多元宇宙を飛び回っていた」 そして彼は近づき、魁渡は金属の刃が自分の鎧に押し付けられるのを感じた。今にも貫いてしまいそうな。「言わせてもらうが、もう少し……満足させてくれる奴を想像していたのだがな」

 魁渡の喉が燃えるようだった。「心配いらない――ただの準備運動だ」

 その言葉に反応するように、テゼレットは髪を肩から払った。魁渡は指をひねらせた。ベルトに隠していた短剣が天井へと飛び、照明を支えていたワイヤーを切断した。

 火花が弾け、天井から灯篭がテゼレットをめがけて落下した。彼が飛びのいた瞬間、きらめくガラスの破片が床に砕け散った。魁渡はその隙に身をよじって手裏剣から逃れ、既に攻撃のために刃を構えていた近くの忍者へと突進した。

 魁渡は低く屈み、脚で相手の膝を狙い、顎へと肘を叩きこんだ。そして前方へ駆けながら、ベルトから煙幕装置を取り出し、ジン=ギタクシアスへと投げつけようとした。だがその時、彼の思考にタミヨウの声が響いた。

『魁渡さん』 それは懇願のようだった。

 肩越しに振り返ると、タミヨウを拘束する金属の帯は更に増えており、両目も銀色の金属片で覆われていた。巻物を読むことはできず、そして魁渡もこれほどの拘束から彼女を解放はできなかった。

 このまま戦って研究所から脱出するにしても、タミヨウを置いていかねばならない。

「もう一度言うが」 テゼレットの声は苛立っていた。その両手は広げられ、周囲のあらゆる装置が反応するように震えた。「実験体は一体あればいい」

 タミヨウを助けることはできない。けれど置いてもいけない。

 あんな結末にはさせない。神が何をされたかを見ただろう? 苦しめられ、そして死んだ。

 ここに留まって、戦って、そしてきっと捕まるのだろう――先に殺されなければ。けれど、それが陛下の何になる?

 彼はポケットの中にある火薬に手を伸ばした。ジン=ギタクシアスとテゼレットもろとも、この実験室を破壊する手段はここにある。神河を守れる。皇と香醍はきっと守られる。

 あの機械と現実チップの接続が切れれば、皇は灯を癒す方法を見つけられるかもしれない。

 魁渡は爆薬を指で掴んだ。人々は戦争のために全てを捧げる。

 けれどこれは?

 この犠牲は、ただひとりの友のために。

 素早い動きひとつで、魁渡はポケットからその装置を取り出してあの機械の部屋へと投げた。空を切る音が彼の耳に届いた。

 だが衝撃が届くことはなかった—それはガラス窓の寸前で止まり、ゆっくりとテゼレットの手へと向かった。

 金属の腕の男は陰険な笑い声を発した。「お前の欠点は」 冷たい声だった。「技術に頼りすぎることだ。私は既に克服している」 その掌の中、装置は一片また一片と分解され、やがて無益な金属とマイクロチップの塊だけが残された。

 何かが魁渡の後頭部を殴打し、全てが暗転した。

アート:Lie Setiawan

 驚愕に、放浪者は目を見開いた。額に汗が浮かび、冷たい空気に激しく息をつき、指を社の床に突き立てた。

 隣の英子が心配に顔をしかめた。「どうされました? 何か見たのですか?」

 放浪者は息を荒げ、部屋を見渡した。まるで自分がそこにいるのかを思い出そうとするかのように。

 知らない部屋で目覚めるのは決して初めてではない。

 だが香醍の緩やかな呻き声は、まだ自分が神河にいると思い出させてくれた。ここは我が家、けれど不自然な何かが感じられた。

 放浪者はローブを掴みながら立ち上がった。「魁渡さんとタミヨウさんが……危機に瀕しています」

 怖れに、英子が目を見開いた。彼女については魁渡ほどよく知っているわけではなかったが、彼が姉について語っていた話は今も覚えていた。姉弟ふたりの絆は強い――神とそれに繋がる者以上に強いかもしれない。

 研究所内の様子を垣間見た後では、英子が怖れるのはもっともだと感じた。

 霧の先で、軽脚が歩みを止めた。「危機とはどのような?」

「テゼレットとジン=ギタクシアスに待ち伏せされたのです」 その記憶に、放浪者は震えた。あまりに深く現実的、まるで自分自身がそこに居合わせたかのように。「助けなければ、決して脱出はできないでしょう」

 軽脚は七本の尾を扇のように広げた。「永岩城は陛下を必要としております。統治者なき期間はあまりに長く、皇宮には権力闘争が、神河には不安が蔓延しております。今にも迫りつつある浅利の蜂起軍は言うまでもありません」

 放浪者は軽脚の凝視を受け止めた。「皆さんは私が不在の十年間を耐えて下さいました。もう十分間など何でもないはずです」

 軽脚は反論しようと口を開いた――放浪者にここに残るように――だがそこに割って入ったのは英子だった。

「陛下が不在の間、皇宮を守ります」 わずかに頭を下げ、英子は言った。そして顔を上げた時、その目には真新しい涙が揺れていた。「どうか、弟を連れて帰ってきて下さい」 聞き取れないほどの声で、彼女はそう付け加えた。

 英子にとって、皇宮への忠誠は何にも勝る。けれどそのために弟の命を賭けることはできなかった。軽脚が見つめていようとそれは変わらない。

 それは放浪者と英子が共に持つものだった。

 放浪者は頷いた。そして遠くの香醍へと顔を向け、招くように片手を挙げた。

『お願いがあります』 霧の中へ、放浪者は思考を送った。『力を貸して頂きたいのです』

 軽快な鳴き声と共に香醍が現れ、頭を低く下ろした。『私に何を望む、皇よ?』 香醍の声は、様々な音が混じった合唱のように響く。だが放浪者の脳内に、その言葉は無人の部屋で鳴らされた鐘のように明るくはっきりと届いた。

『私は自分の灯を制御できません。ですが貴女の助力があれば、私たちの繋がりがあれば、あの研究所へプレインズウォークできるほどには安定させられます』

『それは危険であろう。あの怪物は現実チップを、そして其方を手に入れるためには手段を問わぬ』

『あの怪物を怖れているのではありません。それが影の中から私を傷つけようとするならば、むしろ真正面から対峙します』

 背中に手を伸ばし、放浪者は剣を抜くとその柄を両手で強く握りしめた。そして頭上の霧の中、ぼんやりと揺れながら声を響かせる香醍へと頷いた。

 エネルギーが放浪者の胸に満ちた。気まぐれな灯の呼び声を感じた――だが香醍の暖かさもそこにあって、彼女を落ち着かせてくれた。我が家の方角を指し示すコンパスのように、居場所を定めてくれた。

 我が家とはどこなのか、今や心から確信はできなかった。帰るべき場所とは、実際の場所である必要などないのかもしれない。

 帰るべき場所とは、大切な人々のことなのかもしれない。大切に思ってくれる人々のことなのかもしれない。

 そして魁渡は決して諦めなかった。多元宇宙を旅して自分を探し、連れ帰るために望んで怪物に対峙した。

 そんな彼を失いたくはない。

 軽脚と英子、そして香醍を社に残し、放浪者は永岩城を離れたかと思うと一閃の光とともにタメシの研究所に飛び込んだ。自らの到着を告げはしなかった。魁渡の姿を探しはしなかた、そして輝く金属の怪物の目が向けられた時、躊躇もしなかった。

 放浪者は天空から剣を振り下ろすように、ジン=ギタクシアスの首から胸までを裂いた。

 傷は深く、ジン=ギタクシアスの喉から発せられた金属の悲鳴は彼女の耳を貫いた。放浪者は魁渡とタミヨウへと急いだ。ふたりは手術台に、まさにこれから実験体にされるかのように拘束されていた。彼女は拘束具を一瞥すると。それも同様に切り裂いた。

アート:Cristi Balanescu

 片腕で魁渡を引っ張り起こすと、意識を取り戻すようにその両目が瞬いた。

「な――何してるんですか?」 彼は朦朧としながら、その指はもはやそこにはない武器を探した。「まだです――俺はやれる」

 それはまさに、彼女が覚えている魁渡そのものだった――決して負けを認めない男の子。

「わかりませんか、私は貴方の命を救ったのですよ。それも私が覚えているかぎり、一日に二度も」 その両目が冗談めかして輝いた。「私の気を惹きたいなら、他の方法があるでしょうに」

 複数の足音が近づくのが聞こえた。相手も備えていたということ。

 だがそれは彼女も同じだった。

 神河の皇はベルトから短剣を抜いて魁渡に渡し、笑みを向けた。「離れている間に訓練を怠っていましたね? ですがついて来て下さいよ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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