MAGIC STORY

兄弟戦争

EPISODE 01

メインストーリー第1話:終わり

Miguel Lopez
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2022年10月20日

 

アルガイヴ暦69年

 ペンレゴンに雪が降っていた。

 世界を終わらせた戦争が終結して五年、だが真の終わりなどはないと生存者たちは知った。機械の兵団、地震、何もかもを押し流す波、それでも春はやって来た。兵士たちはぼろぼろの制服をまとって遥か遠い黙示録の前線から戻り、米とパンを求めた。商人たちは物品を売買し、遠い岸へと船を出し、商品の対価を要求し、邸宅を建て、顧客の負債を集計した。衛兵たちは剣を手に、変わらぬ警戒心をもって目を光らせ街路や高級住宅街を見回った。農地は今も種まきと収穫を必要としていた。痩せた労働者たちは管理人の厳しい視線の下、未だ足を引きずりながら穀物を集めた。パンと乳の価格はじわじわと上昇し、家畜や狩猟の獲物は減少し、農地での労働で得た賃金を消費する場もなく、日暮にも彼方の南東の地平線が完全に暗くなることはなかった。テリシアでの人生は続く、しかし春と夏は次第に短く感じられ、温暖な月は温暖な週へと押し縮められ、そして冬にはペンレゴンに雪が降った。

 あの大破壊を目にした者は――そう、テリシアの誰もが目にした――その日が世界の終わりだと知った。そして翌朝目覚め、人生がまだ続いていると悟った。だがそこにあったのは決して良い変化ではなかった。人々はこれ以上悪くはならないことを願うのが精一杯だった。

アート:Lucas Staniec

 あの爆発から五年。カイラ・ビン・クルーグはペンレゴン庁舎の議室にひとり座し、消えゆく暖炉の炎の音に耳を澄ましていた。この日の予定は終了していたが、個人的な面会が最後に一件控えており、顧問官や議員たちは既に全員が雪道の中を帰路についていた。彼女とともに残されていたのはペンレゴン最新の元帳、国勢調査、遠征の報告――しわだらけの紙に薄めたインクで書かれた、悪夢の寄せ集め。孫のジャーシルの姿も見かけたが、家庭教師とともに夕時の勉強に向かわせていた。

 ようやく一人きりとなり、カイラは収穫量の報告書を手にした。数字は厳しいものだった。彼女は目の前の卓に広げられた、描かれたばかりの臓物海の地図を見つめた。

 何もない。

 かつて南東にあった肥沃なアルゴス島は消滅し、今や波に打たれる玄武岩の巨柱が幾つか立つのみだった。この最新の遠征は商人ギルドが要求したもので、彼らはペンレゴンと海の向こうの遠い王国とを繋ぐ古い交易路を復活させられないかと願っていた。だがかつて水や食糧の補給に用いた島々は見つからなかった。星の並びが変わったのか、それともその島々は海に飲みこまれてしまったのか。

 カイラは収穫量の報告書を脇に投げた。それが何を伝えているかは読まずともわかっていた――収穫量は昨年よりも少なく、昨年の収穫量は一昨年よりも少なく、そしてそれは世界が終わったはずのあの年まで続く。報告書は床を滑り、見下ろす窓の近くで止まった。わずかな隙間から吹き込む雪が融け、報告書に染みていった。

 雪。若い頃、あの人の塔を取り囲む丘陵を歩いたことが少しだけあった。山々、高山の森、風――冬には厳しい美しさがあった。ウルザのそっけない態度にそれを関連付けようとしたが、できなかった。実のところ、カイラは冬が嫌いだった。

 蒸気式の暖房装置は部屋全体を十分に温めるだけの熱を送り出していたが、カイラは骨に染みるような寒気を感じた。会議が彼女を暗い気分にさせていた。

「神々は遠く離れてしまった」 カイラは呟いた。神々を近くに感じたのはいつが最後だっただろうか? クルーグ、それも奪われる前の。空高く伸びる尖塔と混み合った市場。引き離された我が家。カイラは窓を閉じた。今日は懐古の念に心を掴まれていた。その記憶にはかすかな嫌悪があった。思い出の内容からではなく、思い出すこと自体に痛みがあった。それらはしばしば記憶に割り込んでくる。彼女が夢想を抱く理由はそれだった。

 扉が礼儀正しく叩かれた。前夜に準備していたにも関わらず、続いて感じたアドレナリンの苦い波は突然で漠然として、嬉しくはないものだった。

「はい?」 カイラはそう言ってノックに返答した。

 ひとりの若い従者が入室し、咳払いをした。

「失礼致します。最後の面会の方がお見えです」

「こちらに通して下さい」 カイラはそう言い、従者を下がらせた。「それと食事を持ってきて頂けますか。客人は空腹でしょうから」

 従者は頭を下げて退室し、そっと扉を閉じた。

 扉が再び開き、客人が足を引きずるように入ってきた。カイラが見ると、そこにはひとりの死者がいた。ぼろぼろで風に打ちつけられ、鼻と耳は凍傷で黒いまだら模様になっていた。高い頬骨の皮は氷に打たれて剥がれていた。数十年前には壮健で活気に満ちていた男は、白髪を生やして歪んだ骸骨へと痩せ細っていた。だがその両目には今も輝きがあり、声もまた聞き間違えようはなかった。

「ご機嫌よう、カイラ様。お変わりなく」

 カイラは礼儀正しくも空ろな笑みを返した。「タウノス。死んだものと思っていました」

 ウルザの元助手は頭を下げた。「ある意味では、そうでした」 その硬直したような物言いは初めてだった。若い頃のタウノスはいつも、ウルザとは対照的に温かい存在だった。そんな気さくな男性が、彼女の夫への敬愛と献身で損なわれてしまった。今やタウノスはウルザの映し身のようで、その髪までも同じように白くなっていた。

 カイラが顧問机の椅子を示すと、彼はよろめいて腰を下ろした。

「私がかつていた世界は変化しつつあります」 タウノスは外套を身体に巻きつけた。「こんなにも海の近くで雪を見たのは初めてでした」

「世界は変わってしまったのです」 カイラは彼の言葉を正した。

「ええ、その通りなのでしょう」 タウノスは顔をしかめた。「ですがそれは過去のこと――カイラ様に伝えるべきこと、示すべきものがとても沢山あります」 その笑みは皮膚をはぎ取られた頭蓋骨のそれだった。あの戦争が終わってから、カイラは同じような笑みをいくらでも見てきた。帰還兵の顔に、そしてラクダの荷車に高く積み上げられた死者の顔に。

「何ひとつ過去ではありません。貴方がペンレゴンを歩いて見てきた通りに」

 議室の扉が開き、タウノスの返答を遮った。従者がふたり、ミントの茶と小さくも湯気を立てるセイボリーのパイを手押し車に乗せて入ってきた。さしあたっての夕食。

「終わりの直前、私はあの方と共におりました」 タウノスはそう言い、パイをひとつ取り上げた。

「貴方はいつも夫の傍にいましたから」

「あの方は、とある悪魔がこの世界を手に入れようとするのを止めたのです」 うつむいて小声で、だが確固としてタウノスは言った。「あの方の弟は……」 タウノスは言葉を探し、苦い記憶の中からそれを見つけた。「その生物へと変えられていました。機械に融合して」 目に涙を浮かべ、タウノスは顔を上げた。「ウルザ様が行動しなければ、我々全員に同じことが起こっていたでしょう。あの方は我々を救って下さったのです」

 カイラは自分の茶を注いだ。「夫は私の息子の安全を守るだろう、貴方はそう言いましたね」 杯から顔を上げることなく、彼女はタウノスへとポットを差し出した。「ですが、以来あの子の顔を見ていません」

「彼は――」 タウノスは咳払いをした。「ハービンは配下にとっての模範でした――勇敢な将校であり、良い操縦士でした」

「あの子の死は良いものでしたか?」 カイラの声は平静で穏やかだったが、タウノスの耳を欠けさせ鼻を焼いた風よりも冷たかった。「あの子が模範であったのであれば、長子を戦争で失う苦しみからひとりでの多くの母を救ってくれたことを願います」

「操縦士として、彼は――」

「ハービンはずっと、父親を誇らしい気持ちにさせたいとだけ願っていたのです」 カイラはタウノスの言葉を切った。「あの子はずっと不安だったのです。ただの操縦士であって貴方のような工匠ではない。そのため父親はあの子を軽んじた。以前――子供の頃――ハービンは私に夢を語ってくれました。空を飛んでみたい、そして帰ってきたら、お父さんは空飛ぶ男の子がいることを大いばりするんだ、と。あの子は一度でも夫を喜ばせましたか、タウノス? 死ぬ前に、父親に誇ってもらえましたか?」

「ウルザ様は一度たりとて、ハービンを危険にさらしたいとは――」

「では何故息子を死なせるような戦争を起こしたのですか!?」 野火のように怒りを燃やし、カイラは鋭く言い放った。彼女は壁へと杯を投げつけ、砕け散る音が議室に響いた。彼女が自らを落ち着かせる間、タウノスはただ黙っていた。

「タウノス」 カイラは言葉を組み立て、音節の響きひとつひとつに意味をこめながら続けた。「はっきりさせておきましょう。貴方はウルザが起こした戦争に息子の参加を許すよう私を説得し、結果としてあの子を死なせた。それは決して許せるものではありません。私の厚情を取り戻す道程は、ここまでの辛い旅路の十倍は長く冷たいものとなるでしょう」

「心しております」

「それでは、ここに来た目的を話して頂けますか」

 タウノスは外套の中に手を入れ、丸めた油布を取り出した。彼がそれを卓上に開くと、年月の間に強張って変色した紙の束が現れた。数枚の端は水に濡れて損なわれていたが、内容は無事だった。それが何であるかをカイラはすぐさま認識した。

「設計図。あの人のものですね」

「幾つかは私が」 タウノスはそう返答した。「手放さずにいたものです。復讐者、粘土像――覚えておられますでしょうか? 羽ばたき飛行機械も、あらゆる様式のものが」 タウノスは油布から注意深くそれらの紙をはがし、卓上に広げた。「蒸気機関、通信塔、船、機械、装置――あの方の設計です。確かにほとんどは戦争のためでしたが、幾つかは、いつか訪れると願っていた平和な時代のために」

「パワーストーンがなければ、すべて役には立ちません。何か……全く新しい機械仕掛けネズミの工場をペンレゴンに作り上げるのであれば別ですが」 カイラは一枚の紙を振ってみせた。そこにはタウノスの手によるネズミの玩具の設計図が描かれていた。

 タウノスは笑い声をあげたが、カイラは冗談を言っているのではないと気付いた。彼は咳払いをした。「全くもってその通りです。そしてその件につきましては良いお知らせがあります。少数ですがパワーストーンの回収に成功しまして、さらなる数がある場所も知っております」

 カイラはタウノスと視線を合わせ、手指を組み合わせ、顎を乗せた。そして彼女は目を閉じ、溜息をついた。「貴方がたのような人はどれだけ穀物を収穫しようと、どれだけの魚を捕まえようと足りないのですね。いつもお腹を空かせている。続けなさい」

「崩壊以前、アルガイヴにはテリシア最大のパワーストーンの備蓄がありました。それらの倉庫は埋もれましたが、ウルザ様の書類の中に一枚の地図を発見したのです。私が所持している分のとこの設計図があれば、新たな機械装置を作り上げて掘削することが可能でしょう」 そう熱弁するタウノスは、カイラが知る若い頃の彼のように生き生きとしていた。乱れた髪と見開いた目は凍傷の鼻と相まって、まるでおとぎ話の中から出てきた生物のようだった――異様ではないにしても、荒々しかった。

「武器ではなく、道具だけに用います。それらのパワーストーンを用いて自動人形を動かし、採掘や収穫を手伝わせます。夜の街に明かりを点し、暖房器具を稼働させて冷気を防ぎます」 タウノスは前のめりになって続けた、「ペンレゴンを再建できるでしょう。ここに到着した際、貴女の衛兵が言いました――ペンレゴンの光を目にした者は誰であろうと歓迎する、と」 タウノスは議室の外、ペンレゴンの外壁を指さした。彼は港を見下ろす灯台のことを言っているとカイラはわかった。「あの光をテリシア全土に広げるために、私の知識と計画を提供致しましょう」

 カイラは返答することも、タウノスの手をとることもしなかった。

 あの大破壊の翌年は騒乱の一年だった。あの爆発はペンレゴンに大地震を引き起こし、街では石造りやレンガ造りの建物のほとんどが住人たちの頭上へと倒壊した。王や忠臣たちはペンレゴン港を見下ろす目もくらむような崖の上の砦、獅子の堂に避難していたがそれは海へと崩れ落ちた。続いて巨大な津波が起こって沿岸地区を襲い、街路という街路から瓦礫と生存者たちを洗い流してしまった。

 揺れが収まって水が退いた時、カイラはわずかに生き残った貴人のひとりだった。同盟の長の妻にして自身もひとりの姫である彼女に、街の統治という責務がのしかかった。長い六年が過ぎた今もなお、彼女は生き残りの街ペンレゴンの番人であり続けている。

「夫のような物言いをするのですね」 やがてカイラはそう言った。「あの人は世界をよりよい場所にすることだけを願っていました」

「もし、よろしければですが、ウルザ様からの伝言を預かっております」

 カイラは片眉を上げた。

「貴女に伝えてくれとの事でした。その――」 タウノスは茶を一口すすった。「そのままの私ではなく、私がなろうとした私を覚えていてほしい、と」

 カイラは笑い声をあげた。鋭く透き通ったその音は途切れがちの声をひとつに留めていた。それは心からの笑いだとタウノスは一瞬思ったが、続くカイラの言葉にそうではないと知った。

「あの人はまだ私のことを、自分が勝ち取った小さなお姫様だと思っているの? あの人は、あの人とその弟はずっと、世界の王子様になりたがっていた」 カイラはタウノスを指さした。「貴方はずっと知っていたのでしょうね。何せ結婚してからというもの、私よりも貴方の方があの人とずっと長い時間を過ごしてきたのですから」

 タウノスは黙ったままでいた。

「私の夫とその弟は人々に残酷な選択を強いたのです。顔を合わせて話すことができなかったために、ふたりは世界を燃やした」 彼女は卓へと手を伸ばし、タウノスが広げた設計図を一枚掴んだ。直立歩行する自動人形。クルーグの略奪と崩壊の後、ウルザが設計していた戦闘用機械のひとつ。カイラは夫の手による精密な線を見つめた。完璧な正確さで描かれた線。古いインクと上質な紙に表現されたその機械は、起動命令が発せられたなら紙から歩き出してしまいそうだった。

「今は、あの兄弟が残した灰から立ち上がらなくてはなりません」 彼女はそう言い、設計図を置いた。「私を見るのです、タウノス」

 タウノスは命令に従った。やせ衰えた頬を涙が伝った。

「泣くのはおやめなさい。貴方も私も、そして誰もが夫とその弟の影の中に生きていました。テリシアは彼らの戦争に全てを奪われました。私も父と息子と国を失いました。私の人生を形作った全ての善きものと優しきものを、あの人によって失いました」 彼女へ部屋全体を示すように身振りをした――剥げかけた壁紙、音を立てる蒸気管。外では雪が降り続いていた。「夫の死を喜びはしません。死はもう沢山見てきましたから、ですがあの人が姿を消したことには満足しています。そして、あの人の行いを私は許しはしません。覚えていてほしかったようになんて覚えていることもないでしょう。ありのままのあの人を覚えているでしょう」 カイラの声は鉄のように確固としていた。だが彼女は肩を落とすタウノスの姿に何かを見た――心の沈鬱からくる躊躇を。「タウノス? まだ私に伝えていないことがあるのですね?」

 タウノスはひび割れた下唇を噛んだ。再び涙が溢れ、だが彼はそれを振り払った。「ウルザ様は死んではおられません、カイラ様」

 カイラの額の血管が大きく脈打った。食いしばった彼女の顎は石すら砕いてしまいそうだった。タウノスが知るカイラは、クルーグのまばゆく美しい姫であるということだけだった。自分の向かいに座す女性の中の鉄に、彼は恐怖を覚えた。ウルザは世界を荒廃させたが、彼が最も傷つけたのはカイラ・ビン・クルーグだったのだ。

「今、何と?」 カイラの声に込められた怒りは、針のように鋭く研ぎ澄まされていた。

「ウルザ様は死んではおられません。あの方は……何か異なるものとなりました」

「異なるもの。それは、よりよい人物ということですか?」

「その……あの方が一体何になったのか、私にもよくわからないのです」 タウノスはそう認め、視線を落とした。そして彼はゆっくりと立ち上がり、設計図を回収して丸めはじめた。

「何をしているのです?」

「御暇させて頂こうかと」

 カイラはかぶりを振った。「なりません、タウノス。お座りになって」

 彼はその通りにした。

「あの爆発の後、夫の工廠から可能な限りのものを回収しました。機械、車台、石――あの人が膨大な数の自動機械の製造に使用していたものです。ここに残る誰もその使用法はわかりません。ですが貴方がいらしてくれて状況は変わりそうです」 カイラは持ち物を集め、タウノスを扉まで導いた。「明日、偵察隊長のミュレルに倉庫へと案内させます。貴方が作業を開始できるように」

「感謝致します、カイラ様」 扉で立ち止まり、タウノスはそう言った。

 カイラは唇を固く結び、わずかな笑みすら見せなかった。「長い道になりますよ、タウノス。お行きなさい。寒いですよ」

 タウノスは従者の後を追い、蝋燭が点された闇へと去った。カイラは再び独りとなった。


 数か月遅れの春が訪れると、ペンレゴンはふたたび活気ある街となった。冬の雪に白く染まったカー山脈の鋭い山頂が、消えない霧を貫いて見えていた。かつて山の斜面を覆っていた古の森は戦時に燃料や炭のために伐採されたが、切株の間に新芽が伸びていた。雪解け水を湛えた小川は山々を流れ下り、ペンレゴン郊外の原野に注ぎ込んで古い防衛用の塹壕を満たし、人工的な細長さをもつ新しい湖を作り出した。石と金属と焼かれた地面が地獄のような様相を織りなしていたかつての戦線は、今や優美な野の花が咲く草の海となっていた。その花々の下には無数の、だが決して忘れられることはない死者が眠っている。鳥は群れをなし、かつてウルザが立てて今や崩れつつある通信塔に巣を構えた。

 カー山脈のふもと近く、ペンレゴンの南へと伸びる一帯はあの戦争の機械が最も沢山倒れた場所であり、不毛の大地がそれを示していた。腐食した金属の巨体が黒色の水たまりの中で傾き、それを覆う苔は恐ろしい形状に変異して決して凍らない液体を滴らせていた。そういった機械の屍の内に越冬の巣を作る鳥はなく、分厚く油の浮いた水を飲む獣もいなかった。残骸の周囲には悪臭が漂い、ペンレゴンの斥候たちは広域偵察の際に出くわしたそのような残骸の周りに印をつけるように気をつけていた。

 カイラはタウノスを伴い、ペンレゴンの新たな内部城壁の上を歩いていた。そして街を守るためにその付近で行われている胸壁工事の様子を見下ろした。何百人という労働者が古い石壁の隙間を埋めようと勤しんでいた。それはあの大破壊が大地を揺らした際、全体がペンレゴンの古い掘へと滑り落ちてしまっていた。かつてはペンレゴンの技術者たちの技術を力強く見せつけていたその壁は数分のうちに崩れた。冬の勢いが衰えはじめるまで、再建の優先度は低いものだった。だがこの春が運んできたのは暖かな気候と花々だけではなかった――また別の脅威がペンレゴンに迫っていた。

 この早朝、長距離偵察隊の分隊が街に戻ってきた。その帰還を予想していたカイラは城壁で彼らを出迎え、報告を受けた。タウノスは工廠の夜番を締めていたが、急ぎ彼女の呼び出しに応じた。そして土塁の上に雑多な装いの三人が集った。カイラは長ズボンに防寒用の綿入り上着、タウノスは工廠のエプロン、そして偵察隊長ミュレルはくすんだ色のポンチョの下に泥だらけの制服をまとっていた。ミュレルは今朝がた原野から戻り、まだ布に包まれた胸当てと剣を帯びていた。

アート:Nicholas Elias

「数はどのくらいですか?」 カイラは隊長へと尋ねた。

「できるだけ正確に見積もって一万です。行軍の先頭は丘陵地帯に達していますが、最後尾はまだ宿営を出発していません。列は細く、せいぜい五人が並んでいるのみです」

「その中でも戦士の数は?」

「見分けはつきませんでした。ほぼ全員が何らかの武器を手にしていました。戦時に使われていた棍棒、槍、古い兜割りや対機械槍まで。二、三百人が馬に騎乗しています」 ミュレルは肩をすくめた。「本物の軍隊ではありませんが、多くが鎧を着ていました。私が見たのは古いファラジの鎧、コーリスの胸当て、アルガイヴの板金鎧、ヨーティアの鎖帷子すらありました。ご想像の通りです――組織化こそされていますが、統制されてはいません」

 カイラは眼下の建築現場を見つめた。労働者や技師たちがいくつかの機械と共に作業に勤しんでいた。タウノスの公用自動人形、その最初期型。彼らは滑車を用いて、回収可能である巨大な石塊を浸水した掘から引き上げていた。他の班は以前に回収された石塊、伐採したばかりの木材、砂利と土の籠を壁の裂け目まで運んで隙間を埋めていった。カイラの命令により、この作業はペンレゴンの内壁に沿って伸びていた。昨年からの進捗は遅々としていたが、タウノスの新たな自動人形が加わったことで修復の速度は加速していた。

「今月末までに壁の修復を終えなければ」 カイラの思考を読んだかのように、タウノスが言った。

「街の防衛はこの作業にかかっています。成し遂げるために必要なことがありましたら、評議会に知らせてください。ミュレル隊長」 カイラは偵察隊長へと向き直った。「その行軍に軍旗のようなものは立っていましたか?」

「両脇に旗を立てておりました。ですが最も多く見られたのは黒い無地の旗です。また彼らは機械の残骸をも掲げておりました」

「残骸?」 タウノスが尋ねた。

「自動人形の部品です」 ミュレルはそう言い、顔をしかめた。「それと『赤毛の女』の造物も。檻に入れて、あるいは針金で縛り付けて」

「人体改造機どもか」 タウノスが言った。「アシュノッドの忌まわしい作品だ」

 カイラも多少ではあるがその名は知っていた。戦時中にミシュラのもとで働いていた工匠。タウノスが捕らえられていた時には彼を拷問し、噂が本当であれば恋人関係にもあったという。

「タウノス」 カイラは老いた工匠へと呼びかけた。「ここの自動人形――貴方の公用機ですが。彼らをペンレゴンの防衛用に転換することは可能ですか?」

 タウノスは眉をひそめた。「つまり、戦えるかどうかということですか?」

「ええ」

「できます。少し時間を頂ければ、武器を振るえるよう改造できるでしょう」 タウノスはためらって続けた。「やりましょうか?」

「今はまだ結構です。とはいえ準備をしておいて下さい」

「部下の工匠たちに指示しておきましょう」

「隊長?」 カイラはミュレルに向かって言った。「あなたも斥候たちも休息をとるように。明日からは行軍を監視し、動向を毎日報告して下さい。それがペンレゴンに向かっているのか、それとも他の何処かなのかを把握する必要があります」 カイラは南の山々を見つめた。雪をかぶる山頂の向こうに、軍勢が集まっている。一か月もすれば山道の雪は融け、それから間もなくして寄せ集めの行軍はきっとペンレゴンの城壁にやって来るだろう。

 数年ぶりに、カイラは再建という重い負担からくる鈍い痛み以上のものを感じた。もっと鋭く、苦いものを。昨晩、せいぜい一時間寝ただけだというのに、その感覚は夜明け前に彼女を寝台から叩き起こしていた――恐怖が。


 二か月後。あの無秩序な行軍はペンレゴン郊外の泥の原野を踏み荒らしていた。長靴、馬、列をなす荷車が通過する音が低く響いた。行軍からは砂埃ではなく遠い叫びが上がり、沢山の歌と拍子がそれらと競い合った。人と獣の叫びと喧噪、祈りや苦悩、飢えや抗議、喜びからあがる声――あるいはカイラの耳には意味のない発声。それは譫妄、大混乱、争いと恐怖と解放の音だった。ミシュラの軍隊がクルーグを襲撃したあの朝の記憶がカイラの心に蘇った。生まれた街が死に、何かほかのものと化す音――廃墟となり、墓所となり、象徴となる音。

 一万人というのは控え目な見積もりだったとカイラは気付いた。自分が行軍を偵察していたなら、十万と数えていただろう。人々の列は果てしなく、圧倒するような長さで続いていた。黒色をまとう列が南からうねり、ペンレゴンとカー山脈を挟む川辺の草原を横切った。その行軍に彼女はアリの行列を思い出した。古い巣から新しい巣へと移動する際、その中に女王を隠しながら、働きアリと兵隊アリが途切れることなく進む。この行軍も同じなのだろうか? 女王は誰で、兵隊はどこにいる?

 偵察隊長はこの大軍を軍隊と呼ぶか移民と呼ぶかどうかを決めかねており、カイラもそれは同感だった。ミュレルの望遠鏡を借りて見ると、そこには老人も子供もおり、大部分の人々は拾い物や間に合わせの鎧をまとっていた。ぼろ布だけを身に着けている者もいた。その全員がただ勢いによって組織され、波打ちうねる塊となって行進している。若い頃に見た難民の列のように、この逆巻く人々の川はひとつの生き物であり、唯一の原動力は一緒にいて動き続けることだった。しばし行進の観察を続けたカイラは、幾つかのパターンに気付いた。馬の乗り手たちが長い列へと急いで伝言を届け、水と予備の毛布を配る。そしてあまりにも疲れ果てた、あるいは自力で進めなくなった者たちを行軍の後続く長い荷車の列へと運んでいく。乗り手たちは牧畜犬が家畜を導くように、巨大な列を維持し続けていた。

「カイラ様」 ミュレルがカイラへと呼びかけ、指をさした。黒い衣服をまとった数人の乗り手が列から離れ、ペンレゴンの門へと向かってきていた。わずか五人だが、全員が武装していた。ひとりは長い矛を帯びていた――戦時に使われた古の対機械用の様式だ――その細い鋼の先端には黒色の旗がひるがえり、下には一枚の白布が結び付けられていた。

「使者ですね」 カイラが言った。「隊長、偵察隊を連れてきて下さい。行軍の者たちに会いに行きましょう」

 つぎはぎの壁から降りて春のペンレゴンの混雑した通りへ入ると、誰もが遠くの行軍を見ようと城壁に向かって急いでいた。カイラと斥候たちは真昼の人混みを押しのけて進んだ。人々はカイラと護衛を見ると声をあげ、疑問や激励を叫んだ。ほとんどの人々はペンレゴンの貴婦人から視線を向けられ、見つめられるだけでも十分だった。だが熱心な者たちは勇気づけられて手を伸ばした。自分が率いた人々にどう見られているかをカイラは知っていた――生ける殉教者、世界を殺した者の忘れ去られた妻であり、その死の陰で生き残りを率いて避難所を切り開いた。穏やかではなくとも安全な場所を。人々が自分をどう思っているか、それをカイラは密かに憎んでいた。自分は忘れ去られた、先立たれた妻というだけではないのだ。とはいえ門に向かう中、歓声を上げる人々、希望や恐れに満ちた表情を過ぎるたび、決意という一本の鉄釘が彼女の奥深くに突き刺さった。どのような敵がその前に立とうとも、ペンレゴンを守ってみせる。

 門の周囲を開けるには叫びを上げ、人を押しやらねばならなかった。だが斥候たちはカイラを最前へと案内することができた。そこにはペンレゴンに入るための小さな門が――遥かに大きな石と鉄格子の中に取り付けられた扉が――開いていた。カイラは身をかがめて扉をくぐり、衛兵の列が待つ石畳の道に出た。ミュレル隊長がカイラの隣に急ぎ、斥候たちも続くよう大声で命令した。カイラの従者はその場に残って彼女を前に進ませた。黒色の服を着た行軍の使者たちは、幅わずか数ヤードの更地の上で彼女との対面を待っていた。

 彼らの悪臭に、カイラは反射的に鼻へと皺を寄せた。だが努めて気を取り直した。使者たちも分かっているのか、気にした様子はなかった。彼らは鞍にもたれ、カイラの背後にそびえる街を睨みつけて待った。

「ペンレゴンへようこそ」 カイラは互いを隔てる空間へと声を張り上げた。使者たちの背後で低く響く行軍の音は嬉しいものではなく、その背景音はカイラの首筋の毛を逆立てた。

「三つの条件を守って頂ける限り、誰もが城壁の中へと受け入れられます。武器を手放すこと。自活すること。ペンレゴンの幸福に貢献すること」カイラはそう言い、使者の中でも指導者格は誰だろうかと探ったが、役職の印や装飾品に手がかりは見つからなかった。彼らは印も色合いも鎧も様々に交えてまとっていた。礼儀作法や旗印、一家の印章といったカイラの古い知識は――過ぎ去った世界において識別となっていたものは、彼女の混乱を助長するだけだった。カイラは降下部隊の鎧をつぎはぎで身に着けた男へと視線を定めた。体格と装備、そして態度からこの人物が彼らの代表者だろう。

「我々は悔悟者だ」 最初に口を開いたのは、鉄で補強した上着をまとう男だった。五人の中でも年長であり、過酷な人生を過ごしてきたと見てわかった。薄い髪には白いものが混じり、蜘蛛の巣状の浅い火傷の間から黒い髭を生やしていた。カイラは以前にも、あの戦争の古参兵に同じような傷を見たことがあった。終わりの時にあの場所にいた者。機械同士が恐ろしいエネルギーの武器をぶつけ合ったあの時の。

「そして正しき巡礼者でもある」 男は続け、カイラではなくその背後、ペンレゴンの城壁に並ぶ人々や衛兵たちへと語りかけた。「我々はテリシアに生き、この大地より機械の汚れを清めようとしている」 彼は胸壁を見上げ、黒色の石材に沿って視線を動かし、そこに立つ一人一人を順番に見つめた。「我々はコーリスを解放し、鉄の巡礼のさなかにある。お前たちを同胞と見込み、和平と要請を携えて来た。機械への正当な憎悪と恐怖を持つ者は誰であれ、我らの聖戦に加わって頂きたい」 男の声は明確で確固としていた。指導者の声であり、剃刀の刃のような鋭さがあった。彼はカイラに対してではなく、ペンレゴンの民へと語りかけていた。その声には冷酷さがあり、人々もそれを感じ取ることをカイラは願った。「我々はお前たちと同じ――機械の悪魔と、その創造主がもたらした破滅を生き延びた。我々の多くはあの戦争にて敵対する側で戦った。だが戦争は終わり、今や共通の人間性を理解している。怖れることはない――我々の一員となれ」

 使者たちの一人、黒い旗を持つ男が馬を前に進めた。カイラの斥候たちは後ずさり、剣の柄に手をかけて身構えた。その旗持ちは馬をその場で旋回させ、黒旗を高く掲げてペンレゴンへと敬礼した。他の乗り手たちは歓声をあげ、三人は自分たちの栄光を叫んだ。

 壁に並ぶ詮索好きな群衆からの歓声はなかった。代わりに、遠くの行軍の音がそこにあった。強風が巻き起こって黒い布を鞭のように鳴らした。カイラは額に皺を寄せて旗を見つめ、それが単なる黒い無地の布ではないと気付いた。そこには遠目では見えないほど濃い青色で、二つの円が並んで刺繍されていた。

「カイラ様」 男はついにカイラへと直接語りかけた。一瞬、彼女は相手が自分の名前を知っていることに驚いた――彼らは盗賊や略奪者、あるいは斥候たちによれば今やテリシア内陸を支配しているらしい西方の将軍たちのひとりであると彼女は推測していた。「クルーグのラディックと申します」カイラの耳にその言葉は平坦な響きで、南のヨーティアから北東のアルガイヴまでいずこかの出身とも言えそうだった。「私のことはご存知ないでしょうが、第二次スワルディ戦役においてはお父上に仕えておりました」 彼の話し方はカイラがよく知るものだった。庶民出身の将校らしい、無骨な礼儀正しさ。全盛期の頃の父親もそうだった――無骨だが礼儀正しく、統率力と秩序をよく心得ている。

 この男にどこか親しみを覚えるのはそれが理由だったのだ。

「ヨーティア人なのですか?」 カイラはそう尋ねた。

「私は、そうでした」 ラディックは頷いた。「クルーグの略奪の後、カー山脈の南方を放浪しておりました。そしてコーリス人に955年のトマクル戦役へ徴集されるまでそこにおりました」 彼は真鍮の帽子をかぶった男へと頷いてみせた。「昔馴染みのアラーとはその塹壕で出会ったのですが、次に会ったのはあの大破壊の後でした」 ラディックは火傷が許す範囲で笑みを浮かべた。「負けた後は終戦までファラジの収容所にいましたよ」

「何という旅路でしょうか」 カイラはそっけなく言った。

「今を生きる誰もが同じように苦しんできました」 ラディックは頷いた。

「では、これは一体?」 カイラはそう尋ね、遠くの行軍を指さした。「昔の兵士を集めてまた別の軍隊を? それとも何か別のものですか?」

 ラディックは顔を上げ、カイラではなくその背後の壁を見上げた。この小さな頂上会談を見守る群衆の視線を意識するかのように。「率直に言います、カイラ様。我らは人道のための戦士です。魔術師と生きざるもの、機械の悪魔と戦う聖戦士なのです」 ラディックは左手を心臓部分にあてた。その指の何本かが短く切断されているとカイラは気付いた――戦傷だろう。「我々の聖戦は遥か北、ギックスの地を清めることから始まりました。油と機械の汚らわしい寺院を一掃したのです。そしてかつてのファラジ帝国であった砂漠を進軍し、正当なるクルーグの廃墟を抜けました。コーリスを冷酷な機械の将軍から解放し、多くの者が我々の大義に加わりました。今は『鉄の塔』を目指しています。あの護国卿が」 ラディックは軽蔑を込めてウルザの古い称号を口にした。「かつてその機械の悪魔を世界へと生み出していた場所。我々がここで願うのは食糧と水、そして分け与えて頂ける分の物資だけです。また、我が司祭が貴女の街路に歓迎され、人々に語りかけて信心篤き者を召集することを許して頂ければありがたい」

「鉄の塔?」 ラディックの要請を無視し、カイラは尋ねた。

「知っているのか?」 言葉を和らげることなく彼は尋ね返した。

 彼はウルザの古い塔のことを言っているのだ。「昔、一度だけ連れて行かれたことがあります。ですが道はわかりません。西か南西の山のどこかに巧妙に隠されていました。何せ、濃い霧がその辺りを覆っていましたから」

「夫君は人を信用しなかったと」

 カイラは苛立った。「ええ、ウルザは人を信用しませんでした」

「では、我々と共に来ては頂けないでしょうか? 我らに道を示し、兵を貸して頂きたい。共にこの世界から機械の汚れを一掃しようではありませんか」

 カイラはラディックの後方、遠くにゆっくりと動く行軍を見つめた。人道の塊。誰もが何かを背負っていた――重い荷物、武器、歩けないほどに弱った老人やまだ歩けない小さな子供。あの戦争がもたらした災禍は大きかった。哀れな人々。カイラはもはや彼らを怖れてはいなかった――理解していた。機械に対するラディックの憎悪は彼女自身が抱くものと同じで、ただ彼は怒れる血に従って凄惨な終わりをもたらそうとしている。一方のカイラには導くべき街が、再建すべき世界がある――満たすべき墓所ではなく。

「それはできません」 行軍からカイラは目をそむけて言った。「私はペンレゴンの摂政です。戦士でも、名高い指揮官でもありません。ですが要望には喜んで応じましょう。こちらには物資や食糧があり、職人もいます。皆さんは自由に街へと避難して頂けますが、兵士の立ち入りはご遠慮願います。同じく、武器の持ち込みもお断り致します」

 ラディックは馬上で可能な限り頭を下げた。「ご厚意に感謝致します。タル神は貴女の人道を忘れないでしょう」

 タル。太陽に関わるヨーティアの古い神。カイラはその名を知ってはいたが、大規模な教団や建造物があったかどうかは思い出せなかった。世界の終わりはあらゆる類の馴染ないものを隠された隅からふるい出していた。

「貴方がたの探索行は私達すべてのためのもの」 礼儀正しく、中立的にカイラは言った。「立ち寄って頂けたことをペンレゴンは嬉しく思います」

 彼女の外交的物言いをよく理解し、ラディックはにやりとした。彼は舌打ちで馬へと指示を出し、踵を返した。もう四人も続いた。そして振り返ることなく、彼は短い指の手を空へ掲げてゆっくりと振った――あるいは敬礼か。別れの挨拶、今のところは。

 カイラも自身の従者に付き添われ、門をくぐって安全なペンレゴンへと戻った。壁上の群衆は興奮や好奇心、虚勢、恐怖を雨あられのように口にしていた。それは結果を知ることなく下された決定が立てる音。自分は正しい決定をしたと、そして自らの慈善心が間違っていたと証明される日が来ないことをカイラは願うだけだった。

アート:Dominik Mayer

 平和は一日持続し、悲鳴の中で終わった。カイラは最初、その悲鳴を直接聞いてはいなかった――彼女はペンレゴンの漁業組合との会合で忙しく、漁網の切断に関する船長同士の糾弾と告発を仲裁していた。大地に依存する狩猟や農産物とは異なり、魚介はあの大破壊に痛めつけられはしなかった。戦前は貧しかった漁師たちは、戦後には法外なほどの富を得ていた。世界の大半が尽きかけた蝋燭のように痩せ細る中、船員たちは魚という黄金を収穫するために長時間働き、激しく争った。とはいえ造船所での喧嘩は、契約や漁業権や船団の材木を巡るこれらの口論ほど血なまぐさくはなかった。カイラがお手上げという仕草をしたその時、タウノスが議室へと入ってきた。

「ああ、ありがたい」 カイラは気にすることなく言った。叫びを上げる組合長たちは彼女の声など聞こえていない。「惨めな気分から厄介な気分へ。こんなに甘美なことはありません」 カイラは立ち上がって工匠へと急ぎ、議室から出るよう身振りで示した。口論する組合長たちを振り返ったタウノスに、彼女は言った。「あの人たちは大丈夫です。どこかで決着がつくでしょう。あるいはその前に衛兵たちが介入してくれます」 カイラはタウノスの腕をとり、彼とともに廊下を進んでいった。そこには危険な海峡を航行する水先案内人のような決意があった。彼女はペンレゴン内陸を見渡す細い窓の前で立ち止まった。霧に覆われたカー山脈が見えていた。

 タウノスの物腰にはどこか強張ったものがあり、カイラの安堵は懸念に変わった。それでも彼女は上機嫌な声色を保ち、それは石造りの廊下に響いた。「そろそろ教えて頂けますか、貴方を工廠から引き離すほどの重要事とは何なのかを」

「事件がありました。タル教団員の一団が、市場で私の公用機械の一体に襲いかかったのです」

 カイラは思わず毒づいた。「その機械は――」

「いいえ。街中で使用している型には戦うための訓練も武装もさせておりません。立ち向かうことはしませんでした。ですが衛兵が」 タウノスは溜息をつき、近くに誰もいないことを確認して続けた。「巡礼者が二人死亡し、衛兵が一人負傷しました。そちらは生きています。近辺にいた巡礼者は全員が逮捕されました」

 カイラは窓へと近づいた。この高所から見る光景に何ら変わった様子はなかった。行軍はペンレゴン郊外の原野で遅くなり、あるいは停止していた。細く灰色をした焚火の煙が立ち上り、風に吹かれていた。ペンレゴンじゅうの煙突の先端からは、調理の火や工場が発する煙が漂っていた。人々は仕事に勤しんでいた。普段通りの春の夕時、とはいえタウノスからの知らせはその光景を不吉な汚れに染めていた。

「教団員も襲撃を目撃したのでしょうか?」

「その場には何十という人々がおりました。行軍に知らせが伝わっていなければ、その方が衝撃ですよ」

 カイラは再び毒づいた。「教団員たちは公用機を一方的に攻撃したのですか?」

「そうです。彼らはそれを悪魔と呼びました。そして膝関節のひとつにかろうじて損害を与えましたが、重大なものではありません――日没前には修理できるでしょう」

「わかりました。この件に関してはなるべく広まらないよう努力しましょう。私は――」

 叫び声が庁舎に響き渡った。扉が勢いよく開かれ、固い靴音が一階を駆けた。カイラは懸念の表情でタウノスを、そして廊下の曲がり角の先、階段の方角を見つめた。角を曲がってやって来るものへと、ふたりは身構えた。

「カイラ様! どちらにおいでか!」

 カイラは安堵の息を吐き、壁に軽く背を預けた。向かってきているのはミュレルだけだった。

「ここにいます」 カイラは声をあげて返答した。彼女はタウノスの肩へと手を伸ばし、軽く叩いた。「平静に、です」 彼女は小声で言った。タウノスは頷き、握り締めていた拳を解いた。

 偵察隊長ミュレルが、息を切らしながら角を曲がって現れた。斥候が二人その後に続いた。両目は爛々とし、頬はアドレナリンで赤く染まりながらも、ミュレルの行動は冷静だった。「カイラ様、安全な場所へお連れしなければなりません」 息を整えながらミュレルが言った。「行軍が街に敵意を見せつつあります」

「何ですって?」 公用機に続いて行軍が。ジャーシルは何処に? 家庭教師のひとりと一緒にいるのは確かだ。連絡を送って、あの子を近くに――

「カイラ様」 呼びかけに彼女ははっとした。ミュレルは窓の外、遠くの焚火を指さした。「ラディックとその部下が十人程、全員が武装して門へと向かっています。斥候からの報告によると戦闘態勢のようです」

「つまり、彼らは知っていると。タウノスの公用機は同じ機械ではないと伝えなければ――」

「カイラ様、どうか。上の階へお連れさせて下さい。斥候たちにはここを封鎖させて――」

「彼らにジャーシルを探させて、ここへ連れてきてください。私は隠れはしません、今はまだ」

 ミュレルの表情に懸念が走り、カイラはそれを振り払った。

「隊長、ここは私の街です。ペンレゴンが脅かされている時に隠れはしません」

 ミュレルは斥候二人へと頷きかけた。彼らは敬礼を返し、ジャーシルを見つけるべく走り去った。カイラは彼らの姿が消えるのを見つめ、そして窓へと向き直った。

 沈む太陽がカー山脈の背後で温かに燃え、ペンレゴン郊外の原野を気の早い黄昏に染めて黒い行軍を隠した。カイラが見つめる中、調理の炎が闇夜のかすかな星のように点々と輝いた。

 行軍の人数はペンレゴンの戦士よりも多い。街の兵の数は? 百人ほどの斥候と、衛兵は千人もいない。徴集命令を出すことはできるが、それでは訓練を受けていない人々を戦線に向かわせることになる。ペンレゴンの強みはその孤立性にある。それが成り立っていない時には、そして外敵が街を脅かした時は――

 いや、いい。自分の選択肢はただひとつ。若い頃にクルーグを離れ、二度と戻っていない。故郷は廃墟と化したままなのだ。ペンレゴンから逃げ去ることはしない。

「タウノス、公用機に武装をさせなさい」

 その言葉にタウノスは後ずさった――その小さな動きは彼の驚きを物語っていた。「そうして良いものか、私には判断が――」

 カイラの両目が燃え上がった。ウルザを駆り立てていたものと同じ、冷静で効率的な非情さで。眩しく、容赦なく。

「タウノス、私も世界の終わりを生きてきました。前線にはいませんでしたが、貴方にしてほしいと頼んでいることが何なのかはわかっています」 カイラは手を伸ばし、タウノスの上腕に触れて握り締めた。若い頃、そのような仕草は彼の全身へと活気を走らせた。今は圧力があるだけだった。カイラは続けた。「私はウルザではありません。貴方に願うのはペンレゴンとその民を守ってほしいということです。それ以上でもそれ以下でもありません」

 タウノスはカイラの手に触れ、力を込めた。

「ありがとう」 カイラは手を放し、偵察隊長へと向き直った。「ミュレル?」

「斥候たちには既に呼びかけております。衛兵も昨日から警戒態勢にあります」

「民兵を徴集します。武器庫を開け、槍を持てる者は全員城壁へ」

「彼らはあまり戦力にはなりません」

「わかっています。ですが数が必要なのです。戦争経験のある者を探し、そうでない者たちを率いらせるのです。彼らは自分たちの街を守るために戦うでしょう。行きなさい」ミュレルはカイラの命令を伝えるべく去った。カイラは窓から振り返りはしなかった。振り返ったなら、恐ろしい新章が始まる。古き世界の暴力が戻ってくる。ペンレゴンは脆い場所だ。その城壁は今日その時まで必要とされていなかったのだから。これが終わったなら、ペンレゴンの城壁など過去の遺物になってほしい――カイラはそう願った。古き世界の最悪を戒めるものに。

 クルーグは朝に陥落した。苦く痛いその記憶がカイラを刺した。もやがかった春の曙光、街の壮大な塔の透き通ったガラス窓には新鮮な朝露がついていた。赤レンガ通りは昨晩の雨でまだ湿っており、朝の熱に湯気が立ち始めたばかりだった。息子を身籠っていた彼女は街から逃げた。タウノスもそこにいた――彼はカイラが無事に逃げるために同行し、一方でクルーグの民は死んでいった。

 カイラは窓から振り返り、タウノスへと言った。「とても残念です。世界はさほど変わってなどない。過去から学びを得たと思っていました、今までは」

 タウノスは日誌から顔を上げた。彼は公用機を武装させるために必要な手順を書き留めていた――合図、命令、着想。彼は顔をしかめ、眉間に皺を寄せた。「お言葉ですが、人がいる限り世界は決して真には変わらないのではと思うのです」

「それが間違いであることを祈ります。公用機をペンレゴンの防衛に使用できるまでには、どれほどかかりますか?」

「工匠たちへの指示に一時間」 タウノスの声にある震えはカイラが初めて聞くものだった。「公用機への適用は簡単なものです――夜には十体ほどを準備できるでしょう。朝には百体を」 その口調は筋ばった肉を噛む男のようだった――やらなければならないことを辛抱強くやり遂げる。

「わかりました。ではそれらはその後、海へと向かわせましょうか?」

 一瞬かかったが、タウノスは彼女が冗談を言っているとわかった。彼は笑みをうかべ、カイラは笑い声をあげた。短く鋭いその笑い声には不安もあったが、心からのものだった。ひとつ頷き、タウノスは仕事を始めるべく急いだ。

アート:Francisco Miyara

「機械の悪魔を隠していたとは」 鉄格子の門から現れたカイラへと、ラディックは吼えた。鞍の上に身を屈め、口を半ば開け、夕日を背負ったラディックの影は獣のようだった。カイラは大型の猫科の獣の物憂げな仕草を思い出した――力を抜いてはいるが、危険。ラディックの声は短剣の刃のように冷たく、そして黒色の鎧をまとう騎兵が十人、彼を挟むように並んでいた。

「我々の信仰篤き者が機械を排斥しようとしたというのに、貴女の衛兵はそれを殺した」 ラディックは歯の間に息の音を立てた。「彼らの子供の泣き声が聞こえないというのか? ヘルストーンの音に遮られて聞こえないというのか?」

 ヘルストーン? 街灯のことだろう。前の冬にタウノスは工匠たちを用いて街灯に砕けたパワーストーンの細片をはめ込んだ。それは冬の最悪の嵐の中でも、ペンレゴンに光を点し続けた。街の静かな界隈では、それらが立てる音が聞こえる。ぞっとする実感がカイラの背中を這い上ってきた。

 カイラはタル教団の黒旗が街中にひるがえる様子を見た覚えはなく、街路の伝道者が説く太陽神の教えも聞いたことはなかった。だが自分も、街の全てを把握しているわけではない。カイラは尋ねた。「皆さんは、いつからペンレゴンの中にいたのです?」

「この街は救いようがないとわかる程には。信仰篤き者の多くは何年も前にやって来ておりました。避難場所を求めて、貴女がたこそは機械の危険を知っていると考えて。彼らは恐怖とともに見ていました。護国卿の子飼いを迎え入れ、更なる機械を動かすために働き、ペンレゴンの機械の悪魔を訓練して命令に従わせる。ペンレゴンは悔い改めることはない、信仰篤き者たちは危険をもろともせずに辛い道を行き、我々に伝えてくれた」 ラディックは険しい顔で睨みつけた。「貴女も、貴女の民も愚者の集まりだ。殺人鬼ウルザとミシュラがそうしたように大地を傷つけ、新たな壁を築いている。聞かせてほしい、カイラ様――何故、古き世界を殺したものにしがみつく?」

「公用機はそのような機械とは違います。ウルザとミシュラの死とともに、彼らの技もまた死にました。私たちが築いているのは――」

「新たな世界の新たな悪魔だ」 ラディックは彼女の反論を遮った。彼はカイラの背後、ペンレゴンを見つめて言った。「この街を救うことはできない」

「貴方がたの助けは必要ありません。塔への旅に必要な物資は提供致しますし、長い旅を経てきた方々を援助するのはやぶさかではありません。ですがお引き取りください。ペンレゴンは貴方がたを必要としておりませんし、こちらに戦う気はありません。私たちに手出しは無用です」

「機械を追放しろ」 ラディックは彼女の言葉を無視した。そして城壁の上、衛兵や怯える民兵へと呼びかけた。「機械の悪魔を海に捨て、降伏し、タルの赦しを請え。白の塔へ進軍し、ばらばらに叩き壊せ。さもなくば夜明けが来たらペンレゴンをそうしてやろう」

 ミュレルが剣を抜きかけたが、カイラは手を挙げてそれを制した。ミュレルは剣を鞘へと戻し、ラディックを睨みつけた。

「ペンレゴンの民よ」 ラディックは吼え声をあげた。「お前たちはまだ敵ではない。機械の悪魔の呪いを捨て、機械なき世界を想像できない支配者を捨てる者は――我々の仲間となるだろう」 彼は仲間のひとりに手を伸ばし、一本の槍を受け取った。「機械魔法の時代は終わった」 ラディックはその言葉とともに、槍を頭上に掲げた。「時代とともに死すか、我々とともに生きるかだ!」

 この時ミュレルは剣を完全に抜いたが、ラディックは襲ってはこなかった。そうではなく、彼は自分とカイラとの間に槍を投げた。それは石畳を滑って跳ね、彼女の足元で止まった。

「夜明けまでに決めるんだな、カイラ様」 ラディックはそう言い、馬を旋回させて騎兵たちへと口笛で合図をした。一斉に彼らは馬を駆り、宿営へと戻っていった。

「射手に撃たせますか?」 ミュレルが尋ねた。

 ペンレゴンへと続く石畳の道を寒風が吹き抜けた。その先、春先には鮮やかに萌えていた原野は踏み荒らされてぬかるんでいた。タル教団員の行軍は黒い川となって原野に広がり、彼らの焚火が燃えていた。カー山脈はその先に、灰色の姿でそびえていた。

 それは世界の終わりだった。工匠術と機械の時代は終わり、夜明けとともに新たな時代はテリシアを切り裂く。

「矢はとっておきなさい。明日必要になるでしょう」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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The Brothers' War

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