MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 09

第9話 恐れることなく

Alison Lührs
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2026年9月10日

 

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アート:Adam Paquette

 世界と世界が重なりを開始した。

 ラヴニカ次元、ブリキ通り上空の高架道路にて。ラクドスのとある道化師集団が休憩のために外に出た。彼らが見上げると、空に幽霊のように、第二のラヴニカが浮いていた。屋根と屋根、尖塔と尖塔が完璧に対応している。道化師たちは道路の中央に駆け、指をさして叫んだ。指をさして叫ぶのはラクドスの道化師の典型的な手法なので、最初はほとんど無視された。だがやがて、ひとりの銀行家が手綱を引いて乗騎スラルを止め、上空で逆さまに映る自身のドッペルゲンガーを目にした。

 ブルームバロウでは、木々のすぐ隣に新たな木々がうねった。奇妙なドッペルゲンガーたちが根から梢へと駆け上がった。リスフォークが降りてきて、不吉な警告や恐ろしい報告を早口で告げた。自分たちの世界の隣、ほんのわずか、前足ひとつほど西にずれた場所に、もうひとつの世界が現れつつあるのだ。その幻は捉えがたいものだったが、目をこらしてメイブルが見るとそこには木々の影、我が家の影、そして愛しい子供たちの影があった。

 最も強い動揺が走ったのはアモンケットだった。雪を抱くピラミッドがナクタムンの上空に幾つも現れ、今にも降下しようとしていた。大気は冷え、明るい日中にもかかわらず夜のように涼やかだった。サムトは身震いをし、導きを求めて傍らのハゾレトを見上げた。すると神は彼女へと、そして傍らのデジェルへと頷いた。彼女たちは頭上の幻影に対峙すべく、冷気漂う昼の街へと踏み出した。

 時を同じくしてドミナリアでは、ダニサ・キャパシェンが目の前の広大な平原に幽霊のような軍勢を見た。大規模で威容を誇り、その足元には沼地らしきもの、そして軍勢の中央には多くの牙を持つ巨大な獣が一体伺えた。ダニサは剣を抜き、頭上の天使の軍勢へと攻撃の構えを命じ――だがまだ決断はせずに見守った。軍勢の中央が動き出し、それらの姿が次第に固まっていった。


 ふたつの世界が頭上で重なり合う。タムが塔から飛び出すと、この世界が対の世界と融合していくのが感じられるほどだった。真のストリクスヘイヴンが梢のように頭上に広がり、周囲のあらゆる場所で世界が完全な姿へと溶け合っていく。

 間に合わなかった。ジャズィ様はもう亡くなられたに違いない。

 私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ……

 タムの感覚が告げていた。この重なりのうちでも、最初に融合を始めているのはヘクスヘイヴンだ。それは呪文そのものに織り込まれており、タムは指先でそれを感じ取っていた。人々が融合するのは最後だが、そのためには全員が同じ場所へと流れ込まなければならない。案の定、駆けるにつれて、新たな光景が次々と現れていった――ストリクスヘイヴンの生徒たちが幽霊のような姿で現れ、そして実体化し、既存の建物の隣に新たな建物が割り込み、さらには鳥や獣さえも霊の状態で溢れ出し、形を得て飛び去っていく。ヘクスヘイヴンとストリクスヘイヴンがひとつになろうとしていた。

 代替の世界と元の世界が絡み合う。塔の外壁の半分は全く異なる石材へと変質した。迷い込んだストリクスヘイヴンの生徒たちがそこに現れ、怯えて混乱するままにさまよう。空ろな目をしたヘクスヘイヴンのドッペルゲンガーたちは、それら生徒たちやストリクスヘイヴンの馴染み深い光景を見るや否や、容赦なく襲いかかった。タムは身を隠そうと駆けたが、向こうで知る教授が取り囲まれている姿を目にした。デリアン・フェルは逃げていなかった。何故なら逃げる必要などないために。黒いローブをひるがえし、冷徹な意志を宿して歩く。その一歩ごとに不吉な様相の植物が周囲に現れ、幅広の葉をつけた蔓が頭上高くへと伸び、教授がわずかに指先を動かすとそれは降り注ぐ瓦礫から彼を守った。口元には見慣れたあの嘲笑が浮かんでいた。まるで世界ふたつの融合は破滅的な事態などではなく、単なる煩わしい出来事でしかないというように。タムは走り続けた。フェル教授なら自力で対処できるはずだ。

 瓦礫が落下する。ヘクスヘイヴンに乗っ取られてストリクスヘイヴンの断片が剥がれ落ちているのだ。悲鳴が聞こえ、周囲の心から放たれる恐怖をタムは察した。彼らの感情をそのまま感じた。自分の心とそれらを隔てる障壁は、世界ふたつを隔てる障壁と同じように薄い。タムはそれを遮断しようと、押し返そうとした。

 「827。829。839」

 声に出しながら走る。心が落ち着く。頭の中の声は消え失せ、耳に届く声がそれに取って代わった。タムは歯を食いしばった。

 けれど、この重なりに対して自分に何ができるのだろう? タムは駆け、考えた。“理論家”は知る物事すべてを教えてくれた。ただひとつ、あの人自身だけで行った最後の観測を除いて。“理論家”はふたつの次元がいかにして融合したかを知っている……けれど、一度始まったそれを切り離す方法までは知らないはず。これまでの自分の学びの中に、何か活かせるものがあるはず。この多元宇宙も、きっと私の血の歌を聞き届けてくれる。創造主と同じ調べを奏でているのだから。もしかしたら、私のことも神として見てくれるかもしれない。

 タムは足を止めた。空ろな瞳のヘクスヘイヴンの実習生たちと、恐怖に駆られるストリクスヘイヴンの生徒たちが入り混じる群衆の中で、精神を研ぎ澄ませ意識を伸ばす。遥か上空に展開される模倣宇宙の端を探り、継ぎ目を探す。そして力を込めて離してやろうとするが、上手くはいかなかった。両方の世界の間に、千もの縦糸の繋がりが織り上げられているのだ。空のそこかしこから瓦礫が落下し、狂乱に陥ったスフィンクスたちが飛び交っている。どれがこちらの世界のもので、どれがあちらの世界のものかもわからない。コンストラリの実習生数人が、空中で断片を動かそうと試みていた。彼らは断片を押しやって安全に、あるいは既存の建物の脇へと落下させようとしていた。

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アート:Andrea Piparo

 再び駆け出したタムだったが、群衆の悲鳴の中に彼女はひとつの声を聞き取った。思わず立ち止まると、岩の周りを流れる川のように群衆が周囲を通り過ぎていった。

 キーロルの声。

 どこかでキーロル叫んでいる。タムが顔を上げると、行き交う人々の上に瓦礫の破片が降り注いでいた。咄嗟に彼女は声の方向へと駆け出し、だがその瞬間、タムはあることを思い出した。

 心臓が激しく高鳴る。私は皆を裏切った。友達全員を裏切った。自己嫌悪の中で歯を食いしばり、かぶりを振る。それでも。私を憎んでくれていい、生きてさえいてくれるなら。

 タムは遠くにあの屈強な吸血鬼の姿を捉えた。そして空から別世界の石畳が降り注ぐのを見た。彼女は手を伸ばし、光の線でできた檻を手の周りに作り出す。そして頭上高くに交錯する偶然の糸をたぐり寄せた。

 空を飛んでいた一体のスフィンクスが、不意に翼を大きく広げて右へと急旋回した。その一瞬、上空への注意を怠った隙に、空から降り注いだ石が雨あられのように直撃した。猫のような悲鳴をあげ、スフィンクスは少し離れた地面へと墜落していった。タムは呪文を解き、キーロルを探した。友は目を見開き、衝撃で立ち尽くしたまま彼女を見つめ返していた。その表情は、溢れんばかりの感情に満ちている。私が生きていたことを、涙が出そうなほど喜んでくれている。これこそが友達だ。

 「キーロル!」

 互いの間の群衆をかき分け、キーロルは前のめりに進み出てタムを抱きしめた。

 タムはしがみつき返した。衝撃の中、必死に、そして切実なほど友の温もりが欲しかった。「怪我はない?」

 キーロルはかぶりを振った。「ないよ。そっちは? 何でここにいるの? ボクらを裏切ったのに、ジャズィ様をさらったのに、タムなんて、嫌いだ――」その言葉とは裏腹の強さと温もりで、キーロルはタムを抱きしめた。震える声が問い質してくる。「何であんなことしたの? 説明してよ、タム!」

 彼女は相手の胸に顔を埋めた。「ごめんなさい、キーロル。本当にごめんなさい。断れない相手の言うことを聞いてしまったの。ジャズィ様も亡くなられてしまった。私のせい」泣きたい、だがそうするだけの力も残っていない。タムは抱擁に力を更に込めた。友ともう二度と離れたくなかった。

 頭上の騒音が激しさを増していく。周囲に、ストリクスヘイヴンが更に広がっていく。

 キーロルはタムを見つめた。「タムのことはぜんっぜん信用してないけど、死んで欲しくもないよ」

 「私も、キーロルに死んで欲しくなんかないわ」

 「いいね」

 「いいでしょ」

 結論が出て、吸血鬼は口走るように尋ねた。「タム、二体全体どうなってるの?」

 タムははっとした。数か月ぶりに聞くアルケヴィオスの言い回し。そうだ。今は目の前のやるべきことに集中しなくては。「ふたつの多元宇宙があるの。片方は複製で、それが元の多元宇宙に重なろうとしているのよ。今見えているのは、ふたつが融合していくところ」

 キーロルは一歩下がった。「そうじゃなくて、タム。タムのこと。何があったの?」

 『どうしてボクらの信頼を裏切ったの?』その言葉は口にされない。タムは今も、自分は未完成だと感じていた。勇気があればいいのに。そのため彼女は勇気があるふりをして、正直に答えた。「皆は私を信頼してくれた、けれど私は皆を裏切ったでしょう。だからそれを正すのは私の役目だということ」

 キーロルは何も言わなかった。その表情は読み取れない。見たことがあるようで、同時に無いような気もする。

 やがて、抑揚のない声で吸血鬼は尋ねた。「ボクはどうすればいい? タムがそれを正してる間、隠れてろとか?」

 「怪我をして欲しくないわ」

 キーロルは納得していないようだった。

 タムは説明をまくし立てた。「私の先生は、世界を元に戻す方法を用意していなかったの! 逆行不可能な定理を作り出したのよ。あの人の一部でも生きている限り、進行は続くの」胸が痛み、顔をしかめる。「何とかしなきゃいけなくて、これは私にかかっているのよ、キーロル。もし世界の重なりを止める方法が見つからなかったら、多元宇宙のすべての命が失われてしまうのよ」

 キーロルは深く息を吸い込んだ。眉間に深い皺が刻まれ、呼吸に合わせて胸が上下する。吸血鬼は目を閉じ、そして開いたそれには不意の鋭さが宿っていた。

 「タムなら解決できるよ」確信に満ちた言葉。

 彼女はかぶりを振った。「どうやって?」

 「わからない。でもタムはボクが知る中でも一番賢いからさ。頭をめいっぱい使ってよ」

 「キーロル……」

 「他のみんなを探してくるよ。ここはストリクスヘイヴン……だけどストリクスヘイヴンじゃないんだよね? 大図書棟はあるの?」

 「大冊子棟よ」涙が湧き上がるのを感じつつ、タムは訂正した。

 キーロルは顔をしかめた。「大、冊子棟?」

 「ええ、変よね」タムは申し訳ないように言った。もう涙はこらえきれなかった。

 キーロルは彼女の肩に手を置いた。「答えがわかったら、また合流しよ。ボクらの友達を探しに行ってくるから」

 ボクらの友達。

 「行きたい場所を心に留めていて。私の創造主のテレパシーが、この次元の一部になっているの。それがキーロルを導いてくれるから」

 本当? とでも言いたいようにキーロルはうめいた。

 「そうなのよ!」タムはうめき返した。

 キーロルは駆け出し、タムはそれを見送った。胸が締め付けられる。友は自分を許してくれたのだろうか? 命を救ったという行いはそれに見合うものだっただろうか? キーロルは生きていて、他の皆も無事。タムは自身に言い聞かせた――それは重要なこと。

 ひとつの世界が別の世界の上に現れていた。

 木々が姿を現し、実体を持っていく。遥か頭上にはドラゴンたちの姿も見える。更に多くの生徒が押し寄せ、ただでさえ混雑していたその場は、騒然として危険な様相となりつつあった。群衆に揉まれながらタムは駆け抜け、やがてかろうじて息を整えられる隙間へと辿り着いた。誰もが走っているが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。叫び声を上げているが、その理由も定かではない。いかに多くの人々が危険にさらされているのかが、ますます顕著になっていく。

 そしてこれと同じことが、多元宇宙のそこかしこで起きている。あらゆる次元、あらゆる世界が、自らの対存在を見つめているのだ。

 自分はちっぽけな存在だとタムは感じた。自分は一介の魔道士でしかない。比類なきテレパスでもない。ただの見習いであり、生徒。

 ひとりの完全な人ですらない。未完成で不完全な存在、全多元宇宙最高の魔道士のひとりがその創造性と才覚で生み出した存在。それ以外の何者でもない。この瞬間、タムは自らの不完全さを痛感した。彼女は再び群衆に飲み込まれ、怖れと迷いの中に揉まれていった。


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アート:Ekaterina Burmak

 最後の記憶の部屋は罠ではなく、合流場所だった。

 魔道士輪がヴラスカを吐き出した先は、暗黙の迷路の中心だった。物語でしか知らない場所だ。彼女が立っているのは広大な公共広場だった。頭上高くには十のギルドの旗がたなびき、中央には巨大なモノリスがひとつ浮遊している。その内部でマナが脈動し、各ギルドに対応する石柱が取り囲むように並んでいた。ここで戦いがあったらしく、巨大な全身鎧が砕けて瓦礫に埋もれていた。太陽の紋章が描かれた盾はその下敷きになり、兜は壁にめり込んでいた。

 「ヴラスカ!」

 びくりとして振り返ると、チャンドラが全力で飛びついてきた。「無事でよかった! 屋根から飛び降りたじゃない!」

 「ああ。飛び降りてポータルに飛び込んだんだ。もう3つの断片を確保した。“兵士”、“ギルドパクト”、“生存者”だ。そっちは?」

 チャンドラは顔をしかめた。「あいつに立ち向かおうとはしたのよ。かなりいい所までは行けたんだけど、私たちだけじゃ止められなかった。私たちの偽者いるでしょ、あいつらが襲ってきて、ここに放り込まれて。で今、こうしてあんたの相手をしてる」

 私? チャンドラが誰のことを言っているのか、ヴラスカは理解に一瞬を要した。「もうひとりの私か。動き出した彫像なんて私には止められないよ」彼女はうめいた。

 「そうね、努力してもらわないと。そうしなきゃ、別の私たちの所まで行けないわよ。ここから出るための魔道士輪をそいつらが守ってるから」

 この場所はどこなのかをヴラスカは把握しようとした。ここは暗黙の迷路、ジェイスが「ギルドパクトの体現者」となった瞬間だ。その瞬間について多くを聞いてはいない。ただ、走者たちが殺し合いをしようとしていたと。ここから脱出するには、自分たちもそうしなければならないのだろうか?

 彼女は尋ねた。「もうひとりのヴラスカはどこだ?」

 地面を揺るがす轟音がその質問に答えた。チャンドラが大きく目を見開き、ヴラスカはその恐怖の視線を追って音の発生源を把握した。

 そちらのヴラスカは、石でできたニヴ=ミゼットの頭上に座していた。元々高い暗黙の迷路の壁を見下ろすほどの巨体。かつてはただの彫像だったが、今やあのゴルゴンの生ける意志として使役されている。ドラゴンは翼を広げ、轟音とともにその身体から砂利が落ちた。爪が地面を引っかく音は、山腹を削るつるはしのようだ。ドラゴンが咆哮を上げると、その音はまるで地滑りのように響いた。だがそれは足元の何かに気をとられているらしい。自分の到着は気づかれていないらしく、ヴラスカは安堵した。

 「他の奴らはどこだ?」

 「尻尾の近く。ガラクが上へ登ろうとしてるわ」

 「他の映し身はいないのか?」

 「言ったでしょ、奥にある魔道士輪を守ってるって」

 「で、あのドラゴンだけなのか?」

 チャンドラの表情が、大げさな怒りと苛立ちの間で歪んだ。「ええ、あのドラゴンだけよ!」

 ヴラスカは近くの瓦礫の山へと駆け寄り、あの全身鎧の盾を全力で引きずり出しにかかった。チャンドラは一瞬立ち尽くしていたが、やがてその奮闘に加わった。

 「こっちに来い」ヴラスカは指示した。「見つからないようにしないと」

 「作戦があるの? どんな?」

 「私を打ち上げられるだろ? 向こうの私を石にできるくらいの高さまで」

 チャンドラの胸中に渦巻いていた負の感情は、ヴラスカが「打ち上げ」と告げた瞬間に消え失せた。獰猛な笑みが浮かぶ。「ええ、お手のものよ! いつ撃てばいいか合図して」

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アート:Billy Christian


 ドラゴンが重々しい足取りで前進してきた。迷路の壁越しに様子を伺う限り、向こうはこちらの画策をまだ察していないらしい。ヴラスカの耳に届くのはガラクとアジャニの声、ふたりの斧がぶつかり合う音、そして遥か頭上で響くもうひとりのヴラスカの笑い声だった。

 そこでヴラスカは気づいた。チャンドラに打ち上げてもらうのはいい、だが狙いをどう定めればいいのだろう? 彼女は脳内にいる天才たちに尋ねた。『どうすればいい?』

 『盾を標的に向けましょう』と“ギルドパクト”。

 『47度の角度で、とチャンドラに伝えて下さい』とは“探偵”。

 『ひるまないことです』と“虚無主義者”。『明日なんてないかのように飛ぶんです』

 『着地の時は、身を丸めて転がって』付け加えたのは“生存者”。

 『そして素早く仕留める』“兵士”が締めくくった。

 「47度!」ヴラスカは声をあげた。

 ふたりは瓦礫の上に盾を引き上げ、チャンドラはその裏表をじっと見定めた。「いいわよ!」

 ヴラスカがその上に登った。「合図したら撃ってくれ!」

 彫像を見つめていると、その頭部がこちらへと動くのがわかった。その上に座すゴルゴンは、眼下にいる者たちを察して身じろぎをした。

 「今だ!」

 ヴラスカは息を止め、チャンドラが放った爆発の衝撃を受け止めた。足の下からの推進力が脛の骨を伝って響く。空高く打ち上げられ、風を感じる――なんという風だろう! 音を立てて頭の横を吹き抜けていく。空を突き進みながら、息が詰まる。

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アート:Kieran Yanner

 真下でドラゴンが身を翻した。ヴラスカは着地に備え、頭を抱え込んで身を丸めた。

 石に激突した瞬間、背骨に強烈な衝撃が走るのを感じた。それでも脚を折るよりはましだ。ヴラスカはドラゴンの頭部を取り囲む岩の襟巻を回り込み、尾の方を見下ろした。

 「やあ、私!」もうひとりのヴラスカが声をあげた。その笑い声に呼応するかのようにドラゴンの像がさらに一歩前へと踏み出し、身にまとうガウンが風に揺れた。

 だが本物のヴラスカはドッペルゲンガーの様子を見てはいなかった。遥か眼下では、他の分身たちが魔道士輪を守りつつ、爆発の原因を探るように周囲を見回している。ドラゴンの尾が持ち上がり、彼らと魔導士輪との間に振り下ろされた。

 ヴラスカは襟巻の陰から飛び出し、分身の目を真っすぐに見つめた。

 このヴラスカは痛みを知らない。誇り高く、欠点もない。「どうして楽しまないんだ? 暗殺者らしく戦おうじゃないか。刃と刃の勝負だ」そう言って、もうひとりのヴラスカは自らの刃を抜き放った。

 本物のヴラスカにそうするつもりは全くなかった。もうひとりの自分と視線を合わせた時、そこに見えたのは美しい青色の瞳だった――鈍く、平凡で、ゴルゴンの魔力の輝きを微塵も帯びてはいない。勝負は既に決していた。空中に打ち上げられたその瞬間から、ヴラスカは眼差しに魔力を込め始めていたのだ。分身の肩を掴んで逃がさない。皮膚が石へと変化していく。わずかな当惑の表情を浮かべたまま、もうひとりのヴラスカが硬直していく。やがてドラゴンまでも動きを止めた。呪文が解けたのだ。ヴラスカはゴルゴンの石像を鼻先から突き落とした。

 「さあ!」岩の破片が飛沫のように地面に飛び散った瞬間、彼女は叫んだ。

 眼下で、友人たちが標的を交換した。

 ガラクはドラゴンの像の尾を飛び越え、青をまとうチャンドラが繰り出した一面の氷を素早く駆け抜けると、斧の一振りで彼女を地面に叩き伏せた。鎖のヴェールをまとうガラクは何匹もの獣を召喚していたが、アジャニは斧を振るって進み、咆哮と共にその古代のアーティファクトをはぎ取った。そしてチャンドラは吠え声をあげ、戦傷のアジャニへと炎の奔流を放った。毛皮の焼ける悪臭がヴラスカの感覚を圧倒した。

 「そいつらは放っとけ!」ヴラスカは叫び、ドラゴンの像の背を滑り降りた。彼女の声に気づき、三人は気をとられている敵をそのままに駆け寄った。

 ヴラスカは石化したドッペルゲンガーを探し、すぐ近くにそれを見つけた。身体は砕け散っているが、ドレスは無傷のままだ。彼女はチャンドラに言った。「いい考えがある。こいつのドレスを脱がすのを手伝ってくれ」

 チャンドラは顔を赤らめた。

 「変装のためだよ、女たらしちゃん」

 「ああ」

 しばし身をよじった後、ヴラスカは頭にフードを被った。ひとつ頷き、魔道士輪を抜けて一行を最後の目的地へと導いていく。

 こんなにも誇らしい気持ちになるのは、数年ぶりだった。


 “理論家”は一心不乱に取り組んでいた。

 すべてがどう噛み合っているのかを彼は理解していた。それは無数の部品で構成される単一の巨大機械。全知の感覚が今も血管の内に鳴り響いている。ふたつの多元宇宙の端を探り、時空を超えてその両方を掴み取り、自らの存在を紡いだ糸で撚り合わせていく。するとふたつはたやすく結合する。まるで針で通した繊維がフェルトの羊毛に馴染むかのように。だが自身の糸を一本また一本と手放すにつて、彼は自身を失っていった。残されたものは、ほんのわずかだった。

 “理論家”は歯を食いしばって集中し、被覆の工程を続けた。意識の塊がひとつ、その手仕事に引っかかる。彼は罵りの声をあげ、それをふたつの多元宇宙から引きはがしたものの、その最中に気付く――文字の順番が思い出せない。

 “理論家”はさらに大声で罵った。汗が目を刺す。彼は身体に命じて瞬きをし、元の多元宇宙の彼方へと再び精神を伸ばした。自分の知覚は果てしなく広大だ――己の内へ、己の外へ、そして時間そのもののように感じられるものの底へ。どこかで背中が痛む。どこかで、実体のない指先が十四の次元の頂をかすめる――それは海面に掌を滑らせるかのよう。あまりに強大な力。それでいて必要なだけの力。定型を知った今、“理論家”はそれを自在に操っていた。精神を刻む者が笑い、その笑い声はカルドハイムに雷鳴となって轟く。瞬きをして汗を払えば、イニストラードの雨となって降り注ぐ。ふと“理論家”は自身の外を一瞥し、驚嘆した。私はすべてを知っている。私はすべてだ。私は力の頂点に達した。スフィンクスもドラゴンも超え、私は多元宇宙の果てに立っている。

 彼は自室に魔道士輪を呼び出し、それらを傍らに配置した。青い閃光ひとつで、微塵の労力も要さず、“理論家”は塔を通じて自身の分身や兵士たちに命じる――被覆を止めようとする者は誰であろうと殺せ。その結果生じる代償など問題ではない。“理論家”こそすべて。“理論家”はすべてを見通す。

 魔道士輪、身代わり、ダミー、そして代替次元の模型多数を、正しいと確信する順に入れ替えていく。だが何かが完全ではない。全知を得た一方で、肉体が崩壊しつつある。鼻血を流し、両目は充血している。見苦しい姿だ。それでも“理論家”は先に進む。すると記憶が次々と消えていく――ラヴニカの富豪に強請りを行ったこと、初めての殴り合い、初めの殺し、そして初めての口付け。だが神の精神の内において、それらは何の意味も持たない。“理論家”が掌握を強めると、ドミナリア全土に激しい地震が走った。

 大きな負担を感じ、だが同時に活力がみなぎっている。どこまでも行けるような、だが何かに繋ぎ止められているような。危うく床に倒れそうになる。だがそれでも続けるうちに、“理論家”は空間の網目越しに何かを察知した。ひとつの誤り。あるべき場所から外れた一本の糸。その正体を確かめようと、“理論家”は意識を前方へ進め……

 逸脱体たちが何かを企んでいる。

 万象を見渡す意識の高みで、“理論家”は揺らいだ。

 「ひどい有様ね」身体の近くで声がした。

 全知に邪魔が入った。

 意識が時空を駆け抜け、小さく窮屈で煩わしい肉体へと戻っていく。そして見たのは目の前にいるリリアナと、その傍らでリッチと化したオパール教授だった。

 “理論家”は鼻で笑い、手を掲げた。指をひとつ鳴せばふたりは眠る。「私は忙しいんだ」

 「今のあなたがどんな気持ちか、わかるわよ。ジェイス」

 “理論家”は危うく怒鳴り返す所だった。相手にしている暇などない。だがリリアナは構わず話を続けた。そうだ、いつだってそうなのだ。

 「あなたの物語の結末が、こうじゃなきゃいけないはずなんてないわ」

 “理論家”は上方を一瞥し、今一度全知の境地へ戻ろうとしたが、そこで動きを止めた。不快に唇を歪める。「あのドラゴンのために私たちを裏切った後、気が変わったのか? あの時は生かしておいたけれど、今回はそのつもりはないよ」

 「私は間違っていた。だから変わることにしたの」真剣な面持ち。これほど真剣なリリアナの姿は見たことがない。「今回、ギデオンはいない。あなただけよ」

 「黙れ」彼は命じた。

 リリアナはそうしたが、蘇生させられたそのドッペルゲンガーが続けた。「私を止めることは誰にもできない。あなたも知っているでしょう」

 首筋がぞくりとした。この女が憎い。自分という存在がこれほど希薄になってしまってもなお、憎い。昔からずっとこうだった。いつも、とても傲慢だった。主導権を握られ、力ずくで思い通りにさせられた記憶が、自分の一部にまだ残っている。逆に言えば、その記憶によってこの女は命令を拒絶しているのだ。

 「ジェイス。私にできなかったことを、あなたにして欲しいのよ」

 「やり直すのは、君にとってもいいことのはずだ。私たちに対して忠実な人生を送ることもできるけどね」

 リリアナとドッペルゲンガーは含蓄のある視線を交わす。先に口を開いたのはリッチの方だった。弾けるような、可愛らしい笑い声をあげる。「忠誠なんて安いもの。でも、本物であることはどうかしら? それこそが価値なのよ」

 聖域は力に満ちて振動している。“理論家”は今もなお、ふたつの多元宇宙の端に霊体の手をかけていた。その瞳は彼方の無限を見つめている。「私たちは互いに、どれだけの痛みを与え合ってきたんだろうね。回避できる痛みや悲しみが、どれだけあったんだろうね」

 「黙りなさい、ベレレン!」リッチが叫び、本物のリリアナが続きを受け継いだ。「あなたと同じ立場だった時、それで得られるものなんて何もなかったわ。命の保証も、自由も、力も」

 「今に至っても、君は他者を操る狡猾な蛇だね」

 リリアナはその侮辱を無視し、代わりに“理論家”の手に視線を向ける。「それ。何を焦っているのかしら?」

 “理論家”は手の震えを抑えようとした。遥かな彼方で意識が一瞬、無意味な仕事を停止する。「君は私の相棒だった。それなのに私を道端で拾った犬のように扱った。君を信用すべき理由がどこにある?」

 「今のあなたは、かつての私だからよ! 仲間を裏切って、自分自身も裏切って、それで手に入れたのは……孤独だけだった!」“理論家”はリリアナの心に見た――あの鎖のヴェールを、かつて敬慕した女性が死の神へと変貌する姿を。彼女の瞳が暗く沈んでいく。「あなたが振るう力がどんなものか、私にはわかるわ。その力の果てにあるのは虚無だけだってことも」

 近くのポータルが輝き、この多元宇宙のヴラスカが姿を現した。彼女は微笑み、何気ない様子で近づいてきた。

 “理論家”はリリアナに語りかけようと口を開いたが、言葉を発する間もなくオパール教授の死体が飛びかかってきた。彼は驚きとともに倒れこみ、頭を床に強打した。

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アート:Johan Grenier

 宇宙の彼方に遍在する自己は消え去り、だがふたつの世界は融合を続けた。

 意識が身体に戻ってくる。そしてリリアナを眠らせる間もなく、彼はリッチに頭を蹴り上げられた。助けを求めてヴラスカに目を向けるが、白い影が視界をよぎり、蹴りが再び彼を襲った。

 世界が回転する中、リリアナが声を揃えた。「「元に戻しなさい、ベレレン! やるのよ、天才なんでしょう!」」

 「断る!」

 「「やりなさい!」」

 「できないんだ!」

 リッチは“理論家”の頭部を持ち上げ、床に叩きつけた。どうしてヴラスカは助けてくれない?

 激昂し、彼は自身の精神を解き放った。

 その力は波となってリリアナへと襲いかかった。まず彼女の意識を引き寄せ、続いて強烈な精神的衝撃で突き飛ばす。そして思いつく限りのあらゆる責め苦と共に、リリアナの精神へと自身をねじ込んだ。ほんの一瞬の間に、“理論家”はリリアナの精神の底に沈んでいた最悪の記憶をかき集める――病に苦しみ喘ぐ兄の姿、ギデオンの皮膚がただれて崩れていく光景。ファイレクシアを阻止できなかった彼の姿を見せて心を押し潰す。仕上げとして、“理論家”はリリアナの前頭葉の間にでたらめの数式をねじ込み、瞬時に腫瘍を発生させた。

 「卑怯者!」リリアナは絞り出すように叫んだ。

 だがオパール教授のリッチが本人の頭部に手を当て、眩しい魔力の奔流が“理論家”の視界を奪った。必死に瞬きをする間に、リリアナは身震いとともに病を癒していく。そして彼へと飛びかかり、拳を叩き込んだ。だが“理論家”はそれでもリリアナの精神の中を泳ぎ回り、心臓に鼓動を刻むよう指示する箇所を見つけ出すと、暗い好奇心とともにそれに絡みついた。

 白い布地がひらりと翻るのを見て、彼はヴラスカがようやく介入を決意したと察した。

 だがそれは……

 期待したものではなかった。

 何かが、鋭いものが“理論家”の心臓を貫いた。驚きと痛みに息を呑む。全知に至った唯一の定命でありながら、その到来を予測できなかったのだ。

 「今だ」背後から声がした。

 チャンドラ、アジャニ、そしてガラクが、戦いに傷つき疲弊しながらもポータルから現れた。背後にいるのが本物のヴラスカだと気づいた時には、既に手遅れだった。ヴラスカは“理論家”に腕を回し、握りしめたナイフが彼の胸を貫いていた。“理論家”はそれを引き抜こうと手を伸ばすが、その動作は阻まれた――自身が生み出した逸脱体たちが、全員が一斉に襲いかかってきた。

 それらは津波のように彼の心を圧倒した。

 “理論家”は狼狽し、実体のないそれらを隔離しようとした。だが彼らもまた自分自身なのだ。その動きはあまりに速く、俊敏だった。あるべき強さを超越した攻撃を浴びせてきた。弱虫、欠陥品、リンゴの皮を剥くように簡単に削ぎ落せる存在。何故、言いつけ通りに私の身体の外でじっとしていなかった? “理論家”は彼らを阻む防波堤を築こうとするが、海の猛攻撃を止めることはできない。逸脱体たちは彼の精神を激しく殴打し、次々と支配権を奪っていった。

 “虚無主義者”が“理論家”を取り囲むように壁を築いた。もはや出ることは叶わない。彼はテレパスの力で外への干渉を試みた――リリアナの屍術、チャンドラの紅蓮術、ガラクやアジャニの筋力。だが鉛のように重い絶望と果てのない諦めに阻まれた。

 “探偵”は“理論家”と多元宇宙ふたつの構造との繋がりを断ち切った。もはや続けることは叶わない。“理論家”は必死の思いで全知の感覚を手探った。次元ふたつを掌握する、あの上質な布地のような抗いがたい感触を――だがそれは指の間からすり抜け、ほつれ、やがて彼は忘れてしまった。“理論家”は絶叫した。食い止めたかった。命に、成功に、勝利にしがみつこうとした。

 “番人”が“理論家”を無理矢理ひざまずかせた。もはや動くことは叶わない。身体を抑えつける力に抵抗するが、そのさなか筋肉の痙攣に襲われる。怒り狂って感覚を取り返そうとするも、“番人”があらゆる怪物の幻影を送り込んできた。アルハマレット、テゼレット、エリシュ・ノーン。それは他者を傷つけるよう彼に強いた者たち。自分は小さく無力だ――“理論家”は怯えた声を発した。

 そしてその恐怖と憤怒のさなか、“白紙”が彼の脳幹へと至る道を速やかに切り開いていった。“理論家”は無防備にさらけ出された。自分の精神が切り裂かれていくというのに何もできない。剥き出しになった箇所を痛いほど意識させられる。彼は息を吸い、呼吸というものを味わった――そうだ、残された時間は僅か。

 “ギルドパクト”が逸脱体それぞれを掴み、ひとつに繋ぎ合わせていく。自分自身が再びひとつになっていく。それは穏やかで、温かな泉に足を踏み入れるような感覚。断片たちは安らかに、温もりとともに、あるべき場所へと難なく収まっていく。現実主義、好奇心、警戒心、勇気、度胸、そして共感――それらが“理論家”の冷徹な論理を掴み取り、融合していく。だが、あとふたつ。

 務めを終えた“生存者”が脇に退く。そして熟練の暗殺者のように“兵士”が滑り込み、身体の意識から、呼吸の仕方を記憶している箇所を突き止める。彼はそれを引き抜く。

 身体が喘ぎ、“理論家”は、冷たく傷ついた子供は、自己たちに抱きしめられる――受け入れられ、宥められ、安息へと送り出されていく。

 複数が単数となる。逸脱体が、断片が、ひとつとなる。その男は目を開けた。

 ここは、自分自身の中で最も嫌悪している部分が築いた聖域。とはいえその部分もまた、自身なのだが。頭上には宇宙儀が回転し、部屋のあちこちには魔道士輪が――そして、友人たちの姿が散らばっていた。

 俺の名前は、ジェイス。

 冷たく鋭い何かが胸に刺さっている。肩には温かい手を、背中には誰かの身体を感じる。

 ジェイスは瞬きをし、口元から血が細く伝い落ちるのを感じながら、ヴラスカの手に自分の手を重ねた。共にナイフの柄を握る。成功したのだ。ふたつの多元宇宙を繋ぐ糸は脆い。ホルムベルグの誤信――幻影は、その術者の肉体と本質的に結びついている。

 ヴラスカに促され、抱きかかえられながらジェイスは横たわった。心臓に突き刺さったオクランの短剣は、果たされた約束の証だった。満たされていた。なんと不思議なことだろうか。

 「うまくいったか?」ヴラスカが尋ねた。

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アート:Magali Villeneuve

 間違いなく。だが返事をする前に、彼は皆に目を向けた。自分を救い出してくれた者たち、敵たち、そして友人たち。そしてそのひとりひとりに、それぞれが聞いて欲しい言葉を贈るのだ。

 ある者には元気づけと、謝罪を。『俺たちは犬猿の仲みたいに喧嘩ばっかりだったけれど、君は、ずっと欲しかった妹みたいな存在だった。上手く伝えられなくて、ごめん』

 ある者には指示を。『世界の重なりは止まりましたが、ふたつの多元宇宙はまだ絡み合ったままです。俺のものを排除しなければなりません。タムを見つけてください。あの子もすぐに把握します。ありがとうございました。貴方は、俺たちの中でも最高のひとりでした』

 ある者には警告を。『俺の一番脆い部分を守ってくれてありがとう。それと、君を治せなかったこと、ごめん。君が解決しようとしている問題は、密林の中では解決できないんだ』

 四人目には、温かな別れの言葉を、『意図してはいなかったんだろうけれど、俺に色々なことを教えてくれてありがとう。俺が死んだ時、どう感じてくれようとも構わない。それでいい』

 だがその四人目が、聞かれることのない無言の声で語りかけてきた。言葉ではなく、想いとして。胸を締め付けるような悲しみ、偽りのない温もり、そして幾世紀もの歳月と記憶。真摯さ。そして、詫びの念。ジェイスは驚いて目を見開いた。

 『本当?』心を打たれ、彼は尋ねた。

 リリアナは微笑んだ。『ごめんなさいね、ジェイス。もう何も負わずに、安らかに眠りなさい』

 吐く息は咳と化した。唇を震わせながら頷く。『ありがとう、リリー』

 そしてようやく彼はヴラスカへと声を発し、握りしめた手に力を込めた。「はい。成功です」

 ヴラスカも握り返し、ジェイスの額に自身の額を押し当てた。「どこか別の場所で話すか?」

 「いいえ」はっきりと口に出したその声は、だが細かった。「現実の方で。ヴラスカさんの姿を見ていたいんです」

 身体が……重い。頭上の宇宙儀の動きは止まり、ふたつの多元宇宙を結びつけていた糸は、心臓の鼓動とともに薄れていく。それが破綻するのを見る今、悲しみはない。苦しみは続く。けれどそれこそが、生きていることの代償なのだから。

 「生きているなら、生きるための代償を払う価値はあります」彼は愛する者の瞳を見つめた。気にかけてくれる者たちの温もりが感じられた。自分はこんなにも野蛮で、欠点ばかりなのに。自分のすべてを、友としての自分のありのままを受け止めてくれている。

 ヴラスカが強く抱き寄せてきた。それはたまらなく辛かった。口にする言葉が重すぎる。あまりにも重すぎる。

 「行かせたくないよ」

 彼は微笑む。「遠くへは行きませんから」

 別れは言わない。ヴラスカも言わないだろうから。ジェイスはひとつ重要な物事を自身に言い聞かせ、自身そのものに焼き付けた。力を借りなければいけない。

 疲労が身体を圧倒しつつあった。外套は自身の血に濡れていた。胸に突き刺さったナイフを、彼はまるで護符のように握り続けていた。死とは状態の変化に過ぎない。死とは変容に過ぎない。そしてヴラスカが最後にくれた慈悲のおかげで、死は迅速かつ純然たるものとなる――自分にふさわしい死となる。

 「ありがとうございます、船長」

 この人を愛している。この人なら大丈夫だ。この人もまた、生き抜く力を持っているのだから。視界が霞み、力が抜け、世界が闇に包まれていく中、それでもヴラスカから目を離さない。何かを口に出そうとするものの、もはや言葉を発する力は残っていない。代わりに、死が波のように自分を引き寄せるのを感じる。それはどこか静かで、安全で、平穏な場所へと誘う、優しい引力だった。

 意識が遠のく中、ヴラスカが彼自身の言葉を語りかけていた。「お前は、私の好奇心の中にいる。私の共感の中にいる。恐れずに何かをやり直そうとする時、お前はいつもいてくれる」

 自身の過ちは正した、けれど自分は英雄などではない。ただひとりの人間にすぎない。それでも成し遂げた――自分が何者であるかを思い出した。愛する者の口付けを額に受け、心に感じた最後の感情は、喜びだった。

 頭上の宇宙儀は今や壊れていた。穏やかな聖域の中で、ジェイスは静かに動きを止めた。

 力を失うその身体を、ヴラスカはしっかりと抱きしめた。

 ジェイスの青く澄んだ瞳はその間もずっと、彼女の双眸をまっすぐに、恐れることなく見つめていた。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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