MAGIC STORY

兄弟戦争

EPISODE 10

サイドストーリー第5話:出発(エクソダス)

Reinhardt Suarez
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2022年10月26日

 

 根を読み それを語れ

 未来は 藻の揺らぎの中に生まれる

 真実よりも高きもの それは希望。

――ルートウォーターの伝説物語

 


 

 この土砂降りの朝以前、ニッサがドミナリアで過ごした時間は総計十五分ほどだった――最も近しい友人たちへと叫び立てた十五分間。チャンドラ。ギデオン。リリアナの策略と、呑気にそれに従う友人たちにはもう沢山だった。『自分の故郷も再建できていないうちに、別の次元が壊れていくのを見ていられないの』 ニッサは彼らにそう言った。『申し訳ないけど、私はゲートウォッチを辞めるわ』

 今、彼女はチャンドラと共に戻ってきていた。ドミナリアはまだ壊れていなかった。だが会議室にて疲労困憊のケイヤとサヒーリの向かいに座し、ニッサは感じ取っていた――この次元は間もなく持ちこたえられなくなると。

 チャンドラが説明した。「いろんなことがあっという間に進んでるわ。ソリンとアーリンさんが力を合わせてイニストラードの防衛を強化してくれてる。サムトはハゾレトとアモンケットの生き残りの人たちと一緒に身を隠した。それに加えて、他の人たちもジェイスの呼びかけに応えてくれてる。私たちが出る直前にタイヴァーとかいう男がやって来たわね」

「タイヴァー・ケルね」とケイヤ。

「あ、知ってるんだ。シャツにアレルギーでもあるの? あの人」

「チャンドラ、集中して」

「そうね。ラヴニカの準備ができたら、ジェイスが仲間を引き連れてこっちへ来て、テフェリーと皆に合流する。そして攻撃部隊が新ファイレクシアに出発して、リリアナと私は支援のためにここで待つ」

「時間はどのくらいありますか?」 サヒーリが尋ね、心配そうな視線をケイヤと交わした。

「ジェイスが信頼する筋によれば、ミラディン人はすぐにでも攻撃を開始するって」 チャンドラが答えた。「今日かもしれないし明日かもしれない。ビビアンによれば、ウラブラスクと反乱軍のファイレクシア人もほとんど準備万端みたい。他の人がどうなってるかはわからないけど、私もすぐにだって動けるわよ」

 その通り。考える前に動く――それがチャンドラのやり方だ。

 一方のニッサは、もっと詳細を知りたかった。この数か月、彼女はゼンディカーへの義務を果たすために過ごしていた。より広い多元宇宙で起こっていることは、自分自身の次元の治癒ほど気にかけてはいなかった。最近では、グール・ドラズのスカイクレイブから軽率な冒険者たちによって意図せず解き放たれた古の尾長獣を追いかけていた。その貪欲な生物を熱心に追い詰めている最中にチャンドラが現れ、聞いたこともない次元の話を伝えてきたのだった。

「みんな、ドミナリアで具体的に何をしているの?」 ニッサは尋ねた。

「テフェリーさんが酒杯の使用方法を見つけ出すのを手伝っています」 サヒーリが返答した。

「酒杯」 チャンドラは空のカップを見つめ、苦々しい表情を浮かべた。「そのためにヤヤは死んだ」 ヤヤ・バラード? ニッサはチャンドラと共にラヴニカで数日を過ごし、ファイレクシア人とは何者であり、どんな存在であるかを可能な限り学んだ。話をして、食事を共にした。だがヤヤの死についてチャンドラは一言も触れてはいなかった。

「もう少しなの」 ケイヤが言った。「けれどまだ時間が要るわ」

「ジェイスがここに来るまでは」

 ケイヤは顎に力を込めた。「それじゃ足りない」 そして彼女はカルドハイムとそこで経験した物事の詳細を繰り返した。その次元内のさまざまな領界を繋ぐ世界樹、さらにはファイレクシア人との遭遇について。次に彼女はビビアン・リードが語ってくれた話を説明した。エリシュ・ノーンの密かな戦略――多くの次元を新ファイレクシアに繋ぐ方法。その結論をまとめるのは難しくなかった。「ファイレクシア人が自分たちの世界樹を作ったなら、それを壊すために何か強力なものが必要になるわ」 ケイヤは続けた。「酒杯がなければ、何にもならないのよ」

「ミラディン人と組んで一緒に動く時こそ、ファイレクシア人を滅ぼす一番の好機よ」 チャンドラは力強く言った。「その機会を逃すわけにはいかない」

「可能な限り急ぎます」 サヒーリが言った。

 だがニッサが割って入った。「待って。世界樹を破壊できるとして、そうしたら新ファイレクシアはどうなるの?」

「わからない」とケイヤ。「その世界樹がカルドハイムと同じくらい深く根を張っているなら、次元全体が世界樹と道連れになるかも――って考えられなくもないわね」

 チャンドラの態度はもっと明確だった。「いいじゃない」

「どうしてそんなこと言えるの?」 ニッサが尋ねた。「ミラディン人もそこで故郷のために戦ってるのに!」

「先回りしないで」 サヒーリが言った。「酒杯が次元そのものを破壊するという証拠はありません。現に数千年前のドミナリアで使用されましたが、この次元は現存しています。テフェリーさんを信じましょう」

「ええ、もちろん信じてる」 チャンドラが頷いた。「私が言いたいのは、ファイレクシア人を滅ぼすことが最優先事項ってこと。代価が高すぎるってことはないわ」

 サヒーリは卓から椅子を引いて立ち上がった。「私は、愛する人たちの命が他者の犠牲の上に成り立つという可能性を既に受け入れています。だからと言って、流血を喜ぶつもりはありません」

「そうじゃなくて……そういうことを言いたいんじゃなくて」

「じゃあどういうことよ?」 ニッサが素早く言い放ち、だがすぐさま彼女はその激しさを後悔した。こんなにも互いを気遣っているというのに、何故自分たちはいつもこう上手くいかないのだろう?

 ニッサの疑問にチャンドラが返答するよりも早く、テフェリーが戸口に姿を現した。彼はやつれきっており、戸枠にもたれかかった姿は死人のようだった。

「準備はできた」 彼は小さくそう言い、ニッサへと優しくも弱弱しい一瞥を向けた。

 ケイヤは散会を告げた。彼女とサヒーリはテフェリーを伴って部屋を出て行き、チャンドラとニッサだけが残された。チャンドラをよく知るニッサは、彼女の沈黙の意味をわかっていた――辛辣な言葉をこらえていると。チャンドラが次に何と言うかは推測できた。『説明させてくれたっていいじゃないの! みんな理解してない! どうしてわかってくれないの?』

「そうじゃなくて……」 ニッサから目をそらし、チャンドラが口を開いた。「こんなこと言ったら残忍な奴みたいに思われるかもしれないけど、でも……私はファイレクシア人には全員死んでほしいって思ってる。一人残らず。ファイレクシア人やファイレクシアに繋がるもの全部。ほんのちょっとでも哀れみなんてあげたら駄目だって」

「貴女は残忍なんかじゃない。けど、死を楽しむような人でもないでしょう」

「けどあいつらには苦しんでほしいって思ってる。ヤヤを殺したのよ! わからないの?」

「わかるわ。けれど事実として、アジャニはファイレクシア人の仲間になった。彼も他のファイレクシア人と一緒に虐殺するの?」

「そんな言い方ずるい。わかってるくせに」

 チャンドラは押し黙った。彼女はしばし両手を卓に置いたまま座していた。そして呟きすらせずに立ち上がると部屋を出ていった。


 ファイレクシア人の襲撃は真夜中にやって来た。

 数こそ減ってはいたが、エルズペスとジョダーの側面攻撃を生き残ったファイレクシア人の軍勢が防衛線へと迫った。彼らはバリケードに足止めされ、あるいは塔を守る金属の兵士たちへと追い込まれて引き裂かれた。それらはファイレクシア人と同じほどに容赦なかった。塔の入り口を突破した数体にはニッサとレン、そして数体の構築物の衛兵がそれ以上の前進を防ぐべく立ちはだかった。

「今どうなってるの!」 ニッサが肩越しに叫んだ。部屋の向こう側ではレンが呪文を唱え、するとファイレクシア兵の足首に巻かれた蔦の端が腫れ上がって硬化し、足そのものを折った。その兵は床に倒れると、すぐさま一体の粘土像に棍棒のような腕を叩きつけられ、やがて動きを止めた。塔の広間では二十体以上のファイレクシア人が同じ運命を被り、その死骸は多彩な様相に切断されて散らばっていた。防衛隊の勝利はほぼ確実に思えた。

「倒した」 ニッサは両膝に手をついた。「レン、私たち勝ったのよ」

 不意に、光の柱が昇る太陽のように塔の外の空を焦がし、戦いの音を圧倒するように吼えた。一瞬して蒸気の波が谷を覆い、敵も味方も区別なく飲み込んだ。ニッサはその熱に顔をそむけ、だがレンは平然としていた。彼女と七番は塔の広間の中央に立ち、その足元には真二つに曲がった一体のファイレクシア兵が横たわっていた。

 熱が収まるや否や、ニッサとレンは前庭を過ぎて一目散にバリケードへと急いだ。未だくすぶる大杭にファイレクシア人の肢がぶら下がっていた。悪臭を放つ黒い油が金属の兵士を覆い、不気味な金色に輝く彼らの目は夕闇に浮かぶ鬼火のようだった。そして沈黙が訪れた――塔の洞窟のような広間にこだまする金属音と悲鳴の不協和音は止み、雨が土を叩く絶え間ない音だけがあった。

「エルズペスとジョダーが」ニッサが言った。「私が探しに行く」彼女は階段を下りかけ、だがレンと七番がその行く手を塞いだ。

「私たちの役割は変わらない。テフェリーを守ることだ」

「でも……」 でも、ではない。レンの言う通りだった。わかるのは、誰も見つからないだろうということだった。あの爆発はただの眩しい光の誇示ではない。悲しいが、もしエルズペスとジョダーがそこにいたとしたら、ふたりもおそらくあの魔法に焼き尽くされただろう。その命を塔とその中にいる者たちに捧げて。今、テフェリーと酒杯を新ファイレクシアから守る義務は自分とレンに委ねられた。ニッサは悲嘆にうつむいた。「わかったわ。工房にいる人たちに合流しましょう」

 ふたりが動き出した瞬間、再びの爆発が塔の広間を揺らした。ニッサは振り返って前庭を一瞥したが、一瞬前と何ら変わったものは見当たらなかった。金属の兵士たちは無言の歩哨のように、死屍累々とした戦場に立っていた。あの音は一体どこから?

「上だ」 レンが言った。

 上と周囲の一帯。ニッサは階段を見つめた。「私に見に行かせて。ここにいて、誰も通さないで」レンは了承に頷き、ニッサは二階へ急ぐと外へ開けた広い格納庫へ向かった。ジョダーがこの場所から飛行機械の戦隊を送り出しており、今やそこには破損した数体が残されているだけだった。

 自分たちがいた地上部と同じく、その格納庫は塔の西側にあった。穏やかで静か。だが東、アーギヴィーアの街を取り囲む平原へと続く小道の方角はそうではなかった。東の見張り塔が活気づき、静電気の稲妻を雲へと上向きに発射した。眩しい緑色の帯が、作り物のオーロラのように夜空を照らした。もやの中から屈強な騎士の大部隊が姿を現した。数は百体以上、全員が全く同じ白色の鎧で完全武装していた。それらの上を飛ぶものがあり、当初ニッサは天使だと思った。かつてはそうだったのかもしれないが、もはや違うもの。翼を生やした怪物は血のように赤い筋肉を斑模様により合わせた身体で、白骨のピラミッドのような兜の頭が肩の上に乗っていた。

 前進する軍勢を見つめながら、ニッサの心に思い浮かぶのはゲートウォッチ――それも最初の四人――だけだった。ゼンディカーを引き裂こうとするエルドラージに対峙したあの時。そこには仲間意識があり、正しいことをしているという感覚がはっきりとあった。それは純朴な感情、今のニッサは十分にわかっていた。それでも彼女はギデオンが教え込んでくれた自信を、チャンドラだけがかき立てられる熱意を、そしてそれらに安定をくれるジェイスの落ち着いた強制力を切望した。だがその誰も、今ここにはいない。ジェイスはラヴニカで準備に忙しく、チャンドラも今朝早くに彼と合流するため出発した。そしてギデオンが……来てくれることはない。

『けれど貴女がいる』 ニッサは自分自身に言い聞かせた。彼女は一呼吸して心を決めると、レンのもとへと駆け戻った。「ファイレクシア兵の増援が!」 彼女は叫んだ。

「数はどのくらいだ?」

「軍勢が丸々ひとつ。もし接近されたなら、塔に入るのを防ぐことはできないわ」

 レンは背筋を伸ばした。「ならば私たちが止めよう」

 ニッサは踵を返すと来た道を戻り、だが東側の防衛施設に向かうのではなく前庭へ飛び込んだ。軍隊と戦うなら、自分の軍隊で戦うのが一番いい。幸運にも、自分の命令に従ってくれる軍隊のようなものがひとつあった。

「立て!」 ニッサは叫んだ。この機械の軍勢を動かすためにエルズペスが用いた命令の言葉。エルズペスの作戦によって、守備部隊の大部分は温存されていた。甲虫のような金属の兵士が数十体と、まだ立ち上がっていない粘土像が六体。それらは足を踏み鳴らして起動を示し、彼女の方を向いた。「集合、進軍!」 ニッサは命令し、自分の後について塔の外辺部へ向かい、来たる軍勢に対峙するよう合図した。

 以前に試した時と同じく、金属の兵士たちは完璧に調和した足取りで進み、雨に濡れた緑地帯の土は踏みつけられて黒いぬかるみと化した。それらは塔を含めた複合施設の東端にある低い胸壁の上に並んだ。ニッサは金属兵たちの狭い隙間をすり抜けると、胸壁の前に出てその先を見渡した。

 ファイレクシア兵は既にかなり接近しており、ニッサは彼らの恐ろしい武器が見分けられるほどだった。白骨の色をした剣や盾、その輪郭は筋肉の赤。あの天使に似た異形は歩兵の上空で停止し、ニッサが思うに複雑な防御魔法を身振りで用いていた。そしてその通り、砲塔からの攻撃が敵軍に迫ると、その稲妻は見えない障壁に当たって無益に消散した。

 幸運にも、エレメンタルはそのような障壁に足止めされることはない。ニッサは大地と大気に意識を伸ばし、土や石、風と雨の身体へとこの次元の精霊たちを招いた。大気が渦を巻いて流れはじめた。両軍を隔てる地面が沸き立ち、うねった。『ドミナリアよ、身を守りなさい!』

 だが自然の精霊の存在を感じながらも、ニッサはこれまでになかった何かを経験した。精霊たちは彼女の存在に後ずさりした。『あなたたちの力を見せる時よ!』 ニッサはそう嘆願した。聞いてもらえてはいる――それは感じられた――だが呼びかけへの返答はなかった。

 ニッサはレンを見た。「これ、感じる? 私の魔法が……」

「感じるとも。力線がもつれている。それも私が思うに、意図的に」

 ファイレクシア軍はいよいよ接近し、もはや時間はなかった。胸壁への接近を許してはならない――突破されたなら。塔に向かうそれらを止める手立てはない。自然が応えてくれないならば、機械の軍勢と共に戦場へ進軍しなければならないだろう。サヒーリ製の軍隊は戦いに熟達しているとはいえ、迫り来る敵軍に比べたなら空ろな殻と言えた。この瞬間のニッサにとって、ファイレクシア人はこの塔だけでなく、あらゆる地の命と希望の砦を圧倒しようとする大波だった。ローウィンからイニストラード、そして自分が愛するゼンディカーまでも。

 押しひしぐ力をもって。

 密かな堕落をもって。

 魂を砕く絶望をもって。

 ニッサは薄く細い剣を仕込み杖から抜き、宙へと掲げた。「前へ!」彼女の命令に、機械の兵士と巨体の粘土像たちは胸壁を降り、戦場に立った。「この場を維持し、塔を守れ!」

アート:Chris Cold

 突撃するファイレクシア兵を迎えるべく、構築物たちは防衛線に整列した。両軍は鋭い断続的な騒音とともに激突した。金属の刃が鎧に音をたててぶつかり、敵を噛みちぎり引き裂く弱点を探った。構築物は言うまでもなく恐怖心を持たず、だがファイレクシア兵――その顔は兜で隠され、あるいは滑らかで目鼻のない骨に置き換えられてる者たち――もまた容赦なかった。さらに悪いことに、この夜の早くに襲ってきた黒い鎧の部隊とは異なって、この白の軍勢には戦略のようなものが存在していた。戦列を引き伸ばしてしまう狂戦士のような突撃はなかった。これらのファイレクシア兵は四体か五体が組となり、共に機械兵を押さえつけて有利な方向から攻撃した。

 粘土像たちの戦況は芳しくなかった。最初のファイレクシア兵の数体が粘土像の土の皮膚に武器を奪われると、敵は粘土像の最も弱い部分を――脚を――素早く突く攻撃に切り替えた。分厚く重い盾に足とその関節を押し潰され、二体が既に泥の中に転がっていた。

 レンは戦況を御するべく、内なる炎を用いて燃え立つねじれた迷宮のような回廊を作り出し、ファイレクシアの戦列を無防備に分断して構築物の戦士たちが突撃できるようにした。だが増え続ける敵に対して後退することなく呪文を維持するという重圧は明らかに彼女を消耗させた。一体のファイレクシア兵がその巨大な刃を構築物の頭部へと振るって切断し、レンと七番を攻撃する道を開いた。

 ニッサが飛び出してファイレクシア兵の武器の下を滑り、自らの剣で切り裂いた。だがそれは相手の腹部を守る骨のような板をかすめただけだった。彼女は立ち上がり、更に二度の素早い攻撃をかろうじて避けたが、ファイレクシア兵は攻撃の手を緩めなかった。この時彼女は頭上からの叩きつけを横に回避すると、危険を承知で足元の地面へと単純な呪文をひとつ唱えた。緩い土が悶えて小さな植物や根が目覚め、ファイレクシア兵の脚を泥の中へと引きこんだ。そこを機械兵の一団がとどめを刺した。

 ニッサは今一度上空へと視線を向けた。あの天使型のファイレクシア人はほとんど動いておらず、戦場の上空で警戒を維持しながら防御呪文を織り込み、軍隊の防御や攻撃からの回復を助けていた。それは手堅い戦略――塔の防衛隊を消耗させ、尽きさせる。そして苦もなく中の全てを奪う。だが魔法の支援がなかったとしても、数はニッサと仲間たちの方が劣勢だった。そこに魔法まであったなら? 勝算はない。ならば首魁を倒さねばならない。

 レン。ニッサは駆け出してレンのもとへ直行し、七番が振るった枝をくぐって避けた。「レン! 力を貸してほしいの!」

「私は今少々手一杯だ」 七番が一体のファイレクシア兵を蹴とばした。「だが聞こう」

「あの指揮官」 ニッサは頭上を指さした。「あれを倒しに行こうと思う」

「どうやってだ?」

「貴女たちに少し活力の贈り物をあげる。そうしたら私は七番に登ってあそこへ行けるわ」

 滅多にない微笑みがレンの顔に浮かんだ。「結構な作戦だ」

 ニッサは両手を七番の幹に押し付け、自らの手足から七番のそれらへと力を与えた。その際彼女は、レンが七番の助けを借りて内に宿し続ける荒々しい業火に触れた。自らの生命力が炎と混ざり合い、だが圧倒されるのではなくそれらが新たな魔法エネルギーとなるのを感じた――全く独自の力線。彼女はその新たな力を呪文に繋げ、レンと七番に成長を命じた。より強く、高く。呪文が完全に効果を発揮すると、ニッサはもはやオーガに掴まれた鼠ではなく、七番の緑豊かな枝に抱きしめられているように感じた。

「登っていったならあれに気付かれるだろう」 レンが言った。「七番、彼女を飛ばしてやれ」

 滑らかな動きひとつで、今や巨人ほども大きな七番はニッサを空へと放り投げた。あまりの力に、頬に当たる雨粒が針のように感じた。有翼のファイレクシア人は空中で身をよじり、そのぎこちない動きはニッサの型破りな攻撃への驚きを示していた。そして大鎌のような腕の一本を持ち上げて切りかかったが、ニッサの方が素早く身軽だった。片腕を相手の首に引っかけると、ニッサは敵の右脇腹、鎧で守られていない箇所に剣を深く突き刺した。ファイレクシア人は腕を大きく振るって彼女を揺さぶり落とそうとしたが、ニッサは頑固にしがみついたままでいた。

 ニッサを振り払えず、ファイレクシア軍の指揮官は悶えるのを止めると、翼を大きく広げて恐るべき速度で上昇を始めた。眼下の戦場は相争って這い上がる必死の昆虫たちの泡となり、点となり、そして彼女たちが嵐雲に突入すると見えなくなった。空気は刺すように冷たく、目を閉じずにはいられなかった。

 しまった! このファイレクシアの指揮官を軍隊と再び接触させるわけにはいかない。これ以上友達を傷つけさせるわけには、あの悪夢のような機械にドミナリアやゼンディカーの、何処の次元であっても草一本にすら触れさせるわけにはいかない。ニッサは相手の首に回した腕の力を強めた。そして下へと手を伸ばし、相手の胸郭から剣を引き抜くと上向きに振るい、翼の付け根にもつれるケーブルへと突き刺した。何度も繰り返し、休むことなく。黒い血が手を覆い、かゆみと温かさを感じた。ファイレクシア人は背をのけぞらせ、ニッサの剣の魔法が効果を発揮し始めると激しく身を震わせた。突き刺す度に彼女は種をファイレクシア人の内に埋め込み、今やドミナリアの凍える夜の中、彼女は種に命令した――伸びなさい。

 肉を裂き、骨を砕く調和した音の中、何本もの芽が弾け出た。彼女の敵は無益に腕や翼を振り回した。その芽はニッサの四肢にも巻き付き、振り落とされるのを防ぐ助けをした。ニッサを連れたまま、ファイレクシア人は落下を始めた。

 ニッサにできるのは掴まり続けることだけだった。数瞬のうちに戦場が再び視界に入り、光の点から歯と歯で戦う昆虫の群れへ、血と油の無秩序な沸きかえりへと変化していった。一考して決め、ニッサは芽に命じて自らを放した。落下しながら彼女はプレインズウォークに必要な集中を試みた。だが思考は散り散りで、引き伸ばされてしまっていた。強情な自然の精霊に、塔の中にいる友人たちに、ゼンディカーを出発する時に見た入り海に、そしてますます思考を占拠する、迫り来る自分自身の死に。

 ニッサは目を閉じて衝撃を覚悟し、だが不意に柔らかく分厚い葉を背中に感じた。七番が枝を伸ばして受け止めてくれていた。不幸にも、それは敵へと隙を見せることを意味した。冷たい、とても冷たい手が下から幾つもニッサへと伸ばされ、その指が彼女の腕を、脚を握り締め、地面へ引きずり下ろした。ニッサは立とうともがいたが、それができたと思うや否や、まるで鎧をまとう千本もの肢とも思えるものに引きずり倒された。

『助けて! 私たちを助けて!』 彼女は呼びかけた――圧迫された肺に空気は残っておらず、従って声ではなく心で。自分自身が地面へと沈むのを感じた。泥と根を越え、山々が座す基盤岩を越え、更なる深みへ。この次元の最深部、その精髄が――世界魂が――見つけられるであろう場所へ。

『どうして応えてくれないの?』 ニッサは悲鳴をあげた。『聞こえていないの?』

 沈黙だけが続いた。理解できなかった。ゼンディカーでは、世界魂は自分自身の呼吸のように身近だった。融和してくれていた。信頼してくれていた。イニストラードとアモンケットの世界魂は敵意を持ち、ラヴニカのそれは隠されていた。だがあらゆる次元に、少なくともそれは存在した。ここドミナリアでは、それはまるで腐敗のように次元の奥深くにうずいていた。いや、腐敗ではない――憎悪。癒えない傷と正されない裏切りから生まれた憎悪。先程彼女を追い払った自然の精霊たちが、その存在を知らせてきた。

『お前はガイアの子供ではない』 それらは声を合わせて言った。

 ガイア? そう、それはドミナリアの世界魂が自ら選んだ名前。ニッサはガイアを近くに感じ、ドミナリアの手つかずの自然を支配するその代理人たちの判断を彼女がどう受け止めるのかを見守った。

『貴女の次元に侵略者が迫っているの』 ニッサは懇願するように告げた。『倒すために力を貸して!』

『腐敗の者等が戻ってきた。それは知っている』

 何十、何百という戦いの映像がニッサの心に侵入した。どれもこの夜に起こっているもの。灰色の肌をした屈強な戦士たちがステンドグラスをまとう天使に率いられ、街の下水道から溢れ出るファイレクシアの怪物に立ち向かう。エルフの君主は戦化粧をまとって金属製の戦闘機械にまたがり、人間の魔道士たちは飛行部隊を組んで角だらけの獣へと呪文を放つ。ミノタウルスは恐れ知らずのゴブリンの農民たちに助けられ、神聖な石造りの広間を機械生命の怪物から必死に守る。これはドミナリアのどん底、終焉の直前なのだろうか?

『お前は要らぬ世話焼きに過ぎない。ガイアの子供たちがその力を必要とする時に、横取りしようとしている』

『私は守護者なのよ! 自分自身で見てごらんなさい!』 ニッサは心を完全に開き、自分自身を通じてゼンディカーを見せ、感じさせた。ニッサ自身の記憶が繰り返され、彼女は肉体から分離して霊になったかのように人生の全部分を目の当たりにした。ゼンディカーの魂との最初の遭遇、エルドラージの群れを撃退したこと、石成の核の癒しの力を解き放ったこと。『守られるべき故郷があるなら、ここから始めるべきなのよ! 私たちに力を貸して、そうすればファイレクシアを終わらせてみせる――完全に!』

『誓い破りどもが……』

『我らの破滅を繰り返すなどと……』

『あの銀の者は酒杯を持ち去ると約束した……』

 ニッサは暗闇の中に出口を探したが、何も見つからなかった。『カーンがどんな約束をしたのかはわからないけど、それはもう関係ないでしょう! 貴女の敵が迫っているのよ!』 圧倒的な暗闇。墓所のような静寂。だがこの虚空の中でニッサははっきりと悟っていた。もしこれがニッサ・レヴェインとしての最後の夜なら、ゼンディカーの名のもとに戦って死ぬ。いや――あらゆる次元の生命の名のもとに。

『力を貸してくれないなら、私を私の運命に戻して。自分でやってみせる』

 聞こえたのはその時だった――微かな唸り声が次第に強まり、彼女の魂を圧迫する咆哮となった。『ガイアはお前を見極めた』 霊たちが宣言し、同時に彼女はひとつの力が届き、蛹から蛾が羽化するように自分自身から現れるのを感じた。この次元のマナが開かれ、ニッサの手足は樫の大木の根となった。髪は棘のように鋭い風となった。身体は地面となり、そこには動物や虫や植物が同等に満ちた。そして心が。

 彼女の心はガイアの怒りとなった。この谷全体を押し流すほどに激しい、煮えたぎって泡立つ爆発寸前の憤怒。生命のエネルギーが、死者たちの身体に新たな受け皿を見つけた――機械の戦士と切り苛まれたファイレクシア人の両方を。ガイアの自称破壊者たちは自ら身体を再構成し、鋼はハートウッドに、油とパワーストーンはエネルギーに満ちた樹液が流れる循環系へと転換された。不気味なほどの素早さで、エレメンタル戦士の軍団は次元の存続をかけて戦うため列をなして戦場へと乗り出した。

 ドミナリアの世界魂がファイレクシアに触れたのはこれが初めてではない、ニッサはそれを察した。敵とひとつになるということは、敵を自らの中に招き入れることであり、敵の真の動機を理解すること。ファイレクシア人についてのニッサの疑問に回答が与えられた。歴史が一瞬にして閃き、それらがいかにして生まれたのかを、ドミナリアを我が物にしようとする試みを、そして自然であるものすべてに逆らうそれらの目的を彼女に見せた。

 ニッサは悲鳴で反応することしかできなかった。

 ゆっくりと、感覚が彼女の意識に戻り始めた。まずは四肢の先端がうずくように、そして体中が一気に燃え上がるような苦痛が。これほどの苦悶をかつて感じたことはなかった。自分自身の心から、これほどの憎悪が発せられるなどありえないと思っていた。ニッサははっと目を見開いた。地面に引き倒されてからほんの一瞬が経過したに過ぎず、白骨の肢が彼女を掴もうと伸ばされていた。

 だがこの瞬間において、すべてが変化していた。

 彼女は本能のままに突進し、足元の地面をかき乱して相手に攻撃を仕掛けようとした。そしてこの時、エレメンタルたちはニッサの命令に即座に反応した、まるで身体の延長であるかのように。土の触手が弾け出て、彼女に群がろうとするファイレクシア兵たちを追い払った。立ち上がると、ガイアの守護者たちが塔の胸壁から飛び降りる様子が見えた。それらは戦場に殺到し、残るファイレクシア兵にすさまじい勢いで激突した。

 混乱の中、レンと七番がファイレクシア兵を追い払いながら大股で向かってくるのが見えた。近づくと七番はニッサを枝ですくい上げ、塔の胸壁へと駆け戻った。

「山々から哀歌が流れてくる」 レンが言った。「テフェリーの所へ戻るぞ」

「ええ」 ニッサが七番の枝の間から覗き込むと、エレメンタルの戦士たちはうねる壁となり、骨をまとうファイレクシア兵を押し留める様子が見えた。斃れた敵はすべてガイアの意志に取り込まれ、彼女の大義をもたらす戦士として立ち上がった。それは輝かしく、同時に恐ろしくもあった。ニッサはそれがもたらす犠牲を理解していた。世界魂とて無限ではない。今この次元の様々な場所で、ドミナリアの英雄たちがファイレクシアの侵略者と戦っている。ここに精霊たちがいるということは、他の場所で助けに加われていないということ。何千という人々は朝日を見ることができないだろう。

 胸壁に戻ると、そこは不気味なほどに荒れ果てていた。動くものはなかった。七番はニッサを地面に降ろし、彼女はレンと共に戦場の様子を見つめた。先程、ニッサはそれを感じていた――生命の流れが、ファイレクシア人の破壊への切望と混ざり合うことで。それは、あらゆる場所で行われているファイレクシア人との戦いの縮図だった。

「ニッサ、あそこに」

 ニッサはレンの視線を追いかけて塔の根元を見た。あのファイレクシアの天使が身体を引きずるように近づいていた。翼はちぎれて背骨は砕け、ニッサの剣の柄が今も背中から突き出ていた。緑色の芽は蔓へと成長し、新たな皮膚のようにその身体を包んでいた。抑えきれない勢いでニッサは前に進み出ると片手を伸ばした。彼女は指に力を込め、蔓に締まるよう促した。

「あなたの主はあなたを通して感じるのかしらね?」 彼女はそのファイレクシア人へと問いかけた。「私が握り潰したら感じるのかしらね? 私たちが何をしようとしているか、知らせてあげたいのよ――あなたたち全員に。簡単な死じゃないということを」 彼女は更に強く締めた。蔓がファイレクシア人の首に巻き付き、更に太くより合わされた。

「ニッサ、いけない」 レンが言った、「お前の歌は残忍の歌ではない!」

『いかにも。だが残忍であれ』 ニッサの脳裏に声があった。精霊たち。『我らはこの敵を知っている。そしてお前の心に見た、既に奴らはお前の愛するものを奪ったと。それらは決して戻らない。腐敗の者等に勝利するには味方と敵、両方の血でお前の手を染めねばならない』

 その言葉を最後に精霊たちは離れ、彼らと共に怒りも去った。ニッサはよろめきながら一歩前に進み出て、喉の詰まりが解けた。ファイレクシア人を放っておいたらどうなるか、ガイアはそれを見せてくれた――あれらは侵略し、取り込み、変質させ、そして喜んで食らう。その知識は消えなかった。この先ずっと、夢に見るのだろう。ニッサは目の前の地面に横たわるファイレクシア人を見つめた。どれほど打ちひしがれていようとも、その肢を流れるのはぎらつく油。この汚れた種からは常にファイレクシアが発生する可能性がある。それはアジャニについても同じなのかもしれない。変質させられているならカーンも、そしてファイレクシアに堕落させられた他のあらゆる者たちも。多元宇宙を守るために必要な行動に出ねばならない時が来たなら、決然として選ばなければならないのだろう。それができない者たちのために、自分自身が手を動かさねばならないのだろう。

 ニッサは両目を閉じ、指に強く力を込めた。蔓は彼女の命令に従った。


 レンとニッサがサヒーリの工房に辿り着くと、扉を取り囲んでいた石の壁は砕かれており、金属の扉とバリケードの脇に除けられていた。彼女たちは部屋の中へと踏み入った。喉を焼くような黒い煙が立ち込めていた。もやの中、この部屋にいるべきである二人以上の人影がニッサには見え、その全員が時空錨を取り囲んでいた。

 心が重く沈んだ。ファイレクシア人が防御を突破したのかもしれない。ニッサは風を呼び起こして煙を吹き飛ばし、敵を粉砕すべく今一度ガイアのエレメンタルを召喚しようとした。だが煙が晴れて見えた人影の中には、ニッサの知っている顔が少なくともひとつあった。

「ニッサ」 頼み込むように、ナヒリが両手を挙げた。「落ち着きなさい」

「何でいるの?」 頭上に風をうねらせたまま、ニッサは尋ねた。

「俺が頼んだからだ」 ジェイスが視界へと進み出た。「この戦いでは、どんな味方も遠ざける余裕なんてない。それはわかってほしい」 言葉こそ確固としていたが、ジェイスの表情には悔恨があった。ニッサがドミナリアに来る以前、ジェイスは顔を合わせて話をしたいと彼女に呼びかけていた――そしてその招待に応えてはいなかった。チャンドラを永遠に自分たちの仲介役にしてはおけない、それはニッサもわかっていた。いずれは互いの相違について話し合わねばならないのだろう、だが今はもっと重要な物事が差し迫っている。

 ニッサは風を払い、その隙にナヒリの反応をこっそりと一瞥した。そのコーはいつもと変わらず無表情だった。時空錨の傍にはサヒーリとケイヤがおり、両者ともその機械の広範な損傷を調べていた。黒焦げになった金属の骨組みから、屍の内臓のようにワイヤーと回路が零れ出ていた。中央部に破片が溜まり、まるで錨そのものが潰れたかのようだった。「何があったの?」

「パワーストーンが内破して錨が耐えきれなくなったんです」 機械から破片を持ち上げながら、サヒーリが言った。「持たせようとしたのですが、負荷が大きすぎて」

「テフェリーさんは?」 ジェイスが尋ねた。「酒杯の起動法は見つけられたのか?」

 ケイヤがかぶりを振った。「見つけられた。けれど幾つかはよくわからないの。私は接続を保つのに手一杯で。混乱した言葉と映像……私も酒杯の起動法は理解したと思うけれど、直接テフェリーに尋ねるべきだと思う」

「彼はどこに?」

「そこに」 ケイヤは錨の中心部、停滞カプセルを指さした。

 ニッサ、レン、ナヒリ、ジェイスはサヒーリとケイヤに加わり、停滞カプセルを破片の中から掘り出した。ひとたびそれが終わると、まずケイヤが近づいた。

「テフェリー」 彼女は虚ろな殻をノックした。「大丈夫?」 返答がないとわかると、彼女は更に近寄ってカプセルの蓋にある小さな窓から汚れを拭った。両手で顔を包み込み、彼女は中を覗き込んだ。「テフェリーの姿は見える、けど暗くて……待って、何かおかしい」

「どうした?」 そう言ってジェイスが進み出た。ニッサもすぐ後につき、ふたりは同時に中を見た。テフェリーは中におり、目を閉じ、苦しむような表情を浮かべていた。ひどく弱弱しい姿――いや、そうではない。ふたりの目の前で、彼の姿が消えていった。ニッサとジェイスは同時に蓋に手を触れ、開こうとした。だがレンの声がそれを止めた。

「テフェリーの弦はまだこの装置に繋がれている。彼の歌を響かせている。それを乱してはいけない」

 ジェイスは下がって集中し、その心をテフェリーのそれに伸ばした。「レンさんの言う通りだ。彼はまだそこにいる。けれど、まるで幾つもの遠くの場所へ引き延ばされてるような。あるいは幾つもの異なる時間に」

 歩きながら、サヒーリが誰にとでもなく言った。「錨を組み立て直してみようと思います。制御系を逆順にすれば、テフェリーさんを時間流から引き寄せられるかもしれません」 彼女は足を止めてジェイスを見た。「時間はどのくらい残されていますか?」

「ありません」 ジェイスは顔をしかめて言った。「ケイヤ、テフェリーさんがいなくては――」

「私ができるわ」 ケイヤがすぐさま返答した。「私が酒杯を起動させられる」

「でもテフェリーを放ってはおけないでしょう」 ニッサが断言した。「ファイレクシア人はこの次元の至るところにいるのよ。きっとここに戻ってくるはず」

「ミラディン人の攻撃はもう始まるところよ」 ナヒリが言った。「だからここに来たのだけど――あなたたちと合流して新ファイレクシアへ出発するために」

「ここで独りで死なせるわけにはいかない」 ニッサは引き下がらなかった。

「独りではないよ」 戸口から声が届いた。壊れた戸枠にジョダーがもたれかかり、腹部を押さえて顔をしかめていた。「そして死なせはしない。もしそんなことになったなら、最後どうなったかを聞けないからな」

 その言葉のすぐ後、エルズペスが彼の背後から踏み出して彼の腕を肩に回して支え、ふたりは共によろよろと部屋に入ってきた。あの爆発をどうやって生き延びたのか、ニッサには想像もつかなかった。だがかろうじて助かったにすぎないというのは明白だった。ジョダーをサヒーリの作業台の椅子へと導き、エルズペスは彼を座らせるとその手にひとつの小瓶を押し当てた。そして彼女は部屋の中央へと歩み出た。

「エルズペス・ティレルです」 彼女はジェイスへと片手を差し出した。

「存じています」 ジェイスはその手をとった。彼の目の輝きにニッサは察した、ジェイスはエルズペスが姿を現すしばらく前からその心を察知していたのだと。「ジェイス・ベレレンと申します」

「新ファイレクシアへ行くのですよね」

「そうです。ここでの準備が終わり次第」

「でしたら私も同行します。現地の地理を知る者が必要でしょう」

「ですがお仲間さんは」 ジェイスはジョダーに視線をやった。その表情はニッサが見るに、困惑しているとしか言いようがなかった。「その、俺の――」

「私が精神魔道士とやり合った事がないとでも思うかい、ベレレン君?」 ジョダーは毒のある笑みを見せた。「君が最初でも、最強でもない。まあ数百年もあればそうなれるかもしれないがな」 彼はテフェリーを収めたカプセルに視線を、向け、その笑みが消えた。「私はジョダー。ドミナリアの大魔道士であり、今の目的は友人を助けることだ。君たちが多元宇宙で最も恐ろしい場所に言っている間、私はテフェリーを解放するために取り組む。いいね?」

「気を悪くさせるつもりはありませんでした」

「礼節は気にしなくていいさ。だが慎重でいた方がいい、君の仲間たちのためにね」

「私もここに残ろう」 レンが言った。「テフェリーとの約束事は終わっていないのでな」

 すぐに、他のプレインズウォーカーたちがやって来た。ゴルガリ団の女王に相応しい、緑と黒の鎧に身を包んだヴラスカ。優雅にして獰猛な放浪者と、それに同行する頭を剃り上げた若者。漆月魁渡、放浪者は彼をそう紹介した。そしてやはりシャツすら着ていないタイヴァー・ケル。最後に、額に白髪の交じったよそよそしそうな男が現れ、瓦礫の散らばる状況を見て顎を引き締めた。

「ルーカさん、彼女がニッサ・レヴェインです」

「ふん」 ルーカはそう言い、ニッサにはごくわずかに注意を向けただけだった。

「チャンドラは?」 ニッサはジェイスに尋ねた。チャンドラはこの日早くにドミナリアを離れており、戻ってくると約束していた。では何処に?

「カラデシュだ。ここに来る前にお母さんに会ってくるって」

 ニッサは頷いた。チャンドラはレンやリリアナ、他の者たちと共にここで待つ。そして出発した者たちが帰ってきたなら出迎える。それは理解できることだった。それでも、地獄へと進軍する前にチャンドラの姿を見ることができればとニッサは願った。熱くなってしまった今朝のやり取りを解決したかった。チャンドラの言うことももっともだと伝えたかった。心配していると伝えたかった。だがそれは待たねばならない、ジェイスとの問題と同じように。躊躇の中に宙ぶらりんにされていた。

 出発が迫り、誰もが最後の準備を行った。サヒーリはニッサの心からの敬意をピアに伝え、ヤヘンニの記憶に残る強い酒の一杯を楽しむと約束した。レンとジョダーはテフェリーを連れ戻すための次なる動きについて話し合った。ケイヤは酒杯の表面を指でなぞり、その文字を見つめ、そして注意深く包んで来たる旅に備えた。エルズペスは他のプレインズウォーカーたちに自己紹介をし、新ファイレクシアで予想される物事を彼らに伝えた。ジェイスは攻撃部隊全員の精神を繋げる呪文を編み上げた。これによって、例え離れていても各自の居場所がわかるのだ。

 ニッサは全員から離れて立ち、時空錨の残骸の中をそぞろ歩いた。ゲートウォッチが再び結集した。ラヴニカでは――最初の四人が集った最後の機会では――多元宇宙への、互いへの誓いを新たにした。だが今回は違う。自分とジェイスの、自分とチャンドラの間にできた静かな不和は、古傷が開くように露わにされていた。それは馴染みある言葉を単に暗唱するだけでは修復されるものではないのだろう。けれど、その必要はない。

 この部屋にいる全員をニッサは見つめた。多くの次元から集った友人たちと見知らぬ者たち。ドミナリアの多種多様な人々が団結し、分裂を克服し、統一戦線を築いているように。そこにはある種の美があった。ある種の価値があった。ニッサが尊重していなかったある種の重要性があった。ファイレクシア人との戦いは、ニコル・ボーラスのような並外れた誇大妄想狂が定めた残虐な計画を単に押し返すものではなく、プレインズウォーカーだけが引き受ける務めでもない。何らかの未来を願うすべての存在はひとつの選択を迫られている――ファイレクシア人があらゆる次元を、ニッサがガイアの目を通して見たような侘しい黒焦げの荒地へと変えてしまうことを許すか、それともかつて敵だったかもしれない者たちと共に戦うか。

 それぞれの差異を称える。打ち勝ち、耐える新たな絆を結ぶ。

 出発の時が来たとジェイスが告げ、新ファイレクシアへ向かう全員が彼の周囲に集まった。ニッサもそれに加わろうと部屋の中央へ向かいかけ、だが瓦礫の中を走り回る小さな何かに気付いて足を止めた。屈みこんで灰と屑を払いのけると、現れたのは小さなアーティファクトの鳥だった。サヒーリの造物に違いなく、丁寧な職人技の中に少しの遊び心が散りばめられていた。その鳥はニッサの指に飛び乗り、彼女はそれを持ち上げて近くで見た。それは首をかしげてニッサの目を見つめ、小さな金属製の鳴き声をひとつ発した。まるで朝露が池に落ちるような。

「すべての次元の生命のため」 彼女は囁き声で言った。「私たちは皆、ゲートウォッチであり続けるわ」

終幕

アート:Rovina Cai
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 暖かな昼。テフェリーは岸辺で目を覚ました。砂は細かく密集し、湿気を帯び、乾きはじめたばかりだった。彼は砂に向かって呼吸をし、砂粒が目に入って瞬きをした。

 小さな蟹が手の上を歩き、彼の前で立ち止まり、泡を吐いた。そして逃げ去った。

 それが手の上を歩くのを感じた。

 感じた。

 テフェリーははっと立ち上がり、身体から砂を払い落した。もはや霊体ではなかった。身体に戻っており、だがここは時空錨の中ではなかった。自分は……

 自分は元気だ。疲労はない。昼寝から目覚めたかのように当惑している。彼は辺りを見渡した。そこは海岸だった。

 海は水平線まで続き、真昼の太陽の下で青くきらめいていた。

 内陸では細かい白砂が海岸線に伸び、緑の植生と砂丘に接していた。古い足跡が幾つかあり、人々がしばしば通ることを示していたが、今はテフェリーの他には誰もいなかった。平らで穏やかな海岸が砂丘を取り囲むように広がっていた。テフェリーの左には海岸が1マイルほど続き、岩がちの険しい崖で終わっていた。海岸性の樹木が崖の頂にしがみつき、遠くでは吹きさらしの緑の草ふき屋根が霧の中に踊っていた。右には海岸が、もやのかかった彼方まで伸びていた。

 海鳥が穏やかな海風に乗り、頭上を舞っていた。

「ケイヤ」 テフェリーは声に出し、眉をひそめた。自身の声が自身の喉に響くのを感じ、海風の柔らかな響きとともに耳で聞こえた。彼女との接続はなかった――ただその名を声高に発しただけだった。

 状況の深刻さを不意に彼は実感し、血が再び肉体を駆け巡る音を運んできた。

 ケイヤと接続できなければ、時空錨との接続もできない。時空錨に接続できなければ、帰ることもできない。ウルザとの会話から、必要となる情報をケイヤが得たことを願うしかなかった。彼女の存在があったことを覚えている、それともその記憶を想像しているだけなのだろうか? 既に思い出そうと苦労しつつ、既に忘れはじめていた。川は、湖を取り込んでいった。

 自分は何を忘れてしまったのだろうか? 自分は何をしたのだろうか?

 必要とする情報をケイヤが受け取れたことを願うしかなかった。もし、自分が失ったものをケイヤが思い出せないのであれば――

「いや」 テフェリーは声に出して言った。自分自身と海鳥だけに向けて。

 慌てる時間ではない。これはひとつの問題に過ぎない――克服すべき障害がひとつ増えただけ。彼は砂浜へ、その古い足跡へと顔を向けた。ここには人がいる。人がいるなら、希望がある。

 テフェリーは海に背を向け、内陸へと歩き出した。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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