MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 06

第6話 自分の野心を殺す男に

Alison Lührs
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2026年9月7日

 

 タムは螺旋階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。指にはまだあのねばついた髪の感覚が残っている。不安と動揺がひたすらに駆り立てる。“理論家”の聖域へと伸びる塔は高く、辿り着く頃には息も絶え絶えになっているだろう。それでもタムは休息よりも答えを欲していた。

 窓の外を覗くと、遥か眼下にエラディアの街並みが垣間見える。塔の根本はまるで何かの塊が動いているかのよう、入り組んだ蟻の巣を眺めているかのようだった。魔道士狩りが獲物を求めて徘徊しているのだ。あれらは魔法を使う者が足を踏み入れたなら即座に襲いかかってくる。この場所は危険だということを再認識させられ、タムは訝しんだ――ジェイスという人物が抱える自己嫌悪の一体どの部分が、こんな形で具現化しているのだろう?

 ヴラスカの助言を思い返す。『自分にどんな力があるのかを改めて確かめることだ。それと、自分にとって救い出したい相手がいるのかどうか』……その言葉の何かが、タムの心に反響した。

 私にも力はある。

 私にはやれる。

 あの人に対峙できる。

 けれど果たしてそれは本当だろうか? つい先程、“理論家”はあの四人をあんなにも徹底的に打ち負かしたのだ。

 聖域に入ると、“理論家”は首を鳴らしていた。彼はそこで驚いて動きを止めた。

 「君か。イニストラードはどうだったかな?」

 タムは調査結果やメモを記した手帳を作業台に置いた。「気味の悪い場所でした」

 「言った通りだろう、救う価値などない場所だと」

 タムは顔をしかめた。“理論家”にはわずかな好奇心すらない。この男の好奇心がどこへ去っていってしまったのかはわかっている。

 “理論家”の次の動きをタムは待った。広大かつ空ろな聖域の中で、この男の姿は小さく見える。彼はまるで講師のように、部屋の中央に円を描いて歩き回っている。周囲を取り巻く魔道士輪のうなり声が、今日はひときわ耳障りに響く。“理論家”は、ここまでの話などなかったかのように切り出した。「奇妙なものだよ、タミラ。長いこと私は、自分の力を抑えながら戦ってきた。だがその間にも、枷を外すことを自らに許したならどうなるかと考えていた。そして実際にやってみたら……いとも簡単なことだった。彼らは二度、三度とこの部屋から遁走した。私としては、こちらが容易に阻止できないような手段を見つけて戻ってくるのではと期待していたのだけどね。けれどそれはできなかった」

 自分が不在の間に“理論家”がその友人たちとどう戦ったのかはわかっていた。目の前にいる師は、明かすべきではない物事まで口にしている。タムは意を決した。

 「私の友達の、こちらの多元宇宙での姿に会いたいんです」口に出しながら、確信を込めていく。「皆は何処にいるんでしょうか?」

 “理論家”はきょとんとし、まるで骨折り仕事に疲れたかのように溜息をついた。「その者たちはここにはいない。創造過程は自律的だ。飛ばされるものもあるだろう。あるいは取り除かれるか。そういうものだ」

 「飛ばされるものもある」とタム。

 「ある」ひとりの人間の一部が断言した。

 「では、多元宇宙が融合したら、そういう人たちはどうなるんですか?」

 「何故そんなことを聞く?」“理論家”の瞳に青い光が閃いた。

 タムは無意識に、相手の精神的侵入を払いのけた。

 “理論家”は驚いて後ずさった。

 「招いてもいないのに勝手に入らないで下さい!」タムはきつく言い放った。“理論家”はただ彼女を見つめ返し、冷ややかな態度で肩を回した。友達の身を案じるこちらのことは無視して、心に侵入してくるというのは居心地が悪い。いや、居心地が悪いという表現ではとても足りない。激怒とはこういうものだろうか。私に、内なる炎を燃やせるほどの自己はあるのだろうか。その感情を掘り下げていく。死ぬかもしれない誰かを気にかけることは正しいという、輝く金剛石のごとき確信。

 だが“理論家”は既に見ていた。「エムラクールと話したんだな」

 「私の心に侵入したことについて、謝ってはくれないんですか?」

 “理論家”はそれを無視した。「どうやって話した?」

 タムは心で伝えた。『どうお考えですか』

 「君が誰かということを認識はしたのか?」

 「いえ。あの女性は――エムラクールは――私に、友達だって示して欲しがっていました」

 “理論家”は微笑んだ。「覚えているんだな。私と彼女が初めて会った時、チェスをしたんだよ」

 胸中にある冷たい石のような感覚を、タムはもはや無視できなかった。「つまり、エムラクールも上書きされてしまうんですか?」

 「この多元宇宙にエルドラージは存在しない。ボーラスも、ファイレクシア人も。エムラクールもまた、多元宇宙を脅かす存在として排除されるだろう。あれは世界を終わらせる存在だ。どうして君はそれを案じている?」

 「案じてるのは、友達のことです!」タムの言葉は怒涛のように溢れ出した。“理論家”がひるむ。意図せず激しく力を込めすぎてしまったらしい。だが彼女は気にしなかった。本心をぶつけて骨を揺さぶって、心の形まで変えてやろう。「どうして私の友達が上書きされなきゃいけないんですか? 先生のお友達はどうなるんですか? おたから君は? ヴラスカさんは?」

 タムは床に叩きつけられ、視界が黒く暗転した。頭の奥が焼けつくように熱く、痛い。精神感応の命令が頭の中で鳴り響いた。

 「そこまでだ」

 「嫌です!」タムは命令を拒むように押し返した。かすむ視界を正し、割れるような偏頭痛を鎮めようと努める。彼女は肘をついて身体を起こすと、吐き捨てるように言った。「先生は一体何のために、お友達と何度も戦ったんですか! 何を証明しようとしているんですか!」

 “理論家”は何も言わない。タムは目をきつく閉じ、頭痛を抑え込もうとした。視界が回復し、思考も静まっていく。だが怒りは消えなかった。タムは立ち上がり、自身の精神へと障壁を張り巡らせた。

 「私とは何度戦ったんですか? そして何度忘れさせたんですか?」問い詰めながら、ひとつの記憶を浮かび上がらせる――ある光景。まだ少年のジェイスが、雨にずぶ濡れになりながら、屋根の上で師を見つめ、まさにその質問をあのスフィンクスに投げかけている姿を。

 “理論家”は動きを止めた。唇が半開きになり、両手がわなわなと震えるのが見てとれる。澄んだ水のような両目の周りは、血の気が引いて白色を帯びていた。その場に釘付けになったかのように、“理論家”は微動だにしなかった。一瞬、タムは師が自分の言葉を聞き逃したのかと思った。だがすぐに、一語一句はっきりと聞き取っていたのだとわかった。

 彼女は宣言するように告げた。「この実験は行きすぎです。もう協力はできません!」

 理論家の鼻から血が流れ始めた。タムはその意味を理解していた。“理論家”は苦しむように身を屈めた。

 「また逸脱体ですか」タムは苛立った。自分の考えを伝えたいのに――

 精神の障壁に、衝撃波が叩きつけられた。眩しい青玉色の光によろめかされ、タムはきつく目を閉じた。

 ひとつの光景――絶望を殉難と取り違える、冷徹で無粋な論理。変質して死にゆく男の身体からうねり出る何本ものケーブル。酒杯を掴む手。共に黙示録の只中へと身を投じるよう、仲間を説得する姿。自身が嫌われようとも構わない、そんなジェイス。

 虚無主義者。

 重いものが落ちる音。肺が空気を吸い込む音。男がもうひとり、床に倒れていた。

 タムは両目から手を離し、息を呑んだ。

 それを「逸脱体」と呼ぶことに今やタムは疑問を抱いていた。私も厳密にはそれなのでは? 床に伏すその男は頬がこけ、四肢は異様な様相だった。外套の下からは何本ものケーブルが蛇のように伸びていた。そのうち一本の先端がタムをまっすぐに見つめ、他のケーブルは追加の肢となって“虚無主義者”が立ち上がるのを支えた。“理論家”の傍にいる時には、常に誰かに監視されているような感覚があった。だがこちらの場合は、心の中を覗き込まれているのだろうかと訝しむ必要すらなかった。

 “虚無主義者”はタムを一瞥し、そして“理論家”へと頷いた。そのケーブルは“理論家”の身体が観測している何かと同調しているらしかった。

 「君も見ておいた方がいい」“虚無主義者”はタムに言った。その声は耳障りで、鋳鉄をフォークでこするように響いた。

 その提案の意味を理解するのにタムは一瞬を要したが、卓の上の“理論家”の姿を見て事態を把握した。師は何らかの幻視に没頭していた。躊躇しながらも彼女は“理論家”の心へと意識を伸ばし、そして恐る恐る、けれど本能のままにその内へと飛び込んだ。

 タムが見たのは模倣宇宙だった。そして“理論家”の視界を通して感じ取った。

 それは崩れかけ、ほつれかけ、満杯でありながら空虚でもあった。“理論家”はほつれた端を繋ぎ止めようとし、概念を物質へと結びつけるために必要な定理を計算するものの、何もかもが漂い去って行くだけだった。さらに悪いことに、彼自身もまた崩れ去りつつあるのを感じていた。羊毛に絡みついた種子を取り除くように、自身の内から次々と逸脱体が離れていく。それは脱皮のようで、縮んでいくようで、除去手術のようだった。忘却のようだった。

 すべてを繋ぎ止めようとするが、指の間からこぼれ落ちていく。まるで春の雪解け水に流される雪塊のように、彼自身の沢山の断片が押し流されていく。力を込めれば込めるほど、逆に崩れ去っていくかのように。それでも、その流れを止めることはできない。ここで立ち止まることは許されない。これまでの献身が結実しようとしているのだから。目標が目の前に迫っているのだから。

 半ば完成化したジェイスが、声を大にして語った。「“理論家”と同じように信じたのは間違いだった。そのせいで、俺たちは存在そのものを破滅させてしまっている」

 タムは自身の肉体へと引き、瞬時に自らの意識へと戻った。“理論家”は卓の上で身体を折り曲げたままでいた。今なお幻視に没頭しているらしく、上唇には血が滲んでいた。

 “虚無主義者”が説明した。「こいつの実験は、元の多元宇宙の現実にまでほころびを発生させている。痛みはないとこいつは考えているが、計算結果はそうではないし、こいつ自身もそれを知っている。もうどうしようもない」“理論家”は卓に突っ伏したまま、半ば意識を失っていた。ファイレクシア化が進んだ男はそれを見下ろし、そしてケーブルの先端についた青い目をすべてタムへと向けた。「未来はない。ひとつの道具でしかない舵が、自分こそが船だと思い込んでいるようなものだ。俺たちの死に意味などなくなる。俺たちの人生に何の意味もなかったのと同じだ」

 師の「他の自己」をタムは擁護しようとしたが、口をつぐんだ。“虚無主義者”を元気づけるような言葉などおそらく存在しない。彼は手袋をはめた手を伸ばし、タムの肩にそっと置いた。一本の細いケーブルが蛇のように這い上がっていく。その感覚に、タムは奇妙な安らぎを覚えた。

 「君たちは勝てはしない」

 「方法を見つけてみせます」タムは不機嫌さを露わにして答えた。

 “虚無主義者”が小さく息を吐き、一本のケーブルが引きつるように動いた。それは彼なりの笑いに近いものだった。そして付け加えるように言う。「ところで、俺たちがどうやっても学べなかった教訓がひとつある。それを学べば解決するかもしれない。まあ、しないだろうけどな」“虚無主義者”が溜息をつき、その身体の金属とケーブルも同調した。「助けを求める方法、だよ」

 「逸脱体が!」敵意の声を“理論家”があげた。そして一秒にも満たないうちにポータルを出現させ、“虚無主義者”をその中へと蹴り飛ばす。ポータルは閉じ、消え去った。

 タムは息をついた。

 “理論家”は背筋を伸ばして立ち上がり、頭を振って意識をはっきりさせた。まるで耳元の蜂を追い払うかのように。

 タムは師に背を向け、聖域の出口へと向かった。自分を作り出した非情な男の叫び声が届いたが、彼女は無視した。あの男が名前を呼ぼうと知ったことではないし、自分の精神を覆う防壁は強固だ。無理矢理振り向かせることはできない。

 あの人に理屈は通じない。

 タムは駆けた。目的は明確だった。

 師を止めなければならない。そして、その破滅に手を貸さねばならない。


 チャンドラは苦々しい気持ちで、ヴラスカがもたらした情報に耳を傾けた。一向はジャズィを探すため、オパール教授の研究室を後にしようと荷物をまとめていたところだった。リリアナの偽者は既にそこにはいなかった。チャンドラたちの傷を手当てすると、「他の用事」があると言って立ち去ったのだった。もはやこちらを脅威とはみなしていないらしい――そして彼女たちの方も、このリリアナを殺すための試みを続ける気力は残っていなかった。

 長く、苛立ちに満ちた溜息をチャンドラは吐き出した。「つまり、ジャズィって人の居場所を見つけて、それから第四試合? あいつが退屈して私たちを皆殺しにするまで戦うってこと? そして世界の終わりが来るの?」そして窓辺にいるヴラスカの隣に進む。窓の外には、枯れ葉と複製された石畳以外には何もない。「別のやり方で戦わないと」

 ヴラスカにできるのは、ただ首を横に振ることだけだった。チャンドラは迫った。

 「私があいつをどういうふうに見てたか、わかる? 中途半端で情けない奴、よ」

 その侮辱をヴラスカは鼻で笑った。

 「まだ言い終わってないわよ! 情けない奴だってのは、あいつは、鏡に映る自分自身と向き合って、自分の姿を認めるのが怖かったのよ! イニストラードでも、ゲートウォッチとしても、ギルドパクトとしても、あいつはずっと中途半端で、情けない奴で」ひとつの感情が喉元へとこみ上げてくる。それは胸に詰まり、彼女は嗚咽を押し殺した。「あいつは私たちを三回も倒した。私たち全員よ! それも、近づくことすらしないで。本気で戦ってすらいなかったんでしょ! 臆病で、頭がいいことを鼻にかけてて。私はあの性根が大嫌いで……それでも友達だった。私たちの誰よりも何百倍も賢くて、その事実を自分でも嫌ってて、だからこそ、私も、あいつは、ちゃんといい所もあるんだな、って!天才と友達になるなら、そんな奴しかいないって思ってた。そしてあいつがそうだった。そのジェイスもここのどこかにいるんでしょ。そのジェイスがいなきゃ、上のあの野郎とは戦えないわよ。友達を取り戻さないと……そうすれば、あいつを凹ませてやれるんだから!」

 チャンドラはもう限界だった。激しい怒りとともに涙が溢れ出る。苛立ちの嗚咽を漏らしていると、ヴラスカの手が背中に触れるのを感じた。その感触が、怒りの涙をいっそう激しく迸らせる。

 「その通り。あいつには勝てないわよ」背後から、自分自身の声が聞こえた。「他の断片が行く場所にみんなも行くべきね」

 奇妙なことに、それはチャンドラの口調だった。窓の変化に彼女は気づいた。氷の結晶がシダの葉のように広がりながら、ガラスの表面を這い上がっていく。寒さから、だがほとんどは恐怖から、首筋の体毛が逆立つ――そして振り返ると、そこには自分と瓜二つの姿があった。青い筋が一本だけ入った髪のチャンドラが、見つめ返していた。

 ドッペルゲンガーは鋭い眼差しで、相手を品定めするように観察した。そして見たものに満足がいかなかったのか、背筋を伸ばして掌を突き出した。チャンドラならではの攻撃の構え。

 「お父さんがよろしくって」分身が言うや否や、巨大で鋭利なつららが辺りに何本も生え、空気が急激に冷え込んだ。

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アート:Borja Pindado


 本物のチャンドラは窓から飛び出した――突き刺すような氷の破片に唯一覆われていない場所だ。彼女は落下した。そして両脚を開いて中庭に着地するが、すかさず戦闘の構えをとる。アドレナリンと日頃の鍛錬のおかげだ。だが衣服には霜が張り付いており、一歩踏み出そうとすると、同じく両足もその場に凍り付いていることに彼女は気づいた。もうひとりのチャンドラは優雅に飛び降りてきた。

 チャンドラは、ドッペルゲンガーの腕に取り付けられた装置を見た。馴染みあるアヴィシュカー様式の金線細工、その側面には領事府の紋章があった。こっちの自分は……どうしてこんなにも違う姿をしているのだろう?

 もう三人も飛び降りてきた。雪と氷の上に投げ出され、自分たちが突き破ってきた窓を見上げる。チャンドラは寒さに震え、うめき声を発した。脚は奇妙な角度で凍らされて硬直していた。まるで子供が人形を無理に奇妙な体勢にねじ曲げたかのようだ。この馬鹿げた場所について知った内容が一気に頭をよぎった――この多元宇宙は苦しみを排除する。この多元宇宙は勝手に構築されていく。こちらのチャンドラは、ひとつの過ちが正された結果なのだ。自分の人生のどこで、その分岐が生じたのだろう? その答えは、恐ろしいほどはっきりとしていた。混乱しながらも、言葉を途切れさせながらも、チャンドラは氷を操るもうひとりの自分についての真実を悟った。

 「お父さんが死んでなかったら、私はこうなってたってこと。この多元宇宙が、私にとって一番いいって決めた姿。でもこんなの、平和だとか祝福されてるとか、苦しみなんて知らないって感じじゃないわよ。ジェイス!」彼女は叫びつつ、氷を解かして足を解放しようと指から炎を放つ。「氷使いの方の私も怒り狂ってるじゃないの!」

 正面の階段から、仲間たちのドッペルゲンガーがこちらに向かってくるのがわかった。だがチャンドラは疲弊し、打ちのめされ、その場を動けなかった。月明かりに照らされた彼らの姿は、見慣れたものでありながら、同時に亡霊のように恐ろしくもあった。階段の両脇には巨大な石像が立っていた。その間を進んでくる彼らの動きは大げさなほどに劇的で、月光の中で静止しているかのように見えた。

 「ねえ、あれ。無慈悲って感じ」チャンドラはアジャニへとそう言い、近づく集団の右端にいる巨体のレオニンを示した。鎖でつながれた二つの斧頭を手にしている。斧の片方が彫像の脇をかすめると、その鋭い刃は石の指をいとも簡単に切り落とした。

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アート:Manuel Castañón

 「こっちの俺は、鎖のヴェールを受け入れたのか」ガラクは精一杯の力で斧を握りしめた。筋肉はまだ疲労と痙攣から回復しきっていない。遠方にそのドッペルゲンガーが見えてきた。右の肩当ての代わりにオーガの頭蓋骨が据えられ、鎖のヴェールが放つ紫色の輝きが全身を照らしている。そのガラクは自信に満ちた様子で堂々と歩き、足元では沢山の獣の影がうごめいていた。

 もうひとりが角を曲がって現れた。その手が、苦悶に身をよじる彫像から伸ばされた脚を撫でていく。

 「ヴラスカ」チャンドラがうめいた。「ねえ――」

 その直後、ヴラスカが息を呑んだ。「目を閉じろ!」その叫びにチャンドラは従った。

 チャンドラは両手に火を灯した。「次はどうすればいい?」視線は足元に向けつつ、あやふやなままに敵ゴルゴンの方へと進んでいく。だがその時、誰かに肩を掴まれた。ヴラスカが、こちらには聞こえない何かの音に聞き入り、暗闇の先にいる相手の気配を探っているのだ。

 「あれは私の偽者だ! 石化の力を溜めるのに少しかかる。炎の魔法には弱いだろうが、真っすぐお前の方を見てる。離れてても攻撃してくるよ!」

 チャンドラは質問を口にしようとした。

 「真っすぐ前だ!」ヴラスカが叫び、チャンドラは炎の奔流を放った。

 右側から足音。「三時の方向!」

 焼けつくような熱気。橙と白に燃え盛る炎が目蓋越しに見える。チャンドラは歯を食いしばった。ガラクがうなり声を上げながら突入し、二本の斧がぶつかり合う金属音が耳に届いた。

 先程よりも軽い足音。「十時の方向!」

 炎が命中したかどうかはわからなかったが、肩を掴むヴラスカの手に力が込められた。「もう一発……待て。石化を使ってこない」


 ヴラスカはチャンドラの肩を掴む指に力を込めた。だがそれを離し、敵の様子を見守る。

 偽者は、もう両目がはっきりと見えるほど近づいてきていた――見開かれ、黄金色に輝き、この上なく得意げに。その女性は近くの彫像に手を触れ、月明かりの中へと姿を現した。

 ヴラスカの唇が怒りに歪んだ。ドッペルゲンガーは彼女自身よりもわずかに背が高く、優雅で長い白の外套は陽光を切望しているかのよう。目尻の皺はなく、首筋は長く、思わず引き込まれてしまいそうだ。夢のように美しく、ただそこにいるだけで輝きを放っている。「船長」ではないが、それ以上に厄介な存在だ。もうひとりの自分が、その瞳に危険な光を宿すこともなく近づいてくる様子を見て、ヴラスカは何よりも不快な事実に気づいた。この女は、石化の力を持たないゴルゴンなのだ。

 この女は、こちらをずたずたに引き裂くこと以外、何も望んでいない。

 ヴラスカは視線に力を込め、自身のドッペルゲンガーに向かって一直線に駆け出した。相手への殺意に没頭するあまり、背後からチャンドラが尋ねる声にも気づかずに。「ねえ、目を開けても大丈夫なの?」

 ドッペルゲンガーが叫ぶ――フードの下で額飾りが光を捉えてきらめく。「心配は無用だよ、船長!お前の恋人はあくまでお前のものだ。私は違う。あの男の『建築家』だからね」

 ヴラスカの目にあるのは、激しい怒りだけだった。ドッペルゲンガーが微笑み、完璧に手入れをされた爪の先で傍らの彫像に軽く触れる。すると彫像が立ち上がり、もうひとりのヴラスカはそれに掴まった。その彫像は“理論家”としてのジェイスだった。それは本物の倍もの巨体で、一歩ごとに地面を揺るがしながら、ヴラスカめがけて突進してきた。もうひとりのヴラスカは、彫像の外套の端を注意深く掴んだまま呼びかけた。「どんな形にしようか、旦那様?」

 『捕縛してください』、ヴラスカの脳裏にも声が響いた。彼女はうなり声を発し、駆けながら視線を走らせ、自分自身のドッペルゲンガーと目を合わせようとする。距離が縮まるとヴラスカは短剣を抜いたが、彫像はあまりに巨大で動きも速かった。彫像は彼女の胴を掴み、地面に叩きつけた。その衝撃に息が詰まる。

 「私がそっちからどう改善されたか知りたい? お前と違って、私は牢獄なんてものとは無縁だったんだよ」もうひとりのヴラスカが言った。その瞳は彫像の頭部に巧みに隠されていた。

 本物のヴラスカは身をよじり、彫像の手から逃れようともがいた。「能無しのゴルゴン! 汚い偽者が!」彼女はうめき、だがやがてチャンドラまでも同じく彫像に拘束された。紅蓮術師を掴む彫像の手が熱の橙色を帯びる様子を、ヴラスカはただ見つめることしかできなかった。

 「正々堂々戦いなさいよ、ジェイス!」焼けつくように熱い拘束の中で、チャンドラが叫んだ。

 「こっちは潰せばいい?」ヴラスカではないヴラスカが尋ねた。チャンドラのことを言っているのだ。

 物憂げな間を置いて、ジェイスが答えた。全員の意識に向けて告げる。『いや。彼女は友達だ』

 チャンドラはたじろいだ。「そうなの?」その声には傷ついた響きが混じっていた。

 物音。彫像の背後から近づいてくる人影。ジェイスの声が囁いた。『私のところへ来ようとしていたのか?』

 チャンドラは黙った。彼女を掴んでいた橙色の手は冷え、ヴラスカは再び怒りを募らせた。

 「理論家」彼女はあえてそう呼びかけた。恋人の切れ端が自ら選んだ名。

 “理論家”が姿を現した。その顔には、適切な形で呼び出されたことへの満足が浮かんでいた。

 今なお彫像の手に押さえつけられたまま、ヴラスカはかすれた声で尋ねた。「わざと私を侮辱したのか? 私が無害な存在であって欲しかったとか、お前は本気で思ってたのか?」

 “理論家”は不快そうな様子で見た。「私が作ったわけではありません。この多元宇宙は、自ら創造を行うんです」

 「それに、私は無害な存在じゃないよ」ドッペルゲンガーが彫像の上から言った。

 拘束がさらに強まり、ヴラスカはうめき声を発した。

 理論家はひざまずき、身を乗り出した。「諦めてください、ヴラスカさん。お願いです。貴女は、私の最愛のひとです。多元宇宙のどこにも、どんな多元宇宙にも、貴女の代わりなんていません」

 ヴラスカは彼の顔に唾を吐きかけた。「ベレレンを返しな」

 “理論家”は口を開いたが、その様子には明らかに迷いが見えた。もうひとりのヴラスカはただ笑うだけだった。

 「お前、本当に何度も檻に閉じ込められてきたんだね。見えるのは閉めきった窓ばっかり。脇腹に何度蹴りを入れられたか。お前は虐められた猫だよ」

 彫像の手がヴラスカをさらに地面へと押し付けていく。詰め込まれ、狭すぎる空間に閉じ込められていく。暗すぎる虚無の中へ。狂乱状態に陥り、心臓が激しく鼓動する。

 だがその時、ヴラスカは感じ取った――ジェイスの魔法だけが併せ持つ、冷水のような澄み渡り。何かが実体化しようとしているのを察知する。ポータルだろうか? 目を開ける間もなく、ヴラスカは宙に持ち上げられるのを感じた。そして彼女はポータルを抜け、広大で何もない空間へと放り込まれた。


 タムは寮の階段を駆け下りていった。走りながら実習生たちとすれ違う。表情のない顔、虚ろな瞳、そして廊下を行き交う定型化されたような動き。恐怖と怒りに駆られる彼女の目に映るのはそれだけだった。彼らが空虚な存在であることはあまりに明白だった。自分と同じように、まっさらなのだ。

 一方で、深い充足感がタムの心を高揚させていた。あの“理論家”に立ち向かうことができた。自分には力がある。

 石畳に足を滑らせながらも、彼女は寮へと急いだ。視界の端に、赤い服をまとう男たちの姿を捉える。その顔に目鼻立ちはない――“理論家”は子供時代に自身を虐めていた者たちを改造して手先にしているのだ。タムは編み髪を隠し、走る速度を上げた。

 オーリンの実習生集団の中を縫うように駆け、髪に銀色の筋が混じった教授をかわす――「こら、速度違反だぞ!」明らかに動揺した様子の生徒が駆け抜けていくのを見て、教授はそう笑った。タムはようやく自室に飛び込み、勢いよく扉を閉めた。

 息を整えながらも、心には三つの思考が渦巻いている。

 ひとつ。“理論家”は私の記憶を改竄している。

 ふたつ。あの人は理性を超越していて、その計画は確実にあらゆる存在を破滅させる。

 みっつ。私はあの人に対抗できる。

 その最後の考えが、タムの記憶の中で揺らめく。そう、対抗したのだ。彼女はその感覚を、自分自身の力という概念を慈しむように抱きしめ、心の奥底にある錠前付きの箱へと大切にしまい込んだ。

 立ち上がり、窓辺へと近づく。あの男の計画、そしてそこに潜む危険な兆候の数々は、今やあまりにも明白に思える。とはいえ、自分の創造主に歯向かうというのは何を意味するのだろうか? 自分自身の一部に歯向かうということだろうか? これまでもあの男の思いやりを、温かさを感じてきた。あの男には、他者に共感する心があるはずなのだ!

 タムは寝台の端に座り、目を閉じた。どこか静かな場所、じっくりと思案にふけることのできる場所を思い描く。

 目の前に広がるのは高山の湖。岸辺には長い草が繁茂し、澄んだ青緑色をした水面は静まり返っている。沈みかけの丸太には苔が張り付き、周囲にそびえるのは花崗岩の山々。湖はその中央に、優しく抱きかかえられるように座している。タムはそこに身を置くことを、その風景の一部となることを想像した。そして高山の陽光に浴しながら、ひとつの危うい疑問を投げかけた。

 私は何を望んでいるのだろう?

 水が応える。あの人の論理を解き明かし、その証明を正したい。風景の抱擁が応える。大好きな友達を守りたい、たとえ嫌われようとも。高く澄んだ空が応える。満たされたい、そして、まだ見ぬ自分自身を知りたい。

 そのために踏み出すことは怖い。そして私は不完全でもある――けれど意識が澄み渡っていく。

 あの人を裏切らなければいけない。タムはそう思い、だがその考えをすぐさま訂正する。あの人の最悪の部分を裏切らなければいけない、あの人の最良の部分の名誉を守るために、

 自分にそんなことができるのだろうか? その疑問に、心のどこかが即座に返答する。裏切りなんて、もう知っているでしょう。

 その通り。裏切りなら、もう済ませてきた。

 タムは目を開け、身体を起こした。工夫の才には自信がある。自分に今必要なものが何なのかは、即座に把握した。

 まず目指すは、台所の冷蔵庫だ。


 全員が落下していく。皆、同じようにポータルへと放り込まれたのだ。だがヴラスカは悲鳴をあげなかった。今は空間がある。心は落ち着きを取り戻していた。少なくとも、もう狭苦しい場所に閉じ込められてはいない。

 自分たちはあの塔のどこかにいて、でたらめな方向に転がり落ちているのは明らかだ。あの塔には、奇妙な重力が血管のように張り巡らされている。

 石の床に叩きつけられると思いきや、着地は穏やかだった。まるで建物そのものが自分たちの落下死を望んでいないかのように。ゆっくりと受け止められるように降り、着地の瞬間に全員が足を踏ん張って態勢を整える。その場所はまるで霊廟のように静まり返っており、周囲の状況を把握しようとした時、全員が甲高い耳鳴りを感じた。

 そこは大理石の地面が無限に広がる、何もない平面だった。その空間の中央に、井戸のようなものがひとつ見えた。

 タムの警告がヴラスカの脳裏に響いた。

 「これは現実じゃない」ヴラスカは同行者たちに告げた。「これは……ジェイスの記憶のどこか一部だ。この塔には記憶の罠がある。あの偽者どもが私らをここに送り込んだんだ。多分、ジャズィの所に辿り着くのを阻むためだ」

 アジャニは中央の井戸へと近づいた。尾を一振りし、大理石の縁に手のひらを置く。「温かい。体温ですね」

 ヴラスカはチャンドラを見た。嫌がるか嫌味を言うかと予想してのことだったが、紅蓮術師はただ視線をそらすだけだった。

 「入るぞ」全員の考えを代表してガラクが言った。彼は不気味な井戸へと歩み寄り、ためらうことなく飛び込んだ。

 アジャニは肩をすくめ、そして続いた。

 「チャンドラ?」ヴラスカが声をかけた。紅蓮術師は目元に隈が浮かべ、悲しげにどこか遠くを見つめていた。

 「私がもっと優しくしてたら、ジェイスはこんなことしなかったのかな」

 広大で不気味な空間に一瞬の沈黙が漂う。思案の後、ヴラスカは答えた。「お前はそんな特別な存在じゃないよ」その返答にチャンドラは明らかに立腹した様子だったが、ヴラスカは無視した。「救い出さなきゃいけない仲間がいるんだ。井戸に入りな」

 チャンドラがそうすると、ヴラスカも後を追った。縦穴を落下することになるかと思いきや、ふたりは直立した姿勢のまま外へと投げ出された。

 辿り着いた先は、ヴリンの将軍の天幕を完璧に再現した場所だった。天幕の布地は淀んだ空気の匂いを発しており、辺りには一族の紋章や宣伝工作の紙が散らかっている。卓の上には地図や印、紐、そして沢山の秘密が広げられていた。

 一向は気を取り直し、天幕を出た。するとそこはジェイスの子供時代の寝室だった。ヴラスカはピューターの蹄鉄が置かれていたはずの場所に視線を向けた。その場所はひときわ目立っていた。思わず顔をしかめる。この場所全体が、あまりにも個人的すぎるように感じられた。

 「罠はあるのでしょうか?」アジャニが髭を動かしながら尋ねた。彼は神経を尖らせ、空中の匂いを嗅ぎ取ろうとした。

 「進むぞ」ガラクが言い、寝室の扉を開けて出ていった。

 扉の先に広がっていたのは、途方もなく大きな講義室だった。頭上には大きな天窓が並び、演壇の脇には車輪付きの黒板が置かれ、その周囲を木製の座席が取り囲んでいる。部屋に塗られた青色は年月を経て色褪せており、ステンドグラス越しに差し込む陽光の中を塵の粒子が漂っていた。部屋の意匠がヴラスカの記憶を呼び覚ます――ジェイスが精神の構造を説明する際に用いていたものと同じ、様々な形や結晶。一行が歩みを進めると、足音が響き渡った。

 黒板には数字が書かれていた。9,724,815,509,002。聞き覚えのある声が、砂利を踏みしめるように全員の脳裏に響く。それは既知の多元宇宙における人口の数であり、あの男が読み上げることを拒んでいる数字だった。

 四人全員が戦闘態勢をとった。アジャニとガラクがヴラスカを挟むように立ち、チャンドラは後方へ下がった。“理論家”の姿を探し、全員が辺りを見渡した。

 ガラクが鋭く息を吸い込んだ。「幻影だ!」その叫びに応じるかのように、黒板の横の空気が波打った。

 ジェイスが足を踏み出した。だがそれは、上階にいたジェイスではなかった。

 このジェイスは茶色のトレンチコートをまとい、瞳には苦悩を浮かべ、ランタンを手にしていた。片方の足首には枷がはめられ、その鎖は壁へと伸びていた。青いフードの下から覗くその瞳は、激しい秋雨のように冷ややかだった。ヴラスカは駆け寄ったが、あえて触れようとはしなかった。ふたりは見つめ合った。

 「お前は……」

 「俺です。イクサランで貴女に出会う、その直前の俺です」

 「ジェイス?」チャンドラは声を震わせて尋ねた。よく知っている相手だった。

 ヴラスカは眩暈を感じた。「“理論家”が言ってたよ、自分自身を幾つかに分けたって。お前はそのうちのどれなんだ?」

 そのジェイスは友へと頷いた。事実を明かして欲しそうに促す。「チャンドラ、君から伝えてくれ」

 「こいつは“探偵”。イニストラードで何が起きてたのか、その謎を解明した奴よ」

 「すべてがどう噛み合っているのか、それを見抜くのが俺です」“探偵”はヴラスカに含みのある視線を向けた。彼女もその文脈を即座に読み取った。

 不安を抱えながらもヴラスカは近づいた。「ジェイスが死ぬ前、お前も計画に関わってたのか?」

 “探偵”は笑みを浮かべた。「はい。そして、いいえでもあります。ああいった選択を解きほぐすのは難しいんです。何よりもまず……ごめんなさい」

 ヴラスカは身体を強張るのを感じた。無意識に、心身ともに身構える。

 「俺がまだ完全な姿だった頃に始めてしまったことは、許されるものじゃありません。俺は間違っていました。俺自身のほとんどもそれを判っていました。けれどそれに抗うために、自分自身を引き裂いてしまったんです」

 「お前を信用しろと?」ガラクが低く唸るように尋ねた。

 「俺は信頼には値しない。ただ、自分が始めたことを食い止めたいだけなんだ」

 背後に鎖を鳴らしながら、“探偵”は講義室の演壇を横切っていった。「死んだ時、俺はいくつもの断片に分かれた。そして分裂した状態から新しい肉体を形成したために、俺たちの繋がりは不安定だ。だから俺たちの多元宇宙も不安定なものとなっている。肉体は幻影と結びついている。ホルムベルグの誤信だ」このジェイスは講義を行う教師のように、知識人のように、根底に存在する人間性によって問題を解決する者のように語った。

 ヴラスカは思った――この話について行かなきゃいけないのか?

 “探偵”は続けた。「その肉体は不安定だが、俺がひとつになれば戦える。身体が無力化されれば、世界の重なりも一旦は止まるはずだ。内側から“理論家”を止めるために、俺の肉体は必要ない」

 その口調に、ヴラスカはまるで心臓が崖から真っ逆さまに落ちるような感覚に見舞われた。鼓動に合わせて、先程聞いた言葉が脳裏を跳ね返る。『“理論家”を止めるために、俺の肉体は必要ない』……どうして、そんな言い方をするのだろう?

 「どうして、あんたのもうひとつの面が、一兆人くらいの人たちを危険にさらしてるのよ?」チャンドラは怒りを露わにした。

 “探偵”はひるまなかった。「俺のあの面、“理論家”には、他者を思いやる心がもう存在しないからだ。自分自身を抑える術を知る部分も、もう存在しない。俺たちはそれぞれが、沢山の経験や自己の集まりだ。君たちも、俺自身も。俺は死んだ時に分裂してしまって、正しくひとつに戻れなかった。けど俺が不完全である限り、“理論家”は止まらない。俺たちの大計画も続いていくだろう」

 ヴラスカは理解が追いついていなかった。先程の“探偵”の言葉ばかりが脳裏を巡っていた。こいつは“理論家”を内側から止めようとしている。そしてその「止める」の意味を、彼女は疑いようもなく理解している。きっと別の道があるはずだ。肉体は幻影と繋がっている。元の肉体? あの男の新たな多元宇宙が存在し続けるためには、その肉体もまた生き続ける必要がある?

 「あいつは俺たちを閉じ込めた。あのクソ野郎は。失敗しつつあることはわかってるくせに、計画に執着するあまりに、君たちが俺たちと手を組めるっていう事実に気づいていない。計画を完遂させるためにあの神託者を殺そうとしているけど、上手くいくわけがない。“兵士”がいないんだからな。まずそいつを見つけ出す必要がある。そうすればやるべき事を終わらせて、肉体を排除する機会が生まれるはずだ」

 ヴラスカの唇が震えていた。「なあ、ちょっといいか」

 “探偵”は彼女に視線を向けた。心など読まずとも、ヴラスカが何を悟ったかはわかった。ヴラスカもまた、心を読まれる必要すらないとわかった。彼は他の者たちの方を向いて言った。「少し、ふたりだけにしてくれるかな」

 誰もいない講義室でそう願うのも奇妙な話だったが、プレインズウォーカー三人は言われた通りに講義室の隅へと退いていった。ヴラスカの視線は、少しだけ若い目の前のジェイスに引き寄せられた。若いと言ってもわずかだが、違いはわかった。無精髭がなく、フードの下で髪が額を覆うように垂れている。このジェイスは確信めいたものを備えていた。“理論家”には欠けている自信を。

 座るよう促され、ヴラスカはふと気づいた。講義室のこの一角は、まるで城の石造りのような内装をしている。壁からは奇妙な人型の彫像が幾つも突き出し、それらの顔は無言の叫びに歪んでいる。だが“探偵”は気にも留めていないようだった。彼は引き裂かれた肘掛け椅子に腰を下ろした。仕切られた部屋の向こう側に黒板が見える。ヴラスカも座り、彼を見つめる。それはひどく辛いものだった。たとえ全体の一部に過ぎないとしても、この男は自分のものなのだ。

 「肉体を排除する、って言ってたよな……」

 「その話は後で。まず、貴女に言わなければいけないことがあります」“探偵”の声は断固としていた。「ごめんなさい。被験者よりも実験を優先してしまう自分自身の部分に、抗うことができませんでした」

 ヴラスカは悟った。このジェイスは全体を代弁しているのだ。理解し、思わず彼の手を取る。「お前は、真実を大切にする部分なんだな」

 “探偵”は硬い笑みを浮かべた。「そうです。もっと早くに自分を止めるべきでした。俺を許す必要はありません、ただ……今、俺がそれを理解しているとだけは、知っておいて下さい」

 「それは真実か?」

 「一部は」

 彼はごく僅かに、髪の毛一本分ほど身を乗り出した。だがそれだけで、ヴラスカは椅子に押し付けられるほどの重力を感じた。「ヴラスカさんは、俺のことを善人だと思ってくれていましたよね。ですがそれは間違いでした。俺は自分を怪物だと思っていました。それは正しかったんです。俺を愛してくれる必要はありません。でも俺は、貴女のすべてを愛していました。それは知っておいて下さい」

 戸惑う様子のヴラスカへと、“探偵”はそう続けた。声を潜め、静かに。気まずさはなく、だが何もかも心得ているように。

 そして“探偵”が次に口を開きかけた瞬間、ヴラスカは渾身の力で、激しく彼を抱き寄せた。その衝撃に“探偵”は息を吐き出し、ヴラスカは彼のコートの防水布に爪を食い込ませた。

 彼女は言葉を絞り出した。「お前は怪物なんかじゃない。私らは、私らが選んだ通りの存在になるんだよ」

 それは、彼自身の言葉を繰り返したものだった。それは賛歌であり、祈りであり、ふたりがその生涯の拠り所として築いてきた崇敬の念そのものだった。彼女が最も信頼してきたジェイスの部分が、真実を指し示す杖のように彼女を導いてきたジェイスが、動きを止めた。そのまま身動きすらせず、だがやがて意を決したように、ヴラスカを強く抱き寄せた。

 彼の肩が震える。ヴラスカは彼の唇がわななく様子がわかった。そしてこのジェイスは曇りのない瞳で、一切の迷いのない意志を込めて答えた。「俺は、自分の野心を殺す男になります」

 愛と痛みが、波のようにヴラスカの心の内で激しくぶつかり合う。「それなら、お前は絶対に怪物なんかじゃないよ。ジェイス」

 一瞬も躊躇うことなくヴラスカは身を乗り出し、彼に口付けをした。それは深く、安らぎそのものだった。ふたりはその感覚に身を委ね、彼はヴラスカの唇をかすめながら囁いた。「俺たちの他の部分を、皆の意識の中に預けます。俺たちを『家』へ連れ帰って下さい。もし自分たちの身体に戻れたなら、“理論家”の動きをある程度失速させて、時間稼ぎができると思います」

 「時間稼ぎ?」

 その目は穏やかで、同時に毅然としてもいた。「俺たちに世界の重なりを止めることはできません。ですがその呪文は俺たちの肉体によって維持されています。もし呪文の速度を落とせば、解決策を見つける時間的猶予ができるかもしれません」

 「つまり、呪文の速度を落とすには、お前は……」

 彼は答えない。

 ヴラスカは震える声で、結論を口にした。「死ななきゃいけない、のか」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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