MAGIC STORY

機械兵団の進軍

EPISODE 12

サイドストーリー・イコリア編 適者生存

Roy Graham
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2023年3月20日

 

 厳しい一日だった。地平線を分断する岩の尖塔の間を、隊列は――汚れて疲弊した男女や子供たちの集団には大層な名前だ――蛇行しながら進んでいた。それら柱状の岩はラウグリンの地表を定期的に破壊し尽くす炎と地震に形作られたものであり、この地には最もしぶとい生物しか残っていない。

 それでも彼らは生き延びている。ドラニスでの生活の名残を満載した荷車の隣を進みながら、ジリーナ・クードロはそう思った。侵略者が到来する前から。だから私たちも生き延びる。生き延びなければ。

 彼女自身の乗騎は何マイルも背後で、口から血の泡を吹いて倒れていた。そして別の乗騎は辞退した。砕けた火山ガラスが縁取る小道を蹄ではなく革のブーツで進むのは容易ではないが、それでも彼女は歩いた。ジリーナは人々に、ドラニスの人々に多くを要求していた。彼らがこの荒れ果てた地獄のような風景を徒歩で渡るというなら、自分もそうしなければならない。ここはジャル・コルチャ、またの名を恐怖の道。

 厳しい土地であり、厳しい一日だった。けれど前方のどこかに、ラバブリンクの分厚い壁と燃えたぎる槍が待っている。見込みが待っている。持ちこたえる見込みが。生き延びるチャンスが。

 隊列の遠方から、騎乗したブリッド大佐が速歩で近づいてくのが見えた。鞍が跳ねるたびに彼は顔をしかめ、何かを呟いていた。

「どうしたの?」格式は抜きでジリーナは尋ねた。そのような余力はなかった。

「クードロ将軍」ブリッドは素早く敬礼したが、それでもどこかすねているように見えた。「先遣隊の報告によりますと、ラバブリンクまではまだ半日の行程とのことです。日暮れには到着するものと思われます」

 半日の行程。とても簡単なもののように聞こえる。もう数時間だけ人々をまとめ上げることができれば、安全を確保できるだろう。あるいは、少なくとも安全を確保できる見込みはあるだろう。

「将軍」ブリッドは続けた。「私の階級にはそぐわないと存じておりますが、率直に内心を申したく――」

「言いなさい、ブリッド。私はもう何時間か歩けるけれど、その調子で続けたなら私にも限界が来るわよ」

 彼は苛立ちを見せた。「かしこまりました。隊列には多くの怪我人と病人がおります。そのため歩みは遅れつつあります。兵士の分隊を先に行かせ、ラバブリンクに我々の到着に備えさせる方が良いかもしれません」

「ここの戦力を割くことはできないわ。貴方が言う怪我人や病人は攻撃から自分の身を守れないのだから」

 ブリッドの馬がその場で少し足を引きずった。「ごもっともですが、将軍。あれが追いついてきたなら、戦いにはなりません。虐殺があるだけです」

 ジリーナの足が痛んだ。肩は鎧の重みに悲鳴をあげていた。「それなら、ビビアンとその友達の狩りが成功することを祈るのがいいでしょうね」

「信用できるのですか?」ブリッドは不機嫌な声を発した。「あの者は我々について何も知りません。我々が犠牲にしてきたものを――」

「もう結構!」ジリーナは我慢の限界だった。「仲間はほんのわずかしかいないのよ。根拠のない妄想で最強の仲間を捨てることは許しません!」

 ブリッドは唇を曲げた。やがて彼は踵を返して手綱を握り、だが騎乗して離れるよりも早く、後方のどこかで悲鳴があがった。そして別の音が続き、それとともに隊列へとパニックが波のように広がっていった。反響するすさまじい吠え声。金属を打ちつけるような、それでいて獣のような。ジリーナは鞘から剣を引き抜いた。

「銅纏い!」彼女は声をあげた。「備えなさい!」

 戦争へと。虐殺へと。終わりのない、終わりのない死へと。


 ビビアンは地面に耳を押し当てて目を閉じた。火山地帯の大地からは硫黄と土、そして鉄の鋭い臭いがした。

 衝撃がひとつ、近くのどこかで。そして、しばらくしてもうひとつ。ずぅん。ずぅん。まるで雷が平原を横断しながら近づいてくるかのように。

 彼女は身体を起こし、頬を拭った。

 背後では、小さな丘に生えた低木が作るわずかな隠蔽の中に狩人たちが立っていた。彼らの顔はゴーグルやマスク、フードに隠れていた。ほとんどの者が槍を手にしており、その槍先は物騒な棘だらけだった。何人かは肩に弓を引っかけており、想像できる限りの多様な毒の小瓶を弾薬帯から下げていた。時が来たなら、すべての矢は三つの致命的な薬剤が塗られた後に死をもたらすために放たれる。彼らは一つの標的を複数人で狙う殺し屋であり、未開の地に出ては人類社会の脅威とみなされるものを殺すことで生計を立てている。狩人というよりは害獣殺しであり、普段であればビビアンは彼らにとって不倶戴天の敵のはずだった。

 けれど今は、私の矢筒に入った別の矢に過ぎない。

「近くまで来てるわ。一マイルもない。配置について」

 彼らは無言で拡散すると注意深く屈みこんだ。暗い色の衣服と草がこすれるかすかな音だけがあった。一分もしないうちに、首魁と呼ばれる男だけを残して彼らの姿は見えなくなった

 イコリアでも最も熟達した怪物狩りは特段大男というわけではない。だがその肩幅は広く、分厚く固い筋肉に覆われていた。額は広く、髪は後頭部へと撫でつけられていた。その馬鹿げた口ひげは、見苦しい笑みを更に引き立たせるかのようだった。「聞いてやるよ、ドラニスの司令官様みたいな命令をな。あいつらは俺がそうしろと言ったからあんたに従ってる。わかるな?」

 ビビアンは彼を無視し、前方の峡谷の入り口へと視線を定めた。この距離からでは見えない、土の色がわずかに変わる所に彼女たちは思いがけないものを埋めていた。良いものを。

 東のどこかでは、ジリーナとドラニスの避難民たちがゆっくりと避難所へ向かっている。ルーカは彼らを追っているのだろう。ビビアンが目の前の男をどれほど嫌っていたとしても、ドラニスの人々とその破滅との間に立ちはだかるのは彼女とチェビルだけだった。

 ずぅん。再びの音。

 ずぅん。

 ずぅん。

「どうした、獣好きさんよ?」チェビルが嘲るように言った。「借りてきた空猫みたいに大人しいじゃねえか。それとも怖くて心臓も動かないか? 怖がらなくていい、チェビル様がここにいる。俺がひとつ確実に知ってることがあるとすれば、それは怪物の殺し方だ」

 ビビアンはその言葉をほとんど聞いていなかった。彼女の注意は峡谷だけに向けられていた。そこでは数匹のトカゲネズミが現れ、捕食者から逃げるための不規則かつ本能的なジグザグの動きで駆けた。目で追うのは困難だった。

 ずぅん。

 小動物たちのすぐ背後に一体のラプトルが現れ、更にその背後に一体また一体と続いた。それらは背を低くし、尻尾をまっすぐに伸ばしてバランスを保ちながら、力強く曲がりくねった線を描いて駆けてきた。獲物を探しているように見えるかもしれない、彼らがトカゲネズミとの間隔を縮めようとせず、それらを完全に無視していなかったなら。ラプトルたちは峡谷から逃げ出そうとしているだけなのだ。それらの背後のどこかで、かすれて深い吠え声が響いた。

 ずぅん。

 峡谷の入り口に一体のヴァンタサウルスが現れた。体重三十トンの巨獣。途方もない筋肉の塊が全力で逃走していたが、その獣は慌てていたため足取りを見誤った。ビビアンが見つめる中、一本の太い脚が滑って数千ポンドの重量がずれ、慎重なバランスで成り立っていたその恐竜の歩みが歪んだ。まるで時間が遅くなったように、それは転んだ――ほんの少しの間。だが追うものにとっては、そのほんの少しで十分だった。

 ヴァンタサウルスはもがいて立ち上がろうとしたが、不意にその身体が後方へ引っ張られた。恐竜は再び吠え、悲鳴をあげ、そして三十トンの重量が力づくで引かれて見えなくなった。

「何が隠れてやがる?」 チェビルが顔をしかめた。その光景は彼の虚勢すらも抑えつけていた。

 恐竜は吼え続けた。必死に、恐怖とともに。そしてかすかな、湿った砕ける音とともにそれは途切れた。

 更なる音が続いた。ぞっとするような、そして分類できない音――引き裂き、噛み砕く。食事と、ビビアンが表現できない何らかの行動の音。

「銅纏いを狩るって話だったぞ、脱走者を!」もはや囁き声での会話にこだわる余裕はチェビルになかった。

 ビビアンは峡谷を顎で示しただけだった。「そうよ」

 イコリアでは、あらゆるものが「怪物」と呼ばれる。恐怖がその言葉を張り付ける――同じ次元に生まれた生き物たちを憎み、嫌うために興った文明社会。イコリアの動物たちは強大で危険、獰猛で誇り高く、ビビアンはそれらを怪物とは呼ばなかった。それらは、雷鳴のような足音で大地を揺るがしつつ峡谷から姿を現したものとは似ても似つかないのだから。

 広い意味では、それは人の形をとっていた。人間のそれよりは長く細いながらも腕は二本。巨大な骨組みのような身体の重量を支える、太い二本の脚。その中央から突き出ているのは――もはや人とは言えないながらも、それはルーカだった。

 最後に彼と話した時をビビアンは覚えていた――新ファイレクシアの攻撃部隊に加わってくれと彼を説得したのはビビアンだった。彼は裏切り者ではなく英雄として故郷に帰還することを何よりも望んでいたが、その願いは半分しか叶わなかったということ。ルーカはその巨体の中心にある肉の網に支えられ、露出した心臓のように胴体の中にはめ込まれていた。ビビアンは上半分をかろうじて認識できたが、それはごた混ぜのプラグやソケットと絡み合い、錆びて病的な緑色に変化した銅に結合されていた。腰から下は虹色の金属でできた何らかの生物に繋がっており、全体的な姿はおぞましいケンタウルスのように見えた。

 その身体は絶えず波打ち、色を次々と変化させていた。皮膚は目まぐるしく変容し、鋭い棘や硬い鱗からけば立つ毛皮へ、あるいは桃色や茶色をしたむき出しの肌となった。その異形の左脚を構成する重々しい厚板に、あのヴァンタサウルスの顔があった。それは動くことなく、瞳はガラスのようだった。無言の恐怖とともにビビアンが見つめる中、ヴァンタサウルスは波間に沈む船のように肉の中へと消えた。彼はすでにドラニスを陥落させたのだと彼女は思い出し、新鮮な恐怖とともにその意味をひしひしと感じた。今や、あれが彼のエルーダなのだ。ファイレクシアのレンズを通して歪められた、獣との絆。

 それが谷に足を踏み入れると、最初の地雷が爆発した。トカゲネズミや恐竜たちは軽すぎて反応しなかったのだ。一時間ほど前にその爆薬は地中深くに埋められていた。ヴァンタサウルスが起爆してしまう可能性もあった、そうビビアンは思った。だがそのヴァンタサウルスは――いや、いい。

 ルーカだったものは痛がるような音を立てなかった。叫び声をあげるための口を持っていないのだ。それでもそれは前のめりになり、腕を伸ばして身体を受け止めた。そこに次の地雷が反応した。爆発が次々と広がり、黒土が煙のように宙へと舞った。

 ルーカだったものは爆発から離れようと後退し、するとそれが立つ溶岩平原に雷のような亀裂音が発せられた。その異形が太い肉の足を踏み下ろすと、硬化した地面を突き破ってその下に脈打つラウグリンのマグマが溢れた。

 この場所からでも、ルーカだったものの脚の周囲に沸き立つマグマの熱がビビアンの顔に感じられた。炎がその胴体よりも高く弾け、谷底に煙が流れ出した。その悪臭は筆舌に尽くしがたいものだったが、ビビアンはその光景に魅了された。その恐怖とその規模、ひとつの次元が始原から誕生するのを垣間見ているような。隣でチェビルが立ち上がり、両手を口にあてて叫ぶ声すら彼女は聞き逃しかけた。「奴が来るぞ!」

 峡谷の入り口を取り囲む赤い剃刀草の茂みから、チェビル配下の黒ずくめの狩人たちが立ち上がった.彼らは辛辣な矢の雲を放ち、ルーカだったものの側面に浴びせた。溶岩をかすめた矢軸は、毒が燃えるにつれて小さく鮮やかな炎を発した。その反対側では他の狩人たちが、縄をくくりつけた棘だらけの槍を投げつけてルーカのおぞましい胸当ての肉に二十本ほどを突き刺した。そして狩人たちは縄を強く引くと、慣れた動きで鎚を振るって地面に杭を打ち込み、錨とした。

「やっちまえ!」チェビルが吼えた。

 ビビアンは既にアーク弓の弦を引いていた。肘が上がり、慣れた動きに背中と肩の強靭な筋肉が張りつめ、人差し指と中指の間に緑色の光でできた半透明の矢が現れた。目標は遠い、だが彼女は更に引いた。

 そしてビビアンは手を放した。矢は純粋な魔法となって重力から解放され、一瞬にして彼女とルーカであったものの間を駆けた。だがそれが実際の身体に命中する直前にルーカは、おぞましい肉の構築物の中心に埋め込まれたファイレクシア人は、周囲の肉から勢いよく骨を突き出して矢を無害に受け止めた。

 チェビルが罵りを叫んだ。ビビアンは次の矢を構えたが、既に相手は中心の乗り手を隠しながら進んでいた。ゆっくりと、そして、眠りから目覚めた獣のように。その脇から伸びる縄が張りつめ、そして限界に達した。数本はちぎれ、また別の数本は肉に刺さった槍ごと凄惨に引き抜かれた。狩人たちがあげる恐慌の叫びが聞こえた。数人は既に背を向けて逃げ出していた。そうではない者たちは次なる槍を用意し、狙いをつけて投げようとした。彼らの勇気は報いを受けた――不格好な腕が振るわれ、低木地帯から彼らはなぎ払われた。人形のように投げ出されなかった者たちは、その腕に取り込まれていった。ビビアンが見つめる中、彼らは無力に悲鳴を上げて悶えた。だがその肉へと次第に沈み込み、やがて完全に姿を消した。

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アート:Anastasia Balakchina

「逃げるな、戦え、できそこない共が!」チェビルの吼え声も無意味だった。例えそれが聞こえていたとしても、狩人たちは今や恐怖に我を失い、微塵の統率もなく逃げ出していた。彼らは怪物からできるだけ離れることだけを考えていた。ひとりがつまずいて転び――そしてその勢いに地雷のひとつが反応した。彼は不意に弾け出た黒い煙の中に消えた。

 ビビアンの肩が痛んだ――彼女は弦を引いたまま敵に隙ができる時を待っていたが、それは来なかった。背を伸ばすことすらせず、ルーカだったものは溶岩の中から抜け出そうと進んだ。脱出されたなら、勝機は二度と訪れないだろう。

 彼女はひとつ深呼吸をして目を閉じ、自らの心をアーク弓の精霊たちへと開いた。あの異形を倒したいという必死の思いを彼女と同じくするように彼らは武器の中で暴れ、吠えていた。ビビアンは放った。弦が震え、霊の矢がその標的へと飛んだ。今回はその青緑色のエネルギーが解き放たれ、次第に巨大化しながらルーカだったものへと向かった。

 宙を駆ける矢から、半透明で力強い筋肉質の脚が現れた。地面に触れてもそれは全く勢いを緩めず、ぼんやりとした緑色の顎が実体化し、すぐさま大きく開いて挑戦を吼えた。霊の戦慄大口は死してなお生前に等しい捕食者であり、ルーカだったものへとすさまじい勢いで襲いかかった。

 当初、異形のファイレクシア人の方が劣勢のように思えた。それは戦慄大口よりも大きいとはいえ動きは鈍く、殺戮本能以外には何も持たない肉に等しい。半ば幽体の獣はうなり、噛みついてのたうち、死肉の大きな塊を引きちぎった。一方でルーカだったものはその霊を掴んで包み込んだ――ヴァンタサウルスと同じように吸収しようとしたのかもしれない。だが効果はなかった。今なおその足元にはマグマが沸き立ち、肉が焼ける濃い悪臭とともに黒い煙を上げていた。一瞬、勝機はビビアンたちにあるように思えた。

 そしてルーカだったものは、獣には決してありえない曲げ方で腕を振り回した。骨のない腕をしならせた鞭のような一撃を、戦慄大口は予測できなかった。霊の姿に衝撃が波打ち、戦慄大口は一瞬だけ動きを止めた。そして身体を構成し直そうとした時、ルーカだったものは全体重を両腕に乗せて幽霊の恐竜へと荒々しく不格好に振り下ろした。戦慄大口はあっさりと消滅した。エメラルド色のエネルギーが衰え、油ぎった煙と混ざり合った。

 ビビアンが無力に見つめる中、ルーカだったものは火山性の裂け目から身体を引き上げた。その両脚を包むように溶岩が凝固し、黒い石が湯気をあげていた。堅い地面に再び立ち、その異形は何事もなかったかのように前進を開始した。

「あいつは恐怖の道へ向かっているわ」ジリーナを、ドラニスの避難民を追いかけているのだ。「彼らはまだラバブリンクに辿り着けていないはず。私たちも急がないと」ビビアンはそう言いながらアーク弓を肩にかけた。だが振り向くと、チェビルは丘の上から彼女を見つめていた。その表情は読めなかった。

「急ぐってどこへだ? 何をする気だ?」

「あの男を食い止めるために。不意討ちをするために。傷を負ったかもしれないし」それはかすかな希望だが、今ある希望らしきものはそれだけだった。

 チェビルは黒土へと唾を吐いた。「俺の狩人どもは死んだか逃げた。こっちの負けだ、獣好きさんよ」

「あなたは生きているでしょう。偉大な狩人のチェビル、それともその評判は焚火での大ぼらだったわけ?」

 彼は短く耳障りな笑い声をあげた。だがその瞬間、ビビアンは彼が必死に隠そうとしているものを理解した――恐怖を。

「そうとも、俺がそいつだ。けどな、いい狩人と偉大な狩人の違いは何だかわかるか? 自分は何が殺せて何が殺せないか、それを理解することだ。そしてたった今俺は、あの銅纏いの成れの果てがどっちに入るかを把握した。俺たちにできることは何もねえ。あんたのちっちゃな魔法の弓にあれよりも気持ち悪い怪物でも入ってない限りはな」

 ビビアンはその男に一歩近づいた。チェビルよりも長身の彼女は威圧するように立った。「チェビル、あなたを逃がすわけにはいかないの。あなたが必要なのよ。あなたには土地勘があって、私にはない」

「だからこそだ、俺の言う通りにして逃げろ」彼は背を向け、ルーカだったものの巨体がゆっくりと視界から離れていく様を見た。それともその先、雷鳴のような足音があの異形を運んでゆく方角をだろうか?

 彼女の心を察したかのようにチェビルは続けた。「あの山には、死ぬほうがまだ優しいって思うようなものが潜んでる。俺を殺さなきゃいけないならそうしろ、嬢ちゃん。少なくとも俺の墓には花が供えられるだろうよ。偉大な狩人チェビルの存在がなかったことにはならねえ」

 素早く鋭く、ビビアンは肩から弓を外すと弦を引いた。半透明の緑色をした矢がつがえられた。彼女はその狙いを、鼻を鳴らして峡谷の入り口を振り返るチェビルに向けた。しばし、彼の顔面に緑色の光が踊った。そしてビビアンは身体をひねり、空へ向けてその矢を放った。


 ジリーナの銅纏いを殺戮している生物は、サヴァイの平原を闊歩する大猫の一匹だったのかもしれない。今やその顔は胴のような金属板に覆われ、緑色の酸化物と赤い血で汚れているため特定は困難だった。人間の頭部ほどもあるその足に押さえつけられたひとりの兵士は、鉤爪に胸を圧迫されて弱弱しくもがいていた。反射的に――考えたなら、怖れたなら、逃げ出してしまう――ジリーナはすぐさま駆け、その獣の顔面を剣で叩いた。その攻撃は金属板に跳ね返され、彼女の腕に強い衝撃が走った。だがその生物は兵士を放して後ずさり、彼女めがけて突進した。

 ジリーナは急いで下がった。訓練場で過ごした数えきれない時間が、激しい恐怖の中でもかろうじて足取りを保たせてくれた。ブリッドがその乗騎とともに彼女の左に駆けてきたが、ファイレクシアの獣に威嚇されるとそれは怯えて後ろ脚で立ち上がり、彼を地面に落とした。その生物の首筋には、捕食本能で不気味に張りつめた筋肉がむき出しになっていた。イコリアの多くの獣と同じ。一瞬の隙をついてジリーナはその肉のケーブルに剣を突き立て、そして腕を下方へひねり、頭部をほぼ切り落とした。獣は地面に倒れてなお激しく悶えていたが、戦鎚で武装した銅纏いたちが群がって叩きのめし、やがて金屑と化した。

 ジリーナは注意深く刃から血と油を拭い、手の震えに止まってくれと願った。背後にかすかな動きを察した直後、ファイレクシア化した猫の二体目が彼女の鎧を引っかき、ブリキ缶を開けるように背中の部分を切り裂いた。

 その勢いにジリーナは突き飛ばされ、手から落ちた剣は岩の上を跳ねて転がっていった。次なる鉤爪が振り下ろされる瞬間、彼女は仰向けになって胸鎧でそれを受け止めた。金属が屈し、へこんだ。怪物に睨みつけられながら、胸の圧迫感に彼女は耐えた。熱い涎が紐のように頬に落ち、ひどい痛みとともに彼女の皮膚を焼いた。これが自分の最期だと察し、言葉は何も出てこなかった。ジリーナはただ口を開け、うなり返すだけだった。

 不意に胸の圧迫感が消え、ジリーナは再び呼吸をした。頭上でその獣が吼え声をあげた。彼女から引き離されながら、それは金属がこすれて曲がるようなすさまじい音を発した。宙で悶える獣の下に、彼女の救い主が見えた――ゴリトラ。その種の中でも飛びぬけて巨体で、戦利品のようにファイレクシアの獣を持ち上げていた。すさまじい力を見せつけながら、ゴリトラはファイレクシアの獣を地面に叩きつけた。骨が砕ける音が響いた――どうやらそれにもまだ骨はあるらしい。獣はなお立ち上がろうとしたが、石の棍棒をもつ男に顔面を殴打されて再び倒れた。そして輝きをまとう不思議な猟犬がその上に飛び乗り、背中に走るケーブルを切り裂いて引っ張り出した。そこに更なる兵士たちが現れて猫に槍を突き刺し、血と部品と油の塊へと変えていった。

 油。ジリーナはぼんやりと思い出した。ビビアンは油について警告していた。ゴリトラの両肩から突き出た橙色の水晶には既に黒い汚れが見えた。「離れて!」彼女は大声をあげ、片肘ついて身体を起こした。「それに触らないで!」

「クードロ将軍、お怪我はないですかな?」棍棒を持った男が彼女へと手を伸ばした。眷者のひとり、彼女はようやく思い出した。ハルダンといったか。彼とその仲間たちが戦列の東翼から見つめていた。

「大丈夫」ジリーナはそう呟き、彼の手をとって立ち上がった。「そのゴリトラ――」

 だが彼女がそう言うと同時に水晶が淡く輝きはじめ、表面についたファイレクシアの油は泡を立てて蒸発し、吐き気を催すような黒い煙と化した。すぐに、まるで汚れなど存在しなかったかのように油は消えた。

 ハルダンはジリーナの視線を追った。「ああ、よくはわからないが。新しい水晶が多くの獣から生えてきている――自然が持つ免疫の一種だろう」

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アート:Sam Burley

「驚くことではないのでしょうね」ジリーナが言った。「この次元の怪物は、常に私たちの一歩先を行くのだから」

 背後の人だかりから驚きの声があがり、ジリーナは腰の剣を手にしようとしながら――だがそこには無い――振り返った。次なる襲撃ではない。西の空、雲のすぐ下に細い緑色の光が弧を描いていた。ビビアンとあのお喋りなチェビル。ジリーナは息を殺して見つめ、待った。良い知らせを。どうか良い知らせを頂戴。待ちわびているのだから。

 苦しいほどに長い一瞬が過ぎ――そして緑色の光が空にもう一本走った。すべての希望が失われるのを、油のように弾けて消えるのをジリーナは感じた。

 それは信号だった。彼女たちは失敗した。ルーカがやって来る。

「将軍! クードロ将軍!ご無事ですか?」血まみれの槍を手に、ブリッドが駆けてきた。

「大丈夫」彼女は囁き声を発するのがやっとだった。ルーカがやって来る。自分たちがラバブリンクに着くよりも早く。そして――

「将軍、隊列は今も待機しております。前進すべきでしょうか?」

 この決断を下したくはなかった。事もあろうにこの瞬間、彼女は父親を思った。始終冷酷な男であり、多くの意味で悪役だった。けれど父の立場では、そうなる以外にはなかったのだ。

「この襲撃は先遣隊よ」ジリーナはそう言った。「進路を変えないと――1マイルくらい先に近道があるから。東への道よ。負傷者や年配の人たちにはきついかもしれないけれど、他に選択肢はないわ」

 ブリッドは素早く敬礼すると乗騎を見つけるべく駆けていった。ジリーナが振り返ると、ハルダンが不安な表情で見つめていた。「俺はラウグリンで生まれ育った」彼は小声で言った。「ジャル・コルチャは何度も通ってきたが、その道はラバブリンクには繋がっていない」

 彼は肩越しに振り返り、そして空を見上げた。まるで突然さらわれるのではと不安になったかのように。だがそこには何もなく、遥か遠くに赤いポータルが口を開けている様子がかろうじて見えるだけだった。「このあたりを縄張りにしているのは――」

 表情を平静に保ち、ジリーナはハルダンへと向き直った。将軍は冷静でいなければ。「生きて夜を迎えたいなら、何も言わないで」

「それは脅しか?」

「私が言ったことは真実よ。それだけ」

 ジリーナは返答を待たなかった。彼女は少し離れた地面に横たわる剣を拾い上げ、鋼に映る自らの姿を一瞥してからそれを鞘に叩きこんだ。


 ジリーナが先導する小道は狭く、両脇に迫る山容のように鋭く曲がりくねっていた。進むのはとても困難だった――地面に散らばる鋭く不安定な石に荷車の車輪は外れ、靴底は破れた。陥落するドラニスから持ち出された、かけがえのないはずの物資も彼らが通過した道に散らばっていた。銀食器、衣服、家具、無数の災難を生き延びてきた家宝も今やごみのように捨てられていた。避難民たちは歩みを進めながら道の両脇の火山岩を注意深く見守り、次なる襲撃に備えていた。

 彼らが話題に出すのは、何らかの話をするのであれば、それはラバブリンクについてだった。寝台は足りるのだろうか? あの街の外壁にうねる分厚い溶岩はファイレクシア人を防げるのだろうか? あとどのくらいの距離なのだろうか? その問いには、遠くはないと誰かが必ず励ました。

 太陽が低く沈み、ラウグリンを包むもやの中で血のような橙色に変化する頃、避難民の列は狭い山道から平坦な黒いガラスの窪地に入った。靴や歩行杖がまるで音楽のような音を立てた。ガラスの表面に反射する光はまるで鏡の世界を見せているようで、彼らのすべてが黒く判別のつかない輪郭で映し出された。窪地の中央近くには奇妙な楕円形に近い何かがあり、それは地面と同じ火山ガラスでできているようだった。見慣れない地形、だが当初避難民たちは狭苦しい道が終わったことを素直に安堵した。だが地平線を見つめ、彼らは次第に不安にかられていった。その窪地は滑らかな急斜面に取り囲まれており――抜け出す道はないように思えた。

 将軍は私たちをどこへ連れて行こうと?

 ここはラバブリンクじゃない。

 引き返さなければ!

 ジリーナは人々の感情が次第に高まるのを感じた。パニックに陥る寸前の家畜のように。何か言わなければとわかっていたが、この時は全く言葉が出てこなかった。

 誰かが彼女の腕を掴んだ。あの眷者――ハルダン。「ここを離れないといけない。人がいてはいけない場所だ。ここは――」

 彼の言葉は叫び声に遮られた。今や、誰もが遠くの斜面を指さしていた。そこでは人間の手のようなものが――途方もなく巨大で、不自然な形だが――この火山平原の縁を掴んでいた。ジリーナを取り囲む不安の呟きは不意に、恐ろしい沈黙へと変わった。

 不格好に揺れながら、つぎはぎの肉の怪物が岩の上に身体を引き上げた。ドラニスで見た時よりも、ルーカは更に大きくおぞましくなっていた。彼を覆う肉は優にあの時の三倍はあった。皮膚という広大なカンバスには鱗や羽毛が生え、木の幹のように太い脚は黒い石とぎらつく酷い火傷が融合したものに覆われていた。

 それはありえない身体構造を粘土のように曲げながら、蜘蛛に似た動きで斜面を下ってきた。沈黙が破れた。不意に、ジリーナの周囲の至る所でパニックが起きた――悲鳴、叫び、怒りの声が満ちた。群衆は押し合うように狭い山道へと急いだ。だが人数はとても多く、道はとても狭い。互いを踏み潰しながら進むことになってしまうだろう。荒れ狂う不協和音に負けじと彼女は叫び、落ち着くよう命令した。誰も耳を貸さなかった――そもそも聞いている者がいるのかどうかもわからなかった。

 怪物は斜面を下りきって窪地に到達した。ずたずたになった太い脚でそれはゆっくりと立ち上がり、そこに、怪物の胸の中心部分に、ジリーナはかすかに彼の姿を認めた。ルーカ。私の婚約者。

 巨体の異形、その皮膚が波打って割れ、幾つものあばたが現れた――違う、あばたではないとジリーナにはわかった。口。

『うるさい!』

 千もの声が合わさって響き、一帯は静まった。ジリーナの背後の群衆は動きを止めた。あまりの怖れに、必死の遁走すらできなかった。

『ドラニスよ! 裏切りの街よ! お前の放蕩息子が帰ってきてやったぞ!』

 その声は、合ってはいたが完璧に同調はしておらず、ルーカが言葉を続ける中で不気味にこだました。

『俺に背いた罪は赦してやろう。素晴らしい贈り物を持って来てやった。ファイレクシアの中でなら、想像を絶する力が手に入るだろう。俺の中でなら、本当の統一と目的が見つかるだろう」

 ルーカだったものは足を踏み出し、地面を震わせた。ジリーナの背後のどこかで子供が泣きだした。


 両手を駆使してビビアンは登った。全身が切り傷と打撲だらけになっていた。硬いガラス質の岩は彼女の掌を切り、足取りをぐらつかせ、よろめいて落下しようになったのは一度や二度ではなかった。そんなことは問題ではない――彼女は進み続けた。だが半分ほど登ったところでその声が聞こえてきた。すべての声が合わさり、ひとつの恐ろしいコーラスを作り上げていた。あの男が彼らを見つけたのだ。ビビアンは無数の傷と痛みをこらえ、登り続けた。

 そしてようやく、彼女は登りきった――ルーカだったものが登ってきた崖を。おぞましい威厳をまとい、彼はそこにいた。そしてその先にドラニスの避難民たちが。ジリーナも彼らの中のどこかにいる。

 何かが太陽を横切り、辺りは一瞬暗くなった。素早く空を動く姿をビビアンの目がとらえた。鷲だろうか? いや――翼の形がそもそも違う。ドラゴンの皮膜が作る曲線に近い。それに、ずっと大きい。

 ひとつの叫びが大気を裂いた。ビビアンはその内に誇りと飢えを、そして縄張りを汚された純粋な怒りを聞いた。何かが雲間から急降下し、その姿がはっきりと見えた。ヴァドロック。ラウグリンの頂点捕食者。

 何てこと。私たちはあの怪物の巣の中にいる。

 それは窪地の中にいる最大の脅威、ファイレクシアの巨獣へと襲いかかった。ルーカも反応し、腕を伸ばしてその猫に似たドラゴンに掴みかかった。だが寸前でヴァドロックは全身の筋肉を用いて向きを変え、掴まれることなくすれ違った。そしてその際、ルーカだったものの手から肩までを走る深い傷を残した。開いた肉が重く垂れ、得体の知れない液体が遥か下の地面に滴った。

 ヴァドロックは旋回し、ビビアンが屈む岩の上からほんの数ヤードの距離を通過した。その勢いに風がうなり、彼女は崖から突き落とされかけた。この時、ルーカだったものは両腕を掲げて格闘家のように身構えた。そして頂点捕食者が激突する寸前、その腕は中央から割れて無数の肉の触手と化し、ヴァドロックに掴みかかった。触手は鉤爪や牙に切り裂かれ、吐き気を催すような墜落音とともに地面に落ちた。だが数本が相手をとらえた。ビビアンが見つめる中、ヴァドロックは無力に翼を羽ばたかせた。ファイレクシア人のおぞましい巨体に取りつかれ、飛び続けることは困難だった。ヴァドロックの脚を取り込むように肉が巻き付き、液体が流れるようにゆっくりと伸びていった。すぐに鉤爪を完全に覆い尽くしてしまうだろう。

 ビビアンは思った――あれでも勝てない。あれほどの獣でも。

 彼女は震える腕で弓を構えて矢をつがえ、引いた。できるのは攪乱だけ、それでもヴァドロックが必要とする隙を与えられるかもしれない。その怪物は今やファイレクシア人と格闘しながらも、ゆっくりと引き寄せられていった。彼女は狙いをつけようとしたが、悶える捕食者はルーカ自身に阻まれていた。

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アート:Yigit Koroglu

 そして夕闇の中、ヴァドロックの口内から奇妙な青い輝きが立ち昇った。

 ヴァドロックは再び吠えた。獰猛な呼び声――そして発せられた青い炎はあまりに眩しく、ルーカだったものの腕が見えなくなるほどだった。炎が触れたものは即座に貪られた。燃えるというよりは消えた。ルーカだったものの身体に点在するすべての口が悲鳴をあげた。千もの声が全く同じ苦悶の叫びを発するその音は忘れたくとも忘れられないだろう、ビビアンにはその確信があった。不意に、肉の巨獣の腕のほとんどは元から存在しなかったように思えた。

 ヴァドロックの口からきらめく青い炎が更に浴びせられ、悪夢のような巨体の右脇腹を洗った。ルーカだったものは片腕をあげて防ごうとしたが、炎は触れるすべてを貪欲に食らった。ファイレクシアの怪物は傾き、後退すべくヴァドロックを放した――だがイコリアの捕食者の方が速かった。それは首を伸ばして怖れ知らずにも異形の怪物の中心に噛みつき、肉の塊を引きちぎった――いや、肉ではない。ビビアンには見えた。ヴァドロックの顎に挟まれて悶えているのは、ルーカだった。真のルーカ、あるいは少なくとも、新ファイレクシアが彼から作り出したもの。

 乗り手を失い、取り込んだ肉と骨でできた巨体は傾いて地面へと落下した。そのすさまじい衝撃は近くの峰にまで響き渡った。ヴァドロックは巨大な翼を二度羽ばたかせ、ビビアンが見つめる崖の上へと舞い上がった。その獣までの距離は百ヤードもない――その口の中で悶えて叫ぶものまでの距離は。

 ドラニスでなら、せめて最後の言葉を言わせてもらえたかもしれないのに――ビビアンの心にそんな思いがよぎった。

 彼女は霊の矢をつがえて引き、彼の胸に命中させた。もう一本、そしてもう一本。

 ドラニスは滅びた。その民は荒野に取り残され、彼らが従う法はただひとつ――適者生存。


 他の生存者たちと支え合いながら、ジリーナはヴァドロックがルーカの屍を斜面へと投げ捨てる様を見つめた。ドラニス特殊部隊の隊長があのように死ぬとは。彼女はそう思い、そしてそこには悲しみや後悔ではなく奇妙な虚しさがあった。ラウグリンの壮大な獲物は峰から飛び立ち、残った肉の塊の隣に着地すると今一度炎を浴びせた。ヴァドロックの炎の熱は、その何かの記憶そのものまでも焼き尽くしてしまう――かつてルーカがそう語ってくれたのをジリーナは思い出した。今この瞬間、彼女はそれが真実であることを願った。

 ヴァドロックは群衆へと向き直った――ドラニスの残されたすべてへと。怪物同士の戦いを見つめる間、彼らはしばし恐怖というものを忘れていた。だが今、ヴァドロックの黄色い目を見つめ、それは再び呼び起こされた。囁き、驚き、すすり泣きがジリーナの周囲に広がったが、誰も即座に逃げ出そうとはしなかった。全員が息を殺しているかのようだった。

 再び、怪物の喉から青い輝きが沸き上がった。

 その時、両腕を振りながら全員の前に駆けてきたのはビビアンだった。「待って」息もつかずに彼女は言った。それは自分たちではなく頂点捕食者に向けられている、ジリーナはそう気付いた。「待って!」

 ヴァドロックの視線がビビアンを過ぎ、彼女が手にしたままの弓を一瞥した――ジリーナにはそう思えた。そして怪物は再び飛び立った。大きな翼が風を巻き上げ、彼女たちの衣服をはためかせた。ヴァドロックは去っていった。

 ジリーナは膝をつきそうになった。生き延びた。ほんの少しの間かもしれないが、それでも生き延びた。

「俺たちを餌にしたな」誰かが言った。振り返るとそれはハルダンだった。「ここに閉じ込められるとわかった上でか。怪我人や子供たちまでも」

「ええ」ジリーナは頷いた。「そうしたわ」

「あれに食われていたかもしれないんだぞ、それともあの炎に俺たちまで焼かれていたか!」彼は声をあげ、憤怒に頬を赤くした。

「けれど、そうはならなかったでしょう」

「あの怪物が何をするか、何もわかってなかっただろうが!」

「戦争において確実なことなんて何もないわ」今やジリーナはひどく疲れていた。勝っただけでは足りないの? 助かっただけでは足りないの? 「生き延びたいなら私たちは適応しなければいけない。怪物と同じように」

「何の説明も無かっただろう!」群衆から誰かが声をあげた。

「あんな怪物の前に民を向かわせる指導者がいるか?」別の誰かが叫んだ。

 ジリーナは思った――他に方法はなかった、それがわからないの? これが唯一の方法だったと。

 そうだろうか?

「聞きなさい!」そこでビビアンが口を開いた。「ラバブリンクはまだ半日先なのよ。夜が更けるまで歩く必要があるわ。ジリーナはその時間を稼いでくれたのよ。他に何ができたっていうの?」

「あんたの働きには感謝してる」ハルダンが言った。「けどあんたは俺たちとは違う。それにあんたは自分の意志でこの危険に踏み入った。俺は兵士じゃないんだ、畜生!」

「確かにそう、私はあなたたちの一員じゃない」ビビアンはそう答えた。ジリーナはようやく、彼女が傷だらけであると気付いた。それでもビビアンの勢いはさほど削がれてはいなかった。「ジリーナをどう扱えなんて命令する権限は私にはない。ここはあなたの次元で、あなたの民。彼女の権限を剥奪しようが追放しようが自由。けれど、これから来るものを生き延びてからにしなさい」

 今も青い炎にくすぶり続ける、ルーカが作り出したもの残骸をハルダンは見た。「来るって、何がだ?」

 そしてその時、雷鳴が空に轟いた。山々の背後の空にまたも穴があいた。ドラニスの上空にあいたものと同じような。その中から――まるで骸骨の指が探るように――ありえない大きさの、白い金属の触手が現れた。ビビアンは「枝」と呼んでいたが、ジリーナはそれを生やした木など想像もできなかった。

「まだ終わりには程遠いわ。大変な一日になるでしょうね」ビビアンが言った。

 一瞬、ジリーナは群衆がどちらに激昂するかわからなかった。だがその時の彼らにジリーナを引き裂く余力はなかった。ジリーナの周囲で人々は荷物を拾い上げ、荷役獣と荷車の向きを変え、支え合いながら進んでいった。来たるもの、彼らがそれに備える様子をジリーナは見つめた。今日、彼らは勝ち取ったのだ。生き延びる権利を。次の一日を、次の一時間を、次の一分を生き延びる権利を。

 いつか報いを受けるのだろう。対価を払う時が来るのだろう。ジリーナも自分の荷物を拾い上げた。その日が来たなら、喜んで支払おう。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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