MAGIC STORY

機械兵団の進軍

EPISODE 02

メインストーリー第2話 息を殺して

K. Arsenault Rivera
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2023年3月16日

 

 チャンドラは待つのが嫌いだった。

 このすべてが嫌いだった。全員が詰め込まれた狭苦しい隠れ家が。最悪の知らせを待つ他のプレインズウォーカーたちから毎日来る確認が。強打が来るとわかっていても、それがいつどこに来るかはわからないという耐えがたい苦痛が。この一週間、彼女たちは本当の意味での生活をしていなかった。

 彼女たちは待っていた。

 それが計画なのだ。ここ、ドミナリア次元のリリアナの小屋にて二週間待つ。そこは間もなくヴェス邸が再建されるまでの単純な間に合わせだと彼女は断言していたが、デーモンを躊躇させるような防護魔法だらけだった。リリアナがこれほどの防護魔法を知っていたなどチャンドラは想像もしなかった。彼女が問い質したところ、リリアナは「自分の投資は守るものだと学んだのよ」と言うだけだった。

 その二週間が過ぎても何の知らせもなかったなら、全員が死んだものと仮定して先へ進む。その前に何らかの知らせがあったなら――その知らせに従って行動する。それが良いものであれば、もう何も心配はいらないという話を皆に広める。

 そして良いものでなかったなら、戦争の準備をしろと皆に告げる。

 この待ち時間を有効活用する者もいた――彼女よりも遥かに。ビビアンは外に出ていることの方が多く、他の皆に少しだけ空間的な余裕をくれた。彼女の料理もまた素晴らしかった。レンもしばしば外に出ていたが、決して遠くへは行かなかった。待つのは平気だと彼女は言っていたが、レンは熱気を失いつつあるとチャンドラはわかっていた。確かに、レンはドライアドかもしれない――だが彼女の内にも炎が燃えており、炎は常に更なるもので飢えている。

 そしてリリアナも、チャンドラと同様に待つのが嫌いだった。

 その件について本気で話したことはなかった。その話をするのは傷を開くようなものであり、だが互いに何かを察してはいた。午後にレンと話した後にチャンドラが戻ってくると、リリアナはしばしば彼女のための物語を用意していた。時には会話もなく時間が流れた――リリアナはそこに座して古い書物を読み、あるいは邸宅の修復計画を吟味していた。その間、チャンドラは待っていた。こんな時に、どうして他の物事に目を向けられるというのだろう? 誰もが普通に過ごそうとしている。けれど何ひとつ普通ではなく、誰もそのことを話したくはない。

 知らせがあるかどうか尋ねたことはなかった。そして誰かがやってきて何かを尋ねた時も、通常はリリアナが応対してチャンドラを揉め事から守った。

 だが日に日に雰囲気は悪化していくようだった。まるで皮膚にナイフを押し付けられて、毎日少しずつ引いていくような。そこから滴る血は彼女が大声で話さない物事、考えたくない思考だった。

 ファイレクシア人の兵器。黒い油。アジャニとタミヨウは永遠に失われ、ほんの数か月前の彼らではなくなってしまった。そんな人々で満ちた次元――他の者たちを同じように取り込む人々の。それを「人々」と考えること自体、間違っているのかもしれない。

 彼女は打って出たかった。その真っ只中にいたなら、たとえ事態が良くなかったとしても、少なくとも何が起こっているのかを知ることはできるだろう。このごろ、事態は全くもって良くはないのだ。もしニッサが……

 何よりも、この待ち時間が終わって欲しかった。

 今のところ、彼女はレンと共に時間を潰していた。

「呼吸に集中して。炎にも私たちと同じように空気が必要だから」チャンドラはそう言った。上手くいかない時、ヤヤはこのように言って彼女を落ち着かせようとしたものだった。呼吸を制御できたなら、炎を制御できる。炎を制御できたなら、すべては上手くいく。

 ヤヤは死んだ。アジャニが殺した。この先何かしらが上手くいくかどうか、チャンドラには定かでなかった。だが、上手くいくことを願った。レンは呼吸が得意ではない。チャンドラはそれを咎めはしなかった――何せ彼女はドライアドなのだ。ほとんどは肺という器官を備えていない。

「人間の呼吸に例えるのは少々分かりづらいのだが」レンが言った。その木の幹のような皮膚の間に炎がちらついた。痛むに違いないと思いきや、彼女の声は快適そうだった。

「そうね」チャンドラは後頭部をかいた。ニッサは木の言葉を話した。きっとドライアドの友達も沢山いたのだろう。ニッサなら何と言うべきかわかっただろう――けれどここにはいない。「そうね……その炎の、形を作らないといけない、そんな感じに考えて。いらない部分を見つけて、それを取り除くの」

「その方がわかりやすい」レンが言った。炎が揺らめいた――だがチャンドラが求めるほどには退かなかった。

 彼女はレンの方に手を置いた。まるで師はそうするものだというように、けれどいかにして師となるべきか、彼女はよくわからなかった。ヤヤはとても多くの教訓を残していった。そのすべてを吸収できたのかどうかは自信がない。そのすべてを、どうやってレンに伝えればいい? もっと上手な者がいるだろう、もっと年輩で、もっと……

 アジャニのような誰かが。

 チャンドラはその思考をもみ消した。

「一緒にやってみようか」彼女はそう言った。「私はここにいるから。空気のいらない炎もあるの。どの炎がそうなのかを知るのがコツよ」

「いいだろう」とレン。「とはいえそれは、炎にとってはひどく失礼だろうな」

 チャンドラは両目を閉じ、ひとつ深呼吸をした。心の片隅で、ヤヤの落ち着いた声が聞こえるように思えた。鼻孔を通る空気の感触に集中しろと伝えていた。不器用で粗野なその言葉を思い出し、彼女はそれを繰り返した。『炎と話をするんだよ。それが何をしたいのかを把握するんだ』

 そしてその時、元気のいい角笛のような轟きがタイヴァーの到着を告げ、ふたりの間に斧のように落とされた。

 ふたりが隠れ家へと顔を向けた瞬間、ふたつの人影が中に入っていった。チャンドラは息をのんだ。

 彼女とレンの間にもはや言葉はなかった。もはやそれらは不要だった。チャンドラは隠れ家へと急ぎつつ、陰気な灰色の空へと炎をひとつ発射した。ビビアンが気付いてくれれば良いのだが。

 待つのは嫌い、だがチャンドラは戸口に踏み入ろうとして躊躇する自分に気付いた。

 戻ってきたのは三人だけ。最初の三人かもしれないし、そうではないかもしれない。けれど、どの三人? 彼女は脳内に可能性を巡らせ、そしてそうする自分を憎んだ。知らせがあるのは良いこと、それが何であろうとも。けれど扉の先には誰が待っているのだろう?

 ここで留まっていても、わかるはずはない。

 チャンドラはひとつ深呼吸をした。そして目を閉じ、彼女は隠れ家へと踏み入った。

「あの樹については正しかった。ファイレクシアは自分たちのそれを手にしていた。堕落し、歪められ――」

「俺たちの計画は全て先回りされていました。何もかも対処されて――」

「現実を望むように作り変えて――」

 三つの声。どれもニッサのではない。またもチャンドラは躊躇した。

 彼女は息を吸い込んだ。考えるべきことは他にある――この作戦は全員にとって、個人的な何よりも大きい。チャンドラが目を開くと、魁渡がほぼ無傷で彫像に寄りかかっていた。ケイヤとタイヴァーは、血と泥とグリースにまみれて長椅子に座り込んでいた。その中でリリアナだけが怪我の手当を行っていた。彼女の前の床には液体の入った小瓶が並べられており、リリアナはそれを布に注ぐと、タイヴァーの傷のひとつに押し当てた。

 チャンドラが入ってきたのに気づいたのはリリアナだった。「良い知らせではないわよ」

「良さそうとは思わないわ」チャンドラはそう返した。「あれほど汚らわしいものを見たことはない」タイヴァーが言い、その表情に不快な懸念を浮かべた。「カルドハイムから盗んだ世界樹の精髄を用いて、奴らは途方もない怪物を作り上げた。生きてすらいない」

「それを用いてファイレクシアは他の次元を侵略しているのよ」ケイヤは我慢ならないというように立ち上がり、歩き出した。「軍全体を動員して。私たちが見たこともないような武器も。新ファイレクシアには機械の悪夢以外に何も残っていないと言えるわ。すぐにあらゆる場所に姿を現すでしょうね」

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アート:Liiga Smilshkalne

「けど、立ち向かう人だっているでしょ? 色んな次元から戦える人たち全員を集めて、新ファイレクシアに反撃してノーンを倒すんでしょ」支離滅裂なことを言っている、そうわかっていたがチャンドラは止められなかった。空気を、とにかく空気を――呼吸を続ける。このすべてが空気を必要としている。「終わってなんかいないわよ。そんなわけないわよ」

 ケイヤの両目には哀れみがあった。「いいえ。私たちにできることはない」

「出発する前に、ビビアンさんを待つべきだったのかもしれません」魁渡が割って入った。

 この展開はチャンドラが好むところではなかった。「その話は終わったでしょ。奴らはどうやって世界樹を操ってるの?」

「その、言いにくいのだけど――」ケイヤは精一杯穏やかに切り出した。

「ケイヤさん、お願い」自らの言葉がもたらす苦痛に、チャンドラ自身が驚いた。「何が起こったのか教えて」

 ケイヤは深く呼吸をした。「奴らはニッサを手にしたのよ」

 その言葉に、チャンドラは呼吸というものを忘れた。そして何かをまくし立てた。わかっていた。ニッサがこの三人と一緒にいない時点で、察していた。それは……

 彼女が何か言おうとするよりも早く、背後で扉が開いた。

「知らせが来たの?」彼女たちの背後でビビアンが言った。「待って……ジェイスは?」

「わざと遅れてるんでしょ」リリアナがそう言い、タイヴァーの胸に巻いた包帯を固定した。「今に現れるわよ」

 ケイヤは目を閉じた。「いえ、それはないわ」

 リリアナは、少なくともその表情に悲嘆を見せなかった。だがその声は鋭く、痛みがあった――チャンドラの胸のそれと同じ痛みが。「ふざけないで」

「彼は勇敢に戦った、だがファイレクシアの獣は……」タイヴァーが言った。

「絶対に疲れない、絶対に間違わない敵と戦う時に、勇気なんて無意味です」魁渡は床から顔を上げられないようだった。「あるいは、自分自身の終わりが近いなら」

「そんなの、おかしいわよ」リリアナは立ち上がり、薬瓶の乗った皿を拾い上げて手の震えを隠した。「こんな茶番、全部あいつの仕業なんでしょ。失敗なんてするわけがない。そんなわけない」

「終わる時、あれはもうジェイスさんではなかったと思います。ファイレクシアの一員になってしまった」魁渡が言った。

 リリアナは落ち着こうとするように深く呼吸をし、だがそれを隠そうとしていた「どういう意味?」

「詳しい話を聞いている暇はないわ」ビビアンが割って入った。「何が起こったにせよ、ナヒリはゼンディカーへ向かって、放浪者もどこかへ行ったに違いないでしょうし、エルズペスはきっともうテーロスへ――」

「私たちは見たのだ、ファイレクシアがナヒリ殿までも手中にした様を」タイヴァーが言った。

「エルズペスさんも、やり遂げることはできませんでした」魁渡が付け加えた。「陛下は神河に向かわれたかもしれません、ですがエルズペスさんが生き延びたとは考えられません」

 

「ありえないわ、エルズペス・ティレルが新ファイレクシアで死ぬなんて」ビビアンが言った。

 ケイヤは額に皺をよせ、リリアナへと視線を移した。「手っ取り早く説明するわ。最後に私たちがエルズペスを見たのは、あの子がジェイスの胸に剣を突き立てる瞬間だった」彼女はうつむいて顔をしかめ、続けた。「あのとんでもない樹は、私たちが到着した時には既に少なくとも十個くらいの次元に繋がっていたの。酒杯を起動したなら、そのすべてが失われていたかもしれない。あれは終わりをもたらすもの、そして時間はなかった。だからあの子は……」

 ケイヤの声は途切れ、タイヴァーが続きを告げた。「エルズペス殿は彼を貫き、酒杯を取り上げて久遠の闇へと飛んだ。尊き犠牲だ――今頃、彼女は戦乙女との饗宴を楽しんでいるだろう」

「黙りなさい」リリアナが非難するように言った。

 隠れ家の空気は冷え切ってしまった。ジェイスもニッサも失われた。ナヒリも。エルズペスですら、生き延びることはできなかっただろう。送り出した人員のうち、生還したのは四人のみ、そしてその四人のうちここにいるのは三人だけ。恐れていた物事の全てが現実となった。ファイレクシアの侵略が進行しているのだ。

 ビビアンまでも床に座り込んだ。その知らせに、彼女は気丈な態度を保つことができなかった。「私が考えていたよりも、遥かに最悪の事態だわ」

「最悪の事態、だから私たちが今ここにいるのよ。自分たちが何に直面しているのかを理解しないといけない」ケイヤが言った。「多元宇宙全体が理解しないといけない。私が言った通り、今――」

「そうね。あとは私抜きで続けて頂戴」不意に挟まれた声には、その震えをごまかそうとする奇妙な強調があった。リリアナは既に戸口へと向かっていた。「ストリクスヘイヴンへ伝えに行くわ」

「話を聞いてくれたまえ――」タイヴァーが口を開き、だが彼が言い終えるよりも前にリリアナはかぶりを振った。

「あなたの話とやらはよく理解したわ。尊い犠牲なんて、私はいいものだなんて絶対に思わないから」

 チャンドラは片手を広げ、そしてそれを拳へと握り締めた。「ねえ、仮に皆を助ける方法があったら?」

 リリアナは鋭く抜け目なく、野心に満ちている――その評価をチャンドラはしばしば聞いていた。それは真実、だがある視点から見たなら、別のものに取って代わられるのもまた真実だった。うつむいた顔に鋭さは全くなく、両目に宿した野心は深い同情へと変わっていた。「あなた、そこへ戻ろうっていうの?」

 全員の目がチャンドラを見た。どのような目を向けられているかはよくわかっていた――皆がどう思っているかは。『そう言うと思った。性急な娘だから』早くも小言が始まるのが聞こえだが、彼女は既にうんざりだった。ここに座して世界の終わりを待つのはうんざりだった。

「そうよ、私はやってやる。その世界樹を倒す方法が何かあるに違いないでしょ。みんな、全部終わったみたいに思ってるけど」

 ケイヤは掌の付け根を両目にあて、ひとつ息を吸った。「行かせることはできないわ」

「できない?」チャンドラはケイヤへと一歩踏み出した。「私に何もさせてくれないなんて」

「まず、何が起こっているかを皆に伝えるのよ」ビビアンが言った。彼女は冷静で落ち着いていたが、チャンドラの発言をどう考えているかは疑いようもなかった。「戦力を集めて、応戦する方法を見つけ出す。けれど向こう見ずに突っ込んで行ったなら、それはできないわ」

「そうしたい人は沢山いるでしょうね」チャンドラは頷いた。「私たちの中に沢山。けどもう起こったことに応戦するだけじゃ、何も進展はないでしょ。やって来るものの根元から絶たないといけないのよ」

 誰もが視線を交わした。少なくとも、皆それを考えた。最初に断言したリリアナですら、まだ去ってはいなかった――彼女はチャンドラと扉の間に立ち尽くしていた。そう、リリアナも理解している。今の状況をどう感じるか、リリアナはここの誰よりも理解しているに違いないのだ。だが次に口を開いたのはケイヤだった。「チャンドラ。あなたの気持ちはわかるわ。心から。けれど、新ファイレクシアで何が起こったのかをあなたは到底理解していない。無計画に飛びこんで解決できるようなことじゃないの。私たちは作戦を立てて行ったけれど、ほとんど実行できなかった。私は長いこと暗殺者をやってきたけれど、それでもあそこでは首が飛びかけた。エルドラージとやり合ったナヒリも、私たちは失った。あなたがそこへ行ったら、ただ死ぬだけじゃ済まない――肉を剥がされて、骨を金属に代えられて、心もあいつらの気持ち悪い世界観に歪められる。次にあなたと会う時、あなたはファイレクシアとひとつになる喜びを私たちに語るでしょうね。ビビアンの言う通りよ。最善の行動は、もう誰も失わないよう努めること。ここでの話が終わったならあなたはカラデシュへ帰って、備えるように人々に伝えるのよ。それが、彼らにしてあげられる精一杯なのだから」

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アート:Jorge Jacinto

 その言葉に対する返答は、心がそれを止めるよりも先にチャンドラの口から発せられた。「子供扱いしないで」

「子供扱いしているんじゃなくて、気遣っているつもりなのよ。ラヴニカとはわけが違う。永遠衆なんて、ノーンの肉なしの軍勢とは比べ物にもならない。あなたが善良な献身からそう言ってるのはわかるわ。全員を助けたいっていう思いは。多元宇宙を救いたいっていう思いは。けれど、チーム全体で終わらなかった仕事に中途半端に飛び込むよりは。もっといいやり方があるはずよ」

 ケイヤは様々な言葉を並べたが、チャンドラの耳にはどれも同じように聞こえた。ケイヤは要点を見ていない。タイヴァーなら理解しているに違いない。彼は大いなる挑戦を愛しているのだから。だが彼女と目が合った時、タイヴァーは視線をそらした。

「勇気とは賞賛に値するものだ。しかし、どの戦いが自分のものであるかを知ることも同様だ。ケイヤ殿や私がここにいるのは、何が起こったかを伝えるために他ならない。君が必要とされる地へ赴き、自らの物事に専念し、故郷とする場所で死にたまえ」

「これはみんなの戦いでしょ」チャンドラはそう言った。

「だからこそ、皆それぞれ自分の考えを言う権利があるわ」ビビアンが答えた。「私が言いたいのは、上手くいかないとわかっている話をするのは無駄だということよ」

「気持ちはわかります。敗北を受け入れるのは難しいですから」魁渡が言った。「けれど、ひとつの戦いに敗北しただけです。故郷を守れるなら、戦争には勝ちます」

 チャンドラはひとつ深呼吸をした。自分自身が爆発しそうだった。それは世界でも最も明白な物事、けれど誰も見ることはできない、あるいは見ようとしていない。「新ファイレクシアに閉じ込められてる人たちはどうなるのよ? 見捨てるつもりなの?」

 誰もその問いに返答したくはなかった。直接的には。続いて隠れ家に広がった沈黙はまたも待つ時間以外の何物でもなく、チャンドラはこの状況そのものと同様に嫌いだった。今すぐすべてを燃やし尽くすことができたなら――その炎から新しく始められるのであれば――そうしていただろう。この場所にただ立っているという事実に、魂がむず痒く思えた。

「教えなさいよ。その人たちを見捨てるの?」呼吸は難しくなっていった。あるいは容易くなっていった――今や彼女の呼吸は大きく鋭く、腹の内で大きくなりつつある炎を煽っていた。両目の端を熱が焼いた。

「チャンドラ」リリアナの声は、雪の上の影のように柔らかだった。「彼女は、あなたに安全な所にいて欲しいって言ってるのよ」

 どうしてそんなことを言うの? チャンドラは必死に考えないようにしていた。想像力を押し留めていた。だがリリアナがそれを解き放った。ニッサがここにいたらと想像するのは、炎を呼び起こすように簡単だった。はっきりと見ることができた――ニッサの表情に固まる決意。梢の緑色に向けられる瞳、尖った耳の角度。自分の肩に置かれるニッサの手を、苔と松の匂いを感じるようだった。彼女の言葉が聞こえるようだった。思い描こうとしなくとも。

 辛かった。

 とても、とても辛かった。

 彼らひとりひとりの前で血を流している、けれど誰も手を差し伸べてくれないかのように。

 チャンドラはもうひとつ深呼吸をした。空気を。とにかく呼吸を続けること。

「誰かを失った時は、その人の思い出を称えなければならないのよ」リリアナが言った。

「ニッサを失ってなんかいないわ」チャンドラはすぐさま言い返した。

 ケイヤの苛立ちは秒単位で増していった。彼女は疲れ切っており、それは顔にはっきりと表れていた。「チャンドラ。彼女はもういないのよ」

「そんなわけない。ファイレクシア人を止めたなら、わかるはずよ、その……何か起こってもどうやってそれを止めたらいいか。どうやったら良くなるかが。諦めるわけには――」

「この件は到底ひとりで何かできるものじゃないわ」ビビアンが割って入った。「一本の木じゃなくて、森全体を何とかしなきゃいけない――」

「私にだってそのくらいわかるわよ!」視界の隅がかすかに輝き、自分自身が燃え上がっているとわかった。そのつもりはなかったが、構わない――むしろ良いかもしれない。こんな気分は全部、どこかへ放り出してしまわなければ。「私だって、どれだけ沢山の命がかかってるかくらいわかってるわよ。だから行きたいの! 奴らから逃げてるだけなら、絶対に勝てはしないんだから!」

「チャンドラ――」ケイヤが口を開いたが、遅かった。もはやチャンドラは聞いてなどいなかった。

「私は行く。みんなは、そうしたいなら他の次元へ伝えに行けばいいわ。けど私は友達を放ってはおけない」

「独りで行くのか?」タイヴァーが尋ねた。

「誰も来ないならそうね、独りで」彼女はそう言い、扉へ向かった。「けど到着すればもう独りじゃないわ」

「具体的に、どんな作戦で?」魁渡が呼びかけた。

 チャンドラは振り返らなかった。「その樹を倒す。他のことはそこに行くまでに把握する。鮮やかで簡単よ」

 沼地がその先に待っていた――目の前に立ちふさがる最後のものとして、リリアナと共に。それでも、リリアナは本気で道をふさいではいなかった。ただ戸口にもたれかかり、見つめていた。

「本気なのね」

「そうよ。そしてあんたは本気で逃げ出すつもりなの?」

 リリアナ・ヴェスをひるませることができるなら、殺しだって行うという者は沢山いる。奇妙にも、チャンドラはそれを勝利だとは感じなかった。全く感じなかった――それが最悪だった。「私がそうするとでも? 逃げるんじゃないのよ。弔いの鐘は聞くだけでわかるの。あなたの小さな冒険が上手くいくといいわね」

「待って」チャンドラはそう言った。

 だがリリアナは待たなかった。彼女はほとんど振り向くこともなく、自ら沼へと歩き出した。「待っている時間はない、そう言ったのはあなたでしょう」

 今日は何ひとつ簡単にはいかない。チャンドラは再び掌を広げ、そして閉じた。言い返したかった、あるいは本当に言いたいことをはっきりさせたかった――もし一緒に来てくれるなら、きっととても大きな助けになってくれる。一緒なら、何らかの対抗策を見つけられるかもしれない。そして恐怖から逃げるよりは、向き合う方がいいのでは……と。

 だがそれはリリアナに、リリアナではない誰かになれと頼むこと――そして自分たちは、互いにそんなことは頼まないと常に理解していた。

 リリアナは漆黒の煙の中に姿を消した。

 チャンドラ・ナラーは歩き出した。

 両目から零れた涙は熱く、だが沼地の冷たい空気はそれを凍り付かせるようだった。寒さに震えないよう、彼女は熱を呼び起こした。プレインズウォークする前にどれほど遠くまで歩きたいか。それもわからなかった。実のところ、遠くへ行く必要はない。その気になれば今ここでできるのだから。

 けれどしばらく歩きたかった。風を感じ、沼地の不快な匂いをかぎ、暗く曇った空を見上げる。発ったなら、しばらく空を見られないかもしれないのだ。それはカラデシュの眩しい青空ではない。ここの雲は螺旋を描いてはいない。実のところ、雲など何もない――あらゆる方角に、灰色の沼が広がっているだけ。オゾンや食べ物の屋台の匂いはなく、市場の喧騒も聞こえない。この場所は故郷ではない。いつか思い出すような場所ではない。

 それでいい。いつか戻ってこよう。他の場所にもいつか。必ずそうしよう。世界樹を倒したなら、行かなければいけない場所は沢山あるのだろうから。きっと大丈夫。

 最初に見えた木のそばで彼女は立ち止まった。とても力強い木というわけではなく、健康的ですらない。その幹は黒化し、枝に葉はなく、空を引っ掻く鉤爪のように節くれ立っていた。だが一本の木であることに違いはなく、一呼吸置くには十分だろうと彼女は考えた。チャンドラは存在しないその木陰に座り、頭を預けた。

 新ファイレクシアへ向かうのは正しいこと。

 けれど彼女は恐れていた。

 大丈夫。心を決めるために、少しだけ時間があればいい。

 そして少しだけ、泣く時間が。これから悪の帝国へと突っ込んで行くのだ。そしてそこを、かつて親友と呼んだ人たちが、一緒に打ち倒そうと頼りにした人たちが守っている。それは叶わなかった――そして今、自分ひとりで向かうのだ。

 不意の冷気と葉ずれの音が、誰かが近くにいると告げた。鼻を鳴らし、チャンドラは眉をひそめた。「どっか行きなさいよ」

「それは望むところではない。皆のところへ戻らねばならないだろうからな」

 レンだった。少なくとも、自分を説得しにケイヤが来たのではない。それでも、チャンドラは何と言うべきかがわからなかった。友がそこにいたことに、彼女は泣かないようこらえた――だがそれでも彼女は泣いた。

「手助けをさせて欲しいと思っている」

 チャンドラは鼻の頭を拭った。「あなたが?」

「そうとも。お前が皆と話すのを見ていたが、実に奇妙だった。お前の言葉は完璧に理にかなっていると思った。枝の一本が腐っているなら、それを切り落とさなければ木そのものを見定めることは不可能だ」

 理解してくれる相手がいた、その安堵は途方もないものだった。一瞬前までは、まるで怒りが自分自身から湯気となって上がっているようだった――けれど今は違った。まるでそれは地面へと溶けて消えたようだった。とはいえ、レンの言葉の意味を確かめる必要はある。「私たち、何の助けも受けられないのだけど」

「そう断言するな。七番が一緒にいる――そして思うに、テフェリーにも会えるだろう」

 テフェリーも? だが彼の居場所は誰も知らず、そもそも生きているのかどうかもわからない。

「お前は混乱しているな、違うか? それは混乱している表情だろう。人が考えていることをただ表情から察するのは、時に難しいのだが」

「その通りよ」チャンドラは言った。「あなたはもっと自分を信用していいと思う。もしテフェリーが一緒にいれば……待って、どこにいるか知ってるの?」

「そう思う」レンは頷き、七番は考えていると思しき姿勢をとった。「あの者はまたも、もつれの中に捕らわれている――だが私たちに解けるものではない。この地で過ごす間に私はそれを調べていた。あの者が辿った、ねじれた道程を。いかにしてあの者のもとへ到達すべきかはわかる、だが私の力だけでは不可能だろう」

「そうね、けど独りじゃないわよ」とチャンドラ。希望が首をもたげ、同時に恐怖は去りつつあった。そのどこかからテフェリーを連れ出すことができたなら、自分たちの勝算はずいぶんと大きくなる。「私も、七番もいるわよ。それと現地にも誰かが」

 だがレンは顔をそむけたまま、七番の幹に手を休めた。「七番はとても良くしてくれている――だがこれはできない。七番が持たない力を私に与えることはできない。それは炎に違いなく、世界樹に違いない」

 ヤヤがいつも言っていた――炎とやり取りをする上で最も重要なのは、それは自分とやり取りをしていると知ること。それを導き、提言をし、安全な場所を与えることはできる――だが最終的に炎は常に自らの求めることを成そうとし、そしてそれは秒単位で変化する。成功させたいなら、友達を傷つけたくないなら、炎と対話し続ける必要がある。それは木々とのやり取りとは正反対だった。

 その件について、チャンドラはニッサと話したこともあった。

 ニッサが話してくれたことがあった――荒れ狂う成長というのは、それが瞬く間に起こる様は、時に炎のようだと。最初、チャンドラはその言葉を信じなかった。炎は消し去るもの、自然は養うもの。だがゼンディカーの乱動がどのようなものかを目にして、彼女はそれを理解し始めた。時に、それらは同じものなのだと。自然に驚かされるのは好きだった。そして何よりも、ニッサがそれについて語るのを聞くのは好きだった。

 ニッサが助けてくれたように、レンがそれを見出すのを助けたかった。だが教えることは聞くことよりもずっと難しく、そしてレンの炎は普通の炎ではない。ここに彼女が立っているという事実自体が、彼女の力の証。それを本当に解き放とうというなら、その炎を受け止められるのは世界樹だけかもしれない。「本当に?」

「ああ」レンは頷いた。「皆、間違っている――あの樹は生きている。ここからでも歌が聞こえる。かすかに。だが……苦しんでいる。旋律のない咆哮だ。テフェリーのように、皆のように助けを求めている。それを無視するならば、私は果たして英雄と言えるだろうか? 私自身の恐怖など関係ない」

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アート:Kekai Kotaki

 チャンドラは小さな、悲しい笑みを見せた。「英雄って言った? 私だって怖いわよ――けどそんなでもない。だって今や仲間ができたんだから」

「お前は七番のような友達を見つけるべきだな」レンが言った。「そうすれば決して独りにはならないだろう」

 その友達が、たまたま凶悪な敵だらけの次元で行方不明にならない限りは。そうなってしまったら、本当に自分は独りだ。

 チャンドラの笑みは悲しさを増すだけだった――だが彼女は笑みを大きくしてそれを隠した。そして七番の幹をひとつ叩いた。「さ、行きましょ」

 何かを見逃しているのではというかのように、レンが首をかしげた。だが何事もなくその瞬間は過ぎた。すぐに彼女たちは裸の木の影を離れた。それを見に来た者はなかった。

 彼女たちに見える限りでは。

 だがその場所を見つめる者たちがいた。あの隠れ家を、その中に縮こまって目的と行動を探る人々を見つめる者たちが。光のトリックが彼らの姿を明かしたかもしれない。明かさなかったかもしれない。鋭い嗅覚が彼らの匂いをとらえたかもしれない。とらえなかったかもしれない。だが彼らはそこにいて、見つめていた。

 このすべてが彼らにとっては馴染み深く感じた、歌詞が失われて久しい歌のように。何度思い出そうとしても、言葉は逃げ去ってしまう。旋律だけが残っている――来たるものへの嘆き、痛ましい賛歌。

 見つめているのはひとりだけではなかった。見ている、だが見えざる者たち。ひとりが尋ねた。「私たちは何を見ている? 何故私たちはここにいる?」

 返答は、戦を告げる角笛のようだった。『終焉の始まりを目撃するために』

(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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