MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 05

第5話 説得の必要はありません

Alison Lührs
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2026年9月4日

 

最初の試み

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アート:Néstor Ossandón Leal


 彼女が階段を上ってくる気配を察し、“理論家”はペンを取り落とした。彫像の眼差しを通して、扉の鍵穴に施された防護を通して、そして彼女がその精神と共にまとう唯一無二の気配を通して――“理論家”は彼女が近づいてくる様子を数多の眼で見つめた。

 ヴラスカがここに来ていたとは。

 意を決して階下へ向かい、あの神託者を今度こそ殺そうとしていた矢先のことだった。まさに勇気を奮い起こそうとした瞬間のことだった。まだ姿は見えない。だが彼女やその同行者たちが近づいてくるのは感じ取れた。螺旋階段を上ってくる彼らの精神は、まるで繊細な陶器のような気配を発していた。階段を上る一歩ごとに、ひしひしと伝わってくる。具体的に誰なのかも彼は判別できた。騒がしい音と激しくうねる感情――チャンドラ。固く守られた内側を隠す鬱蒼とした密林――ガラク。ガラク? これは面白い。そして陽光の中で磨かれてはくすみ、また磨き上げられる青銅のような気配――言うまでもなくアジャニだ。だが即座にそれとわかる心は、列の最後尾にいた。最も長い時を共に過ごしてきた心。輝く鋭い結晶のような心が、あの人にしか作り出せない岩盤に座している。

 四人全員が聖域になだれ込み、一秒足らずのうちに三人が床に伏した。

 自分が出会った中でも最強の紅蓮術師、当代最強の狩人、そして名高い指導者にして戦術家。その三人が揃って、不快な音を立てて聖域の床へと倒れた。続けて“理論家”は指を鳴らし、すると三人は夢なき眠りに落ちた。だがヴラスカは――ヴラスカはそうではなかった。毅然と立ったまま、黄金の瞳をこちらに向けている。もう三人は武器も魔法も忘れ、床の上で穏やかな寝息を立てているというのに。辺りで魔道士輪がうなっていた。笑みを浮かべるほどの余力は“理論家”には残っていなかったが、彼は達成感とともにその手を下ろした。

 「三人は大丈夫です」

 あまりにも難なくやってのけた自分の姿を見たのだろう。ヴラスカは恐怖に声を潜めて何かを呟いた。何しろこちらは部屋の隅から、瞬きよりも早く三人を無力化したのだから。

 “理論家”は彼女の心に片足を置いたままでいた。もっと複数がいた頃の自分であったなら、他者の思考をこんなにも軽々しくなぞるようなことは決してしなかっただろう。だがそんな部分はもう捨て去ってしまった。

 「この通り、生き延びました」

 「そう聞いたよ」

 “理論家”は彼女へと歩み寄り、聖域にその足音が響き渡る。頭上には寒色を帯びた高いアーチが弧を描き、魔法の光が壁を照らし出して長い影を落としている。彼女が見つめているのは自分ではなく、背後にある黒板だとわかっていた。

 「生き延びたことを祝ってくれるために来た、わけではないんですね」

 「違うよ。彼氏を止めるために来たんだ」

 その言葉に“理論家”は動きを止めた。何かが胸の内で揺れ動く。「彼氏。今でも、私はそういう存在なんですか?」

 ヴラスカの心に何かが流れ込むのを“理論家”は感じ取った――恐怖。苔むした黒い石の上をかすめ、泡立ちながら流れていくような。彼は鼻で笑うのをこらえた。恐怖? なぜ自分を恐れる必要がある? 別れた時の様子からすれば、自分が生きていたことに安堵するか、あるいは説得すれば聞き入れてくれると確信しているはず。だがどう感じていようと関係ない。こちらは決して敗北しないということを、今まさに今証明して見せたのだから。

 ジャズィを殺せていれば、こんな状況にはなっていなかったはず――そんな痛烈な真実が割り込んでくる。“理論家”は顔をしかめた。畜生、やってやるとも。この後で。本当に。

 「ジェイス」彼女が呼びかけてきた。それは完全だった頃の自分の名前、そう思い出すのに一瞬の時間を要した。「もう諦めた方がいい。私らは頑張ったよ、本気で頑張った。でも上手くいってないってことはお前もわかってるはずだ。お前にも、止める意志はあるはずだ」

 これは予期していたことだった。彼女は理屈ではなく感情に従い、こちらを捨てたのだ。自分たちの戦いは高潔なものであることを彼女は忘れてしまっている。“理論家”は同僚のように、学者同士がそうするように語りかけた。

 「意志と能力は対をなして存在します。私には計画を完遂する手段があります。貴女はここで、それを目にしています。私にその意志があることもご存じですよね」

 ヴラスカの触手の髪がぴくりと動くが、その表情には何も浮かんではいなかった。「お母さんから頼まれたものがある。これを渡してくれって」

 小さな包みを手渡されると、“理論家”の心臓が跳ねた。それは彼の家系の色であり、円と線からなる模様が織り上げられていた。青い布に包まれていたのは、錆びた蹄鉄だった。手から力が抜け、床で大きな音が響く。ピューターの蹄鉄。自分が初めて生み出した幻影、その元となった馬のものだった。

 即座に思い出す――幼い頃に飼っていたペットを失った時の、のしかかるような悲しみを。集合住宅の管理人が慰めようとしてくれたものの、それは徒労に終わったことを。そしてジェイスという名のその子供が、夜闇の中でこっそりと階下へ降り、愛するピューターの複製を全身全霊で作り出したことを。

 この意味は明白だ――計画を止めずにいることは、幻影への愛着でしかない。落ちる蹄鉄をヴラスカは見つめていた。彼女はそれが何であるかを理解してはいたが、その意味にまでは至っていないことは、表情に浮かぶ驚きがありありと示していた。

 「私は、幻影に囚われてなどいません」苛立ちを隠しきれない様子で、“理論家”はヴラスカへと歩み寄った。無防備に眠るガラクを避けるように通り過ぎ――ガラクならば自分を止められるとでも思ったのだろうか――彼女の手をとる。

 すぐ目の前にヴラスカがいる。その額に虫刺されの痕が見え、靴についた泥炭の匂いも感じ取れる。つまり、領界路を歩いてここまで来たということ。運命は非情だ、私の船長にそんな徒歩の旅を強いるなんて。「完了させるために必要なことは、すべて把握しています。定理は正しいですし、証明はどれも私たちの仮説を裏付けています」

 組み合わされた自分たちの手を、ヴラスカは見つめた。「何でそんな言い方をするんだ?」

 “理論家”はかぶりを振った。「貴女の言う通りでした。死は生命の一部です。その循環を全うすることで、痛みのない世界へと導かれるんです」

 ヴラスカは戸惑うように瞬きをした。視線を交わすと、彼女の表情に懸念が浮かぶ。「どれくらいの死者が出るんだ、ジェイス?」

 “理論家”はあえて身動きひとつしなかった。「数値はまだ不確定です」その言葉の真実を彼女が読み取れることはわかっている。「あらかじめ、大きな行動で示すことは合意したはずです」

 「私らが合意したのは、無かったことにするってことだ。殺戮じゃない。あの侵略を無かったことにして、それで救われる命の数で失われる命を埋め合わせる。そうだったはずだ。けど、これは無かったことにしてるんじゃない。何なんだこれは、多元宇宙ひとつを作る? どれだけ死ぬことになるんだよ、ジェイス?」

 「論点はそれじゃないですよ、ヴラスカさん」

 「違う――」

 彼は自分たちの意識へとひとつの記憶を流し込もうとした。だがすぐに、ヴラスカがそれを拒絶したがっていることを察した。

 自分たちの傷跡はまだ新しい。母の住居に漂う蝋燭の光は薄暗い。ふたりは卓に身を寄せ合い、目の前には数学的証明の数々が散乱している。ジェイスは頭を抱え込み、ヴラスカは彼をしっかりと抱きしめている。

 「何でこれを私に見せるんだ?」

 彼は重い溜息をつき、その数字を口にする――上書きされてしまう命の数、つまり死ぬことになる命の数を。そしてヴラスカは何も言わない。

 「こんなこと、起こってないよ!」

 ふたりは黙して座ったままでいる。ラーナは何時間も前に寝室へと下がり、時間の感覚は失われて久しい。茶もすっかり冷めきってしまった。ヴラスカが身を乗り出し、恐ろしい、けれど真実でもある言葉を囁く。「死ぬことは命の一部だ。再生を望むなら、そこには死が必要なんだ」

 「そんなこと、一言も言ってない!」

 彼女は震えていた。もう手は放されている。泣いてはおらず、かぶりを振るだけだった。触手の髪が逆立ち、瞳が光を捉える。その怒りはあまりに強烈で、鐘を鳴らすように“理論家”の感覚に響き渡った。

 「私らは沢山の命を救うはずだった。こんな場所を作るつもりはないって言ったじゃないか。お前は、善良な奴だったはずだ」

 「善良なのは、私のどの部分ですか」

 ヴラスカの唇が震えた。

 “理論家”は尋ねてくるように見つめた。わずかに残った好奇心。「邪悪なのは、私のどの部分ですか?」

 彼を構成していた、今はここにいないあらゆる部分は、おそらく“理論家”自身を指さすことだろう。だが“理論家”が記憶しているのは、黒板に書き殴られたものや、教科書に不朽不変のものとして記された事柄だけだった。論理そのものに善や悪があるというのだろうか?

 「お前は人殺しだよ、ベレレン」ヴラスカの言葉が痛烈に刺さる。何故なら、それは“理論家”によっては真実ではないために。彼女は続ける。「けど、望んで殺したわけじゃない。それでもこれからすぐに、お前は自分の意志で何十億人を殺すことになる」ヴラスカは威圧するかのように踏み出した。吐き出す言葉の刃とともに、触手の髪がうねる。「今すぐやめろ。そうしなきゃ、お前は何の意味もなく私ら全員を死なせることになる」

 “理論家”は震えていた。残されたものはあまりに僅かで、その僅かなものさえも打ちのめされている。この自分を守ってくれる部分はもはや存在しない。彼女の目に映るこの身は、かつて自分自身が何よりも嫌っていた存在そのものだった。真に理解してくれていた唯一の人物が、今やかつての自分の悪夢としてしか見てくれていない。何もかもが間違った方向へ進もうとしている。もう一度やり直さなければならない。自分は論理であり、理性であり、自分自身であるというその事実によって正しい存在なのだ。それこそが、自分という者なのだから。

 「ごめんなさい、ヴラスカさん」彼は声を震わせた。

 そして彼女に、ひとつの知識を持たせる。私を力でねじ伏せることはできない。私は説得されはしない。私は止まらない。

 目覚め、立ち上がれ。眠る者たちへと彼はそう命じた。三人は――アジャニ、チャンドラ、ガラクは我に返ると一斉に駆け出した。ヴラスカには驚く余裕も、理由を尋ねる余裕もなかった。事態を理解したその時にはもう、そこまでの数分間の記憶は“理論家”に奪われていたために。

二度目の試み

 彼は気を取り直した。

 四人はいつ戻ってきてもおかしくない。

 考える――自分は何を言いたいのか、どう進めたいのか。何よりも、あの人に傍にいて欲しい。オブゼダートの全財産よりもそれが欲しい。けれどヴラスカの方は、これを止めてほしがっている。それでも止めるわけにはいかない。

 四人はまもなくここにやって来る。“理論家”は代替案を練ろうとした。最善なのは、ヴラスカに危害が及ばない案だ。彼女を説得しなければならない。自分はベレレンという存在の、論理そのものなのだから。こちら見解の核心にある理屈に耳を傾け、払われるべき犠牲についても理解してくれるはずだ。ヴラスカは賢い。きっとわかってくれるだろう。

 足音が階段を駆け上がってくる中、“理論家”はフードを下ろした。頭上の天窓から差し込む真昼の陽光は温かい。ひとつ深呼吸をし、右手を掲げ、両足にしっかりと体重を預けて姿勢を安定させる――ずっと昔に学んだ通りに。

 彼らが二度目に正面入り口から突入してきた。騒々しく怒りに満ちた叫びが聖域を満たし、そして“理論家”の手の一振りによって静まった。

 四人全員が動きを止めた。

 今回はヴラスカも含めていた。この手で彼女もまた、ひとつの彫像と化した。注意深く間を見計らい、駆けてきた瞬間を捉えたのだった。

 “理論家”は聖域の演壇から降り、足が床板をかすめた。その音は頭上の魔道士輪へと響く。“理論家”の影が床を横切っていく。

 ヴラスカの視線が素早く向けられた。目の動きだけは拘束していなかった――こちらに注意を向けていることを確かめたかったのだ。そして“理論家”は彼女の舌と顎を解放した。

 「お前、どうしちまったんだよ!」ヴラスカは罵るように言った。“理論家”は彼女と向き合って立ち、片手でその顎へと優しく触れた。

 「引いてください、ヴラスカさん」

 「引くものか!」敵意をむき出しにした返答。これは計算違いだった。ヴラスカまで拘束するのは、一線を踏み越えた行いだった。これでは信用してはもらえない。

 “理論家”はひとつ息をついた。今回も上手くいきそうにはない。「計画は上手くいくはずです。私たち全員が上書きされることになります。痛みはなく、喜ばしい安堵になるはずです。貴女にも、私を止めることはできません」

 知覚の隅で、ヴラスカの両目に力が込められていくのを感じる。だが彼は鋭い動作ひとつでそれを揉み消した。予期していなかったかのように、ヴラスカは唖然とした。

 「私を石にしようとしたんですか?」傷ついた様子で彼は尋ねた。

 「お前は、お前じゃない」ヴラスカはうめき、動きを封じられた身体で必死に抗った。「自分自身に何をしたんだ? お前はこんなことをする奴じゃない」

 「やりますよ、私の一部は」彼は正直に言い、そして少しして続けた。「もし頼んだら、引いてくれますか?」

 ヴラスカの唇が怒りに引きつった。「お前、何をしたんだ? どうやって生き延びたんだ?」

 どう説明すればいいものか、“理論家”は考えを巡らせた。「自分自身を組み立て直したんです。けれど、ひとつに保つことはできませんでした」

 ヴラスカは衝撃に目を見開いた。やはり、今回も上手くいっていない。どう言葉にするのが最善かと“理論家”は思案したが、やがてそれを諦めた。彼はヴラスカの頬に手を触れ、目を閉じた。


 あれは、死んだ翌日のこと。自分は今や自分たちとなり、そして砕け散ってしまっていた。

 自分には、自分たちには肉体はなく、瞑想領土の法則によってのみ繋ぎ止められた精神に過ぎなかった。ジェイスを構成する各部分は、互いをかろうじて繋ぎ止めてはいるものの、それは手もないままに掴み合っているようなものだった。自身の基盤は砕けて散乱してしまっていた。ジェイスはさながらひとつの列島、複数の自己の連なりだった。ゆっくりと離れつつある所を、浅い水を介して互いにしがみついている。このままでは自身の形を保てなくなるだろう。生きるためには行動を起こさねばならない。そして単に生きるという思いではなく、可能性への思いこそが、起こさねばならない行動を確固たるものにする。

 呪文は失敗した。何故失敗したのかは思い出せない。今わかるのはただひとつ、自己を手放してはいけないということ。放したなら死んでしまう。まだそのつもりはない。まだ死にはしない。

 自己のひとつが示唆した。瞑想領土には創造の力があると。あの古龍、ニコル・ボーラスは決して気づかなかったもの――あのトカゲは好奇心というものを持っておらず、見ようとすらしなかったのだ。だがその片割れであるウギンはもっと多くを知っていた。ジェイスはあの精霊龍に思いを巡らせ、そしてウギンがかつて行ったに違いないことを再現しようとした。この場所が本来持つ力で肉体を形作り、砕け散った自己たちをそこに注ぎ込むのだ。

 肉体を織り上げていく。頭部を形作り、心臓の鼓動を刻む。そして瞑想領土がそれに息吹を込め、現実のものとする。

 すべてを終えて、その場に崩れ落ちる。荒く息をつきながら、何が起きたのかを必死に理解しようとする……だが確かなことは、異なるふたつの自己が告げるものだけだった。「すべてをやり直せ」とひとつが言う。「生きろ」と別のひとつが懇願する。

 その断片をまとめることができない。互いがあまりにもかけ離れていて、あるひとつの自己が主張する計画はあまりに忌み嫌われたために。互いを激しく拒絶し合っていたために。

 自己たちは言い争い、離れようとする……だが、奇跡的にも、共通の目標の下でひとつにまとまった。

 その理由を“理論家”は正確には思い出せないが、自分たちは次に何をしたかは覚えていた。自分自身と協力し、ひとつの「ポケット」を――部屋ひとつほどの広さを持つ、自分だけの小さな次元を作り出した。それは極度に消耗する、それでいてなお魅力的な経験だった。自分のすべてがその創造に注ぎ込まれた。部屋は質素なもので、ギルドパクト庁舎にあった自分自身の居住区画を模していた。寝台の上はひどい有様で、並んでいたはずの本や鞄や書類もまるで落ち葉のようにそこかしこに散乱していた。部屋全体が大惨事だったが、ただひとつ、中央に置かれた松材の長テーブルだけは例外だった。その上にあったものはすべて脇へと押しやられ、端に鏡がひとつ置かれていた。

 そしてジェイスは、完全な姿のジェイスは、テーブルの上座へと移動すると両足をしっかりと床につけて立ち、両の掌をテーブルに置き、重く息をついた。

 遥か昔に忘れたはずの呪文、その冒頭を囁く。

 『重要な理由があってのことでした』記憶を共有しながら、“理論家”はヴラスカへと語った。『理由を明かすことはできませんが』

 部屋が窮屈に感じてくる。作り出された次元が、その内部で創造者が発している魔力に反応しているかのように。

 『ボーラスは瞑想領土を、単に自分の想像通りの姿にするためにしか使っていませんでした。ですがウギンの方は、もっと多くのことを知っていたんです。あの精霊龍は瞑想領土を使って、自分自身を再構築しました――私と同じように。けれど私が必要とした第二の呪文は……それを知ったのはずっと昔のことでした。当時、それは最も複雑な幻実呪文でしたが……試す理由はありませんでした。魔法で人ひとりを作り出す代償が、ひとつだけあります』

 ジェイスの額を汗が伝い落ちた。そしてテーブルの上に身を投げ出し、震え、うめきながらも呪文を続ける。あの鏡を覗き込み、自分自身の姿を凝視し、両手で掴む。そして立ち上がると鏡を上に向けて置き、瞳を輝かせながら呪文の続きを唱える。力のすべてを呪文に注ぎ込むと、部屋そのものが少しずつ縮小していった。

 不意に呪文を中断する。

 何かが胸から抜け出していく。光の環、それとも鬼火のようなものか。高山の、果てのない湖の水面に立つさざ波のような、澄み切った青色をしている。自身の内側にしか存在し得ないもの。

 それはふわりと浮遊し、離れ、鏡へと降下していく。

 見つめていると、それは鏡に映った自身の姿へと沈んでいく。

 下へ、そのまま下へ。

 ジェイスは息を整え、そして眉間に皺を寄せ、呪文を締めくくる言葉を将軍さながらの力強さで放った。

 右手を鏡の中へ突き入れると、手はガラスではなく宙を突き抜けた。身を乗り出す。何かを引きずり出そうとするかのように。

 人、いや人の形をした青い煙のようなものが現れた。ジェイスは息を切らしながらそれを鏡から引きずり出し、鏡から抜け出るのを助け、テーブルの上へと横たえた。その形は定まっておらず、ただ身体を思わせる輪郭があるだけだった。実体というよりは、気体と魔力が混ざり合ったようなものだった。

 ジェイスはのけぞるようにして水を一口あおると、部屋の隅にある時計を確認した。焦ることのないよう、念のためそれに布を投げて隠す。

 そして詠唱を行う。

 すると呼応するかのように、その存在が形をとり始めた。

 『丸二日と半分を要しました。ここが一番重要な部分でした。離れることなく、自分自身をひたすらに注ぎ込むことで、それをこの子へと変えなければいけなかったんです』

 時が流れる。その形が姿を得ていく。顔。両耳。肌。

 『この子をゴルゴンに似た姿にするという意図はありませんでした。あれは……無意識の影響でした』

 触手は編み髪に変わる。両腕を伝って淡い緑色が広がっていく。

 『求めていたものではありませんでしたが、まさに私が必要とするものでした。修正の必要がないものを、あえて直そうとはしません』

 ジェイスは呪文を続けながら見つめる。最初は驚き、そして微笑み、かつ笑い、かつ痛みをこらえながら。

 『ヴラスカさんの影響があったのは当然です。ないわけがありませんよね』

 ジェイスは口元を引き締めて笑みを浮かべ、同意するように頷く――そう、そうです。これこそ求めていたものだと。

 『いつの日かこの子が完全なひとつの存在になれるように、必要なものはすべて与えました』

 額に手を当て、生涯ひとつ分の経験と知識を注ぎ込んでいく。その子が子供ではなく、大人として目覚めるように。幾度となくジェイスはよろめき、倒れ、それでも立ち上がって詠唱を再開する。その子が完成するまで彼は唱え続けた。完成する時は、その完成を確かに感じ取った時。

 ジェイスは胸を押さえ、苦しく喘ぐ。手を放すと、青い光の一筋がそこに張り付いていた。以前と同じ光。続いてその子の心臓の上に片手を置き、魔力を注ぎ込んでいく。

 呪文を締めくくる最後の一言が発せられると、女の子は初めての息を吸い込んだ。

 『代償というのは、二度と取り戻すことのできない自身の一部なんです』

 ジェイスは溜息をつき、“理論家”もまた溜息を返した。

 “理論家”は震えていた。ヴラスカの目尻に浮かぶ涙がかろうじて見て取れる。怒りの涙だ。他にも涙の理由はある、けれど口に出すのははばかられた。

 「何でその子を作ったんだ?」

 理論家はまばたきをし、当惑した様子で首を振る。「言うことはできません」

 「何でだよ?」

 「もう、私というものはほとんど残っていません。思い出せないんです」

 「人ひとりを作り出しておいて」ヴラスカは吐き捨てるように言った。唾の飛沫が“理論家”の頬にまで飛ぶ。「その理由を覚えてないだって?」

 「あの子は重要な存在なんです! そして私の一部を宿しています。けれど、それが何なのかはわからないんですよ! 私にわかるのはそれだけなんです!」

 ヴラスカはうめき声を発した。「お前を止めなきゃいけないんだよ!」そう叫び、身体の拘束に必死で抗う。「こんなお前は――」

 「私です」ヴラスカに代わって“理論家”が締めくくった。「沢山の私のうち、勝利したのがこの私という部分です。苦しみのない未来のためなら、どんな代償を払う価値もあると理解している部分です。どうか引いて下さい、ヴラスカさん。まだ愛しています。貴女に私は止められません」

 ヴラスカは苦悶の叫びをあげた。「あの子はどうなるんだ? あの子も死ぬんだろ! あの子も、私も死ぬ。おたからも死ぬ――お前、私たち全員を破滅させようとしてるんだよ!」

 また、まずい流れになっている。まただ。畜生。間違っている。

 “理論家”は両手を彼女の額にあてた。「すみません。もう一度試してみます。ですが、ひとつ学んでもらわなければならないことがあります」

 そしてまたも、彼は四人全員の記憶を消去して送り出した。決意を固めてもう一度来るように。だがその際、“理論家”は彼女にひとつの重要な事実を植え付けた。

 『私は人をひとり作り出しました。ですが私のこの部分は、何故そうしたのかを覚えていません。あの子は守られなければなりません』

三度目の試み

 三度目。今回はせめて中まで通してやろうと彼は決めた。

 “理論家”は聖域の中央へと進み、友人たちが階段を駆け上がってくる気配を感じ取ると、彼らに向けて意志を発した。

 『私が最後までやり遂げなければ、すべてを正す好機を逃してしまうことになる』――彼はそれぞれにそう伝えた。そしてヴラスカにだけ付け加える。『あと少しなんです、ヴラスカさん。あと少しで構造を確保して、苦しみのない永遠を確固たるものにできるんです』

 四人がなだれ込んできた。今回はヴラスカが先頭に立っていた。彼女は確信に満ちた声で言い放つ。「私らを説得できるなんて思わないことだね。お前を放っておくわけにはいかないんだ!」

 何てことだ。

 “理論家”の瞳が燃え上がる。いいだろう、理解した。目的意識が“理論家”の心に光を投げかけ、隅々に潜むあらゆる影を焼き尽くしていく。笑顔を浮かべるわけではないが、心は軽く感じられる。それまでは決して理解できなかったことを、彼は今や悟っていた。

 「説得の必要はありません」その命令は暗く、穏やかだった。

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アート:Danny Schwartz


 四人全員がその場で立ち止まった。互いに顔を見合わせ、それからゆっくりと“理論家”へと向き直る。

 「その通りだ、ジェイス」ヴラスカが言った。指示は明確で、彼女の心に疑いはない。

 “理論家”の心臓が激しく高鳴っていた。私は次に何をするのだろう?

 私は科学者だ。

 科学者は実験をするものだ。

 瞳が再び輝きを帯びる。異を唱えるような部分など、自分にはもう残っていない。「他の連中が俺を止めるのを、阻止してください」

 すぐさまヴラスカは振り返った。触手の髪を大きく広げ、その瞳には石化の魔力が燃えていた。

 チャンドラはきつく目を閉じた。反応するようにその皮膚が熱を帯びる。彼女はヴラスカへと叫んだ。「邪魔しないでよ!」

 ガラクは躊躇しなかった。彼はアジャニへと斧を振り下ろし、アジャニも自身の斧でそれを受け止めた。

 そして“理論家”はその様子を見つめ、戦慄した。

 ごく僅かな時間ではあったが、その感情を吟味する。これは自分が望んだこと、ならばどうして葛藤を感じるのだろう? 異を唱えるような部分はすべて切り捨てたはずだ。ならば、この冷たく忍び寄るようなおののきは一体どこから来るのだろう? 仮説を立てる――自分は人間だ。友を戦いへと駆り立てることに対し、罪悪感を抱かずにはいられないのだ。データを取る――チャンドラが炎をアジャニへと放つ度に彼が身をすくませる様子、ガラクほどの強者がこの命令に抗う力すら持てないという事実、そしてありえない行動をとるヴラスカ姿を目の当たりにした“理論家”の胸が痛みに締め付けられるという……。

 「もういい!」彼は叫び、命令を払いのけるように手を振った。四人全員が我に返った。

 四人は息をつく――打撲や火傷、切り傷を負いながら。その沈黙が怒りへと花開いていく。

 “理論家”にとっても止め時だった。実験結果は出た。断固として彼らを阻止しなければならない。

 チャンドラが真っ先に突進してきた。片手を突き出し、指を広げて迫ってくるのが見える。室温が数度上昇するのを感じ、だがチャンドラが狙いを定めて炎を放つよりも早く、“理論家”は眼光の一閃で相手の動きを止めた。そしてすかさず、彼女の意識の最前列へと飛び込む。両目のすぐ上の領域へ。そして満足のいくひねりを加えつつ、重々しい視線の山々と危険という広大な深淵との間をかろうじてすり抜け、探していたものを見つけ出した。それは沢山の行き先をもつ分岐路とその中心に立つ一本の柱、すなわち「確信」だった。彼は行き先それぞれに障壁を立て、中心部を霧で満たすと、侵入時と同じく速やかにそこを去った。

 紅蓮術師の動きが鈍り、ふらついて止まる。まるで四肢が濃厚な糖蜜に絡めとられているかのように。素早く動いているのは瞳だけだった。答えを求め、あちらこちらへと視線を彷徨わせる。チャンドラは身動きがとれず、麻痺したかのように立ち尽くした。「どうすればいいの?」誰に向けてでもなく、かすれた声で問いかける。目を合わせることもできない。「どうすればいいの?」

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アート:Anna Podedworna

 ガラクはすべきことを心得ているようだった。斧を高く掲げた巨体が突進してくる。“理論家”は思い出した――この男は幻影を見破ることができるのだ。問題ない。もっと悲惨な死に方はいくらでもある。瞬きにも満たない間に彼は相手の脳内へと入り込み、筋肉へと指令を伝える電気信号の流れを探り当てた。閃光のような奔流のひとつひとつが、命令を運ぶ使者だ。“理論家は”それらに意志を送りつけていく――止まれ、眠れ。電気信号は激しく乱れ、火花を散らしながら途絶えていく。自らが引き起こした惨害に満足し、“理論家”は入り込んだ時と同等に素早く離脱した。

 斧が地面に音を立てて落ちた。ガラクの指にはもう、それを掴み続ける力はない。筋肉が痙攣して彼は苦痛の悲鳴をあげ、不意に足元がふらついて床に崩れ落ちる。離れていても“理論家”には見て取れた。ガラクの剥き出しの上腕が脈打ち、痙攣している。もし何もしなければ、この乱暴者はあと五年で死ぬだろう。

 “理論家”は声を張り上げた。「理性を持ちながら、より良い世界を築くことはできない。理性を捨ててこそ、成し遂げられるのだ!」

 ふたり倒した。あのレオニンは後方にいて、指示を飛ばしている。

 「チャンドラ! ガラクさん! こちらへ!」アジャニは叫びながら、ガラクの元へと駆け寄った。どんな感覚かを聞いたなら、ガラクを蝕むものの源をアジャニはすぐに突き止められるだろう。アジャニは浄化の力を持っている……とはいえ医師でも解剖学者でもない。あるいはラーナ・ベレレンのような存在でもない。

 “理論家”はアジャニの精神の奥底に手を伸ばし、言語ひとつを丸々奪い去った。

 「Πες μου που πονάει」自分が発した言葉を聞き、アジャニは耳をひきつらせた。「Τι?」

 不安、苦痛、戦術的行動不能状態。三人は無力化した。“理論家”は外交官のように両手を掲げた。「私たちが守る数兆もの命は、支払う数億の命に見合う価値があるんだ」

 やがて妻となるはずの女性は、ただじっと見つめていた。

 「お前は最高の男の、最悪の部分だよ」ヴラスカは怒りに震えながら言った。「お前は怪物だ」

 彼女が近づいてくる。“理論家”はその姿を凝視し、すると怒りに燃える金色の瞳の中に自分の姿を見た。恐怖は消え去り、ゆっくりと燃え上がるような炎が取って代わる。

 近づいてくるにつれ、彼女が放つ熱は激しさを増していった。「聞きな、この屑。お前への愛よりも、憎しみの方がずっと大きくなってしまったよ。今の、見る影もなく落ちぶれたお前が大っ嫌いだ。その才能を、何よりも下劣で卑怯な技に使うようになったことも嫌いだ。けど一番嫌いなのは、お前は優しいって思い込んでた私自身――」

 “理論家”は素早く片手を振り、即座に彼女を眠りに落とした。

 けれど床に倒れさせはしない。彼女は無表情に、唇を半開きにして、静かに眠っている。

 そして彼は、背後のプレインズウォーカー三人の記憶を消去した。だがヴラスカの記憶を消す際には、あるひとつの記憶の断片だけを残した――貴女に負けることはありません。

 ヴラスカの記憶からこの遭遇に関する部分を消し去り、四人を廊下へと送り出す。

 “理論家”は独り悪態をついた。

 そしてもう一度。

 罵りの声が聖域にこだまする。

 この屑、とヴラスカは言った――ある意味それは正しい。私は削ぎ落した残りなのだから。“理論家”は決意を込めて顔をしかめる。だが、それだけがあれば十分だ。

 激しい悲痛を覚えるほどの自分はもう残っていない。それでも、独力で目的を達成するに足りるだけの自分はいる。

 幻術の数式が書かれた黒板に視線を戻す。だがどれも、もはや意味をなしているようには思えない。

 彼は聖域の中央へと進み、うなりを発する魔道士輪を見上げた。そしてかつての友人たちが再び現れるのを待った。


 「ええ、ご苦労さま。あなたがた、ジェイスと三回も戦ったのよ」

 ヴラスカはオパール教授の机を掴み、立ち続けようとした。両目を大きく見開く。部屋はますます狭く、騒がしく感じた。彼が思い出させたかったことを思い出し、真実の断片を心に留める。そして顔を上げると、他者の不幸を喜ぶ穏やかな表情が目に入った。一度も会ったことのない女性、そのドッペルゲンガー。

 「あれはジェイスじゃない」吐き気のような不快感を腹の底に抱えながら、ヴラスカは結論づけた。「ただの残骸だ」

 「一番有用な部分ね」オパール教授は、無用の笑みを浮かべて付け加えた。

 「Κάνε ησυχία」アジャニが言った。彼は肘掛け椅子に座すガラクを治療しようと試みていた。

 ヴラスカは仲間たちに目を向けた。この執務室のあちこちで、打ちのめされた様子でいる。真実は、上の階にいるあの男が自分たちに強いるどんな苦痛よりも辛い。それでもそれを口にしなければならない。

 「奴には勝てない」ガラクがうめくと、ヴラスカも断言した。「ああ、勝てない。お前たち三人は眠らされて、近づくことすらできなかった」

 「Γιατί όχι εσύ?」アジャニが指をさした。言葉はわからずともその意味は明白だった――何故あなたは?

 「あいつと話をしたことは覚えてる、けど何を話したのかは思い出せない。けど本当に私らが三回も戦ったなら、こっちに勝ち目はないってことだ。力ずくでも、策を弄しても」

 アジャニが耳を平たく伏せた。

 チャンドラはかぶりを振った。「あいつには勝てない。まだ……まだあいつがいるのがわかるのよ」

 「あいつの他の部分は感じ取れるか?」

 チャンドラが眉をひそめると、ヴラスカは説明した。「あいつは自分の様々な部分を切り捨てたんだ。最悪な部分だけが残ってる」

 アジャニとチャンドラは共に息を呑んだ。ガラクは椅子に座したまま、うなるように尋ねた。「どの部分だ?」

 「学者肌で何よりも実利を重んじる部分。だからこそ、この忌々しい計画にあんなにも固執してるんだ。あいつには、現在よりも先の可能性を重視するような一面がいつもあったからな」

 「“理論家”よ」喫煙用のパイプに煙草を詰めながら、オパール教授が補足した。

 その時、ひとりの人物が、確固たる目的のある様子で戸口を通り過ぎていった。その姿にヴラスカの心臓が大きく跳ねた。あの子は守らなければいけない。

 一瞬の面影。

 傷つき打ちのめされた仲間たちから目を離し、ヴラスカはその見知らぬ人物へと顔を向けた。その娘は、螺旋階段へと続く長い廊下を進んでいく。

 ゴルゴン。

 違う。少し違う。

 「待ってくれ」ヴラスカは声をあげ、執務室を飛び出して廊下に出た。石畳の通路の先にいた人物は足を止めた。廊下の両側にはステンドグラスがはめ込まれており、差し込む月光が、振り返ったその娘の姿に奇妙な色彩を投げかけていた。

 ジェイスは言っていた、人をひとり作り出したと。その記憶は曖昧で、霞んで、不完全なものだった。そうだ、見せてくれた。どのようにして成し遂げたのかを、どれほどの時間と労力を費やしたのかを、そして、その娘の姿を、無意識に……私に似せたことを。

 まるで夢を見ているかのようだった。あいつの表情に、自分の緑色の肌。どうしてこの娘を作ったのだろう? 自分たちにはおたからがいて、小さくささやかな家庭があった。魂の一部を捧げてまで、なぜ人を造ろうなどと考えたのだろう? この娘は何のために存在しているのだろう? 身代わり、相棒、自由に使える駒……そんな言葉が怖れとともにヴラスカの心をよぎるが、どれも真実とは思えなかった。

 自分が震えていることにヴラスカは気づいた。その娘が近づくにつれ、震えは激しさを増していく。あいつに似ている。自分に似ている。思考はひとつの単純な結論を導き出したがるが、心の内のすべてが告げていた――「子供」という役割を担うための存在ではないと。

 その娘は眉間に皺を寄せた――あいつの皺でもある。その表情は何もかも、あいつに由来するものだ。その様子を見るに、こちらと同じく事の次第を理解し始めているのは間違いない。

 「ヴラスカさん、ですよね。名前は存じています」

 知っているという事実に、その娘は困惑しているようだった。ああ。ヴラスカはもう耐えられなかった。頬が濡れているのを感じる。彼女は頷いた。「ヴラスカだよ。でも、私はそっちの名前は知らなくてさ」

 「タムです」その娘は近寄りながら答えた。「ここにいたら駄目です」一瞬、その瞳が青く輝く。「あの人は常に聞き耳を立てています。私から離れないでください。彫像や鳥には近づかないことです。ヴラスカさんもお仲間さんたちも、あの人を止めることはできません」

 つまり、この娘は味方だ。

 「わかってる。私らはもう試した」

 タムは不安げに頷き、身を震わせた。

 「私、ちょっと……ある出会いが」タムの両手がぴくりと動いた。「それで少し動揺していて……すみません」そして首の後ろに両手で触れ、長い溜息を吐き出す。それはヴラスカが、ジェイスの仕草として幾度となく目にしてきたものだった。「“理論家”にどう対処すればいいのか、私はわかりません」

 ヴラスカは頷いた。「あいつはたった今、私らを三回も打ち負かしたんだ」

 「そして、また戻って来させると。テレパスでなければ、あの人を倒すことはできません。だからこそ、戦いにおいてテレパスは重宝されるんです」

 相手のゴルゴンがそれをどうやって知ったのかは、ヴラスカは知りたくなかった。「それで、どうするつもりだ?」タムが驚いてきょとんとすると、ヴラスカは続けた。「お前もテレパスなんだろ」

 「そうです。でも、あの人は私の創造主です。私のことはいつも気にかけています。あの人がどんな人物かはご存じですよね」

 ヴラスカは恥じ入るように言った。「知ってるつもりだった。本当のところは、あいつの一部を知ってただけだった」

 「ええ、でも誰だって、その一部が集まったものですよね」タムは実に気軽な様子で言った。「私だってそうです。沢山あるわけじゃありませんが、誰だって全部が善とか全部が悪とかじゃありません」

 その言葉が心に染み入り、ヴラスカは目を細めた。「それなら……ジェイスには、救う価値のある部分もあるってことだ」

 タムは頷く。「ええ。沢山あります」

 ヴラスカは想像した――もし自分の中で残った唯一の部分が、ラヴニカの街路で何百という住民の目を潰していった、あの行為を思いついた部分だったとしたら。あの部分も、まぎれもなく本物だった。あれも自分自身だった。

 彼女はタムと視線を合わせた。「それならお前も、自分にどんな力があるのかを改めて確かめることだ。それと、自分にとって救い出したい相手がいるのかどうか」

 「あ……」タムは身動きをした。その一言は、まるでそれが当然の選択肢ではなかったかのようだった。その視線が一瞬辺りを走り、何かを探すように隅々へと向けられる。彼女が手首をひとつ振ると、ふたりを取り囲むように青い光の立体図形が現れた。タムは更に近づいた。どうやら、これは隔離された空間らしい。

 「この塔は全部、あの人の記憶でできています。ジャズィ様の所へ辿り着くには、それを通り抜けていく必要があります。そのために来たんですよね?」

 ヴラスカは声を低く抑えて言った。「ああ。ジェイスを止めて、そいつを助け出すつもりだった。けど……」

 「あの人と真っ向から戦うのは合理的ではありません。ジャズィ様が利用されてしまう前に、救い出す必要があります」

 利用?

 「塔はヘクスヘイヴンの地下まで伸びています。ジャズィ様はその一番下におられますが、この空間は……空間そのものが複雑です。説明は難しいんですが、私の言いたいことは伝わっていますか?」

 ヴラスカは辺りを見渡さずともわかった。この場所の石壁は母親宅の石材、窓はギルドパクト庁舎と同じものだ。

 「お前を信用して大丈夫なのか?」

 その言葉に、タムは傷ついたような表情を浮かべた。ヴラスカは記憶の重みに殴られたような気がした――その顔はかつて、あの喧嘩腰号でジェイスが自分に向けてきたものと同じだった。

 未来が崩れ落ちていく。ジェイスを止めることができないだけでなく、あの男はこちらが知っているよりも先にある何かを準備しているようでもある。まるで、暗闇の中に独りきりでいるような感覚。

 「信用していい理由はありませんよね。でもわかるんです、私を創造した人のあの部分が、助けを求めています」

 ヴラスカは鼻を鳴らした。「あいつが助けを求めてる?」

 「私、“理論家”と話をしてきます。それから増援として、本物のリリアナさんを連れてきます。そちらはジャズィ様の救出に専念して下さい。もう独房から移されているかと思いますが、ヴラスカさんは私の創造主をよく知っていますよね。その知識を使って、神託者様を見つけ出してください」タムはオパール教授の執務室へと視線を向けた。「あの人、ヴラスカさんのお友達を傷つけたんですか?」

 「そうだ」ヴラスカは言い、タムが覗けるように脇へ退いた。

 タムは視線を向け、自分たちを包んでいた静寂魔法を解除した。そして廊下の角を曲がり、執務室へと入った。

 オパール教授は窓辺から睨みつけてきた。パイプから立ち上る煙が辺りにたなびいている。執務室内に散らばっていたプレインズウォーカーたちも、それぞれ新参者へと顔を上げた。

 「タムといいます」彼女は客人に接するように、丁寧に言った。「少しそのままでいて下さい」

 彼女の両目が青く輝いた。長い一分が過ぎ、そしてチャンドラとガラクの身体から力が抜けた。チャンドラは安堵のあまり卑猥な言葉を口にし、空いていた椅子に身を投げ出した。ガラクは素早く腕立て伏せを一度行い、筋肉が意志に従うことを確かめた。「ありがとう……?」アジャニは恐る恐るそう口にし、そして自信と落ち着きをもって繰り返した。タムの瞳から魔法の輝きが消え失せ、彼女は一歩下がった。

 タムは立ち去ろうとしたが、その間際、最後にもう一度ヴラスカと視線を交わした。

 その瞬間の感情を表す言葉をヴラスカは持っていなかった。手に入ることのなかった青春時代への切望と、誰よりも深く知るあの男の姿――そのふたつの間に横たわる、馴染みのない感情の深淵。

 「今の、誰?」チャンドラが立ち上がりながら尋ねた。

 答える勇気は、ヴラスカには無かった。おたからの待つ家へ帰れるという確信も、あいつが帰れるという確信も――その両方が、もっと陰鬱な真実の前に叩き潰されてしまっていた。

 ガラクが息を吐き出した。「もう一度やるぞ。第四試合だ」

 重く沈む心を抱え、ヴラスカは窓へと顔を向けた。「あいつを打ち負かすことは……」その言葉は途切れた。

 打ち負かすことは叶わない。離れた距離から相手を眠らせられるから、だけではない。相手の精神を泥水のように溶かしたり、呼吸する方法を忘れさせたり、目的を果たすためなら自分自身の精神を切り刻むことも厭わないほどの執念を抱いていたりするからでもない。たとえ接近できたとしても……あいつの計画はあまりに大胆で、意志は揺るぎなく、再生への熱意はあまりに凄まじい。

 それでもなお、あの瞳が訴えかけるものが、あの遭遇で彼女が唯一記憶しているものが、ヴラスカが考え得る限り最も恐ろしい真実を裏付けていた。

 ジェイスは、自分自身が死ぬであろうことを知っている。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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