MAGIC STORY

リアリティ・フラクチャー

EPISODE 01

第1話 生きている

Alison Lührs
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2026年8月31日

 

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アート:Cynthia Sheppard

 初めてタムが目を開けた時、そこにいたのは疲れ切ったひとりの男だった。見つめ返してくる、純粋な畏敬の眼差し。男はせわしなく瞬きをし、唖然としたように唇を半開きにすると、ふいに笑い声を漏らした。

 「成功だ」男は笑みを浮かべた。

 その目元には隈があり(タムに睡眠の経験はなかったが、目元の隈はその男が長いこと眠っていない証拠だというのは理解していた)、男の背後には数々の定理がびっしりと書き殴られた黒板が何枚も並んでいた(その証明を読み解くことはできるが、なぜできるのかはわからない)。その男を見つめると、男もまた彼女を見つめ返した。そして言葉を詰まらせながら、男は白い手袋をはめた震える手を差し出した。握れというのだ。

 その通りにすると、男は彼女の身体を引き上げて座らせた。男は身を乗り出し、青く眩しく輝く瞳で彼女を上から下までじっくりと観察した。

 造られたばかりの女性は話をしようと試みた。「私を知っているの?」

 男の両目が和らぎ、頷く表情にもそれが現れた。「よく知っているよ」

 「私は誰なの? 教えてくれる?」

 男の笑みが大きく広がった。疲れを滲ませながらも得意げな笑み。「君の名前はタミラ。しかしながら、自分が何者であるかは君が決めることだよ」

 男は彼女を別の部屋へと案内し、食事を運び、チキンのダンプリングスープを食べる彼女の隣に腰を下ろした。男は外套と白い手袋を床に放り投げ、何日も洗っていない髪を指で梳き、長いこと見開いたままの瞼をようやく閉じた。

 「君は俺の娘ではないし、俺は君の神様でもない。俺たちは付き合ってるわけでもない。まずはそのあたりをはっきりさせておこう。俺は魔道士で、ある特別な目的のために君を創造した。でもまず君は、俺が知っているあらゆる物事を学んでもらう必要がある。できればそれ以上のことを。いつか君にやってもらいたいことがあるけれど、今はまだ気にしなくていい。俺がきちんとやれていたなら、その身体は現実の存在だ。だから一日三回の食事が必要だし、徹夜して本を読みたくなるかもしれないけど最低でも7時間は寝た方がいい。そうしないと寝不足で不機嫌になるからね。君はテレパスでもある、俺と同じように。だから……こうして声を出して話をする必要は別にないんだけど、このところ誰とも話してなかったから……上手く説明できていない気がするな」

 タムは器を置いた。疑問は無数にあるが、一番重要なひとつを投げかける。「私に自己はあるの?」

 彼女を創造した男は一瞬だけ黙り……そして頷いた。「未完成の。ああ。未完成の自己がね」


 彼女の名はタムという。

 ヘクスヘイヴンは、紅葉始めの木々と秋の澄み切った空気でタムを迎えた。遥か頭上で、フェイトホールドのデンジロア学部長が曙光の中に翼を広げている。まるで凧のように舞い、上昇気流の中で波打つその翼は飾り帯のよう。牢獄から出てきたタムは、心地よい雰囲気を感じてしかるべきだとわかっていた。ジャズィは地下に軟禁され、自分の任務は完了した。なのに「帰還」という感じはしない。この感覚は何なのだろう? どうして、まるで空腹のような気分なのだろう?

 見かけ上、タムはストリクスヘイヴンから勝利の帰還を果たしている。任務を完遂し、捕らえた神託者を連れてきたのだから。だがポータルでオパール教授に出迎えられ、虜囚を地下へと連行する間も、彼女にはどこか空虚な思いがあった。どうして“理論家”は出迎えに来てくれなかったのだろう?

 あの男がいない理由は考えられる。もう遅い時間だった。話をするのは翌日でもできる。友達の思い出に未練がましく固執するよりも、この成功に意識を向ける方がずっといい。とはいえ、去り際に皆が向けてきたあの表情をタムは忘れられそうにはなかった。

 元のストリクスヘイヴンと同じように、ヘクスヘイヴンにも古きと新しきとが同居している。何世代もの先人たちが踏みしめてきた石畳の上で、誰もが自分自身になっていく場所。「けれどこの大学は」――“理論家”は言っていた、「改善されている」と。それは唯一にしてすべてを包含する塔であり、ねじれながら空高く伸びて、それを見守るスフィンクスたちの領域へと続いている。ここでタムを傷つけるものは何もないが、満たすものもまた何もない。“理論家”がそこかしこの壁から、あるいは鳥や生徒たちの目を借りて監視している限りは。それが安全のためだというのはわかっている。それでも“理論家”には、たまに外に出てきて出迎えて欲しい。タムは心からそう願った。

 物静かで親しみやすい実習生たちとすれ違いつつ、タムは創造主が作り上げたこの多元宇宙の驚異に思いを巡らせた。実習生仲間たちはこちらの姿を認めると、軍隊式の短い会釈を向けてくる。これは“理論家”の支配からは独立した動きだ。あの男はこれを「大計画」と呼んでいる。タムは「模倣宇宙」と――元の好ましくない部分を削除した鏡映しだと考えているが、声に出したことはなかった。この人造多元宇宙には生と息吹がある。今や自立して動く機関と化しており、「先代と同じものに、ただし苦しみのないものとなれ」というただひとつの命令に従って自身を創造し続けている。とても単純な使命、そして藁山のように積み重ねられた複雑極まりない幻実理論。この定理の多くは理解しているが、タムが知らないこともまたとても多い。“理論家”は素晴らしい師だ。神託者の誘拐が成功したと知れば、きっと喜んでくれるだろう。

 美しい秋の日だった。学舎というのは秋にこそ存在すべき、そう思うような。タムは落ち葉の香りを嗅いだ。驚嘆すべきことに、それが山積みになることは決してない。こうして鞄を持ってはいるが、インクを補充する必要は決してない。何か月も着ていなかったにもかかわらず、セオリクスの制服は身体に完璧に馴染んでいる。すぐに自分もこの学舎を歩き、パラボックスで理論を実験し、他の実習生たちの友となるべく奮闘するのだろう(彼らに友誼を結ぶ能力はあるのだろうか? それはわからない)。この学舎は様々な物事が真のストリクスヘイヴンとは異なっているが、中でも最も際立っているのは、不在だ……何の? 友達の? 彼らは友達だったのだろうか? 自分は友達だったのだろうか?

 タムは歩道の真ん中で立ち止まり、顔をしかめた。違う、自分は友達などではなかった。本当の意味での友達などではなかった。命じられていたから、そうあろうと努めていただけ。それでも、彼らとの時間を思い出すたびに――サナールの心地よい寮で語り合い、食堂から密かに持ち出したおやつを貪り食い、笑い合い、廊下を教授が通り過ぎる度に「しっ!」と声を潜め合った――とある感覚に襲われることは知っている。それは焼けつくような痛み。神託者をさらった時に皆が向けてきたあの視線を、忘れてしまいたくなる。この感情をどう名付けていいのかはわからない。何と呼べばいいのか、“理論家”に尋ねてみる必要がありそうだ。

 今、その感覚はない。けれど別の何かを感じてはいる。切望であり、欠落感。飢え――けれど食物に対するものではない。だとしたら何に対する飢えなのだろう?

 不意に、ひとつの幻影がタムの目の前に現れた。それが幻影であることは一目でわかる。他の実習生たちがそのまま通過していく様も見える。それでもなお、その幻影はタムの歩みを止めさせた。

 “逃げたのね” アビゲールが手話で伝えてきた。“私たちに嘘をついて、逃げた”

 他の生徒たちは、ヘクスヘイヴンの実習生たちは、気にも留めずに通り過ぎていく。彼らには、タムが心の中で思い描く対立の場面など見えてはいない。

 “あなたが現実じゃないから、私たちの友情も現実じゃなかったってこと?” アビゲールは苛立ちに羽毛を逆立て、警戒と怒りに風切羽を強張らせた。

 タムはうつむき、歩いて幻影を通り抜けた。だが消えたかと振り返った時、そこにはまだ友の姿があった。傷ついた様子で両目を見開き、無言の非難に尾羽をひきつらせながら。“あなたはひとつの嘘よ” とでも言いたいように。

 それでもタムは背を向けて歩き続けた。“理論家”と話をしなければ。何が起こっているのか、あの男なら知っているはずだ。頭上で鳥の群れが羽音を立てて飛び、その中には見覚えのある顔の気配があった。つまり、自分が帰ってきたことをあの男も知っているのだ。

 雲の切れ間から朝の光が差し込み、頬に冷たく心地よい風が当たる。“理論家”は元の多元宇宙から残酷な面を切り落として複製した。驚異的な仕事だ――学舎に向かうために、濡れた石畳の上を歩いても決して滑ることはない。すれ違う実習生たちの話し声が耳障りなほど大きくなることもない。これは現実なのだ。自分が現実であることと同じように。

 朝露に濡れた三つ編みを揺らしながら、タムは管理棟へと続く階段を上っていった。

 “理論家”の執務室は、むしろ実験室と表現する方が適切だった。開放的で光に満ちた吹き抜けの空間であり、オパール教授の執務室から廊下を進んだ先に位置している。静まり返った廊下にタムの靴音が響き、晩秋の朝日の中で埃の粒が宙を漂っていた。

 自分は空ろだ、そうタムは感じていた。そしてそれゆえの奇妙な罪悪感があった。もっと確固とした、あるいは情熱的な何かを感じてしかるべきなのかもしれない。何といっても、「進歩」の名のもとに友を欺いたのだ。そのためには確固とした意志と情熱が必要とされるはず。けれど自分にそれはない。ただ気まずい気分で黙っているだけ。廊下を歩く姿は誇らしくもなく賢明でもなく、力も足りなく、何かが欠けている……そして音などないはずのその静寂を、ひとつの声が遮った。

 「何が欠けているのか、私にはわかるとも」

 はっとしてタムがその声の主を探すと、冷笑を浮かべたルーウェンの姿が目にとまった。ステンドグラス越しの色鮮やかな光を浴びながら、彼は高窓の縁に腰掛けていた。

 「外に出て行ってそれを見つけない限り、本当の君にはなれないよ」

 「見つけるって、何を?」

 「君はただの部品だ」

 何かの物音がオパール教授の執務室から聞こえた。今度は本物の音だ。タムはそちらを伺い、するとルーウェンの幻影は消えた。心臓が激しく高鳴る。急いで教授の部屋に辿り着き、中に入るとタムは安堵の溜息を発した。

 オパール教授の執務室には、いつも濃厚なラベンダーの香りが漂っている。ソファには多すぎるクッションが詰め込まれ、暖炉の上からは学舎に生息するペガサスの絵が飾られている。何かを訴えかけるような瞳。朝の光がレースのカーテン越しに柔らかな模様を描き、ラベンダーの香りの底には、卓上の箱に入った菓子の甘い気配がほのかに混じっていた。

 「タミラちゃん! ごきげんよう」オパール教授は普段と変わらない、温かな口調で言った。「丁度ペガサスに餌をあげようと思っていたところなのよ。よかったら月の雫の壺を持って一緒に来てくれないかしら?」

 「すみません。日課を始める前に、“理論家”に相談することがありますので」

 「私に何かお手伝いできることはある?」

 自分が見た幻影のことをオパール教授に話したくはなかった。そうするのは危険だと直感が告げていた。真実のすべては明かさず、タムは言った。「この多元宇宙の構造に、何かおかしいところがあります」

 「あら。私も解決策を考えてみるわ」

 「教授……」続く言葉を探す。「友情とは、何なのですか?」

 教授は穏やかに微笑み、手にしていた本を置いた。「私たちが他の誰かと結ぶ絆は、決して断ち切れないものであるべきよ。私たちは、私たちを取り巻く者たちと契約を結んでいて、行動をもってその契約を重んじる。あなたが葛藤しているのは、“理論家”のもとにあの神託者を連れて行ったから?」

 タムが罪悪感とともにうつむくと、教授はその肩に手を置いた。

 「そんなふうに思わないで」教授は優しく言った。「あなたの務めはあなたの創造主に対してのもの。“理論家”はあなたの創造主というだけではなくて……」言葉を探すように、オパール教授の声は小さくなった。「あなたはとても特別な存在よ、タミラちゃん。それに、私とは違う形の絆で結ばれている。あの人に尽くすことに罪悪感を抱く必要なんてないわ」

 ならばどうして罪悪感を抱くのだろう? なぜ自分の罪悪感が友達の姿をとって現れるのだろう? どうして、自身の裏切りを想起させるようなものをわざわざ自分から見てしまうのだろう?

 オパール教授は机の前にある優雅な椅子へと滑らかに歩み寄り、腰を下ろした。朝の陽光がその姿をひとつの影のように縁取る。彼女はペンを手に取り、傍らに置かれた本に短く書き込みをした。「新しいお客様は快適にお過ごしかしら?」

 教授は神託者ジャズィのことを言っているのだ。タムは机の脇へと歩み寄り、教授の近くで切り出した。「あの……『もうひとり』のあの人に対するよりも……親切に接して頂けますか?」

 オパール教授は丁寧に笑みを浮かべたが、その目尻は動いていなかった。「私はいつだって親切よ」

 本当にそうだろうか? タムは疑問に思ったが、上手く顔には出さずにいた。「ありがとうございます、教授」そして立ち去るべく背を向け、短く告げる。「失礼します」

 「またね、タムちゃん! 神託者のことは任せなさい!」

 タムは一押しで木製の扉を閉めた。

 時折、そこに至る過程を思い出せないまま、特定の見解を抱くことがタムにはあった。オパール教授は好ましい人、けれど心のどこかでタムは常にあの女性を警戒していた。まるで、本心をさらけ出しすぎてはいけないと知っているかのように。そんな先入観を抱く明確な理由はなく、それでもその感覚を拭い去ることはできないのだった。

 タムは螺旋階段を上り、“理論家”の聖域へと向かった。一段ごとに、頭上から物音が聞こえてくる――取っ組み合いの音だ。乱暴な足音と突然の怒鳴り声。争いが起きている。タムは急いだが、戸口の前で立ち止まった。“理論家”があげる苦痛の悲鳴、何かを必死に追い払おうとする音。金属が木材に当たる甲高い音、そして互いに揉み合う人物ふたりの足音。自分なら助けに入ることができる、そう確信したタムは勢いよく部屋へと飛び込んだ。

 “理論家”の聖域は広大で開けたひとつの空間で、魔道士輪が吹き抜けを鎖帷子のように取り巻いている。それぞれの輪があらゆる場所へと通じており、力線のエネルギーを帯びてうなりを上げていた。普段であれば、聖域に入って真っ先に目を引くのはそれだった。だがこの日、タムの視線は下へと向けられた。そこにある演壇は白墨と血で汚れていた。

 タムは状況を判断した。“理論家”は両目を眩しい青色に輝かせ、鼻から血を流している。ファイレクシアの傷跡が見える程に両袖をまくり上げ、白いフード付きの外套は脇に投げ捨てられていた。“理論家”は顔をしかめて隙を伺っており、対峙する相手は背が低く小柄だが、猛烈な速さで動き回る様はまるで小さくも狂暴な肉食獣のようだ。まだ少年で、13歳ほどだろうか。片手にはナイフを握っており、顔には仮面を着けているためその瞳は見えない。少年は“理論家”の太腿に切りつけ、魔力のきらめきを纏う手の甲をその傷口に叩きつけた。“理論家”は苦痛の吼え声をあげた。

 「先生!」タムは数式を構えようとした。その少年が用いる何らかの魔法を打ち消すために。だが“理論家”が叫んだ。「タミラ! 待て!」

 “理論家”は苦痛に耐えて力を振り絞り、開いた傷口から血の流れる腕でポータルをひとつ作り出した。そしてその円形の、金属で縁どられたポータルへと少年を放り込んだ。

 師と弟子は一息ついた。タムは近くの黒板から清潔な布を取り、“理論家”に手渡した。男は荒く息をつき、鼻をつまんだ。頭蓋骨の内側の激しい痛みに耐えるように両目を閉じ、そして彼女へと向き直るとその存在を認めるかのように瞬きをした。

 「またですか?」

 “理論家”は頷いた。

 「鼻は大丈夫ですか?」

 かぶりを振る。

 「侵襲治療室へ行かれますか?」

 「大丈夫だ。ありがとう、タミラ。」

 “理論家”はタムを作り出した人物だが、“理論家”がその人物のすべてではない。あくまで一部だ。彼女自身がひとつの部品に過ぎないのと同じように。その意味ではタムはこの男を理解しているが、今となっては最初の頃のあの男よりもずっと隔たりを感じる存在になってしまった。率直で客観的で、魔術科学の権威を信奉しており、それを単なる「意見」として矮小化することを決して許さない。“理論家”の手法が目指すのは正しさではなく明晰さだ。タムを創造した男は、その複雑な機微や感情を備えていたあの男は、もうここにはいない。

 そのようにして最初の死から抜け出した――“理論家”は早くにそう説明してくれた。まるで、首飾りのビーズが自分たちを繋ぎとめる糸を思い描こうとしているかのように。

 以来、この男は数多くの「逸脱体」と戦ってきた。タムは訝しむ――どれほどの数がいたのだろうか? “理論家”は彼らの存在を、幾つかでも認識していたのだろうか? 話題を変えるために彼女は尋ねた。「耳にピアスを開けたのはいつですか?」とはいえそれは純粋に疑問でもあった。好奇心を抑えられないのだ。自分という存在であることを止められないのだ。

 “理論家”はきょとんとし、上を向き、顔をそむけた。「いつだったかな」

 「私も開けたいかも」タムは独り言のように呟いた。

 “理論家”はそれについて何も言わなかったが、彼女へと一瞬の視線を向けた。青い瞳と黄金の瞳が交差する。幾つかの逸脱体を追い払う前であれば、冷淡な返答をくれただろう。期待外れだ。彼らがいなくなってからというもの、“理論家”は退屈な人物に成り果ててしまった。

 開ける時って痛いのかな? 痛そうには見えるけれど。

 タムは近くのテーブルに腰かけ、周囲の黒板に書き殴られた幻実方程式を眺めた。「効果はあるのですか? 切除は」

 「逸脱体を切除すればするほど、多元宇宙の呪文を制御する力はより精密になっていくんだ」

 「先生……」タムの声が小さくなった。「懸念はあります。制御は精密になっていっても、不安定さという問題は依然として残っているのではありませんか」

 “理論家”は鼻を押さえていた布を外し、何処からともなく魔法で作り出した屑かごへとそれを放り込んだ。この場所において“理論家”は神であり、神には屑かごが必要だったのだ。「君が任務に送り出されたのはまさにそのためだよ、タミラ」

 『送り出された、のではなく先生が送り出した、です』

 「ああ、そうしたのは私だ」テレパシーで告げたタムに、“理論家”は言葉で応えた。彼女はおずおずと心を鎮める。「思い切った手段が必要なんだ」

 「思い切った手段とは、どのようなものですか?」

 “理論家”は微笑む。「それを導き出してくれ」

 クアンドリクスがタムの最初の学びの場だったわけではない。“理論家”は彼女に幻実理論やテレパシーの用例、幻影の技を教え込んだ。師の技は聞こえぬものを聞き、見えぬものを見せること。そのため彼女の技もまた同じだった。ふたりを取り囲む何枚もの黒板の下には、カルドハイムの戦闘教本やラヴニカのスパイ技術に関する書簡、エルドレインの妖精たちが用いる幻と謎かけをまとめた書物などが並んでいる。タムはそのすべてを読み込んでいた。それらがまるで、心にあいた穴を埋めてくれるかのように。

 「ホルムベルグの誤信は、『あらゆる幻影には現実への繋ぎ止めが必要とされており、通常それは術者の肉体を介して行われる』と述べています」

 “理論家”は頷く。「そして?」

 「新たな多元宇宙の不安定さは、先生の肉体と本質的に結びついています」

 「そして?」

 「それは、私とも本質的に結びついているはずです。先生が私を創造したのですから」

 「その通り。だが主たる術者は私だ。多元宇宙の規模はあまりに大きすぎる。死の後の私の状態と、多元宇宙の全容を完全に収めきれなかったことで、繋ぎ止めに負荷がかかってしまったんだ」

 タムは顔をしかめた。その「繋ぎ止め」とは師の肉体を意味するのだ。

 「呪文を維持するのは困難だった。集中するために『逸脱体』を切除しなければならなかった。だがそれで安定性は取り戻すことができた。もうすぐ呪文を再開できるだろう」男は溜息をついた。

 「無い方がいいのですか? その……『逸脱体』は」

 “理論家”は言葉を切り、自らに向けるように微笑んだ。「ああ。今や私は完全なひとつの存在だ。自分が何者なのかははっきりわかっている」

 師の集中力が一瞬だけ途切れ、だがすぐに戻る。

 「他には何かあるかい?」

 タムの視線が頭上へと引き寄せられた。模倣宇宙の模型がそこに吊るされている。ひとつの幻影であり、実時間での安定性と構造を示している。奇妙に薄く見え、まるでワイヤーでできた外枠を覆う膜のようだ。あるいは窓枠の大きさにまで引き延ばされたパン生地のような、だろうか。

 「この多元宇宙は、支える構造を必要としています。元の多元宇宙の上に重ねなければいけません」

 「その通りだ。こちらの多元宇宙を安定させるためには、既存の多元宇宙に上書きする必要がある」師の瞳の輝きは魔法ではない――もっと熱烈な炎のようなもの。「こんなことを試みた者はかつて誰もいない」

 その理屈はタムも完全に理解しているが、そこから跳躍するように導き出される結論はそうではなかった。「片方が上書きされたら、どうなるのですか?」

 にやりとした笑みが“理論家”の顔に広がっていく。「わかっているとは思う、けれど確信はない。興奮するとは思わないか?」

 不意に、彼女は不安を覚えた。「先生の身体はどうなるのですか? 元の多元宇宙をどうやってこちら側に持ってくるのですか?」

 「簡単だ。私の身体を両方の多元宇宙の繋ぎ止めに使う。あの神託者はそのためにいるんだ」

 「先生、あの方をどうするおつもりですか?」

 師がその質問に頷く様子は、過剰なまでに父親じみていた。「神託者は、被覆を完成させるために必要な情報をもたらしてくれるだろう。ふたつの多元宇宙を融合させ、苦しみを撲滅する。永遠に、完璧に」

 “理論家”は離れて置かれた一枚の黒板を指さした。タムは机から降り、その中央に描かれた数式と引用句を読みに向かう。彼女は眉をひそめ、そしてはっとした。

 「これは真ですか?」

 「シソッコの法則だ」

 「『テレパスによる意思疎通は意識を辿る』。ですがアルケヴィオスの神託者たちは独特です。私たちが私たちの幻影に繋ぎ止められているように、神託者は神託者の次元に繋ぎ止められています」タムは考えをまとめ上げた。自身の推論が正しかったという喜びがあった。

 「厳密に言うなら、彼らの故郷である次元に繋ぎ止められている。その魂はあらゆる次元的時間的障壁を越えてその源へ投影され、そこで彼らはアルカイックとなる」

 タムは息を呑んだ。幻実理論は大胆なものだが、それが示す筋道にはむかつきを覚える。「つまり、神託者が死ぬと、その意識は時の始まりへと戻るということですか?」

 「荒々しい乗り心地だろうね」にやりと“理論家”は笑う。「とはいえ、それがどうやってできたのかを自分で見ない限り、私の仕事は完成しない」

 「それ、とは?」

 「多元宇宙の起源だ。ふたつの異なる次元がひとつの新たな次元へと融合する。それこそが、私たちの多元宇宙を現実のものにする方法だ」

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アート:Marta Nael


 胸が締め付けられるような感覚。“理論家”がジャズィの意識を辿って始まりの時へ辿り着くためには、あの女性は死ななければならない。「神託者様の死は、その実験にとって不可欠なのですか?」

 「ああ、そうだ。その現象を観察する方法はそれしかない。君には傍にいて結果を記録してもらいたい」

 背中に当たる朝の日差しが熱い。「今日ですか?」尋ねるタムの声が強張る。

 “理論家”は即答しなかった。代わりに一拍置いて彼は答える。「いや。けれどすぐに」

 “理論家”は立ち上がると汚れた黒板へと進み、傍にあった布を用いてそれを拭き取った。

 「時間ができた時に」

 今、師の顔は見えない。けれどその立ち姿からは、師が居心地の悪さらしきものを感じていることはわかる。不安が肩を強張らせている。“理論家”は動きを止め、彼女へと振り返った。

 「君が見た幻影について教えてくれるかな」

 気まずさにタムは視線を落とした。机に背を預け、胸の前で腕を組む。“理論家”は黒板の文字を消し続けた。「ストリクスヘイヴンでの友達を見ました。二度も。最初は自分でもよくわからない感情を抱いていた時に。その次は自分には力が足りないって感じていた時に」

 タムが顔を上げると、“理論家”はこちらを向いて立っていた。感情の読み取れない表情が見つめ返してくる。その瞬間自体に、解読できない重みが込められているような気がした。

 「君のことを愛してくれる者たちに、君は何を望むのかな?」

 「皆のことを知りたいし、私のことも知ってもらいたい、です」タムは“理論家”が耳を傾ける様子を見つめた。男の表情に理解が浮かぶ。

 “理論家”は少しだけ身動きをした。明らかに何かの決断に至ったのだ。「おいで」

 タムはその通りにした。“理論家”の前に立つと、彼女の顔の両脇に手が添えられた。「目を閉じて」

 再び従う。高山の湖に手を浸すような、力強くも冷涼な感覚。どこか懐かしい。自分自身だと感じさせてくれるような。

 「君には十分すぎるほどの力がある。君は素晴らしい存在だよ、タミラ」

 タム自身、何かが変わったような感じはない。ただ、先程の師がこちらの心に何を読み取ったのだろうかと心の隅で訝しむ。

 「何でもないよ。ただ、ちょっと確認していただけだ。自分の仕事に戻るといい。今日読むべき本は後ろの机に置いてある」

 タムは頷いた。そして扉の方へと戻り、卓上の本を手に取る。

 「戦争におけるグラントのテレパシー戦術について」……ヴリンの教科書だ。汚れた表紙を開くと、左上の隅に子供の筆跡で殴り書きがされていた。ジェイス・ベレレン。


 聖域を退出して階段を降りていく。重力が変化し、足元で中心軸が傾くにつれて階段は壁へと続いていく。タムは顔をしかめた。先程の会話を思い返すと心がざわついた。詮索の目が届かない、心の深い場所の地下壕へとその記憶を封じ込める。自分は不安を感じている。怯えている。ひとつの多元宇宙が、別の多元宇宙の薄膜に覆われてしまったなら、何が起こるのだろう?

 「絞め殺される」自身に向けてタムは呟いた。

 石造りの通路にその結論がこだまする。魔法の光がタムの顔へと冷ややかな光を投げかける。彼女が口にする真実を耳にする者はいない。彫像もない。鳥もいない。タムは身震いをした。

 この手で捕らえてきた神託者に会わなければ。そうすれば、この胸の内の恐ろしい感覚も鎮まるかもしれない。

 階段を下り、また下り、早足で歩く。呼吸と足取りが同調する。やがて塔の基部、通路の終点に辿り着くと、タムは最奥の独房を調べにかかった。鉄格子のはまった窓から中を覗き込む。

 ジャズィは隅にうずくまり、毛布をきつく身体に巻き付けてうなだれていた。

 タムは謝罪の言葉を呟きかけたが、そこでジャズィがからかうように語りかけた。「探しているものはいずれ手に入りますよ」

 「ごめんなさい」タムは神託者へと語りかけた。自分の手で連れてきた神託者へと、死なせるために連れてきた神託者へと。「ごめんなさい、ジャズィ様」

 「あらゆる物事は円環のように巡りくるのですよ。そうでしょう? 犠牲者は傷つき、やがて加害者として誰かを傷つける。師からはどうしても逃れられないということです」

 神託者の言葉を、タムは半分も理解できていなかった。「ごめんなさい、ジャズィ様。外に出してあげることはできないんです。実験が失敗してしまいます。多元宇宙を安定させるために、神託者様が必要なんです。あらゆる苦しみを終わらせる道が、私たちにはあるんです」

 「無駄足になりますよ、お嬢さん」

 「何も知らないでしょうに」タムは苛立ちを募らせた。

 「私は神託者ですよ。知らないことなどあるでしょうか?」

 「錠の開け方とか」タムは冷ややかに、刺々しく言い返した。「さようなら、ジャズィ様」

 タムは背を向け、扉から離れていった。ジャズィの大声が彼女を追いかけてきた。「戻ってきなさい! それを見つける方法を教えてましょう! あなたが探しているものを!」

 だがタムは振り返らなかった。そのまま通路を進み、次の囚人のもとへと向かう。

 ヴェス教授の姿勢にだらしなさは微塵もなかった。独房の中央に置かれた椅子に、女王のように背筋を伸ばして座している。身にまとう紫色のドレスの裾が、足元の台座へと優雅に広がっている。頭上の魔法の光がその顔立ちを際立たせており、長い髪はそれを縁取るカーテンのようだった。

 この女性の独房はジャズィのそれよりもずっと広い。中央にコンストラリ製の構築物が据えられているためだ。木と石でできた巨大な球体であり、教授が座す椅子と台座もその内に収められている。それを取り囲む床にはタム自身が手がけた結界が張り巡らされており、“理論家”やオパール教授による魔法も組み込まれている。独房の片隅には、どこか見覚えのある男性の巨大な胸像が置かれている。とはいえタムはその人物を見た記憶がどうしても思い出せなかった。

 彼女は独房を形成する鉄格子へと近づいた。魔法的結界の端でもある。これほど離れていても、馴染みない魔力が踊るのを感じてタムの皮膚がうずいた。ヴェス教授は興味深そうな声を漏らした。教授が屍術師だということは知っていたが、その魔力を肌で直接感じる機会があるとはタムは夢にも思っていなかった。

 「あなた、生まれた存在ではないわね」囚人はまるで、材料を見極める料理人のように呟いた。「造られたのね。神経細胞が新しすぎるもの。面白いじゃない。もうひとりの私がこの私をきちんと虐めているかどうか、確認に来たのかしら? それが日課なのかしら?」

 「オパール教授はご自身の務めを果たしているんです」

 「そうね。あなたの教授はあなたを6フィートの穴に蹴落として、這い上がらせて、そこへまた蹴落とすのでしょうね」

 ヴェス教授はオパール教授よりも無礼だ。見た目は綺麗だが、無礼だ。

 タムは鉄格子の錠をガタガタと鳴らした。

 「あなたには友達がいた、そうでしょう?」ヴェス教授が尋ねた。「その友情は本物よ。ストリクスヘイヴンで起きた出来事はすべて、ね」

 タムは手を止め、中を再び覗き見た。教授は、まるで秘密を打ち明けようとするかのように身を乗り出していた。「確信が持てないのね?」

 タムは何も言わなかった。

 そしてヴェス教授が発した笑い声に、タムは思わず足指に力を込めた。「時間の中にあいた窓を覗き込んでいるような気分よ。すごいわね」教授はまるで彫刻を評価するように、タムをじっと見つめた。「嫌な気分なのかしら?」

 タムは恥じるように視線を落とした。

 「あら、嫌な気分にはなれるのね」教授は椅子から身を乗り出した。釣られるようにタムも鉄格子へと近づく。「もっと嫌な気分になってもいいはずよ」教授は微笑む。「私にもわかるわよ、それがどんな気分か。友達を裏切った今の気分。自分は最低の屑だって思っているんでしょう?」

 タムは錠から離れ、小さな追加の魔法を弾き飛ばすように放った。幾何学的な対称の糸で編まれた網が錠を封じ込める。ヴェスはどこか調子外れの笑い声をあげた。

 「私にはわかるわよ、ベレレン! 醜態を隠すのはおやめなさい!」

 タムは駆け出した。

 薄暗い石造りの通路を駆け抜ける。濡れた壁の石に肩や腰がこすれる。

 最初の逸脱体のポータルを過ぎる。

 二体目の。

 三体目の。

 四体目の。

 五体目の。

 タムはひたすら走り続けるが、重く陰鬱な気分は影のように追いかけてきていた。


 何かを食べたいという気も、本を読もうという気も、あるいは「人」として通用するための何かをする気もなかった。タムは虚無感と混乱の中にいた。

 寮へと戻る途中、彼女は外で決闘に挑む他の実習生たちを見つめた。学びと理解を重視するストリクスヘイヴンとは異なり、ヘクスヘイヴンは武闘派であり規律を重んじている。ここは創始者の気質を受け継ぐ戦闘魔道士のための学校なのだ。もし“理論家”が自分と同じようにストリクスヘイヴンで学び始めていたとしたら、どんな人物になっていただろうか。彼女自身、戦闘魔術は然程好みではない。とはいえ自身がその才能を持ち合わせていることは認めざるを得なかった。

 日は沈み、だがタムは日々の務めを果たしていなかった。あんなものはどうでもいい。現実ではないのだから。寮の自室に退却し、扉を固く閉ざす。ここでもまた、模倣宇宙はあらゆる物事を抜かりなく複製していた。セオリクスの旗がトランクの中で埃にまみれている一方で、クアンドリクスの旗は寝台の上に掲げられている。机は積み重なった幻実術の教本に埋もれている。お気に入りの装身具トレーの上には首飾りが綺麗に並べられている。自分が心地良い部屋を作り上げたように、この多元宇宙もまたそうしたのだ。

 タムは出窓に置いたクッションに身を預け、学舎を眺めた。夜は訪れていたが、星の姿はない。

 実験を継続し、この多元宇宙を現実のものとするためには、ジャズィは死ななければならない。そしてすべてを完遂させるためには、この多元宇宙がもうひとつの多元宇宙を上書きする必要がある。これは当初の想定にはなかったことだった。

 六つの逸脱体を削除する前の“理論家”がどのような人物だったかを、タムは覚えている。

 あれは創造されて間もない頃、塔にてあの男の姿を見かけたのだった。今と同じく夜だった。魔道士輪に取り囲まれ、あの男は床に座り込んでいた。その両目は輝きを放ち、幻視か記憶かあるいはテレパシーか、ともかく何かに深く没入していた。男の精神に触れると青い閃光が走り、低木が散らばる広大な草原が見えた。痙攣しながら横たわる、何十もの肉体。手袋をはめた手が伸ばされる。戦士たちの軍勢がありとあらゆる武器を駆使し、ジェイスの命令のもとに殺し合う。それがファイレクシアの襲撃を受けたヴリンであることは疑いなく、だが何故そうだとわかるのかはタムにも定かではなかった。

 タムは駆け寄り、師の肩に両腕を回して語りかけた。「今は新月の夜です。先生の身体は先生のものです。ここはヘクスヘイヴン、先生が創造した多元宇宙の中です。先生の聖域の中です。私もここに一緒にいます」だが師を落ち着かせようとする彼女の試みは無視された。何故ならその時、ジェイスであったその男は、最初の「逸脱体」を切り離そうとしていたのだ――彼は身を屈め、指で胸をかきむしり、すると川のように魔力が溢れ出て、やがて床の上には男性がもうひとり横たわっていた。創造主は、計画に抗おうとした自身の一部を切り離したのだ。幻影的顕現、第四分類。見つめながらタムはそう記憶した。

 青い外套をまとう、今よりも数年は若いあの男がもうひとりを見た。不安に駆られて動きを止める。もうひとりの額には汗が光っていた。茶色のフードが払いのけられ、自身の胸元を強く掴む。

 「誰も殺すことなく、すべてを救うんじゃなかったのか」その逸脱体は言った。若い顔には、怒りの皺が深く刻まれていた。

 タムの創造主は、絶対の確信を込めて応じた。「犠牲を払わずに成し遂げられることなんて、一時しのぎに過ぎない。苦しみから救うためには存在そのものを書き換えなければならない。これが唯一の道なんだ」

 床に横たわる男を案じ、タムは立ち上がった。だが彼女の叫びはかき消されてしまった。「そんなのは、沢山の命を死なせるだけだ!」逸脱体がそう大声を張り上げて応じた直後、タムの創造主は何の前触れもなくひとつのポータルを開き、全力でもうひとりをその中へと蹴り入れたのだった。

 タムは身震いをした。

 嫌な記憶だった。

 今、あの男ただの“理論家”だ。タムにとっても、そちらの方が理解しやすい。

 寮内は静まり返っている。外を歩く足音はひとつだけ。他の実習生たちはもう眠りについている。

 足音が止まり、扉を叩く音がタムを現実に戻した。

 「消灯!」扉の向こうから声がした。

 「ありがとうございます、ザレック教授!」タムは声を上げた。そして指をひとつ鳴らすと、部屋の明かりはすべて消えた。

 だがタムはそこから動かず、窓の外とその先の塔を見上げた。高く貫く、長く尖った破片のスターアーチ。練習をしよう、彼女は不意にそう決めた。テレパシーで合図を送る――鐘の音を響かせ、“理論家”にまで届くように。

 『どうした?』

 『いい夜ですね』

 自分たちを繋ぐ糸に、ひとつの感覚があった――ふとした小さな楽しさ。『離れた場所にいながら、こんなことができるのは何故だろうな?』

 『ユルチェンコの原理です』繋がりの糸を行き来する感情は温かく、誇らしい。

 『よくできました』だが“理論家”は更に続けた。『他にも何か伝えたいことがあるようだね』

 『ジャズィ様を連れてきて、死なせる。私はそのために利用されたような気がします』タムは恐れずに告げた。『師が弟子に、どうしてそのようなことを頼んだのですか?』

 繋がる先の相手は静かだった。窓の外で一匹のコウモリが飛び去る。タムはため息をつき、窓ガラスが曇った。

 『その非難に傷つくような私の部分は、もう存在しない』“理論家”の返答にタムは苛立ちを覚えた。『君には任務が与えられ、君はそれを完遂した。ここに留まっていなくてもいいんだよ、タミラ』

 タムは顔をしかめた。『お力になりたいのです。私たちは多元宇宙のために行動しているのですから。私たちの実験は存在そのものを変えることになるのですよね?』

 『そうなる。けれど容易なことじゃない。君が事の重大さをきちんと理解しているかを確認しておきたい』

 映像の奔流が送り込まれてくる――計算、定理、何億何兆という生命と世界、人々や生物、物質と時間。一瞬の圧倒的な投影にタムは息を呑んだ。

 『わかっています』計算は確かだ。現状よりも、その先にある可能性の方が重要視される。タムはクッションにもたれたまま身じろぎをした。『ですが、どうして先生は私を創造したのですか? それがわかりません。この計画で、私はどんな役割を果たすのですか? 私は不完全な存在です。その自覚もあります。先生の指導を離れたなら、私は何のためにあるのですか?』

 夜の空気は涼しく静かだ。スターアーチとその先の世界を眺める。窓の外にあるものはすべて偽りだ。塔に絡まる蔦も、床板も、その下の土も。だがやがて創造主から届いた返答は、彼女を疑念の淵へと突き落とした。

 『私にもよくわからない。それを知っていた部分は、もう切り取ってしまったから』

 もう言うことは何もない。『おやすみなさい、ジェイス先生』

 『おやすみ、タミラ』

 彼女は繋がりをきっぱりと断ち切り、防壁のように分厚い壁を築いた。そして寝台に潜り込む。ゴルゴンの瞳は暗闇でも鮮明に物を見ることができる。彼女は目を大きく開け、空虚な部屋を見つめた。必要なものはすべて揃っている。日々の生活を助けてくれる品々が。机に目を向ける。旗。鏡と装身具のトレー。これ以上望むものはない……なのに。本物の寝台はストリクスヘイヴンにある。本物の装飾品は、本物の髪ゴムの隣の本物のトレーの上にある。どうして、ここにある可能性の品々が、向こうにある本物よりも価値があるというのだろう?

 どうして自分は、本物の友達よりも価値があるというのだろう?

 違う。それはありえない。

 もしかしたら、自分に欠けている部分というのは、自分が自分であるためのその部分なのかもしれない。両膝を引き寄せて抱え、必死に考えを巡らせる。間違っているように感じるのだ――友達に対してしたことは、ジャズィに対してしたことは。そしてこれからジャズィの身に起こり、自分の目で見守ることになる出来事は。

 偽りの少女は、偽りの世界の偽りの寝台で眠れずにいる。彼女は身をよじり、毛布を絡ませ、だがやがて諦めた。

 ザレック教授に見つかるかもしれない? どうでもいい。もう一瞬だって、この部屋にいることに耐えられなかった。

 身体を起こし、ローブを羽織る。靴下のまま廊下を歩いて抜け、階段を上り、更に上り、そして梯子を上り、そして屋根裏の冷気に辿り着いてようやく、タムは自分自身に少しだけ戻れたような気分に包まれた。

 月明かりの中、思考に反応して編み髪が触手のようにうねる。ため息をつき、寒さに鳥肌が立つ。闇の中で瞳孔が開く。この世界は一枚の薄膜に過ぎず、覆い被さるための型を求めている。けれど自分は生身の存在、魔法と創造主の手で造られた、模倣宇宙の誕生以前からある存在なのだ。

 心の防壁を確認し、月を見上げる。輝く三日月はこれから満ちていく。タムは腰を下ろし、そのまま月を見つめた。

 自分に欠けている何かについて思いを巡らせる。持っているはずなのに持っていない、それは一体何なのだろう。心臓ではない。魂でもない。けれど自身の半身を手探るように、指を伸ばして宙を掴もうとする。ジャズィ様。元の多元宇宙。友達。苦しみのない未来のために、裏切りという責務を私は担った。なのに、どうして今もなお空っぽだと感じるのだろう?

 膝を抱え、星のない空を見上げる。自身に言い聞かせる――私はまだ未完成。

 私は、まだ未完成。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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