MAGIC STORY

機械兵団の進軍

EPISODE 17

サイドストーリー・ニューカペナ編 墜ちる高街

Elise Kova

2023年3月27日

 

 天井から花々がシャンデリアのように吊るされ、魅惑的な香りを部屋に漂わせている。磨き上げられたばかりの彫像が柔らかな光を受けて輝き、音楽は人々の足取りを軽やかに……けれどこの人の美しさほどに輝くものは何もない。

 貴顕廊の人々は――友も家族も――誰もが虜になっていた。愛情のこもった囁きと静かで幸せな涙に弦の響きが重なった。自分たちが大切にしてきたすべてに囲まれながらも、エラントが見ていたのはパルネスだけだった。

 エラントに霊感をくれる存在。その吐息と筆遣いは常に先を行く。

 滑るようにダンスフロアを舞う中、妻が見せてくれる笑顔。それは一番眩しいスポットライトよりも輝いていた。エラントがインクの中に捕えてきたどんなものよりも完璧だった。そしてターンをするとエラントはパルネスに身体を寄せ、互いの鼻がかすめた。くすくす笑いが漏れ出た。世界はこんなにも完璧。

 そして、ニューカペナをひとつの影が覆った。

 グラスのワインが床にこぼれ、その赤い液体が不自然な形に広がった――ほぼ真円とその中心を貫く一本の直線。そのシンボルは以前にも、博物館の展示品の中に何度も見たことがあった。けれど今ここで何を? エラントはつまずき、そして再びターンをすると、友や家族の愛情あふれる瞳が変化していた。

 黒い油が彼らの頬に細く流れ、身体には赤い腱が侵入植物のつるのように這っていた。伸ばし、掴む。白色の尖った金属板が繋ぎ合わされる。人々の表情もまた変化した――渇望する目の下で、幸せすぎる笑みが大きく広げられた。『加わるのだ』言葉なく彼らは促した。『私たちとひとつに』祝宴はもはやエラントとパルネスのためのものではなかった。ただひとつの存在と凝集しつつある全員の歪んだ団結に捧げられていた。

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アート:Aurore Folny

 父、アンヘロですら変質してしまっていた。

 エラントはよろめき、パルネスを引き寄せた。

「あなた?」妻は気付いていなかった。自分が見ているものが見えていないのだろうか? 花の香りに取って代わった不吉な瘴気を感じていないのだろうか? 「どうしましたの?」

「行かなければ」

「行くってどちらへ?」パルネスは足取りを緩め、掌でエラントの頬に触れた。「私たちの結束のための日でしょう。どうして退出しなければいけないのです?」

「見えないの――」エラントの言葉は、死と戦争を告げる遠くの低い轟きに遮られた。空に真紅の筋が走り、輝きはじめた星々を引き裂いた。他の次元から放たれた金属をまとう枝がその開口部から突き刺され、ニューカペナの基礎へと沈んだ。警告もなしに、貴顕廊の博物館の屋根が鮮やかに剥ぎ取られた――興奮しすぎた子供が贈り物の包み紙を破り捨てるように。崩れ、歪みつつあるニューカペナの上にその怪物が不気味に現れ、エラントは恐怖とともに見上げた。アトラクサは力強く、堂々としていた。大きく広げた翼はニューカペナがかつて誇った障壁の両脇に達するのではと思えた。

 鉤爪の手を伸ばし、アトラクサはゆっくりと前進した。パルネスが悲鳴をあげた。エラントは身をよじって妻を守り、ふたりで逃げ出し、そして――

 とある放棄された駅、その薄汚れた隅からエラントは飛び出した。彼女とパルネスが傷を治療し、短時間の休息をとるための隠れ場所。眠りに落ちるつもりはなく、けれどファイレクシア人に気付かれないよう気を張り詰めてきたふたりは疲労困憊だった。生きて脱出するために血を流した。

 パルネスの悲鳴が今も耳に響いていた。そして不幸にも、そのすべてが悪夢から来たものではなかった。

 追跡者たちが追いついてきたのだ。

 ファイレクシアの改宗獣が体当たりをして壁を破壊し、ふたりの束の間の休息は砕け散った。その大きさは、この破壊された駅に少し前まで乗客を運んでいた小さな路面電車ほど。棘の生えた背中に塵と瓦礫が積もり、尾の先端にある鋭い注入器がもやの中に不吉な影を投げかけた。大口に並ぶ剃刀のように鋭い歯から、黒くぎらつく油が滴り落ちた。

 ここしばらく、エラントは街じゅうで工作を行っていた……だが常に安全かつ秘匿されていることが明白な通路だけを用いていた。ニューカペナへの潜入者を間近で見るのは初めてだった。貴顕廊の没落と、それに続くすべての野蛮行為の原因となった怪物たち。お父様も――エラントは息苦しさをおぼえ、震えおののいた。今の彼女に考えられるのは、鞄の中で小さく音を立てる装薬のひとつをその大口の中に押し込むことだけだった。失ったものに対する復讐にはならないかもしれない、けれどその始まりにはなるだろう。

 パルネスがエラントの手を握りしめ、物騒な空想からエラントを退散させた。「背中に捕らわれた人たちを助けなければ!」

「けれどあなた……」

「大丈夫です」パルネスはエラントを遮り、だがその片手は血に汚れた腿を押さえていた。最初の逃走の際、よじれた柵に引っかかってしまったのだ。「あの怪物に捕縛されたなら、私はもっとずっと悲惨な姿になってしまいます」

「そうね」エラントは旋回し、パルネスを支えた。ふたりが全力で駆け出すと、メッツィオにて古い土建組の隠し場所から拝借した爆発物が詰まった重い鞄がふたつ、彼女の腰で跳ねた。

 エラントとパルネスが逃げたのでその怪物は追いかけた。ふたりは路面電車の駅裏の崩れた壁を跳ね、メッツィオの遥か上空を通る車道に出た。そこには日に日に伸びる侵略樹の枝が絡みついていた。

 ニューカペナはかつての栄光の抜け殻と化していた。高街の豪奢な建築は今や汚れてかすんでいた。メッツィオの鮮やかな色彩と興奮に満ちた生活は、くすんだ灰色の戦禍に取って代わられてしまった。

 ファイレクシア人が戻ってきてからというもの、街の防衛隊は負け戦を続けていた。彼らは故郷にいながらも難民と化し、混乱が支配する中で各所を点々としていた。崩壊した、あるいは燃え尽きた建物から煙が上がらない時間は 一時間もなかった。いや増す無益さとともにニューカペナの市民が反撃する魔法の閃光が弾けない夜は一時間もなかった。街角の死者や死にゆく者を悼む時間すらなかった。

 改宗獣がふたりの背後の瓦礫と突き破り、線路を揺らした。パルネスはふらついた。負傷した脚はほとんど力を失っていた。エラントはパルネスをしっかりと支えた。妻の顔色は危険なほど青白い。改宗獣がパルネスの血の跡を辿ってきたことは間違いなかった。

「線路の上は走れる?」パルネスはすぐ隣にいる、けれどエラントは叫んだ。金属の線路を獣の鉤爪が引っかく騒音は、彼女の言葉をほとんどかき消していた。

「行きましょう!」

 パルネスの手をひいて線路の曲線を駆ける中、ファイレクシアの獣の足取りが起こす振動がエラントの靴底にまで伝わってきた。前方にはまた別の放棄された路面電車の駅があり、渦巻きと鋭い刃の模様が塗料で描かれたアーチの下へと線路は消えていた。その模様の中には路上芸術家の落書きが隠されていた――その起源を忘れられて久しい記号、だが街角を我が家とする者たちにはよく知られているもの。

『危険』、記号はそう伝えていた。エラントは走る方向を変え、近くの建物の張り出しへと跳んだ。そして旋回し、妻へと両手を伸ばした。無事な片方の脚に頼ってパルネスが跳ぶ時、エラントは息が止まるような思いだった。エラントはパルネスを受け止めて引き寄せ、妻が息と足取りを整えるのを助けた。そしてふたりは建物に沿って描かれた安全を意味する緑色の目印を辿った。

 改宗獣は跳ぼうとしたが、その張り出しは狭すぎた。獣は建物に爪を立てて手がかりを確保しようとし、その過程で鋼鉄とセメントの塊を引き裂いた。だがしっかりと掴むことはできず、獣は下の通りへと転がり落ちた。重い墜落音ととともに塵が舞い上がった。

 あんな落下程度でファイレクシア人が死んでくれたなら――エラントは速度を緩めずにいた。改宗獣は呆然としており、この機会を利用して自分たちは逃げねばならない。

 エラントはパルネスを一瞥し、そして妻の腿へと視線を落とした。パルネスは負傷した脚をかばいながら進み、だが問題なくついて来ていた。エラントは心配を隠そうとした。「素敵な路上芸術家みたいよ、執行人の縄張りに落書きをしたばかりの」

「お褒めにあずかり光栄ですわ、私はアトリエでの仕事の方が好みですの!」パルネスは息を切らした。

 エラントの作品は建物の側面にスプレーで描かれる方がふさわしい。改宗獣から逃走するのは、斡旋屋の執行人から逃走するのとそう大差ない。少なくとも、冷静さと足取りを保ち続けることが重要であるというのは共通していた。

 角を曲がり、三つのバルコニーを渡り、非常階段を下りて、ふたりは低い路地で速度を落とした――脇腹が痛み、息が苦しかった。パルネスは壁に背を預けて両膝を押さえた。エラントは路上芸術家の落書きが他にないかと探したが、付近には何もなかった。この経路を示してくれた者が誰なのかはわからないが、ふたりが追ってきた落書きはここで途切れていた。

「それで持ちこたえているなんて」エラントはそっと言った。ほんの一時間ほど前にパルネスの腿を縛った間に合わせの包帯は血まみれになっていた。「また傷が開いているじゃない」

「動き続けなければ」

「少しだけ……」エラントは膝をつき、自らのもう一方の袖を引き裂いた。

 パルネスはエラントの肩に手を置いた。「集合場所はそう遠くはありません」

「まだ遠いわ」エラントは袖を裂いた布を妻の腿に縛り付け、喉の奥が痛むような失望感とともに結び終えた。パルネスを守ると彼女は誓った、けれど真っ先に危険へと突っ込んで行くことしかできていない。「あるいは、あなただけでも隠れ場所を見つけてそこに……」

「あんな怪物がうろついていますのに?」パルネスは首をかしげた。

「そうね」エラントは立ち上がって路地を下りはじめ、だが低いうなり声にふたりは歩みを止めた。すぐ前方、近くの建物の上に一体の改宗獣が座し、不吉に影を落としていた。

 あれはどうやって自分たちに追いついたのだろう?

 背後で咆哮があがった。疲弊し足を引きずっているが、それでも危険なあの一体目の改宗獣が路地を忍び寄り、その背の棘が建物にこすれた。獣は棘を波打たせ、震わせた。自分たちを背中の檻に閉じ込め、ファイレクシアの手下の一体へと改宗させるのだ。

「エラント」パルネスの声色は怖気づくほど穏やかだった。「どうします?」だがそう尋ねずとも彼女は答えをわかっていた。

 辺りに窓はない。破って突入できるような扉もない。一番近い非常階段は自力ではとうてい届かない場所にある。けれどチャンスが一度だけある……ひとりだけに。

「あそこまであなたを投げてみるわ」エラントは非常階段を指さした。「そして私が敵を引きつける」

「いけません」

「あなたを奪われたくはないの」

「この脚で逃げ切れることはできない、それは私たちふたりともわかっています。そしてあなたが私を置いていくつもりはないということも」パルネスはエラントが腰に下げた鞄の片方に手を伸ばし、小さな円盤型の金属に詰め込まれた爆薬をひとつエラントの手に置いた。パルネスの落ち着きはエラントの心配を凌駕した。「改宗はされません、私たちふたりとも」

「居住区に近すぎるわ」エラントは小さな爆薬を見つめた。「これひとつでも、小さな建物を吹き飛ばせるとヘンジーが」

 改宗獣は前進を続けた。ゆっくりと、目的をもって。必然の結果をめざして。

「私たち、約束を交わしましたでしょう」パルネスが穏やかに言った。「あれらの一員になるよりは、何でもすると」

 エラントは妻と目を合わせた。胃が引き締まり、一瞬の吐き気がエラントを襲った。パルネスは何故そんなにも落ち着ているのだろう? 自分が何を提案しているかをわかっているのだ。

「他の方法があるのなら、喜んで聞きますわよ」パルネスは負けじと笑みを浮かべた。ふたりとも、答えは知っていた。

 エラントはパルネスの手首を掴んで彼女を引き寄せ、短くも熱烈な口付けをした。「できるだけ遠くへ投げて」エラントは囁いた。恐怖と悲しみが言葉を詰まらせていないのは驚きだった。「世界中のインクが乾くまで、あなたを愛します」

「世界中のカンバスが塗り潰されるまで、あなたを愛します」爆薬の中央、小さな円形のへこみにパルネスは親指をあてた。

 エラントはその動作を真似た。パルネスひとりに実行させることはできない。何があろうとも、自分たちは最期の瞬間まで一緒なのだから。

 ふたりは投擲し、この数日で最も大きな爆発音がニューカペナを揺るがした。


『……信じて……』

『……あの人たちは……駄目、できません……』

『……走って!』

「掴まって……」

 掴まって。他のすべてが無に帰した中、その言葉だけはエラントの内に残っていた。

 感覚がゆっくりと戻ってくる。指先を動かす。肋骨の鈍い痛みがすっと消え、よく知る羊毛の毛布の重みを感じた。ヘンジーが工作で使う鋼の削りくずや機械油の匂い。カミーズの香水の香りも宙に残っていた。

 エラントはゆっくりと目をあけた。部屋の様子に焦点が定まるまで数秒を要した。彼女の塗料とスプレー缶が壁沿いに並んでいた。照明はいつもと同じようにちらついていた――ファイレクシア人が街を支配してからというもの、電力は不安定だった。結婚式の前に父がくれたカフスの砕けた金属片が、彼女の顔をばらばらに映し出していた。

 エラントはきょとんとした。とても奇妙な夢をみていた……自分の結婚式の。アトラクサについて? 抵抗軍の任務? 改宗獣? 彼女は片手で目をこすろうとして動きを止めた。

 パルネス。

 隣、妻がいるべき場所は空白だった。最悪の悪夢の底から、狼狽と恐怖がきつく絡み合う音が引きずり出された。

 毛布を放り投げてエラントは立ち上がった。扉の先には廊下が伸びており、沢山の小さな部屋に繋がっている。意外な面々で構成される彼女たちが、トレザの地下深くに保有している隠れ家だ。共用部屋からかすかな会話が聴こえたが、心臓が高鳴り、耳の血管が脈打つ音に遮られてほとんど聞こえなかった。

「目が覚めたか」背後から聞き慣れない声がした。その言葉は少々張りつめていたが、冷酷ではなかった。

 抵抗軍の中で、会ったことのない人物に出くわすのは決して珍しいことではない。だが肉体をもつ天使を見たのは初めてだった。見たことがあるのは、ニューカペナの歴史におけるよりよい時代の苦々しい記念碑として立つ彼女たちの彫像だけ。ニューカペナの遠い昔の守り人たちがついに戻ってきたのだ。けれどおそらく、あまりにも小さく、あまりにも遅すぎた。その女性の背からは虹色をした二枚の翼が伸び、肩を優雅に包み込んでいた。かすかな真珠色の輝きが彼女の輪郭を縁取っていた。

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アート:Aaron J. Riley

「ええ。ところで、お尋ねしたいのですが……」パルネスへの心配を優先し、エラントは瞬時の切望と好奇心を抑え込んだ。その色と光の比類なき相互作用を自分の絵にとらえてみたかった。

「パルネス殿と会いたいのか?」

 心臓がよろめくのをエラントは感じた。「パルネスはどちらに?」

「こちらだ」天使は緊急治療室として用いている部屋にエラントを案内した。そしてその通り、三つある寝台のうちひとつにパルネスが寝かされていた。

 エラントは駆け寄って膝をつき、パルネスの手をとると安堵の溜息とともに妻の拳に唇を触れた。指の震えが唇に感じられ、エラントは涙を流した。パルネスは生きている。だがエラントの肩に手が置かれた。

「休ませてやるほうがいい」天使が小声で言った。

 その通り、だがエラントは身体を動かせなかった。名残惜しく、彼女は最愛の人の輝かしい姿をもう数分間目に焼き付けた。そしてようやく立ち上がり、天使を追いかけて別の部屋へ向かった。

「その、どうして……」天使がそっと扉を閉めると、エラントは穏やかに尋ねた。その一言から多くの疑問が湧き出た。

「君たちは会合の場所からそう遠くない所にいた。爆発音が聞こえた時、助けが必要だとわかった」天使は率直に告げた。「君たちは重傷を負っていた。幸運にも私が同行しており、ただちに傷を治療することができた。とはいえそのために私は自分の……光素、と君たちは言ったか。その大半を必要としたが」

「光素は本当に驚嘆すべきものです」エラントは柔らかに称賛を述べた。基地で光素を用いて人々を治癒する治療師たちを見たことはあったが、ひとりの天使が――その物質でできた存在にどれほどのことができるのかは想像するしかなかった。

「光素は我々が持つ最も強力な魔法のひとつだ。かつて肉体を失った同類ですら、それを取り戻せるほどに強い」

「ファイレクシア化も治癒できるのですか?」夢のせいかもしれない、けれど父や貴顕廊の友人たちが変質した姿は今もエラントの思考の中心から離れなかった。ファイレクシアの襲撃以前に使われていたように、ただ力を増幅させる以上のものが光素にはある。戦闘において光素を用いる新たな方法をニューカペナは毎日発見しているようにも思えた。

「残念だが、それはできない」天使は唇を歪めた。「光素は改宗に対する予防として機能するが、治癒ではない」

「それでも、とても役立ちます」エラントは気遣うように言い、個人的な失望を隠そうと努めた。治癒は期待のしすぎといえた。

「ああ。そして光素は大きな犠牲を払って生まれたものだ。この戦いのためにもっと沢山あれば良かったのだが」天使には天使自身の悲しみがあるようにその言葉は響いた。

 廊下の先、共用部屋に向かいながらエラントは話題を変えて尋ねた。「天使さんはどのようにしてここに……」

「デーラだ」その天使がエラントの言葉を締めくくった。「私の名はデーラという」

「デーラさんは、どのようにしてここに来られたのですか?」

「俺のおかげさ」エラントたちが共用部屋に入ると、ペリーが誇らしく言った。

「天使を引き入れたの、あなたが?」ペリーとカミーズが座す卓へ向かいながら、エラントは片眉を上げた。

「斡旋屋は光素を溜め込んでいた。それでできた者と俺たちが交渉するのは自然なことだ」ペリーは自分の片眼鏡に息を吹きかけ、潔癖そうに拭った。その片眼鏡は彼の顔に対して笑えるほどに小さい、エラントはいつもそう思っていた。だが「粉砕者」の二つ名を持つ相手の好みに難色を示す気はなかった。

「我々は溜め込まれるような存在ではない」デーラは小声で呟いた。

「その通りよ」エラントがそれを受け継いだ。「天使は斡旋屋を憎んでいるわ、私たちと同じほどに」

「私はそうは言っていない……」デーラは半ば歩き、半ば滑空して卓へ向かった。「とはいえ個人的な嫌悪など今は後回しだ。アトラクサが求めるものを手に入れてニューカペナを完全に改宗させたなら、口論などできないのだから」

「一家は失われたのです。口論すべきことも」エラントはいつも自分が使う椅子にどさりと座り込んだ。

「あなたが貴顕廊を失ったからって、残る一家が失われたわけじゃない」カミーズが指の間の水かきを伸ばしながら言った。

「私は貴顕廊じゃない、その中で育ったというだけ」エラントの声が強張った。自分の一言一言が、かつて愛おしかった記憶を掘り起こした。今や抱き続けるには苦しすぎるものになってしまい、もみ消そうとした記憶を。

「短い間とはいえ、お前の父親は一家の長だった。だからお前もその一員だったと言えるだろう」ペリーは片眼鏡を顔に戻した。

「一家の名なんて今はもう問題にならないのよ」一家の話をそこで終わらせようと、エラントはそっけなく言った。

「君にとってはそうだろうけどね」工作を終えて沢山の金の指輪をはめ直しながら、ヘンジーが工房から出てきた。「土建組はまだ戦い続けてるんだよ。私らをノックアウトするには、異次元からの侵略じゃあ力不足だろうね」

「同じく、常夜会も戦い続けている」カミーズが付け加えた。

「斡旋屋もだ」ペリーは常に負けず嫌いだった。

「けれどそれが何をしてくれているというの?」どれほど休息を取ろうとも、あるいは光素にも癒せないような疲労をエラントは骨身に感じた。「日に日に状況は悪化するばかりでしょう」

「君も空を見てきただろう、街を。あのすんばらしいファイレクシアの木の枝がぐちゃぐちゃに絡み合った様子を。あんなのは即座にどうにかできるものじゃないだろ、お人形さん?」ヘンジーは座り、角の間の帽子を直した。「一家は全力で抵抗活動を率いてるんだよ」

「路地裏の喧嘩に路上での銃撃戦。そして貴方が必要とする秘密の入り口を探し出す『基本計画』」エラントはそれを探すために何度も街へ出ていた。

「そうとも、そして遂に見つけてのけた」ヘンジーが誇らしく宣言し、エラントは黙った。ようやく何かがうまくいったのだろうか? 「君らが爆薬とかを入手しに行ってた間に、土建組が突破口を開いたのさ。街には一本の芯がある――中心に一本の梁があって、他の全部がそれに支えられて構築されてる……みたいなもんだ。ようやくそこに至る道がわかった。そして今、高街をそっくりそのまま倒すためにはどこを叩けばいいかもわかっている」

 出来過ぎているほどいい知らせだった。「それなら、何をためらっているの?」

「辛抱だよ、お人形さん」ヘンジーが励ますように言った。

「辛抱? 辛抱ですって?」エラントは非難するようにヘンジーを指さした。「辛抱ならずっとしてきたわ。一家が立案したこの作戦のため、たゆまず働いてきた。そしてどうなったっていうの? 喧嘩、窃盗――ニューカペナで一家が繰り広げることは変わらない。そして時間が過ぎるにつれ、街角はぎらつく油で黒く染まっていく」

「聞きな。まずジアトラ様が全部確認する。次に君を偵察に送り込む。そして……」

「私を? また私を外へ送り出すの?」

「エラント――」

 宥めるようなカミーズの声色はよく知っていた。「そんな、やめて……私はもう」エラントは立ち上がった。「任務に送られるたび、その内容はますます悲惨になるばかり。今日なんて、死にかけるところだったのよ。パルネスも私も芸術家であって喧嘩屋ではないのだから」

「あなたが街の中を動き回る様子を見てきたけれど、それには異を唱えよう」カミーズが得意そうに笑い、エラントはその称賛を無視した。

「お前がいなきゃできないんだよ」ペリーが腕を組んで言った。「率直に尋ねるが、じゃあ誰が行って作業するんだ? 俺か?」ペリーは鼻息を鳴らした。「俺がこのでか足で細いレールの上を歩くところが見たいのか?」

「それに私は落書きがわからないしね」ヘンジーが付け加えた。

「カミーズさんは素早いし、路上芸術家の落書きも読めるでしょう」エラントはその女性を身振りで示した。

「私は基本的なところを知っているだけだよ。観念しな、エラント。あなたは街中を駆け回るのがすごく巧みだ。普通の道が壊されたり塞がれたり監視されてる今はなおさらだ。目的地に辿り着いて任務を遂行できるかどうかってことなら、私はあなたには敵わない」カミーズはお世辞の厚塗りを続けた。

「それなら学んで」エラントは肩をすくめた。「必要なものは提供するから。私やパルネスの命をこれ以上危険にさらすつもりはないの」

「私の人生は奥様に決めて頂くことではありませんわ、あなた」その女性当人が穏やかに、けれど断固として言った。パルネスは部屋の入口に立っていた。そこには普段通りの力強さがあったが、片脚を少しだけかばうように引きずって入ってきた。

「けれど……」エラントは言葉をのんだ。パルネスの言う通り。彼女の運命を決めるのは自分ではない。「私たちのことが心配なの。それが全てよ」

「私もいつも心配しています。私たち全員を」パルネスはエラントの指を握り締めた。「ですが、だからこそ私たちは戦い続けねばならないのです。あなたもそう信じている通りに」

 エラントは重苦しい溜息をついた。その通り、信じていた。だからこそ、抵抗軍が最初に接触してきた時に共に働くと同意したのだ。だからこそ皆に落書きの読み方と、何もないように見える建物の間に安全な道を見つける方法を教えたのだ。

「つまり……行ってくれるってこと?」長く張りつめた緊張の後、ヘンジーが尋ねた。エラントが目を合わせると、彼は肩をすくめた。君は他に何ができる? そう尋ねているのだ。他にできることは何もない。他に行くべき場所はない。

「わかったわ、私が行きましょう。ニューカペナを守るために一家が頼れないというのであれば、誰かがそれをしなければ」その宣言を聞いたペリーが憤慨する様子が視界の隅に見えた。だが彼は怒ることはなく、反論もしなかった。各一家がどのようにニューカペナの存続に尽くしてきたか、どのように尽くしてこなかったかについては全員が意見を異にする。その話はできる限り避けるのが最善だった。「さっきは声を荒げてごめんなさい」

「前の任務から一日半しか経ってないんだ」椅子に座したまま、カミーズが少し力を抜いた。「気持ちは理解できるよ。本当」

「それで、どうすればいいの?」エラントは話を長引かせる気はなかった。

「最終ステージ・流れ星大作戦だ」謎めいた雰囲気と威厳を込め、ヘンジーが言った。「アトラクサの頭の上に高街を落とす」

「けれど、どうやってアトラクサをその場所に行かせるの?」ファイレクシア人の指揮官はこれまで彼女たちなと気にもかけず、それで満足していた。「白昼堂々と歩いてアトラクサを罵倒して、中指を立てたところでアトラクサは歯牙にもかけないでしょうね。私たちを脅威とは見ていないのだから」

「そのためにでっかいことをやったんだよ。俺はファルコに話をつけてある。土建組も集めて、ファルコの計画は第二段階に入ってる」ペリーは自信とともにそう言った。

「あの人がファイレクシアに対して沢山の問題を引き起こしてきたとしても不思議じゃないな」カミーズが呟いた。「今やっていることを続けるなら、あるいはもっと調子に乗るなら……」これまで、アトラクサの目元を引きつらせることができたのはファルコだけだった。

「なら、あのゴキブリみたいな天使さま御自ら、それを止めるためにニドーの聖域へ行って下さるかもな」ペリーがそう締めた。

「アトラクサがいてほしいと私たちが願う場所にね」ヘンジーが言った。

「作戦を進めるなら、私もファルコ殿に力を貸せるかもしれない。ひとり、あるいはふたりの天使はアトラクサにとってはそそる存在だろう」デーラが付け加えた。

「天使といえば。斡旋屋は光素を幾らか蓄えてある」その告白のために身構える必要があったかのように、ペリーは机に両手を置いた。「それも出せるだろう」

「そんなことを隠してたのか?」ヘンジーは動揺に尾をひきつらせた。

「第二段階のために取っておいたんだよ」ペリーがそう主張した。

「いいでしょう。私にも少し分けて。必要になるでしょうし」エラントが宣言した。ペリーが懐疑的な視線を向けてくると、彼女は断固たる態度で続けた。「私を窮地の只中に放り込むのであれば、適切な弾薬をくれるのが筋というものよ。私がスクラップになってしまったなら起爆はできないのだから」ペリーは身体の力を抜いて頷き、同意を示した。「それとアトラクサが所定の位置についたら、爆破すべき時だと知らせてくれる合図が必要」

「それは私が力になれるだろう」デーラが言った。

「わかりました」これは危険で望みの薄い作戦であり、少しの光素があったとしてもそれは変わりそうにない。けれどそれは多くの意味で自分たちの最善の策であり、ニューカペナ最後の希望のようにも思えた。ヘンジーの言う通り……今ここで手を引くことはできない。

「じゃあ、私はジアトラ様へ報告に行ってくるよ。チャンスは一度しかない。だから万全を期すべきだ」ヘンジーは身をのり出し、ピンストライプをまとう肘を卓に置いた。

「力を尽くします」全員へと誓うようにパルネスが言った。「ニューカペナの美を奪わせはしません。私たち全員がそのために力を合わせているのですから」


 全員の理解を一致させるまでに数日を要した。ニューカペナには決して変わらないものもある。そしてそのひとつは、複数の一家に上手く協調するよう説得することの難しさだ――共通の敵があってもそうだった。

 それでもようやく、最終的な詳細を解決した。作戦は遂に実行に移されていた。ファルコと斡旋屋たちが配置についた。他の一家の者たちも彼のもとに結集した。ある者は目に見えるように、多くの者は隠れて。土建組は早くに先行し、倒れるのは高街だけであると確かに確認するとともに抵抗軍のために安全な区域を見極めた。デーラは天使たちを呼び集めた。エラントは二本の経路を特定した――ひとつは自分のために、もうひとつはパルネスのために。

 パルネスは高街に残る市民を集める一団に加わり、すべてが崩れ落ちる前に安全地帯へ連れて行こうとしていた。屋根の上を伝い、クレーンの首を下り、鉄骨を横切り、侵略樹の巨大な枝の間を跳び越えながら、エラントは彼女たちの姿を遥か下に見ることができた。パルネスは一緒にいたいと望んだが、独りの方が速いとエラントは固執した。それだけではなく、落書きを描くエラントの腕前は誰よりも優れていると、そして市民を安全へと導く成功率が最も高いとは妻も知っていた。

 幸運が味方してくれるなら、すべてが終わった後に安全地帯で皆と再会できるだろう。

 土建組の爆薬が入った鞄を腰に鳴らし、ヘンジーが描いた地図を脳内で回転させ、エラントはニューカペナのありふれた風景に隠された道を進んでいった。だが下方で改宗獣があげる咆哮が彼女の骨を震わせ、仕事に集中し続けるのは難しかった。何かがまずいことになっている……避難する市民をファイレクシア人が追いかけているのだ。その中にはパルネスもいる。

 エラントは腰に取り付けた瓶のひとつに手を伸ばした。それらは彼女が蓄えていた絵具と、ペリーがくれた光素との混合物で満たされている。エラントは助走をつけて侵略樹の枝から跳び、落下しながら瓶をふたつ開けた。それらは色彩と力を弾けさせ、眼下の獣の攻撃をそらした。

 彼女はとあるバルコニーに着地し、転がり、大股の二歩で速度を上げると崩れかけた建物の端から跳んだ。改宗獣は彼女へと顔を上げて吼えた。エラントはにやりと笑い、その口の中へと三本目の瓶を放り投げた。

 光素入りの絵具が辺りに散った。獣たちは苦痛の吠え声をあげて散り散りになった。その獣のまっさらな表面に色を塗るという行為はとても満たされるものだと彼女は初めて気付いた。この戦いは私の傑作になるだろう――ニューカペナに残す偉大な証になるだろう。

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アート:Olivier Bernard

 怪物の一体が彼女の方角へと進路を変えた。エラントは柵の上に着地してその上を駆けた。パルネスと市民には十分な時間を稼げた――そう願った。そして今は自分の心配をしなければならない。獣はエラントとの距離を縮めるために、彼女と同じく跳んだ。鋼鉄から煉瓦へ、侵略樹の枝へ。そして彼女の行く手をふさぐと、まるで満足したようなうなり声を発した。

「瓶があれだけしかないって本気で思ってる?」エラントは革のケースに入ったスプレーを取り出した。それは古い型で上部は不格好、ハンドルの前には絵の具を入れるための大きな球体がついていた。だがその図体のおかげで、ヘンジーはエラントの要求に合わせて改造を行うことができたのだ。「見てごらんなさい」

 絵の具が霧状に広がり、注入された光素が光り輝く虹色をうねらせた。それは改宗獣へと降り注ぎ、奇怪な赤と白から芸術家のパレットよりも鮮やかな色彩の万華鏡へと変化させた。

 獣は吼え、のけぞり、眼下の通りへと落ちていった。そして血と油の飛沫とともに、エラントが積み上げてきた怪物の死骸の山に加わった。光素が跳ね、暑い日の陽炎が建物の間にうねるように大気に魔法が反響した。

 エネルギーのうねりを受け、彼女は更なる速度で駆けた。あのような獣に対峙して、数日前であったなら恐怖に怯えていただろう。自分もパルネスも、なすすべもなく殺されていただろう。だが今、彼女は天使の力を手にしており、怪物たちはそれを怖れていた。

 エラントは前方へと駆けた。新たな自信をもって路地裏をさらに下り、点検用通路へと入った。皆の言う通りなのかもしれない――勝機はある。彼女がやるべきは、ヘンジーに指示された場所に爆薬を仕掛けて立ち去るだけ。簡単だった。

 ニューカペナの心臓奥深くに、一本の芯があった――町全体の幅に及ぶほどの基礎構造であり、初期の土建組が作り上げたもの。まるで彼らが家とした大木の幹のようだった。ありふれた光景の中、それは鉄骨と梁の迷路に隠されていた。最も勇敢な都市探検家によって探索された、忘れられた入り口を通ってのみ辿り着くことができる。心から愛する街、その金属の心臓とも言えるものに近づきながら、エラントは歩みを緩めた。

 エラントは鞄を開き、ヘンジーに指示された箇所に爆薬を設置していった。あのデビルが言っていた――彼女をこの任務に選んだのは一番すばしこく、頭の回転が一番速く、この場所に確実に到達できる者だからと。だがエラントはまた、自分が土建組ではないという事実も理由のひとつなのではと訝しんでいた。自分は彼らのようにこの構造物との関係性を持っていない。土建組にとって、それを壊すのは肢を失うようなものなのかもしれないのだ。

 爆薬を正しく設置し、エラントは撤退しようとした。だがひとつの人影が彼女の行く手を遮った。その馴染みある、それでいて異質な瞳を彼女は見つめた。エラントは瞬きをし、それは生きた悪夢ではないと確かめた。現実だった――父が彼女の前に立っていた。

 だがそれは彼女が知る男ではなかった。首筋には赤い腱が這っていた。それは身体の一部を鋭く不自然な角度で置き換えた青白い金属板の下に膨れていた。肉体の一部は中空になっていた――かつて心臓があった場所。落書きで半ば汚された壁画のように思えた。かつての姿を今も垣間見ることはできる、それでも何かが足りなかった。

 それはエラントを育ててくれた男のまがいものだった。それでも、その姿を見ただけでエラントは駆け寄りたくなった。抱きついて、彼女が知る父を失った悲しみに泣く内なる少女を慰めたかった。

「エラント」その男が彼女の名をかすれ声で発した。

「やめて」エラントは言い放った。「その声で喋らないで」

「これが私の声だよ」アンヘロは片手を胸にあて、もう片方の手を芝居がかった様子で脇へと振り下ろした。「お前が私の娘であるように」

「あなたは――」エラントはスプレー缶へと手を伸ばした。「――お父様なんかじゃない。お父様は絶対にあれの一員になんてならない」

「エラント」長年、小言を言ってきた時と同じ声色でその男は彼女の名を呼んだ。まるでエラントなど強情な子供に過ぎないというように。「そんなに嫌がらないでくれ。お前には昔から美や可能性を見る目があった。完璧な目だ。おいで、新ファイレクシアの美を見せよう。私たちの輝かしい未来は沢山ではなく、ひとつだ。一筆の輝きだ」

 エラントはその男の話を聞きながら表情を見つめた。声色に耳を傾けた。この男は信じている……その言葉すべてを。ファイレクシアが多元宇宙全体を崩壊させようとしている単一性の美を心から信じている。

「線の内を塗り潰してもそこに美しさはないの。美とはひとつの色や筆の一刷きで作られるものじゃない」エラントはゆっくりとかぶりを振った。「美とは混沌と実践――試行錯誤、そして既知の境界を押し広めることから生まれる、苦々しくも甘美な苦難。美とは独創性の中にある。お父様も知っていたはずよ、かつては」

「ならば私は真実を見たのだ」

「お父様が見ているのはファイレクシアが語るものだけよ」エラントは一歩前進し、スプレーを掴んだ手が震えた。けれど光素の力を父へと放つ? アンヘロも動き、明らかに彼女の行く手を塞ごうとした。「お父様、もし今も私を愛してくれているなら、通して」

「お前を愛しているからこそ守りたいのだよ――お前とパルネスを。安全へと至る真の道にお前たちも加わらねばならん」

「パルネスには指一本触れさせないわ。私にも」吹き口にあてたエラントの指が震えた。できない。

 光素の爆発に空が照らされ、ふたりの視線を引きつけた。そう――これはデーラの合図。アトラクサが位置についた。行動しなければならない。今すぐ。

「もういい。私のところへ来い」アンヘロは突っ込んでいこうとしたが、エラントの方が速かった。

 エラントは低い窓へと跳んだ。今もきらめくニューカペナの残骸へ、光素の輝きが花火のように降り注いだ。この秘匿された芯の薄暗さとは対照的だった。敷居の上に立ち、エラントは最後に今一度父と目を合わせた。それは天使の合図に今もきらめいていた。彼女は片手を掲げ、起爆装置のスイッチを弾いて最後のボタンを露出させた。

「さようなら、お父様」エラントは囁きながら後ろ向きに倒れ、芯に張り巡らされた梁の間を抜けてその下の空隙へと落ちていった。

 彼女はボタンを押した。

 頭上で橙色の炎と煙が爆ぜた。建物が震えた。かつて羨望を集めた高街が崩れ、燃えて灰と化していった。エラントが爆薬を設置した弱点へと繋がる鋼の支えがきしみ、よじれた。春の風に散る花弁のように構造が落下した。まるで街そのものが長いまどろみから咆哮とともに目覚め、決然と侵略者を追い払おうとしているかのようだった。

 エラントは張り出しの上に勢いよく着地して転がり、急いで立ち上がり、崩れつつある混乱の中を息つく間もなく駆けだした。足元で石にひびが入り、彼女はかろうじて侵略樹の枝へと跳び、そしてとある建物に戻った。印をつけた通路は混沌の迷路へと崩れてしまっていた。

 アトラクサはニューカペナを欲していた。だからあの天使の喉元にその破片を突き刺してやった。そして、侵略が終わったなら、ニューカペナは再建されるだろう。以前より良い姿で。

 歯を食いしばり、エラントは限界に達してなお倒れまいと走り続けた。彼女はよろめき、つまずき、だがこらえた。足を止めてはいけない。パルネスが安全地帯で自分の帰りを待っている。そう遠くはない、ここを下ればすぐ。辿り着いてみせる。

 エラントは全体重を跳躍へと投入したが、その手は掴もうと狙った柵を外れた。恐怖に喉が詰まり、悲鳴を遮った。最期の瞬間へと向かって世界が速度を緩めた。

 そして、力強い二本の腕が彼女を包み込んだ。落下が次第に止まり、彼女は宙に浮いた。瓦礫の雨は奇跡的に彼女を避けた。

「デーラさん?」エラントは驚いてその天使を見上げた――再びの救い主を。

「助けが必要なように見えたのでな」デーラの翼が背後に広げられ、ふたりは羽根のように軽やかに地面へと滑空していった。

「皆さんは無事ですか?」エラントは尋ねた。

「無事だ」

 その会話は次なる轟音に断ち切られた。前触れもなく、魔力の脈動が街に広がっていった。それは純粋な力の潮流のように建物に衝突した。ニューカペナは光素の力に揺らめき輝いた。

 街の遥か上空で侵略樹の枝が萎縮をはじめ、天を裂くポータルへと退いていった。裂けていない空を垣間見るのはとても久しぶりに感じた。そして反応するように、街じゅうにらっぱの音が鳴り響いた。

「反撃ですか?」エラントは半狂乱に尋ねた。

「そうだ、我々の反撃だ」デーラは空を見上げた。天使たちの群れが枝を追うようにポータルへと殺到し、その先の幾多の次元へと向かっていた。

「何が起こっているのです?」

「天使たちが多元宇宙に解き放たれた。光素の力をもたらすために」デーラは更に翼を広げ、安定した屋根にようやく足を触れるとエラントを解放した。

「これで終わるのですか?」ニューカペナを離れる天使たちを見つめたままエラントは尋ねた。天使たちは魔法と力を携えて去る。けれど彼女たちがいなくともニューカペナは大丈夫だろう――不思議とそんな確信があった。こうして自分たちは力を合わせることができた。これは眩しく新しい未来の始まりなのかもしれない。

「終わりではない」どこか悲しそうにデーラは頷いた。「この戦争を終わらせるには十分ではない……だが勝機をくれるだろう。お前たち――ニューカペナは役割を果たし、犠牲を払った。次は我々の番だ」

「エラント!」

 その叫びにエラントの鼓動が跳ねた。彼女はすぐさま振り返り、着陸したこの場所は爆発からの安全地帯だとヘンジーが示していたメッツィオの屋根の上だと気付いた。ニューカペナが失ったものばかり見ていて、まだ残るものを見逃すところだった――ペリー、ヘンジー、カミーズ、高街の崩落から逃げ延びた市民たち、そして誰よりも大切な……パルネス。

 遠くから妻が駆けてくる姿、その記憶をエラントは色鮮やかな感情とともに焼きつけた。死を迎える時までこの瞬間を大切にするのだろう。どんな筆やスプレーでも捉えることのできない、美しい瞬間を。

「パルネス!」エラントが両腕を広げた瞬間、パルネスはそこに飛び込んだ。「無事だったのね!」

「あなたも。とても心配しておりました」パルネスは腕の力を緩めて顔を上げた。息をのむような美しい笑みに、エラントは膝の力が抜けるのを感じた。

「私は大丈夫、この人のおかげで……」だがエラントの言葉は途切れた。天使の姿は消えていた。「デーラさん……」

「どこへ行かれるのでしょうか?」パルネスは空へと顔を上げた。空に舞い、開いたポータルへ急ぐ天使たちの中にデーラの姿を見つけられるのだろうか。エラントはそう訝しんだ。

「私たちがこの戦いに勝つための手助けをするために」その言葉はどこか甘く、それでいてこの瞬間に至るまでにこぼれた涙の塩辛さを感じさせた。

「なんて美しい」パルネスが囁いた。

 立ち込める煙、輝く天使たち。不自然に雲間に裂けた怒りの涙。燃え尽きると同時に立ち上がる街。

 エラントは妻の腰に腕を回した。「まるで……希望みたい」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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