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Making Magic -マジック開発秘話-

私の初期のマジック時代 その1
2026年7月7日
ときどき、私は自分の私生活とデザイン・コラムを混ぜ合わせるのが好きである。そうした記事は2022年の「さらなる人生の教訓」以来書いていなかったので、そろそろまた書く時期だと思った。この種の記事が好きな方のために、これまでに書いた私的な記事を挙げておこう。
- Life Lessons(その1とその2、リンク先は英語)
- さらなる人生の教訓
- マローの(少しは)秘密のオリジン・ストーリー
- Topical Blend #1 – To Err Is Human(リンク先は英語)
- Tales of a Runner(リンク先は英語)
- A Roseanne by Any Other Name(リンク先は英語)
- Once Upon a Time(リンク先は英語)
- Cosmic Encounter(その1とその2、リンク先は英語)
- Resolutions(リンク先は英語)
- 子育て(その1とその2)
- Celebrity(リンク先は英語)
今日の記事は、私が『マジック』のデザイナーだった初期の時代についてである。『マジック』との出会いから始まり、首席デザイナーになるまでの10年に及ぶ道のりを辿っていく。この話の一部は以前にも語ったことがあるが、今回はこれまで公の場で話したことのないことにも踏み込んでいく。
今日の物語は、私がフルタイムで雇われる2年少し前、1993年8月に始まる。『マジック』の歴史に詳しい人なら、この日付が持つ重要性がわかるだろう。『マジック』最初のセットである『アルファ版』が初めて登場した月であり年である。当時、私は売れないテレビ脚本家だった。多少の成功は経験していたが、不運が重なり、状況はあまり芳しくなかった。私はまだ外に出て、スペック・ピッチ、つまりテレビ番組に出向いて、自分がフリーランスの脚本家として書けそうなエピソード案を提案する仕事をしていたが、次のスタッフ職を得るのに苦労していた。最初の大きなチャンスをつかむ助けになってくれたエージェントは業界を去り、私はエージェントからエージェントへと引き継がれていった。
気が変になりそうになるのを防ぐため、私は地元のゲームストア「The Game Keeper」でアルバイトをすることにした。この店は、何年も後にウィザーズ・オブ・ザ・コーストが買収することになる。私が初めて『マジック』の話を耳にしたのは、そのゲーム店で働いていたときだった。店では『マジック』を販売していなかったが、人々が何度も店に来て、それについて尋ねてきた。誰も実物を見たことはなかった。ただ噂を聞いていただけだった。多くの人は、それを「あの『マジック』のゲーム」と呼んでいた。私は彼ら一人ひとりに、それがどんなものか説明してもらったが、群盲象を評すように、その説明はそれぞれ大きく食い違っていた。それでも、私は興味を惹かれた。私はそれを探し出し、サンディエゴ・コミコンで初めて実物を見た。そしてその月の後半、地元のゲーム・コンベンションで購入した。私はすぐに夢中になった。
この話で重要なのは、私がフルタイムの作家になろうとしていた一方で、趣味の1つがゲーム・デザインだったということである。私の父は大のゲーム好きで、私にゲームへの愛を植えつけてくれた。何年も前には、ラスベガスのGAMA Expoに参加し、丸1日かけて行われるゲーム・デザインのセミナーを受けたことさえあった。ゲーム・デザインに関する本を探そうとしたが、当時存在していたわずかな本は絶版になっていた。このセミナーは非常に貴重だった。プロから、ゲーム・デザインをどう改善すればよいか、実践的なアドバイスを受けることができたからである。
1993年当時、『マジック』に関する情報はまだ乏しかった。インターネットは黎明期であり、『マジック』についての会話の多くはUsenetと呼ばれる場所で行われていた。基本的に、さまざまな話題についてスレッドを立てられるオンライン掲示板である。私は頻繁に訪れるようになった。
1993年12月、「The Duelist」創刊号が刊行され、私はこれを隅から隅まで読んだ。ついにこのゲームについて多くの文章資料が手に入ったことは興奮する出来事だったが、よりベテランの『マジック』プレイヤー向けの内容は少ないと感じた。1994年初頭、ロサンゼルスのコンベンションで、私は当時『マジック』の組織化プレイ部門を運営していたスティーブ・ビショップ/Steve Bishopに出会った。ウィザーズは、公式トーナメントを運営する方法として、Duelists' Convocation International(DCI)を立ち上げたばかりだった。私はスティーブに「The Duelist」に載せるより上級者向けの記事について、自分のアイデアを話した。彼は、その雑誌の編集長であるキャスリン・ヘインズ/Kathryn Hainesに連絡するよう私に言った。
私は「Magic: The Puzzling」というアイデアを考え出した。チェスの問題に着想を得たパズル・コラムで、ゲームの途中から始まり、通常はターン終了時までに勝利せよという問題を解くものである。私は3つのパズルをデザインし、キャスリンに送った。数ヵ月経っても返事がなかったので、私はキャスリンに電話することにした。彼女はこのパズルをとても気に入っており、最初の1つは第2号の前に出る小さな号に掲載されると言った。第2号の発行に時間がかかっていたので、そのつなぎとして小さな中間号を作ることになったのだ。
一方、ロサンゼルスの『マジック』シーンはゆっくりと成長しており、私はその中心人物の一人だった。毎週土曜日、当時の南カリフォルニアで『マジック』プレイの中心地だったコスタメサ・ウィメンズ・センターまで車で通ってプレイしていた。地元の店でプレイしたり、トーナメントが開催されれば参加したりしていた。近場のコンベンションにも出かけ、その1つにサンフランシスコで開催された「Mana Fest」があった。そこで私は初めてリチャード・ガーフィールド/Richard Garfieldに会った。彼は私のことを知っていた。私のパズルのファンだったからで、それはとても感激した出来事だった。
その夏、私は『マジック』にもっと深く関わりたいと思うようになり、自費でGen Conへ飛んだ。当時Gen Conはミルウォーキーで開催されていた。私はキャスリンと直接会うことができ、彼女は、もっと書きたいなら自由に記事の企画を提案してよいと言ってくれた。私には『マジック』の知識があり、文章を書くのも得意で、締め切りどおりに原稿を提出していた。その場で私は、Gen Conについての記事と、Gen Conで開催されていた「第1回マジック世界選手権」の実況形式のレポート記事を提案した。
勢いづいた私は、多くの記事を提案し始め、その多くが採用された。ある1つの号の内容の20%を書いたこともあったと思う。「The Duelist」での執筆の成功は、『マジック』関連の数多くのフリーランスの仕事につながった。一時期、私は同じ会社の7つの異なる部門でフリーランスの仕事をしていた。『マジック』への興奮は、ゲーム・デザインへの情熱を再燃させ、私はさまざまなゲームを大量に作り始めた。その大半はカードゲームだった。また、『マジック』のカードも数多くデザインし始めた。
これらすべては、シアトルへの出張で1つの転機を迎えることになる。フリーランスの仕事の一環として、私はときどきウィザーズ・オブ・ザ・コーストのオフィスに呼ばれ、さまざまな人たちと会うことがあった。そうした出張の中で、私は開発部のメンバーたちと会った。その中には、開発部担当副社長であるマイク・デイヴィス/Mike Davisもいた。マイクはおそらく、リチャードが作ったゲーム「ロボラリー」を出版するため、ウィザーズ・オブ・ザ・コーストのピーター・アドキソン/Peter Adkisonとの最初の面会を設定した人物として最もよく知られている。リチャードはゲームをデザインするのが大好きだったが、それを売り込む仕事には興味がなかった。そこでマイクが、リチャードの作品の営業担当になった。ウィザーズは「ロボラリー」を作ることはできなかった。小さな会社であり、そのゲームは製造コストが高すぎたからである。しかしリチャードは、それならばウィザーズが作れるゲームを自分がデザインしてもよいかと尋ねた。その後の話は、皆さんもすでに知っているとおりである。
私は脚本家としてのキャリアに苦戦しており、『マジック』の仕事があまりにも楽しかったので、この出張の間に、しばらくウィザーズで働くという考えを検討してもよいと思うようになった。正直なところ、私はこのゲームがそこまで長続きするとは思っていなかった。たいていのゲームはそうだったからだ。しかし、楽しいだろうと思ったし、このゲームが先細りになったら、ロサンゼルスに戻って脚本家としてのキャリアを再開すればよいと考えていた。マイクと話しているとき、私は「シアトルに引っ越してもよいと思っている」と言った。マイクは「いつから引っ越しできる?」と答えた。
この出張の間に私はマイクと話し、自分はゲーム・デザイナーになることに興味があると説明した。マイクは、彼らは今のところゲーム・デザイナーを探していないと説明した。リチャードがいたからである。必要としていたのはゲーム・デベロッパーだった。私は、まずは会社に入って足掛かりを作り、いずれゲーム・デザイナーになる方向へ進むのが賢いやり方だと判断した。
私が転職の意志を示した後、ウィザーズの人々が実際に採用してくれるまでには数ヵ月かかった。3つの異なる部門、つまり開発部、『マジック』ブランド・チーム、「The Duelist」チームが、いずれも私の採用に関心を持っていた。妥協案として、私は開発部で働き、『マジック』を主に担当し、開発部と「The Duelist」の連絡役を務めることになった。何年も後、それは私がこの雑誌の編集長になることへとつながっていく。
私がフルタイムで働き始めたのは1995年10月で、ビル・ローズ/Bill Roseとウィリアム・ジョッカシュ/William Jockuschが入社したのと同じ月だった。私たち3人と、1995年1月に入社していたマイク・エリオット・Mike Elliott、この4人がマジック・デベロッパーとして割り当てられた。ウィザーズで働き始めるまで私が知らなかったのは、既存の開発部門が、『マジック』にフルタイムで関わることからほぼ離れつつあったということだった。数人のメンバーは退職したが、多くは『マジック』以外の製品に移っていった。ウィザーズは会社として成長しており、次の大きなものに取り組んでいたのである。
私が仕事を始めた日、誰が言ったのか覚えていればよかったのだが、私は「木の幹の近くにいろ」という助言を受けた。つまり、『マジック』の仕事からあまり離れすぎるべきではないという意味である。『マジック』は会社の心臓部だったのだ。それからわずか1ヵ月半ほど後、社内で「暗黒の水曜日」と呼ばれる日が訪れた。その日、ウィザーズはロールプレイング・ゲーム部門すべてを解雇した。『マジック』以前は、この部門こそが会社の唯一の注力分野だった。
私が最初に関わったセットは『アライアンス』だった。『ホームランド』と『アライアンス』の間には大きな空白があり、9ヵ月という、『マジック』史上最大の発売間隔だった。そして『ホームランド』の評判は悪かったため、『アライアンス』には大きな期待が寄せられていた。開発には、当時の開発部メンバー全員が参加していた。『アライアンス』は発売されて大きな成功を収めた。そのため次のセットの『ミラージュ』は、フルタイムで『マジック』開発部に所属していた全員、つまりビル、ウィリアム、マイク、そして私に任されることになった。
コードネーム「ミナジェリー/Menagerie」で呼ばれていた『ミラージュ』は、『アルファ版』のプレイテスト・グループの1つ、私が「ブリッジ・クラブ」と呼んでいるグループによってデザインされた。メンバーはビル・ローズ/Bill Rose、チャーリー・カティーノ/Charlie Catino、ジョエル・ミック/Joel Mick、ドン・フェリーチェ/Don Felice、エリオット・シーガル/Elliott Segal、ハワード・カーレンバーグ/Howard Kahlenbergである。名前の由来はリチャードが地元のブリッジ・クラブを通じて彼ら全員と知り合ったからである。これもまた、デザイナーの必要性がそれほど高くなかった理由の1つである。当時、デザイン作業の多くはウィザーズ開発部の外部グループによって行われていた。ただし、それらのチームのメンバーの中には、その後開発部に加わった者もいる。
ビルはジョエル・ミックとともに『ミラージュ』のデザインをリードしていた。彼がデベロップメントもリードしたのは、中心となる4人のデベロッパーの中で、彼がそのセットについて最もよく知っていたためだ。通常、デザイン・リードとデベロップ・リードは交代するものだが、我々の誰もデベロップをリードしたことがなかったため、ビルが最適な人物に思えた。
思い出してほしい。私はデベロッパーではなくデザイナーになりたかった。だから、自分のデザイン能力を披露できる機会を、常に探していた。マイク・エリオットと私は、本当はデザイナーになりたかったのにデベロッパーとして仕事を受けたことについて、よく嘆き合っていた。デベロップメント中に穴が生じるたび、マイクと私はそれを埋めるためのカードを何枚も用意していた。例えば、『ミラージュ』で緑のレアの枠が空いたとき、そのカードをカットしたまさにその会議で、私はウィザーズに来る前にデザインしていた緑のレア・カードを提案した。ビルはそれを気に入り、ファイルに入れ、「マロー/Maro」とラベルを付けた。それは、彼が私にメールを送るためにメール・システムへ入力していた名前だった。主には、そのカードを私が作ったことを示すためのメモだった。クリエイティブ・チームはそのことを知らず、その名前を気に入り、そのまま定着した。
開発部の全員が州外出身だったので、我々は互いにとっての交友相手でもあった。ほとんどの夜、我々は遅くまで残ってゲームを遊んでいた。リチャードは常にゲームを探しており、しょっちゅう新しいゲームを教えてくれた。そのルールは英語ではないことも多かった。例えば、私は「カタンの開拓者」を「Die Siedler von Catan」として覚えた。当時、そのゲームはドイツ語版しか手に入らなかったからである。こうした深夜のゲーム・プレイの時間を通じて、私はリチャードと友人になった。ある日、ゲームを遊んでいるときに、彼は何気なく、『マジック』のカードをデザインするのが恋しいと言った。リチャードは『アルファ版』と『アラビアン・ナイト』を作ったが、それ以降は他のトレーディング・カードゲーム、例えば「Vampire: The Eternal Struggle」、「Netrunner」、「BattleTech」などのデザインに精力的に取り組んでいた。彼がそう言った瞬間、私は自分がずっと探していたチャンスをついに見つけたのだと気づいた。
ここで強調しておきたいのは、この時期には他にもいくつかの出来事が起きていたということである。リチャードもピーターも、1992年と1993年には外部グループにエキスパンション・セットのデザインを進めさせていた。しかし『マジック』はそれら外部グループのデザインを消費し尽しつつあった。私はマイク・デイヴィスとも話しており、彼は、常にフリーランスに頼るのではなく、デザインを社内に持ち込むほうが事業上よい判断かもしれないと話していた。最後に、私はジョエル・ミックと、実績のないデザイナーを使うことへのためらいについて話し合ったこともあった。リチャードが『マジック』のチームで働くことに興味があると言ったとき、私は前へ進む道を見たのである。
私はリチャードのところへ行き、もし私がデザイン・チームをリードする場合、チームに入ってくれるかと尋ねた。リチャードと話したかぎり、彼が多くの仕事を抱えていることは知っていた。『マジック』のデザイン・チームに参加することで、彼は『マジック』のカードを作る楽しみを味わえるが、チームをリードするよりもはるかに少ない負担で済む。次に私はマイクのところへ行き、最初の社内デザイン・チームをリードすることに興味があると伝えた。マイクは、デザインを内製化するという考えをとても気に入った。彼は、当時の首席デザイナーだったジョエル・ミックの承認が必要だと言った。そこで私はジョエルのところへ行き、最初の社内デザイン・チームをリードしたいこと、そしてリチャードが私のチームに入ることに同意してくれたことを伝えた。ジョエルは、私が多くのカード・デザインをしてきたのを見ており、またリチャードをデザイナーとして信頼していたので、承認してくれた。さらに、チームの残りのメンバーを私に選ばせてくれた。私はチャーリー・カティーノとマイク・エリオットを選んだ。2人が副業的に多くのデザイン作業をしており、カード・デザインの膨大な蓄積を持っていることを知っていたからである。
私は『テンペスト』のデザインをリードし、マイクは『ストロングホールド』と『エクソダス』をリードした。このブロックは好調で、それによってマイクと私はデベロッパーであるという立場から、デザイナーの立場へと変わった。『ミラージュ』をリードしたビル・ローズとともに、我々3人はコア・デザイナーになった。また、その時期に私は、もう1人デベロッパーが必要だとジョエル・ミックを説得し、ロサンゼルスの友人の1人を推薦した。その人物には競技プレイの実績があった。世界選手権で2年連続トップ4に入っていたことで、それは証明されていた。その人物がヘンリー・スターン/Henry Sternである。興味深いことに、私がヘンリーと初めて会ったのは、彼が『マジック』を探しにThe Game Keeperへ来たときだった。その時点で、私は店に『マジック』を扱うよう説得していた。ヘンリーが初めてデベロップ・リードを務めたのは『テンペスト』であった。
ヘンリーを雇ったとはいえ、私たちが作るセット数の増加は、開発部の成長を上回っていた。実際、1人のデザイナーが製品全体を担当することは珍しくなくなっていた。例えば、私は『Unglued』と『ウルザズ・デスティニー』の両方を、1人だけのデザイン・チームとしてリードしていた。これは『ウルザズ・サーガ』で我々に跳ね返ってくることになる。マイクとウィリアムはほとんど2人だけでデベロップメントの大半を行い、このセットは歴史的な壊れ方をした。当時は冗談として『ウルザズ・サーガ』スタンダードの序盤戦はどちらが先攻かを決めるダイスロールだ。中盤戦はマリガンだ。終盤戦は1ターン目だ。と言っていた。
『ウルザズ・サーガ』ブロックは「コンボの冬」と呼ばれるものにつながった。多くの禁止があり、組織化プレイはいくらか混乱状態にあった。状況は非常に悪く、私がウィザーズにいる間で唯一、『マジック』開発部が社長室に呼び出され、叱責されたほどだった。その会議を終えた後、私はジョエルとビルに、ヘンリー・スターンにちなんで「もっとヘンリーが必要だ」と提案した。私の仕事の1つは、プロツアーのトップ・プレイヤーたちと連絡を取ることだった。私は各プロツアーでフィーチャー・マッチと決勝を監督していたので、トップ・プレイヤー全員とよく知り合うようになっていた。「もっとヘンリー」を得るための候補者を挙げるよう、私は求められた。
私の最初の提案はランディ・ビューラー/Randy Buehlerだった。私はプロツアーを通じてランディと親しくなり、彼の分析的な思考は開発部でうまく機能すると考えていた。私はランディに履歴書を送ってもらい、それを開発部の新規メンバー採用活動に含めることができた。1ヵ月ほど後、ランディから、ウィザーズから何の連絡もないと知らされたので、私は何が起きているのか調べに行った。すると、彼の履歴書が採用活動の最初の選考で不採用になっていたことがわかった。私はその履歴書を回収し、ビルのところへ行った。ランディはもう一度検討する価値があると思う、と伝えた。ビルは次のプロツアーに参加する予定だったので、私は彼とランディの夕食会を設定した。夕食会はうまくいき、ランディは採用されることになった。
同じイベントで、私はビルともう1人の候補者との面談を設定した。その人物はマイク・ドネイス/Mike Donaisという男だった。マイクは、同じイベントで開催されていたアメリカ選手権のヘッド・ジャッジだった。イベントが遅くまで続いたため、マイク・ドネイスはビルとの夕食に間に合わなかった。幸いにも、マイクは翌月シアトルを訪れる予定だったので、私はマイクとビルの両方を自宅の夕食に招き、2人が話せるようにした。この夕食会もうまくいき、マイクは採用された。
これが、より強固なデベロップメント・チームを作るために、プロツアーからプレイヤーを採用する流れの始まりだった。開発部メンバーの増加により、私たちは、常にまったく同じデザイナーの集まりではないチームを作れるようにもなった。ジョエル・ミックは『マジック』ブランド・マネージャーになり、ビル・ローズは首席デザイナーになる。私はビルの右腕になることになるが、それは次回の話である。『マジック』の歴史の中でどのあたりの話をしているのか追っている方のために言うと、この採用の多くは『メルカディアン・マスクス』ブロックの時期に進んでいた。ビルが首席デザイナーとして最初に担当する大型セットは『インベイジョン』になる。次回はそこから話を再開しよう。
過去を振り返って
『マジック』開発部の初期の頃を、私の目を通して覗くこの旅を楽しんでもらえているなら幸いである。いつも通り、この記事についてでも、私が話したどの話題についてでも、どんなフィードバックでもぜひ聞かせてほしい。メールやソーシャル・メディア(X、Tumblr、Instagram、Bluesky、TikTok)を通じて送ってもらえると幸いだ。
来週、私の物語の第2部でまた会おう。
それまで、あなたが自身の物語を楽しく振り返れますように。
(Tr. Ryuki Matsushita)
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