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MAGIC STORY
リアリティ・フラクチャー

第10話 誕生日おめでとう
2026年9月11日
ヴラスカは愛する者の亡骸を抱きしめたまま、むせび泣いていた。瞳から生気が失われていき、首筋の脈が止まる。だがその死が速やかで苦しみも僅かだったのは、彼女がいたからこそだった。
ジェイスの身体を抱き寄せる。意識の片隅で、他の者たちが傍らにやって来たことに気づいた。チャンドラとアジャニが腕を回してくれた。ガラクは離れた場所に留まっていた。だがそれはどうでもいい。自分の世界はこの腕の中にあり、まだ命の温もりが残っているのだから。ヴラスカは嘆きをこらえなかった。悲しみが、終わりのない波のようにこみ上げてくる。
その時、ありえないことに、隣にリリアナの気配を感じた。
屍術師は隣に膝をつき、亡骸に両手を触れた。そこに魔法はなかった。悪意もなかった。頬には涙が伝わっていた。ヴラスカは、その唇が震えているのを見つめた。
「そのくらいは、なんてものじゃない……」リリアナの声は、会話と呼ぶにはあまりにも小さかった。ヴラスカにはその意味がわからず、だがやがて思い出した。何年も前、あのイクサランの岸辺でジェイスと共有した記憶。『俺が死んだら悲しい?』彼の問いに、この女性がいかに冷淡な言葉を返したかを。
リリアナはジェイスの胸元にうなだれた。ヴラスカが事情を知っているとは気づいていないのだ。悲しみに震えるリリアナの姿を見つめ、ヴラスカは相手の肩に手を触れた。リリアナも自身の手を重ね、ふたりはしばし共に涙を流した。
「世界の重なりを解消する方法を見つけなければ」穏やかながらも切迫した口調で、アジャニが切り出した。「ジェイス君は言っていました、タムさんを見つけて欲しいと」
「え?」リリアナの声には抑えがたい怒りが響いていた。
ヴラスカは涙で霞む視界を晴らそうとした。リリアナの視線はジェイスの胸元に向けられていた。ヴラスカがそれを追うと――見えた。ぼやけた何か、そして奇妙な青い輝き。
「そんな!」リリアナは叫び、その怒りの対象が更に輝きを増した。
鮮烈な空色。灼熱の星。目が眩むほどの光の塊がジェイスの胸から立ち昇った。頬を伝う涙を拭いもせず、リリアナが身を乗り出す。それが何を意味するのかを彼女はわかっているようだが、ヴラスカは違った。これまで数え切れないほどの命を奪ってきたが、死の際にこのような現象を見せた者は誰もいなかった。
「ジェイスの灯なのか?」ヴラスカは推測を口に出した。それに触れようと手を伸ばし、指がかすめる。熱を予想していたが、感じたものは違った――深い好奇心の波、雨の匂い、そして深い湖の冷たさ。同時に、リリアナの脳内から発せられる警鐘の音が、ヴラスカ自身の精神の奥底にかすかに響いた。
彼女は弾かれるように手を引っ込めたが、灯はジェイスの胸からそのまま上昇を続けた。
「あれ、止めればいいの?」チャンドラが叫んだ。
「触ってはいけません!」アジャニが吠えた。「あれはジェイス君のものです!」
リリアナは狼狽し、一方でヴラスカは冷静さを保ちながら、ふたりはその光を目で追いかけた。「何をしたの、ベレレン?」開いた窓から灯が飛び去ると、リリアナは声をあげた。「あなた、何をしたの?」
ヘクスヘイヴンの実習生たちとストリクスヘイヴンの生徒たち。群衆は膨れ上がり、タムはその波に飲み込まれ流されていた。肩と肩がぶつかり合う中、固く目を閉じて身を任せる。これまでに学んだあらゆる定理を脳内で巡らせ、重なった世界を元に戻すための解決策を探す。だが同時に、自分は小さく愚かな存在だと感じていた。自分には足りない。足りないのだ。
時間の流れが緩慢になったようだった。悲鳴があがり、だがタムが顔を向けた所で辺りは静まり返った。群衆が空高くへと視線を向け、動きを止めていた。タムも見上げると、目にしたのは降り注いでくる瓦礫ではなかった。
ひとつの星のような。
青く燃え盛りながら、それは塔の高みから空を切り裂いた。そして流星のように落下してきたが、その軌道が自分へと向かっていることに気づいた時にはもう手遅れだった。
生徒と実習生の群れが一斉に散り、だがタムはその場から動けなかった。
そうだ、やらなければ。我に返り、目前の課題へと意識を戻す。タムは咄嗟にその星の軌道を変えようと試みた。逆説の魔法を放ってそれを逸らそうとするが、星は眩しく燃えながら突き進み、刻一刻と大きくなっていった。回避することも、無視することもできない。タムは動転して逃げ出した。瓦礫を飛び越え、行く手の実習生や生徒をかわし、だが星は執拗なまでに追いかけてきた。
そしてそれはタムを直撃した。
強烈なエネルギーの殴打だった。まるで滝の真下に立っているかのような。タムは悲鳴をあげ、その場に膝をついた。とてつもない圧力と威力の魔法に飲み込まれ、それが身体に満ちていく。心臓が破裂しそうな感覚。まるで自分の身体はひとつの器で、広大な湖の水を一気に注ぎ込まれたかのようだった。
だがやがて、猛烈な勢いは和らいでいった。激流から小川へ、そして雫へ。
耳の詰まりが抜けた。足の指十本をすべて動かしてみる。タムは半ば驚き、半ば笑いながら息を吐いた。
訳がわからなかった。今のは何? 攻撃だったの?
その瞬間、ひとつの感情の波が押し寄せてきた。タムは息を鋭く吸い込み、そしてそれは嗚咽に変わる。彼女は怪訝な顔をし、身構えた。何かしなければ、自分は死にかけている? 怪我をしている?
待って。私には、しようとしていたことがあった。
そうだ! 思い出した。力を借りなければいけない。
姿勢を正して身構え、意識を外へと広げていく。誰に呼びかけるべきかはわかっていた。
そしてタムは驚いた。自分のテレパシーが普段の高度を超え、大気圏を超え、世界と世界の狭間に入っていく。そしてその先へ、届く限りの彼方へ――やがてイニストラードの、鋼のように冷たい雨の感触を捉え、求める助力の主を彼女は見つけ出した。
空の端に、果てのない大口に触れる。タムの精神に小突かれ、月の中に棲む獣が身じろぎをした。
『あなたね』エムラクールが応えた。
『力を貸して』
何かの感覚――神のごとき愉悦、氷山の軋み音、好奇心に駆られた巨人が鳥の翼をむしり取る。タムはエムラクールの果てのなさを察した。それは、ひとつの小さな月に押し込まれた銀河といえた。エムラクールが身をよじるのを感じた。そこには喜びと、到底理解の及ばない深遠があった。
当初タムは自信に満ちていたが、今は恐怖があった。それでもこの繋がりを強く握りしめ、決意を新たにする。『食べられてしかるべき多元宇宙がここにあるの。現実と化した幻影よ。自然のものではないけれど、確かな実体を持っているわ。さあ、私の招待に応じてくれる?』
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| アート:Bryan Sola |
その天使は、怪物は、温もりのような感覚を返してきた。『ええ』そして微笑みも。『ずっと待ちわびていたの、本当の自分に戻れる時を』
また別の感覚――忍耐、そして休眠していた触手が嬉しそうに伸びていく。
『あなたの知識は熟してる。私が貪って、癒してあげる。鏡は崩れ、庭園は再び花開く』
ひとつの光景――チェス盤を挟み、タムは天使と向かい合っている。クイーンが動き、こちらのキングが倒れる。チェックメイト。チェス盤は内へと自壊し、ほどけ、編み目が解かれた髪の房が卓からこぼれ落ちた。
チェスをした記憶はない。けれどそれは問題ではない。タムは感覚を送り返した――感謝の念、開かれた扉、そして自由の喜び。
『どうぞ召し上がれ』
タムは下がっていった。精神的感覚の周囲で、電子が喜びの笑い声をあげる。身体のある場所へと戻っていく。ヘクスヘイヴン、それともストリクスヘイヴンだろうか? ともかく、頼むべき相手を知っていたことにタムは満足していた。
精神エネルギーの波が、彼女の内で激しくうねった。あの星。あの光。それは心臓の内で、冷たい奔流となって燃えていた。
だが今、タムが抱くのは感情ではなかった……夢。目標。野心。欲する心、けれど物質的なものではなく。馬の乗り方を覚えたい。マンゴーを食べてみたい。友達に会って、一緒に旅をして、素敵な場所に行ってみたい。見知らぬ誰かの力になりたい、それを感謝されなくてもいい。複雑な問題を解決したい。失恋を経験してみたい。ヴラスカさんに会いたい。海で泳いでみたい。それらの思考に彼女は戸惑い、同時に惹きつけられた。自分がこれほど沢山、欲することができるなんて。今まで、そんなものは何ひとつなかった。
一方で、周囲の混沌が激化していることも理解していた。模倣宇宙が元の多元宇宙に、波のように叩きつけているのだ。タムが肉体に戻ったそこはヘクスヘイヴンだった。空を見上げると頭上は暗く、一瞬、タムは虚無主義者のような心境に陥った――ふたつの世界の衝突、自身が手を貸した惨害、そして確信というものの虚しさ。けれど心配はいらない。私は必ず道を見つけ出す。私は外交官で、友を作る者で、ギルドパクトなのだから。
改めて顔を上げると、空は灰色から黒混じりのすみれ色へと変化していた。
雲が分かれ、大気に火花が散る。舌にオゾンの味を感じる。群衆の大部分、空ろな目をしたヘクスヘイヴンの実習生たちに、空を見上げるという意識はない。だがそれができたわずかなストリクスヘイヴンの生徒たちは、そこに終末の光景を目撃した。
エムラクールが空を飲み込む光景を。
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| アート:Cristi Balanescu |



無数の触手が悶え、タムには見えない何かを掴み取る。うごめく肉の塊が裂け、銀色の瞳がひとつ現れる。その存在は地平線にさえ収まりきらない。その存在がどこから始まってどこで終わっているのか、タムの精神は理解しきれていない。エルドラージの途方もなさが、こちらに挑戦を促しているのだ。できるものなら解き明かしてみなさいと。
人混みを縫うように、タムは大冊子棟へと向かった。既に絡み合ってしまったふたつの多元宇宙をエムラクールは解きほぐすことができるのか、それはわからない。全身に振動が伝わってきた。周囲の人々も皆、同じように震えていた。全員の鼻腔が一斉に通り、世界は髪の焦げる臭いと、落雷の直前の空気に満ちた。
そして、調理台が片付き、エムラクールは食事の準備を始めた。
空高くにうごめくその塊が分かれ、除けられた髪のように触手が左右に退いていく。その中心に現れたのは、命ある者がかつて目にしたことのないもの――エムラクールの口だった。
ヘクスヘイヴンが振動する。時空を超えてその震えが伝わる中、タムは祈った――“理論家”とその仲間たちが生きて脱出できていますように。鏡像次元が揺れ、弾け、消滅を開始する。満ち足りる歓喜にエムラクールが身をよじり、食らう音がタムの胸にまで響く。塔が透けていき、その周囲を旋回するスフィンクスたちもまた、薄れていく。
ふと興味を抱き、タムは心の新たな領域を広げて他の次元を伺った。ラヴニカの対存在が空から消え、アモンケット上空の雪は退いて太陽が顔を出した。あらゆる次元のあらゆる鏡像が幽霊のように透明になり、歓喜に満ちた空腹に飲み込まれていく。そしてエムラクールに模倣宇宙の写し身は存在しない。タムと同じように、唯一無二の存在なのだ。エムラクールが多元宇宙を選り分ける感覚が届いたが、それはまるで生米に混ざった小石を取り除く作業のようだった。
タムは大冊子棟にやって来た。右手の卓に置かれた本が不穏な様子で開き、ペンが彼女の名を走り書きする。ここは身を隠すのに適した場所ではなく、タムはたやすく階段にキーロルを見つけた。一緒にサナール、アビゲール、ルーウェンの姿もある。彼らは別の世界が食われていく様を見つめていたが、タムが近づくと即座に身構えた。
気まずさがあった。だがタムは決心した――私は勇敢なのだ。
「ごめんなさい。後で説明するけれど、もう危険はないわ」
深淵から来るような振動が骨の髄まで響き、頭上の空では巨大な異形の怪物が悶えている。なのに、誰もそれに目を向けはしない。
キーロルが空を指さした。「あれは、君が何かしたの?」
タムは頷いた。「大丈夫。あのひと、皆を傷つけたりはしないから。言っておくけれど女性よ」
「女性!?」サナールは驚きに眉を上げ、口をぽかんと開けた。
「聞いて」タムは彼らへと踏み出した。ルーウェンとアビゲールとサナールはびくりとして後ずさり、だがキーロルは動かなかった。タムは胸に手を当て、自分の鼓動を確かめた。
「私、謝らなくちゃいけないの。ごめんなさい。ジャズィ様に起きたことは私の責任。私が皆にしたことは、決して許されることじゃない。私は、私を創った人から命令されて行動していたのだけど、その人が望んでいることを私は望んでいないって、向こうに戻るまで気がつかなかったの。だから今は、その過ちを正そうとしているところ」
「君は誰だ?」キーロルは眉間に皺を寄せ、厳しい眼差しを向けてきた。「タム、冗談は抜きで。君は誰だ?」
タムは微笑んだ。「私も早くわかりたいわ」
世界が揺れる。輝く霊気の線が、鉛筆で描いたかのように地面を走る。
羽根が腕に触れ、力強い翼がタムを包み込んだ。
アビゲール? タムは手話で尋ねようと片手を挙げ、だがそれもまた抱擁に止められた。こちらはサナールだった。
「私は加わらないぞ」ルーウェンが言った。
「それでいいわ。私を許してくれる必要はないから」タムは抱擁から身を解いた。「友達でいる必要もないわ」
「うん、ないね」そう答えたのはキーロルだった。
吸血鬼は立ったまま、離れた場所からタムの様子を伺っていた。そして感じた――周囲の喧噪のすぐ下で、キーロルの思考が自分のそれの周りに渦巻いているのを。
にやりとキーロルは笑った。「でも、自己紹介は必要だよね」そして手を差し出す。「ボクはキーロル。そっちは?」
タムはその手をしっかりと握りしめた。自分自身をどう定義しよう。速やかに答えを出し、選んだ名前が川の流れのように自然と口からこぼれ出た。「私はタム。ただのタム」
ふたりは知り合いとして、友達として、握手を交わした。
「わかった。ただのタムだね。帰る道はわかる?」
「大冊子棟の奥にある魔道士輪よ」彼女は答え、空の半分を食らいつつある精神と意識を触れ合わせる。「今、エムラクールが多元宇宙同士を切り離しているところ。ストリクスヘイヴンで落ち合いましょう。他にも生徒が迷い込んでいて、無事に帰さないといけないから」
タムは一歩下がり、手を振った。
友人たちは故郷へ続くポータルへと駆け出した。タムは安堵の笑みを浮かべて手を振る――ひとまずは。
周囲で、塔が消えはじめた。魔道士輪が明滅し、希薄な幻影へと変わる。それらは床に墜落しても衝撃を生みはしなかった。
リリアナは泣きはらした目で、ジェイスの亡骸から顔を上げた。被覆の進行は止めた、けれど既に重なったものの融合までを止めることはできない。その方法は誰にもわからないのだ。破滅の運命を回避できてはいないのだ。
聖域の中央でポータルが輝き、ドッペルゲンガーたちが踏み出した。他の者たちは即座に立ち上がったが、リリアナはその場を動かなかった。
穏やかな表情を変えないまま、氷のチャンドラが駆けてきた。彼女は手を広げ、するとリリアナたちの足元が氷と化した。リリアナは立ち上がろうとするが、そこで何かに阻まれた――ドレスが地面に凍り付いていた。ジェイスの亡骸も同様だった。それでもリリアナは立ち上がろうとし、だが動きを止めた。アジャニの斧が、ガラクの分身の斧を衝撃とともに受けた。
ドルイドの足元の影から獣たちが現れ、アジャニの腕に飛びついた。鎖のヴェールを見てリリアナは身構えたが、偽者のガラクはこちらに気づいていないようだった。リリアナは歯を食いしばり、床に貼り付いたドレスを引き裂きにかかった。
ヴラスカが振り向き、アジャニの映し身と目を合わせた。直ちにレオニンの動きが止まる。毛皮が次第に石へと変わり、表情を歪めたままそのドッペルゲンガーは絶命した。
リリアナは人数を数えた。何かがおかしい。
床に貼り着いたドレスを裂きながら剥がしていく。同時に、オパール教授の姿をしたリッチへと心で命じ、背中合わせになるよう立たせた。ようやくドレスを解放したその時、リリアナは背後から響く吠え声を耳にした。
指先が紫色の光を放つ。そしてリッチが両手で受け止めたのは、本物のガラクが振り下ろした斧だった。その姿は、かろうじて抑え込まれた野獣そのものだった。リリアナは押し返した。このリッチの力は、自分に負けず劣らず大きい。彼女はガラクの憤怒に負けじと叫んだ。「やめなさい! そんな場合じゃないでしょう!」
その言葉を口にした瞬間、耳の詰まりが取れるような感覚があった。髪の焦げる匂いと、稲妻が落ちる直前の空気が辺りに漂う。頭上で、塔の遥か上空で、何かが小さく震えている。ひとつの気配。この世界に。同じ気配を以前にも感じたことがあった。
エムラクール。それ以外にありえない。けれど、現実のすべてを食らっているわけではない……ジェイスの多元宇宙だけを。どうやってイニストラードの月を脱出したのだろう? ここへ来るべきだとどうして知ったのだろう? そうだ――あの時ジェイスの胸から灯が離れ、窓の外へと飛び去っていった。新たな肉体を求めて……肉体、特定の。この男って奴は!
「生きたいなら、ここを離れないといけないのよ!」
「お前の呪いのせいで、俺は破滅した。この手でお前に死をくれてやる」
そこでチャンドラが叫んだ。「こいつら、消えてく!」
その通りに、アジャニの斧がチャンドラの分身を通り抜けた。鎖のヴェールをまとうガラクもまた、一介の幽霊と化した。そしてそれらの背後に魔道士輪がひとつ現れた。それは死したプレインズウォーカーの友人たちにとっては最後の命綱であり、崩れゆく世界から故郷へと戻るための道でもあった。
リリアナは両腕を広げ、消えつつあるリッチを下がらせた。「復讐ならもう果たしたでしょう! 私は何年も前に死んだも同然なのよ。気が済むなら殺して頂戴。世界の終わりをそんな形で迎えたいのならね」天井が崩れ落ちてきた。両足が床の表面をすり抜けるように沈むのを感じた。
「撤退します!」アジャニが呼びかけた。
「ヴリンで合流よ!」チャンドラが付け加えた。
閃光が走り、プレインズウォーカーふたりは去った。リリアナはその場に留まった。ガラクの肩が強張り、抑えきれない怒りに震えているのがわかる。両腕を広げたまま、リリアナは恐れることなく告げた。「そちらの勝ちよ」この次元が、模倣宇宙が消滅するまで、もうほんの僅かな時間しか残されていないのだ。
ガラクは背筋を伸ばした。そして斧を下ろし、リリアナの目を見据える。「魔女よ、お前を許すつもりはない。だが正直に答えれば見逃してやらなくもない。あの双子を知っているか?」
突然の問いに、リリアナは怪訝な表情を浮かべた。「双子? ケンリスの? 私にとっても大切な子たちよ。特に女の子の方は心配ね。あの子たちに危害を加えようというのなら、私たちは敵同士よ」
ガラクは何も答えず、ただプレインズウォークで去っていった。
リリアナは怯えた息を吐き出した。そして魔道士輪へと向かう前に振り返る。最後にもう一度、ジェイスの亡骸へと。
彼は自らが作り出した、壊れゆく世界の中に横たわっていた。聖域の残骸が崩落する中、寄り添うようにヴラスカが膝をついていた。ふたりの額は触れ合わんばかりだった。
どうする? あのふたりを置いていくか。放って立ち去るだけでいい。
……大馬鹿者。
リリアナは駆け寄った。肩を掴まれ、ヴラスカが空ろな表情で顔を上げる。黄金色に輝いているものの、何も映さない瞳がリリアナと交差した。
「今日死ぬことはないわ」リリアナの声には炎が宿っていた。ヴラスカを引き上げて立たせ、大声で命じる。「こいつをしっかり掴んでなさい!」
リリアナとヴラスカは力を合わせ、偽りの多元宇宙からベレレンの亡骸を運び出していった。
タムを取り巻く世界が消え去ろうとしていた。それは亡霊の軍勢と、それらを貪り食おうとする獣との戦いだった。
見上げると、ヘクスヘイヴンの創始スフィンクスたちが集結しつつあった。エムラクールと戦おうというのだ。イングリス・スティンガークイルが甲高い声をあげ、その棘がエムラクールの口の端に突き刺さる。エルドラージはそれに応えるように咆哮した。
スフィンクスたちは翼を大きく広げ、空を占拠する巨怪へと可能な限り接近していった。エムラクールは死の神のごとく、不吉に頭上を漂っている。世界がエムラクールに向かって歪み、アーチや建築物はその中央にある巨大な口をめがけて浮かび上がる。建物の群れも噴水も大地から引きちぎられていく。まるでエムラクールこそ、重力の新たな中心であるかのように。
地上ではヴィゴーブルームの実習生たちが蔓を召喚して空へと放ち、セオリクスの実習生たちも次元振動の呪文を用いて周囲の分子を震わせていた。だが呼応するようにエムラクールが世界を揺さぶると、彼らは戦いを放棄した。コンストラリの大胆な実習生の中には、建物ほどもある巨大なクロスボウを持ち出してエルドラージの口を狙う者もいたが、彼らの行動も即座に阻まれた。
「印をつけている!」ウルダロス・セオリクスが叫んだ。タムの位置からでも、スフィンクスの魔力がきらめくのが見て取れた。「次元を選別しているのだ!」そう叫んだ瞬間、セオリクス自身の肉体が空を汚すかのように引き伸ばされ、エムラクールの口へと吸い寄せられていった。
ヘクスヘイヴンの実習生たちは恐怖の悲鳴を、残るストリクスヘイヴンの生徒たちは歓声をあげた。
恐ろしい光景、だがこれは……現実。いずれエムラクールは模倣宇宙を食らいつくすのだろう。その代償として罪なき神託者の命と、自らの思想に恋をした男の命が失われた。だがそれを知る者はいない。
心の奥底では、タムは“理論家”が死んだことを把握していた。けれどそれでは納得がいかない部分もあった。
周囲で、ヘクスヘイヴンがストリクスヘイヴンとは別個のものと認識されているのがわかった。塔の色が横方向に滲んでいく。タムの隣にいた霊基体の実習生が突如として霧散し、他のあらゆるものもまた、原型を留めないほどに引き延ばされ、空へと吸い上げられていく――ジェイスの顔をした鳥も、傀儡獣に跨るレオニンも、何もかも。
タムは身体を触り、自分が消えかけていないことを確かめた。遥か空の上のあれは、次元を貪る怪物は、約束を守ってくれたのだ。
『ありがとう』タムは意識の声を送った。
周囲の電子が震えた。『どういたしまして』
タムは足を組んで地面に座した。怪物を――永遠に食らい続ける獣を見上げる。自分は生まれて初めて、善いことを成した。初めて、そしてたったひとつなのに、こんなにも満たされている。これまでの自分は役に立つための存在、務めを果たす兵士だった。そして今、生存者として、この最後の時を目にしている。
だが世界が崩れゆく中、聞き覚えのある声が心に響いた。
『タム』
咄嗟に胸元に手を触れる。あの青い星が胸骨に沈み込んだ、その場所へ。あれは“理論家”だったのだろうか? 違う、小さすぎる。ほんの一部だけ。
ジェイスさん。
『これを聞いているということは、タム、俺はもう死んでいるということだ。その時のために手筈を整えておいた。そのための存在が君だ』
目に涙がこみ上げてきた。
『灯は今や貴重なものとなってしまった。君を創ったのは、俺の灯を受け継いでもらうためだ。この灯はかつて俺だった。そして今は、君そのものだ。ひとつだけ頼みたい。俺たちが始めた仕事を続けて欲しい。世界をより良いものにして欲しい。すべては未完成だ……俺たちと同じように。俺たちは何者なのか、それを常に、正しく理解できていられますように』
精神エネルギーの波が、最後に今一度押し寄せた。
タムは側頭部を押さえた。自分のすべてが本来あるべき場所へと落ち着いていく。才知がきらめき輝いて、夜空に浮かぶ星座のように精神の隅々にまで広がっていく。暗い、けれど魅惑してやまない湖が心に満ちていく。あらゆる物事の無意味を、そして意味を深く理解する境地。遥かな高み、あの星空の近くには一本の塔がそびえ立っている。世界を俯瞰し、遠く離れた真実を見出すための場所だ。自分を取り囲んで、決して破られることのない防壁が巡らされている。その内側にいれば魂を守り抜くことができる。その強固な備えは生存者ならではのもの。幾度となく交わした握手と交渉の記憶に手が震える。腰のあたりの空白に、少しだけ怖れを感じる。そこにホルスターやナイフを下げたことはないと知っているためだ。そして心に一番近い場所を、ひとつの確信が支えてくれている。例え自分がどれほど小さくとも、いつでもやり直せるのだ。
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| アート:Justyna Dura |
タムは完全となった。自分は永遠に未完成。一本の粗筋。ただひとりの人。そして、それで十分。
声をあげて笑う。
精神の感覚が肉体という堰を突き破り、周囲の何百という人々をかすめて軽やかに過ぎていく。感じるのは圧倒的な広がり、重み、高揚感、そして驚き。まるで自分の家で、あるはずのない扉を見つけたと思ったら、その向こうに無限の宇宙が広がっているのを目にしたかのよう。タムとは始まり。タムとは続き。タムとは魔道士輪が描く円環、タムとは白紙。
そして自分がどこにいるのかを思い出すと、周囲の喧騒や狂乱が先程よりも大きく、生々しく感じられた。激しい感情の渦中にいた――胸を強打されたような恐怖、友人たちを発見し救い出せたことへの高揚感、そして自分に起こっていることへの困惑。けれど私は探偵。瓦礫の中から証拠を拾い集めるように、狼狽を心の奥底へと押し込める。私はジェイスさんと同じアレルギーを持っているのだろうか? カフェインへの耐性は高いのだろうか? ジェイスさんの友達は気づいてくれるだろうか?
タムははっとした。ジェイスさんは死んだ。私の……創造主? 先生? 過去の自分? その死は悲しいこと、けれど重要ではない。なぜならあの人は死んだわけではなく、ただ姿を変えただけだから。私はあの人。私とあの人はひとつ。
何よりも重要なのは……私は現実だということ。生まれて初めて、自分が何者であるかがはっきりとわかる。
誕生日おめでとう、私。
タムは微笑んだ。そして初めて、あるいは百万回目か、その瞳が青く輝いた。自身の一部へと意識を伸ばす。そう、やり方はずっと前から知っていた。彼女は我が家へと、友の待つストリクスヘイヴンへとプレインズウォークで帰っていった。
今一度、ヴラスカはラーナ・ベレレンと向かい合って座していた。その手には茶の杯、花瓶には供えられたばかりの葬儀の花。小雨が窓を叩き、卓の上にはオイルランプが灯っていた。
葬儀はごく内輪だけの、ささやかなものだった。ジェイスの最期を知るプレインズウォーカーは沢山おり、ヴラスカは多元宇宙の各地に訃報を送る必要はないと感じた。彼はヴリンの息子として弔われ、その亡骸は布に包まれて葬送の湖の底へと沈んでいった。そこには少数の友人たちが集まり、ヴラスカは弔意を寄せられるたびに「悪かった」と応えた。それは後ろめたいものだった。今でさえ、この件における自身の関与が心に重くのしかかっていた。自分にできるのは、ただやり直すことだけだった。
卓の向かい側では、おたからがラヴニカの文字を練習していた。ラーナは治癒の聖遺物を手入れしていた。近頃はいつもそうであるように、静かな朝だ。ヴラスカはラヴニカの旧友から届いた手紙を読んでいた。ああ――ジェイスがここにいてくれたら、あれこれと噂話ができるのに。
ラーナが立ち上がった。「お茶のおかわりは?」
「烏龍茶を」ヴラスカは微笑んだ。
ラーナは頷いて台所に向かい、杯をふたつ並べた。彼女は今もなお、茶より強い飲み物は口にしていない。
ノックの音が聞こえ、ヴラスカは立ち上がった。そして扉を開けると、狭い戸口に立っていたのは、青い外套をまとう姿だった。
心臓が止まりそうなほどの驚きだった。その光景をいつまでも見ていたいと思い、同時にそうすることが怖くもある。不思議なほどに馴染みある顔が見つめ返していた。突き出た頬骨、完璧に編み込まれた髪。もうひとりのゴルゴンが、熱のこもった笑みを浮かべていた。
「こんにちは! タムです。前にお会いしましたよね、あの廊下で、その……別の多元宇宙で」
ヴラスカは言葉を紡げなかった。まるで幽霊の声を聞き、幽霊の姿を見ているかのよう。その立ち姿、頭の角度、瞳……
「お会いしたかったんです」その娘の態度は真剣そのものだった。そしてそこにあるのは、雨の匂いをまとう晴れやかな好奇心。
「あいつが、お前を創ったんだな」意識せず、ヴラスカは口にした。瞬きをして相手を見つめる。恐怖と驚嘆が入り混じった感情が湧き上がり、心臓の鼓動が早まる。「……悪い。私にどんな用事だ?」
「あ。話をしていただけたらいいなと思いまして。ヴラスカさんなら、力になっていただけるような気がしたんです」
ヴラスカは戸口の装飾に目を向けた。弔いの草で作られた輪がかかっている。「今は喪中なんだよ」
「わかっています」タムは穏やかな笑みを浮かべた。「それは私もです。先のことは、できるようになってから向き合えばいいんです」
ラーナが台所から戻ってきた。杯がふたつ、床に落ちて砕ける音をヴラスカは聞いた。
タムは外套のフードを脱いだ。その笑みはあの男と同じもの。蝋燭の明かりに耳飾りがきらりと光る。彼女はヴラスカの双眸を、恐れることなく見つめた。
「世界をもっと良くするために、来ました」
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
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