MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 07

第7話 欠片を拾い集めて

Alison Lührs
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2026年9月8日

 

 ヴラスカは動けなかった。

 “探偵”は目を閉じた。彼が抱きしめてくるのをヴラスカは感じた。心に言葉が伝わってくる。『“理論家”を止めなければいけません。そのために、俺は死ななければいけません』

 「死なせるもんか」彼女は吐き捨てるように言った。

 「俺たちの肉体が死ねば、この多元宇宙が元のそれを乗っ取ることはなくなります。そのための計画を立てました。俺たち全員、何をすべきかわかっているはずです」

 「俺たち全員」とは、“理論家”以外のジェイスの全部分のこと。それがわかっているからこそ、ヴラスカの心は更に痛んだ。「お前が死ななくたって済む方法がきっとあるはずだ。何でそんなことをするんだよ!」

 「多元宇宙を消滅させようとしているあの呪文は、俺たちの肉体が生きていることが前提になっているからです」“探偵”はそう言い、ヴラスカを抱く腕に力を込めた。外套からイニストラードの雨の匂いが漂った。

 「もっと一緒にいられると思ってたのに」こぼれ落ちる嗚咽を、彼女はどうすることもできなかった。

 彼はヴラスカの頬を両手で包み、引き寄せた。「ごめんなさい。あの呪文の中でも、除去できる部分を除去する。それが事態を正す唯一の方法なんです」

 「何でだよ!」ヴラスカは声を詰まらせた。「またお前を失えってのか? 私がそれに耐えられるとでも思ってるのか?」

 差し込む光の中、ヴラスカはありのままの心を告げた。「知ってるか、お前が死んでから、お母さんとずっと過ごしてたんだ。辛い中を支え合って乗り越えてきた。片方が悲しくて動けない時は、もう片方がやることをやって。少しして、外に出るのも少しずつ楽になってきた。けどお前のことを考えない瞬間があると、罪悪感に襲われるんだよ。ずっと悲しんでなきゃ、本当に愛してなんてなかったみたいに感じて。それでも時々は……お前のことが、心の錨までにはならない時もあった。時々は、もっと楽に感じていられることもあった。いつかはもっと軽くなって、小さくなって……そのうち、つけてることを忘れる首飾りみたいになるのかもなって……」ヴラスカはそこで言葉を切り、次に続くものを探した。「でも、それって裏切りなんじゃないか? お前のことを忘れて、それでいいって思うなんて」

 “探偵”の声は落ち着いていた。「裏切り。その証拠はありますか?」

 ヴラスカは考え、だが答えられなかった。

 「ヴラスカさん、貴女が俺を裏切るとしたら、それはヴラスカさんが永遠に変わらなかった時だけです。喪服を着たまま百年を過ごして、俺がいなくなってどうしたいかを見つけないまま生きることです。それは、俺を三回殺してしまうことを意味します」

 彼女は納得を示して頷いた。納得することがどれほど耐えがたくとも。「こんなの嫌だよ、ジェイス。本当に……本当に、そうするしかないのか?」

 「ごめんなさい、ヴラスカさん。俺の過ちが、こんなに大きな代償を招いてしまって」彼はヴラスカの額に自分の額を押し当てた。「すべてを始めた時には、俺たちは、平和を買っているんだと思っていました。平和と、時間を」

 ヴラスカは目を閉じた。

 抱きしめられ、彼女の泣き声が空ろな講義室に響き渡った。それは他の者たちにも聞こえていると、何が起きているのかを彼らも察しているのだろうとわかっていた。だが気にしなかった。自分自身が死ななければいけないことは、彼もわかっている。ヴラスカは声をあげてむせび泣いた。


 やがて、ふたりは手を取り合って三人の所へとやって来た。アジャニとガラクはそれぞれふたつの座席を利用して座っており、チャンドラはひとつにすっぽりと収まっていた。彼らは戦術の話し合いを一旦中断した。

 “探偵”が切り出した。「俺の手に余る事態だが、多元宇宙の重なりを逆行させるための時間を稼ぐ方法は思いついた。そのためには、残りの俺を見つける必要がある。俺たちは皆の中に留まって、“理論家”のもとへ連れて行ってもらう。そうしたら、俺たちを本来の肉体へ統合する」

 チャンドラは反抗するように息を吸い込んだ。「ジェイスの一部を頭の中に乗せていけってこと?」

 「いいだろう」ガラクは低い声で言った。他の者たちは当惑して彼を見つめ、ガラクは肩をすくめた。

 ヴラスカは視線を床に落としたままでいたが、口を開いた。「“探偵”が私らに協力して欲しがってる。“理論家”を排除するには、残りのジェイスを見つけ出して元の肉体へ届ける。それしか方法はない」

 全員がヴラスカの言葉の意味を察し、黙った。だがやがてチャンドラがその恐ろしい思いを口にした。「排除するって……殺すってこと?」

 ヴラスカは顔を上げることができなかった。

 「他に選択肢はないのですか?」アジャニが静かに尋ねた。「心でさえ、癒やすことはできます。分かたれた君たちを元に戻す手助けができるはずです、“探偵”君」

 だが“探偵”はかぶりを振るだけだった。「すみません、アジャニさん。“理論家”はあまりに多くの過ちを犯しました。動き出したものはもう誰にも止められません。多元宇宙が生き残るためには、あいつを排除しなければいけません。肉体が滅びれば、あいつが作り出した偽の現実も消えます。俺は、死ななきゃいけないんです」

 アジャニは驚きに耳を伏せた。「そのような重荷を背負う必要などありません!」

 「あるんです」“探偵”はヴラスカの手に力を込めた。その感触に、彼女の胸は張り裂けそうになった。こんな作戦は嫌だ。絶対に嫌だ。

 「ふざけないでよ!」チャンドラは“探偵”に食ってかかった。「あんたは本当に自分勝手で、大げさで――アジャニ、邪魔!」心配して差し伸べられた友の手を振り払い、彼女は怒りに任せて“探偵”を指さす。「そんなことさせない! 絶対にさせないんだから!」

 “探偵”はため息をついた。「チャンドラ、あいつには勝てないって君もわかってるだろ」

 「嫌よ! もうこれ以上、友達にさよならなんて言わない! それもこんな形でなんて絶対に嫌! 内側から自分を殺すなんて、絶対にさせない!」

 ヴラスカはチャンドラを宥めようとは思わなかった。何しろ、同じ意見なのだから。

 「少なくともギデオンのは、咄嗟の行動だったでしょ! こんな気持ちにさせないくらいの分別があいつにはあったわよ!」

 「じゃあ、わかるだろ」

 「あれと違うわよ! あれは……あれは、自己犠牲でしょ」チャンドラは“探偵”へと一歩踏み出した。最初はためらいがちに、そして彼の首に腕を回してしがみつく。「馬鹿。この大馬鹿者」

 彼は言い返しはせず、淡々と告げた。「ギデオンがしたこととは違う。これは贖罪なんだ」

 ヴラスカは目を閉じた。その意味を悟り、胸が張り裂けそうだった。対価、税、そして彼が受けるべき死。

 それでも、彼の沢山の自己たちが戦う姿を思い浮かべると、ヴラスカの魂は痛んだ。一体どんな終わりのために? そしてそんな死は、どのようなものなのだろう? 息を詰まらせ、虚ろな瞳で、記憶をすべて消し去られて? 友に見守られることもなく、力尽き、何もかもを失って逝くのだろうか? これまでの行いを踏まえてもなお、ジェイスはそのように死ななければならないと?

 「あんたの一生で一番いい行いは、あんた自身を叩きのめすこと、って」チャンドラは嗚咽の中で笑い声をあげ、彼をさらに強く抱きしめた。「あんたなんて大嫌い。大嫌いよ」

 “探偵”は彼女を抱きしめ返した。「俺も、君が嫌いだよ」

 少しして彼は引いたが、両手はチャンドラの肩に置いたままでいた。「生き残るべきは、元の多元宇宙だ。俺たちが贖罪を果たす道はそれしかない」俺たち。ヴラスカはそれが、彼のあらゆる自己を指しているとわかった。

 「『贖罪』というのは、つまり過ちがあったということだ」ガラクは顔を上げることなく言った。「お前は、お前自身から世界を救おうとしている」

 そして今回は、ヴラスカ“探偵”の手を強く握りしめた。

 「やらなければいけない」“探偵”は決意を込めた。「他の誰にもできないことだ」

 あまりにも残酷な選択、だがヴラスカは自身の苦しみをこらえた。「“探偵”の話では、他のジェイスもこの計画のために団結するらしい。私らは塔の中でそいつらを探し出して、こっそり連れ出して、解放する。そうすればそのジェイスたちが“理論家”を中から滅ぼす。そうしたら……」その先は言葉を続けられなかった。

 ありがたいことに、アジャニが立ち上がった。そして歩み寄り、“探偵”の肩に前足を置く。「私たちが支えます」

 “探偵”は頷き、それからヴラスカへと向き直った。「準備はいいですか?」

 ヴラスカは頷き返した。“探偵”の輪郭が薄れ、青く冷たい光とともにその皮膚が蒸気へと変わり、一瞬のうちにその姿は消え失せた。上手くいったのか確信が持てず、ヴラスカは不安とともに身動きをした。

 『大丈夫です』心の奥深くに潜む声が告げた。『俺は、今までで一番貴女の近くにいます。心臓の血管よりも近くに』

 彼女は翠玉色に頬を染めた。

 『次の扉の先には罠があります。嫌なものを目にすることになります。俺たちが考えたくもないものを』

 ヴラスカは胸が痛むのを感じた。手のひらは汗ばんでいる。『この先、楽になることはないのか?』

 『ええ、船長。ありません』

 流す涙はもう残っていない。

 仲間と共に、そして愛する人を心臓の血管よりも近くに伴い、彼女は扉をくぐった。


 “理論家”は神託者を近くへ移動させるのだろうとタムは予想していた。そしてその通りだった。皆は自分を見つけてくれるだろうか? だが彼女は目の前の目的に意識を集中させた。果たすべき任務があるのだ。塔の底にあるジャズィの独房は空で、ヴェス教授の独房の外にはオパール教授が座していた。

 その白いドレスはきらめいており、背後の石壁を伝う水のようだ。彼女はヴェス教授の独房を隔てる鉄格子の前に座り、片膝の上で一冊の本を開いてパイプをくゆらせていた。タムが角を曲がって姿を現すと、オパール教授は喜びに眉を上げた。「タミラちゃん! こんな所に来てくれるなんて!」

 これまでにも嘘をついたことはある。そして嘘は上手だと自負している。だがタムはそれでも、オパール教授に対して嘘をつくことには気が咎めた。まるで、活気にあふれた修道女に嘘をつくようなものだから。「ジャズィ様の独房を片付けに来ました。手伝って頂けますか?」

 オパール教授は大げさな身のこなしで本を閉じた。「もちろんよ!」そう言って立ち上がり、うるさく音を立てる鍵の束を取り出す。

 彼女はジャズィのいた独房へと足早に向かい、何も疑うことなく中へ入った。その隙に、タムは本物のリリアナの独房の鉄格子へと近づいた。

 「鹿のインフルエンザを治す薬を作ろうと思っていて」通路の先からオパール教授の声が届いた。「でも、ペガサスたちに餌をやってからでもいいかしらね」

 ああ、申し訳ないとは感じていない。

 タムは格子の隙間から、単純なものをひとつ投げ込んだ――鶏肉の残りを。

 「今のは何?」オパール教授が呼びかけた。

 リリアナの独房に閃いた紫色の光がその答えだった。タムは耳を澄ます。何かがカタカタと音を立てて動き出し、石の床を駆け抜け、呪詛の大元を解除した。

 とても賢明なタムは、数歩後ずさった。

 心の底からぞっとするような金切り声。アンデッドと化した片翼の鶏が、リリアナの独房から飛び出して通路を駆け抜けていった。オパール教授が悲鳴を上げるが、その声は「ネズミの奔流」としか表現しようのない光景に飲み込まれた。腐敗の度合いも様々な数千匹というネズミが石壁の隙間から這い出て、巨大な彫像の口から溢れ出して、天井から降り注いでジャズィの独房へと殺到した。そしてオパールの悲鳴が最高潮に達し、ようやく幕引きの時が訪れた。

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アート:Marta Nael


 ネズミたちの圧力で檻の鉄格子が弾け飛び、リリアナが姿を現した。その手は紫色の光に輝き、顔には狂気じみた歓喜が浮かんでいる。彼女は食べかけの手羽肉を掲げ、そして至福のうめき声とともに噛みちぎった。

 「もう果物にはうんざりだったのよ」骨についた肉を残らずしゃぶり尽くす。「おやつをありがと、お嬢さん」

 はしたない、タムは少しそう思った。

 ジャズィの独房から、オパール教授がよろめきながら出てきた。その身体は虹色の光を放ち、ネズミの群れを押し留めている。それでもそれらは後をついて来ていた。彼女の身体は直りかけの引っかき傷にまみれ、白いドレスは不穏なほど鮮やかな赤に染まっていた。

 リリアナは自身の分身に向かって突進し、虹色の防護魔法を突破するとオパールの喉を両手で掴んで押し返していった。ふたりの姿は無人の独房へと消え、ネズミの走り回る音は苦しそうな窒息音にかき消された。その音にタムは吐き気を覚えた。そしてその後に訪れた静寂は、さらに耐えがたいものだった。

 リリアナが再び姿を現した。タムを見つめる目に感謝の念はもはやなく、紫色の瞳には虚無だけが宿っていた。「やっぱり、あなたはあいつなのね」暗闇の中、リリアナは紫色に燃える手を鉤爪のように掲げた。ネズミたちがタムを取り囲む。「あいつの血、あいつの骨髄。あなたのあらゆる部分が、あいつそのものだわ」

 タムはリリアナの目をまっすぐに見つめた。「だから何ですか?」

 リリアナもまっすぐに見つめ返した。教授は何かを咀嚼している様子だったが、タムはその内容までは推し量れない。やがてリリアナの眼差しが和らいだ。「まだお子様ってことよ」

 タムはすねたように言った。「私、もう二十歳を過ぎています」

 「あらそう、私は二百歳を過ぎているわよ。百歳にもなっていない子は、私からすれば全員子供みたいなものだわ」リリアナの手から光が消え、ネズミたちが壁の奥へと退いていく。タムはほっとして息を吐き出した。屍術師も溜息をついた。「さて。どうするつもり、ベレレン二世ちゃん?」

 「“理論家”はもう止めることはできません」

 「なるほどね。あなたにはあいつの非凡な才もあると」

 それが皮肉だということはわかったが、タムは無視した。「あの人の肉体を死なせなければなりませんが、誰も近づくことはできません。遠くから止める必要があります」

 一瞬、リリアナの顔が引きつった。嫌悪と迷いが入り混じったような表情。「私に、ジェイスを殺せって言うの?」

 タムの意志と決意は鋼のように固かった。創造主はもはや存在せず、沢山の破片へと分かたれてしまった。残っているのは、あらゆる世界を滅ぼそうとしているあの男だけ。「ジャズィ様が殺されて、事態がさらに悪化する前に、あの人を止めて欲しいんです」

 リリアナは唇を噛んだ。そして姿勢を正し、両肩を回す。手首を素早く動かすと、背後の独房の中で何かが動く音がした。オパール教授がその顔に笑みを浮かべて姿を現した時、タムは驚いて飛び上がらないよう全力を尽くした。

 「ゾンビですか?」

 「リッチよ」リリアナはオパール教授にそう喋らせた。「遠隔操作ができるように、少しおまけをつけておいたわ」

 タムは告げた。「もうすぐ世界の重なりが始まります。私は外に出て、そこから援護するつもりです。教授ならあの人に立ち向かえる力がありますよね。必要なことは何でもして下さい」

 本人と複製の両方が、一瞬の弱さを見せた。「あいつならよく知っているわ。説得してみるつもりよ」

 リリアナがその感情を振り払う様は、まるで不快なセーターを脱ぎ捨てるかのようだった。そしてリリアナふたりは甘ったるい皮肉を込め、声を揃えて毒づいた。

 「「さあて、元彼をボコしに行きましょうか」」


 “探偵”の足枷を空しく後に残し、一行は次の部屋へと足を踏み入れた。そこは薄暗い通路で、床には巨大な根が脈打っている。壁はわずかな蝋燭の明かりの中でぎらついており、その表面では機械が輝きを放っていた。ファイレクシア化の光景に、ヴラスカは古傷が疼くのを感じた。遠い昔の悪夢として片づけるには、あまりにも新しい記憶。それでも、“探偵”の存在感は確かに傍にあった。過ぎ去る不穏な光景について言葉を交わす、同伴者としての気配が。

 『ここにいる俺は、ヴラスカさんが完成化させられていた頃の俺です。あいつが何よりも捨てたがっていた俺です。理由はすぐにわかります』

 「“探偵”が言ってるよ。ここにいるのは完成化したジェイスだ」

 「完成化したジェイスは、こんな素敵な場所で何してるの?」チャンドラは笑ってみせた。金属の手が突き出た壁から身を離す。「“探偵”に伝えてくれる? ここのジェイスはとんでもなく厄介な奴だって」

 『聞こえているよ』

 「聞こえてるってさ」ヴラスカは諦めた様子で言った。仕方ない、通訳は引き受けよう。

 「面白いじゃない。ねえ“探偵”、ここには何があるの?」

 ヴラスカはこの記憶の場にはいなかった。当時、自分は血にまみれたラヴニカの街路を、人々の目を潰しながら好き勝手に突き進んでいたのだから。

 『ここに何があるのか、お前は知ってるのか?』彼女は率直に尋ねた。

 “探偵”の反応は申し訳なさそうだった。『知らないんです。俺たち、その部分は切り離してしまったので』

 『健全だな、ベレレン。至って健全だ』ヴラスカは溜息をついた。胃袋が不快にのたうつ。

 『計画に乗り気じゃないんですね』

 『ああ、乗り気なもんか。お前に死んで欲しいわけがないだろ。それも、あんなやり方で。そうしなきゃいけないのかよ』

 彼女は最悪の想像をごくわずかだけ見せた――身体を内側から、精神から滅ぼすというのはどういうことか。死ならこれまでに何度も目にしてきた。転がり落ちる瞳。かすれた声を発するも、それを向ける相手が誰なのかはもうわからない。呼吸ができない。痙攣しながら、苦痛に満ちた忘却へと引きずり込まれていく……

 “探偵”は安心を、温もりを返した。『それが正しい行いなんです。痛みはあるでしょうが、成し遂げなければいけません。元の多元宇宙が生き延びるためには、俺が死ななければいけないんですから』

 その言葉をどう感じたかを、ヴラスカは隠そうともしなかった。

 チャンドラが驚いて息を呑む音に、彼女の意識は引き戻された。

 前方に、巨大な樹木の下に広がる空間に、エリシュ・ノーンがいた。輝くその巨躯が次元壊しの巨大な根にまたがっている。その目の前には完成化したニッサが浮かび、彼女の背からはもう一対の腕が伸びていた。そしてノーンの傍らには、同じく完成化したジェイスの姿もあった。

 気付いたかのように、彼から伸びるケーブルがヴラスカへと向き直る。頭部もゆっくりとそれに続いた。ヴラスカは動けず、だがそれに気づく間もなく、チャンドラが雄叫びとともにニッサへと跳躍した。背後からアジャニがノーンへと駆けた。ヴラスカはその場に立ち尽くしたまま、完成化したジェイスの姿を恐怖とともに見つめた。ジェイスは不敵かつ満足げな笑みで応え、ノーンの隣に手を置いた。

 「本物ではない!」ガラクが背後から叫んだ。「幻影だ! ジェイスはそいつらの中だ!」

 ヴラスカははっとした。ガラクの叫び声にチャンドラは足を止めたものの、アジャニは勢いを緩めなかった。

 彼は斧を掲げ、ノーンへと振り下ろした。だが相手は片方の手首だけでその刃を受け止めた。アジャニはその衝撃をこらえて押し返そうとした。尾を激しく振りながら力任せに距離を詰めていく。

 「ノーン!」アジャニは吠え、薙ぎ払ってきた相手の指先をかろうじて回避した。ふたりの間の宙に白い体毛が舞った。

 「幻影だ、アジャニ!」ガラクが叫び、突進してアジャニを突き飛ばそうとした。レオニンの方はそれを回避してうなり声をあげ、同時にガラクが両手でアジャニの斧を掴んだ。

 ヴラスカは自分が動けることを思い出した。一瞬、ファイレクシア化したジェイスと視線を交差させる。向こうはすべての瞳でこちらを捉えているが、それは偽者だと彼女はわかっていた。傲慢で従順な幻影。本物のジェイスはこの部屋のどこか別の場所にいる。

 あいつは身を潜めている。ゴルゴン特有の直感で、ヴラスカは彼の血の匂いを嗅ぎ分けた――他の者たちの気配を越え、その特別な、馴染み深い匂いを。そして背後、部屋の奥まった一角に、その気配があった。

 「“探偵”!」彼女は大声で呼びかけた。

 “探偵”は辛そうな様子で答えてきた。『見えています』

 そして“探偵”が命じると、完成化したジェイスの本物が姿を現し始めた。地面にうずくまり、輝く剣を胸から引き抜こうとしている。その顔は苦痛に歪み、唇の端や震えるケーブルからは黒い油が流れ落ちていた。凄まじい決意の表情。ヴラスカと視線を合わせたその瞳には、これまで彼の中に見たこともないような激しい炎が燃えていた。

 「今行きます!」彼は咳き込み、体内の油の半分を吐き出した。怒りを込め、黒く汚れた歯を食いしばる。「今行きます、船長……」

 『俺たちは破滅する運命にある。それをわかっていても、です』ヴラスカの脳裏に声が響いた。

 目の前のこれが何者かをヴラスカは把握した。あいつの最も暗い部分――ベレレンという存在の根底にあり、自身の最大の成功を阻み、その心を最も重く圧迫してきた存在。その自己の名が、溺れる獣のようにヴラスカの意識へと沈み込んでいく。“虚無主義者”。

 ヴラスカは彼へと駆け寄り、両肩を掴み、そして頬に手を添えた。背中から生えたケーブルが一斉に彼女の方を向いた。金属の虹彩越しであっても、その決して屈することのない意志が見てとれた。

 「今度は私がお前を救う番だ」約束するようにヴラスカは言った。一瞬だけ、額を触れ合わせる。完成化されたジェイスの肩から力が抜け、その姿が消えた。

 頭の中で何かがこすれる音がした。冷ややかな金属の感覚が、イニストラードの防水布に素早く包み込まれていくような感覚。

 『もう大丈夫です』“探偵”が言った。『俺が確保しました』

 「アジャニ、もういいのよ!」チャンドラが声をあげた。だがレオニンはガラクの拘束の中でもがきながら、必死にエリシュ・ノーンへ近づこうとしていた。

 ファイレクシアの世界樹が光とともに脈動した。その内部のどこかで生じた凄まじい轟音に、全員が地面へと叩きつけられる。ノーンは立ち、変貌したニッサの身体を持ち上げた。眩しさに目を細めながらもその場を離れまいと必死のチャンドラと、全力でアジャニを止めるガラク――

 「行けるぞ!」ヴラスカは叫んだ。「私が確保した!」

 詳しく言う必要はなかった。長居は不要とばかりに、チャンドラは部屋の奥にある何かに向かって駆け出した。ガラクは渾身の力でアジャニを抱え、引きずりながら後を追った。彼らに続くヴラスカの目に飛び込んできたのは、ヴリンの魔道士輪を小型化したようなものだった。

 『ポータルです』“探偵”が言う。『中へ!』

 議論は不要だった。

 ジェイスの人生における最悪の日を後にし、ヴラスカは彼の断片ふたつを携えて脱出した。

 ポータルを吹き抜ける涼やかな風を越えたそこは、大きく開けた空の下だった。ヴラスカが足を踏み出すと、夏の強い湿気を感じた。

 ここで陽光は凝縮されたようで、熱気が突き刺してきた。空気は密林のように濃厚だった。重力を無視した多面体が宙に浮かび、一行が立つ草原の縁は木々で縁どられている。果てしなく広がる青い空には、石造りの奇妙な構造物が無数に漂っていた。ゼンディカー。

 『ひとつひとつ、ポータルをくぐって次へ向かうんです』“探偵”が言った。

 ガラクは膝をつき、指を地面に突き刺して土を少しだけ掘り起こし、匂いを嗅いだ。「エルドラージが近くにいる。正しくはエルドラージの幻影、だが」

 ヴラスカは少しだけ勝手がわかってきた。脳内の科学者ふたりに尋ねる。『エルドラージについては何を知ってるんだ?』

 “探偵”が答えた。『次元を解体する存在、と言われています』

 “虚無主義者”答えた。『存在意義なんてない怪物です。例外が一体いますが、ここにはいません』彼の喋りにヴラスカは興味を惹かれた。ジェイスの悲観的な物言いは常に苛立たしく、同時にどこか滑稽なものでもあったために。

 同行者たちが身構える様子を眺めながら、彼女もナイフを取り出した。『例外ってのはどいつだ?』

 『エムラクールです。いえ、ここにはいません。けれど、その野蛮な同胞はいます』“探偵”が説明した。

 『あれらを滅してその苦しみを味わいませんか、ヴラスカさん』“虚無主義者”が促した。

 ヴラスカは何も言わず、だがその励ましは嫌ではなかった。思わず笑みが浮かぶ。あの男のこの部分は、相変わらずどこか奇妙なほどに可笑しい。

 何かが木々の間をうごめいていた。ガラクとアジャニは動きを止め、地平線へと視線を向けた。

 ノーンからはもう離れたとはいえ、アジャニの体毛は逆立ったままだった。彼は耳をぴくりと動かし、ヴラスカを一瞥した。「もう頭は冷えています。すみませんでした。何が現実であるかを見失ってしまいました。エリシュ・ノーンは今なお私の悪夢を支配しているのです」

 彼女はアジャニの腕を軽く叩き、囁きかけた。「それは私もだ」

 「声がする」ガラクが言った。そして身を屈め、近くの背の高い草むらへと向かう。

 「歌う都だ」ヴラスカは悟った。「出口をそこに隠したんだろうな」

 草の中で身を低くしながら一行は前進した。聞こえてくるのは遠くの話し声と、足元の虫の鳴き声だけだった。熱気がヴラスカの触手の髪をちりちりと刺激するが、彼女はこらえた。怪物たちに姿を見られては困る。

 『ニッサがいつも言ってたっけ。あれ以来、あいつを信用しなくなったって』

 『お前のことか?』ヴラスカは脳内のジェイスたちに尋ねた。

 『何の話ですか?』と“探偵”。

 『さあ』と“虚無主義者”。

 ヴラスカは心を落ち着かせた。自分が顔をしかめているのがわかる。ざらついた草が指先をかすめ、可能な限り音を立てずに歩くが、さらなる物音が心を満たしていく。

 『あの魔女は塔のどこかにいる。俺に呪いをかけたように、俺も呪いをかけてやる――』

 『――理性を捨て、衝動に身を任せるべきではなかった。ノーンはもういない。あの者が再び誰かを傷つけることはない――』

 『――責めることはできないけど、あいつは救うべきよ。あれでもまだいい奴なんだから――』

 心臓が高鳴り、ヴラスカは訝しんだ。歌う都へと至る別の道を探した方がいいのでは?

 「ヴラスカ、いい加減にしてくれない?」チャンドラが吐き捨てるように言った。

 「私は何も言ってないが」

 『じゃあ、なんで今――』

 『――明白に――』

 『――テレパシーで無駄口か――』

 『黙れよ、お前たち!』ヴラスカは自身の心へと叫んだ。

 四人全員が足を止めた。

 そして全員の脳裏に、内なる警報が激しい不協和音として鳴り響いた。

 『記憶の罠だ。他人の心の声がどうやっても聞こえてくるんだ!』“探偵が全員へと告げた。『集中して、思考を静めてくれ。聞こえてくるのは自分たちの声だけじゃない!』

 ヴラスカは自身の呼吸音に意識を集中させ、心を透き通らせようと試みた。低いざわめきが意識の端を苛立たせるが、それは何も考えまいと必死になるチャンドラの気配だった。

 古代のものらしき廃墟が近づいてきた。そのアーチをくぐり抜けた瞬間、脳裏の騒音は限りなく混沌としたものへと変化した。

 それはあまりにも多すぎる声や思考の響きだった。群衆が苛立たしい鼻歌をうたう声、子供がたどたどしく文字を練習する声、俳優が独白を暗記する声、戸締まりをしただろうかと思い出そうとする女性の呟き声、空想上の口論を繰り広げる男性の声、気まずい出会いを回想する女性の思い、本を読む者の気配――それらが全員の心に浴びせられた。

 ガラクがうめき、アジャニは息を漏らした。四人は廃墟の中を進もうとするが、次々と足を止めてかぶりを振るだけだった。

 『これはテレパシーだ』ヴラスカは自らに言い聞かせたが、それは全員に伝わってしまった。

 『常に静寂を保つには』“探偵”と“虚無主義者”が声を揃えた。『絶え間ない努力が必要なんです』

 そしてそこに、遺跡のアーチの下に、もうひとりのジェイスが身を縮めていた。

 目は見開き、だが両手で耳を塞いでいる。顎にそって短く無精髭が生えている。このジェイスは石造りのアーチの脇に背中を丸めて座りこみ、身にまとう外套と革は長旅にくたびれていた。何かに驚いているような瞳は、頭上の壁に向けられている。ヴラスカが見上げると、その壁は石塊が沢山積み重なったもので、物理的な構造物としてはありえないほど高く伸びていた。見つめていると幻影は薄れ、隙間から青い空が覗き始めた。彼は騒音に抗おうとしているが、幻影で精神への攻撃を遮ることはできない。

 ここは、こいつを苦しめるために作られた場所なのだ。

 ヴラスカはこのジェイスを知っていた。心という瓶の蓋を固く閉じているジェイス。最も孤独なジェイス――自らを閉ざしたジェイスだ。何故なら、親密になることはあまりに大きな危険を伴うから。扉の取っ手を強い力で押さえたなら、その向こう側の者たちは去っていく。

 「お前は、制御役なんだな?」ヴラスカはそう尋ね、彼の隣に膝をついた。チャンドラもやって来た。

 「このジェイスは、どこか特定の時期のジェイスって訳じゃないの?」

 “探偵”が答えた。『俺たちは機能別に分かれた。外見は、その資質を一番よく体現していた当時の年齢を反映している』

 「何もかもを封じ込めて、強く心を閉ざしてた時のお前だ」ヴラスカはあえて口にした。ふたりにとって、それは辛い時期だった。彼女の記憶に漂う気まずさを感じ取ったのか、他の者たちは落ち着かない様子で身じろぎをした。

 そのジェイス、“番人”はヴラスカへと視線を向けた。瞳には不安、そして一瞬の光。その刹那、全員の頭の中の雑音が激しさを増した。

 チャンドラは手を伸ばし、彼の腕に触れた。「もういいのよ」

 “番人”ははっと驚いた。とはいえ、その声は雑音に負けてほとんど聞こえない。

 「あんたの務めを果たしなさいよ、“番人”」繋がりを通して浮かび上がってきたその名を口にし、続ける。「この音を止めて」

 “番人”は不安に息を呑み、その瞳に鋼の青い光が宿った。まるで金庫のような。

 心が祝福の静けさに包まれ、全員が安堵の溜息をついた。

 そのジェイスは、“番人”は、立ち上がった。口を固く閉じ、瞳は冷ややかに。脆さも、痛みも、柔らかな心も、何もかもを誰の手も届かない彼方へと封じ込めて。

 「そうよ、それがあんたよ」チャンドラは温かみを込めて言った。「やるべき仕事がある時のあんたは、そう悪くないわ」このふたりの間には、長く複雑な過去がある。ヴラスカは思いを馳せつつ、その胸中が他の者たちに伝わらずに済んだことに安堵した。

 “番人”はチャンドラへと向き合った。誓いを交わし合った友人に。「次はどうすればいい?」

 彼女は自分の頭を指し示し、今にも口論を始めんばかりの早口で言った。「中に入るんでしょ?」

 「チャンドラ、俺に言いたいことはあるかい? 何でも受け止めるよ」

 彼女は溜息をついた。十年分の想いを噛みしめているのは見ているだけでわかった。やがて、チャンドラはその言葉を口にした。「あんたって最低よ、ジェイス」

 彼は頷いた「ああ。もう少し付き合ってくれ」

 一瞬、ふたりは互いを見つめた。

 「で、あんたはこれから自分のケツを蹴っ飛ばして何とかするの? 英雄として名を残すの? 全部あんたのせいでしょ。また自分だけ突っ走って、中途半端なやり方で勝ってみせるつもり?」

 “番人”はかぶりを振った。「手柄は君たち全員のものだと思うよ。今、俺を救ってくれているんだから。俺は特別な存在なんかじゃない」

 チャンドラの顔が感情に歪んだ。ヴラスカもまた、痛いほど感じずにはいられない。このジェイスはあまりにも……謙虚なのだ。そうならざるを得ないのだ。このジェイスは、自分自身の才能と絶えず格闘し続けているその部分なのだから。

 “番人”は居心地悪そうに身じろぎをした。「多分、俺はもう大丈夫だ」

 「もっといい友達になれなくてごめんね、ジェイス」“番人”がフードを脱ぐと、チャンドラはまくし立てるように言った。

 彼は目を閉じ、そして消えた。

 紅蓮術師はかぶりを振り、そして怪訝な顔をした。「わ、変な感じ」

 そして不意に、チャンドラの目が大きく見開かれた。目元に涙が湧き上がり、満面の笑みを浮かべる。

 『今のはどういうこと?』ヴラスカは自身の脳内にいるふたりのジェイスに問いかけた。

 『あいつは、チャンドラを許しているんです』“探偵”が言った。

 チャンドラは涙を拭った。「このジェイスは、他の全部を遮ってるの。こいつが焦点で、目隠し役でもある。他のジェイスたちに伝言よ。次のジェイスから身を隠せ、だって」

 隠れなければいけないほど酷いもの? それは何なのかとヴラスカは“探偵”に尋ねようとした。だがその質問は遮られた。

 『貴女なら大丈夫です』“探偵”が囁き、そしてヴラスカの意識の内にあるふたつの気配が遠ざかっていった。まるで視界から消え去るかのように。答えは、自分自身で見つけなければいけない。

 “探偵”が示唆した内容をヴラスカは考えた。自分は意図的に、あいつの内の闇から目を背けた。深い罪悪感に苛まれたが、無視したのは当然のことだった。愛する人のそんな部分は誰だって見たくはないだろう? もし自分も沢山の断片に分かれたなら、その幾つかは怪物のような姿になるのだろうから。

 だがその考えは不安をかき立てた。自分の能力は、自分を構成する一部でしかない。同じくジェイスの能力もまた、ジェイスという人物を構成する一部に過ぎない。だというのに、これまでに自分たちが見てきたジェイスの断片の中に、テレパスとしての彼そのものと言える部分は存在しなかった。その事実についてヴラスカは思いを巡らせた。

 ゼンディカーの熱気が首筋に刺さる。陽光を浴びて肌が疼くのを感じる。脳内の不協和音は静まったが、歩みを止めるわけにはいかない。手遅れになる前に、神託者を見つけ出さなければいけないのだから。

 「行きましょう」アジャニが告げた。「ですがヴラスカさん、次のポータルに入る前にひとつ……この計画は、痛みを伴うものになるはずです」

 彼女は息を呑んだ。アジャニが何を言おうとしているのかはわかっている。「私が一生で見るものの中でも、最悪のになるだろうね」

 「ジェイス君が最期を迎える時、それを見届けるのは貴女ひとりではありません」

 ジェイスは自身を内側から滅そうとしており、アジャニはそれを容認している。事態がこれほどまでに重大だからこそ、平然と。ヴラスカはそれが忌々しかった。

 「とはいえ」アジャニは付け加えた。「彼が下した選択に対して、貴女が無力なわけではありません」

 「私が?」

 「ゴルガリの女王ヴラスカは、決して無力な存在などではないでしょう?」

 アジャニの髭がぴくりと動き、彼は歩き続けた。その言葉の意味を推し量るのはヴラスカに任された。

 生い茂るシダや蔓をかき分け、遺跡を取り囲むように生えた木々の下へ進むと、そこには彼女たちを待ち受ける魔道士輪のポータルがあった。

 ヴラスカは身構えた。他のベレレンたちが撤退を促されるほど強烈な記憶とは?

 そしてポータルを通り抜けるや否や、襲いかかってきた激しい頭痛に全員がよろめいた。側頭部が脈打つような耐えがたい痛みに、ヴラスカも歩みを止める。口の中に鉄の味が広がり、視界は曇った鏡のように霞んでいく。

 ヴラスカはこの光景を知っていた。あいつの目を通してここにいたのだから。

 屋根の上。

 空からは土砂降りの雨。それは荒れ狂う灰色で地平線を覆い隠し、建造物の側面から溢れて流れ落ちている。その光景の中心に鎮座するのは、一体の巨大なスフィンクスだった。

 アルハマレット。

 その圧倒的な存在感が屋上を支配していた。横たわっていてなお巨体で、広げた翼の端は屋根を越えて垂れ下がっている。

 だがそのスフィンクスは生きてはいない、本当の意味では。身をひきつらせ、不快な音を立てて翼を屋根に叩きつけている。そしてその口は、不規則な律動でひたすらに空気を吸い込もうとしていた。まるで吸い、吐き、また吸うという順序を忘れてしまったかのように

 そのすぐ前に、ひとりの少年が震えて立っていた。「こんなに簡単だったなんて」――怯えた様子で呟く言葉を、ヴラスカはかろうじて聞き取った。「こんなに、簡単だったなんて」

 頭を襲う激痛に耐えかね、ヴラスカは膝をつく。アジャニとチャンドラもよろめいていた。

 ガラクは? 見ると、ガラクはその少年へと歩み寄った。


 その少年は華奢で、細い肩はのしかかる罪悪感に押し潰されそうだった。ガラクはその気持ちがわかった。獲物が顔見知りであるなら、殺しという行為は全くの別物になる。死にゆく獣の喘ぎは知っている。身体が獣であろうとも、人の顔からその音が発せられることの異様さも理解している。スフィンクスは身をよじりながら絶命し、少年はただ立ち尽くしてそれを見つめていた。

 頭は万力で締め付けられているかのようだ。視界は光の輪に縁どられが、どこを見ても輝きと痛みがついて来るが、それはさほど重要なことではない。

 ガラクは少年のそばに膝をついた。少年は彼の方を向いた。

 「俺は、誰なんですか?」恐怖に震える声で少年は呟いた。その瞳は大きく見開かれていた。氷河湖のような、澄み切った青色。

 ガラクは答えなかった、今はまだ。ベレレンの過去のこの部分は知らない。それでも、目の前の事実にガラクは動揺した。自分自身もまた、何者であるかを忘れてしまうことは時折ある。けれど、こんなにも若くして忘れてしまうとは?

 少年はすすり泣いていた。「俺のこと、知ってるんですよね! お願いです、助けてください! 自分が誰なのか、わからないんです!」

 「ああ、知っている」ガラクは答えた。声の調子は和らげず、とはいえこの少年を怖がらせることのないよう、可能な限り抑えて。「だが、まずはその呪文を止めてくれ。俺たちの友達が苦しんでいる」

 奇妙なものだ――彼らをこんなにも自然に、友と呼ぶことができるとは。

 少年はきょとんとした。「友達、俺たちの……」

 「お前には沢山の友達がいる。相手を大切にするお前の心は、いつかそいつら全員を救うだろう」

 少年は身を寄せ、ガラクの胸鎧の革に額を押し付けた。警戒したくなるほどの親密さ、だがガラクは動かなかった。他の若者たちを、そしてあの双子を思い浮かべる。悲しみに沈む空ろな少年のために膝をつき、手を差し伸べる役目に果たして自分はふさわしいのだろうか? ああ、そのようなことを自問した経験は一度たりとてなかった。

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アート:Eelis Kyttanen


 ガラクは同行者たちへと振り返り、雨音や自身の偏頭痛の痛みに負けじと、低く響く声で言った。「俺がこの子を守ろう」

 そして、柔らかな青い閃光とともに、少年のジェイスは彼の心へと消えていった。

 『俺は“白紙”です』その少年は囁いた。『いつでもやり直せるってわかっている部分です』

 『俺もそれはよくわかっている』ガラクは答えた。テレパシー特有の不思議な感覚で、腕に鳥肌が立つ。『俺も、新たな始まりを通ってきた』

 『また新しく。俺もまた新しく。ありがとう、ガラクさん』

 呪文は解けた。頭痛が消え失せ、同行者たちもふらつきながら立ち上がる。雨はわずかに弱まり、だが別の音が彼らの動きを中断させた――不気味極まりない喘ぎ。

 苦しげに息を吸い込み、スフィンクスが再び立ち上がった。不自然な、決して滅びることのない記憶。それが翼を広げると、地平線のすべてが覆い隠された。

 この獣は死んではいない。

 当然だ。悪夢の中の獣が死ぬことはない。

 ガラクは斧を抜き放ち、それを振り下ろそうと一歩踏み出した。だがその瞬間、不意に悟る――振り返り、屋根の縁へと歩み寄り、そこから飛び降りなければならない。

 その思考の出所はわからなかったが、頭の中で何か間違ったものが渦巻いているのを感じた。スフィンクスの傍らには魔道士輪がある。だがその不穏な感覚は、脱出口から注意を逸らしてしまいそうなほど大きかった。

 ガラクは歯を食いしばってポータルへと駆け、だが途中で足を止めて屋根の端へと引き返した。衝動をこらえ、チャンドラを掴む。そして再び身を翻し、全身全霊でその抗いがたい衝動を押し返した。彼と揺るぎないアジャニ、そしてチャンドラは互いに力を合わせ、魔道士輪へと身体を押し込んだ。

 だがポータルに入るまさにその瞬間、彼らは見た――屋根の端に立ち、あのスフィンクスに強いられて両腕を広げるヴラスカの姿を。そして、まるで階段の最後の段から踏み出すかのように何気なく、彼女は身を投げた。

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アート:Ekaterina Burmak



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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