MAGIC STORY

機械兵団の進軍

EPISODE 06

メインストーリー第6話 最後に去るもの

K. Arsenault Rivera
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2023年3月23日

 

 覚えている一番はじめのものは、恐怖。

 次に来るのは何かのにおい。燃えるピッチやオゾンの悪臭。それは彼女の上顎にへばりつき、どこへ行こうとも逃げようがない。

 爪が石をかすめる音が聞こえて彼女は目を開き、剣に手を伸ばした。そこには狩猟犬の体長ほども大きな鉤爪と、無数の鋭い歯、目のない眼窩を持つ怪物がいた。獣の向こうには身を縮めたひとりの少女が、冷たい石壁に体を押し付けていた。少女と怪物の間には、横向きにうずくまる身体がひとつ。年配の女性で、喉は引き裂かれていた。その血に濡れた顎を鳴らし、怪物は少女へ飛びかかろうとしていた。

 そのとき彼女を襲ったのは――自分に目があって見えるという事実よりも――これが自分にとって新たな出来事ではないという気づきだった。ここを知っている。かつていた場所。このカビの生えた地下牢は、昔の生家から目と鼻の先にある。この少女がここで一週間、あるいはそれ以上さまよっていると――空腹で、喉は渇き、すべての希望を失っていると知っている。床に横たわる女性がその少女の母親であると知っている。

 今回は、あのときの少女にとって夢に過ぎなかったことができる。今回は、手元に剣がある。怪物は少女に向かって突進し、だが彼女はその間に踏み込んだ。間合いが詰まり鉤爪が鎧を薙ぐ。それが顎を開いて噛みつこうとすると同時に、彼女はその開いた上顎めがけて剣を突き刺した。黒い液体が傷口から泡立ち、剣を伝って滴り落ちる。彼女はそれを引き抜いた。怪物は耳障りな音を発し、床にうずくまるように倒れこんだ。もう一閃、そして頭部が切断されて落ちた。彼女はそれを蹴り飛ばした。

 簡単だった。簡単すぎた。これを困難と感じたことはあっただろうか?

 思い出が脳内を駆け巡った。少女はどこかへ行かなければならない。自分にはほかにやるべきことがある。その女性をきちんと弔うべきだが、そのような余裕を持てることは決してない。そしてそのような考えにいつまでもとらわれていない方がいい。

 それから……ほかに何があっただろう?

 忘れているのは何だろう?

 彼女はかぶりを振った。少女が抱き着くように腕を回してくると、彼女は少女の髪を撫で回した。「もう大丈夫ですよ」

「ありがとう」幼さを感じさせない声で、少女が答えた。「あなたは正しい行いを成しました」

 彼女は倒した怪物の身体と死んだ女性に目を向けた。「人々の安全を守る、それが私のすべきことです」

「その通りです。とはいえ、あなたはこれを新たな目で見ているということを心するのです。かつて、これはあなたにとって困難なことでした」

 足音が廊下を近づく――カツ、コツ、カツ、コツ。

 少女の目が輝き始め、その指が扉を示した。「接合者が来ます」

 その言葉は彼女の心の何かに引っかかった――思い出すべきことに。目が輝く少女を奇妙に思うはずだが、そうは思わないことに気づいた。彼女にとってもなじみある何かがある――そのため、よく見ようと屈みこんだ。

 太い黒眉が二本、艶のある髪と揃いの色――しっかり三つ編みにしなければまとまらない髪。よく母につままれた丸い頬。転んだときにできたあご沿いの傷。そのとき母は何と言っていただろうか? このような傷は体にだけ。傷跡をまとうことを選んだ。あの頃の彼女はその選択をよしとした。勇敢でも何でもない行いだったが、自分が勇敢であるように感じさせてくれた。

 剣をするりと鞘に収める。

 今や、彼女は理解した。

 少女が頷く。

「エルズペス、目覚めるときです」

 足元の床は崩れ落ち、壁は吹き飛び、カビの生えた天井は認識の外へと投げ出された。あたりでは星々が永遠の秘密を囁いていた。少女の顔が――若いころの自分の顔が――母親のものへと変化した。引き裂かれた喉から外套へと血が滴った。

「あなたには選択の余地があります」

 もう一度、彼女は落下した。

 周囲で世界が変わり始めた。彼女がかつていたこの村は――確かに故郷の村だ――石の下に封じられている。石材がひとつひとつ積み上げられ、まるで見えない子供が遊んでいるかのように組み上げられ、その間に木々は速やかに実を結んでは枯れ、また実を結んでは枯れた。空気がきらめき始めた。

「自分がどうなりつつあるか、覚えていますか?」

 少女の影。きらめきの中で、その顔が微笑みかけていた。エルズペスはうつむいて自分の手を見た。この場所の光に照らされ、何もかもが乳白色に輝いていた。奇妙な感覚が彼女の肩甲骨に沿ってうずいた。きらめく羽が一枚、どこからともなく落ちてきて彼女の前に浮かんだ。母が言う――「しっかりするのです。あなたはここまでよくやってきましたが、最後にもう一歩踏み出さなくてはなりません。まずは何よりも、古い自分と決別しなくてはいけません」

「そのために私をここへ?」彼女は尋ねた。

「あなたは自分の意志でここへ来たのです。重大な危機に直面し、他の人がためらうような選択をしました。あなたは運命を書き換えたのです。あなたの一部は目覚めの時であると理解していました。その選択の結果が明らかになろうとしています――私たちはそれが綴られるよりもわずか先にいて、あなたが物語に加わる機会を待っているのです」

 ファイレクシアの獣を殺そうとして? いや……別の記憶がよみがえる。酒杯、言い争う友人たち、簡単ではなくとも明確で正しいと思えた方法。酒杯は爆発したのでは? 自分は死んだのかもしれない。これはすべて妄想なのかもしれない。

「そうではありません」

「考えを読まれるのは好きではありません」エルズペスは告げた。

「大きな声で考えていましたよ」声が返答する。

 エルズペスはため息をついた。いや、この奇妙な体では、ついたつもりになっているだけなのかもしれない。彼女の前で、石がどんどん高く積み上げられていく――空へ向かって立てる一本の針のように。それらが頂点に達すると、彼女はようやくそれが何かを把握しはじめた。ニューカペナ。

「私は何をしなければならないのですか?」

「あなたはもう一度選択しなくてはなりません――そのための時間は残りわずかです。あなたの、人としての欲求や欲望をこの問題に持ち込んではなりません」

 とても単純なように聞こえたが、そうではないのだろうとエルズペスは感じていた。

「何を選べというのですか?」

「あらゆる次元が燃えています。あなたもそのいくつかを見てきましたが、すべてではありません。すぐに他の状況についてもわかるでしょう。どこに介入するかを選ぶ必要があります」声はそう告げた。

 どういう意味だろうか……? ああ。隠れ家と、その外で涙にくれる旧友。空の上、不安定に揺れる船に乗っている女性。かつてドラゴンだった何かと戦う若者。それらの断片はステンドグラスのように彼女の中で組み合わさり、冒涜的な一枚絵が出来上がった。

 ファイレクシア。

 これはファイレクシアに関すること。

 エルズペスがそう認識した刹那、頭上の世界が粉々に砕け散った。ニューカペナの空がザクロのように赤く染まり、巨大な白い構造物が雲を貫いて現れた。その構造物――神の巻きひげのようなそれが街を包みこんだ。窓が砕け、記念碑は倒れ、大梁はへし折れた。塔の側面に亀裂が走った。巻ひげから油が零れ落ち、建物や地面をぎらつく黒色で覆った。屍肉蟲のような鞘が街へとばらまかれた。

 だがニューカペナは滅んでいない。今はまだ。簡単にはやられない――街全体が侵攻に対して守りを固めているのだから。彼女はそれを自分の目で見てきた。

 エルズペスはもっと状況を把握しようとした。すぐに彼女は火と瓦礫に取り囲まれた。ニューカペナの街角に流れる血の深さは足首にまで達していた。道路の縁石に沿って積み上げられた革の山が、逃げ遅れた市民の皮膚を剥いだものだと理解するのにはいくばくかの時間を要した。周囲を見渡すと、ファイレクシア人は市民の数を上回っていた。

 更に悪いことに、それらの上に浮いているのはかつて天使だった何か。その光景はえも言われぬ不快感をエルズペスにもたらした。

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アート:Gaboleps

「かの者たちは彼女をアトラクサと呼んでいます」先程とは異なる声、けれど聞き覚えはあった。母の声。完璧に模してはいない――それでもなお、その声はエルズペスの心にいくばくかの温もりをくれた。「四人の法務官によって堕落させられた天使。最も熱狂的な将軍のひとりです」

 空気を切り裂く音が響いた。アトラクサの兜に当たった何かが爆発したが、効果は……ない。ひびの一本すら入っていなかった。彼女は農夫が小麦を刈り取るがごとく、生存者の一群を大鎌でたやすく一掃した。

 エルズペスは戦争を体験してきた。混戦の最中に身を投じるのは決して良い気分ではないが、慣れてはいる。アラーラ、テーロス、それにミラディンで、彼女は無辜の人々を守り、平和を見つけるために剣を掲げてきた。

 けれどここは違う。彼女にできることは何もない。ファイレクシアの獣が放った針が、彼女の身体をまっすぐに撃ち抜いた。エルズペスが感じたのはかすかな疼きだけ――だがその背後では、犠牲者が地面に倒れていた。かつては貴顕廊の一員だったかもしれないコウモリの翼を持った怪物が、逃げ惑うひとりの男へと襲いかかった。彼女はその男性を救おうとしたが、伸ばした手が薄く消えていくだけだった。

「言われたことを思い出しなさい、エル」彼女の母が言った。「助けに行く場所を選ばなければなりません」

 エルズペスは息をのんだ。見上げると、アトラクサは再びその広場を一掃していた。熾天使たちの用心深い視線の下、多くの頭や胴体が地面に落ちた。

「この場所はかつて故郷でした。もちろん、これほど大きくなるとは想像もしていませんでしたが、それでも故郷でした」と母は言う。「カペナの人々は両手を広げて私たちを歓迎してくれました。年月が経ち、彼らは再びあなたを迎え入れてくれました」

 アトラクサが恐ろしい金切り声を響かせた。空では、翼をもつ怪物たちが格子状に整列していった。

「侵略者には厳しい命令が下されています。ニューカペナの住人は皆殺しにされます。生かされるのは臓器と骨だけでしょう」

 高街の上層階に向かって、翼をもつ獣たちが矢のように降下した。

 何か目的があってそうしているように見えた。

 土建組の者たちは赤熱した道具を手に、目にしたものに危なっかしく掴まって揺れた。その場所から、ボルトとナットが花びらのように地面へと零れ落ちた。

「戦う人々もいます」母が言った。「堕落に身をゆだねた者はもっと沢山います。権力者の発言は絶対。そうですよね? ですが勝算のない戦いを選ぶ人々は常にいます。助けが必要な人々が。感じ取りなさい」

 さらに近くへ。高街の内部では、工事の騒音のようにあちこちで命令が叫ばれていた。侵入したものたちが住人へと手を伸ばすと、蒸気が噴出して侵略者の鎧を溶かした。けれど全員を守ることはできない――土建組が守りを固める中、また二人の犠牲者が金属の顎に挟まれて運ばれていった。

 残された時間は長くない。

「あなたはそんな人々の救いかもしれません。ここはかつて私たちの故郷でした。あなたはその両の手でここを救うことができるかもしれません。新たに築き上げるのです」

 そうだろうか? 歓迎してくれる親切な人々にエルズペスは出会ったが、一方で彼女の凋落を見るために口実を作る人々もいた。残る日々をここで過ごすのだろうか?

 女性の言葉が心に響く。正しい選択をしなければならない。必要なことをしなければならない。エルズペスは振り返った。彼女は再び熾天使を視界にとらえ、頷いた。

 悲惨な状況に見えるが、ニューカペナには守護者たちがいる。

「ここではありません」

 轟音が鳴り響いた。壁は再び飛び去り、絵画のように平たくなって暗闇へと消えていった。落ちていく時間が長ければ長いほど、目にするものも多くなる。変質した教授から距離をとり、廊下をひそかに進む学生たち。ゾンビの大群の上で歌う、黒い花嫁衣裳を着た女性。コーがマンタに乗り、白く巨大な構築物へと向かって飛んでいく。

 彼女は赤い空と赤い海との間ではっとと止まった。頭上には見事な星々のさざめき。空気には潮の香り。

 テーロス。

「おかえりなさい」

 エルズペスの口が開いた。すぐに彼女は虚空の中で振り向き、その声の主を探した。「ダクソス?」

「立場が変わっても、君は僕を覚えてくれているんだね」と彼は言った。その声は温かく、蜜のように甘い。それを聞いただけで、魂の緊張がほぐれてゆく。「賛辞として受け取っておくよ」

「ふざけないで下さい」とエルズペスは言う。「貴方のことは、忘れようとしても忘れられませんでした」だが彼の姿は見えないと気づき、エルズペスの胸が強張った。

 そして彼女の視界がメレティスに着地した。

 ここもまた、燃えていた。瓦礫と廃墟だらけだった。彼女が茶を飲んだ家々は叩き潰されていた。市場は煙がくすぶる残骸の山と化していた。

「僕らは困難の時を迎えている」彼が言う。「そしてこれは、あいつにとっても困難の時だ」

 エルズペスが沈黙したまま、あたりの風景は再び変化していった。視点はメレティスから神殿の中へと進んだ。純白の彫像は今や油でぬめり、それらの顔にはファイレクシアの仮面が描かれていた。濃闇の煙が内室に充満していた。そこには人々が詰め込まれており、誰も身動き一つできなかった。白磁の仮面と骨ばった突起が彼らの状態を物語っていた。

 一人のレオニンが祭壇の上に立っていた。

「テーロスの神々は、我々のそうあれかしという願いによって存在している。あれらは我々の命令に従っている。お前たちは今、ファイレクシアの栄光、真の団結の栄光を知っている――すべての生命をつなぐ、途切れることのない絆だ。それはひとつの、より偉大なる神性ではないだろうか?」

「相変わらず大した説得力だ」ダクソスが言う。

 エルズペスの喉が詰まりそうになった。

「彼の手の中の器は見える? あれは油で満たされている。それと、彼の隣で跪いている女性は?」

 アジャニの姿に動揺し、エルズペスはその女性を見落としていた。身にまとう滑らかな衣服とそれを飾り立てる金の宝石から考えて、その女性は神託者だろう。

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アート:Konstantin Porubov

 背中にナイフを突きつけられるような気づき。「アジャニは神々を改宗させようというのですか?」

「させようという段階じゃない。彼はすでに三柱を変質させてしまった。試すまでもなかった。ファイレクシア人は自分たちの信念に対して熱狂的で、神々が対抗できる望みはほとんどない」

「ファイレクシア化した神々」彼女は繰り返した。「そんな力があれば、簡単に……」

「隠れる場所はほとんどない」ダクソスは同意した。「でも僕らがどこにいるかわかる? ここは何の神殿か、よく見るんだ」

 残骸の中にある、彫像から切断された頭部。認識した瞬間、自分は馬鹿なのではと思った。ヘリオッド。そういうことか。これは自分への試練だ――このふたつ以上に、試練にふさわしい物事があるだろうか? テーロスで、エルズペスは新たな導きの光を見出した。そして不和とともに別れた――けれどアジャニがこの汚れた油をヘリオッドに注ぎ込む様を、黙って見ていられるだろうか?

 矢鳴が考えを中断した。アジャニの手の器が砕け散り、落下する破片が神託者の顔を傷つけた。アジャニが射手へ向き直る隙に、神託者はその場から逃げ出そうとした。群衆の中の二人が彼女を高く担ぎ上げた。

 別の矢がアジャニの肩に突き刺さった。彼はそれを引き抜き、苛立ちながらへし折った。「見つけ出せ!」

「テーロスにはまだ英雄がいるのですね」その光景を見つめ、エルズペスは気づいた。

 どうしてか、自分の肩にダクソスの手が置かれているのを感じた。「見続けて」

 一瞬にして暗闇に飲み込まれ、神殿の少し離れた場所へと視点が戻った。狩人たちが広間でひとりの若者を追っていた。それらの長であろう金属の頭を複数持つものが、逃亡者に向けて網を投げつけた。若者は捕らえられ、他の追手が祭壇へと連れ戻していく。アジャニは片手で網を持ち上げた。

「見よ、群れに背を向けるものだ! 我らに盾突くものだ!」若者は悲鳴を上げ続けていた。アジャニは彼を網から放ち、その髪をわしづかみにした。「不和をまこうと企む心が何の役に立つというのか?」

 エルズペスは見るに堪えなかった。彼女は背を向け――だが骨の砕ける音と、それに続く喝采からは逃れられなかった。なぜこんなことをアジャニが? 彼がどうしてそんなことをできるのだろう?

「彼はそうさせられている」ダクソスは言った。「君なら彼をこの状況から救える。彼は――真の彼は、その開放を喜ぶだろう」

「そんなに単純なことでしょうか」

 エルズペスは勇気を奮い起こし、もう一度状況を見つめた。神託者は再びひざまずき、アジャニはその女性に油を無理やり流し込んでいた。

 神殿に光が差し込んできた。

 だがそれは紅に染まる曙光でもなければ、紫に沈む黄昏でもない――灼熱する炉の白光。燃え盛る太陽。神殿の中を光環が激しくきらめいても、信者たちは目を背けなかった。皮膚のない肉の残骸から煙が立ち上った。

「君は僕が出会った中で最も勇敢な女性で、常に正しいことを成そうとしてきた。テーロスの救済を誰かに任せるとするなら――それは君だ」

 エルズペスはまたも目をそむけた。いくつもの考えがはやる。テーロスを選ぶなら、アジャニと戦わなければならない。彼と戦うなら――救う方法はおそらく残されていないだろう。あれほどまでに汚染が根付いてしまったなら、できることはほとんどない。そう、私は神々を殺した。そう、私はこの場所を愛し、故郷と呼んだ。

 そして、ダクソスにもう一度会えるなら。

 けれどこれは、自分自身の望みや必要から判断していいものではない。テーロスを救うことで事態はどう好転するのだろう? 辛いはずの考え、なのにそうではない。行動することで何が救われるのだろう? アジャニがここで倒れたとしても、侵略は続く。ファイレクシア化した神々はテーロスに大混乱をもたらすだろう――けれど、ここの人々はニューカペナの人々よりも救うに値するのだろうか?

 彼女の心は二つに割れていた。一方の感情は、神殿の外の海のように荒れ狂っている。もう一方は、沐浴の水辺のように穏やか。

 ダクソスの両腕が彼女の腰に回された。「何をしなければならないか、君はわかっているはずだ」

「それを言わせないでください」彼女はそう言い、彼に身を預けた。

 けれどそこには誰もいない。

 世界が再び崩れ落ちた。

 彼女は山ほども大きなトカゲと、金属でできて針を生やしたその似姿が戦う風景へと落ちた。それらの傷口から流れ出る血と油は、緑豊かな大地に川を作っていた。

 エルズペスはとある城へと落ちた。かつては栄華を誇り、今や瓦礫と化した場所。ひとりの若者が武器庫の残骸をあさっていた。彼がまとう板金鎧はこの残骸を集めて作られたもので、すでに黒い穴が開いていた。若者はガラクタの中から印章を見つけ、喜びの声をあげた。これで家族を守れる、そう考えているのだ。しかし彼の鎧は保護としては心もとなく、剣の大きさも身体と釣り合っていない。彼は斃れてしまうだろう。エルズペスは正当な印章の騎士を見つけるよう呼びかけようとしたが、その声は届かなかった。彼女は既に再び落下を始めていた。

 戦太鼓を打ち鳴らす騎兵の一団と、敵のファイレクシア人を狩る猟犬たちを。そびえ立つ機械の守護者が守るネオンの街を。奇妙な沼地と曲がりくねった丘を。エルズペスはどこまでも落ちていった。

 二度と見たくなかった場所へとたどり着くまで。

 侵略樹は、エリシュ・ノーンの終わりなき勝利を誇る証として屹立していた。純白の板金の下で赤が脈動し、天にも届かんとしていた――いや、実際、天を突き刺していた。波打つように、軍隊が手前にある橋の一つへと詰め込まれていく。それらの旗印と、奇妙な曲線形をした管や筒まみれの身体は、ジン=ギタクシアスの創造物であると示していた。何千という数に違いない。新たに生み出されたのはどれくらいだろうか? 今見ている場所からどれほど送り込まれるのだろうか?

「あなたには選択の余地があります」

 絶望がエルズペスを樹の根元へと向かわせた。自分はここを離れた――けれど仲間たちは残っているに違いない。彼らがこのような重要な戦いを放棄するはずがない。きっと誰かがいるはずだ。

 だが木の根元に到着したとき、彼女が最初に目にしたのはエリシュ・ノーンだった。白磁の玉座の側面には、気味が悪いほど背骨に似た意匠が施されている。法務官はそれに腰掛け、自らの創造物を見下ろしていた。その目前で、ウラブラスクが機械に繋がれていた。巨大な歯車がふたつ、その横には同じほども大きな百長が二体。歯車が回されるたびに、ウラブラスクの四肢が体から引きちぎられていく。今や、彼は叫び声をあげる腱の束にすぎなかった。

 ノーンの両脇にはそれぞれ間に合わせの聖歌隊が並んでいた――ファイレクシアの栄光を謳う生きた楽器。とはいえ、それらの不浄な喉から漏れ出るものは歌とは言い難い。叫び、金切り声、彼らはその声を張り上げた。旋律のようなものに近づくことは一度たりとてない。ウラブラスクの断末魔の絶叫も、そこに調和を加える効果はほとんどなかった。

「誤りの余地は無し」

 ノーンが指を鳴らし、合唱が止んだ。再び指を鳴らして、彼女はウラブラスクを片付けさせた――百長たちはそれを四つに刻み、運び去った。三度目で、彼女は大荷物を抱えた飛行生物の一団を召喚した。それらが地に降り、ようやくエルズペスはそれが破壊されたカーンの身体だと気付いた。どういうわけか、彼の眼にはまだ生気が認められた――けれどそれらが宿す苦痛はずっと大きかった。

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アート:Artur Nakhodkin

 エルズペスもそうだが、カーンにとって勝利を祝うノーンを見つめる苦痛は相当なものだ。

 目の前にいる人々はあまりに小さく、当初エルズペスは気づけなかった。拘束されたミラディン人たちは頭を垂れていた。多くの顔に血が流れており、すでに手足を失っている者たちもいた。接合者が彼らに付き添い、望まない人々に求められない肢を移植していく。エルズペスは彼らを知っていた。互いに並び立ち、戦ってきた。このような運命を被るべき者など誰もいない。

「我らは把握している、其方らは目の前に待ち受ける栄光を理解できぬと」ノーンが言う。「ゆえに我らは永遠の哀れみを其方らに捧げよう。咎めるべきは其方らの肌肉の背信。それらさえ無ければ、其方らはすべての重荷から解放されると知るであろう」

 エルズペスは剣に手を伸ばした。

「自分が何をしているのかを考えてください。選択の機会はただ一度きりです」再び女性の声がした。「誤った選択をすれば、ここですべてが終わります」

「ノーンは斃さなければなりません」エルズペスはそう答えた。

「その昔、自分自身だけの世界を創造した、白色を身にまとう慈悲深い女性がいました」その声が語り始めた。エルズペスははっと思い出した。そんな神がいたような? あの地下牢の中で名を呼ぶことを禁じられていた神。子供の頃に祈った神。「そこは美しい場所――明るく、平和にあふれていました。天使たちの住まう場所です。彼女はそこを心地よい住処として作ったので、そこを離れると考えることも、他の地を思い描くこともありませんでした。長い年月が流れ、とある魔術師が助けを求めて彼女のもとへとやって来ました。彼女は、その背景にある脅威を想像だにしていませんでした」その女性は周囲を見るよう促した。「この脅威です。そしてそれはノーンだけで維持されているわけではありません。彼女は自らこそがファイレクシアの始まりであり終わりであると信じていますが、それは間違いです。彼女を殺してもこれは終わらないでしょう」

 百長たちはさらに三人の捕虜をエリシュ・ノーンの前へと引き立てた。彼らは地面に投げ出された。そのうち二人は立つこともできず、膝をつくだけの力も残されていなかった。彼らが誰であるかに気づき、エルズペスは恐怖と落胆に襲われた――打ち負かされたコス。その木から引きはがされたドライアドのレン。そして血まみれのチャンドラ・ナラー。

「背教者よ、見なさい」百長の一人が言った――そしてその時、エルズペスはそれがニッサであると気づいた。あるいは少なくとも、かつてニッサ・レヴェインだった何か。彼女の新たな体の一部は融けて金屑と化していた。「機械の母よ、この者たちに正当な裁きをお与えください」

「この者らを捕らえた其方の功績を褒めて遣わそう、ニッサ」ノーンが語りかけた。「其方が直面した試練と苦難は、其方の過去の人生の痕跡を洗い流したにすぎぬ。今の奴らを見て其方はいかに思う?」

「軽蔑します。哀れに思います」

「いかにも。だがその哀れみもわずかな間でよい。すぐにそれらは作り直されて完全となろう。完成化の喜びは、其方が清められたようにそれらも清めるであろう」

 背後に吊るされたカーンがうめき声をあげた。

 剣の柄頭を覆うエルズペスの手がぴくりとした。

「これら反逆者どもを受け入れることで、我らは下等な存在にも寛容であるとファイレクシアのすべてに証明してみせよう。ファイレクシアはすべてを受け入れる。ファイレクシアはすべてを完成させる。個としての其方らが精神から剥ぎ取られたとき、与えられた祝福が何であるかを理解するであろう」鋭い歯をむき出しにし、ノーンは微笑んだ。「ジン=ギタクシアスよ。コスの矮小な反乱軍の残党を収穫せよ。其方がこの者らを完成させる創造者となるのだ」

 軍勢が道をあけた。口から何本もの管を揺らしながら、その中をひとつの姿が滑るように近づいてきた。すぐにジン=ギタクシアスはノーンの隣に立ち、一礼した。「大法務官殿の仰せのままに、それがファイレクシアの意だ」

 ジン=ギタクシアスは一同へと一歩踏み出し――止まった。

 全てが停止した。反乱軍は呼吸半ばで凍りついた。軍勢は微動だにしなかった。時間が停止していた。これはテフェリーの力だろうか、エルズペスは心のどこかでそう考えた――樹の頂きに杖を携えた彼の姿が見られるだろうか。いや、そのような希望を抱けない程度には、彼女はファイレクシアをよく知っていた。

「なぜ止まったのですか?」

「その時が来たからです」あの女性が言った。ジン=ギタクシアスと、彼が最初に標的としたコスとの間に、きらめきが集まり形を取った。それは穏やかな外見の、顔立ちの優しい女性。にもかかわらず、彼女の肩はある種の悲しみを負っていた。「あなたの決断を聞かせてください」

「あなたは誰なのですか?」考える前に問いかけがこぼれ出た。

「私の名前にもはや意味などありませんが、あなたはかつて知っていました」彼女は捕虜たちの間を歩き、チャンドラの隣で止まった。その紅蓮術師は自力で起き上がることすらできず――女性はチャンドラを支えた。「よく考えるのです。今もなお、ノーンを殺さなければならないと考えていますか?」

 どう考えても、ノーンが生きている限り、多元宇宙に平和が訪れるとは思えない。「肢の一本が腐りかけたなら、それを切り落とさなければなりません」エルズペスは答えた。

「奇妙ですね。似たような言葉を以前に聞いた覚えはありませんか?」その女性はレンの傍へと移動し――膝をついてその身体を支えた。ドライアドは侵略樹を見つめていた。「覚えていますか、エルズペス?」

 そう、その言葉――覚えのある言葉だった。どこでそれを聞いたのだったか? 彼女は思い出をかき集め、体験したすべてをふるいにかけ、やがてその声を思い出した。『枝の一本が腐っているなら……』

 レン。時と場所は違えど、自分たちは同じことを言った。何をすべきかをエルズペスが知っていたように、レンもまた知っていた。だからこそ彼女はここに来たに違いない。そしてレンが樹を見ているのなら……

 何かが動いた。エルズペスがあたりを見回すと、ノーンは幽霊のように半透明になっていた。ジン=ギタクシアスもまた。周りを見ると、何もかもが幽霊になっていた。ニッサとレンだけがそのまま残されていた。二人が鍵なのだろうか? レンは先ほどの啓示と結びついているに違いない――けれどなぜニッサが? 新ファイレクシアへの旅路以外では、これといった会話もなかった。エルズペスが到着したときには、ニッサの姿はすでに消えていた。

「私たちは永遠にここにいられるわけではありません」女性が言った。「答えねばなりません」

「わかっています」エルズペスは返した。「ただ……考える時間を少しください」

 なぜニッサを?

 もしそれが、すでに失われた誰かだというのであれば――なぜアジャニではないのだろう? 彼が自分に尽くしてくれたすべてに対して、かつての師に恩を返せないのはなぜ? もしかしたら彼を救う方法がまだあるのかもしれないのに。

 それを言うなら、何故ニューカペナの地に行かないのだろう? アトラクサを打ち倒せば、かの地の天使たちが戻ってくるかもしれない――ひょっとしたら、その帰還が次元を浄化してくれるかもしれない。

 エルズペスは認めたくはなく、けれどそれらの疑問に対する答えははっきりと浮かんだ。アジャニを救ったとしても、救えるのはそのたった一人だけ。彼だけではこの流れを変えることはできない。
ニューカペナは自力で対抗できる。残されたレンとニッサ、そして彼女たちをつなぐ光の糸。

 そう――エルズペスは理解していた。

 それはニッサとレンのどちらを救うかという選択ではない。

 レンが樹にたどり着くまでの時間を稼ぐため、ニッサを相手取るということ。

「それで本当に良いのですね?」女性が確認した。

 エルズペスは頷いた。まるですべての神経が一度に燃え上がるような、不思議な感覚が身体にあった。「これは正しい行いです」

「その通りです。私もできればと望んではいますが、あなたと共にこの脅威と戦うことはできません。ですが、あなたを本来あるべき姿へと鍛え上げることはできます」

 自分自身の手が、この場の霊気から新たな姿をとる様をエルズペスは見つめた。これは自分の爪、自分の剣だこ、自分の手の皺。占い師はこの線の相で運命を読むという。自分がここに来ることを予見できた占い師は果たしていたのだろうか。「怖いです」今一度、その呟きがエルズペスからこぼれ出た。声に出すまで、自分は恐れていると気づいていなかった――恐怖していたのだ。心の奥底に痺れが忍び寄る。彼女はダクソスを、テーロスを、かつて思い描いた故郷を思った。そのすべてが心地よい夢のような。

 女性はエルズペスを抱きしめた。

「恐怖はいつも最後に去るものです」と女性は言った。「あなたは何度もそれを制してきしました。今は立ち向かうのです、エルズペス」

 それが、セラが消え去る前の最後の言葉だった。

 生まれ変わるというのはなんと奇妙な感覚なのだろう――自身が蛹から羽化するような。背中の翼は板金鎧のように重いが、翼がなかった頃のことは思い出せない。この身体は前とは違う――けれどずっとこうだったようでもある。彼女はエルズペスであり、そうではない。

 ためらっている時間はない。多元宇宙は崩壊の瀬戸際にある。

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アート:Rovina Cai

 これまでずっと、彼女は眠っていた。今こそ目覚める時、本来あるべき姿になる時。

 ジン=ギタクシアスが爪を振り上げる。

 エルズペスの剣がそれを受け止めた。
 

(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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