2023年3月17日

 

　これはひとつの物語。

　昔々のこと、ウルザという偉大な魔術師がいました。とても賢いため、多元宇宙のあらゆる魔道士が彼の助言を求めてやって来ました。とても強いため、肩を並べられそうなのは弟のミシュラだけでした。ですがミシュラはウルザをとても憎んでおり、やがて戦争が始まりました。

　その戦争は何十年も続き、数えきれない命を奪いました。さらに悪いことにその戦争によって、とてつもない悪が現れてしまったのです。ひどい病気がミシュラの軍に広がりました――行くところすべてを変化させる黒い油です。

　タミヨウはこの物語を知っていた。この部分は始まりに過ぎず、この先にもっと、ずっと長く続く。何年も前、彼女はそのすべてを暗記した。その後、ウルザの金属製の後継がひとつの次元を創造するという行いに取り組んだように、彼女はそれを記録するという行いに取り組んだ。気が付くと、その物語は油のように彼女の心へと染み渡り、それを彼女が好まない何かへと変化させ始めていた。何か危険なものへと。

　彼女はそれを封じ込めた。

　何と愚かな行為だったのだろうか。

　手に巻物を握り締め、彼女はネオンが照らす都和市の上空に浮いていた。その指から紙へと油が浸みていった。まもなくその文字は全く読めなくなってしまうだろう――だが彼女のような者は気にしない。自分自身を知るよりも、そういった物語をよく知っている者は。

　ファイレクシア人の百長が一体、建物の屋根を殴りつけていた。人々は蟻のようにそこから逃げ出した。違う、蟻のようにではない――蟻の甲殻はそれらに強靭さを与える。蟻は全体がひとつの存在であるように行動する。肉と定命の恐怖にとらわれた人々は、決してそのように信頼はできない。違う。悲鳴を上げながら建物から飛び出す彼らを動かすのは、内臓だけ。肉だけ――彼らの存在の中でも、最も誤っているもの。

　その巻物を閉じているのは鉄の輪。タミヨウはそれを滑らせて外した。輪は宙を降下し、他の多くの金属塊と同じく、何も知らぬ誰かの頭の上に落ちた。

　物語は続く――

　その魔術師ウルザは、純粋でありのままの金属から後継を創造しました。そして彼をカーンと名付けました。彼を生み出した創造の火花と同じものが、彼の胸の内にも眩しく燃えていました。カーンも、創造しなければなりません。彫刻家が大理石を刻むように、彼は自分自身の世界を形にしました。それが終わると――生き物たちは名前をつけられて祝福を受け、気候が注意深く作り出され、大地の形が定まって磨き上げられると――彼は自分自身の後継、メムナークへと監視を命令しました。

　都和市の精霊たちは彼女の侵入も、彼女の仲間の侵入も快くは受け入れなかった。枝は曲がり、蒸気が腱を焼き、葉が剃刀のように切り裂いた。他の物語が彼女を守る役割を果たした。もっと些細な物語が。目的を持たない物語。今こうしてはっきりと見ているような栄光と美徳を称賛しない物語。存在するあらゆる歴史は、物語は、寓話は、統一を称えるか拒むかのどちらか。

　もはや重要ではないそういった歴史は捨ててしまえばいい。このひとつも。結末をもたらしてやらなければ。

アート：Artur Nakhodkin

　彼女が巻物に目を走らせると、文字が輝きだした――黒い油に塗り潰されたものですらも。音節を読むごとに爆発や反響があり、都和市の摩天楼を震わせた。列車は崩れゆく線路から傾き、地表へと落下した。地面は自ら裂け、余剰空間などない街に裂け目を開いた。川の水が押し寄せ、小舟や釣り人を巻き込んでいった。その水には黒い筋が走っていた。今なお立つ建物に吊るされた広告の紙には、ファイレクシアのシンボルが自ら刻み込まれた。

　もはや長くはもたない。物語は続く。

　メムナークは後継の後継、複製の複製でした――ウルザ自身の、消えかけたイメージでした。それは詩人が筆を振るうように容易く、祖父と同じ力を切望しました。親たちの、創造の能力を切望しました。もっと見たいと切望しました。長い年月をかけて、それは様々な次元から生命を摘み取り、そのすべてをこの庭に住まわせ、花が咲くのを待ちました。そして花は咲きましたが、メムナークが期待していたような花ではありませんでした。黒い油の中に咲いたのです。締め付けるような根が、あらゆる生きて無傷なものに巻き付きました。やがて、庭全体が油の中に引きずり込まれました。後継は自らの世界に帰還すると、そこがばらばらに裂かれていたことを知ります。

　物語はまだ続く。
故郷を追われて踏みにじられた人々、その魂は身体から剥ぎ取られ、その身体は面影もなく作り変えられる。そのぬかるみの中からひとりの女王が現れ、人々を統べる。輝かしい、終わりなき調和――争いのないひとつの生命。後継はそのすべてを恐怖とともに眺める。

　この物語を記した時、タミヨウはそのすべてを怖れた。ひとつの大きな家族の一員となることで得られる平穏を理解していなかった。今はそのようには語らない。だがそれは終わりに近づいており、彼女は語り続ける。

　母聖樹、かつてこの次元をひとつにしていた木が、弾けて割れた。樽から葡萄酒がこぼれるように、破片の間に油が流れ、渇いた土へと滴った。聞いた者の耳を貫く不浄の悲鳴――住処を壊された神たちが、母聖樹地区から逃げ出した。あるものは槍先で自らの終わりを迎え、あるものは完成化した漁師とその獲物とに引き裂かれた。だがその結末は常に同じ――神は細かな霧となって消えた。黒化した土から、無へと溶けてゆく橋から煙が触手のように立ち、やがて地区全体が死した神の霧に飲み込まれた。

　その光景に、彼女の内のどこかかすかな一部が悲鳴をあげていた。耳に小さな声が鳴り響き、指先がうずいた。だが怖れていると言うことはできない。これこそが神河のためなのだ。何世紀も続いた戦争が終わっても、平和は訪れないと？これはひとつとなるための更なる一歩ではないのか？

　タミヨウの手の中で巻物そのものが油と化し、指の隙間からこぼれ落ちた。

　物語はこのように終わる。終わり方はいつも同じ――ファイレクシアの勝利。

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　かさぶたを剥がしたなら傷となる。正しい処置をしなければ跡が残る。

　神河は血を流していた。ラヴニカも。だがラヴニカにはそこを守るプレインズウォーカーが沢山いる。まず、何かを守るのはテヨの全て――そしてラルも以前から対策を考えていた。何か大きなものが迫りつつある、そんな予感がすると彼は言っていた。彼らは上手くやってくれるだろう、少なくともしばらくの間は。

　ジェイスが他の次元と連携する間に、ケイヤとヴラスカがラヴニカを維持することになっていた。今となっては、それは叶わない。

　自分たちがいなくとも彼らは持ちこたえてくれるだろう。神河の血を止めるために力を貸して欲しい、魁渡がそう彼女に願った。そしてこれまでの諸々を経て、助力とは彼女ができる最低限のことだった。

　自分が受けた傷が心配だったとしても。

　いつまでこうして当てもなくぶらついているのか、ケイヤはそれもわからなかった。これらは、来世の自分が誰になるかを変えるような思い出だろうか？ そうだとしたら、自分はどうしようもなく迷っているということ。新ファイレクシアを目にするだけでも十分最悪だった。けれど、侵略の真っ只中に立って、新ファイレクシアが次元の四肢をもぎ取る様を見つめるのは？ 自身が傷つかないようにするには、その光景に対して無感覚になる以外にない。

　全員を助けようとしても、起こっている物事はあまりに多すぎた――百長たちの足音が轟き、地面が揺れる。機械の猟犬がうなり声を上げて街路をうろつき、あるものはその骨の格子の中に人々を捕らえている。何世紀という歴史が一瞬にして消える――何百という未来の可能性もまた、一瞬にして絶やされる。

　それを考えている時間はない。起こった物事を辛く思う時間もない。何故自分がゲートウォッチをまとめる人物になっているのかと、上手くいかないかもしれないと悩む時間もない。人々が死につつある。プレインズウォークの後、よじれる胃を宥める時間もない――動くだけ、やるだけ。

　行動しなければ。

　ケイヤは駆けた。彼女はバルコニーへと跳んだが、同時にそれは裂けた。彼女はその先のぐらつく床に着地した。一瞬の後、彼女はぞっとした。最悪の恐怖の中で、観葉植物や散らばった衣服、荒れた台所が息をつく余裕をくれた。ここは集合住宅。住人のほとんどは逃げたのだろう。食べかけの麺が残る椀が、少なくともここにいた人々はそうしたと示していた。だが、ここ以外の者たちは？

　混乱の中に半ばもみ消されながら、ひとつの悲鳴が彼女の耳に届いた。ケイヤは幽体化して壁や小物や形見を通り抜けながら、今日この後にこれらのすべてが失われるとは考えないように努めた。向かった先の隅で、ひとりの少年とその犬が震えていた。倒れた柱が彼らをそこに閉じ込めていた。犬が通り抜ける隙間はあるものの、少年にとっては困難に思えた。

　ケイヤは彼らを放ってはおけなかった。脱出計画が沢山あるわけではなく、どうすれば上手くいくかもよくわからない。だがそれは道中に見つけ出せればいい。この侵略に対してどうするべきかを見つけ出すよりは難しくないのだから。

　倒れた柱をすり抜けるのは簡単だった。その少年を幽体化して抜け出させるのは、通常は難しい――だが助けたいという彼女の思いと同じほどに、少年はここから脱出したがっている。ならば容易い。ケイヤは手を差し伸べた。少年がそれを掴むと、彼女は倒れた柱を通して少年を引き出した。彼はにやりとした――そして犬も隙間から這い出た。

「どうやって降りるの？」少年が尋ねた。

　目の前の光景を見るに、それはもっともな質問だった。建物の側面がそっくり引き剥がされていた。都和市が――あるいはその残骸がぼんやりと見えた。地上から煙が上がる中、床や家具が落下していった。
辛辣で油ぎった煙。ケイヤはそれを詳しく考えたくはなかった。街路では侵略に対抗する者と、侵略を進めようとする者との戦いが激化していた。攻める者たちの口や目から黒い油が染み出し、あらゆるものの表面にファイレクシアの汚らわしいシンボルが輝く。さらに悪いことに、数分ごとに耳をつんざく轟きがこの次元を揺らし、ノーンのあの骨ばって輝く枝の攻撃を告げた。

アート：Titus Lunter

　ケイヤがそのすべてを見つめる子供だったなら、同じ質問をしていただろう。

　だが今の彼女は大人であり、その仕事は答えなどない所に答えを見つけること。

「ひとつひとつ跳んでいって進むのよ」彼女はそう言った。少年はシャツの中に犬をしまい込んだ。「跳ぶのは得意？」

「一番だよ」少年が答えた。

　そうであることを彼女は願った。ケイヤは少年の手をとり、ふたりは残る床の端へと向かった。少し前方でバルコニーの残骸が揺れていた――そこに着地できれば、雨どいを伝って安全に滑り降りることができるだろう。

「三つ数えたら跳ぶわよ」ケイヤの言葉に少年は頷いた。

　いち、に……

　さん！

　ふたりは同時に跳躍した。ケイヤは少年の手を握り続けていた。だが着地しようかという瞬間、バルコニーが崩れた。

　ケイヤ、その少年、そして犬は真っ逆さまに落下した。

　これから自分が死ぬという時、考えるべきことは沢山ある。けれど誰かを救う責任を担っているなら、それはとても少なくなる。ケイヤは素早く考えた。落下速度を遅らせることができるなら、この少年を救えるかもしれない。それが最優先事項。少年が悲鳴をあげたところで、ケイヤは彼を胸に抱き寄せた。

　彼女は目を閉じた。

　衝撃は来なかった。

　見えざる力がふたりを押し戻し、落下速度を緩めていた。地面に墜落する数秒前、ふたりは宙に留まった。何が自分たちを掴んでいるのかはわからないが、長くはもたないらしい。ふたりはその掌握の中で震えていた。ファイレクシア人だろうか？

「次はもうちょっと慎重にやって下さいよ」

　魁渡。

　目を開けると彼の姿が見えた。その念力はかろうじて自分たちを支えているに過ぎないようで、彼の額には汗が浮いていた。人間ほどの大きさの物体を、それも三つも操るのは彼も限界に近いに違いない。血、油、泥がその滑らかな鎧に散っていた。魁渡はケイヤへと頷いた。

　最初に動いたのは少年だった。彼は地面に跳び降りた。近くにいた女性が叫び、彼は振り向くことすらせずに駆けていった。シャツの中から聞こえたうなり声が、犬もまた無事だと告げた。

　ケイヤも着地し、親指で鼻先をこすった。「ありがとう。あなたがいなければ迷ってたところだったわ」

　彼はその言葉を訂正はしなかった。それでいいということだろう。

「急いで動かないといけません。母聖樹地区が奴らの一番の狙いです。地区全体、母聖樹そのもの……」

　魁渡の声は途切れ、だがケイヤは自らその先を把握した。都和市にそびえる巨木が裂け、崩れ、その身体から汚らわしい滝が流れ落ちた。

「何て……ひどい」ケイヤが言った。

「ええ」魁渡が頷いた。「更に悪いのは、あれはタミヨウさんの仕業だってことです。巻物を開いています。見えますか」魁渡は指をさした。街の空高く、母聖樹の垂れ下がった枝の近くにタミヨウが浮いていた。「今もその巻物を読み続けています。誰もそれを止めさせなかったら、事態は悪くなるだけです」

　何てこと――今や自分たちは、友の命を奪うことを話し合っている。ケイヤにとって暗殺は慣れたものだが、これは少し訳が違う。よりによってタミヨウを。「私たち両方とも、そのための技術はある。私がやる、それともあなたが対処したい？」

「個人的なことなので、俺が」魁渡はそう言って頷いた。
「神も俺たちと同じく戦おうとしています――戦える神は。来てくれるよう説得できるかどうか」

「来てくれるといえば――放浪者はどこにいるの？」

　ケイヤにそのつもりはなかったが、魁渡は痛い所を突かれたようだった。彼は唇の端を歪めた。

「きっと来ます」魁渡はそう言った。

「つまり、ここにはいないと？」

「あの方はきっと来ます。少しだけ信じてください」

　そこかしこで神河が崩壊しつつある。信じろと彼は言う、それは悪い冗談ではないだろうか？

　あるいは、固まっては剥がし続けるかさぶたのような。

---

　タミヨウは彼らの上に浮いていた。あるいは、かつてタミヨウだった何かが。彼女は見下ろすことはせず、動く様子もなく、自分の行いを気にかけている様子もない。大田原で魁渡が出会った女性とは、これ以上なくかけ離れていた。

　彼は油にまみれた母聖樹の幹を見上げた。かつての彼女についてどれほど考えようとも、これは自分だけの問題ではない。魁渡は幹に片足をかけた。そして三歩上ったところで、誰かが声をかけた。

「あ――あの、上へ行くの、あの人と戦いに？」

　怯えた小さな声。無視したかったが、それはできないとわかっていた。それを置いても、この場所に子供が立ち往生しているなら、すぐにでも逃がさなければいけない。「ああ、俺は行く。早く逃げた方がいい」

「それはできないんだ」声が返答した。見下ろすと、魁渡は視界にその子供の姿をとらえた。鼠の子供が雑多な金属の鎧をまとい、その顔は手製の兜に隠れている。金属くずからそれを組み立てたに違いない。この子は……？ 「あそこにいるの、母さんなんだ」

「ナシ？」魁渡は尋ねた。

　案の定、鼠の少年は頷いた。

　魁渡は樹から滑り降りた。「こんな所にいない方がいい。事態は悪くなるばっかりだ」

「けど、あの人を傷つけに行くんでしょ？」ナシはそう尋ね、両手をじれったく動かした。「別人みたいに見えるけど、それでもあの人なんだ。きっと、自分が誰なのかを忘れちゃってるんだよ――思うに、僕が話しかければ……」

　魁渡は自らの髪に手を通した。「そう単純だとは思わないけどな」

「試させてよ」ナシはそう言い、背一杯背筋を伸ばした――背はそう高くない。「大変なことになってるって聞いて、僕はここまではるばる来たんだ。英雄はそうするものだって母さんが言ってた。母さんに僕の姿が見える所まで連れてって。そうすれば、きっと聞いてもらえると思うんだ。どんな姿になっても、ずっと僕を愛してくれる。約束してくれたんだよ」

　魁渡の胸が痛んだ。ナシを連れて行きたくはない。けれどもし、あの場所にいるのが英子だったなら？ その可能性について考えたくはなかったが、それでも姉を取り戻すためなら何でもするだろう。彼女を取り戻すという選択肢が存在しないように思えたとしても。タミヨウがああなったのは自分のせいなのだ。少なくとも、試すことはできる。

「わかった」魁渡は頷いた。「木登りは上手か？」

「大丈夫」ナシが返答した。「幹に……こんなのが一杯ついてたらちょっと難しいけど。触ったらいけなそうだよね」

「触らない方がいい」魁渡はそう言い、ベルトから反発装置を取り出した。ナシはそう重くはないだろう。魁渡はそれをナシの帯に引っかけ、スイッチを入れた。小さな機械音が響いてナシは浮かび上がった。「行きたいと思う方向へ歩くんだ。ちょっと遅いけど、進むことはできるはずだ。ボタンをもう一度押せば盾で守ってくれる。一度押したならもう押すなよ。落ちるからな」

　ナシは頷いた。

　魁渡はこらえるように息を吸い、怖れを振り払った。最悪の場合は、ナシに逃げるように告げる。けれど彼の言う通りかもしれない。このすべてを打開する方法があるのかもしれない。これまでも奇妙な物事は起こってきた。やってみなければ。

　母聖樹は登りやすいようにはできていない。上から降り注ぐ油と背後の混乱に挟まれ、まともに進める道は多くはなかった。普段であれば、神が棲む地面へと低く伸ばされた枝がある――だがそれも一本残らず砕けていた。登るのに適した最初の枝は遥か高所にあり、あまり安定もしていなかった。ようやくその上に立つと、大気は冷たく薄かった。訓練を受けていなかったら、魁渡は眩暈に襲われていただろう。

　ナシはそこまで幸運ではなかった。その両掌が幹に触れた時、彼は左右にふらついて腹部を押さえた。魁渡はナシの肩に手を置いた。彼は自分たちの先、今もタミヨウが浮遊する場所を指さした。「必要なら少し休もう。けどあの人はあそこにいる。それに俺たちに気付いていない」

　ナシはふたつ深呼吸をした。魁渡もそれに合わせた――こんな事態に陥った場合、同行者がいるというのは時にありがたいものだ。

「大丈夫、行けるよ」ナシが言った。

　そうであることを魁渡は願った。万一の時に備え、彼は剣を抜いた。「俺が後ろを守ろう」

　ぐらつきながらも、ナシは一歩また一歩と枝の末端へ向かっていった。魁渡は少し離れてそれを追った。心臓の鼓動が耳に聞こえるようだった。タミヨウの中の何かがきっと残っている。彼女の内の何かがナシを覚えている。そうだろう？

「母さん？」

　タミヨウの首がぐるりと回転した。ふたりを見つめた瞳は、魁渡が知る優しくも探求心に満ちた瞳ではなかった。完全に異なる何か――黒色に縁取られ、頬を伝う涙は彼女が成り果ててしまったものの証だった。

　タミヨウは無言だった。その周囲に巻物がうねり、光が彼女の鋭い鉤爪の先端をとらえた。

「僕だよ、ナシだよ。覚えてるよね？」彼はそう呼びかけた。「こ、こんなこと、やりたくてやってるんじゃないよね。僕、母さんのやってることはおかしいって思う。けどわかるよ、誰かにそうさせられたんでしょ。ただ、お、思い出して。ほら、いなくなった王子様の物語みたいに」ナシはひどく震え、もはや喋ることすら困難だった。

「ナシ。ここで何をしているの……？」

　魁渡は手を伸ばし、小さな鼠の少年を落ち着かせようとした。

　そしてその瞬間、タミヨウの身体のあちこちが首と同じように回転し、その表情がひどく不快な様子にねじれた。タミヨウの周囲に浮かぶ巻物の軌道から、金属の破片がふたりに向かって飛び出した。年月をかけて研ぎ澄まされた直感が魁渡を救った――教師が放ったすべての石を跳ねのけたように、彼は念動力で破片を跳ねのけた。金属音が耳に鳴り響いた。

「ナシ。あなたに望むのは、私たちに加わって欲しいということだけです」タミヨウが言った。魁渡の耳に、その声は狂ったもののように聞こえた――まるで蝉の鳴き声がよじれたような。「怖いのは、理解していないからです。何も怖くはありませんよ。新ファイレクシアの光の中では、すべてはひとつなのですから」

　魁渡はナシの前に進み出た。「樹の方へ戻れ」

「母さんを放っては――」

「あれは君の母さんじゃない」魁渡は鋭く言い放った。「行け！」魁渡はナシを後方へ一押しした。暴力沙汰になったなら、ナシには絶対に見せられない。

　魁渡がナシを押しやるや否や、タミヨウが降下してきた。タミヨウは他者を助けるために力を尽くす人物だった。語り手であり、研究者であり、家族に尽くす女性だった。だが今は？

　ファイレクシアが彼女を変えてしまった。好奇心旺盛な語り手を、冷酷な祭司へと。油の涙を流す目の奥には何も残っていなかった。

　タミヨウの鉤爪が宙を切り裂いた。武器と化した巻物がそれに続き、魁渡の首や腕を拘束しようと掴みかかった。彼は金属を押し留めながら、巻物の紙を切り裂いた――だが油に濡れた枝の上の足取りは危うかった。彼は滑った。そして体勢を立て直すよりも早く、タミヨウの鉤爪が魁渡の鎧をかすめて火花を散らした。足をわずかに滑らせただけで、その鉤爪は彼の首をとらえるだろう――魁渡はかろうじて持ち直したが、鎧に走る傷がその事実を示していた。

　魁渡は目の前に剣を構えた。

　タミヨウは瞬きをせずに見つめ返した。「意味のない戦いです」

「あんたにとってはそうかもしれない」魁渡はそう返答した。「あんたに勝ち目はないからな」

　手振りすら見せず、タミヨウは五本の破片を魁渡へと放った。彼は四本を防いだ。五本目が頬を裂いた。

「可哀相な人」タミヨウが言った。「自分自身の孤独を保つために、平和と戦う。貴方は自らの啓発の邪魔をしているのですよ。子供のように、貴方を受け入れたいとただ願う親に反抗している」

　彼女のその物言いに、魁渡は引き裂かれるようだった。ナシが聞いていないことを願った。そしてナシが同じく見ていないことを願いながら、彼は全体重をかけて突進した。タミヨウは後退し、反撃した――巻物が一本、彼の脚に巻き付いた。彼は体重を移動させてそれを切ろうとした。

　タミヨウは引いた。

　何が起こったのかを把握するよりも早く、魁渡は逆さまになって都和市の上空にぶら下がっていた。街が燃える煙が彼の目を刺した。いかにしてか、自身の剣は手放していなかった。

「魁渡さん。最後に一度だけ、降伏の機会を与えましょう。ファイレクシアは貴方がずっと求めていた生き方を与えられるのです。帰りましょう。そして私の家族として歓迎させて下さい」

　頭に血が上ってきた。考えろ。巻物を切ったなら落ちる。何かに掴まることができるかもしれないし、できないかもしれない。けれど、それよりもましな選択肢は多くない。

「俺はこの人生が気に入っているんでね」

　魁渡は巻物を切った。

　彼は落下した。だが衝撃は来なかった。そうではなく、何か冷たく柔らかなものが下にあるのを感じた。何か……よく知っているものが。「三回までですよ。貴方は頼ってばかりですね」

　その声。目を開かずとも、その笑みはわかった――陛下。彼女は剣を手にしたまま、かすかな衣ずれの音とともに枝に着地した。つまり自分は香醍の上に乗っているに違いない――神河の守護精霊であり、その魂は皇と結びついている。

「これでおあいこね」ケイヤの声が聞こえ、ここにいるのは自分だけではないと魁渡は気付いた。彼女は魁渡のすぐ隣で、共に香醍に乗っていた。

「とりあえず」魁渡は言った。「陛下は来てくれるって俺、言いましたよね」

　香醍はタミヨウへと舞い戻り、その枝の高さまで上昇した。彼はタミヨウと対峙する皇へと視線を移した。慎重で優雅な足どり――魁渡を困らせた滑りやすい油も、皇にとっては何でもなかった。そして目の前の怪物に語りかける彼女からは、先程の挨拶のようなおどけた様子は消えていた。

「タミヨウさん。本当に、戦わなければならないのですか？」皇が問いかけた。

「御自身にそれを尋ねるべきではありませんか」タミヨウはそう返答した。

　破片の群れが突風のように放たれ、だがどれも皇の一振りによって二つに切断された。皇が進み出るたびに、タミヨウは後ずさった――そして怯えたナシのすぐ隣で立ち止まった。

　タミヨウはナシの頭に手を置いた。

　魁渡は胃がねじれるように感じた。目を背けることができればと思った。だがそうはせず、彼は力を振り絞って声をあげた。「ナシ、逃げろ！」

　タミヨウは腰に下げた巻物に手を伸ばした。鉄の輪で閉じられた巻物。彼女は一本の指でそれを外し、絹のような紙が広げられた。

「香醍様！」皇が叫んだ。

　彼らを乗せた偉大なる神が皇の傍へと飛んだ。皇はその剣を香醍へと掲げ、香醍はそこに息を吐いた。輝く白色が刃を走り、皇を取り囲むように文字が躍った。香醍の力が皇へと流れ込んでいた。

　タミヨウの口が動きはじめた。

　ナシはようやく何が起ころうとしているかを理解し、逃げ出した。

　白光のひらめき、剣が鞘から抜かれる音、かすかな風の音。

アート：Tran Nguyen

　タミヨウは斃れた。

　魁渡はすぐさま立ち上がった。ナシが今、独りでそこにいる。一緒にいてやる仲間が必要だ。魁渡が近づく頃には、皇も彼らに合流した。魁渡はナシを強く抱きしめた。

「母さんじゃなかった」ナシはそう繰り返した。「あんなの……どうして母さんはあんな……どうして……？」

　その疑問に対する寛大な答えは何もない――魁渡は何も思いつかなかった。喉に石が詰まったかのように、彼は何も言えなかった。

　悲嘆に、皇はうつむいた。「お母さんは貴方の記憶の中に生き続けるでしょう。そして、貴方が語るお母さんの物語の中に」

　それは賢明な言葉、だが深い心痛の中にいる者にとっては必ずしも慰めにはならない。ナシのすすり泣く声は大きくなるだけだった。魁渡はそれを責めることはできなかった。

　奇妙に軽く冷たい手が彼の肩に置かれた。ケイヤは涙の再会に加わるような人物にはとても思えなかった。だが新ファイレクシアを見た後では、彼女も態度を変えたのかもしれない。どのような慰めでも今はありがたかった。香醍ですら、彼ら全員を包み込んだ。しばし、まるで自分たちはこの次元が壊れてしまわないよう、抑え込んでいるかのように感じた。恐らく、ひとりの小さな少年にとっては、そうだった。

　その平穏は、ナシの母が彼を呼ぶ声が聞こえたところで途切れた。

　タミヨウの声は皇が倒した金属の塊からではなく、彼らの只中から上がった。ファイレクシア人の冷たい囁きではなく、かつての彼女の温かく優しい声色で。

「ナシ、ごめんなさい」

　魁渡はナシをかばうように立った。彼らの目の前に奇妙なものがあった――文字が密集して浮遊し、ひとりの女性の輪郭を成していた。呼吸をしているかのように、その輝きがゆっくりと脈打った。そしてタミヨウの声が再び聞こえた時、その姿の中心が更に眩しく輝いた。魁渡が見つめる中、文字が現れては消え、あるいは変化した。都和市の投影式ネオンはあらゆる類の芸当を披露するが、これはどこか違う。それが動く様はでたらめというよりはあまりに意図的に思え、人工物としてはあまりに不完全だった。内なる輝きは、都和市の技術的驚異というよりは神を思わせた。

「警戒するのはわかります、ですが傷つけるつもりはありません」タミヨウの声が言った。

「何者だ？」魁渡が尋ねた。

「幽霊じゃないわ。それは間違いない」ケイヤが呼びかけた――彼女は枝の端に立っていた。「何があなたの望み？」

　その姿はひとりひとりに向き直り、そして頷いた。「私はタミヨウの残滓――彼女の、終わりのない物語です。彼女の記憶と考えて差し支えありません。何年も前に、彼女は自らの死を見越して私を作り出し、とある巻物に封じ、そして必要とされる時まで鉄の輪で閉じたのです」タミヨウの記憶は――彼女の物語は――言葉を切った。「私は、その日が決して来なければ良いと願っておりました」

「それを信用できると――」魁渡が言いかけた。

　だがナシは既に彼の抱擁を振りほどき、文字の奇妙な塊へと近づいていた。彼がそれに触れると、文字はうねって彼の両腕に落ち着いた。

　魁渡は少年へと向かおうとしたが、皇が手振りでそれを制止した。皇は背を向けた――死体に、神河に、この夜の惨害に。「彼女の言葉は真実です」

「どうしてわかるんですか？」魁渡は尋ねた。「これもファイレクシアの策略じゃないって、どうしてわかるんですか？」

「よく見ていなかったのですか？ 私が攻撃する直前、タミヨウさんが何かを呟いていましたのを」

「俺も見ました。けど何だってできたでしょう。呪いをかけようとしていたんだと思いました」

「そうではありませんよ。彼女が私に放った破片はどれも幅広く、傷を与えられるようなものではありませんでした。気付いていなかったのですか？」彼女は香醍がまとう仮面のひとつに手を置き、神もまた彼女に触れた。このような戦場においては、とても得難い穏やかな瞬間。「タミヨウさんは懇願していたのです。彼女にできる唯一の方法で」

　魁渡は肩越しに振り返った。ナシは今も文字に――終わりのない物語に囲まれていた。綺麗な勝利ではなく、とても良い勝利ですらない。母聖樹の傷ついた梢の下、燃え上がる街を魁渡は見下ろした。とても多くの者が死に、とても多くの者が死にかけている。更に多くが死ぬのだろう。

　遠くに、奇妙な煙の中に何かが動いていた――巨大なメカが幾つも世界樹の棘へと向かっていた。皇国軍が集まり、ファイレクシアに反撃しようとしている。

　彼らにどれほどのことができるのだろう？ どれだけの人々を救えるのだろう？

　タミヨウは斃れた――だがナシは生きている。

　残された仕事を思うに、彼はそれを受け継ぐのだろう。

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　これはひとつの物語。

　むかしむかし。ものすごい悪がありました。その悪は、多元宇宙の次元をぜんぶ飲み込もうとしました。何も感じない、何も気にしないその悪は、出会った相手の心もその悪と同じものにしました。

　それに立ち向かう者がいました。

　白をまとう守り手です。

(Tr. Mayuko Wakatsuki)