MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 03

第3話 どちらにもなれます

Alison Lührs
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2026年9月2日

 

 ヴラスカは杯から手を離せずにいた。中の茶は熱すぎるほどだ。指先が焼けるようだというのに、それでも離すことができない。強烈で現実的な感覚。それは悲嘆とは別の何かを感じさせてくれる。

 今では、ヴラスカはヴリンをよく知るようになっていた。この部屋の至る所にあいつの気配があった。ラーナ・ベレレンは息子の私物をとうの昔に片付けており、ふたりは支え合いながらどうにか日々を過ごしてきた――かたや母として、かたや愛する者として、喪失の悲しみを分かち合いながら。ヴラスカが皿を洗う間、ラーナはおたからと遊ぶ。ひとりが寝室で泣き崩れている間、もうひとりが家の掃除をする。時には、ほんの一瞬だけ、ヴラスカは昔の自分に戻ったような感覚を覚える――市場をそぞろ歩いたり、おたからを散歩に連れ出したりするような。けれどすぐに記憶が頭をよぎり、ほんの一瞬でも喪失を忘れて生きる自分への強烈な衝撃に打ちのめされる。その瞬間の痛みは最悪のもので、そして後ろめたさが続く。どれほど一瞬であっても、忘れてしまったことをジェイスに見透かされているような気がするのだ。

 何よりもヴラスカを苛んでいるのは、罪悪感だった。背を向けたという罪悪感。ジェイスが進めていたのは、ヴラスカ自身も手を貸した計画だった。だがいざ実行に移るという段階になって、彼はヴラスカができなかった一歩を踏み出した。躊躇したのは、臆病さゆえだったのだろうか? それとも道徳的な優越感から? ヴラスカの歩みを止めさせたのは、あの表情だった。あまりにも計算高く、あまりにも率直で、他に何も見えていないほど自身の大義だけに集中していた。その姿は、ひとりの指導者のようだった。革命家のようだった。

 焼けつくように熱い杯をさらに強く掴みながら、ひとつの恐ろしい思いが脳裏をよぎる。

 あいつは、まるで怪物みたいだった。私みたいな。

 ラーナが隣の椅子に座り、ヴラスカは胃の底から湧き上がる吐き気をこらえた。ラーナの瞳と――ジェイスの瞳と視線を合わせる。あいつの母親は微笑まない。

 「こんな痛み、どれだけ長く続くんだろうな」尋ねるヴラスカの声は囁きに過ぎない。もうほんの少しでも大きな声を出せば、あいつの亡霊をこの卓に呼び寄せてしまうかのように。

 ラーナは杯を手の中で回した。最近では、この女性が飲むのはありふれた茶だ。「永遠に。それをどう抱えていくかを見出すまでね」

 ヴラスカはその助言を心に刻んだ。ラーナは誰よりもよくわかっているのだ。彼女の息子は二度も死んだのだから。

 扉を叩く音が響き、ふたりは視線を交わした。ジェイスの逮捕状という懸念は今なお両者の心から消えてはいなかった。ヴラスカは石化の力を両目に宿し、ラーナは外科用のメスを構える。ふたりは杯を置いて扉に意識を集中させた。無意識のうちに、ヴラスカの片手はおたからの頭部にある小さな角を探った。

 「ヴラスカ?」明るい声が聞こえてきた。

 おたからが居間へと飛び出した。身をくねらせて甲高く鳴き、嬉しそうに飛び跳ねる。ヴラスカはおたからを制し、ラーナに向けて言った。「友達だ」

 「どうぞ!」家主が声をあげた。

 チャンドラが入ってくると、すぐ後ろにアジャニもいた。ふたりは疲れ切って重苦しい雰囲気だったが、それでもチャンドラは膝をつき、おたからが飛びついてくると受け止めた。笑い声を上げ、片腕で軽々と抱え上げる。

 『チャンドラ!』おたからが全員の頭の中に声を響かせた。鳴き声を発しながら、同時に精神でも叫んでいるのだ。『チャンドラがおうちにきてくれた!』

 アジャニは穏やかに一礼し、ラーナに歩み寄った。「ベレレンさんのお母様ですね。アジャニと申します。お会いできまして光栄に思います」

 「知らせたいことがあって」チャンドラがそう言うと、ラーナは無人のキッチンテーブルを示した。チャンドラはおたからを下ろして椅子に腰かけ、アジャニは尻尾を垂らせるよう椅子を横向きにして座る。ヴラスカとラーナも定位置につき、四人はしばしその場で黙った。実に奇妙な顔ぶれ。テーブルの下で物音がした。おたからがチャンドラの足元をちょこまかと動き回り、おもちゃを積み上げていた。自慢したいらしい。ヴラスカがその頭に手を置き、ひとまず落ち着かせた。

 ヴラスカの吐き気は収まったが、代わりに不安がこみ上げてきた。アジャニとチャンドラがここに来た理由はわからないが、これ以上悪い知らせであるはずはない――ここから更に、何に苦しめと? 自分の心はもう死に絶えて塵と化してしまっているのだから。とはいえ、良い知らせとも思えない。そしてヴラスカの内にある確信が忍び寄ってきた。このふたりは、愛する人の意志を私が継ぎたがっていると考えているのだろうか? 私を止めに来たのだろうか? やろうと思えば、ふたりが動く前に石化させることはできるだろうか?

 「ジェイスは生きてるわ」だがチャンドラが告げたその短い言葉で、ヴラスカの世界は崩れ去った。

 ラーナは声をあげた。安堵、疲労、そして張り詰めた悲嘆が交錯する声。

 だがヴラスカは何も言わなかった。心臓の激しい鼓動以外、世界は無音と化した。胸が締め付けられ、張り詰める。

 自分が立ち上がるのがわかる。寝室へ歩いていく。扉を閉める。

 静寂。カーテンは閉め切られて、すべては静けさと闇に包まれている。自分は寝室にいるが、同時に何もない虚無の中にもいる。孤立、静寂、閉塞感。自分の呼吸音が聞こえ、胸が詰まるのを感じる。部屋の外からは、すすり泣くラーナを慰める話し声が聞こえる。だがヴラスカは泣くことができない。ただ、心臓が燃え上がるような感覚があるだけだった。何もかもを置き去りにするほどの衝撃。ジェイスは生きている。生きているのだ。

 震えながらもヴラスカはゆっくりと呼吸を整え、台所へと戻った。ラーナはまだすすり泣いており、アジャニがその肩を抱きしめていた。チャンドラは立ち上がり、慎重にヴラスカへと歩み寄る。身構えてこそいないものの、その態度からはこちらの動きに対する不安がありありと見てとれた。

 「あいつは生きてる。けれどまだ何か企んでるみたいなのよ」

 「ある人物と会いました」とアジャニ。「ジェイスのために動いていると言い、アルケヴィオスの神託者を誘拐したのです」

 ヴラスカはきょとんとした。感情の昂りに、思考はまだぼやけて弱弱しい。「あいつに残された味方がいるのか?」

 「その子も、ゴルゴンだったのよ……」チャンドラは少なからぬ居心地の悪さを滲ませた。「だから、そっちが何か知ってるんじゃないかと思って」

 「幻影だ」ヴラスカは即答し、だが色濃い不確かさを滲ませて続けた。「……いや、わからない」

 「ジェイス君がなぜ神託者を必要としているのか、ご存じですか?」アジャニが尋ねた。

 自分たちが作り上げた計画を思い出し、ヴラスカは息を呑んだ。「あいつにも無い知識ってのが存在した。具体的には、次元同士の融合についての知識だ」

 チャンドラの両目が見開かれた。「それよ! あいつに攻撃された時、ぼんやりと何かを感じたの――苛立ってるみたいな、何かが欠けてるみたいな感じ。あいつ、何かを見たがってた」

 「見つけたのか」ヴラスカはかすれた声で言った。「先に進むのを助けてくれるような奴を」

 どうやって、なおも計画を続けようというのだろう? だが心の中のもうひとつの声が即座に言い返す――お前に見捨てられた今、あいつには他に何もない。

 けれど自戒のようなこの思いは、ジェイスにとってもまた同じであるはず。

 「ヴラスカさん、これはあなたの考えでもあったでしょう」ラーナが強い意志とともに見つめてくる。ヴラスカは胃が沈むような感覚を覚えた。「道を正す機会があるとしたら、それはあなたの手にかかっているわ」

 自分にも罪はあるとヴラスカは自覚していた。「新しいのを作ることでこの世界を正すってのが、私らの考えだった。あいつは、完全な悪ってわけじゃ……」だが彼女は言葉を切った。

 以前の私なら、あいつのことをそう見なしていただろう。けれど誰だって完全な悪でも、完全な善でもない。

 アジャニが言った。「ジェイス君に私たちの思いを届けたいのです。手伝って頂けますか?」

 「ああ」ヴラスカは頷いたものの、顔はしかめたままだった。「けど今回あいつを正気に戻すには、滝に落とすとか脳震盪を起こすとかじゃ足りないだろうね」

 ラーナは顔を拭い、溜息をついた。「ええ、単純には行かないでしょうね。あなたを救った理屈も、あの子を救うことはできない」

 ヴラスカは何も言わない。理屈は救ってなどくれなかった。

 おたからは四人の足元をちょこまかと動き回っていたが、やがてチャンドラの背によじ登った。彼女はおたからを掴むと、律儀に膝の上に乗せた。同席の三人へと鼻で笑ってみせる。「そうでしょうね。理屈と論理こそが、あいつの人格そのものなんだから」

 「あの子はテレパスよ」とラーナ。「その世界は、理性や論理とは無縁のものなの」その言葉に、チャンドラは少しだけ身を縮めた。「迷いの中にいるとしても、あの子は善良な子よ。どうやって生き延びたのかしら?」

 チャンドラとアジャニは不確かな視線を交わす。そしてアジャニが注意深く切り出した。「ジェイス君には、必要な素質が備わっています。もし自分自身の精神を保持することができたのだとしたら……自身の存在そのものを再び組み立てたのかもしれません。瞑想領土にいたのですから、あり得ることです」

 「それは前にもあった。意志の力で死を退けたことが」ヴラスカは腕を固く組んで言った。もう耐えられそうになかった。これ以上こうしていたら、平静でなどいられなくなる。だがチャンドラの腕の中から小さな物音が聞こえ、ヴラスカはおたからに視線を向けた。その大きな瞳が、傷ついたように彼女を見つめ返していた。ヴラスカは腕を伸ばしておたからを受け取り、そのまま自分の膝の上へと乗せた。

 「その通りだ」他の者たちを無視し、彼女は穏やかに言った。「ジェイスは生きてる」

 おたからは尻尾を思いっきり振った。切なさと嬉しさが入り混じったような鳴き声をあげ、息を荒くして身をよじらせる。その小さな身体に、あまりに多くの感情が溢れかえっていた。『ぼくも会える?』その声が伝わり、だがすぐに顔をしかめる。『どうしてみんな泣きそうなの?』

 「おばあちゃんと私が悲しんでるのは、これがすごく大きくて色々混じった思いだからだよ。大好きな誰かがまだ生きてるってわかるのはそうなのさ。でも、ジェイスはお前のことが大好きだった。元気になったら、またここに帰って来られるだろうね。でもまずは、どうすればあいつが大丈夫になるか、それを思い出させてやらないといけないんだ。だから私も行かないといけない」

 ヴラスカが目を向けると、ラーナは頷いた。「おたから君は私に任せて。でも、あの子に渡して欲しいものがあるの」

 ラーナは立ち上がり、奥へと歩いていった。

 チャンドラは両眉を上げ、振り返ってその姿を見つめた。「あいつのお母さん、強いのね」

 「そっちの母親は革命を二回も率いたんじゃなかったか?」ヴラスカは言い返した。

 「私の母は気弱でしたね」アジャニは喉を鳴らすように言い、すぐにチャンドラへと付け加えた。「そちらのお母さんは篝火そのものですよ」

 ヴラスカはおたからに口づけをして座らせ、紙と鉛筆を取って戻ってきた。おたからを宥め、そしてジモーンという人物からチャンドラが聞き出したという目的地を伝える。やがておたからはヴラスカへと地図を二枚描き上げた。一枚はヴラスカが正しい領界路を見つけるためのもの、もう一枚はムラガンダから来る客人に向けてのもの。その素描は伝統的な遠近法で描かれてはおらず、線や形が縦横を超えて入り乱れていた。無限に複雑な精神が、筆記具を握りしめるという子供特有の描き方で表現されたものだった。一見すると地図というよりは、牡牛が階段を転げ落ちる姿のようでもある。それでも目を細めてよく見れば、そこには確かに道筋が示されていた。

 ラーナが戻ってきた。その手には青い刺繍入りの布に包まれた、小さな物体があった。

 「中は見ないで。ただ、私からと言ってあの子に渡して」

 ヴラスカはそれを受け取り、疑問と共にしまい込み、そしてラーナを抱きしめた。ふたりの間には、激しく燃える悲嘆という共通の絆がある――言葉にせずとも、鋼のように互いを結びつける強固なものが。おたからが膝にすがりつき、女性ふたりは抱き入れるように身を屈めた。

 ヴラスカは立ち上がり、涙を拭った。そしてチャンドラとアジャニに告げる。「現地で会おう。けど私が向かってる間に、そっちにはムラガンダに寄ってもらわなきゃいけない。これを」彼女はもう一枚の地図を二人に手渡した。

 「どうしてムラガンダ?」チャンドラは眉をひそめた。「何か要るの、その……岩とか恐竜とか?」

 ヴラスカは説明した。「私らの計画を実行するために、役立ちそうな奴に目をつけてたんだ。ガラクっていうプレインズウォーカーだ。サンダー・ジャンクションに連れて行くことも考えたんだけど、ジェイスによればそいつは自分の幻影を見破る唯一の存在らしい。だからその策は上手くいかないだろうって話だった。ジェイスの所へ辿り着くためには、ガラクの力が必要になるだろうね」

 チャンドラは納得したような様子で頷いた。「ガラク」彼女はアジャニに視線を向け、小声で尋ねる。「どんな奴か、知っておいた方がいい感じ?」


 ムラガンダで、チャンドラはむせかえる密林の匂いとハエの群れに迎えられた。蔓植物や虫食いの葉、ゴムの木が混ざり合う中に、丸みを帯びた木造りの小屋が建っていた。

 その両脇は棘だらけの茂みと、どう見ても恐竜のものであろう骨に守られていた。チャンドラが一歩踏み出そうとしたその瞬間、アジャニが腕で制して足元を指し示すした。草の中には、極細の仕掛け糸が幾重にも張り巡らされていた。人間とレオニンは共に顔をしかめ、その糸を慎重にまたいで小屋へと向かった。

 小屋の煙突からは煙が細く立ち上っていた。窓はなく、出入口らしきものは扉ひとつだけ。ふたりがゆっくりと近づいていくと、低い声が聞こえてきた。「誰だ?」

 ふたりはすぐさま振り向き、するとチャンドラが見る最も大柄な人間がそこにいた。上半身は裸で、小屋の近くにある切り株に腰を下ろしている。露出した肌は奇妙に角ばった模様に覆われており、右手指は戦化粧らしきものでぬめっていた。足元にある素焼きの壺はその塗料入れだろうか。男は地面の苔で手を拭うと、毛皮を肩にかけて立ち上がった。チャンドラの背丈を越えるほど巨大な斧を担ぎ、上腕の筋肉が膨れ上がる。そして全く足元を見ることなく、男は罠の張り糸が交錯する地面の上を歩いてきた。適切な場所で、本能に従って足を上げていく。この筋肉の巨塔のような男こそ、野生語りのガラクに違いない。

 「何の用だ」

 「プレインズウォーカーのガラクさんですね。お願いがあって来ました」アジャニは低い声で返答した。「かつて貴方を助けようとした者が今、貴方の助けを必要としているのです」

 ガラクは立ち止まり、思案しているようだった。鼻の穴を広げ、斧を握る手に力がこもる。チャンドラはその様子を見つめた。この男がその気になれば、大惨事になることは疑いない。

 「ただ話がしたいだけよ」チャンドラは請け負うように言った。

 ガラクは指をあてて鼻をかんだ。そして無言のまま、大股で小屋へと向かっていく。

 アジャニとチャンドラは当惑の視線を交わした。レオニンは肩をすくめ、彼女の背中を軽く叩くと後に続いた。

 「入れ」ガラクが告げた。その通りにすると、チャンドラはガラクの方がアジャニよりも長身であることに気づいた。友はそれをどう思っているのだろう?

 小屋の中に入ると、ふたりが感じていた怖れは霧散した。そこは素朴な、居心地の良い空間だった。大切に使い込まれた椅子には、柔らかな毛皮が敷かれている。川の石を手作業で積み上げて作ったであろう暖炉も、この小屋の主の気難しそうな雰囲気とは正反対と言えた。木製の壁には、ドルイドが探索行や占術に用いる道具が様々なフックや棚に収められている。この男自身の手で作られた場所なのは間違いない。職人芸のような繊細さはないが、狩人らしい実用性が息づいている。卓の上には巨大な兜が置かれ、その傍らにあるのは堅パンや塩漬け牛肉を詰め込んだ背負い袋だ――過酷な地形の長旅には欠かせない食料。チャンドラを不安にさせるものはただひとつ、卓の上に飾られた巨大な鹿角だった。ガラクはその真下に座り、身体を少しだけ左に傾けてかまどの上のやかんを手にとった。その動作だけで、小屋が狭く感じるほどの巨体だ。

 「飲むといい」彼は質素な木製の杯を配ると、鋭い花の香りとベルガモットを漂わせる飲み物を注いでいった。

 「もてなしてくれてありがと――」チャンドラはそう切り出そうとした。

 だが巨体のドルイドはその言葉を遮った。「血が上っているぞ、紅蓮術師」

 チャンドラは卓の下で自分の脈を確かめた。言われた通りだった。この男にはどこか……危険なものを感じる。すべての立ち振る舞いに意図があり、思慮深い――まるで、ひとつひとつの動作から意識を外したなら、その両手はもっと残虐な目的のために動いてしまうかのように。彼女は勇気を振り絞り、口を開いた。

 「私はチャンドラ・ナラー。こっちは黄金のたてがみのアジャニ。私たちの友達が、道を踏み外してしまったの。自分の力で新しい多元宇宙を作り出そうとすることで、すべての悲しみを終わらせようとしてる。私たちが恐れてるのは、それがこの世界を書き換えちゃうんじゃないかってこと。ジェイス・ベレレンって覚えてる?」

 ガラクは無言だった。

 「あいつの幻影に引っかからなかったのは、あなただけだって」チャンドラはそう付け加えた。

 「どこでそれを知った?」

 アジャニはそっと杯を置いた。「彼はその記憶を友と分かち合ったのです」

 「テレパスか」ガラクは低くうなり、自身の杯をひとすすりして考え込んだ。

 チャンドラの脈は鎮まらなかった。この男は突如暴力に訴えだすかもしれない。あるいは、自分の半分ほどの体格しかない人物のように大人しく座って話し合いを続けるかもしれない。

 「他はどうするつもりだ?」

 チャンドラはきょとんとした。「他って?」

 「幻影など、精神を砕く者にとっては挨拶のようなものだ」

 アジャニとチャンドラは顔をしかめた。ジェイスの能力については、自分たちもよく知っている。味方だった頃の彼は、常に無害な存在のように見えていたのだが。「やってみるしかないのよ」チャンドラはそう言った。

 「人間性に訴えかけるつもりです」アジャニが付け加える。「仲間意識です。彼は自身が立てた誓いを思い出すでしょう」

 ガラクは懐疑的なようだった。チャンドラは話題を変えることにした。「どうやってあいつの幻影を見破るの?」

 狩人は少し強めに鼻を鳴らした。「あれに本物のような匂いはない」

 チャンドラは身を乗り出した。理性はあったが、面白さがそれに勝った。「本物って、どんな匂い?」

 狩人は肩をすくめるだけだった。

 アジャニが割って入った。「つまり、貴方の嗅覚はジェイスの幻術に惑わされないのですね。大したものです。私はいつも騙されてしまうのですが」

 「だろうな」ガラクはそれ以上を説明する気はないらしかった。アジャニは苛立たしく両耳を引きつらせた。

 チャンドラは会話の軌道を戻そうとした。「存在するものすべてよ。ジェイスを止められなければ、すべてが上書きされてしまうのよ」

 「すべてが?」

 「すべてが」少なくとも、ヴラスカはそうなるだろうと言っていた。

 ガラクは無精髭を掻いた。「この世界は死ぬということか」

 「世界も、そこに住むものも、自然も。あなたみたいなプレインズウォーカーにとって、大地との結びつきがどれほど大切かは私だってわかるわ。もしジェイスを説得できなかったら、その全部が危機にさらされることになるのよ」

 狩人は顔を上げ、自分を取り囲む小屋に視線を巡らせた。「俺が必要ということか」それは単なる事実の指摘というより、自分自身に言い聞かせているかのようだった。その口元が固い意志に引き締められる。「運が良かったな。あと一日遅ければ、俺はもうここを離れていた」

 「どこへ行くつもりだったの?」チャンドラが尋ねた。

 「お前たちには関係ない」とガラク。「テレパスを連れ戻す手助けはしよう。だが見返りは必要だ」

 「何をご希望ですか」とアジャニ。

 「情報だ。防護や封印、魔法による封じ込めを理解している者が要る。心当たりはあるか?」

 チャンドラは顔をしかめた。彼女がアジャニを一瞥すると、アジャニもまた視線を返す。無言の会話で、人間とレオニンは合意に達した。

 彼女はガラクへと視線を戻した。「私たちなら、お役に立てると思うわ」


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アート:Zara Alfonso


 ここに、塔の中に数多く存在する記憶の牢獄のひとつに、自身に対して正直なジェイスの一面が存在している。

 彼はあらゆる危害、あらゆる侮辱、あらゆる不正義の記憶を抱え、その原因を見通している。彼はその「計算」に反抗した部分であり、方程式の解を目の当たりにしてそれを「存在への侵犯」と断じた部分だった。彼は最初に切り離された断片だが、今なお“理論家”が面会に訪れる唯一の断片でもあった。“ギルドパクト”である彼は立ち上がり、自身を捕らえた相手を出迎える。“理論家”は助言を求めてやって来たのだから。

 彼は“理論家”に、自分たちの肉体を独占した存在に相対した。だが挨拶の言葉を口にはしない。“ギルドパクト”は彼らの中で最初に白髪が生え、最初に不眠という長き苦難に直面した者だった。彼は、自分自身とその能力を客観的に見つめることのできた者だった。彼は賢人だった。

 「確認してくれ」長い紙片を差し出して“理論家”が言った。その白い手袋が“ギルドパクト”の青い手袋に触れる。だがファイレクシア化の傷跡やプラグは、片方の外套の下にしか存在しない。

 ギルドパクトの間の廃墟に佇む、ひとりの人物のふたつの断片。壁の大きな穴はこの聖域が――仮想のラヴニカが抱く傷のようだ。外では灰色の雨が音を立て、冷たい風がタペストリーの残骸を揺らそうとする。“ギルドパクト”はこの場所に囚われ、自身の肉体に再び合流することも、眼下の数多の――偽りの――ラヴニカ市民の間を歩くこともできずにいる。彼は砕けた窓を背に、立ったまま紙片に目を通した。

 「崩壊しつつあるよ」そう結論づけ、“ギルドパクト”は紙片を突き返す。だが“理論家”はそれを受け取ろうとはしなかった。

 「もう一度確認しろ」彼は苛立たしげに答えた。

 “ギルドパクト”はかぶりを振った。「その必要はない。第二の証明を見れば明白だ」

 「それでも確認しろ」

 「かしこまりましたとも」歯の間に息の音を鳴らして“ギルドパクト”は言った。

 彼は“理論家”を嫌っていた。こちらのことをあまりにも深く理解しているというだけでなく、この男はあまりにも、「人」であることを嫌っている。何よりもそれが嫌だった。気持ちはわかる。他者というのは厄介なものだ。机に向かえと怒鳴り、問題を解決しろと迫り、本来なら誰にも下せないような決断を強いてくるのだから。だがこのジェイスは、テレパスにとって最も重要な真実を忘れてしまっているらしい――テレパスほど他者を理解できる者はいないという真実を。

 彼は尋ねた。「身体の調子はどうなんだ?」

 “理論家”は顔をそむけた。ギルドパクトの間の壁に開いた巨大な穴と、その向こうに広がる雨模様のラヴニカを見つめる。「おたからから手に入れた地図を、まだ封じ込めることができていない」

 「俺もその感覚は覚えている。よくまだ立っていられるな?」

 「セオリクスに保存した」

 「定理の間にか?」

 「いや、実習生たちの中に」

 “ギルドパクト”は目を閉じた。「それで、そいつらはどうやって生きているんだ?」

 その質問に“理論家”は答えない。「地図はなるべく手元に残しておいた。実習生たちはどうにかやるだろう」

 「おたからから複製するべきじゃなかった。セオリクスの実習生たちが完全だったなら、俺はもっと嫌な気分になっていたかもな」

 「いずれ完全になる」きっぱりと“理論家”は言い放った。

 “ギルドパクト”は相手を無視し、瓦礫の中から折れたペンを拾い上げた。床に膝をついて紙片を広げ、証明を乱雑な走り書きに変えていく。紙の上にペンを走らせ、数字を丸で囲み、別の数字に下線を引く。「第四の証明だ、途中が間違っている。変数の平衡状態を確保するための要素が足りていない。被覆を定着させるには、もっと強固な始点が必要だ」

 「その繋ぎ止めで十分足りる」

 “ギルドパクト”の身体が怒りに強張る――この男は、この自動人形もどきは。彼は怒りを隠そうともせず言った。「その繋ぎ止めってのは俺たちの身体なんだぞ。お前は人でなしの機械か」

 “理論家”は迫った。「第五の証明はどうだ? 神託者を計算に織り込み、生成仮定を自分の目で直接確かめるものだ」

 “ギルドパクト”はかぶりを振って立ち上がり、鼻で笑った。「可笑しいな。お前は俺たちを身体から切り離した。知っているか? それでも俺たちはお前の企みを追いかけているってことを」

 「お前たちには関係のないことだ」

 「俺たち全員が薄々わかっているんだよ。お前の行動も、その糞みたいな選択も。何兆もの命を奪うなんて理屈の上では可能だとしても、お前は実際にはたったひとりの神託者さえ殺せない。違うか?」

 “理論家”は射抜くような視線を“ギルドパクト”の左前頭葉に向けた。焼けつくように刺す激しい偏頭痛に襲われ、“ギルドパクト”の視界にぼやけた光輪が広がる。壁に開いた穴が、痛々しい輝きに明滅した。“ギルドパクト”が怒りのうめき声で反応すると、“理論家”は断言した。「この多元宇宙は何らかの現実との繋ぎ止めを必要とする。定理がそれを証明している。元の多元宇宙ならば――」

 「俺たちの故郷も」激しい頭痛に目をきつく閉じ、“ギルドパクト”はうめいた。「俺たちの故郷も上書きするつもりか」

 “理論家”は“ギルドパクト”に迫った。白い外套がその背後にひるがえる。「それが私たちに何をしてくれたというのだ?」

 微風が吹き抜けて聖域を冷やす。瓦礫から細塵が舞い上がる。“ギルドパクト”は息を整え、その動きで頭痛を振り払った。「失敗すればどうなるか、わかっているだろう」

 「別の選択肢はある。多元宇宙が崩壊するとしても、破綻するのはそのモデルであって――」

 「お前だよ。破綻するのはお前だ」両目を鋭く光らせて“ギルドパクト”は頭痛の名残を捨て、ギルドパクトの間の惨状を眺めた。

 これはまさしく、ニコル・ボーラスが幽閉されてから数時間後のこの場所の様子だった。ひとりの人物のふたつの面は、あの瞬間にこの場所で何が起きたかを覚えていた。ギデオンの犠牲を悼みつつも、心中では歯がゆく思っていた――あんなふうに犠牲になるのは、自分であるべきだった、と。

 「お前は現実よりも、生命の可能性を優先した」吐き捨てるように“ギルドパクト”は言った。

 「黙れ!」

 “ギルドパクト”の姿は大きくなったかのようで、その影は濃くなったかのようだった。この男は自身の無力さを痛いほど理解しており、ラヴニカ人のように率直に真実を口にする。またも近づいてくるその態度は挑戦的で、周囲の空気は氷河の雪解け水のように冷たく感じた。「俺を切り捨てた理由はわかっているんだろう? 自分たちが手に負えない事態に陥った時、それを認めようとする唯一の部分が俺だからだ」

 “理論家”は背を向け、部屋の隅にポータルを作り出した。「そんな話は必要ない!」

 “ギルドパクト”は一歩も引かなかった。相手を宥めるように両腕を広げる。「俺たちにしか直せないことだ! けれど直すべきことが多すぎる!」

 “理論家”は片手を一振りした。“ギルドパクト”はただちに深い眠りに落ち、鈍い音を立てて瓦礫の山へと倒れた。


 領界路経由での旅を強いられることの屈辱は、まだ記憶から消え去ってはいなかった。無力感。今の自分はかつての自分の影に過ぎないように思えた。背負い袋の紐を締め直しながら未舗装の道をまたも辿り、小川をまたも渡る。もっと速やかにストリクスヘイヴンへ至る手段も存在してはいるが、ラヴニカを拠点に運営されている。利用することはできなかった。

 丸一日かけて、ヴラスカは蚊だらけの沼地が点在する平原を横断してきた。一歩踏み出すたびに足が泥炭の中にずぶりと沈み込む。聞こえてくるのは、遠くで何かが別の何かを捕食する水音のようなものだけ。この旅は屈辱そのものだった。嫌悪しかなかった。今もなお、悪趣味な冗談のように思えてならなかった。

 日没までに次の領界路に辿り着く見込みはない。そこで夜営に適した広さの地面を見つけると、ヴラスカはいそいそと準備を始めた。天幕の杭と一緒に、胸中のわだかまりも地面に打ち込む。かつては野営なんて必要なかったのに。道すら必要なかったのに。それでもヴラスカは寝場所を整え、ミズゴケの上に毛皮製の寝具を敷いた。火打石を持ち歩く習慣もつき、道中で小枝を拾い集めることも覚えた。とはいえその行為は大嫌いだった。都会の女がするようなことではない。

 寝具の毛皮の上に横たわり、星空を眺める。周囲の背の高い草の間を、ホタルや鬼火が飛び交っている。今だけは心地が良い。やがて、彼女は目を閉じた。

 3年前、ラヴニカのあの屋上でジェイスが心を元通りにしてくれた。だがそれ以来、ヴラスカの見る夢はどこか違うものになってしまっていた。

 違う、は正確な表現ではない。濃密になった。強烈になった。恥ずかしさを感じるほど記憶に残る夢。まるで何者かが自分の想像力を刺激していて、その響きの中から意味を見出そうとしているかのような。掌握しようとしても、夢の手綱は手から滑り落ちるばかり。彼女は今や夢に服従していた。それは毎晩のように襲ってくる力だった。

 見たいのは再会の夢だった。温かな抱擁と、死を欺いて勝利した瞬間の夢を。見たいのはジェイスの夢だった。かつてのジェイス、あの愛しいジェイス。あのままの存在のジェイス。

 だが夢に支配されると、内なる葛藤から逃れて安らぎを得る望みはすべて消え失せてしまう。

 感覚がやって来る――従順、麻痺、無防備、そして服従。

 空気には香の煙が濃厚に立ち込めている。視界が揺れ、足元の絨毯が踊るほどに。それとも、煙の中に何かが潜んでいるのだろうか? そもそも、本当に煙なのだろうか?

 ここは、とある作戦室の中央。

 壁はハンノキ製の板で覆われ、大きな天窓からは曇り空の薄い光が差し込み、繊細な模様が施された石造りの床を照らしている。その床の上に見えるのは、自分が何よりも大切にしている衣装の裾だ。

 身にまとっているのは、かつての――ゴルガリの女王としての装いだった。部屋は立会人で埋め尽くされていた。彼らは寒さを凌ぐために厚手の羊毛や絹の衣服をまとっており、そのどれもに、同じ青い模様を元にしているらしい意匠が織り込まれていた。その模様をヴラスカはよく知っていた。ラーナの腕輪に飾られていたものと同じ――もし結婚を承諾すれば自分も身につけると約束されていたもの。

 そしてそこに、目の前に、唐突に、巨大な頭蓋骨の――人間だろうか?――前に座しているのは、ジェイスだった。

 ほんの一瞬ヴラスカの心は悲しみに掴まれ、だが彼は現実世界に生きていると思い出す。とはいえ、このジェイスは自分が知るジェイスではない。夢の論理に従い、ヴラスカはこれが何者かを理解する――アルハマレットを殺さなかったジェイス。あるいは、その頭蓋骨から判断するなら、後になって師を殺したジェイス。

 ベレレン将軍はゆったりと腰を下ろしており、両手は膝の上に置かれている。五枚重ねのローブがその身を覆っており、彼の輪郭を幾重にも大きく見せていた。顎は高く上げつつ、眉間には深い皺を寄せている。今やその顔一面を覆う刺青の、白く複雑な模様の奥から、貫くような青い瞳が睨みつけている。その線の一本一本に深い意味が込められていることは明白だ。彼が座す背後には大きな一枚の絵が飾られている。魔道士輪に結び目や短剣が組み合わされたもので、その両端には都市の情景が、そして中央に配置されているのは、下方が切れて払うように伸びる円――ベレレンの印章だ。

 自分はこの男を愛しているのか、恐れているのか、それとも憎んでいるのか――ヴラスカ自身すら確信が持てない。だがそのどれでもなく、全く別の何かだとしたら? 恐怖に彼女はぞくりとした。

 部屋の扉は消え失せていた。

 この心の不安を身体に悟られたくはない。不意に、部屋は当初気づいていたよりも混み合っていた。天井が手ひとつ分ほど低く感じられた。

 彼女はジェイス・ベレレンに尋ねた。「お前は誰だ?」

 「貴女を怖れさせている、その部分ですよ」彼女はベレレン将軍の視線を真っすぐに受け止めようとした。だが彼の皮膚に刻まれた物語に目を奪われずにはいられなかった。

 彼は立ち上がった。絹や羊毛や毛皮でできたローブの裾がその足元に広がる。ヴラスカは動けなくなっていた。不安のせい、それともジェイスのせいだろうか? あるいは自分自身の偽善によってこの場に釘付けにされているのだろうか? ジェイスはローブの裾を引きずって歩き、それは石の床に滑らかなこすれ音を立てていく。彼は今なお立ち尽くしたままのヴラスカに近づき、身体を寄せて見上げ、その顎に唇を近づけて囁いた。「貴女はこんな存在と化すことを怖れていた。この俺が、それです」

 突如、ヴラスカは動くことができなくなった。喋ることもまた。ただ睨みつけることしかできない。彼を石に変えようと魔力を込めるが、どうあがいても実行に移すことはできなかった。

 「俺は貴女の恋人で、殺人者で、指導者です。そして怪物でもあります。貴女が直視できない自分自身の闇を見つめることもできます。愛しの偽善者さん。わかりますか? 俺は、相手を石にすることもできるんですよ」

 ヴラスカの心臓が恐怖で激しく跳ねた。身体を動かすことを脳が許さない。身動きが取れない。叫ぶことも、戦うこともできず、できるのは呼吸と瞬きのみ。

 「その闇に怯えているんですよね?」将軍は喉を鳴らすような声で言い、その瞳は鮮やかな空色に輝いていた。

 「ああ」ヴラスカの返答は真実でもあり、強制されたものでもあった。不意に、束縛が消え失せる。彼女は床に膝をつき、手を胸にあてた。

 「なら、俺は何者ですか? それ相応の死を迎えるべき者ですか? 俺は本当の自分について、貴女に嘘をつきましたか? 貴女は貴女自身に嘘をつきましたか?」ジェイスは顔を近づけ、両手を彼女の顎に添えた。「貴女は善き者ですか、それとも怪物ですか? 自分の甘さに苦悩して、子供みたいな選択をしましたよね、ヴラスカさん。けれど俺は一度だって、思い悩んで傍観するだけなんてことはありませんでした」

 ベレレン将軍が目の前にいる。髪からは雨に潤う土のような香りが漂い、毛皮には香の煙が残っているのがわかるほどに。

 愛する男の顔をしたその将軍は、彼女の頬に優しく口づけをする。「俺は善き者でしょうか、それとも許されざる怪物でしょうか?」

 これは幻影なのだ――彼の口が不自然なほどに大きく裂け、両目には青い炎が宿る。これは幻実術なのだ――むき出しにされた歯は牙のように鋭い。このすべては幻だ――四肢はあまりにも長い。

 彼の唇が頬をかすめる。「どちらにもなれます」

 ヴラスカは跳ね起きた。

 自分の顔に、喉に触れる。

 周囲の沼地がざわつき始めていた。頭上には星が瞬き、寝具の毛皮の周囲に小さな光が舞っている。風が、桃色をした草の海をさらさらと揺らしている。

 恐怖に、彼女は息を切らしていた。

 夢だ。

 ただの夢だ。

 けれど夢というよりは、覗き窓のようなものだった。

 深い、とても深い溜息をつく。この不安の正体はわかっている。どうして今の夢がこれほどまでに自分を動揺させたのかも、はっきりとわかっている。

 ジェイスとは何者なのだろう?

 あのジェイスを見た時……彼は死んだと思ったあの時……自分は去った。見捨てたのだ。不安定な性質に、移ろう価値観に愕然として。けれどあの夢は正しい。身震いをして息を吐き出す。毛皮を身体に引き寄せ、湿気の多すぎる空気を吸い込む。命をかけて愛した相手は、何者だったのだろう? ジェイスとは何者だったのだろう?

 善き者であり怪物、その両方。その事実を悟ることは同時に、悲痛な羞恥心と熱い反抗心を抱くことでもあった。そしてジェイスはそのどちらでもない。

 けれど今はもう確信が持てずにいる。

 水面は静かで、星々は遠い。自分が間違いを犯したような気分に苛まれる。

 明日には領界路に辿り着き、その先に広がる新たな多元宇宙と対峙するのだろう。けれど今はこの悲しく孤独な夜を、羽毛のような草の穂先に踊る鬼火たちを眺めながら、眠れぬまま過ごすのだろう。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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