MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 02

第2話 ならば疑念を拭い去るんだ

Alison Lührs
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2026年9月1日

 

 初めてストリクスヘイヴンにやって来た時、タムは当惑した。残りの部分はどこにあるの?

 あまりにも平坦で、背も低い。そのため次の授業は単に上の階へ行けばいいのだと思い込み、初日から迷子になってしまったほどだった。けれど実際は違った。上へ向かうのではなく、広い通路を横へと移動するのだ。至る所に見られるドラゴンの意匠もまた困惑の種だった。知識の管理者といえばスフィンクスこそがふさわしいのでは? そんな中で際立っていたひとつの良い点は、本当の孤独というものを初めて感じられたことだった。故郷では、創造主の気配が至る所にあった。あの人は私たちのために見守ってくれている、と自身を納得させていた。けれどストリクスヘイヴンでは、誰かに見られているという感じこそあれ、自身の全てがさらされているとは思わなかった。例えどれほど地形が平坦であろうとも。

 だが今、このヘクスヘイヴンで唯一孤独を見出せる場所は、寮の自室だけだった。タムは自身が知るあらゆる防護印と、自身で考案したふたつを念入りに施していた。机の前に座り、丸く大きな窓の外を眺める。遠くに競技場が見える。卒業式に使われるはずの戦いの舞台――まだ卒業式は行われていない。それどころか、今まで一度も行われていないのだが。

 寮はセオリクスにあり、中庭を見下ろしている。唯一の中庭で、木が一本だけ植えられている。ここでは、ヘクスヘイヴンの壁や通路が互いに直交するように走っている。“理論家”とその塔にとって、重力とは厳格な規則ではなく流動的な概念なのだ。内部のどの場所にいるか、あるいはどの方向が最適かによって、塔は曲がったり歪んだりする。タムは静けさに気づいた。ストリクスヘイヴンは常に騒がしく、生徒たちの喋り声で満ちていた。だがここの実習生たちは静かだ。内気とすら言えるほどに。まだ夕暮れ時だというのに、辺りは静寂に包まれていた。あの孤独な木の傍にいるコカトリスだけが物音を立てていた。

 扉の外に誰かがいる。

 話し相手がいるならそれもいい。興味を惹かれ、タムは扉を開けた。そこにいたのは若い娘――同じセオリクス所属の、とあるアズラの実習生だった。こちらが切り出すのを待つかのように、身構えつつも無表情で立っていた。

 「どうしたの?」タムは声をかけた。

 実習生は少し間を置いて返答した。「影数の試験に向けて、一緒に勉強しない?」

 タムは当惑したが顔には出さなかった。寝る直前によく知らない相手と勉強をする気などない。「もう夜も近いけれど……勉強以外で、何か好きなことはある?」

 アズラの少女は表情を変えなかった。「勉強」

 会話の終わりを察し、タムは顔をしかめて頷いた。「おやすみ」その言葉とともに扉を閉める。

 素っ気無さすぎるやり取りだった。実習生たちとの会話はどれも似たり寄ったりで、まるで身動きをする岩と話しているような気分に時々なる。深みというものが何ひとつ感じられないのだ。

 それ以上の会話を遮るように扉が固く閉まると、タムの視線は机の引き出しへと向けられた。

 白紙のページを取り出し、ペン先を湿らせる。

 私は何をしているのだろう?

 アビゲールへ

 ごめんなさい。

 私のことを友達だと思ってくれていたのはわかるわ。悪いのは私。

 どうか今いるその場所を動かないで。危険なことが起きようとしているの。

 私を許してくれる可能性は低いわよね。知っておいて欲しいのは、私は自分の意志で行動したのだけど、私の中にあるべき決定的な何かが欠けているということ。それは単に存在しないのか、それとも見つけないといけないのかはわからない。けれど、その欠けているということ自体は本当。夜に寝台に横になって、友達が生き残る可能性を高める呪文を唱えている時、確かにそれを感じるのよ。

 アビゲールが私の眠りを助けてくれればいいのにって思うの。もう耐えられない。私を作った人にはそんなことお願いできないし。

 私はこういう存在だっていうことは許してくれる? 私は造られた存在だってことを。その事実をどうこうできる選択肢はないけれど、それでも私は生み出されたことを誇りに思うの。でも、私がしたことについては許せる? 許せなくても当然よね。ただ、無事でいて欲しいだけ。

 まだ起こっていない物事については、私を許してくれる? そうしようとしてくれるなら嬉しいわ。

 私のすべてを込めて

 タムより

 書いた手紙を読み返すが、気分が晴れることはない。卓上に置かれたオイルランプのつまみを回し、ガラスの覆いを外す。手紙は直ちに、静かに着火し、屑かごの中であっさりと燃えていった。

 その輝きが寮の部屋を照らす。

 窓の外に広がる中庭に目をやると、そこは月光に浸されていた。幸いなことに鳥たちの姿はない。頭上ではパラドックスがひとつ渦を巻いている。静穏な夜の中、学舎が息をつく。それは美しく、自分もまた美しい。けれど両方とも偽物なのだ。偽物なのだ。偽物なのだ。


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アート:Andrea Piparo


 独房の中、生きているものはリリアナ自身だけだった。狂気に突き落とされそうな静寂――聞こえる心音は自身のものだけ。生命の気配は内臓でうごめく細菌の群れだけ。それらがゴロゴロと動くのを感じ取れるものの、小さすぎて役には立たない。聞こえてくるものは何もない。あらゆる物音は自分が発したもの。そしてうんざりするようなこの静寂の中では、首筋が不快にぞわりとするほどそれは大きく響く。自身の皮膚細胞でさえ、死んでいるとも生きているともつかない。ここ数日、与えられる食物は果実だけだった。屍霊術を行使するための手がかりは完全に絶たれていた。ただ何かをするために叫んでみようか、そう彼女は思案した。

 ここで目を覚ました直後の数時間、リリアナはそれを試した。叫んでみた。独房の隅に転がっていた虫の脚で反応を確かめようとした。指先を少し切って、何かに使える「死んだもの」が体内にないか確かめようともした。だがどれも無益だった。

 他者の意志に拘束されるのは久しぶりの感覚だった。二度と味わいたくない感覚でもある。床には無数の線が刻まれている。生きたものを近づけまいとジェイスが幾重もの呪詛を施した跡だ――果たして、あの男をまだジェイスと呼んでいいものだろうか? そう呼べるだけの何かが残っているのだろうか? 独房の内部、球形の構造物に彼女は囚われていた。石と木材を複雑に組み合わせたもので、その梁の一本一本にまで意図が通っている。格子の傍にある呪詛の開閉器を解除しない限り、何もここから出ることはできない。

 独房の隅を素早く駆け回る、まさしく生きたネズミを彼女が注視しているのはそういうわけだった。両目に意志を宿し、リリアナは身を乗り出した。

 「死になさい」彼女は念じたが、侵入者はただ足を止めて髭を繕うだけだった。「死になさい。死になさいよ」

 ネズミはあまりにも生き生きとしていて、あまりにも小さい。もし死んでいれば、呪詛の大元まで駆けるよう命令して術を解かせることもできる。もうひとりのリリアナの脚をよじ登れと命じてあの馬鹿げた笑みに噛みつかせる、あるいはジェイスの塔に忍び込ませて病気を感染させてやることもできる。何だってできるのに! ネズミは呪詛の線の一本へと近づいてきた。リリアナはもう一度、精神力でそれを殺そうと試みた。歯を食いしばる。「転がりなさいよ。さあ、今すぐに。汚い毛玉ちゃん。死になさい。死になさい。死になさい!」

 だが床に描かれた線の一本に前足が触れた瞬間、ネズミは青い光に包まれた。即座に鉄格子の間をすり抜けて逃げていく。

 独房の外から、嬉しそうな驚きの声が聞こえた。「あら、ネズミ!」

 一瞬、リリアナはその声の主を、やはり自身の精神力で殺そうと試みた。

 だがそれは叶わなかった。人生とは永遠に続く苦しみ。リリアナのドッペルゲンガーが――この多元宇宙における自分の姿が、鉄格子の向こうから覗き込んできた。そのリリアナの肌は自分よりも透き通るようにきめ細やかで、髪は毛先まで手入れがされており、瞬きをするたびに完璧に整えられた睫毛が際立った。その様が、リリアナは本当に嫌だった。せめてもの救いは、性格が悪いということか。純白のガウンにベナリアの煌めくステンドグラス、毛穴ひとつ見えない滑らかな肌。得意な様子のその女性の姿がようやく見えてきた。「あの可愛らしいネズミちゃん、ご覧になった?」

 リリアナは一語一語に憎しみを込めた。「ええ。そのネズミは見たわ」

 「ちょっと失礼」ドッペルゲンガーは身を翻して格子の向こうへと消えた。虹色の穏やかな光が一瞬だけ廊下を照らし出す。少ししてその女性は戻ってきた。「かわいそうに。あの子、過敏性腸症候群を患っていたのよ」

 「何か用なの?」リリアナは吐き捨てるように言った。

 この世界で、自分のドッペルゲンガーはオパール教授と呼ばれている。そしてこの世界のオパール教授は酷い人物だった。その笑みは甘ったるい。 「対話がしたいだけよ」

 どの多元宇宙であってもリリアナが最も望まないもの、それは対話だ。捕らえられた時、「オパール」とは何者であるかを彼女は説明された。タムのように目的をもって創り出された存在ではなく、ジェイスの計画が正常に機能している結果として生まれたものだという。「この多元宇宙は、自ら花開くのよ」――もうひとりの自分は、最初に出会った時にそう言った。「あなたを見て、私がなぜこの私なのかがわかったわ。私は正しい選択をした方のあなたなのよ」

 穏やかで高貴な光をまとう、鼻持ちならない俗物。この癒し手は今、唇に毒を宿してリリアナに微笑みかけていた。「これからどうなるのか気になる? 私があなたを上書きするのかしら?」

 屍術師は目を見開き、つられて頭をもたげる。「ねえ、予定を変更するわ。いっそ今ここで私を殺してくれない?」

 「そうするかもしれないわね」オパールは警告するように言った。「私があなたを上書きする時には、きっとそうなりそう。ひとつの多元宇宙の物質が、もうひとつの多元宇宙の物質に重なり合うわけだもの。どうなるのかしらね。ぐちゃぐちゃになるとか? 私の物質があなたの物質を上書きするのかしら? それとも、新しい方が古い多元宇宙の構造を押しのけて、あなたの場所にすっぽりと収まるのかしら? そもそも、あなたは気づかないかもしれないわね」

 「お前を絞め殺してあげる。ついでにその時には、この地下牢で死んだネズミを全部蘇らせるわ。観客が必要でしょう」

 オパールは穏やかに微笑んだ。「あなたのそのユーモアは、苦難の人生に由来するのね」白ずくめの女性が鉄格子に近づく。リリアナはその表情に切実な懇願を見た。「私の多元宇宙ではね、私たちのお兄様は、充実して健やかな人生を送ったの。私は別の道を選び、お兄様を救った。あなたも私に救われたい?」

 リリアナが侮辱の言葉を吐き出そうとした。だがその瞬間に胸が締め付けられ、左腕の感覚が消え失せた。

 彼女は苦しさに息を呑んだ。あの忌まわしい魔法――白く色鮮やかで、鼻をつくほど甘ったるい薔薇水とオゾンの味がする、あの魔法――

 胸が――

 心臓が――

 舌打ちの音。「私もその契約は断ったわ。無礼で不潔なデーモンなんて。さて、私の仕事はあなたを救うことではなくて、閉じ込めておくことよ……それ、私にどうにかして欲しいかしら?」柔らかながら不機嫌そうな口調で、オパールはその皮肉めいた提案を口にした。リリアナは胸を押さえるだけだった。

 痛みが消え、光も消えた。リリアナは息をつき、オパールは満足げな声を漏らした。

 「あなたはただ、消えていくことになるでしょうね。あらゆる痛みが、すべての傷が――まるでハコヤナギの綿毛のように、空へと漂い消えていく。その痛みから解放されたいとは思わない?」

 リリアナは歯を食いしばり、心臓を襲った痛みを振り払った。「私の痛みは私だけのものよ」

 「オパール教授ですか?」

 廊下から声が響いてきた。ここを訪ねてくる、もうひとりの人物の声。リリアナは身構えた。その少女に危険はないが、どこか気味の悪いものがある。

 オパールは最後に目配せを投げ、そして鉄格子から離れて去っていった。靴のヒールの音が廊下にこだました。

 数分して、彼女と入れ替わるようにタムが現れた。リリアナは狼狽した。ジェイスが作り出したこの娘を目にする時は、いつもだった。

 触手のように垂れる編み髪の下に、人間の両耳が隠れている。鱗の質感は皮膚に近く、遠目には判別できないほどだ。だが最も気味が悪いのはその種族でも、造られた存在だということでもない――この娘の大部分が、あの男そのものだという点だ。その顔――忌々しいその顔は、乱れた髪の隙間から除くそれは、あの男の顔だった。目にするだけでひどく苛立ちを覚える。この娘を造ろうとした理由などないはずだ。あのゴルゴンの代わりということ? だとしたら、なぜこの娘に自分自身の顎の形や物腰や、才能まで与えたのだろう? 後継者のつもりなのだろうか? それともパートナー? 秘書? あの男はどうしてしまったのだろうか――沢山の問題があるのはよく知っているが。魔法で人をひとり作り出すというのは多大な手間と労力を伴うものだ。あまりに大きな代償を払ってまで、何故そのようなことを?

 人ひとりを作り出すための代償がどれほどのものかを、タムは知っているのだろうか? ジェイスは知っていたのだろうか?

 「大丈夫ですか?」タムが尋ねてきた。

 「で、ジェイスはあなたの父親なの? それとも彼氏? 一体何なの?」リリアナは独房の椅子に座したまま、問い詰めるように尋ねた。

 タムは不意を突かれたようだった。顔をしかめて答える。「ひどい質問ですよ」

 「神様ってことかしら? 神様にして彼氏? 父なる神?」

 少女はさらに眉間に皺を寄せ、苛立ちに鼻の穴を膨らませた。「どれでもありません」

 「あのゴルゴンがあいつから離れていったから? その身代わりとして造ったのかしら?」

 「やめて下さい!」タムの声がリリアナの独房に響き渡る。その声さえも一瞬、どこか聞き覚えのあるものに思えた。「私が何者かっていう話がしたいんですか? それなら出ていきます」

 強烈な既視感にリリアナはぞくりとした。今日見ているのは、そっくりなものばかりだ。

 彼女は椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。「わかったわ。それで何がお望み?」

 タムは鉄格子の錠を外し、木と石でできた球体へと歩み寄って片手をかざした。その手に青色の幾何学図形が一瞬だけ舞い、床を交差する無数の線が輝きを放つ。魔法の光の中でその姿は薄暗く、けれどゴルゴンの瞳は闇の中でも光っていた。リリアナは椅子の上で背筋を正した。さらなる拷問だろうか?

 「見てほしいものがあるんです」

 拷問よりも悪い。腹を割っての話し合いだ。

 苛立ちながらも、リリアナは床に引かれた線をまたいで一歩ずつ足を進めた。顔を上げないまま、ギデオンの馬鹿げた頭像の前を通り過ぎる――ジェイスは何のためにこれを置いたのだろう? 嘲笑うためか、苦しめるためか、失敗と身勝手さを思い知らせるためか。呪詛の床を越えると、人工物の少女は彼女の手を取って廊下へと導いていった。細く青い光の線でできた腕輪がふたりの手を繋いでおり、今さら何かを試みても無駄だとリリアナは承知していた。

 目的地は遠くはなく、リリアナの独房から幾つか先の扉がそれだった。虜囚がもうひとりいることに彼女は気づいた。その女性の寝息が石造りの壁に反響していた。歩きながら、リリアナは通路の両側に幾つ扉があるかを数えていった。

 タムは彼女をとある部屋へと案内し、中へ入るよう促した。リリアナの視線は、すぐにその高い天井へと引き寄せられた。

 「これは、あの人の聖域にある宇宙儀の実時間での複製です。新しい多元宇宙の姿を示しています」タムが手を一振りすると、宇宙儀のすぐ下に同じものの幻影が現れた。そして手をひねると、一方の像がもう一方の上へと滑るように動く。「この多元宇宙は不安定なんです。“理論家”は、これを恒久的に安定させるには既存の多元宇宙を上書きする必要があると信じています。教授はあちらの出身ですよね……この上書きが何を意味するのか、考えを聞かせて頂けますか?」

 リリアナは少しだけ考えを巡らせた。「どうして私に聞くの?」

 「教授は死の達人ですよね」タムの声には好奇心があったが、そこには怖れもまた滲んでいた。「多元宇宙が上書きされたなら、何が起こると思いますか? 忌憚のないご意見を聞きたいんです」

 一瞬、リリアナは嘘をつこうかと考えた。この娘を得意がらせて信頼を勝ち取り、うまく操って外に出してもらうのだ。だがそうしたところで、真実がもたらす痛みは嘘など取るに足らないものにしてしまうだろう。タムの真摯な様は鼻につくほどだった。心から知りたいと願っているのだ。リリアナは衝動をこらえ、その問いについて考えを巡らせた。多元宇宙が上書きされる物理的な仕組みについては何も知らないが、死であれば自分自身の骨のように身近な存在なのだ。

 「あらゆる生き物の内には、その命を成り立たせるものが宿っているわ。灯や力や魂、あるいは文字通りの蝋燭なんかがそれね。そして生き物が死を迎えると、形のないそれは肉体から離れていく。けれど肉体はそこに残って、私のような才能を持つ者の力を借りれば再び動き出すこともできる。もし何かが上書きされるとしたら……それは『息の根を止め』させる行為に他ならないわ。命を成り立たせるものが入れ替わるためには、それまでに点っていたものを消さなければならないのだから」

 「つまり、上書きとは元のものを置き換えることであって、融合するわけではないということですか?」

 「ふたつの魂がひとつの身体に宿ったなら、複雑な事態になるのよ。はみ出した、あぶれた魂を入れるために、空っぽか半分空いた場所が必要になってくる。理想を言うなら同じ源のね。けれどそんな分身たちは、完全な魂であることはできない。あなたと同じよ。本当の意味での自己はない。分身たちが存在するには、空っぽの器に自らを重ね合わせる必要がある。あなたたちの計画を成功させるには、既存の多元宇宙は死ななければならないのよ」

 ゴルゴンは目に見えて動きを止めた。

 リリアナは意図的に急所を突いた。「タム、あなたのお友達も上書きされてしまうでしょうね」

 少女が返した視線には、ジェイスと同じ、まるで蹴られた子猫のような、傷ついた心が映し出されていた。

 「それによって物理的に引き裂かれはしないでしょうね。けれど元の多元宇宙の上に別の多元宇宙を重ねたなら、元の方にいる全員の魂はすべて『息の根を止められて』しまう。あなたのお友達も、魂の『息の根を止められる』。その後彼らを動かすのは、別の何者かよ」

 タムは凍りついたかのように立ち尽くした。リリアナの背後を見つめながら、告げられた内容をかみ砕く。編み髪が小刻みに震えた。「必ずしもそうとは限りません。適切な条件が揃えば、両方の多元宇宙を織り合わせることもできるはずです。ローリアの論文には……」

 リリアナは鼻で笑った。「あの男、あなたにその頑固さを譲ったのね」

 「解決策を探そうとしているんです!」タムは感情的になっていた。「私たちの目的は尊いものです。あらゆる存在の苦しみを消し去ることができるなら、私たちは――」

 リリアナは“ヴェス教授”としての口調で告げた。「自分にとって大切な相手を裏切ることは、自分自身を裏切ることと同じですよ」

 タムは息を呑んだ。その動揺は目に見えて明らかだった。

 リリアナは相手を慰めるような性格ではないが、物事を把握させることは得意だった。「とはいえ。まだ終わってはいないでしょう。まだ誰も死んではいない。私があの男と話してみるわ」タムは片眉を上げて視線を返した。明らかに疑っている様子に、リリアナは思わず笑い声をあげた。「確かにそうよね。なら、あなたがやりなさい。自分自身に対してなら、あの男も耳を傾けるでしょうから」

 タムは再びリリアナの手をとった。魔法の腕輪が再びふたりを繋ぐ。そして独房へと戻る途中で、タムは荷車から籠をひとつ手に取った。

 リリアナはタムに言った。「あなたはあの男そのものよ。見た目があのゴルゴンに似ているだけで。私はよく知らないけれど、自分は常に正しいって思っている女性なのはわかるわ」

 「私もそうです」タムは真顔で答えた。

 屍術師はくすりと笑った。自分はこの少女を気に入ってしまっている、それが腹立たしい――けれど、気に入ってしまうのは当然だ。あの男のことが好きだったのだから。

 タムにも心を読む能力があるに違いない。少女の視線と表情が和らいだ。「リリアナさん。あの人が私に何をくれたのか、わかるんですか?」

 廊下に置かれた魔法の光に照らされ、リリアナは切なく微笑んだ。「私が見る限り、あの男という人物の最良の部分ね」そしてため息をつく。「あいつの才気、創造性、そしてそのふたつ美徳が交差する場所。あなたからはその匂いがするわ」

 その言葉にタムは考え込んだ。一方でリリアナは訝しむ――全体の一部でしかない存在は、果たしてひとつの自己として生きていけるのだろうか? 「その籠の中身は?」

 「果物です」

 「聞かなきゃよかったわ。言ったでしょう、あなた賢さもあいつ譲りよ」

 造られた少女はしばし黙っていた。良い気分というわけではなさそうだった。

 タムはリリアナを引き連れて独房に戻り、球体の中に籠を置いた。リリアナは再び椅子に向かい、深いため息ひとつとともに腰を落ち着けた。

 「『確かな才能に裏付けられた傲慢さ』、それを表す言葉はあるかしら?」リリアナの問いかけにタムは肩をすくめた。「それこそが、昔からジェイスが抱える真の問題よ。あの男には才能がある。そして、そのことにひどく怯えていた」

 少しの間、タムはそのことに思いを巡らせているように見えた。

 リリアナは彼女の視線を受け止め、目配せをしてみせた。「元彼に伝えておいて。女性を地下牢に閉じ込めるなんて感心しないってね。それはドラゴンのやることよ」

 タムは頷いた。その両肩には明らかに重荷がのしかかっているようだった。そして彼女は鉄格子に鍵をかけ、去っていった。リリアナは立ち上がり、追加の食料が入った籠を覗き込む。中身は確かに果物だが、発酵なしのパンと食用種子やナッツの小袋も入っていた。生き物の死骸の類は一切ない。

 彼女はうめき声を上げながら林檎バターをすくい取り、パンに塗り広げた。


 塔の頂上へと至る道のりは長く、足取りは重い。窓ガラス越しに差し込む陽光は薄く、乳白色に濁っている。この廊下には一切の匂いがないことにタムは初めて気づいた。古書の香りも、壁のタペストリーに溜まった埃の匂いすらもない。このありえない廊下では、安らぎが存在する余地などどこにもないのだ。

 塔はねじれながら上へ、内へ、自らに重なるように伸びている。タムは既に慣れていた。吐き気を催さないようにするには、足元を見つめたままでいるのが一番いい。階段は湾曲し、歪み、物理法則までもがこの世界の創造主の意志に従っている。タムはその形をよく知っていた。ひとつの精神の内部を覗いたなら、こんな光景が広がっている。この塔は、確率を混ぜる時に見る光景を思い出させる。結果を知らないまま未来を弄んだなら、未来の姿はこうした幾何学的形状となって現れるのだ。

 階段は混雑していた。声をあげる実習生で埋め尽くされた広間の先に、スティンガークイルのとある生徒の姿が見えた。タムは反対方向へと踵を返した。魂砕きの射程圏内を歩くような気分ではない。

 右手の階段、はるか頭上に、青い服をまとう女性の姿があった。そこでは重力が異なる方向に働いているのだ。その女性は目の前の道だけに意識を集中させ、冷静沈着かつ悠然とした足取りで歩いている。タムはその人物を知っており、当初から好感を抱いていた。氷魔法の師匠であり、世界を学び始めたばかりの頃には物事がどうなっているのか、なぜそうなのかを丁寧に教えてくれたものだった。今もなお、その女性の青いゴーグルが光の中にきらめいていた。

 「こんにちは、チャンドラさん」タムは声をかけたが、チャンドラはそれを無視した。挨拶を好む人物ではないのだ。ジェイスと何を話していたのだろうとタムは訝しんだ――もちろん、重要な話には違いない。ふたりは親しい同僚なのだから。

 タムは歩き続けたが、それは孤独な道程ではなかった。とある幻影が後をずっと追いかけてきていた。またもルーウェンだ。軽蔑するような舌打ちの音が聞こえた。

 「別の君はいない。だから君は大丈夫だろうね。どうして本物が死ななきゃいけなくて、そっちの半分が勝つのか。私たちが疑問に思っていないとでも?」

 タムはあえて歩調を速めるようなことはしなかった。ここ数日は、友の誰かしらが常に傍にいた。追い払おうとしても無駄だった。疲労に瞼を引きつらせながら塔に辿り着いたその時、タムは引き寄せられるように窓へと目を向けた。

 今は授業の合間の休憩時間だった。塔を縦に貫く中庭を実習生たちが埋め尽くしている。彼らはひとつの大きな塊として動いていた。様々な色と形、すべて異なる輪郭の者たちがそれぞれの目的地へと散らばっていく。胃袋の底に鉛が詰まっているような重苦しさをタムは感じた。彼らには皆、もうひとつの多元宇宙に分身がいる――それまでの人生を過ごしてきたドッペルゲンガーがいる。そのドッペルゲンガーの全員に友や家族、ペット、夢、欠点、犯した過ち、苦悩、好物、頭から離れない歌といったものがある。けれどヘクスヘイヴンの中庭を歩いている彼ら自身には、何があるというのだろう? 彼らはほんの数か月前、この多元宇宙から生み出されたばかりの存在だ。彼らは「ある種の人」でしかないのだ。自分と同じように。「ある種の人」は、人ではない。けれど自分の友達は。

 タムは拳を固く握りしめた。編み髪が苛立ちに逆立つのを感じる。彼女は螺旋階段を駆け上がって“理論家”の聖域へと向かい、入り口を勢いよく通り抜けた。

 中では、セオリクスの実習生数人が中央の黒板で証明の確認を行っていた。“理論家”の姿はその隣にあり、彼らの作業を精査していた。全員が振り返った――数人は空ろな眼差しを向け、一人は鋭い眼光とともに顔をしかめた。

 “理論家”は眉をひそめ、その両目に魔力がきらめいた。「リリアナと話したのか」

 彼女は力任せに繰り出した。真のストリクスヘイヴンにて出会ったあらゆる人々の顔また顔を、波のように“理論家”へと向けて。言葉は出てこない、だから自分の感情をそこに織り交ぜていく。衝撃――全員なのですか? 全員が死ななければならないのですか? 怒り――どうして私は私の友達よりも重要なのですか? 悲しみ――私にとって大切な人たちなのです。あの大勢の全員が。どうして可能性の方が現実よりも価値があるというのですか? その攻撃が痛みを与えるようタムは願った。彼女は一切の躊躇なく、その感情を“理論家”にぶつけた。

 “理論家”は顔をしかめ、まるで苦く強い酒をあおったかのように唇を歪めた。鋭い眼差しをタムに向け、手で追い払うような仕草をする。「そこまでだ」

 タムは腰を下ろした。心は落ち着いているが、胸中の悲しみは今なお残っていた。意識のどこか静かな片隅だけが、“理論家”が今何をしたのかを認識していた。従うことは、息をするように自然なこと。彼女が一線を越える振舞いをしたなら、“理論家”は時々そうするのだ。彼はタムの目の前に膝をついた。

 “理論家”はセオリクスの実習生たちに合図をし、彼らは静かに聖域を退出していった。

 「ひどく苦しんでいるね」

 タムは涙がこみ上げるのを感じ、必死にこらえようとした。「私たちの実験を成功させるには、元の多元宇宙が消滅しなければいけないんです」

 “理論家”は身を乗り出し、彼女を抱きしめた。タムは泣かない――絶対に、一滴の涙さえ流さない――だが気づくと、頬に触れていた彼の白い衣服が濡れていた。彼女は堪えるのをやめ、自らの創造主を強く抱き寄せた。

 「成功の見込みは感じられます」タムは静かに言った。「ですがわずかです、先生。元を破壊することなく、成し遂げられはしません」

 創造主もまた、タムに抱擁を返した。彼女は相手の肩越しに聖域を見つめる――幾つも並ぶ魔道士輪の威圧的な存在感。そう、この部屋もまた、見るもの自身を矮小に感じさせるために造られたのだ。

 「その感情は、君自身の逸脱体の源だ」優しさのこもった言葉。「対処するために必要な知識も、すべて君の中に備わっている。定理も知っているだろう。自分の逸脱体を切り離すことはできるはずだ」

 タムは嫌悪に身体を強張らせた。「そんなこと、したくありません」

 「ならば疑念を拭い去るんだ」男はタムの両肩に優しく力を込めた。ラベンダーの香りのような、穏やかな安らぎが伝わってくる。「それを吐き出すんだ、苦い胆汁の味だけが感じられるようになるまで。私たちは科学者だろう、タミラ」

 彼女は鼻をすすった。その通り、自分たちは科学者なのだから。何を望むかではなく、真実を見つけ出してそれを守り抜くことの方が重要なのだ。

 「でも私にはわかります、逸脱体を失った先生がどれほど苦しんでいるかを」タムは小声で言い、“理論家”の他の断片たちを思った。心像を送る――彼が逸脱体を引きはがそうとする光景を、それらが持ち去ってしまった記憶を思い出そうとする姿を。そもそもタムは「逸脱体」という呼称が好きではなかった。

 “理論家”は背もたれに身体を預けた。「考えたんだよ。集中力を錬磨すれば、自分と呪文との繋がりはずっと強固なものになるのではないかとね」言葉を切り、一瞬だけその表情が揺らぐ。「最初の人生において、私はあまりに多くの人物であらねばならなかった。自分自身の多くの面を隠して。自分が何者だったかを思い出すのが難しいほどに」

 自分もそういった部分を切り離す方がいいのだろうか? タムはそう考えたが、できるとは思えなかった。それは友達の姿を二度と見られなくなることを意味する。たとえその姿が、こちらに憎しみを向けてくる幻でしかないとしても。

 「既存の多元宇宙については、君も意識を集中させて欲しい。私たちが何のためにこうしているのかを忘れないでくれ。全体像を把握すれば、理解の助けになるかもしれない」

 「リリアナさんが言っていたことがあります――」

 「リリアナは死については誰よりも詳しいが、生については何も知らない。死は終わりではないよ、タミラ」

 “理論家”はおびただしい数の魔道士輪に囲まれ、その頭上には宇宙儀が掲げられている。この男はとても力強く見える。確固不抜の存在に見える。秋の薄い陽光を浴び、その精神を善のための武器として振るう、理性の体現者。タムは思う――この人のような存在になりたい。自分の友達に会わせたい。この人は力強く、そして理性的だから。

 「多元宇宙全体を、安全に封じ込めるための計算をね」少し恥ずかしそうに“理論家”は言った。

 セオリクスの実習生たちが計算を行っていた黒板は、ひどい様相だった。

 「私の今の状態では、安全に封じ込めておくことはできない。おたからがいてくれたなら……」溜息をつく。「大計画はいずれ実現に至る。けれど今はまだ不安定だ。安定させられるまで少しの間、君はここから離れて過ごすのがいいかもしれない。その方が回復の助けになるだろう」

 そうして私の逸脱体を消すということ?

 “理論家”は動きを止めた。光が薄れ、男の影が長く伸びていく。だがタムは全く動じない。この男はこうして……意図せず幻影を作り出すことがある。

 「実際に見てみるまでは、理解はできないだろう」男は顎を上げ、タムは重苦しさを感じて視線が床に吸い寄せられる。「ストリクスヘイヴンは悪名高いほどに快適な場所だ。けれど多元宇宙の他の場所はそうじゃない。もっと、ずっと容赦ないんだよ」

 “理論家”は背負い鞄の幻影を作り出し、軽く叩いて実体化させた。そしてそれを彼女に手渡す。

 「イニストラードへ行くといい。その次元の広がりを、他の天体を含めて把握する必要がある。数値情報を記録して、その本質を観察してくれ。敵意のある次元とはどのようなものか、その目で確かめるんだ」

 タムはその鞄を背負い、腰と胸にベルトを回して固定した。「他の次元と同じ要領ですか?」

 “理論家”は黒板のひとつに向き直った。「ああ。横の物入れに現地の金が入っている。ここの宿に泊まり、明日戻ってきてくれ。そうしたなら、幻影を実体化させる技を教えよう」

 「プロフトの定理ですか?」

 「全く同じものだ」

 彼は宿の情報が記された紙の幻影を作り出すと、手首のひとひねりでそれを掴み取り、タムに手渡した。

 “理論家”は聖域の中央に領界路を開いた。模倣宇宙を完全に掌握しているからこその技だ。その向こうには現実のイニストラードが広がっている。それが確かな現実の存在であることをタムは理解していた。“理論家”が鼻筋を軽くこすり、頭上の宇宙儀の一部が無へと消え去ったが、彼女は何も言わなかった。

 「行ってきます、先生。」

 「ああ」声をかけられ、タムは足を止めた。「無事でいてくれ。私たちが何のために戦っているのか、それを理解しておくことだ。君ならやれる」

 笑顔こそ見せないものの、タムは頷いた。領界路へと足を踏み入れ、そしてイニストラードの漆黒の原野へ踏み出す。彼女は身を震わせながら長い溜息をついた。

 ただの“理論家”以上の存在だった頃、あの男はまだひとりの人間だった。感情や記憶、心、痛みを有していた。けれどそれらを削ぎ落してしまった今は、以前よりも頻繁にこちらの精神へと遠慮なく踏み込んでくる。そしてこちらの意志に反する命令を与えてくる。かつてのあの男は、そんなことをしただろうか? あの男自身の他の側面がそれを引き留めていたのだろうか?

 輝く銀の月の下、タムは遠くに見える宿屋へと向かった。


 タミラが出発するや否や、“理論家”は牢獄へと続く階段を猛烈な勢いで駆け下りていった。これも今夜終わる。自分だけの力で成し遂げられる。

 確固たる意志で向かう。教え子の疑念が周囲に伝染してしまう前に、何が何でも実験を終わらせなければならない。だが目にするものすべてが、この多元宇宙の欠陥を語っていた。石材が放つカビの匂いは今もどこかおかしく、光の当たり方はあまりに弱弱しい。すれ違う職員たちの、幸福でありながらも空ろな表情――どこにも魂がないのだ。

 私のそれも、あの逸脱体のどれかが持ち去ったのか……?

 “理論家”はその仮定を押しやった。魂、灯。無意味にも思えるそのようなものが、何故そこまで重要なのだろうか? そしてなおも。なおも。

 荒々しい勢いで通路を進み、出て行けとオパール教授に怒鳴る。彼女が立ち去ると、捕虜ふたりの思考が脳裏をよぎった。

 片方は次々と罵倒をこちらの心に投げかけてくる。かすれた声――「瞼をしっかり開いて見なさい。そうでないとウルザの目で見ることになるわよ、ベレレン!」――それも無視する。

 だがもう片方は、今から何が起こるかを知っていると伝えてきていた。見世物ですね、と目の前の独房から聞こえてくる。自分は武器を持ってはいない。だが“理論家”は殺しのために武器など必要ない。

 錠を開けて中に入ると、神託者ジャズィは背筋を伸ばして待っていた。挑戦的な視線が見つめ返してくる。

 「ようやくですか?」その女性はうめいた。「さっさと済ませて下さいな」

 彼は立ち尽くした。確信が持てない。「私が間違っている可能性はあるのだろうか?」

 神託者は鼻で笑った。「自分の目で確かめなさいな」そして頭を前に傾ける。促しているのだ。

 “理論家”の両目が眩しく輝く。彼は神託者の精神へと飛び込んだ、そこで遭遇したのは全くの混沌だった。

 ふたつの多元宇宙が共に内破しつつある。一方がもう一方を、乱れた物質が麺のように絡み合う惨状へと変えていく。一方が他方を拒絶し、崩れ去る。ジェイスは失敗する。ジェイスは勝利する。ジェイスは47歳まで生き、不治の腫瘍で死ぬ。ジェイスは永遠に生きる。ヴラスカが戻ってきて、自分が悪かったと言ってくれる。ヴラスカはジェイスを討伐するための軍勢を率いる。タムはこちら側で戦う。タムは裏切る。ジェイスはこの先も逸脱体を切り離し続け、やがてはフォークの持ち方を覚えている部分だけが残る。ジェイスは不注意から自らに動脈瘤を作ってしまう。ジェイスは多元宇宙の上書きに成功するが、直後に別の動脈瘤に見舞われる。一方の多元宇宙がもう一方を上書きし、その過程で数兆もの命が失われる。あるいは全員が生き延びるかもしれない。苦痛はないかもしれない。耐えがたい苦痛かもしれない。すべては悪い夢かもしれない。両方の多元宇宙の全原子が崩れて消えるのかもしれない。あるいは――

 “理論家”は息を切らした。可能性という名の海に溺れているような気分だった。

 ジャズィは笑い声をあげた。「楽しい場所でしょう?」

 頭痛がぶり返すのを“理論家”は感じた。

 この女性を死に至らしめるための命令を準備する。 自分の舌を噛み切らせるか、自らの手で首を絞めさせるか、扉に頭を挟ませて何度も取っ手を引かせるか。

 神託者ジャズィは死なねばならず、自分はそれを見届けねばならない。実験を成功させるためにはそうしなければならないのだ。この女性の意識を辿って時を遡り、アルケヴィオスという次元の誕生を、ふたつの次元が衝突し融合する様を目撃しなければならない。その知識を得て、自分の多元宇宙を元の多元宇宙に縛り付ける技へと用いるのだ。

 “理論家”は光を帯びた手を伸ばした。床に頭を叩きつけろ、そう命じさえすればいい。

 「やりなさいな」その言葉とともに、“理論家”が神託者をどう殺すかという決断が、その女性の意識の中に現れる様が見えた。「何故ためらうのですか?」

 やるのだ。

 「怖気づいてしまったのですね? あなたいう存在が、ほんの少ししか残っていないからでしょう?」

 やるのだ。

 ジャズィが身を乗り出した。彼女が見ているものを、“理論家”もまた目にする。すぐ間近から、ひどく熱心に、じっと見つめているその視線を――

 「やめろ」神託者の未来視を間接的に感じ取り、彼は警告の声をあげた。

 神託者は驚き、鋭く息を吸い込む。この女性が自分の未来を真っすぐに見つめているのを“理論家”は感じた。「本当に、何もかもを最初からやり直したいのですね?」

 決意を揺さぶられ、彼は鋭く手を引っ込めた。

 やるつもりだった。本当にやるつもりだった。

 ジャズィの心の中に、ひとつの映像が見えた――“理論家”自身が、手を下ろす姿。神託者は、彼がその映像を見ている様を見ている。

 そして、彼はその通りにした。

 神託者は歯を見せて笑った。「失敗しようと成功しようと、あなたが成し遂げることを覚えている者はいませんよ。あなたの野心に感謝する者などいませんよ、“精神を刻む者”さん」

 “理論家”は屈辱と憤怒を抱えて踵を返し、激しい音とともに独房の扉を背後に閉めた。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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