MAGIC STORY

機械兵団の進軍

EPISODE 13

サイドストーリー・イクサラン編 太陽の下の三百段

Miguel Lopez
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2023年3月21日

 

 -現在-

 オラーズカを取り巻く密林が燃えていた。炎が輪を描いて強い熱気を放ち、都と周囲を隔てる黄金の境界線は泡立ち融けて土台へと沈み、焦土へと流れていった。禍々しい雲の奥から巨大で曲がりくねった機械の蔓が垂れ下がり、暗闇が紅玉色に照らされた。真紅の稲妻が空を割き、少し遅れて雷鳴が轟いた。梢が熱風に激しく揺すぶられた。木々は内側から腐敗し、炎が燃え移ると破裂した。

 ファートリは独りオラーズカの翼神殿の頂上に立ち、両手で胸を押さえ、息を切らしながら待っていた。待つことの辛さに息が詰まり、胃液が喉にこみあげる。けれど待つしかなかった。

 インティ――彼は生きているのだろうか? 仲間や予備兵たちは階段を死守しているだろうか? 見下ろすわけにはいかず、彼女は地平線に目を向けたまま待つことしかできなかった。聞こえるのは自身の心臓の音、呼吸の音、そして炎が燃え盛る轟音だけだった。

 周囲の至る所で、闇がこの次元の上に重く垂れこめていた。明かりは炎だけだった。オラーズカを取り巻く密林が燃えていた。

 イクサランが燃えていた。


 -数時間前-

 この最も尊い聖所を守るために何千年も前に作られた扉は頑丈だった。防壁に囲まれ、到底突破できるものではないと思われた。

 せき込む音。兵士たちの呟き。祈りの言葉。汗、散らばるごみ、焦げた樹木、焦げた肉肌、焦げた金属の混ざった臭い。息苦しい空間。ある者は松明を見つけて打ち付け、またある者は明かりを手繰り、それらに生命の火花を吹き込むための祈りをキンジャーリへと囁いた。

 暗い広間に光があふれ、壁画が刻まれ柱に支えられた部屋が現れた。黄金があらゆるものの表面を飾り、光輝いていた。百人近くの兵士が――大半を占めている太陽帝国の兵士のほか、海賊海岸やトレゾンとそれらの間にある群島から来た一握りの予備兵が――この空間に詰め込まれていた。疲弊した彼らは戦闘で損耗した武器を交換し、役に立たなくなった鎧を脱ぎ捨て、煤や血や油を身体からぬぐい取るといった務めに忙殺されていた。ひとりの僧が物言わぬ青ざめた兵士たちの列を聖油で清め、イクサーリの抱擁へと帰るよう告げた。険しい顔つきの兵士がその僧侶の後に従い、死にゆくものが変質する場合に備えてマクアウィトルを構えていた。

 ファートリの両手は乾いた血で染まり、彼女はその手の震えを止められなかった。水が必要だ。手を清めなければ。彼女は水筒を持っていた。それを開けてみたが、中は空っぽだった。

 何やら騒がしい音があり、防護を固めた入り口で叫び声があがった。外から噴火のような咆哮、そして轟音が部屋を揺らした。埃と石膏の破片が天井から降り注ぎ、ファートリの鎧を雹のように叩いた。周りの兵士たちは罵り、悪態をつき、不平をこぼした。

「行かないと」とインティは言った。彼は煤にまみれ、頭の包帯も血まみれといった姿でファートリの隣にしゃがみこんだ。「あの防壁もこの部屋も耐えられるとは思わない。それと、これ落としてたよ」彼はファートリの手に彼女の兜を押し付けた。戦場詩人の兜。イクサラン全土でただひとつのもの。

「あなたのは?」ファートリは、包帯が巻かれた従弟の頭を指さして尋ねた。

「どこかで死んでる侵略者の食道かな」インティは肩をすくめた。「仕事はしてくれたね」彼はファートリに手を差し伸べた。「行こう」

 ファートリは手を伸ばし、インティの手を取り、立ち上がった。

「きっと乗り越えられるよ」とインティ。「夜明けが来たら、君は今回の物語を陛下に伝えるんだろ」

 ファートリは従弟を見た。彼のにこやかな笑顔は朗らかで暖かく、目の周りや両肩に疲労の重さがあってなお純粋なものだった。インティは彼女を信頼しており、よってすべては何とかなるのだ。ファートリは手を伸ばして彼の包帯に触れた。

「兜を見つけてね。頭を強く打ったんじゃないの?」

 インティは笑い、ファートリも一緒に笑った。

 彼らの背後で部屋が揺れ、何か巨大なものが衝突して扉の大きな蝶番が跳ねた。

「夜明けまであとどれぐらいかな?」扉を振り返りながらインティは尋ねた。

「何時間もあるわね」とファートリは言った。「夜明けが今日来るなら」

「祈ろうか」

「そうね」ファートリは頷いた。「けど戦いながらね」

「戦場詩人殿」煙で荒れた喉から発せられながらも、その声には気品があった。予備兵たちをまとめる痩せぎすの貴族マーブレン・フェインが、薄暮の軍団の聖騎士を数人伴って暗闇から姿を現した。彼はすぐさま眩しそうに目を細くした。太陽帝国の兵士たちが身につけたキンジャーリの石、その光に当たったマーブレンの皮膚から湯気が上がった。石は昼の日光よりも激しく、磨き抜かれたような光を放つ。彼女は手をかざして自らの光を遮った。

「感謝する」マーブレンはそう言い、焦げて紙のように乾いた表皮をその鋭い頬骨から剥いだ。

「え?」

「何を驚くのかね?」

 ファートリは肩をすくめた。

「私の好みですな」マーブレンは言う。「沈黙に語らせる詩人は」

 ファートリは短槍を構えて彼に向けた。「用心しなさい、入植者さん。もっと意味深な沈黙も聞かせられますから」

「結構なことだ」とマーブレンは返した。「もう一度試させて頂こう、謝罪が欲しいのでね」彼はゆっくりと手を伸ばし、だがファートリは動じなかった。吸血鬼は眉を上げ、槍の切先を見て、それから自身の手を眺めてから槍先を払いのけた。彼は咳払いをした。「何をすればいいのかね?」

「今は――何も」とファートリが答える。

「何も?」

 ファートリは頷いた。「ファイレクシア人は私たちがここにいることを知っています。さらに沢山の数がここを取り囲むでしょう。そうさせます」

「我々がここに立てこもるのは作戦の一部だと?」

「大きな獣を狩るには餌が必要ですから」彼女は槍を下ろした。

「餌とはな」マーブレンは鼻を鳴らした。「我々もまとめて罠にかからにようにしたまえ、戦場詩人殿」

 その言葉を最後にファートリは彼を立ち去らせた。彼女に付き従う最後の兵士たちが、マーブレンと彼に従う吸血鬼たちの去る背中を注視しながら前を通り過ぎて行った。光は彼らとともに進み、それらが消えたところでファートリは自らの石から手を放した。キンジャーリの暖かな光が膨らんでいったが、その広がりは小さな水たまりほどしかない。彼女は独りため息をついた。

 扉が大きく揺れ、古い蝶番がきしんだ。扉を塞ぐ防壁から樽のひとつが転げ落ち、床に落ちて割れた。腐敗したトウモロコシがこぼれ、黒い影と共にうごめいた。

「持ちこたえて」ファートリはその一言に祈りを込めて囁いた。

 彼女は背を向け、扉から急いで離れていった。残りの戦力を、圧倒的で完全な闇の中で小さな光を集めるために。


 -数日前-

 イクサランへの侵略は曖昧な警告の形で予見されてはいたが、旧大陸で争う各勢力はそれを無視していた。争いは既に激化しており、曖昧な警告はその最初の犠牲者となった。太陽帝国は薄暮の軍団を黄金都市オラーズカから追い出した。勢いづいた帝国軍は、敗走する軍団の遠征兵を太陽海岸まで追い返した。そして女王湾にて、帝国軍は堂々たる要塞の数々がその地を占拠している様を目撃した。そのうち二つは本土に座し、もう一つは湾口の防波島にそびえ立っていた。ミラルダノーア、薄暮の軍団が太陽帝国の土地を切り取り、女王にちなんで名づけた要塞群。これは看過できなかった。皇帝は要塞の壊滅を命じた。

 数千人の勇敢な兵士たちが、三つの要塞の中間に位置する黒い石壁のリオア要塞を襲撃した。守備隊は何か月も持ちこたえた――太陽帝国には包囲戦の経験がほとんどなかった――だが年末には陥落した。帝国はリオア砦を占拠し、女王湾の軍団兵を二分した。これは帝国にとって大いなる勝利だったが、真の戦勝品はリオア港に停泊していた――防衛隊が燃やそうとしたものの全焼には至らなかった、何隻もの遠洋軍艦。太陽帝国は残る軍団要塞に囲まれつつも防備を固め、軍艦の構造解析に努めた。皇帝はパチャチュパにて臣民からの称賛を受け、新たな目標を宣言した――帝国独自の大船団を建造し、海を渡り、あの禁欲的な騎士たちがイクサランにもたらした恐怖を薄暮の軍団に突き返すのだ。

 大事業が始まった。皇帝の要望を満たそうと急ぐ新たな船大工たちのために、広大な範囲の森林が伐採された。太陽帝国の若者たちはイクサラン各地の川や湖や海岸に赴き、潮流や風の流れ、星々の位置といったものを学んでいった。帝国の強化作戦やオラーズカへの遠征によって鍛え上げられた精鋭たちは新兵を募集するために生まれ育った街へと戻った。ケツァカマの騎手と調教師たちは、騎兵に適した乗騎を見つけるために各地の密林や繁殖地、保護区へと派遣された。帝国は活力と興奮に満ちていた――征服、そして栄光のための戦争が迫っていた。

 しかしながら、侵略はすでに進行していたのだ。


 未知の土地のどこかで、あるいは空白で描かれる広大な海にうねる大渦の中で、侵略の兆しは現れた。船乗りや人里離れた農場の農民たちは一瞬だけ現れた奇妙なシンボルを垣間見たが、恐ろしさのあまりそれが意味するものを理解しようとはしなかった。沸騰する湖。真円とそれを二等分する直線模様を描く、おびただしい数の魚の死骸。黒い油を垂れ流す木。風に逆らって滞留する赤い雲。

 イクサランは揺れ動き、トレゾンは轟き叫び、孤高街周辺の群島は静まり返り、そしてある日の湿気の多い朝方に太陽海岸の空が裂け、傷のように赤い嵐の目から侵略樹の巨大な金属枝が醜悪さを晒しながら滑り落ちてくる様を見上げた者はいなかった。

 ファイレクシア人はイクサランに襲来し、皇帝の戦争を始まる前に終わらせた。そしてより大きな恐怖をもたらした。三相一体の太陽は沈んで再び昇らず、空は墨のように暗い雲に覆い隠された。かつて黄金の海岸と言われたイクサランの砂の上に、希望なき暗黒の時が訪れた。


 太陽帝国の首都パチャチュパ、その中心にある宮殿トカートリの最上階。皇帝の玉座の間にてファートリは直立不動の姿勢を取っていた。謁見室は帝国軍の会議室へと改築されていた。イクサラン、トレゾン、そしてその二大陸を隔てる海の縮尺図が部屋を占拠しており、その大きさと詳細さは恐れ入るほどだった。汗だくの伝令たちが戦争報告のために到着する一方で補佐官と将校が卓を周回し、小さな模型兵士とケツァカマを少しずつ押し進め、精巧に作られた模型を動かし、あるいは取り除いた。

 白い石の輪がパチャチュパを取り囲んでおり、時折の前進以外には動きを見せなかった。ファイレクシア軍。

 ファートリは両肩を回した。何日も最前線にいたため、身体は労働の重みを感じていた。彼女には休息が必要であり、皇帝が将軍たちから正式な報告を受け取る間は礼装に身を包んでこうして待つ必要などないはずだった。それでも、今なお帝国の虚栄心は義務の履行を要求していた。

 ファートリはこの部屋の将軍、司祭、指揮官の面々を見回した。ほとんどが年老いた男女で、若い頃の彼らに合うよう仕立てられた鎧を無理に着込んでいた。帝国の虚栄心の被害者だ、と彼女は思った。ほんの一握りだがこの会合には彼女と同年代の者たちもいた――オラーズカ戦役での英雄的行為を手柄として昇進した兵士や、それに続く密林での交戦にて軍団兵と勇敢に戦った将校――彼らの存在がこの場を完全な絶望から救ってくれていた。彼らは共に、皇帝が展望所から戻って来るのを待っていた。皇帝は随行員や書記たちを従えてそこをせわしなく行き来していた。

 希望は今や貴重であり、残酷だった。その不在は虚無ではなく刃だった。太陽が空にある時間だが、ファートリは眠りたかった。陽の光が恋しいように、サヒーリが恋しかった。ファートリは目を閉じ、足が立ち続けることを信じた。

 外の空は暗かった。司祭の計算では正午のはずだったが、光は漆黒の雲に覆い隠されていた。太陽は侵略が始まってまもなく姿を消した。各地で燃え上がる野火に覆い隠されて弱弱しい赤色の球体と化し、今はほの暗い赤色しか見えなくなっていた。侵略者が吐き出した汚れは火煙だけではなかった。灰が降り注いでいた。宮殿では連隊相当の従者たちがほうきを手にし、漂う灰を一掃すべくトカートリを縦横に廻っていたが、彼らの奮闘も力及ばなかった。帝国の城塞は冬山のような外観になってしまった。太陽の光は消え、空は深く不気味な寒気を帯びていた。

「我が海軍は何処へ行った」アパゼク・イントリ三世は大股で作戦会議室へと戻ってきた。「あれらには一万人近い兵士と水夫たちが乗っている、見つけ出すのだ!」彼は手を振り、書記と下級士官の一団を任務へと送り出した。彼らにとっては良いことだとファートリは思った――艦隊を見つけ出すことはできないだろうし、これでこの次元の果てまで逃げだす口実ができたわけだ。

「一万人もの兵士、何百隻という船が」皇帝は呟き、大股で卓に近づいた。「トレゾンは目の前だったというのに」そしてその発言を強調するために地図上へ書き記された大陸の海岸を叩いた。パチャチュパ下層に居を構える熟練の玩具職人たちによって彫られた模型船の一団が、二大陸の中間地点にあった――トレゾン侵攻艦隊が最後に確認された位置。トレゾン侵攻は心得違いだとファートリはずっと思っていた。ファイレクシアの脅威がパチャチュパの城壁に差し迫る中で、侵略を受けて侵略が中断されたことを悔しがる皇帝の態度は、信頼を抱かせるものではなかった。

「陛下」指揮官の一人、カパロクティ・サン――何とか、ファートリは彼の姓を思い出せなかった――が声を上げ、咳払いをした。「我がエアロサウルス飛行隊は大洋を捜索する準備ができております。ですが天候が――」

「天候はキンジャーリが清める」皇帝は叫んだ。「カパロクティ・サンボーン、そなたの飛行隊はなぜ飛ばずに立ったままでいる?」

「激しい嵐が沿岸近辺に発生しております、陛下」カパロクティは声を落ち着けたまま答えた。最初のリオア砦包囲戦、そこでのカパロクティをファートリは思い出した。あの灰色の壁の下での厳しい戦いを耐え忍んだカパロクティは、皇帝の一喝にもひるむことはなかった。「荒々しく不自然な嵐です。赤い稲妻が空に明滅し、剃刀が風にきらめく様子を飛行隊が伝えてきております。必要とされるのは意志ではございません、陛下。飛行隊は飛びたいと切望しております。必要とされるのは思慮分別なのです」

「できぬと?」

「できないとは申しません。敵に遭遇する前に更なる兵を減らしてしまう状況から帝国を守りたいのです」

 皇帝はカパロクティをじっと見つめ、その後奥歯をきしませて顎をひくつかせた。ファートリはカパロクティが正しいとわかっていた。彼女は皇帝が同意するかどうかを待った。

「一万か」皇帝は囁いた。その内から激情が退いた。彼は卓の周囲を歩き回り、指揮官と高司祭たちは一歩下がった。そして皇帝は精巧に彫り上げられた模型船に手を伸ばした。彼の黎明艦隊はトレゾンの暗き隅々まで、そして尖って厳めしい城にまで三相一体の太陽の光をもたらす様を模していた。皇帝の渋面はより険しくなった。

「他の者も報告せよ」

 指揮官や司祭たちは一人また一人と口早に報告を述べた。残忍な屠殺者たちに関しての情報は伝え送られてきたものであり、わずか一日前のものでも既に古く役に立たない可能性がある。北の国境沿いの十ほどの街には、肉と金属が融合した塊がうごめいているだけで人の姿はない。死吐きとその繰り手たちは虐殺され、生きてパチャチュパに辿り着いたのは分隊ひとつだけ。西の砦は灰と油の湖と化し、その中心では鉄の薔薇が脈動している。密林を縦横に飛び交う機械蟲の群れ。十人の、百人の、千人の死者。帝国兵も民間人も区別なく金属の骨組みとのたくるケーブルとに融合し、操り人形のような様相で青白い怪物の前に立って進軍してくる。

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アート:Viktor Titov

 これは戦争ではない。これは崩壊であり、その終着点へと向かっているのだ。ファイレクシア軍は異界の混成隊からなる侵略者であり、強制的に改宗させた犠牲者たちによって増強されている。彼らは火と金属の輪でパチャチュパを取り囲み、時とともに少しずつ締め上げている。前進する敵にエアロサウルス飛行隊や敏速なラプトル部隊が駆け付けられたとしても、物事の発生と報告の間には大きな遅延があったため、帝国は対応できなかっただろう。戦場にて個々の兵士たちがこの戦いを先導する一方で、皇帝は指揮官や将軍たちへと彼らの能力を超えた助言を求めた。太陽帝国の大きな強みは、その規模と後方支援にあった。よく組織され、堅固で、圧倒的な数で敵を打ち負かす。ブロントドンのように。だがブロントドンも、空腹で怒り狂う肉食魚の群れと戦うことはできない。守勢で、防衛線もなく後方支援も混乱している状況では、撤退が唯一合理的な選択だった。

「そなたから報告はあるか、ファートリ?」と皇帝は尋ねた。彼は卓から船の模型を一つずつ取り上げては、磨かれた石床に落として粉々に砕いていった。皇帝は石と石のぶつかる不快な音も気に留めなかった。

「私の槍兵隊は戦力を保っております」とファートリは答えた。「ティロナーリが夜に進軍するように、私たちもかの侵略者どもを打ち破る準備はできております」

「我が詩人よ」皇帝は目の周りの皺を深める弱弱しい笑みを浮かべ、また別の船を床に落とした。「戦場詩人よ、死者へとたむける言葉はあるか?」

「数多く、陛下」とファートリ。「語り切れぬほどに」

「そしてそなたの力」皇帝は続けた。「そなたの次元渡りの力、そなたの魔法の力で。我らの絶望の時への介入を、三相一体の太陽に求められるだろうか?」

「残念ながら」とファートリは答えた。「ですが力を貸してくれる存在には心当たりがあります」

 皇帝は次の船を地図から取り上げた。まだ壊されていない最後の模型。彼はそれを両手に持ったままでいた。「説明せよ」

 ファートリは指揮官たちの列を離れ、皇帝が立つ卓の端まで歩いた。彼女は一礼し、地図を指さした。

 皇帝は頷いた。

 ファートリは、パチャチュパの上に並べられた多くの戦士の小像から一つを手に取った。彼女は皇帝が床に叩きつけて粉々にした船の模型の破片を避けながら、卓の周りを反時計回りに歩いた。

「パチャチュパは包囲されています」ファートリはそう言いながら、模型の都市を囲む白い石の輪を指さした。「私たちには水と武器、そして兵があります。首都は握り拳のように堅牢ですが、孤立しています。各地からの安定した供給が無ければ、パチャチュパは飢えることになります。この包囲網を破るか、十分な数のファイレクシア人を引き離すことで補給線を再び繋がなければならないでしょう」

「オテペクとアゾカンは消し炭だよ」インティが言った。彼の声は低く響いた。「小ポカトリも」

「ええ」とファートリは言う。「ですがここ――イトリモク州と、ケツァトル州。都市は無く、領地のみがあります。小さな町だけです」

「その通り」カパロクティが答え、肩をすくめた。「そこにファイレクシア人が現れたという報告はない」

「あるのは農場だ」皇帝は呟いた。「トウモロコシ、カボチャ、それに豆か。もともと住人は少なく、ほとんどの民は安全を求めて我が城壁の中と逃げ込んだ。現地には食料だけが残されている」

「御明察です、陛下」ファートリは頷いた。「この地の住人は逃げ出し、ファイレクシア人は彼らを追って来ています。侵略者は生命を求めてはいません――奴らが欲しているのは力です」ファートリは卓の下に置かれた棚に手を伸ばし、死者の模型が保管されている引き出しの中から恐竜の小像をひとつ取り出した。彼女はそれをオラーズカに置いた。

「キンジャーリの導きだ」インティはその意味を理解し、満面の笑みを広げた。

「古の恐竜たちをオラーズカに呼び寄せます」ファートリは高らかに宣言した。「これでファイレクシア軍の本体をパチャチュパから引き離せるでしょう。奴らは大きな力を求めているのですから、それを見せてやります。敵は蠅が糞に群がるように集まり、結果ここの敵は減少し、パチャチュパの包囲を突破することも可能になるでしょう。」

 集まった将軍たちからの驚きと同意のざわつきが会議室に鳴り響いた。

「危険な作戦だな、戦場詩人よ」カパロクティが言った。「もしファイレクシア人がオラーズカで待ち構えていたら? 古の恐竜たちがお前の召喚に応じなかったらどうする?」カパロクティは他の将軍や指揮官へと手を振った。「兵を割いてパチャチュパが陥落する危険は犯せんぞ」

 将軍たちは再びざわつき、彼らの同意は懸念へとねじれた。

「必要なのは僅かな戦力のみです」とファートリは答えた。「私が指揮する槍兵隊。そして志願兵――首都から西の密林に詳しい者、オラーズカを知る者を」

「それは無理――」

「静まれ、カパロクティ」皇帝が小声で制した。「我らが帝国の中枢を守り通したいというそなたの意志は称賛に値するが、今は口を閉ざすがよい。考えたいのだ」

 部屋が静まり返った。全員が皇帝へと視線を向け、皇帝は地図上のオラーズカの隣に置かれた模型を見つめていた。

 皇帝は笑みを浮かべた。

 帝国の虚栄心も満足する作戦だった。


 ファートリと彼女の槍兵隊は、侵略の初期段階で散り散りになった連隊からの志願兵や解放されてファートリの指揮下に入った捕虜たちで構成されるごたまぜの予備兵を伴い、川沿いの区域を経由して首都から離れた。おおよそ百名の兵士とその半数ほどのケツァカマが、川岸に沿って小走りに進んだ。

 パチャチュパに隣接するこの川は、広大な内陸の山脈から街へと淡水を供給している。川はイトリモクから勢いよく流れ出してうねり、その先の氾濫原を水びたしにする。そしてパチャチュパの北へと流れを変えるが、そこから分岐する大運河が都へと水を提供している――洗濯、廃棄処理、川沿いの工場の動力、および余暇のために。そして川は海へと至る。

 ファートリの隊は街の北側から抜け出した。南には炎の戦場が広がり、帝国ブロントドン隊とモンストロサウルス隊の轟き渡る声で荒れ狂っていた。大砲の轟音が反響し、砲声がパチャチュパの南の城壁を登って黒い空へと伝わっていった。牽制、激しい砲撃、そしてファイレクシアの包囲網を崩そうとする個々の試み。ファイレクシア人は狡猾な敵であり、単純な陽動ではそれらの注意を引くことはできない。ファートリ隊を敵に気づかれることなく街から脱出させるために、帝国軍は本気で対抗する必要があった。一部の将軍はこの作戦に反対の声を上げたが、皇帝は決行の態度を崩さなかった。

 ファートリは群葉に覆われた川岸を急ぎ進み、太陽の加護がない寒気に身を縮めた。首都を挟んだ反対側で行われている激しい戦いについて考えたくはなかった。彼女が希望を繋ぐため、兵士たちの命が殺戮の場へと投げ出されている。だがファートリはそれらの命を心に留めた。彼女は帝国の良心なのだ。この瞬間を記憶しておき、この痛みを語って歴史に残すのが彼女の役割なのだ。暗がりの中、彼女は前の兵士の静かな足音に続いて進み、後ろの兵士が鎧のかすかな金属音を鳴らして続いた。足元の地面は泥だらけで、煙と雨の悪臭が漂っていた。右手の広い川は、その大きさにも関わらず静かだった。対岸にファイレクシア人がいる可能性。筋肉の緊張。暗い密林が機械の羽音と金切り声を一斉に上げるまでの恐ろしい猶予。

 ファートリはサヒーリが恋しかった。あの人の愛に満たされてこの川辺を歩きたかった。白砂の海岸で一緒に座りたかった。緑深い密林の只中で共に立ち、イクサーリの沈む光の中でキスをしたかった。

 そうではなく、ここにあるのは遠くから響く大砲の音。膨れ上がった水死体が川の流れに乗り、青白くゆっくりと浮かび上がる。ひとりの吸血鬼が彼女の後ろに忍び寄った

「何のつもりですか、マーブレン?」ファートリは小声で尋ねた。彼女は振り返ってそれが彼であると確認し、痩せて青白いこの聖騎士が自分と同じように居心地悪く鎧を着こんで疲労感を漂わせている姿に気分を良くした。

「この機会に感謝を述べたい」とマーブレンは言った。彼は異様なほど優雅に歩を進めた――彼の視覚はファートリと異なり、この半影夜の影響を受けていない。「我ら聖騎士団がそなたの帝国の地下牢で衰弱していくというのは全くもって虚しいものだ。殉教の機会を得るほうがずっと好ましい」

「私は死ぬつもりはありません、マーブレン」ファートリは答えた。「栄光を望んでもいません。私は帝国の民のためにできることをするのです」

「誰も死ぬつもりはなかろう」とマーブレンが返した。「しかし死には死の絵図がある。ともあれ、我らとの取引に耳を傾けては貰えぬかな」

「取引ですって?」

「我らはこの遠征のために釈放されてそなたの指揮下に入った。とはいえ、報酬としては何も約束されていない」

「もう帝国の独房でやつれていかずに済みます」ファートリはそう言った。「それがあなたがたの報酬です」

「もっと明確なものを期待しているのだがね。自由を」

 ファートリは足を止めた。続けてマーブレンも。他の兵士の列は、川の中に立つ岩の周りを流れる水のように、ふたりの隣へと分かれて進み続けた。インティが二人に近づいて立ち止まった。

「吸血鬼さんたちはこれが成功した後、解放してほしいそうよ」ファートリは従弟に伝えた。「どう思う?」

「ここで殺してやることもできる」とインティは言う。「でも侵略者に倒されるまでは戦力として使えるよね」

「何を話しているかは私にもわかる。それは知っているであろう」マーブレンは告げる。「私もそなたらの言葉を話せるのだから」

 インティは肩をすくめた。「わかるようにゆっくり話してやったんだよ」そしてファートリへと向きなおった。「まかせるよ、従姉さん」

 マーブレンは貴族だ。戦場詩人であるファートリは、貴族というものが何であるかを理解していた。帝国の富裕層とトレゾンの冷淡な貴族は、ある一点について同じ――懇願する時でさえ上からだ。

「私たちにそういった取引の前例はありません」とファートリは言った。「進軍します。どうするかは後々に話し合いましょう」

 マーブレンは一礼し、その明らかな皮肉にファートリが目を丸くするほど長くそのまま頭を下げ続けた。彼女は再び歩き始めた。インティはマーブレンをつついて歩かせると、横に並んでファートリの後ろについた。そして槍兵隊と予備兵たちとともにオラーズカへと進軍した。


 ファートリとその一団は予定通り朝方にオラーズカへと到着した。刺激臭のする雨が黄金都市に降り注ぎ、滝は暗く荒れ狂う激流へと膨れ上がっていた。都に生い茂っていた群葉の多くは今や枯れ、黒腐れして萎れ果てていた。帝国の要地は今や水びたしのクレーターでしかなかった。

 右方向で動きと鈍いざわめきがあった。兵士たちは湿った大地に腹ばいになり、都を偵察してきた泥だらけの小規模な斥候部隊に道を譲った。

「戦場詩人殿」斥候隊長がファートリに近づいて小声で告げた。「神殿への道は確保しました。このテミロは」斥候隊長はそう言い、連れだった痩せぎすで色黒の男性を示した。「侵略が始まって以降オラーズカに駐屯していた者です」

「詩人殿」テミロは敬礼しながら言った。「皆様方はキンジャーリの賜物です。我々は怪物に対して孤立したものと思っておりました。水はありますでしょうか?」

 ファートリはテミロに自身の水筒を手渡した。「この夜は恐ろしい孤独をもたらしますが、夜明けは近づき友を連れてきます。報告をお願いします」

「ファイレクシア人が街をうろついております」テミロはしばし水を飲み続け、水筒の蓋を閉めてからファートリへと返した。「外にいるのは危険です――翼神殿の近く、儀式地区の中奧に我々の駐屯地があります」

「詠唱の間に行く必要があります」ファートリは大神殿を指さしながら言った。「経路は確保できますか?」

「あそこには監視所がありました」テミロは首を横に振った。「ですが何日も連絡はなく、我々も状況を確認には向かいませんでした――危険すぎるのです」

 翼神殿は壮大な遺跡だった。太陽帝国の指揮下で遠い昔に建造されたこの神殿は、帝国の力と、三相一体の太陽の栄光を表す証だった。皇帝の強欲によってオラーズカが帝国から剥奪された後、失われて忘れ去られた翼神殿は、川守りによって作り変えられた。再び太陽帝国の下におかれた今、この神殿は両文化の要素を有している。

 テミロは続けた。「頂上への唯一の経路は三百段の階梯です。そこに向かうための内部通路があります。とはいえ、三相一体の太陽の光を浴びずに寺院の頂上へと近づくことはできないように設計されております」

「そりゃすごいや」インティは皮肉を込めて呟いた。

「今よりも誠実な時代に建造されたということですね」ファートリも同意した。「報告に感謝します、テミロ。あなたがたの駐屯地まで案内して頂けますか?」

「かしこまりました。ですが速やかに移動しなければなりません。外は安全とは言えませんので」

「わかりました」ファートリは伏せていた身体を起こし、槍兵隊に目くばせをした。うねるように、一団とケツァカマも立ち上がった。続けての鋭い身振りで、彼らは都へと踏み入った。一団は武器を構えながら一列で進み、オラーズカの黄金の大通りを曲がりくねりながら進んでいった。だが遠くから聞こえる滝の音と隊列が急ぎ進む金属音があるだけで、オラーズカは沈黙していた。

 赤い閃光が空を照らした。

 轟音が滝のコーラスを裂き、都を覆う柔らかな低音を打ち砕いた。それは恐ろしい音で、ケツァカマの普通の唸り声などではなく、音を越えた何かだった。

 ファートリはよろめき、他の兵士たちと同様に身を屈めながら空を見上げ、膨れ上がる雲々に広がる赤い稲妻の網に畏怖した。轟音はしばし続いた。その間彼らは熟練の槍兵団ではなく怯えた動物と、神の前にこうべを垂れるただの人となった。

 彼らが見つめる先の地平線、オラーズカが建造された盆地のふちに、古の恐竜エターリが立っていた。その巨体は最も大きなモンストロサウルスや戦慄大口を遥かに凌駕していた。その傍にいることは、古代の王の足元にひれ伏すことを意味した。歯と鱗の山が動き、咆哮し、意気揚々と歩みを進める様を目撃することを意味した。その輪郭を見つめ続けることは難しく、目はかろうじて保持できる姿を捉えるしかなかった。

 ファートリ指揮下の一団が騎乗していたケツァカマは抑止を振り切り、乗り手を投げ捨てて自由を得た。そして慌てふためいたように多くが都へと逃げ込んだ。

 漆黒の雲がエターリの内から噴出した。その肺は肋骨の間から雷雲を吐き出す機関へと変貌していた。赤い稲妻が古の恐竜の輝く金属の背にさざ波を立て、心臓の鼓動に合わせて脈打った。エターリが咆哮のために後ろ足立ちで体躯を伸ばすとその律動はさらに大きくなり、次元を覆いつくす閃光が空を真紅に染めた。その咆哮にファートリの一団は膝をついた。彼らは手で耳を覆い、悲鳴はエターリの叫びに塗り潰された。

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アート:Ryan Pancoast

 エターリは嵐そのものだった。ファイレクシア人は古の恐竜を作り替え、イクサランの化身を彼ら自身の忌まわしい目的のためにねじ曲げたのだ。ファートリは跪き、冷たい金箔作りの道に両掌をついた。恐怖だけがそこにあった。

 エターリの立つ尾根は動きに沸き立っていた。数多のファイレクシア人、その地上部隊やもっと大型の怪物も、彼らが今支配している古の恐竜に比べたら小さなものだった。

 ファートリの隊と予備兵たちはテミロに続いて駐屯地へと駆けた。だがファートリはしばし立ったまま、古の恐竜の身体に残る生体部分にエターリを取り戻す何らかの希望を見出そうとしていた。大いなる原初の嵐は重苦しい雲を吐き出し、その煙はかなとこ雲のごとく立ち昇っていった。エターリの中にイクサランは欠片も残っていなかった。

 ファートリはティロナーリ、キンジャーリ、イクサーリへと短く祈り、そして進軍してくるファイレクシア人に先んじるよう急いで隊の最後尾に続いた。


 ファートリの隊と予備兵たちは、包囲されていたオラーズカの守備隊の残りと共にテミロの駐屯地へと避難し、そして数日が過ぎた。暗いとはいえ、内部の広間は乾いていて安全だった。ファイレクシア人はまだ中への入り口を見つけてはいなかった。

 ファートリ、インティ、マーブレン、そしてテミロは防備を固めた扉の前、入口の間にそれぞれ離れて立っていた。彼らは薄暗く燃える小さな松明を持っていた――ほぼ完全な暗闇の中で二日間を過ごした後では、通常の松明は眩しすぎた。

「あいつら、扉を開けるのを諦めたみたいだ」とインティは言った。

「無論、彼奴らは我々がまだここにいると知っているだろうがね」マーブレンが付け加えた。

「じゃあなんでやめたのかな?」インティが尋ねた。

「生き残りがいる別の隠れ場所があるかもしれません」テミロが囁き声で言った。「沿岸から侵略についての警告を受けていました。都の警備隊は武器や食料、水を備蓄しており――他にも駐屯地がありました」テミロの声はだんだんか細くなっていった。その可能性はほぼ望めない。

 生き残り。その言葉は死の印だった。防衛隊でも兵士でもなく、生き残り。ファートリは言語が心と精神の武器であると理解していた。鉄が剣の形に打たれるように、磨かれた言葉には重みがある。自分たちがいま生き残りであると認識することは、運命を石に刻むことと同義だ。

 ファートリはそうするわけにいかなかった。

「テミロ」ファートリは声をかけ、三人の男の間に形成されつつある破滅のらせんを遮った。「翼神殿の頂上へ行く方法は他にもあると言いましたよね?」

「頂上へ、ではありませんが」テミロはそう返答した。「中層の、司祭の部屋へ続く通路が何本かあります」

「それで充分です」ファートリはそう言い、頷いた。「インティ、マーブレン、兵士たちを呼んでください。隠れるのはもう終わりです」

「ファイレクシア人が都を支配しています」とテミロは告げた。「エターリをご覧になったように――」

「ファイレクシア人は私たちを支配していますか?」ファートリは首を横に振るインティに目を向け、それからマーブレンを見やると、彼も少しして続いた。ファートリはテミロに向けて告げた。「されていませんね。では、私たちを司祭の部屋まで案内してください。そこから頂上にたどり着くまで戦い、古の恐竜たちを呼び寄せます。そして私たちの次元の未来がいかなる運命に決するのかを見届けます」

「その恐竜たちが乗っ取られたら?」インティが尋ねた。疑念ではない。従弟が彼女を疑うことはない。彼は癒し手や兵士の立場で尋ねたのだ――単にはっきりさせるため、ひとつの目標を達成するための対応を考えるため。

「そうしたらイクサランは失われるわね」ファートリはそう言った。「終焉を知るのは私たちが最初になるということ」

 インティは唇を噛み、決意を込めて頷いた。テミロは目を閉じて祈りの言葉を囁いた。マーブレンは牙をむいてほほ笑んだ。

「そなたはこの帝国を死で覆うであろうな」とマーブレンは言った。「しかし、栄光もあるやもしれん」

 ファートリは続けた。「インティ、隊の準備を整えておいて。マーブレンは聖騎士隊を起こして、あなたがたの神に祈りを捧げさせて。侵略者に対抗するのは私たち――互いに刃を向けあう前に、共にこの敵に立ち向かいましょう」

「了解した、詩人殿」とマーブレンは返した。彼は一礼し、暗闇の中へと消えていった。軽く頷くとインティも続いて場を離れた。テミロがその後ろに従った。

 独りになり、ファートリはこらえていた震える息をようやく吐きだした。彼女は祈りを控えた――必要になるのはこれから先、来たるべき時。代わりに、彼女はサヒーリを思った――彼女の眩しさを――そして他は暗闇の彼方に追いやった。


 翼神殿の中央に渡されたアーチ道を越え、頂上の詠唱の間までは三百段の階段がある。それは神聖な数、三相一体の太陽の一相ごとに百段。三相一体の太陽の栄誉を受ける前の秩序も意味もない世界を表現するため、過去は秩序も意味もない数えきれないほどの段数だったという。今から運命が決まるまで、三百段。

 ファートリの槍兵隊はそのアーチ道に防衛線を敷こうと急いだ。彼らは盾と槍を壁に取り付け、眼下の都市に狙いを定めた。

「門を死守するぞ」打ち付ける風音を越えてインティの怒鳴り声が響いた。「ここは狭所だ。接敵する数は僕たちと同じぐらいになる」

「とはいえ敵は無尽蔵だ」とマーブレンが付け加えた。「急いで頂けるかね、詩人殿。私は死の救済を信じてはいるが、我々の誰もここでそれを享受したいとは思っていないのでね」軍団の聖騎士と人間の支援者からなるマーブレンの小隊は、雑多な鎧と武器をまとっていた――彼らが捕縛されたときに所持していたものや、帝国の武器庫から与えられた古い装備。にもかかわらず、トレゾン兵は決意を固めていた。

「いいでしょう。従弟君、私の隊はあなたが指揮して。それとマーブレン」ファートリは吹きすさぶ風に負けないように叫んだ。「これが私からの取引です」彼女はアーチ道と眼下のファイレクシア人を示しながら言った。

 マーブレンは剣を振りかざし、一礼し、予備兵たちへと列に並ぶよう指示した。雨が降り始める中、太陽帝国と軍団の兵士たちが肩を並べて立った。最初はゆっくりと、そして着実に。

 赤い稲妻が空に無数のひび割れを入れ、神殿の外周にうごめく肉と機械の渦巻きねじれる大群を照らし出した。オラーズカの暗い街路はファイレクシア人で埋め尽くされていた――変質させられたものがゆっくりと流れる水のような大群の中でうごめき、純粋なファイレクシア人がそれらの上をゆく。デーモンやナイトメア、そして武器の形をした異様な姿。一体また一体とそれらは神殿の最下段を登りはじめ、その途中に配備された兵士たちに気づいた。そして押し寄せてきた。機械化されたケツァカマが大きな鳴き声を発し、周囲や上に乗っている小さなものにうなりながら、階段を踏みしめ登ってきた。哀れにも変質させられたものたちの一群は、服装や武器は乱れながらも隊列を乱すことなく行進してきた。それらの中に、どこのものとも知れない優雅な銅色の獣がいた。それは昆虫のような長い脚で大股に階段を登ってきた。その玉虫色の甲皮の各面ごとに顔があり、恐ろしい様相でまばたきし、叫び、怒鳴り声をあげていた。

 そのさらに先の暗がりにはファイレクシアの巨怪が幾つもそびえ立ち、都をねり歩く人型の輪郭は人間をあざ笑うかのようだった。近くにも遠くにも、破滅だけがあった。

 ファートリは味方に鋼の祈りを囁き、振り返り、登り始めた。背後から聞こえる機械と人間の叫び声を、剣と戦の音を後に残して。


 -少し以前-

『かなわない敵と戦うのはなぜ?』それは別々の目的地へと出発する朝、夜明け前にふたりが目覚めた数時間の中で、技術者が尋ねた詩人への質問。

「どういう意味です?」ファートリは尋ね返した。彼女はサヒーリの黒髪が自身の指の間を通る感触に気を取られていた。絹のような。上質の絹のような。彼女はこれを覚えておこうと、この瞬間を自身の歴史に残そうと決めた。

「単純な質問よ」サヒーリは言う。「戦わなければいけない、それはわかっているの。私は死にたくない。貴女にも死んでほしくない。でも私の心のどこかでは、ただ……」

「諦めますか?」

「休みたい」とサヒーリ。「負けを認めたくはないの。ただ戦いを止めたいだけ。終わらせてやるの。そうすれば終わりになるでしょうし。恐怖、苦痛、苦悩――まるで私たち、何もかもの終わりを止めようとしているみたい。私たちの次元や多元宇宙全ての終わりも。何もかも。それができなければ、みんな死んでしまって、恐ろしい何かになってしまう。それが怖いの」

 朝鳥が外で鳴き始め、遠くから聞こえる長い鳴き声が蒸し暑い夜明けを告げていた。サヒーリの声はほんの囁きにすぎず、胸にそっと息を吹きかける程度のものだった。ファートリは唇をサヒーリの頭に近づけてキスをした。

「私の答えが欲しいですか?」とファートリは尋ねた。

「これに答えられるのは貴女だけだと思います」サヒーリは頷きながら言った。「夜明けを見せてください、Hさん」

「私よりもずっと以前、ひとりの戦場詩人がいました」ファートリは話し始めた。「何世紀も前にその肩書きを持っていたヨロツィンという人物です。彼女の人生は苦難の連続でした。彼女はパチャチュパから遠く離れた小さな村の家庭に生まれました。帝国がまだ若く渇望していた頃、まだ帝国ではなく、そうなろうとしていた頃です。ヨロツィンの村は征服され、彼女の家族は殺されました。彼女は帝国の言葉を知っていて、その声が美しかったので、首都へと連れていかれました。そして成人となり、皇帝から戦場詩人の肩書きを与えられました」

 サヒーリは体をファートリに近づけた。ファートリは呼吸を遅くした。

「ヨロツィンはすぐれた詩人で、その詩句は明朗流麗、生涯にわたって皇帝の良心でした」ファートリは再びサヒーリの頭にキスをし、髪に唇を寄せた。物語は終わり、太陽は昇り、彼女は去るだろう。

「その人はなぜ帝国に仕えたの?」とサヒーリは尋ねた。

「復讐のため」ファートリは言う。「長きにわたる復讐です。ヨロツィンが亡くなった時、帝国は悲しみに包まれました。涙が街路を満たし、嵐の後の雨のように溢れました。皇帝はトカートリの広間をさまよい歩き、ヨロツィンの幽霊を探しながらあと一節だけでもと懇願し続けるだけだった。そう伝えられています」

 暗い部屋が薄明かりを帯びはじめた。太陽が昇っていた。朝を呼ぶ夜明け。

「ヨロツィンは世界の終わりに生きていました」ファートリは続けた。「これを踏まえて。私たちが直面するものは、彼女が直面したものと何ら変わりません。それは征服し、すべてを終わらせ、そして現実を書き換えようとする強大な敵です。私たちの義務は、それを生き抜くことです。来る日も来る日も絶望をはねつけ、もし死んだとしても、私たちを殺した相手の心を一緒に連れ去る。ヨロツィンと同じように、私たちもこれは止められません。これを生き抜くしかないんです」

 暖かな光がファートリの部屋のカーテンを通り抜け。外の鳥の鳴き声に加えて、パチャチュパの朝の街路が賑わいはじめる音が遠くから、けれど絶え間なく聞こえ始めた。

「希望を持てる話とは言えないわね」

「愛しています。だから嘘なんて言いません」

「戦士さんと話したみたいな気分」サヒーリはそう言いながら体を起こした。彼女は頭を手で支え、肘を枕に置いた。そして夜明けを見つめると、柔らかな笑みを浮かべてファートリに向きなおった。「戦士さんじゃなくて、詩人さんとお話がしたいの。大丈夫って言ってくれる?」

 すべてが大丈夫、なんて言えば嘘になる。けれどサヒーリの目は大きく開かれ、朝は暖かく、これが二人にとって最後の瞬間、終わりの前の最後の瞬間だった。

 ファートリはサヒーリに手を伸ばし、その髪を梳き、その身体を引き寄せた。二人は永遠のキスをした。そして涙を浮かべながら、ファートリはサヒーリの頬を両手で優しく掴んで離した。

「きっと大丈夫ですよ」ファートリはそう諭した。


 -そして現在-

 その嵐は猛威を振るい、飢えに狂って渦巻く暴風と化していた。雹、黒ずんだ雨、そして赤い稲妻。エターリが都に辿り着いたに違いない。ファートリは登る途中で一度だけ振り返り、兵士たちが門を堅持しているかどうかを確認した――彼らは、狭い入り口を通るには大きすぎる肉と機械の押し寄せる壁に耐えていた。

 ファートリは祭壇の縁を掴み、祈りを捧げた。朗唱の時間が与えられるように。彼女の小さな一団が門を守る時間が与えられるように。エターリが迫り来るまでの時間が。次の朝を迎えるための時間が。この次元にもう少しの時を。ファートリは声を張り上げ、目を閉じた。嵐の壁が頭上に迫り、風の唸り声、破滅の風、終わりの音を残してすべてが去った。

 ファートリは嵐へと語りかけた。死へと、捕食者の飢えへと、うねる大海へと、あらゆる災厄へと、そして夜明けへと語りかけた。彼女はそれらすべてへと、それらの同胞である嵐について語った。嵐がどのようにして同胞たちから引き離されて敵対したのか、そしてイクサランが強大な敵、すなわちこの終焉に立ち向かうためには死を必要としていることを、飢えを、大海を、恐怖を、そして夜明けを必要としていることを語った。

 答えは沈黙だった。

 嵐が弱まった。ファートリが目を開けると、遠くで赤い風が渦巻いている様が見えた。その場でじっと動かずに。

 戦場詩人は祭壇から離れた。彼女は詠唱の間から扉へ向かい、外に出て三百段の頂上に立ち、オラーズカとその下で激しく荒れ狂う戦いを見つめた。

 ファートリの一団は依然として持ちこたえており、その防衛線はファイレクシア兵の死体を壁にすることで補強されていた。エターリは彼らよりもわずか一段低い平屋根におり、門へと迫りつつあった。古の恐竜は味方をかき分けながら翼神殿を下層からよじ登ってきたが、突如その動きを止めた。堕ちたその神的存在の背びれに並ぶ金属棘に稲妻が脈打ち、飛び散り、かき消えた。ファイレクシア軍はそのまま戦い続けたが、エターリの身体を迂回せねばならず、滑りつつもがきながら同胞の死体をよじ登ったところで兵たちが構える長槍に狙い撃ちされた。殺されたそれらは斜面を転がり落ち、続こうとする怪物たちの波に飛び込んでいった。太陽の光が差し込んで陰惨な舞台を照らした。あまりの眩しさにファートリはひるみ、手をかざして両目を覆った。

 光が!

 ファートリは空を見上げた。光とともにゼタルパが、夜明けの名を冠する古の恐竜の巨大な影がエターリの嵐を突き破り、地上へと急降下してきた。ゼタルパの翼は地平線よりも大きく広がり――少なくともそう見えるほど大きく広がり――その叫びが夜を払いのけた。夜明けは怒りとともに飛来し、すぐにエターリの鉤爪に激突した。ゼタルパは翼を広げて相手に覆いかぶさり、力強い顎がエターリの首に食い込んだ。翼神殿はその威力に震えた。衝撃波が広がり、何百体というファイレクシア人が吹き飛ばされて階段や平屋根から転げ落ちた。ファートリの一団もよろめきながら後退はしたが、爆心地ほどの被害はなかった――彼らはすぐに立ち直り、再び防衛線を張った。

 ゼタルパの夜明けの介入は静かだったかもしれない。あるいはエターリの最初の咆哮のように大きすぎてファートリは認識できなかったのかもしれない。だが神殿の土台から立ち昇る一対の咆哮はこの夜明けを二つに裂いた。ファートリは近くの観測所へと駆けた。それは司祭たちが三相一体の太陽を称えるための展望所であり、オラーズカの街を歩く人々からよく見える位置にある。そこからであれば、黄金都市の通りを見下ろすことができる。

 別の流れが大通りと広場を塞いでいた。変質させられていないケツァカマたち、肉食獣と草食獣と雑食獣、あらゆる形と大きさの力強い生き物たちが、追いつめられたファイレクシア人へと一斉に突撃した。彼らと共にいたのは羽毛と棘に覆われた死の顕現、テジマクだった。それは身震いをすると、退却するファイレクシア人に向けて棘の嵐を放った。残存兵はテジマクの従獣、武装したケツァカマによる鈍重な突進で一掃された。大槌の尾が金属を砕き、ファイレクシアの軍団兵をまとめて薙ぎ払っていった。

 また別の咆哮がファートリの注意を引いた。振り返って都を見渡すと、ガルタが遠くの神殿にまたがって立ち、都へとにじり寄るファイレクシア軍へと唸り声をあげて挑んでいた。対するファイレクシアの巨人たちは、叫び声をあげる生きた金属で作られた武器を構えていた。それらは剣を鳴らしながらガルタに迫り、ガルタは怒り狂ってそれらに跳びかかった。ガルタは一体を引きずり倒し、その剣を強打して弾き飛ばし、胴体のあたりに噛みついて腱と金属幹をまとめて引き裂いた。別の一体が背後から近づき、雲間に隠れた頭部を狙って武器を掲げた。だがそれを振り下ろそうとした瞬間、その足元から蒸気が間欠泉のように噴き出した。円柱状の爆発の中心に黒い影が潜んでいた。潮流の体現、ネザールの姿があった。ネザールは鞭のような長い胴体を巻き付けて巨人の足から手首までをその身で包みこみ、大海のような圧力で押し潰した。水が雨のように降り注ぎ、ガルタとネザールは残る巨人を引き裂いていった。

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アート:Zezhou Chen

「どこ?」ファートリは呟き、都の地平線を見渡した。呼びかけに応じてくれる古の恐竜はもう一体いるはず。戦場詩人は恐れることなくその胸に強く希望を抱き、展望所を歩き回った。他の恐竜たちは――ゼタルパ、ネザール、テジマク、そしてガルタは――彼女の呼びかけに応え、オラーズカを守るために降り立った。けれどもう一体がまだ姿を見せていない。

 ザカマが。

 変質させられたのだろうか? 死んでしまったのだろうか? そのとき下の門からの喧噪がファートリの注意を引いた。ゼタルパとエターリの熾烈な戦いが一瞬だけ緩み、大きな翼で神殿を叩くようにしてゼタルパは空へと戻った。彼女は咆哮を上げ、血を雨のように降らせながら上昇して体勢を立て直した。エターリは黒い油を吹き出してよろめいた。だが致命傷を受けてはおらず、階段にしがみついた。膠着状態だった。

 ファートリは三百段を駆け下りて門へと急いだ。まもなく下りきるというところで、雨に濡れた石に足を滑らせて転びそうになったが彼女はこらえた。

「インティ!」すさまじい戦いの喧騒に負けじと彼女は叫んだ。「インティ、どこにいるの?」

「ここだ、詩人殿!」マーブレンが答えた。血まみれで油に汚れたマーブレンは片足を引きずっていたが、負傷したインティを担いでファートリへと向かってきた。彼は自身よりも大柄なその男を戦線の数歩後ろへと運び、身を屈めてそっと降ろした。「どこを怪我したの?」インティの横に身を滑らせ、ファートリは尋ねた。従弟はうめき声をあげた。彼は目を閉じ、瞼を震わせていた。マーブレン同様、インティも血と油と灰にまみれていた。

 ファートリはインティの容態を確認し、顔から血と灰と油をぬぐい取った。どこも切れておらず、血は彼のものではない。そっと、彼女は従弟の頭を横たえた――彼のために今できることは何もない。

「ファートリ殿!」防衛線からの大声――テミロが彼女を呼んでいた。彼は槍を握りしめ、前腕には包帯が巻かれていた。その声がなければ、もはや戦列に並んでいる他の兵士と見分けはつかなかった――太陽帝国も薄暮の軍団も、兵はみな灰と汗にまみれ、ぼろぼろの包帯にくるまれ、疲れ果てていた。

 ファートリは中庭を横切り、防衛線で戦うテミロと自身の隊に合流した。マーブレンも後に続いた。

「見てください」テミロが叫び、エターリとその先のオラーズカの通りへと続く下り階段を指さした。

 ファイレクシア軍は退却を始めていた。階段を転げ落ち、金属と肉のなだれとなって指示も統率もなく敗走していった。それらはファートリとその隊に背を向けて立つエターリの周囲へと殺到した。変質させられた古の恐竜の傷口から黒い油が滴り落ちた。その背びれはゼタルパの鉤爪によってずたずたに引き裂かれ、背骨は他の恐竜たちからの攻撃によってひび割れ折れていた。エターリが息をするたびに余熱が排出され、稲妻とオゾンの酸気と悪臭が息苦しく立ち込めた。偉大なる嵐は異国の機械によって生け捕りにされ、使い捨ての兵器に成り下がっていた。ファートリは涙を流しそうになった。

 眼下のオラーズカの暗い街路に、ひとつの巨大な影が動いた。まるで地震がひとつの山を動かしているような、とてつもなく大きな姿。当初ファートリは大地そのものが隆起するのではと思ったほどだった。神殿から逃げ去るファイレクシア軍は身を震わせ、最前列は急遽動きを止めて方向転換を試みた。だが前方の危険をまだ目視していない中列と後列の部隊はそのまま前進していた。

 最後にしてもっとも偉大な古の恐竜、ザカマがその影から姿を現し、三つの頭が三つの音で咆哮を発した。ファイレクシア軍の最前列は分解されて消滅し、巨大な音の波に洗い流されて金属が日光のように眩しく閃き、それらは岸に打ち寄せる波のごとく翼神殿の壁面に叩きつけられた。ファートリは伏せるよう皆に呼びかけた。全員がその通りにした直後、轟く咆哮が、続いて熱の壁が門を吹き抜けた。ファートリは両腕で頭を覆い叫んだ。圧倒的な音、熱風、揺れる神殿に対する原始的な反応だった――終わりの音、そして終わりを否定する次元。

 その波は去り、ファートリは生き延びた。彼女は立ち上がり、両隣の槍兵に手を貸して立ち上がらせた。もっとも偉大なる古の恐竜の出現がどのような結末に至ったかを目撃しようと、全員が揃って門の先を覗きこんだ。

 ザカマは第一の展望所へと向かった。中央の頭は逃げ惑うファイレクシア軍を無視し、両脇の頭が歯を鳴らして威嚇した。変質させられたものの部隊はザカマに攻撃を仕掛けようとしなかった。侵略軍の主部隊である白色の怪物たちだけがザカマを倒しに向かい、逃げる仲間の波をかき分けて巨大な恐竜の足首へと身を投げた。原初の災厄はファイレクシアの軍勢を気にも留めず大股で歩を進め、背の高い草の中を歩くように神殿を登り、変質させられたエターリを目指した。エターリは身構えるように身体を低くし、壊れた背びれの上では稲妻が火花を散らして低い音を立てていた。

 ザカマの中央の頭が、人の背丈ほどもある短剣状の歯がみっしりと並ぶ口を大きく開き、息を吸い込んだ。

「伏せて!」ファートリは叫んだ。

 ザカマは再び咆哮を上げ、エターリに向かって熱波と音波を放った。神殿の側面が鳴動した。翼神殿の黄金の壁面が一瞬にして融け、その下の黒い石造りの扇状構造が姿を現した。ザカマの純然たる咆哮の力がエターリを打ちのめした。彼はよろめき、露出した金属の内骨格は激しく熱せられてよじれ、燃え上がってただれ落ちた。エターリは片膝をついたが、それ以上体勢を崩さないように剃刀の腕で身を支え、もう片方の腕を掲げて防御の姿勢を取った。

 ザカマは中央の頭でエターリの腕に噛みつき、一気に素早く引きちぎった。エターリは立ち上がろうともがいたが、ザカマのもう二つの頭が突き出され、ファイレクシア化した恐竜を地面へと押し付け倒した。

 ほんのひと時、エターリはもがくのをやめた。ザカマは相手をしっかりと掴み、押さえ込み、屈服させた。ザカマは中央の頭をエターリに密着させ、鼻を鳴らすと変質させられた同類の匂いを吸い込んだ。二体は何をやり取りしているのだろうかとファートリは訝しんだ――状態の認知だろうか? それは悲しい問いなのか――それとも怒れる問いだろうか?

 ザカマは中央の頭を伸ばし、エターリの首筋に噛みついた。エターリはわずかに身を震わせたが、咆哮も上げず抵抗も見せなかった。そしてザカマは彼の頭を胴体から引きちぎり、眼下の都へと放り投げた。エターリの体は跳ね、痙攣し、そして身動きすらも止めた。

 ザカマは堂々と立ち上がった。その背後に夜明けが訪れた。両脇の頭部が勝利を叫び、朝の空気に蒸息を吹き上げた。もう四体の古の恐竜たちもそれに応えて叫び、続いてケツァカマの群れが都じゅうに響き渡る大合唱を加えた。

 ファートリは立ち上がった。ザカマの両脇の頭が勝利の雄叫びを轟かせている間、中央の頭は彼女を見下ろしていた。ファートリは手を挙げて感謝を示した。

 ザカマは鼻を鳴らした。ファートリの知らない言葉、思い、感謝の念。だが彼女には馴染み深く感じられた。古の偉大な恐竜との会話は何か自然の力へと呼びかけるようで、ザカマとの会話はこの次元自身の魂との対峙だった。それでも今ファートリが考えるのは暖かなひとつの真実だけだった。他のことを考えるなど不可能に思われた。

 ――あの人に嘘をつかずに済んだ。

 ザカマは振り向き、神殿から降りていった。大地が震えた。

 煙、灰、そして荒れ狂う赤い嵐の暗幕は引き裂かれ突き破られた。太陽が差し込んでいた。オラーズカは朝の光を歓迎し、都は油にまみれながらも黄金に輝いた。夜明けが訪れた。まだ勝利は訪れていないが、その日は来た。
 

(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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