MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 08

第8話 瞼をしっかり開いて見なさい

Alison Lührs
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2026年9月9日

 

 ヴリンの屋根の記憶に、雨が激しく降り注ぐ。あのスフィンクス、アルハマレットの声が耳に大きく響き、ヴラスカはその言葉を全身全霊で聞き入った。

 「屋根から降りるがいい」

 屋根の縁へと歩いていく。なすべきことはわかっているが、それを実行するのは恐ろしくてたまらない。地面は遥か下方。死にゆくアルハマレットのうめき声が、耳をつんざくように背後から響いている。飛び降りなければいけないことはわかっている。そうしなければいけない。

 屋根の端から身を乗り出すと、遥か下方にポータルが輝いていた――自分のためだけに用意された出口だ。ヴラスカは安堵し、恐る恐る息を吐き出す。「歩け」とは命じられた。だが「狙え」とは命じられなかった。だから彼女は狙った。

 ポータルを狙う……ポータルを狙う……ヴラスカは片足を屋根の端から進め、そして歯を食いしばって踏み出した。


 落下しながら、ヴラスカは思いを馳せた――自分も分裂してしまったなら、どのような断片になるのだろうか。自分を構成するあらゆる部分、直視したくない部分。

 船長。あのドラゴンに才能を見出されるまで、誰にも注目されることのなかった指導者。

 ゴルガリの革命家。どんな犠牲を払ってでも、同胞のために不屈の闘いを続けた。

 完成化された女王。他ギルドのローブをまとうという目的のために、敵の目を潰していった。

 暗殺者。奪った命はあまりに多く、それらの名前など覚えていないし問うこともない。

 そしてヴラスカの心を捉えたのは、この最後の断片だった。自分自身のこの面に、これまでどんな愛を向けてきただろうか? どんな感謝を捧げられるだろうか? 数多の殺しを行ってきた年月に礼を言うべきだろうか? それとも、あの時期はひどく困難で、今とは全く異なるものだったということを改めて思い起こすべきなのだろうか?

 ポータルが放つ青い光のもやの中、ヴラスカの脳裏に自身の姿が浮かび上がった。暗殺者。彼女はそれを落下へと誘った。

 現在の自分と想像上の過去が入り混じり、ヴラスカはふらついた。だが前方に目的地が見えてくると、暗殺者がその知恵を授けてきた。

 『私らは、安らかな最期を贈る術を知ってるよ』


 一方で、ひとりの少年が星空の下を歩いていた。熱い夜だった。この場所そのものが計略であり、彼自身がその罠なのだ。

 少年は気分が悪かった。自分自身が嫌だった。この記憶は、幾度となく忘れてきたもの――ある時は偶然に、けれど大体は意図的に。大人の自分が知っていることをかすかに覚えてはいる。だが覚えていることの大半は、他の自分が心の奥底に封じ込めたあらゆる記憶だ。少年の務めは、課された任務を遂行すること。その任務とは、あらゆる知識の中で最も醜悪なものを隠し通すこと。この少年は“兵士”だった。

 頭上の空は広大だ。地平線の一方にある巨大な断崖から、もう一方の彼方に点のように見える街まで伸びている。巨大な金属の輪が背骨のように空に連なり、視界一杯の嵐のようなエネルギーを帯びてうなりを上げている。大気を満たすのは、そのエネルギーが弾ける音だけだ。今は夜。周囲には帆布の天幕が十四張も並び、それぞれの入り口には靴が二足ずつ置かれている。少し離れた場所には一小隊分の馬が繋がれている。軍のかがり火は消えかけて、眠りにつくかのように冷えつつある。繰り返されるこの悪夢に少年はうんざりしていた。歩き続けなければいけないことに吐き気を催すほどだった。あの靴、あの馬、そしてこの静寂。話し相手が欲しい。けれど、起きているのは自分だけ――ひとりの子供、ひとりの兵士、誰かの息子。

 少年はこの夜に囚われていた。忘れられ、思い出され、そしてまた忘れられたこの闇に。それは何よりも手放したかった記憶であり、心の奥底へと深く押し込めていた記憶でもある。あの夜、アルハマレットの指示は明確だった。記憶の罠に囚われた今でさえ、その効率性には感心せずにはいられない。少年はこの夜、戦争の進路を変えた――それはどうでもいい。少年は、“兵士”は今、天幕の中央に立っていた。心に重くのしかかる汚れとは裏腹に、その両手は清らかなままで。

 足音が聞こえてきた。反射的に、意識を広げて周囲を探る。生きているものの気配は――馬、そしてあの人。それ以外にはない。少年の心が高揚した。あの人なら救ってくれる。あの人なら、この記憶から救い出してくれる。何だってできるのだから。

 ヴラスカが近づいてくるのを見て、“兵士”は背筋を伸ばして敬礼した。「船長」正確な動作で告げる。だが相手の反応に彼は不安を抱いた――その敬称を耳にした船長の顔に、悲しみの色が浮かんだために。

 思考が聞こえてきた。『これはどのジェイスだ?』

 兵器です――少年兵の言葉がヴラスカの心に届いた。憐れみの念が、肌を焼くような熱として返ってくる。その感覚から逃れるように、少年は相手の意識から下がった。自らのありようが辛かった。ヴラスカの同情は、羽毛のようにまとわりつく悲しみとなって覆い尽くしてくる。“兵士”は、彼自身の中で最も誇りを持てない姿――あのスフィンクスの神童、あのスフィンクスの兵器だった。間諜にして暗殺者。とはいえジェイスがその肩書を口にすることはないだろうが。子供時代を奪われ、現実を幾度となく書き換えられてきたジェイス、それが彼だった。神にも等しい力を手にした少年。だが、まだその力を憎むことを知らない。

 だからこそ、少年には船長が必要なのだ。

 「助けて頂きたいんです」子供らしい、小さく恥じらうような声。まだ幼い。この幼さにして彼は人殺しだった。今まさに口にしなければならない言葉を発するのが、何よりも辛かった頃でもある。一切の動きのない幾つもの天幕、黒板に書き殴られた途方もない数字、意図をもって自らの手で傷つけた友人たちの顔……そのすべてが、少年の肩に重くのしかかっていた。泣き出したい、けれど彼は泣くということをまだ知らない。

 それどころか、“兵士”が感じているのは気まずさだった。自分は涙を流せずにいるというのに、船長は目を潤ませているのだから。彼は平静を保とうと努めた。両手を背中に回し、肩を張り、顎を上げて気をつけの姿勢をとる。俺は、いつでも行けます――自身にそう言い聞かせる。俺は、いつでも行けます。

 ヴラスカが近づいてきた。月と星の淡い光の中に、いつも見る船長の姿がある――上官であり、道徳の守護者であり、善悪を裁く者。改めて、気まずさが増した。自分は痩せっぽちで弱弱しくて、まだ若造にすぎない。こんな姿のまま船長の傍にいるのは好きではなかった。外套は旅の汚れにまみれていて、胸を張れるような恰好ではない。子供時代をようやく脱したばかりの身で、戦争の只中にいる。あまりにも場違いな存在だ。自分がもたらした不快なもの――野営地の静けさ。沈黙。目の下の隈。外套の汚れは長旅を語っているが、腰には一本の短剣さえ差していない。そして、ある個人的な悪夢の記憶にヴラスカが身を震わせるのを感じた――“兵士”に短剣など必要ないのだと。

 ヴラスカが言った。「頂きたい、なんて言わなくていいんだよ」

 「俺の船長ですから」“兵士”は右手のテント天幕を一瞥し、うつむいた。「俺、貴女を失望させてしまいました」

 ヴラスカが膝をついて目を合わせてきた。自分は小さい、とても小さい――“兵士”はそう感じた。他の「自分たち」が知っていることをまだ知らない。自分はまだ、そう重要な存在ではない。

 「どうしてそんなことを言うんだ?」

 “兵士”は表情を動かさずにいた。満月の下、水彩画のような世界の中で呟く。「ヴラスカさんが、俺のすべてを愛することができなかったのは、俺のせいなんです。俺を見てほしくなかったから。何せ俺の得意なことは……」

 その言葉は途切れた。呼吸の仕方を忘れ、天幕の中で死んでいる28人の兵たちは、彼の真実に対して何も語らない。

 このジェイスは……この姿で、この時に、囚われている。

 船長は彼の肩を抱きしめた。

 世界が青と藍色に塗り替えられていく。流れる雲が地面にインクの染みのような影を落とし、天幕の帆布にゆっくりと染みていく。そして野営地の中心では、少年が船長にしっかりと抱きしめられている。

 「お前はオクランにふさわしい殺し屋だよ」

 「俺は、それだけですか?」

 「お前を好きになるには、それだけで十分だ」

 頭上の雲が割れる。根底から何かが変化する。

 “兵士”は息を呑んで嗚咽をこらえ、それでも涙はこぼすまいと耐えた。「俺は、悪い所だけの存在じゃない……?」それは、自身の存在の根底にある恐怖を癒す言葉だった。

 愛する船長は、自分自身の何かを悟ったように微笑んだ。「お前はあいつの一部なんだ。悪い存在なんかじゃない」ヴラスカの声は穏やかだった。そして子供に言い聞かせるために、言葉を選ぶようなことはしない。「私の目の前にいる奴は、冷酷な殺人鬼には見えないよ。すごい力っていう才能を持って、隷属ってものを身に染みて知るからこそそれを拒否する、そんな男へ成長していく子供だ。お前はあいつの一部だ。私はあいつを愛してるように、お前を愛してる」

 「助けて欲しいんです」あの男自身の、最も隔絶され、最も恐れを抱く部分が、初めてそう口にした。

 船長の抱擁は、温かく優しい。

 “兵士”は息を呑んだ。もはや涙をこらえてはいなかった。「もし俺もそこに行けば、俺のすべてを愛してくれますか?」

 ヴラスカは抱擁へとさらに力を込めた。

 大人が子供を安心させるように、ふたりはしばしの間抱擁を交わした。頭上高くの空は澄み渡り、雲は青く美しい夜闇へと消えゆく。三日月が甘美に輝き、谷間は星の光で満たされていた。

 “兵士”は電撃に打たれたような高揚感を覚えた。輝かしい発見――助けてくれる者に心当たりがある。彼は思案を巡らせ、掛け算表を繰るような速さで定理また定理を脳裏に走らせ、その作戦が完遂されたなら何が残るかを推定し、思い出す――そうだ。まさに必要な手助けをくれる者がいる。

 「頼んでみます」少年は鼻をすすった。「ありがとうございます、船長」彼はヴラスカに背を向け、月へと顔を上げた。年長の断片たちが、作戦を察知しはじめているのを感じ取る。

 「お前に死んで欲しくなんかないよ」船長がその背中へと声をかける。「それに、苦しみながら死んでほしくもない」

 少年はきっぱりと首を振り、肩越しにヴラスカを一瞥した。「死なんてものはありません」その口調は確信に満ちていた。「死は、状態の変化に過ぎません」

 ジェイスが最も怖れていた部分が、船長へと歩み寄る。そして音もなく、何も言わずに、彼は姿を消してヴラスカの精神世界へと飛び込んだ。

 ヴラスカはヴリン軍の野営地を通り抜け、その端にある魔道士輪へと向かっていった。“兵士”は彼女の目を通してそれを見つめ、そしてヴラスカが彼の言葉について考えているのを察した。

 「暗殺者をやってた頃……死もまた生の一部だと心に留めておくことで、仕事は楽になってたな」

 内側から、“兵士”はヴラスカがひとつの発見に至るのを感じ取った。長い間見ようとしてこなかった自身の一部分に、彼女がふと目を向けるのを。それは、彼がよく理解している部分でもあった。

 「自分に何ができるかはわかってるよ」ヴラスカは口に出して言った。そしてその精神の内側で、“兵士”は見た――彼女という存在の暗い部分へと陽光が差し込み、地底街の薔薇のように咲き誇る様を。


 瓦礫に満ちた記憶の罠の中、自身の牢獄の椅子に“ギルドパクト”は座していた。窓の外の惨状は人形の家のように保存され、変化することはない。彼は半ばうんざりしていた。ギルドパクト庁舎には今も巨大な傷跡が残っていた。石とモルタルをえぐり取って開いた穴からは、悲嘆と苦しみに喘ぐラヴニカの街を見下ろすことができた。

 俺は傲慢だった、修復できると考えたなんて。その傲慢さが、いつか俺たち全員を死に追いやるかもしれない。

 ポータルが現れた。またも“理論家”がやって来て、仕事を再確認するよう強いてくるのだろうか? だが見えてきたのは触手の髪と、鋼のように断固とした眼差しだった。この地区に宿るすべての霊に感謝を――ヴラスカだった。“ギルドパクト”は立ち上がり、彼女を抱きしめようと駆け寄った。だが途中で足元の瓦礫につまずきそうになる。同類たちが動いていることは感じ取っていた。まるで壁越しに脱獄の計画を盗み聞きするかのように、“ギルドパクト”は他の逸脱体たちの計画を察していた。だからこそ彼は、ここから脱出させてくれる相手を畏敬とともに出迎えた。

 “ギルドパクト”は警告した。「“理論家”はジャズィを手元に呼びました。それを感じます。ヴラスカさんは間に合わないでしょうが、他の皆なら」

 ヴラスカは頷いた。

 「“兵士”も見つけたんですか?」

 「一番、救ってやらなきゃいけない奴だ」

 “ギルドパクト”は視線を落とした。「あいつを貴女に見られたくはありませんでした」

 「それはわかる。けどあいつもお前なんだろ」彼女は微笑んだ。「準備はいいか?」

 むき出しの壁を雨が叩く。“ギルドパクト”が注目しているのは外で起きている大惨事ではなく、執務室の中央に置かれた木材の塊だった。

 “ギルドパクト”は個人的に侮辱されたかのようにそれを、机を見つめた。「うんざりだったんですよ。ギルドパクトなんて、妄想癖の自己陶酔者が作った法でしかありません。汗と涙と、うまくいきますようにって願いだけで一万年もかろうじて保ってきただけの。俺はそんなものにはなりたくありませんでしたし、適任でもありませんでした。ニヴ=ミゼットも、俺と同じくらいギルドパクトの地位が嫌になればいいんです。いやむしろ、せっかく生き返ったのに、惨めさを噛みしめながら長生きすればいいんです」

 彼が机に唾を吐きかけると、ヴラスカは小さく賞賛の声を漏らした。

 「やれやれ。やっと楽になれます」“ギルドパクト”は長い溜息をついた。「ヴラスカさん?」

 ヴラスカはその机を見つめ、石へと変えた。ふたりは手を取り合い、今この瞬間を噛みしめた。

 やがて、ギルドパクトの体現者であったその男は満足げに頷いた。石と化した机に下品な仕草を突きつけると、彼は愛する者の心という安らぎの抱擁に身を委ねた。


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アート:Pindurski

 最後の逸脱体は、何もない浜辺に立っていた。

 “生存者”は青緑色の海を眺め、寄せては返す波の音に耳を傾け、背中に陽光の温もりを感じながら時を過ごしてきた。

 他の自己たちの気配を彼は察していた。何をしているのか、どこに潜んでいるのかを。彼らが計画を察知しているということも。そしてこれがどんな結末に至るのかも彼は理解していた。“理論家”に対する自分たちの画策を隠していたのが“生存者”だった。彼は計画を指揮し、自己それぞれを守る者たちへ促すよう伝えていた――イクサランの罠へ来てくれ。ドッペルゲンガーを倒して進め。全員でポータルを抜けて聖域へと向かえ。

 チャンドラ、アジャニ、ガラク……ガラク? そしてヴラスカが、間もなくここにやってくる。そして今、ここにいるのは自分だけだ――この終点に。

 “生存者”は自分の人生の重みを思案した。今や、生き延びるという可能性は残されていない。

 自分の行いのせいで、か? 自らが引き起こした苦痛、画策した事故、遠ざけてしまった愛する者たちの姿が脳裏を占拠する。憂鬱な気分になる。自分は勇敢に生きてきたが、優先すべきものを間違えていたのだ。知識を深める――何のために? 解けない謎を解く――誰のために? 父の断罪の言葉が、今も胸の奥で響いている。身勝手だ。身の程を知れ。

 自分の選択のせいで、か? 下手な選択を何度も何度も、強引に。自分の能力を過信しすぎた。だから立ち止まって全体像に目を向けることもしなかった。友人たちの失望した顔が目に浮かぶ。イマーラ、カリスト、ギデオン、ニッサ、ラル、ヴラスカ……

 自分が犯した罪のせいで。脳裏に浮かぶカリストの顔は、今なおまるで自分自身であるかのようだ。あいつは不当な死を遂げた。アルハマレットやテゼレットに強要され、傷つけざるを得なかった者たちもそうだ。そしてヴリン……自分はファイレクシアを生き延びたが、打倒したわけじゃない。大隊ひとつを卒中に陥れた時の感覚は今も覚えている。眠る兵士の一団を死へと誘った時の感覚も。けれど……そのどれですらも、自ら選んだあの罪ほど重くのしかかるものはない。未来の可能性のために、あらゆる存在を犠牲にしようとした。ジャズィの死を招く状況を作り出した。自分の全部分が、後悔にずぶ濡れにされている。

 ヴラスカの足音が聞こえ、彼は振り返った。彼女は靴を脱いで手に持ち、裸足で砂の上を歩いてきた。その顔には悲しげな笑みが浮かんでいた。

 「隣に座ってくれますか?」彼に言えたのはそれだけだった。

 浜辺で見る姿も美しい。レギンスの裾と袖をまくり上げ、その下の傷が陽光に輝いている。泣いていたのだろう。自分のためにこの女性が涙を流していることに、“生存者”は申し訳なさを感じた。

 ヴラスカは頷き、彼の隣に腰を下ろした。潮が満ちてくる。ふたりはしばしの間そこに座り、黙って水面を眺めた。

 やがて“生存者”は打ち明けた。「死ぬのは怖いです。楽な死に方には……ならないでしょうから」テレパスの能力を用いた殺しがどのようなものかを彼は知っている。自分の死が必要なものであることも、それが悲惨なものになることも。

 ヴラスカは彼の腿に手を置き、だが何も言わなかった。太陽は頭上に高く、砂は温かい。

 彼女は微笑む。「“兵士”が熱く語ってたよ。『死は、状態の変化に過ぎない』って」

 “生存者”は咳き込むような笑い声を発した。その突然の音にヴラスカは少しびくりとする。

 「賢い奴です」彼は微笑み、身を乗り出して膝の上に肘を乗せた。

 大気には潮の香りが漂っている。陽光の中、時間の流れは緩やかになったかのよう。まるでこの瞬間は時のひとつの断片ではなく、永遠の象徴であるかのように。もしかすると、自分たちはこれからもずっと、この浜辺にいるのかもしれない。

 “生存者”は言葉を続ける前に考え込んだ。蜘蛛の巣のように心にまとわりつく思いから、どうやっても逃げることは叶わない。「それと……“番人”は言っていましたよね、手柄は皆のものだって。それは俺たちの本心です。俺をここまで連れてきたものが、報われたいとは思っていません」

 ヴラスカは“生存者”の視線を受け止めた。「それこそが、本当の無私ってものだよ」

 照れるように彼は視線を落とした。「違います。ただ正直なだけです」

 「お前は自分が選んだ通りの存在だ。ジェイス・ベレレンでも、ギルドパクトでも、多元宇宙の創造主でもない。名声なんてなくても、正しいことをするひとりの男だ」ヴラスカの瞳は黄金色に輝き、その表情は彼が見たこともないほどに晴れやかだった。「これほど誇らしく思ったことはないよ」

 “生存者”は覚悟を決めたように頷いた。「最期の時には、一緒にいてくれるんですよね。ありがとうございます」

 ヴラスカは彼の手を取った。「昔の私なら、お前の死は当然の報いだって言っただろうな。でも今は……ただ、お前のそれは平穏でいて欲しい」

 その言葉は“生存者”が予期していたものではなかった。息は荒く、肌は日焼けしたように火照っている。今感じているものは、平穏とは程遠い。

 彼は答えず、思いを巡らせ、記憶を辿った。心が温かくなるのを感じる。目の前の海をありのままに見つめる――輝いて、果てはなく、変化を止めることもなく、永遠に自身と対話を続ける海。絶え間ない変容の営み。潮が引く時も、荒れ狂って誰も立ち入れない時も、あるいは破壊の限りを尽くす時でさえ、それはやはり海であり続けている。遥か遠くの身体の内の、壮大な幻実魔法を感じる。陽光を浴びて傷跡が白く輝くように皮膚がうずく。目の前に広がる水平線の際を揺らしながら、海は静かにうねり続ける。

 彼はヴラスカと視線を合わせた。「平穏なんて、欲しくありません」

 「平穏は退屈だからな」

 頷く。すると、溜息のようにたやすく、そしてふと蘇る記憶のように、彼の存在があるべき場所に収まった。「俺は、まだ未完成なんです」

 声に出してみると、その通りだと感じられた。温かい。心臓の鼓動が早まるのもわかるほどだ。そう、自分はこういう者なのだ。たとえ忘れていた時でさえ、ずっとそうだった。

 ヴラスカは何も言わず、だがその表情には理解が浮かんでいた。

 やがて、彼女は口を開いた。「お前のすべてを愛してる。才能も、欠点も……私は、自分自身について何も知らない男に恋をした。でも今は、自分自身のあらゆる面を、暗いところも何もかもを知り尽くした男と、結婚したい」

 彼は指を伸ばし、ヴラスカの触手の髪の一本に絡めた。優しく唇を重ね、そしてヴリンの婚約の誓いを紡ぐ。「我らの魂は石より還りしもの。我らの絆を不動とし、未来を繋げよ。喜びも苦しみも、伴侶から伴侶へ、結婚より死に至るまで」

 ふたりは更に深く口づけを交わし、見つめ合った。

 「タムの傍にいてあげて下さい」

 そう言い、“生存者”は立ち上がった。

 彼は水辺へと足を進めた。足音から、ヴラスカがついてくるのがわかる。踏み入った水は心地よく温かい。小さな魚たちが、九本の足指の周りを素早く泳ぎ去っていく。大きな変化の際に立っているというのに、まるで生まれ変わったような爽快な気分だった。

 水中でヴラスカが自分の手を取るのを感じた。彼女は膝をついてわずかに水に浸かり、入り江の方へと少し泳ぎ出した。“生存者”は微笑み、続いた。

 ふたりは身を寄せ合いながら水の中を進み、彼はヴラスカの顔を両手で包み込んだ。「一緒にいてくれるなら、死ぬ覚悟はできています。何よりも一番重要で大切なのは、貴女は俺のお嫁さんだってことです」

 遠くで波が、岩へと繰り返し打ち寄せている。

 「ジェイス、お前の助けになりたいんだ」ヴラスカは深く息を吸い込んだ。「お前がもたらす死がどんなものか、私もわかってる。お前の最期は耐え難い、苦痛に満ちたものになるはずだ。せめて、情け深い死をお前に贈らせてくれ」

 “生存者”は驚きを隠せなかった。どうして、自らそんなふうに関わろうと? いや、少し考えればわかる。そんな申し出をしないわけがない。「本当に、それでいいんですか?」

 ゴルゴンの笑みは両目にまで達した。そして、ありのままの自分を込めて言う。「私が贈るのは死だ。それは私の一部なんだ」

 安堵の息が短く漏れ、“生存者”は感謝を込めて顔をしかめた。自分がやらなければならないことはひどく怖く、そしてテレパスの技による死がどれほどの苦しみを伴うものであるかを思い出す。

 「貴女の生涯が終わるその時まで、俺は傍にいます」彼はヴラスカの手を固く握り、身を寄せて額と額をつけた。「貴女が何かに好奇心を抱く時、そこには俺がいます。誰かの視点を理解したいと思う時にも」細い声は感情に震えている。「貴女が、恐れずに何かをやり直そうとする時にも」

 海がため息をつき、潮が岸辺へと促す。ふたりは最後にもう一度抱擁を交わした。


 “理論家”は今や覚悟を決めていた。

 勇気は細く貴重な鎖に繋ぎ止められている。その鎖は彼の心のわずかな残骸から、張り詰めて伸びている。これからあの神託者を殺す。多元宇宙を融合させる方法を見つけ出す。必ず成し遂げる。

 “理論家”は塔のバルコニーに立っていた。これから、身の毛もよだつような精神の旅をするのだ。できれば壁を無理矢理通り抜けるようなことはしたくない。今は朝でまだ太陽は低く、深夜のうちに仕組んだ陰鬱な光景に雲は赤らんでいる。眼下には活発な動きがある――何十という魔道士狩りが魔力を求めて塔の周囲を徘徊しているのだ。あるものは鉤爪を上へ伸ばし、またあるものは地表のすぐ上で羽音を立てている。今日、こいつらはどれほどの饗宴にありつけるのだろうか――“理論家”はそのようなことを考えた。

 こちらの多元宇宙のヴラスカが、床板の上に布を広げた。身にまとう白い外套はその背後に流れ、彼女は朝の陽光に目を細める。このヴラスカがこれほど近くにいることに、“理論家”は奇妙な感覚を抱いていた。数多のドッペルゲンガーの中でも、彼女は最も居心地の悪さを感じさせる存在だ。自分たちの間に恋愛感情はない、なのにこのドッペルゲンガーは常に自分の傍にいる。本能ゆえか? それとも忠誠心? このヴラスカの過去について尋ねてみたことは数度あるものの、いつもまるで構築物と話をしたような感覚が残されるだけだった。戦うべき何かがなければ、ヴラスカはヴラスカたり得ないのだ。

 だがこのヴラスカはナイフを手にしている。そして塔から投げ落とせば、遥か眼下の怪物たちが死体を始末してくれる。自分にはできる。気分は悪いが、勇気が支えてくれる。上手くいくはずだ。自分たちの計算は正しい。

 「神託者を連れてきてくれ」“理論家”は命じた。

 ヴラスカが従うと、“理論家”は再び地平線へと顔を向けた。

 自分の世界は、日の出の世界だ。自分が持ち込まない限り闇は存在せず、その住民が痛みを完全に感じ取れないのであれば、そこに痛みはない。自身の多元宇宙を眺めながら、“理論家”は一瞬の違和感を覚えた。本来、日の出は充実をくれるものなのでは? だがこの日の出は薄っぺらく、まるで壁に描かれた感情のよう。“理論家”は意識を集中させようとした。計画を再確認し、証明を肌で感じ取る。だがその最中、計算の辻褄が合い、数式がぴたりと収まる。その計算過程は彼にとある気づきをもたらした――日の出というものは何なのか、そして何故この日の出が不十分なのか。

 「鳥の声がない」誰に言うでもなく“理論家”は口にした。

 沈黙の朝だけが、彼の声を聞いていた。

 鼓動が速まる。鉄の手すりに触れる手が冷や汗で湿る。忘れていたのだ、この多元宇宙に対し、ほんの些細なものを――クロウタドリのさえずりや、柔らかな風の音といったものを――作り出せと命じるのを。すなわち、鳥の声やそよ風を感じる一瞬は、苦しみでもなければ喜びでもない。それは、完全な姿である頃の自分だったなら、本能的に理解していただろう真実だった。それらはただ……「今」という瞬間。だが“理論家”の部分はこれまで、「今」に全く目を向けていなかったのだ。

 何故、日の出は良いものなのだろう? 苛立たしいことに、彼には思い出せなかった。

 「やり遂げられるだけの自己が、貴方に残っているのですか?」ジャズィは陽光の中に立ち、挑戦するかのように顎を突き出した。

 「残っているとも。私は自らの状態を浄化し、優柔不断さを捨てる必要があったのだ」

 「他の貴方がいない貴方は本当に腰抜けですね。知っているのでしょう? 彼らが貴方のことを噂していると」

 彼は恐怖をねじ伏せ、激昂した。「お前が見ているものを見せろ!」瞳を鋭く光らせ、“理論家”はジャズィの精神へと入り込み――そして圧倒された。

 神託者の意識へと強引に踏み込むや否や、“理論家”は可能性という砂嵐に引き裂かれた。そこは砂がうねる広大な砂漠であり、嵐の先にかすかに見え隠れするのは、可能性の姿――日の出の瞬間に訪れうる無数の道だった。以前にも同じものは見ていた――百もの選択肢、千もの結末。だが、嵐の向こうからの声は、ひとつの明白な事実を告げていた。それを成し遂げるには、ジャズィを殺さねばならない。

 ナイフはここにある。この手順を踏まなければ、多元宇宙の融合を完遂する方法を知ることはないだろう。神託者はここにいる。だが“理論家”は、殺すための勇気を奮い起こせなかった。それを実行できるような自分の一部は、もう失われてしまっている。

 「これは……私の取り扱う範囲を超えている」

 ジャズィは明るく笑った。「ああ、よかった! この時間軸でしたか」一切の躊躇なく、神託者は目の前のテーブルからナイフを掴み取った。

 「待て!」“理論家”は叫び、だがジャズィの知覚を通して目に入ってきたものがあった。チャンドラ、アジャニ、ガラクが聖域に突入し、バルコニーをめがけて駆けてきた。

 ジャズィは止まらなかった。その手が喉元へと動き、その一瞬後――

 間に合わなかった。

 釣り針にかかった魚のように、“理論家”はジャズィとの精神的繋がりに強く引かれるのを感じた。そして彼女がナイフで自らの喉を鮮やかに切り裂く、その痛みを分かち合った。

 彼は苦痛の悲鳴をあげた。同時に、ジャズィの精神の最奥では、“理論家”の目の前の嵐の中にジャズィがいた。老女は微笑みながら、最後の言葉を伝えようとしていた。その喉は切り裂かれ、鮮やかな赤色が嵐の中で際立っている。神託者は“理論家”の手を取り、微笑み、そして彼は自身の失敗を悟った。

 「何もかも簡単なこと、なのでしょう?」その喉からは今も鮮やかな血が溢れ出している。「貴方は貴方の中でも、広い視点の欠けている部分なのですよ」“理論家”は身を引こうとするが、掴む力は万力のようだった。「瞼をしっかり開いて見なさい」

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アート:A. M. Sartor


 そしてジャズィの肉体が死ぬと、理論家の意識は

創造の時へと

引きずられて

いった

 シソッコの法則に掴まれたまま、彼はバルコニーから投げ出された。空へ、大気圏の果てへ、宇宙の縁へ、そして久遠の闇へ、アルケヴィオスとその周囲の空間を突き抜けていく。そして“理論家”が目にしたのは、太陽が猛烈な勢いで後方へと駆けていく様だった。一万周期、一千万周期、一億周期、やがてそれは時間的不可能性を体現する黄金色の輪と化した。

 かつて書物で読んだ事実――アルケヴィオスの神託者が死ぬと、その魂はアルケヴィオスが創造された太古の時へと弾き飛ばされる。やがて太陽は騒々しく動きを止め、“理論家”は更にその先へと放り出された。久遠の闇をまたぎ、無限の彼方へと逆相し、そしてふたつの次元が激突し融合する光景を目の当たりにした。その混沌の只中では、形なきエルドラージの怪物たちが、それらと交戦する大船団の周囲を蛇のようにうねっていた。

 つまり、こうだったのだ。ふたつの次元がひとつに融合するというのは。

 “理論家”はそれを見ていた。ジャズィの意識が蒸発するように消え去るのが、神託者の手が離れていくのが、そしてその手が忘却の彼方へ去っていきながら、こちらに向けて卑猥な仕草を突きつけているのがわかった。そして神託者の死と共に、宇宙的な知が形を成していくのを感じ取った。

『私』

『私は』

『私はやり遂げた』

『始まりを目撃した』

あらゆる空間と時間に

告げて

そして内へと目を向けると

自分自身がいた

少なくとも

自分で見ることのできる、自己の切れ端が

『私は、存在世界への贈り物によって記憶されることだろう』

『苦しみは私の意志で終わる』

『すべては私の意のままに変化する』

 “理論家”は日の出を忘れた。意味を忘れた。小さきものを忘れた。苦しみとは、想像上の一状態でしかない。太陽にとって、痛みが何だというのだ? 久遠の闇にとって、痛みが何だというのだ? 広大な多元宇宙にとって、痛みが何だというのだ? 今や、肉体も魂も心も超越した。この瞬間、“理論家”は、知覚を超越した知覚の領域へと意識を広げていく。見よ、ただ野心のみによって生み出す奇跡の数々を。

 多元宇宙は壮大なひとつの機械のように噛み合い、回転し、動く。存在の可能性は無限、けれどその中には常に道があり、常に手段がある。必要なのは、それを見つけ出そうとする好奇心だけ。そうすれば、やがて理解する。

やがて理解する

やがて

見える

そのすべてが見える

『これは誰も』

『ドラゴンも、死者も、神も成し遂げられなかったこと』

“ジェイス”であった“理論家”であった存在は、満たされた。

『多元宇宙を上書きする方法は把握した』

 “理論家”が帰還する――遥か彼方から、そして遥か未来から。

 自身の肉体へ戻ると、耐え難いほど窮屈に感じた。“理論家”は肩を回し、自らを構成する原子の存在を感じた。一瞬、閉所恐怖症のような圧迫感――それは聖域の広がりや頭上を圧倒する沢山の魔道士輪に対してではなく、肉体というものに押し込められた惨めさに対してだった。“理論家”は瞬きをし、自身の分子間の虚空を追い払った。本来の務めを――「今よ!」チャンドラの声が顔のすぐ傍で響いた。悟りの境地は、不意に精神に侵入してきたふたつの存在によって突き破られた。

 逸脱体たち。自己たち。全部ではないが、それでも手強い。

 それらは“理論家”の平穏を攻め立て、肉体へと突進してきた。力はこちらと同じ。共闘するそれらは、ただちに“理論家”を圧倒した。

 “番人”が“理論家”の野心をしっかりと掴む。だが“理論家”は説明を試みた。自分を止めることはできない。進み続けなければならない。『お前たちには分からない!』

 “白紙”が飛び込み、次元を融合させる技の知識を消し去ろうと試みる。だが“理論家”はそう簡単には屈しない。彼は自ら掴み取った悟りの糸を頼りに、意識を外へと解き放った。

 “理論家”は背後に眠りの障壁を立て、自身と友人たちとを隔てる境界線とした。彼らがその場で立ち止まり、その線の向こうに並ぶのがわかる。

 自身の肉体の外から、障壁の向こうから、チャンドラの叫び声が聞こえた。「あいつ、もう始めてる!」

 その通り。やらねばならないのだ。ジャズィは正しかった。ナイフへ手を伸ばせと神託者に促した、あの一瞬の光景を彼は目にしていた。これを成し遂げる道はただひとつ。計画は続けねばならない。この狂気を、“理論家”は全知の視点から笑った。そして道がひとつしかないという事実を、具体的な道筋までは見えていないという事実を。“理論家”の笑い声が彼方の現実へと響き渡る。それは、彼がようやくその深淵を垣間見始めたばかりの未来だった。

 一瞬、ヴラスカはどこにいるのかと考えた。だが一瞬たりとて止まることはしない。

 まるで巨大な毛布を扱うかのように、“理論家”は多元宇宙の境を探った。その端をつまみ上げる。指の間を時空が滑り抜ける感触。その巨大な織物を力任せに引き寄せ、古い多元宇宙という硬い岩肌の上へと手繰り寄せていく。ふたつの世界を繋ぎ合わせるにつれ、縦糸が上と下とを結びつけていく。片方と片方、互いと互い、世界と世界、原子と原子。

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アート:Ryan Pancoast


 そして“理論家”が織り上げる間にも、内からの攻撃は続いていた。

 次々と繰り出される攻撃を退けていく――睡眠、発作、アゾールの幻覚、ラヴニカの屋根の上でヴラスカが血を流している幻視。

 だが諦めない。自らの証明を辿り、複雑に絡み合う因果の連鎖でふたつの多元宇宙を結びつけていく。そして最高潮に達したその瞬間、“理論家”は強烈な共感覚の壁に叩きつけられた。一瞬、意識へと引き戻されてよろめき、危うく嘔吐しそうになる。言葉はアンモニアのような味を帯び、傷ついた犬のように自身の魔力が悲鳴をあげていた。

 またも逸脱体が意識の中枢に衝突した。それは疫病を呼び込み、濃い霧と忘却で内なる光景を曇らせる。“理論家”は息を呑み、恐怖した――床に横たわるこの死体は何者だ? 何故自分はこのバルコニーにいる? だが彼は必死の努力で霧を払い除け、思い出す。自分は助けようとしていたのだ。そう、助ける者。誰も知らないことだが、自分はこの危機を救おうとしているのだ。ひとつの多元宇宙が別の多元宇宙を助けるために、全知の力を振るうのだ。

 「戦いなさいよ、卑怯者!」築いた障壁の向こうから、チャンドラがまたも叫んだ。

 “理論家”は口を開き、だが出てきたのは意味のない音だけだった。逸脱体によって失語症が引き起こされているのだ。

 終わらせなければいけない。“理論家”は主導権を再び奪い、こびりついた汚れを拭い去り、言語機能を元に戻し、逸脱体ふたつを意識の底へと可能な限り押しやった。だがそれらを蹴り出そうとしたまさにその瞬間、逸脱体たちは自分とかつての友人たちを隔てていた壁を取り払った。他のジェイスたちは“理論家”の精神から消え去った。

 チャンドラは息を呑んだ。「“番人”が戻ってきた!」

 ガラクはうなり声を発しただけだった。英雄たちは“理論家”へと駆け、だが彼は迷うことなく手をひとつ振った。友人たちは動きを止め、微動だにせず立ち尽くした。

 “理論家”は落ち着こうと努め、浅い息をひとつ吐いた。両方の多元宇宙の外側に片足をかけたまま、全知の眼差しで彼らを見つめる。

 「感謝して欲しいものだ。全員を助けるためにやったのだからな」

 「やったのは、それが可能だと証明するためにでしょう!」アジャニが怒りを込めて叫んだ。

 “理論家”にできるのは、疲れ切ってかぶりを振ることだけだった。「もう止めることはできない。やり遂げなければならないんだ」

 彼が手を振ると、友人たちそれぞれに対応する魔道士輪が聖域の中央に出現した。その影の中から氷術師のチャンドラ、ヴェールを纏うガラク、将軍のアジャニが姿を現す。彼らは自身の対存在へと跳びかかり、それぞれのポータルへと押し込んでいった。

 “理論家”は震えた。バルコニーへと戻り、赤い水たまりの中で横たわるジャズィから目をそらす。彼は両手を高く掲げ、多元宇宙がかつて経験したことのないほどの強力なテレパシーを用いて、ふたつの多元宇宙をひとつに織り合わせていった。

 だがそれを終えると、彼は身震いをした。

 全知を手に入れた。

 簡単だった。

 あまりにも簡単だった。

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アート:Ekaterina Burmak


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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