MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 04

第4話 ええ、ご苦労さま

Alison Lührs
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2026年9月3日

 

 ひとつの次元の広がりを算出するには、何時間という作業を要する。イニストラード、星明かりのムーアランドを見下ろす断崖にタムは機材を設置した。月飲みアザミが足首を引っかき、背の高い草むらの影には無数の悪夢が隠れている。次々と数値を書き留める間にも、広大で何もない原野を冷たい風が吹き抜けていく。唯一の文明の気配は、一軒の白い宿屋だけだった。それは泥炭と荒れ野の中、孤島のようにぽつんと立っていた。タムの計算結果は正確で、手法も確かなものだった。花崗岩の岩盤の上に彼女は一晩中立ち、地平線へと機材を向けていた。太陽が沈み始め、地平線の彼方のどこかで狼の遠吠えが響く。タムはこの次元の規模を記録し、手早く計算を行い、その数値を紙片に書き殴っていった。

 小さな走り書きに目を通しながら、タムの心にとある考えがよぎった。自分の視力は人間よりも優れている。石化の力はあるのだろうか? おそらく無いだろうが、実験してみる価値はある。

 周囲の器具や足元の石に目をやる。そよ風に揺れる草の中、一匹のネズミが彼女の昼食だったものをかじっていた。

 両目の奥に、何かが泡立つような感覚。それは意識の最前部にちくりと刺激を与えてくる。

 ネズミは驚いて動きを止めた。鳴き声はない。動かない、だが石と化してしまうわけでもない。

 石にはできないみたいね。

 タムは再びきつく睨みつけ、目元の皮膚が強張る。額の両脇の筋肉が引きつるほどに。

 だが力を抜くと、ネズミは甲高い鳴き声を発した。

 ネズミはびくりと身を震わせた。慌てふためき、自身を拘束していた何かから逃れたことを察すると、それは慌ただしく住処へと帰っていった。その身体には石の一片すらなかった。

 ネズミが逃げ去る様子をタムは見守り、笑みを浮かべた。きっとそれは巣穴に飛び込むと、荒れ野で遭遇した新たな怪物について奥さんに警告するのだろう――我ながら可笑しい空想だ。ネズミの奥さんは夫の勇気を称え、小さな鼻面に口づけをして、誇らしく思うわ、愛しているわと鳴き声をあげるのだろう。夫はネズミ仲間たちと酒を酌み交わしながら、ゴルゴンに睨まれて全身の毛が逆立った時のことを語り、皆が彼の生還を乾杯で祝うのだろう。いつの日か、まだ毛も生え揃わない桃色の子供たちが、寝る前にあの話をしてとせがむのだろう。勇敢な父ネズミはため息をついて物語を語り聞かせ、小さな子供たちはふかふかの寝床で寝息を立てるのだろう。頭上のイニストラードは血を流し、遠吠えをし、激しく荒れ狂っているというのに。少なくとも、タムはそう想像した。

 新たな技の習得を確認し、タムは満足して頷いた。いい技だ。とはいえ使う機会が二度となくてもまあ構わない。

 タムは道具をまとめ、白い漆喰塗りの宿屋へと向かった。広大な緑の荒れ野、その丘のふもとに際立つ様は白い島のようだ。こぢんまりとした四角い造りで、古木の梁が両脇に見えている。建築様式はかわいらしく、陰鬱な環境の中で好奇心をそそった。彼女は足先で古の氷礫土を蹴り、指先でざらついた草の葉をなぞる。肌寒い。外套がこすれる音は好きだった。大気には危険な気配が漂っていた。

 宿屋に入ると、温かな空気の波がタムを包み込んだ。蝋燭の明かりが揺れており、木がきしむ音、床板を掃く箒のこすれ音、そして酵母と大麦の香りが共に漂ってくる。宿の女将はカウンターの奥で樽の栓を開け、それを置くべき場所へと持ち上げているところだった。逞しい体格で、筋肉質の上腕には多くの傷跡が刻まれている。その女性は挨拶代わりに頷き、波打つ金髪が揺れた。「で、どれくらいの大きさなんだい?」

 女将は、まるで昔からの友であるかのようにタムを迎えてくれた。荷物を上階まで運ぶだけでなく、嬉しいことに昼食用の弁当まで用意してくれたのだった。その姿はタムに誰かを想起させたが、具体的に誰なのかは思い出せなかった。船と広大な海、田舎の宿を切り盛りする物品係のような……ひとつの名前が記憶をかすめたが、彼女はその糸を手繰ることはしなかった。その記憶は自分のものではない。

 「予想よりも大きいですね」

 「大患期にね、あたしらは世界そのものの終わりを食い止めたのさ」女将は微笑んだ。「他の世界から来たお嬢さんは聞いたことないかな。月の中に怪物を封じ込めたんだよ。この世界をもうちょっとで滅ぼすところだった怪物を」

 タムはカウンターの席に腰を下ろした。女将は頬を膨らませて息を吐き出し、身を乗り出す。「色々あったのさ。あれはまさに悪夢だった」女将は椅子を引き寄せ、カウンター越しにタムと向かい合うよう腰かける。「でも沢山の人が生き残った。アヴァシン様に感謝しなきゃね。アヴァシン様はあたしらを見守って下さってるんだ」

 「女将さんは、どなたか亡くされたんですか?」タムはそう尋ねるが、その質問が極めて失礼であることを即座に悟った。

 だが女将は気にも留めていないようだった「叔父がね、街と融合したんだよ」

 「融合?」

 「ああ、そうだ。あたしら聖戦士が二十人以上も集ってハンウィアーを……その『街』を追い詰めて滅ぼしたのさ」

 タムは唖然とした。驚きを隠すこともできなかった。「ご自身の叔父さんを?」

 「叔父が死んだのは、街があの『街』になったあの日だ。あたしは献身的な仲間たちと力を合わせて、叔父の命を奪ったあの怪物を仕留めた。そう考えてるよ」

 タムは自身の両手を見つめ、女将の言葉に思いを巡らせた。この女性は極限の苦しみを味わったのだ――巨大な喪失と、それに等しい当然の罪悪感。叔父を救おうとした、とは一言も言っていなかった。自身が殺人者であるという自覚なのだろう。月の中の怪物、融合していく街……この次元は見た目以上に危険だ。“理論家”の言う通りだったかもしれない。死した兄弟、死した怪物、更なる苦痛……多元宇宙の他の場所も、こんな有様なのだろうか?

 指の甲にジョッキが押し当てられ、ようやくタムは我に返った。女将の口元にえくぼが浮かんでいた。「あたしはモイレン。これはおごりだよ」

 「タムっていいます。そんな話をしてくれたのに、どうして笑えるんですか?」

 モイレンは肩をすくめた。「なんとなく、笑いたい気分でね」

 タムはそうではなかった。ジョッキを手に取り、一口試してみる。初めてのビールだ。お酒のことは何も知らないが、水っぽくて薄い味だということはわかる。気に入った。

 「やるね」タムの飲みっぷりをモイレンはそう評した。

 飲んでいる最中のタムは何も言えなかった。

 「それじゃ、もう一杯だ」モイレンが陽気な口調で言った。タムにはジョッキの底が見えてきた。

 満足してそれを置く。もう少し抑えるべきかもしれない。モイレンは忍び笑いを漏らすが、タムは落ち着くまでに少しの時間を要した。

 「ここを出てはいかないんですか? 領界路を通って、もっと安全な次元へ」

 モイレンは肩をすくめた。「故郷だからね。あたしの血にはこの荒れ野が流れてる。月の銀はあたしの鎖に下げられてるのと同じ銀だ。お嬢さんには、戦って守る価値のある故郷はないのかな?」

 ない。本当の意味では、ない。

 「楽なことだけ選んで生きてたら、成長する方法なんて一生学べないよ。痛みから逃げ切ることなんて、絶対にできないんだから」

 「どうして逃げ切れないんですか?」

 「それだけが絶対に変わらないものだから」

 「つまり、私たちは苦しむ運命にあって、やがて死ぬだけってことですか? それで終わりってことですか?」

 モイレンは胸元から首飾りを取り出した。長い革紐の先に、ひとつの紋章が下がっている。「『死とは最後に与えられる安らぎである』、教会はそう説いてる。人生における苦しみは避けられないもの。けれどその目的を見出せば、苦しみの束縛から解き放たれることができるんだよ」

 「その目的、って何ですか?」タムは尋ねた。私はまだ未完成。

 モイレンの笑みは意味深で、それがタムを苛立たせた。「いずれわかるよ」

 タムはモイレンの哲学について問い質そうとした。だがその時、何かが扉を激しく叩く音がした。女性ふたりは動きを止めた。

 「伏せな」モイレンが命じ、タムは疑うことなくそれに従った。そして精神を解き放ち、宿屋の周囲を素早く探る。

 「三人います」タムは囁き声で伝えた。

 モイレンはカウンターの下から長剣を取り出し、同じ場所から黄色い布で裏打ちされた外套を掴むと、手早くそれを羽織った。

 「どんな奴ら?」モイレンが尋ねた。その間にも、外壁が激しく何度も殴打される。

 タムは様子を伺い、びくりと身を引いた。「ここの吸血鬼は友好的じゃないんですね。私の友達にもいるんですが、全然違います」

 窓が叩き壊され、モイレンは溜息をついた。「腐った害獣だよ。お嬢さんはちょっと待ってな。中から出ないで」

 タムが見つめる中、女将は剣を掲げて扉へと突進していった。勢いよく扉を開け放つと外へと飛び出し、声を張り上げて祈りの言葉を叫ぶ。

 「生ける者らの炉辺よ、決して冷えることなかれ! 聖域の壁よ、決して衰えることなかれ!」

 金属同士がぶつかり合う音、そして激しい乱闘の音が聞こえてくる。まさにその瞬間、タムは悟った――いかにも一気飲みしてくれと言わんばかりだったあの酒、あんなふうに飲むべきではなかった。頭はふらつき、腹は液体で重苦しい。これでは自分は何の役にも立たない。

 タムはどうにか扉まで這い寄り、外の様子を覗き見た。モイレンは全力で戦っていた。片手で剣を振るい、もう片方の手にも短剣を握りしめて腰の脇に構えている。相手にしている三体の怪物は、見たところ人によく似ていた。白目の部分が黒く、衣服は豪奢だが旅のためなのか汚れている。まるで舞踏会から飛び出して、はるばるここまでやって来たかのようだ。三体とも髪は漆黒で、口からは尖った犬歯が見えていた。吸血鬼、とはいえキーロルとは似ていない。似ても似つかない。何の躊躇もなくモイレンが剣を振るう様を、タムは畏れとともに見つめた。身を翻し、突きを繰り出し、低く身を屈めてから切り上げる。首を狙っていることはタムにもわかったが、吸血鬼たちの動きは超自然的なまでに速かった。モイレンは動きについていくのが精一杯だった。

 ならば、自分が助けよう。

 「ねえ!」タムが叫ぶと、三体の吸血鬼全員が振り返った。

 タムが視線に力を込める。三体は揃って、その場に凍り付いた。

 「ありがたい!」モイレンは歓声をあげ、重く湿った一撃また一撃で、敵の首を次々と落としていった。

 吸血鬼たちは倒れ、首がその横にまるで部品のように転がった。タムは息を呑み、一瞬だけキーロルのことを思い浮かべた。大丈夫。吸血鬼というのは次元によって異なるのかもしれない。

 モイレンは膝をつき、祈りを捧げ、やがて立ち上がった。

 「これでも、引退する前は教区の刃だったのさ」モイレンは剣についた血を振り払った。「誰もが引退できるわけじゃないからね。奴らを止めてくれたみたいだけど、どうやって?」

 「テレパシーです。身体の動きを大きく制限させるもので、視線で作動します」

 モイレンは片手をひらりと動かしたが、その意味はタムにはわからなかった。「アヴァシン様が授けて下さる力は、様々な形をとるもんだ」彼女は歩み寄り、タムの肩を軽く叩いた。「あんたは救う価値のある子だよ、タムちゃん」

 タムは唖然とした。私が?

 「水を部屋に持ってってあげる」モイレンはいかにも宿の女将らしい目配せと共に手招きをした。ふたりが中に入ると、その背後で鉄の錠が重々しく閉ざされた。


 就寝のためにタムは寝台を整えた。宿のこの部屋は質素な造りで、壁は白く柱は黒い。何万人という疲れ切った旅人たちが、ここで無事に夜を過ごしてきたような場所だ。ここでは何者も自分を傷つけることはできない。

 タムは部屋の扉に鍵をかけ、寝間着に着替えた。頬にクリームを塗り、編み髪には種子油を馴染ませていく。その間も頭から離れないのは、この場所の残酷さと、それに抗う優しさのことだった。モイレンが微笑む理由などない。この宿が建ち続けている理由もない。それなのに。それなのに。

 窓辺へ歩み寄り、傍に置かれた椅子に腰を下ろす。月明かりの下で爪を切り、破片は膝上の布で受け止めた。

 どうしてモイレンさんは、苦しみの目的を教えてくれなかったのだろう?

 先程の出来事を思い浮かべる。かつては戦士だった女将が、客のために二杯目を注ぎながら微笑んでいる。空気に漂う大麦の香り。カウンターには誰かの名前の頭文字が刻まれている。過去は存在しない。未来はまだここにはない。幸せなこの瞬間。

 雰囲気はしっかりと覚えている。記憶も自分のものだ。けれどタムはどうしてもそれを把握しきれていなかった。あの幸福なひとときと、この次元の終わりなき残酷さ。ふたつは一体どんな関係なのだろう? その繋がりは何なのだろう? 自身の内にあいた空白を感じる。その疑問に答えることのできる部分が、自分には欠落しているのだ。

 苛立ちと共に溜息をつく。その息で窓ガラスが曇った。

 もしも、苦しみこそが肝心なのだとしたら? 苦しみこそが、最期に訪れる安らぎを、貴重で大切なものにしているのだとしたら?

 その思いを抱えたまま窓辺に座り続ける。自分も痛みを知ってはいるが、モイレンのそれに比べれば極々小さなものでしかない。自分自身の痛みに、どれほどの価値を見出せるというのだろう? 喪失を経て、あの人にとっては何が大切になったのだろう?

 深い問題だ。後でじっくり考えるべきだろう。今はひとまずいつもの練習だ。毎晩タムは練習を重ね、そのたびに少しずつ強くなっていた。外の荒れ野に視線を向け、誰かいないかと探す。誰でもいい。“理論家”はテレパシーの到達距離に感心してくれていた。もしかすると、もっと遠くまで届くかもしれない。

 タムは目を閉じ、意識を外へと広げていった。

 外にいる狐を、泥と泥炭の深みにうずくまる巨大な蛙を、そしてさびれた十字路で馬にまたがる男の傍を過ぎていく。だが頭上で何かがきらめいた。血に染まった土の上、遥か上空で。

 意識が届く範囲の先に何かがある。

 テレパシーでは、それはひとつの円のように感じられる――長く細い線が輪を描いて、誰かが踏み入るのを待ちわびているような。それは雲の更に先から発せられているように思えた。

 タムはモイレンの話を思い出した。月に怪物が囚われているというのだ。抑えきれない好奇心にかられ、彼女は意識を伸ばした。繋がることはできるだろうか? まるで一本の糸で繋がれたブリキ缶だ。その向こうにいるのが何なのかはわからないが、話をしてみたい。私の声、聞こえますか?

 何かがそれを聞き、大きな力でタムを持ち上げた。

 意識が空へと引き上げられていく。銀の月の中にいる何かの意識へと。辺りの色彩がぼやけていく。やがてタムはあまりにも異質な、あまりにも理解しがたい精神へと導かれた。周囲に漂う感覚の意味を把握することもできなかった。

 自分の身体から離れすぎた。

 だがその精神的拘束から逃れようとする前に、タムは目的地に辿り着いた。

 そこはひとつの部屋だった。牢獄だった。四方の白い壁と窓がひとつ。宿の部屋とよく似ている。藍色の夜と銀色の月明かりが照らし出しているのは部屋の奥、寝台に弱弱しく横たわる若い女性の姿だった。タムの場所からも、その女性の頬が痩せこけている様と、虚ろな眼窩から灰色の瞳が見つめ返している様が見てとれた。この女性こそが、月の怪物なのだろうか?

 『助けて』その女性はタムの脳内へと訴えかけた。宿に残された身体までもが身震いをした。

 自分が寝間着姿であることに気づきながらも、タムは恐る恐る寝台へと近づいた。固く尖った何かを踏みつけ、足を上げるとそこにあったのはチェスの駒だった。白のクイーン、だろうか。タムと寝台との間には無造作に投げ出されたチェス盤が転がっており、駒が床に散らばっていた。勇気を奮い起こし、相手をじろじろと見ないように努めながら、寝台に近づいていく。頭上から柔らかな光が降り注ぎ、赤紫色とスミレ色でその女性を包み込んでいた。タムとその女性は互いに見つめ合った。

 そしてその女性の左目が、左目だけが、床へと向けられていく。

 『つかまえた』

 ひとつの映像がタムへと叩きつけられた。巨大な翼、うねる飾り帯、二本の剣を振るう二本の腕。だがそれは現れたかと思うと瞬時に消え、続いて精神の罠がタムの心を捉えた。

 タムは仰天し、小さく悲鳴をあげ、寝台に横たわるやつれた女性から後ずさった。出口を求めて振り返るが、扉はない。目には見えずとも、ここに閉じ込められてしまったのはわかった。タムが必死に脱出手段を探そうとしていると、女性が口を開いた。

 『私にあるのは切望。自分の意志で飢えているの。力になってあげる。お互いに助け合えるわ』

 その女性が話すのは言葉ではなかった。偏頭痛のような感覚で、胃に寄生虫が巣くう痛みで語りかけてくる。言葉ではない言葉に感覚が減速し、引き延ばされ、タムはまるで時の外へと一歩を踏み出したかのような心地を覚えた。

 『私は時を食べてきたの』タムの思考に応えるかのように、その女性が言った。いつの間にか、部屋の窓は消え失せていた。女性がひとつの感覚を記憶として投影し、タムはそれを感じた。「時」の味は甘く、植物性に似て、ライムとジュニパーの風味をかすかに帯びている。やがてそれは涙のような塩味と、片瞼の痙攣のような旨味へと変わった。その感覚にタムは頭痛を覚えるが、むしろ大きく狼狽したのはその存在が続けて発した言葉に対してだった。『あなたが背負う知識の重み。その味がわかるわ。私、食べたい』

 タムは床板を踏みしめ、この精神的空間をこじ開けようと試みた。両手の甲を合わせて力を込め、引き裂き、この現実をどうにか割ってその隙間から安全な地上へ戻るのだ。だが髪の毛一本ほどのごくわずかな開口部が生じたその瞬間、タムは過ちを犯した。今や寝台の上に身を起こす、そのやつれた女性の姿を一瞥してしまったのだ。

 『助け合いましょう』女性の口が動くのが見えるが、その声は頭上の天井から響いていた。

 タムは顔を上げ、すると集中が途切れた。彼女は息を呑んだ。

 天井は濃淡のある濁った黒色で、その黒の背後に臓器や触手、肉の帯が果てしなくうごめいていた。波打ち、収縮し、自分たちとこちらとを隔てる境界を突き、端を探っている。その塊の向こうにあるものは見えないが、頭上から聞こえてくる言葉にタムは悟った――この精神的空間では、自分はテラリウムの中の昆虫やアメーバに等しい。自分自身よりも遥かに巨大な何かに捕らえられたものに過ぎないのだと。

 『愉快ね。果てのない湖への再訪』怪物は独り言のように言った。『私に何かしてくれる? 友達にするみたいに』そう口にする飢えた身体は人形でしかない。呼応するように天井が轟音を立てた。『私を助けて、そうすれば私も助けてあげる』

 タムは震えた。この怪物に好かれたいなどとは思わない。けれど、もし好かれてしまったのなら……いっそ興味を持ってみるのも悪くないのかもしれない。彼女は天井から目を逸らし、判断した。この寝台に横たわる、痩せた女性らしき存在の方に注意を向けるのが良いかもしれない。

 何かをする、何を? タムの頭に、思いつく限り最も単純な行動が浮かんだ。

 恐る恐る、彼女は寝台へと一歩踏み出した。人形は動かない。タムは覚悟を決めて腰を下ろし、その人形の長く細い黒髪に手を伸ばした。敵意を抱かせてはいけないという必死の思いがあり、だが同時に深い好奇心もあった。これが求めているのは繋がりなのだろうか?

 自分が教わった通りに、その女性の髪を編み始める。飢えた女性は震えて息を吐き出し、それが笑い声なのだとタムは気づいた。部屋全体が揺れ、しわがれた吐息の音が響く。振動で梁から埃が舞い落ちる。寝台の上の女性は空ろな目を動かし、タムの指が素早く動く様を見つめた。

 『こんなの初めて……』怪物は夢見心地で言った。

 「どうして断食をしていたの?」タムは尋ねた。髪を編む指だけでなく、声も震えている。

 『欲しい、って思いたかったから』

 タムは長い三つ編みを一本作り終え、次に取り掛かった。「私は、友達が欲しい。欲しいって思うのは辛いことよ」

 『欲しい、って思うことは必要なこと。お腹がすけば、何でもご馳走になるのだから』

 自分は危険な状況にある、タムはそれをわかっていた。更に一本の三つ編みを作り終えると、顔の向きを変えるようその女性へと促す。

 「食事がおいしいのは、食べる前にお腹が空いているからよね」

 『その通り』

 なるほど。この女性の哲学的問題は、納得がいった。

 食通。天井に潜むおぞましいものが、寝台に潜むおぞましいものが、微笑む。『あなたは生命のあらゆる神秘に惹かれている。だから誘いに乗ったのね』

 「『月の怪物』って、興味深い呼び名よね。それで……あなたは何を食べるの?」

 そしてタムは、この怪物が何を好んで食べるかを見せつけられた。寝台で髪を編む彼女の周囲に、幾多のあまりにもおぞましい光景が広がっていく――時空から引きちぎられ、虚無へと消失する次元。ビスマス結晶と歪んだ村々の広大な風景、そのすべてが震えながら存在を止めていく。顎ではない顎が次元ひとつを丸呑みし、悲鳴に満ちた世界が突如として静寂に包まれる――

 映像は不意に途切れた。タムは悲鳴を必死にこらえ、女性の髪を編み続ける。そして編み終えた髪を後ろでまとめ、ピンで一か所に留めた。「次元を食べるのね」

 もう二度と、安寧な気分で寛ぐことはできない。

 『私は世界を剪定するの。ひとつの世界が病んだ時……永遠の森を脅かす時、あるいは完全に花開くのに失敗した時、木を一本切り倒すことで広大な森を守るの』見開かれた怪物の瞳が彼女のそれと交錯した。

 喋ったのは人形の方だったのだろう、だがそれは、頭上から轟くように響く声にかき消された。タムは悟った――ここを去らなければ。

 『けれどあなたからは匂いがする、病気の木のたった一本じゃなくて……森全体を知っている匂い。多元宇宙ひとつの匂いがする。今まさに生まれようとしている、沢山の世界の集まり。その世界の知識が重すぎて辛いのね。助け合いましょう。あなたの多元宇宙はどこにあるのか教えて。命を願うひと。私が取り除いてあげるから』

 この怪物は模倣宇宙について話しているのだ。「友達」という言葉は引き付ける力を持っている。静電気のように、磁石のように。タムは編み込みを仕上げると、後ずさりして離れた。その女性の痩せこけた顔には、骸骨に張り付いたような奇妙な笑みが浮かんでいた。

 『教えて』

 頭上の触手が苛立ちに悶える。

 『教えて!』

 逃げなければ! タムは思わず悲鳴をあげ、部屋の中央からかつて窓があった壁へと全力で駆け出した。

 壁は漆喰でできていたが、ガラスのように砕け散った。紫がかった飾り帯がうねる間を抜けて外へ飛び出す。星の海と精神空間の中を、彼女は真っ逆さまに落下していった。

 幻から転がり出て、繋がりを断ち切る。

 彼女の意識は月から離れ、宿屋という安全な場所へと舞い戻った。窓ガラスと薄いカーテンの向こう側、そして再び自分自身の内側へ。

 タムは両目を見開いた。

 椅子に座しており、じっとりと脂汗をかいている。彼女は窓へと顔を向け、月を見つめた。だが恐ろしさのあまり身動きがとれなかった。


 最後のポータルは他とは異なっていた。他の領界路とは見た目からして違っていた。鉄の輪に囲まれた青緑色。それが魔道士輪であることをヴラスカは即座に見抜いた。

 足を踏み入れたその多元宇宙は、愛するあの男を映し出す鏡のようだった。この奇妙な中枢は、あの男の意志の具現化と言ってよかった。もうひとつの世界の映し身として自らを構築する――ただしあらゆる苦しみを取り除いた形で。整然としており、けれど同時に混沌としている。厳格な規則の上に築かれた館でありながら、退屈だとみなした規則は平然と曲げてしまう。まさにあの男そのもの――その才能も欠点も。そこかしこにあの男の気配があった。あらゆる通路に、塔のあらゆる円環に、そして首筋を撫でるそよ風の中にさえも。自分たちふたりが築き上げる世界は、こんなふうだったのだろうか? そうなのかもしれない。ヴラスカはそう思い、だがその直後に気づいたものがあった。木々の葉に見られる黄色が、自分の瞳と全く同じ色合いなのだ。心が内側へと崩れ落ちるような衝撃。計画からは手を引いたというのに、あの男は死んだものだと私はみなしていて、向こうもそれをわかっているのだろうに。それなのに、あの男は私をその世界そのものへと織り込んでいる。どれほどの規模かはわからない、それでもこの世界の一部へと。

 あいつの良い所に目を向ける方が、ずっと簡単だ。

 ヴラスカは愛おしさと当惑を飲み込み、待ち合わせ場所へと向かった。ヴリンを出発する前にチャンドラが偵察をしてくれていた。わかりやすい場所で、領界路近くにある庭園らしい。だがそこで出迎えてくれたのは、不安になるほど具体的で、かつ猛烈に気恥ずかしくなるような薔薇の香りだった。それは彼女のお気に入りの香水なのだ。何だこれは、わざわざこんなことを? ヴラスカは鮮やかな緑色に頬を染め、腕を固く組んで腰を下ろした。

 そして背負い袋を降ろして長椅子に腰を下ろしたものの、プレインズウォーカーたちがいつ到着するのかは全く見当もつかなかった。

 丸々2時間が経過した。

 ヴラスカは既に本を読み終え、退屈しのぎに石を積み上げて小さなピラミッドを作っていた。

 そして何処からともなく、人間ふたりとレオニンが現れた。

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アート:Darren Tan

 「何してたんだ、遅すぎるよ」ヴラスカはうめいた。三人は身体を覆う緑色の粘液のようなものを払い落とした。

 「ウーズだ」――斧の先から粘体状のものを弾き飛ばしながら、後方にいたドルイドがその一言だけを口にした。「俺はガラク」

 「ヴラスカだよ」彼女は名乗りつつ、背負い袋からチャンドラに向けてタオルを放り投げた。

 「うわ」頭をもたげて粘液の塊を拭き取りながら、チャンドラは驚きの声を発した。「これ全部、ジェイスが作ったの?」

 「あいつはこの多元宇宙を築いて、その法則を定めたんだ。今はもう、あいつが書き記した機能に基づいてこれ自体が自分で動いてる。けど私らが立てた計画の範疇を超えてる。その神託者ってのがどう関わっているのかはわからないけどな」

 「リリアナさんはどうなのでしょう?」アジャニが尋ねた。

 「リリアナ?」ヴラスカとガラクが異口同音に聞き返した。

 「あの女については成り行きに任せる、そう合意したはずだ」ガラクは言葉に敵意を込めた。

 「ジェイス君はあの方を人質に取ったのです」とアジャニ。「可能であれば救出するのが私たちの役目です」

 「絶対に嫌だよ」ヴラスカは吐き捨てた。「なんで私らがそんなことを」

 「退いていろ。俺に復讐をさせろ」ガラクは恐ろしいほど落ち着いて言った。「あの魔女はかつて俺に呪いをかけた」

 チャンドラは腕を組んだ。「わかったわよ! ふたりともリリアナには関わらなくていいから」彼女らしからぬ丁寧な物腰だった。「アジャニと私が助け出すわ」

 「私らも手伝うよ」ヴラスカの唇には嘲笑が浮かんでいた。

 チャンドラはガラクに視線を向けるが、相手は目を合わせようとはしなかった。「ガラク」彼女のその声には、相手に返答を迫る響きがあった。

 不承不承、ガラクは答えた。「あの女が解放されるまでは待とう」

 塔は上下から一行を包み込むとともに、両方向へと伸びていた。この待ち合わせ場所は、遥か眼下に見える生物や人々からは遠く離れている。狙われる心配はない。とはいえ壁に囲まれた空間には不穏な雰囲気が漂い、決して安全とは言えなそうだった。内壁沿いを歩く実習生たちの姿が点のように小さく見え、一体のスフィンクスが冷淡に窓の前を通り過ぎていく。友が築き上げたこの世界では、重力などひとつの曖昧な概念に過ぎないのだ。一行は上へ、塔へと続く道を歩き出した。

 「悲惨な場所って感じ」とチャンドラは唇を歪めて言った。

 「苦しみのない場所は、耐え難い場所だということですかね」アジャニが答えた。

 ヴラスカは居心地の悪さを覚えた。自分の一部は、その考えを今も大切にしている。それが攻撃されたように感じたのだ。「何でだ?」

 レオニンは前方を見据えたまま答えた。「苦難こそが、私たちに意味をくれるのですよ」

 塔の頂上へ向かうのが最も賢明だと一行は判断した。

 道中、チャンドラが言った。「あいつに頭の中をかき回されてから、感じられるようになったのよ。あいつの気配を。でも、本当にここにいるような感じはしない。それとも、すごく小さくなってるか」

 「小さなジェイス・ベレレン」アジャニは考えにふけった。「それは面白いことになりそうですね」

 この場所のありとあらゆるものが、薄っぺらいと感じられた。一夜にして築かれた城のようなもので、歴史の気配はあっても真の深みは欠けている。ヴラスカは昨夜見た夢のことを考えずにはいられなかった。その夢の核心で感じ取った、あの不快な感覚が今も離れずにいる。疑問が拭えずにいる。あいつの心のどこに、あんな一面が潜んでいたのだろう? もし、自分が愛したジェイスという人物は、あえて見せていた一面に過ぎなかったとしたら?

 巨大なアーチの通路がねじれ、ありえない階段へと変化する。その壁を這うように敷かれた絨毯へと足を踏み出し、重力の方向を確かめる勇気を持っていたのはチャンドラだけだった。転落に身構えるかのように両腕を広げて上り、もう三人も次々とそれに続く。その重力の中であっても、ヴラスカには彼の良心が抱く葛藤や不和をはっきりと感じ取れた。物理法則が激しく変化する様子、アーチがまるでゴムのように横へと引き伸ばされていく様子。この場所を築き上げる行為が容易であったはずはない。あいつはその間ずっと、自分自身と戦い続けていたのだ。その事実に、ヴラスカは幾らかの安らぎを覚えた。

 何よりも気がかりなのは、道中で遭遇する者たちだった。薄緑色と白の制服をまとった実習生の集団が通りかかると、彼らはガラクに視線を向けた。ガラクは歯をむき出しにして威嚇し、それは兜に隠された狂暴な表情をありありと想起させた。彼らは逃げ出し、その背後には木の葉がひらひらと舞った。

 「本物ではある」ガラクは匂いを嗅ぎつつ付け加えた。「だが完全ではない。あいつらの心には穴がある。おかしい所がある」

 ガラクが拳を掲げた。静止と沈黙を命じる合図だというのは全員が即座にわかった。一行は敷石の上で足を止め、その音が通路に小さく響き渡る。付近には窓があり、乳白色の薄明かりが周囲の壁や床の石材を照らし出している。光はヴラスカの知らない人々の彫像を捉え、その顔を際立たせていた。静寂に包まれた空間、そこに何者かが早足で近づく音が響いてきた。ヴラスカは身構え、石化の魔法を放てるよう力を込めた。

 角を曲がって現れたのは、幻視の中でのみ見たことのある女性だった。窓からの光を受けて黒髪が艶めき、長く白いドレスを翻しながら近づいてくる。その顔には、喜びと安堵だけが浮かんでいた。

 ヴラスカ、アジャニ、そしてガラクは動かなかった。チャンドラだけは恐る恐る歩み寄り、リリアナへと抱きついた。

 ヴラスカの記憶にあるこの女性の姿は、昔ジェイスが不意に見せてしまったものだけだった――他者を巧みに操る自己陶酔者、互いの最悪な部分を引き出し合うだけの関係の片割れ。

 リリアナはチャンドラをしっかりと抱きしめ返し、微笑んだ。そしてからかうように言う。「私を気にかけてくれるなんて、誰かさんにしては珍しいこと」

 チャンドラは笑い声をあげ、抱擁へと更に力を込めた。「会いたかったんだから」その言葉は心からのものだった。彼女は同行者たちを示した。「知ってるのよね?」

 「ええ、知っているわ」その短く鋭い言葉には、溢れんばかりの敵意が凝縮されていた。ガラクが唸り声を発した。チャンドラには聞こえないほどの低い唸りだったが、ヴラスカはその響きを胸で感じ取った。アジャニは耳をぴくりと動かした。

 「どうしてここに?」リリアナが尋ねた。

 チャンドラはそれを笑い飛ばした。「助けるために決まってるでしょ!」

 白ずくめの女性はかぶりを振った。「助けなんて必要なかったのに。私は望んでここに来たのよ」そして背後の部屋を指し示す。「さあ、いらっしゃい」

 その通りにすると、石造りの廊下から繋がっていたのは、木材をふんだんに用いた執務室だった。巨大な張り出し窓がひとつ、外に面している。室内にはむせかえるような甘い香りが漂っている。麝香の混じった強烈なバニラの香りで、暖炉でどれほど薪を燃やそうとも、その香りを打ち消すことはできない。レースのカーテン越しに、ヴラスカは外にいる実習生たちの姿を目にした。部屋の中央には巨大な机が置かれており、椅子がそれを取り囲んでいたが、誰ひとり座ろうとはしなかった。

 机の上は几帳面に整理されており、リリアナはその端に寄りかかった。その傍らには月の雫の鉢が置かれており、近くを一匹の黒いハエが飛び回っていた。

 アジャニが踏み出した。「人質にされていたとお聞きしました」

 「私を誘拐できて、かつ無事でいられる奴がいると思って?」リリアナは微笑んだ。

 暖炉の炎がパチパチと音を立てる。ハエの羽音がうるさく響き、アジャニは耳を引きつらせた。空気が不穏に揺らめき、ヴラスカの不安をさらに掻き立てた。

 武器を構え、ガラクが進み出た。木製の柄が絨毯をこすり、握りしめた革の持ち手が軋み音を立てる。その斧は執務室の天井に届かんばかりの大きさだった。

 「お前はあの魔女ではない」

 場の空気が張り詰め、チャンドラは眉をひそめた。

 自ら囚われの身となったというリリアナは眉を上げた。立ち上がり、両手を丁寧に前で組む。「ドレスが違うから、でしょう?」

 「ベナリアのガラスですね」アジャニが両耳を平たく伏せる。宙の匂いを嗅ぎ取り、体毛が逆立った。「蜜蝋と薬草。それと香の匂いです」

 「癒し手か」ガラクも低い声で言った。「お前はあの女ではない」

 ヴラスカも歩み寄り、最大限に恐ろしい存在となることを自らに許した。白ずくめの女性を見下ろすように立つと、相手のスミレ色の瞳に恐怖が閃くのが見えた。

 「味方を非難するなんて、どうかしてるわ」リリアナは不快そうに言った。

 「なら証明して。私たちには他にも仲間がいたでしょ。話して」チャンドラはヴラスカの隣へと進み出た。「あいつのことは覚えてる? ギデオンのことは」

 リリアナは鼻で笑った。「ギデオン? 遠い過去の存在よ――」

 チャンドラの髪が炎を上げた。「偽者!」

 ヴラスカは躊躇しなかった。机の上に飛び乗り、リリアナの顎へと拳を叩き込む。相手は机の角に激突して病的な音を立て、床へと崩れ落ちた。白のサテン生地が赤へと染まっていく。一撃だった。ヴラスカは拳についた血を払い落した。「ずっとこうしてやりたかったんだよ」

 チャンドラの髪から炎が消えた。「リリアナ本人はいい奴なんだからね」

 「それは違う」ヴラスカとガラクは声を揃えた。

 床にうずくまっていた布の山が動き、偽のリリアナが身体を起こした。手入れの行き届いた綺麗な右手を、明らかに折れている顎に当てる。柔らかな白い光とともに、顎は元の位置へと戻った。

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アート:Alessandra Pisano


 「何で……」ヴラスカは言葉を詰まらせた。

 偽のリリアナが立ち上がった。「好きなだけ殴って結構よ。私はその度に立ち上がるだけ。さて、失礼するわね。“理論家”に知らせないと――あなたがたが来ていて、しかも非協力的だということを」彼女はにやりと笑った。「さようなら」

 オパール教授はくるりと身を翻し、執務室から駆け出していった。

 四人は態勢を立て直し、追いかけた。

 本物のリリアナは屍術師だ。それと近しい能力を、この世界はあの女に持たせたというのは理にかなっている。それでもヴラスカは訝しんだ。何故治癒なのだろう? 苦しみなど知らない女が、何故そのような力を授かったのだろう?

 廊下を曲がるとまた廊下、さらに廊下、そしてまた廊下――

 螺旋階段を上る、上る、上る――

 窓、同じ窓、同じ窓、またも同じ窓――

 右に曲がり、右に曲がり、また右に曲がり――

 そして四人はオパール教授の執務室に飛び込んだ。窓からは月光が差し込んでいた。

 月光?

 リリアナは机の前に座していた。そのドレスは一点の汚れもない白で、髪は乱れておらず、顎を殴打された形跡もない。彼女は読んでいた本を閉じ、手にしていた喫煙用パイプを置いた。

 そして溜息をつく。「またなの?」

 外はもう明るくはない。日が沈んでから何時間も経っている。自分が正気ではないような感覚にヴラスカは陥った。「また、ってどういう意味だよ?」苛立ちを露わに言い放った瞬間、折れた肋骨が周囲の筋肉に刺さり、彼女はびくりとした。

 ヴラスカは苦痛に身を屈め、そして不意に気付く――脇腹の殴打跡、切れた唇、反射的にうねる傷ついた触手の髪。彼女は唖然とした。一体何が起きた? リリアナが厳かな様子で歩み寄り、肋骨を速やかに癒していく。ヴラスカは椅子のひとつに腰を下ろした――柔らかすぎる椅子。あまりの衝撃に、ヴラスカは意味のある言葉を発せなかった。

 私は、いつ戦ったんだ?

 「どうすればいいの?」チャンドラがうめいた。その両腕に走る長い切り傷をヴラスカは見た。「どうすれば……私、どうすればいいの?」

 ヴラスカは眩暈を覚えた。自身の知覚が奇妙に感じられる。瞬きをし、そして悟る――学んだ覚えのないことを、自分は知っている。

 オパール教授は落ち着いた様子のまま立ち上がり、アジャニへと向かった。レオニンは苦痛に吠え声をあげながら、頬に負った酷い火傷のような傷を押さえていた。チャンドラもその傷に気づいたらしい。恐怖に駆られ、紅蓮術師の顔からみるみる血の気が引いていく。アジャニが声を発した。

 「Ποιον βρήκαμε?」

 ヴラスカ、チャンドラ、ガラクの三人が一斉に顔を向けて見つめた。アジャニは当惑した様子だった。まるで、自分が喋った言語が自分でもわかっていないかのように。ガラクがアジャニへと近づこうとしたが、その利き腕は力なく垂れ下がっていた。彼はヴラスカの傍らでがっくりと膝をついた。その上腕の筋肉が皮膚の下で激しく痙攣し、混沌として微かな波紋を描く。ガラクは必死の形相で、自身の肌に刻まれた紋様を確かめた。腹の底に渦巻く恐怖とともに、ヴラスカは今何が起きたのかを悟った。

 オパール教授がアジャニの頬の火傷を癒していく。チャンドラは近寄り、アジャニの手を握った。彼女の息は荒く、狂乱寸前のようだった。「アジャニ、私どうすれば……」苦痛と苦悩に顔をしかめる。「何かしなきゃいけないのはわかってるけど、何をすればいいかわからないの!」正気を蝕まれ、その呼吸はますます荒く苦しくなっていく。「どうすればいいか教えてよ!」

 「Πρέπει να βρούμε τον Τζέις. Αυτό σου το έκανε. Μου το έκανε αυτό――」

 ガラクも困惑と苦痛の吼え声をあげた。その筋肉は主の意志を裏切り、終わりのない静かな舞踏を続けていた。

 目を見開いている自覚がヴラスカにはあった。恐怖に駆られた心臓が激しく鼓動しているのを感じ取っていた。彼女は確信を込めて結論づけた。「私らは、もうジェイスと戦ったんだ」

 リリアナは見下すような笑みを浮かべ、静かにかぶりを振った。

 「ええ、ご苦労さま。あなたがた、ジェイスと三回も戦ったのよ」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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