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Magic Story -未踏世界の物語-
うたわれぬ憤怒
2019年1月30日
前回の物語:児戯の幻影
この物語は年少の読者には不適切な描写を含んでいる可能性があります。
私は枯れ草の中にうずくまり、獲物へと狙いを定めていた。二十フィートも離れていない所に、一体のマーカが空中に鼻を鳴らして威嚇しつつ猫の尾を激しく振り回していた。その獣から安全な風下にいても、動悸は激しかった。マーカに勘付かれたなら、その太く黒い鉤爪でばらばらに引き裂かれてしまうだろう。
薄い毛皮に覆われた肋骨は浮き出て、翠玉色を帯びた六つの目に光沢はなかった。けれどもっと健康な獣を探す余裕はなかった。戦は既に始まっており、遠くで地面が揺れていた。地平線に、包囲魔法の赤熱した渦巻がよく見えた――燃えがら蔦が建物の基礎をむち打って瓦礫へと帰すものだ。ドリゼクの働きは確かだった。監獄から出て来たあいつはゴーア族の心に火をつけた――ああ、私達のほとんどに。そして今夜、大地は文明の際から救い出され、瓦礫帯はその領土を広げるのだ。
今夜は大がかりな祝祭になるだろう。そして私にとっては伝説的な戦士へと戦績の刺青を入れるという素晴らしい機会になる。ドリゼクのような巨人の皮膚は分厚く、針を刺すのはとてつもなく難しい。けれど私は伝統的な手法よりも二倍速く三倍は痛む技を開発してきた。そうすれば魔力を込めた顔料を皮膚へと更に沢山吸収させられる――ドリゼクの巨大な腕をまかなうだけの顔料が手に入ればの話だが。
顔料の製法は単純なもので、何世代も伝えられてきた。けれど私は材料を自分の手で集めるようにしている。
焦げた松の樹皮を五片。
ハイドラの卵黄を一つ。
そしてなるべく新鮮でなるべく濃い緑色をしたマーカの糞。
私はマーカへと注意を戻した。それはようやく排泄を終えて気分を良くしたようで、すぐさま土を蹴って去った。私は急いだが、その標本に眉をひそめた。鈍い茶色がかった緑色、けれど役には立つだろう。私は地面に粘土製の鉢を置いて焦げた樹皮を細かい粒へと素早く砕いた。そして卵を割り、注意深く殻をひねって黄身だけを鉢に落とし、均一に粘るまで混ぜた。最後に糞を加え、念入りにかき混ぜ、だがそこまで調合しても緑色にはならなかった。私のそれと比べても鈍い色だった。
糞の量を倍にすると、ようやく幾らかの色になった。私は土そのものから魔法を呼び、すると赤い炎が地面から上がって鉢を囲むようにちらついた。顔料は泡立ちはじめ、私は息を止めて見慣れた輝きを待った。それが使えるものとなり、憤怒が満ちた時には皮膚で眩しく輝く合図。
陽は沈み、この文明から立ち直った自然の広がりを覆うように影が伸びていた。私は不意に狩人ではなく獲物であるような気分になった。荒野に寒々と独りでいては、私のようなヴィーアシーノは以後目撃されることもなくなる。そのため私は必死に更なる糞を混ぜ、やがて顔料は更に色鮮やかになった。黄緑色がその表面にうねると、製法を変更した方がいいだろうかという懸念は溶けて消えた。完璧だった。私は鉢に蓋をして革紐で縛り、獣の咆哮を無視して前線へと駆け戻った。
アート:Wesley Burt |
到着すると、私は激しい破壊跡の中を歩いた。砕かれた石が巻き上げた塵を呼吸し、倒れた建物やその砕けた支柱の風景を楽しんだ。戦士の皮膚に刺青を入れる芸術家のほとんどは、好き好んで瓦礫の中を歩きはしない。けれど私にとって、これはまた聞きではわからない品質を作品に与えてくれるものだった。そこかしこで、ゴブリンが口から泡を立てながら残った文明人を追い回していた。グルールの子供たちは漁れるものを求めて瓦礫の中を動いていた――髪に虫をつけ、度胸ある笑み。彼らもまた美しい野生の獣だった。そして彼らはあの伝説の狂戦士ドリゼクを見た。そいつは憤怒を呼び起こし、猪の祟神へ捧げようと巨大な瓦礫を積み上げて牙の形を表現していた。
負けるものかと、ルーリクとサーが自分たちでも捧げ物を鋭く積み上げ、ドリゼクの高さを上回ると咆哮を轟かせた。他の者たちもその争いに加わり、氏族長の味方をするように叫んだ。だがその双頭オーガは、大柄ではあるがドリゼクの体格には敵わなかった。そして巨人が次の瓦礫を積み上げると、その取り巻きは胸を叩いて猪のように息を鳴らした、数は少なくとも音は大きく。そうして、憤怒に火がついた。それは一人のグルールからまた一人へとまるで病気のように広がり、それぞれの怒りがこみ上げ刺青は燃え立ち、目は眩しく輝いた。すぐ近くの狂戦士がそれを受けると、私は同じくそれを受けとめたふりをして頭を振るっては肺の底から叫んだ。そして石を砕き、ガラスを割り、歯をきしらせ、憤怒の炎が私の心臓にも達するようにと猪の祟神へ密かに祈った。けれど普段と変わらず、それは消えて久しい灰のように冷たいままだった。
やがてそれが落ち着くと、私達は戦利品を楽しむべくかがり火へと撤退した。
「いい戦いだったな」 私と同じ腹から生まれたジリーが低く言った。そして隣に屈みこむと腕を差し出した。「区画を十八壊した」
「そうか。ほとんど見られなかったのは残念だ」 私はそう言って彼の皮膚に針を立て、その腕を走る壊した文明の地図に続きを描いた。ボロスが六区画、イゼットが十二区画。それがイゼットにとって重要な箇所だったとしたら、まっすぐな道を作れなくなり、私の仕事は面白くなるだろう。奴らの研究所はどんな辺鄙な場所にも建てられて、大通りや時には他の建物まで侵食する。けれどそんな混沌のけばけばしい目印が崩れ、空に火花が散るのを見るというのは他にないほど興奮する光景で、私はその印象を力一杯この顔料にとらえようとした。
私は顔料付きの針の根元を小さな木槌で叩き、ジリーの鱗の皮膚を貫いた。そして夢中に、素早く、集中して作業をした。炎が森を広がるように、けれどジリーが繰り返しその棘尾で地面を叩く音で気が散った。我に返ると、彼のくすんだ緑の皮膚はもっと攻撃的な色合いに輝いていた。
「どうした?」
「感じないのか、この緊張を」 彼はドリゼクの方角を顎で示した。
巨人は石の建物の残骸に背をもたれ、その両目にはかがり火の光が揺れていた。数人の人間が取り囲み、その傷を手当てしては戦いにすり減った筋肉を揉んでいた。巨人の視線がこちらを向くと、私は服従するようにすぐさま目をそらした。
「あいつ、族長の座を賭けてルーリクとサーに挑戦するつもりだ」 兄弟が言った。
私はかぶりを振った。「ドリゼクが? あいつはもう一千歳になるだろう」
「つまり頭がいいってことだ」
「けれどウドゼクから出てきたばっかりで、氏族の中がどれほど変わったかなんて知らないだろ」
「つまり違う視点で物事を見てきたってことだ」 ジリーは全くの平静な声で言った。平静すぎる声で。
彼がルーリクとサーを悪く言う様を聞いたことはなかったが、近頃の支配を快く思わない者は沢山いる。あの双頭のオーガはいついかなる時でも怒りが全てだ。まずぶっ潰し、それから聞く。むしろ聞くことなどない。時に、戦いに熱中しすぎて何のために戦っているのかも忘れているのではとまで思う。けれどドリゼクは違う。旧き道を学んで育ち、戦いに関してはずっと辛抱強く実践的だ。私達の戦いはただ破壊を広げるというものではなく、理不尽な建築と社会の腐敗という形で蔓延する病からラヴニカを癒すことなのだ。
「もし本当に、あいつが族長に挑戦するならどうする?」 私は小声で尋ねた。「どっちかの側につくのか?」
「勝った側につく。お前もそうするのが一番だろ」 ジリーは尾を動かさずにいた。「お前があの巨人をどう見てるかはわかるぞ。あいつもグルールらしいグルールに過ぎない」
「ドリゼクは伝説だ! 子供のころを覚えてないのか。炎に集まって聞いただろ、広場の真中に拳を叩きつけて周りの建物全部を倒したって話を!」
「アルス、物語は物語だ。あの巨人の味方になんてなったら、ルーリクとサーに叩っ切られるぞ」 刺青はまだ半分しか入っていなかったが、ジリーは立ち上がった。そして支払としてラクタスクの尾を投げてよこした。
彼の言葉は正しい。ジリーがいたからこそ私はこの役割を得て、加わる氏族もなしに瓦礫帯の荒野で飢え死にするのをまぬがれたのだ。同腹の中ではできそこないの私は、どんな戦いにも向かなかった。皮膚はマーカの胆汁のような薄い黄緑色、そして棘が生えることはなく、頭のてっぺんから尻尾の先まで滑らかだった。けれど私は針と顔料を上手く扱えて、兄弟姉妹が戦いから戻ってくると、彼らが壊した区画の地図をその皮膚へと詳細に記した。私自身の冒険といえば顔料の材料を集めるだけ、けれど彼らの皮膚に刺青を入れながら戦場を想像した。だが兄弟姉妹への誇りが私の仕事に表れてくれた。すぐに彼らは友を私の所へと連れてきて、更にその友が、そしてやがて私は氏族長その人から刺青を入れる要請を受け取ったのだ。
アート:Craig J Spearing |
ふと私の両目がその伝説に、ドリゼクに移った。あの腕へ刺青を入れるというのは……
私は立ち上がり、卑屈に背を曲げて近づき、両手を広げて横に伸ばした。人間の手下たちは全員が手を止めて、巨人の前に緩い壁を作った。
「何か用か?」 木の焼き串と調理用の二又を持った人間が言った。けれどそれはすぐにでも武器になる。氏族内でも、いや特に氏族内では、警戒を解く余裕はない。
「私は芸術家だ。アルス、そう呼んでくれればいい。グルールの芸術家だ」 私は神経質に尾を振った。「聞いたことはないか? 刺青はいるか?」
「なるほど……」 伝説の巨人が発した声は低く深く、私の胸郭に響いた。彼は私へ近づくと人間の手下らを退散させた。彼らは自分達の仕事へ戻り、串を持った一人はドレイクの新鮮な死体にその先端を突き刺した。それは数人がかりでドリゼクのかがり火へと持ち上げられ、肉が焼ける匂いが漂うと私の口に唾が溜まった。
「誰もが俺を避ける。どうやらゴーア族に歓迎されていないのだと思っていたが」 ドリゼクが言った。「まるでラヴニカの全てを破壊しても、ルーリク・サーは賛同しないかのように」
「ルーリクとサーです。あれは二人――ああ、ご存知でしたか? お気になさらずに」 そして躊躇なく私はドリゼクの上腕に指を押し当てた、まるで瓜の固さを確かめるように。そして声を上げて尋ねた。「十八区画を?」
「皮膚は厚いぞ」
「大丈夫です」 私はそう言って刺青の道具袋を開くと作業を始めた。深い銅色をしたその皮膚は渇いていたかのようにインクが浸み込んでいった。私は外形と影を加え、刺青へと立体的な印象を与えた。イゼットの研究所を中心としつつ、私はその区画内に蛇のような模様をうねらせ、二十分もの間空を焼き尽くした電気の炎を表現した。
「礼節など壊す」 巨人はそれを見て低くうなった。「粉々にな」 そしてその巨大な拳で私の胸を正面から叩いた。友好の表現なのだろうが、胸が凹むようにも感じた。
「アルス!」 ジリーが息を鳴らした。「アルス、お前を待つ列ができてるぞ。皆刺青を入れたがってる!」
振り返ると彼はそこに立っていて、背後には数人の仲間がナイフの壁のように鋭く続いていた。これほどの緊張を感じたことはなかったかもしれない、けれど今は感じた。氏族の誰も、ドリゼクから二十フィート以内に近づいたことはなかった。
「けどまだ終わって――」
「問題ない」 ドリゼクがそう言った。「明日戻ってきて完成させてくれ。俺は何処へも行かない」
よく焼かれたドレイクの巨大な皿を人間の手下が差し出した。ドリゼクは私を追い払い、鮮やかな黄色の瓜を口に押し込んだ。私は咳払いをすると、支払として渡されたドレイクの足に視線をやった。もっと弁えた行動をするべきなのだろうが、ヴィーアシーノだって夢は見る。
「一つ教えてやろう……」 ドリゼクは歯を見せて笑った。「憤怒は戦いと破壊の中だけにあるのではない。それは異なる者には異なる方法で語りかける」
私は身を強張らせた。今まで生きてきて、私の心臓は冷え切ったままだった。けれど早いうちに憤怒を真似ることを学んだ。そして誰にも見破られたことはなかった。私は歯を食いしばり、加えて機嫌を損ねたように言った。「おっしゃる意味がわかりません。憤怒は私の内にあります。ほとんどいつでも。本当に、本当に心から」
ドリゼクは太い眉を懐疑的に上げた。「アルス、俺は八百三十歳くらいになる。見ればわかる、お前のそれは憤怒ではない。けれどいつか、憤怒がお前を見出すだろう。俺は心から憤怒を求めたが、それを見出すまで百と六年かかった」
違う。私はドリゼクではない。どうしてそんなことがありうる? けれどそれを尋ねるよりも早く、ジリーが私を引き離した。すぐに次々と刺青が入れられ、飲み物が注がれ、陽気な騒ぎが緊張を上回った。けれどそれはドリゼクがルーリクとサーの所へ向かうまでのことだった。取り囲む群集は巨人が氏族長へ近づくと分かれた。杯は止まった。音楽は止まった。息が止まった。ジリーの言う通りだった。この伝説は氏族長へ挑戦しようとしているのだ。緊張が増大しきったその時、ドリゼクは頭を下げ、人間の手下は膝をついてルーリクとサーの足元に焼けたドレイクを置いた。「族長よ、捧げ物です。ゴーア族への忠誠の証として。その憤怒が我々を破壊へと導きますように」
《自由なる者ルーリク・サー》 アート:Tyler Jacobson |
その仕草にルーリクとサーは驚いたようだったが、即座に二人はドレイクから翼をむしり取ると肉を噛みちぎった。「お前の憤怒、氏族に必要な炎を確実にかき立てる」 ドレイクの肉片を唇に引っかけたまま、サーが言った。「お前の戦いを歓迎しよう」
そのやり取りは血の約束で締められ、勢力を隔てる壁は完全に崩れ去った。私達は今一度祝い、抗争の勃発をかろうじて避けた安堵に溜息をついた……だがその時、悲鳴が上がった。
見ると、その悲鳴はジリーからのものだった。彼に入れたばかりの刺青が月のように眩しく輝いたかと思うと、炎を弾けさせた。ジリーはうめき、仲間がその炎を土とぼろ布で消し止めようとしたが、続いてドリゼクの刺青もまた炎を上げ、そして多くの刺青がそれに続いた。肉の焼ける匂いが野営地に満ち、今日私が刺青を入れた戦士が一人また一人と燃えた。私への非難が上がる前に身を縮めて逃げ去ろうとしたが尻尾の先を掴まれ、宙ぶらりんとなって世界が上下にうねった。ルーリクとサーが視界に入ってきた。これは私の失敗ではないと説明しようとした。顔料が何かおかしかったのだと、劣化していたのだと、あのマーカが死にかけていたのだと、けれど口から出るのは意味のない命乞いだけだった。
落とされ、打ちのめされ、ばらばらに引き裂かれることを予想した。けれど待っていたのはもっと、ずっと悪いことだった。
「お前はもう不要だ」 ルーリクが低く言い、私を地面へと投げ捨てた。即座に、私は氏族を失った。
瓦礫帯の只中、荒野は遠い過去の文明の残骸に根を張っていた――木々は古い戸枠によじれ、猪の一家がオルゾフの聖堂を巣にしていた。崩れた建物の外形に蔓がしがみつき、千年二千年をかけて辛抱強く石を土へと変えていく。かつて窓を飾ったステンドグラスは破片になって散らばり、鋭い先端は時とともに摩耗していく。それでも、ここで自然は息を詰まらせているようだった。木々の葉は黄ばみ、蔦は枯れかけていた。土ですら薄く病んでいるようだった。かろうじて生き延びているに過ぎなかった。
私のように。
所属する氏族のないグルールはワームの餌になるだけだと言われている。怯えて警戒しつつ、私は影の中に隠れ、周囲に溶け込んだ。あらゆるものを漁り、ラクタスクの子の死骸をめぐって争う二体のゴブリンを見つめていた。彼らが頭を突き合わせた時、私は滑り出て肉を奪い取った。
「てめえ!」 一体が私に気付いて吼えた。だが掌握をほどくのに一瞬を要し、その隙に私は新鮮なラクタスクの足を持って逃げ去っていた。そして高い草むらの中へと彼らをまいた。私は皮膚の色を少し暗くして周囲に上手く溶け込んだ。草は私を隠してくれる。そして彼らは渇いているわけではないと気付いた。だが栄養が足りないらしく痩せこけていた。
私は息を止め、追跡者が諦めるのを待った。やがて辺りがすっかり静かになると、その脚に噛みついた。肉は酸っぱく、まるで腐りかけているようだったが、ゴブリンがこれを殺すのをこの目で見ていた。何にせよ私は食い、心は氏族から離れたことに揺れたが、骨に辿り着くと不意にその柔軟さに唖然とした。それは風にあおられる木の枝のようにしなやかだった。
萎れた植物、悪い顔料、酸っぱい肉。瓦礫帯の何かがおかしく、そして悪化する一方だった。手遅れになる前に、誰かが何か行動しなければ。けれど私はただのヴィーアシーノだ。助けが要る――かつての氏族の助けが、もしそれを得られるのであれば。危険だとはわかっていたが、私は証拠を集めて静かな夜を待ち、野営地へと戻った。
お祭り騒ぎは収まっていた。ただ数体のオーガと二体の巨人と一体のケンタウルスが炎を囲み、酔っ払いながらその日の征服に浸っていた――これから何世代も語り継がれるであろう新たな伝説の英雄たち。他の全員は寝ており、私はいびきをかく戦士たちの群れを爪先歩きで避けた。毛皮に革に頭蓋骨、どこからどこまでが一人かを判別するのは困難だった。
ジリーの姿を見つけた。仲間と休み、上腕には汚れた布が巻かれていた。彼の肩をつつくと血走った目が見開かれ、少ししてその目が私を察し、そしてゆっくりと静かに、彼は自分達の山から身を起こした。
「何をしに来た?」 その小声は不機嫌極まりないものだった。
「ルーリクとサーに話すことがある」 私は小声でそう言って、柔らかい骨と萎れた植物を差し出した。「この数か月、何かが瓦礫帯から命を吸い取って。草が枯れて、生き物は痩せてる。どうにかしなければ、次に飢えるのは私達だ」
ジリーは笑った。「わからないのか? 今は戦争の時だ。ルーリクとサーは草や骨を見ている暇はない」
だが私は懇願した。「頼む。重大なことなんだ」
「俺にとって何が重大かわかるか?」 ジリーは包帯を解いた。「駄目な刺青に半分焼かれた片腕の方がよっぽどだ」
「けど私は確かに――」
彼は歯をむき出しにして皮膚の棘を伸ばした。「出ていけ、アルス。二度と戻ってくるんじゃねえ」
アート:Deruchenko Alexander |
私は逃げるように去り、けれど完全に離れる前に、かがり火を囲む戦士の一団はただ物語を語っているだけではないと気付いた。私は目を狭め、鱗を逆立てて観察した。長いローブを着て両肩に猪の頭蓋骨をつけた巨体のオーガ。その右腕は肘の下で途切れており、複雑に彫刻された戦猪の牙が取り付けられ、整った道具数本が革紐で縛り付けられていた。その義手の先からは、刺青用に細工された針が完璧な角度で突き出ていた。
その女性は針の根元を小さな木槌で叩き、ケンタウルスの臀部に一定の律動でそれを動かしていた。その顔料の鮮やかな緑色は私が見たこともないもので、入れ物ごと憤怒に食い尽くされたかのように夜闇の中に揺らめいていた。
氏族がもう私の代わりを見つけたとは知らなかった。私は影の中で待ち、微風が戦士たちの間を過ぎる中、黙ってじっと見つめていた。朝になろうという頃、ようやく最後の一人が離れていった。そして私はその傍へ素早く駆け寄った。近くから見ると、その顔面にはシャーマンの刺青が隙間なく入れられていた。
「やあ、すべすべ君。何がお望みかな?」 そのオーガは私の細く剥き出しの腕を一瞥した。
「その顔料、何なんですか?」 私は尋ねた。「見たこともありません」
「特別製さ。秘密の調合のね」 オーガはそう言って、擦り減った歯に挟まった戦猪の肉片を摘み出した。本来ならば私が食べるべきだったものだ。
「少し交換してもらえませんか?」
「欲しけりゃ奪ってみな」 オーガは笑ってそう言うと、道具をシャーマンの前掛けのポケットへと片付けはじめた。
その物腰から、この女性は英雄的資質と力に溢れた強い血筋の生まれなのだろうとわかる……子供たちが聞きたがる物語の。けれど卑劣さと狡猾さの、滅多に語られない物語がある。無名のヴィーアシーノのゲリラ戦士、衝動的かつ素早く巧みに敵の不意をつく。彼らの名前は忘れられてしまったかもしれないが、私は自分の先祖の力を呼び起こし、オーガが背を向けている間に細く長い指を伸ばして顔料が入った粘土の鉢を掴むと、音もなくそれを自分の外套に隠した。
そして尻尾の一振りのように素早い動きで、私の腕は地面に押し付けられ、オーガの膝が胸に当てられた。顔料が痩せた土に零れた。
続いて予想通り、戦いが起こった。その拳と蹴りが命中する度に私は思い知った、何故このオーガの祖先の話が残って私のそれが残っていないのかを。
「もう一度触ってみな、今度はあんたの革でブーツを作ってやるからね」 オーガは怒りにうなり、空になってしまった顔料の鉢を手に取った。あまりに素早い決着に、誰も目を覚ましもしなかった。
打ちのめされて私はそこに横たわり、空を見つめながら死を待った。けれど何かが頬をかすめた。顔を向けるだけで痛みがあったが、あの顔料が零れた地面から瑞々しい緑色の蔓が伸びていた。私の目の前で、葉が広がっては昇りつつある太陽へと伸びていた。その蔓は私の肩へとうねり、腕に巻き付いた。ゆっくりと、けれど確かに、折れた骨が繋がるのを感じた。
「この魔法は? 誰が――」 かすれた声を出したが、直後に蔓が口に入ってきて喉を下り、体内のあらゆる傷に触れた。セレズニアの魔法なのは間違いなかった――自然の道を歩むという点では同胞のギルド、けれど彼らの視界は狭く、荒々しくかき立てるのではなく秩序と静穏をもたらすことにかまけている。けれど今必要なのはまさしく彼らの癒しの魔法だというのは否定できなかった。程よく治るや否や、私はその魔法の源を探ろうと身体を起こしたくなった。けれど死にかけたふりをし、駄目になった顔料とどれほどの材料が必要かを愚痴るオーガへと注意深く耳を澄ました。そしてオーガが荷作りを終えて立ち去ると私はそれを追った。顔料の秘密を見つけ出そうと心に決めていた。
私は腹這いの姿勢を保ち、気付かれないよう十分離れて背後についていた。もし気付かれても、また殴られる前に逃げ出せるように。私達は邪魔されることなく瓦礫帯を抜け、ここでは萎れた植生が瑞々しい緑へと変わっていた。私の鱗の色彩などとても及ばない鮮やかさだった。巨大な石灰岩の岩塊が目の前で空へと高く突き出し、幾つもの洞窟が私達を脅すように大きく黒い口を開けていた。
私にはわかった。そのオーガが探しているのは、ハイドラの卵だ。
アート:James Paick |
通常、ハイドラは年に二度か三度産卵するが、今の季節はだいたい巣は空でもろい卵殻しか残っていない。だがこの巣には良い気配がした。私はオーガが中へと忍び込む様を見守り、あえて可能な限り近づき、鱗の色を洞窟の壁の薄い灰色に変えた。足音を忍ばせて更に奥へ進んで行くのは、まるで冷たく湿った喉の中へと降りていくようだった。
ハイドラはオーガの姿を見て怒り狂い、息を荒くして唾を吐きかけた。卵を守る母ハイドラを見たことがないなら、真の憤怒を見たとはいえない。ハイドラはのけぞり、だがそれが攻撃する直前にオーガは低く鼻歌をうたい始めると、目が回るような動きに両腕を前後させた。その義手の先端に、オーガは分厚く細長い頭蓋骨を巧みに乗せていた。恐らくはゴブリンの。数秒のうちに、オーガはハイドラの頭全てを眩ませてしまった。そして注意深く前掛けのポケットから肉の塊を取り出し、頭蓋骨の中に詰め、暗い洞窟の深淵へと放り投げた。ハイドラは催眠状態から醒め、その後を追った。
ハイドラが気を逸らされているうちに、オーガは地面を掘り始めた。こぢんまりとした巣の中、四十か五十もの卵があるだろうか。彼女は一つを前掛けに包むと、爪先立ちで洞窟の入口へ向かった。一方ハイドラの頭は中に詰まった美味しい肉を取り出そうと、頭蓋骨と格闘していた。興味深い技だった。あの大きさの獣ですら、ゴブリンの頭蓋骨を砕くのは難しい。けれど骨が砕ける音と息の音がして、ハイドラが岩を滑ってくる石灰質の音が続いた。
オーガは驚いて振り返り、そして必死の全速力で駆け出した。瓦礫帯の食物連鎖の上の方にまで骨の衰弱が来ているのだろうかと訝しまずにはいられなかったが、長く訝しんでいる余裕はなかった。ハイドラは既に自分の巣が荒らされたと気付いていた。私は鱗の色を変えてここに溶け込めるかもしれないが、どれほどの迷彩でも私はハイドラにとって上等の夕食のような芳香を放っているのだ。オーガと同じく駆け出す以外になかった。
オーガが私を見ると罵り声が洞窟にこだました。そして追い抜かれた時、自分は間違いなくハイドラに食われると思った。だがその時オーガは赤熱する燃えがら蔦の魔法を放つと地面に叩きつけ、引いた。地面が弾け、岩と石が噴き上がって目の前へと険しい傾斜路を作った。私達は洞窟の出口を狭めるその傾斜路を登った。逃げ道はごく狭い日の光となって残っているだけだった。
私達は安全に外へと転がり降りた――私は息を切らし、オーガはそれほどでもなく。この女性はシャーマンだとわかったが、ここに戻ってきた動きは刺青師らしからぬものだった。むしろ戦いを見て来た者、それも沢山の。私はその顔面の刺青を再び見つめた……そして見覚えのある川の曲がりくねった線に気付いた、今や十五フィートの水に沈むアゾリウスの区画。「待って下さい。もしかしてバース・ラドリー? ジェゼルのダムを壊したシャーマンの」
オーガは片方の眉をひそめ、歩き出すと今も洞窟の口から睨み付けるハイドラから距離をとった。 「今はただのバースだ。さっさと失せな、すべすべ君」
「たった一日に八十二の区画を壊したんですよね!」 私はそう言って、憧れるようにすぐ後を追った。ああ、その皮膚に刺青を入れる栄誉に与りたい。「溶解地区で橋を壊したのと、ブリキ通りの虐殺での活躍、すごく――」
「それはあたしじゃない。ダムや橋を壊すのは好きだけど、骨は違う」 オーガは私を一瞥した。「誰かに頼まれでもしない限りは」
バースは話し好きではないようだったが、もし気に入られることができたなら、残りの材料を集める間ついて行かせてもらえるかもしれない。そしてこの人の素晴らしい戦いの話も聞けるかもしれない。「ギルド渡りの遊歩道に作ったあの凄い裂け目は? 噂されるくらいに深いんですか? あなたでも底は見ていないって本当ですか?」
《ギルド渡りの遊歩道》 アート:Noah Bradley |
私は言葉を切り、返答を待った。何もなかった。その歩幅が大きくなり、歩みは速くなり、私は追い付こうともはや走っていた。
「そして広場の崩落、あなたが同時に三本の支柱を倒したあの! 凄いです! セレズニアは再建に何か月もかかったって。本当にあなたとボルラク族の狂戦士だけの手柄なんですか? そうだ、覚えてます、あなたが別の氏族民と結婚した時の騒ぎを。けど二人一緒に仲良くやっていたって。あのサイクロプスでしたっけ? ディースカ・ソル――」
バースは足を止め、振り返り、これ以上なく獰猛な視線で私を見つめた。「その先を言ってみな、あんたの喉をぶっ潰すよ」
私は言葉を飲みこみ、だが話題を変えるよりも早く、近くで戦があるかのように地面が揺れだした。だが違った。周囲には何マイルにも渡って森が広がっている。そして木々の葉が震え、梢が揺れるのを見た。何かが私達へと向かってきているのだ。巨大な牙が何本も現れた――戦猪。それらは必ず群れで行動する。
私は逃げ出そうと背を向けたが、バースに首筋を掴まれた。
「絶対に戦猪に背を向けたら駄目だ。ぐっちゃぐちゃになるまで踏み潰されたいんじゃなけりゃね。切り抜けるには、今ここで踏ん張るのが一番いい」
「私達二人で群れと戦うんですか?」
「戦う必要はない。ただ、戦いたがっているように見えればいい。あいつらが引き下がってくれるように」 バースは私の肩を掴んで蹴りで両脚を広げさせた。「足の幅は広く、少し前のめりになって、今にも飛びかかるみたいに。肩は高くして、歯をむき出しにしな」
「こうですか?」 私は内なる狂戦士へと呼びかけたが、この冷たい心臓は固辞していた。
バースは私の背中のやや下方を拳で突いた。姿勢が変わり、胸が広がった。「これでいい」 そして自らの戦闘態勢をとった。
戦猪の群れは次第に近づいてきた――その巨大な蹄の磨かれたような輝きに、陽光を受けた分厚い毛皮の絹のようなぎらつきに、嫌でも気付かされた。私が見たことのあるもつれた毛皮のそれとは全く異なっていた。けれど気を緩めてはいけない。毛並みの良すぎるこの馬鹿げた行列が相手でも、その牙に貫かれて命を終える可能性は十分ありうるのだから。
「先頭のやつと目を合わせな。逸らしたら駄目だ。あの雌を怖気づかせればそれでいい」
先頭の猪が歩みを止め、続く群れもまた止まった。その雌は私達の匂いをかいだ。私は度胸を奮い起こし、今以上に手強く見えるよう力を込めた。その猪は唸り、そしてごくの僅かに進路を変えて歩きだした。毛皮が鼻先をかすめる程近くを通り、けれど私達は最後尾の猪が通過するまでその姿勢を保ち続けた。
「命を助けられたのは今日これで二度目ですね」 私はそう言った。
「そして、ほんのちょっとの顔料のためにあんたが命をかけたのはこれで三度目だ」 バースはそう言ってかぶりを振った。「アルス、だったね?」
私は身を強張らせた。「知ってるんですか?」
「ゴーア族の半分を焼いたんだろ」その声は笑っていた。「誰でもあんたのことは知ってるよ」
「私の失敗じゃありません! この大地の何かがおかしくて、だからきちんとした顔料を作れなかったんです。あなたも気付いているのでは? そうでなきゃここまで遠出してこないのでは?」
彼女は腕を組み、だが態度は和らいでいた。「ああ、気付いてた」
「でしたら、何故誰にも言ってないんですか? あなたの言葉なら皆聞くでしょう!」
「すべすべ君、あたしは戦争門を出てきたばっかりなんだ。色んなことをきちんと把握して正しく行動するには少しかかる。マーカの糞の効果が疑われることにならないように、とかね。けど、あんたの仕事は見てきた。荒野に放り出されるには惜しい技術だよ。炎樹族に知り合いが少しいる。あいつらなら喜んであんたを受け入れてくれるだろう。あの顔料の作り方を見せてやるよ。よく効くんだ、憤怒が直撃した戦士ですら癒す。あんたを癒したのとは違うけど……あんたは数百区画分くらいの治癒魔術を学ばなきゃいけない。けど役に立つし、役に立つものは何でも手に入れなきゃ」
「待って下さい……」 心が鈍くふらつき、全てを理解しようとした。「野営地で……私があの顔料に癒されたことを知ってるって。私が追ってくるのを知っていたんですか?」
バースは微笑んだ。「かもね。で、顔料の作り方は知りたいのか?」
勿論。心から知りたかった。
そして私達は松の樹皮を探して森を探索した。ここの木々は堂々としており、高いものは空へとそびえ、けれど不気味な何かが心に引っかかっていた。木々の並びには規則性があった。十二歩、樫、十二歩、松、八歩、松、十五歩、柳、そしてまた樫。それが何度も何度も現れた。
《セレズニアのギルド門》 アート:Dimitar Miranski |
「ここはもうセレズニアの領域ですよ」
「いいとこ育ちの戦猪の縄張り、ってか?」 バースは笑い声をあげ、松の巨木の前に踏み出した。そして拳を握りしめ、力を込めて木の幹を殴りつけた。砕けた樹皮片が何十と地面に落ちた。私はそれらを拾い上げようとしたが、バースは再び笑った。「あんたは間違いなく、最初に見た幹を掴みたがるね。一番強い破片は木に残っているものさ、優しくちょっと撫でてやった後にね。それは放っておきな」
私は自分の拳で幹を数度叩いたが、拳にすり傷ができただけだった。私は呟いた。「あなたみたいな体格なら楽なのかもしれませんが」
「戦場で重要なのは体格だけだとでも思ってるのかい?」 バースがまっすぐに立つと、私の目線はその臍のあたりに来た。「さあ、あたしをひっくり返してみろ。腕を私の首に回して、ひねって、体重をかけてのけぞって」
私はその教えの通りに動き、少なからぬ補助を得てバースを地面に倒すことができた。けれど要点は得た。少し練習すれば上手くできるだろう。この女性ほどの体格相手には無理でも、次に兄弟が私の矢尻を盗もうとしたなら、一つ二つのことを教え込んでやれるだろう。
その考えに私の心臓が冷えた。そう、元から冷たい以上に。果たしてこの先ジリーにもう一度会うことがあるのだろうか? 炎樹族の縄張りはとても遠い。戦争が落ち着いたなら来てくれるかもしれないが、ここ数か月の荒れた情勢を見るに、それがいつになるかは誰にもわからない。
「あなたはどうして、戦うんじゃなくてここにいるんですか?」 私はそう尋ねてみた。「戦いの場で必要とされてるでしょう。戦争門で『教化』させられてしまったんですか?」
「や、違うよ。文明を粉々にしてやりたくてたまらないよ。ただ前線にはいたくないのさ、誰かさんがいる間はね。隣同士で戦うには、思い出がありすぎる」
「ディースカ?」
バースは目を狭めて私を見た。「そうだね」 低い声だった。「あの騒ぎが起こった時、あたしらは前線から少し離れてブリキ通りの市場をぶらついてた。ボロス兵が仕事を始めて、あたしらがミノタウルスの老人を襲ったのを見たって言うんだ。嘘吐きだよ、全員ね。憤怒があたしを乗っ取って、悪い状況を更に悪化させた。あたしは逮捕されて、ディースカは逃げた。何度か面会に来てくれて、必要とあらば戦争門から出るまで十年待ってくれるなんて言ってた。で実のところあたしは早くに釈放されたけど、あの馬鹿は十か月すら待てなかったってのがわかっただけだった」
「サイクロプスってやつは」 私はかぶりを振った。
「とはいえ、あたしは自分の役目を果たすだけってわかったのさ。大義を支えて、それと――」
森の奥から獰猛な咆哮が響き、私達は同時にはっと顔を上げた。
「マーカだ」そして異口同音にそう言った。最後の材料の源。
私達は完璧に配置された木々の間を切り裂くように進んだ。そして岩屑の山ですら目的をもって置かれたかのように、均等に現れることに気が付いた。六十歩ごとに同じ岩屑の山を跳び越え、八十八歩ごとに同じ倒れた樫の木を過ぎた。木々の間の茨は太く、深く、鋭くなっていった。それ以上進めないと察したその時、私達はその咆哮の持ち主を見た。これまで見た中でも最大にして最も美しいマーカの個体だった――はち切れそうな筋肉をその輝くような赤の毛皮がかろうじて留めていた。私達は一時間近くそれを追跡して排泄を待ち、バースは粘土の壺を取り出すと倒れた切り株を机の代わりに用いて材料を混ぜた。顔料はほとんど即座に輝きはじめ、そして彼女は何も言わずにその半分を私の鉢へと注いだ。
「ありがとうございます」 私はそう言って、炎樹族への出発に備えようとした。だがその時、私はその木の切株をもう一度見た。その広すぎる年輪を数えた時、あの不気味な感覚が私を圧倒した。ありえない。恐らく四十フィートもの高さがあるこの樫の巨木は、わずか五歳なのだ。
ふと思い立ち、私は粘着性の指を上手く用いて一本の木の梢へと登った。その高所から、森は森というよりはむしろ瓦礫帯の荒野とセレズニアの領域を隔てる巨大な柵のように見えた。
アート:Sung Choi |
思った通りだった。これは地面の下で起こっている戦だった。ナイフと棍棒の戦いではない、けれど戦だった。成長の魔術の静かな戦。セレズニアは何千本何万本という苗を植え、完璧に貫通不能の障壁となるまで成長を加速させる。そしてそのために私達の土地から魔力を吸い上げる、それを察する賢さなど絶対に持っていないと考えて。
勿論、私達が飢えることはないだろう。瓦礫帯の動植物が全て死に絶えたとしても、食うための戦は常にある。文明へと更に押し入って、イゼットの研究所とオルゾフの聖堂とアゾリウスの訓練施設を壊して、セレズニアの卑怯な仕事の仕返しにする。その間、セレズニアは笑って歌って作り物の庭の中で手をとり合って、自分達は戦いの「野蛮さ」からかけ離れた所いるのだとうそぶくのだ。
そんなことを……そんなことを思うと、頭にきた。胸の内に火花を感じた。かき立てられるのを待つ憤怒のほくちを。今すべきことは、氏族全員を憤慨させるだけの勇気を奮い起こすことだった。
「氏族長の座を賭けて挑戦したい」 私はそう言って両足を広げ、身体はわずかに前のめりに、戦猪の群れ全体ですら怯えさせるほど顔をしかめた。ルーリクとサーは枯れ草と脆い骨の理論を聞く気はなくとも、挑戦に背を向けることはできない。
野営地は静まった。それは緊張の静寂ではなく、失笑をかろうじてこらえるものだった。
双頭のオーガは溜息をつくと、頭蓋骨の玉座から立ち上がって私へと踏み出した。ルーリクは笑みを浮かべ、尖った門歯に引っかかった肉片を見せつけた。「その痩せこけた骨を爪楊枝にしてやろうか。文明にもたまには便利なものがあるな?」
「お前達は長にふさわしくない」 私は笑い声を切り裂くように声を上げ、攻撃的な身振りの助けを得てこの説がはっきり伝わればという希望にすがった。「お前のすぐ近くで、瓦礫帯は目に見えて痩せ衰えている。けれどそれを見ようともしなければ何が原因か探ろうともしない」
「お前は戦いたいのか、それとも退屈で俺達を死なせたいのか?」 サーが言った。
ルーリクとサーは更に踏み出してきた。話は上手くいきそうになかった。彼らは暴力のみに耳を傾ける。私は全体重をかけて殴りかかった。それは彼らの腹部に命中したが、あの木の幹よりも効いていなかった。ルーリクの巨大な拳が頭頂部に叩きつけられ、私は地面にうずくまると視界に白い斑点が踊った。けれど急いで身体を起こし、必死に上下の感覚を保った。ルーリクとサーは玉座へ戻ろうとしていた。
「氏族長の座を賭けて挑戦したい」 再び私はそう言った。オーガ達は今回は低くうなった。
ジリーが割り込んで私の両肩を掴み、必死の瞳で見つめてきた。「アルス、やめてくれ。謝って氏族へ戻ってこい。見ろ、火傷はそんなにひどくない」 そして腕を私に見せた。今や揺らめく傷跡が目眩のするような模様へと癒えていた。「仲間の何人かが次の刺青で同じのをやって欲しいと言ってる。だから」
私はジリーから離れ、胸にけぶる熱に集中した。「挑戦する気は変わらない」
「長く立ってはいられないぞ」 サーが言った。オーガは胸を叩き、その内で憤怒が点火した。刺青が輝いたが、その幾つかは私の手によるものだった。私はバースが見せてくれた相手を地面に倒す動きを思い出した。素早く動いてこの巨体の乱暴者の背後をとり、背中に登ってしがみついた。そしてそり返った。力一杯そり返った。背骨が砕ける音がしたと思ったが、実のところそれはただルーリクとサーが拳を鳴らしただけだった。ルーリクが腕を伸ばして私を掴み、放り投げた。私は地面に墜落して転がり、かがり火のすぐ傍で止まった。
横たわったまま、肋骨が数本折れたことに気付いた。そして巨体の影がかかるのを見た。ルーリクとサーが私を踏み潰して殺すのだろう、そう思ってひるんだ。けれど聞き覚えのある深い声が胃袋の底に響いた。
「そうだ。お前の憤怒を見出したのだな」 ドリゼクが、笑みを浮かべて私を見下ろしていた。「さあ、それを使え」
使う? それは私がずっとやろうとしてきたことではないのか? かがり火の燃えがらが皮膚を撫でるのを無視し、私は何に怒り狂っているかに集中した。そうだ、私はセレズニア議事会へと怒り狂っている。私達の土地が魔力を吸われ、文明に踏みつけられ、産業に毒されている。けれど何よりも、今までずっと長い年月の間私の中に座してきたそれが、これまで起こったどんな物事をも問題にしてこなかったことに怒り狂っているのだ。失われつつある物語に、知らされなかった英雄に、かがり火の前に座って緑の鱗と鞭うつ尾の戦士達の物語を聞きながらも、向こう見ずな奔放され文明を叩き壊すことなど一度もしてこなかった私のような若きヴィーアシーノに、怒り狂っているのだ。
私は無理矢理立ち上がった。ルーリクとサーは既にラクタスクのあばら肉を漁っていたが、私はよろめきながら向かった。数歩でその鈍い足取りは安定したが、踵はまるで熱い炭の上を歩いているように感じた。その感覚は広がっていった……膝へ、腹へ、肺へ。心臓へ。もう痛みはなかった。憤怒だけがあった。
「氏族長の座を賭けて挑戦したい」 三度目だった。ルーリクとサーは再び立ち上がろうとしたが、私の両目の何かが彼らを怖気つかせたに違いなく、腰を下ろすと玉座の背もたれに背をつけた。「聞いてくれ。瓦礫帯は死にかけている。植物は萎れ、動物は病に冒されている。それは私達が何か行動しなければ止まることはない。セレズニア議事会がこの背後にいる。奴らは私達の土地から魔力を吸って自分達の成長に使っている。一日無駄にしたなら、この問題を一分無視したなら、私達が戦い守っていくはずの野生は何も残らなくなるだろう」
《特権階級》 アート:Wayne England |
私は深く息を吸い、吐き出した。そして自分が赤く揺れる炎にすっかり包まれていることに気付いた。今まで生きてきてずっと閉じ込められていた憤怒が魔法のように、一気にうねり出たのだ。私はその炎が小さなちらつきになるよう抑えた。
ジリーが隣にやって来て手を私の肩に置いた。炎が移り、すぐに彼もまた包まれた。「アルスに賛成だ」
バースが私のもう片方の肩に手を置いた。彼女もまた炎に包まれた。「アルスに賛成」
「俺もだ」 ドリゼクの声が響いた。巨人が私の背後に立つと、炎が弾けそうになった。他の氏族員も加わり、やがて私達は一つとなったように、どんな大きなかがり火よりも眩しく燃えた。
「族長、どうか行動を」 私のルーリクとサーへ言うと同時に、氏族と全てのグルールへと語りかけた。「私達は族長のために戦ってきた。今度は、私達のために戦って欲しい」
「セレズニアが戦を求めるというなら、くれてやるまでだ」 ルーリクとサーはそう言って、私へと歩いてきた。ルーリクが手を伸ばし、広げた掌を私の頭に置いた。赤い炎がその腕をうねって燃え上がり、そして私達の長を完全に輝かせた。「この戦争の物語は何世代も語り継がれるだろう、そしてお前、俺の獰猛な戦士の名は、その中心となるだろう」
アート:Tyler Walpole |
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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