MAGIC STORY

兄弟戦争

EPISODE 09

メインストーリー第5話:冷酷に、必然の運命に

Miguel Lopez, Jeff Grubb
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2022年10月26日

 

アルガイヴ暦4562年

 冷たい金属の棺の中。テフェリーは上半身裸で横たわり、自らの呼吸を数えていた。転移まではどれほどの時間があるのだろう? 長くて一分、だがそれは永遠のようにも感じられた。

 棺の蓋が素早く二度ノックされた。覚悟はいいかとケイヤが尋ねているのだ。

 試行には一か月と少しを費やした。一時間、一日、一週間だけ遡行し、何も変わっていないことを確かめた――ケイヤとサヒーリが数日前に記して仕込んだ秘密の文章は、現在でも全く同じ内容で報告された。そんな一か月を経た今もなお、覚悟はいいかとケイヤは尋ねてきた。大丈夫かと。テフェリーは棺の中で笑みを浮かべて見せた。柔らかく、悲しい笑み。彼女のような新世代のプレインズウォーカーたちはこれまでに出会ってきた同類とは異なり、ずっと人間らしかった――例え種族は人間でなくとも。

 テフェリーは蓋の裏を二度ノックした。覚悟はできていた。

 かすかな紫色の輝きが目の前に広がり、彼の視界は紫外線と濃い陰りではっきりとした。指先と爪先から重さが抜け、うずいた。

 ほっとする気持ちがあった。もし自分が戻って来られなくとも、ケイヤが全員を導いてくれるだろう。彼女とエルズペス、そしてジェイスも傍にいる。善い者たちだ。テフェリーは息を吐き、力を抜こうと努めた。彼はレンとその歌を思った。

 どれほど長く横たわっていようと、棺の金属は全く温まらないように思えた。「アンティキティー戦争」には、タウノスはその棺の中に何年いたと書いてあっただろうか? 五年だったか?

「尋ねに行ってもいいのよ」 ケイヤが言った。その声はかすかで、彼の心には風の音のように届いた。耳で聞いたのではなかった――彼女はテフェリー自身を通して語りかけていた。今のような実体と霊体の途中段階においては、自分たち二人の区別はますます曖昧になってくる。

 テフェリーは笑った。ケイヤは笑った。ふたりは止められなかった—その不安、疲労。ケイヤは彼の媒体であり、既に彼の脳内にいた。もっと正確に言えば、彼がケイヤの脳内にいた。

「忘れないで」 ケイヤが囁いた。「空に集中して、一番深い暗闇を見つけて」

 テフェリーはそれを心に留めた。時空錨のうなりが一段階上昇した。

「時間はタペストリー、貴方は一本の針」

 突き刺す。吼える。

 棺が熱を帯びはじめ、テフェリーの呼吸が速くなった。錨が昂る何層もの音だけが聞こえた。不協和音の中、ケイヤとサヒーリが叫び合う声が聞こえた。ケイヤの声が自身の心に反響した。

 何度やってもこの部分には慣れなかった。この瞬間は嫌だった。灯と魂が身体から引きちぎられて――

「行くわよ」

アート:Kekai Kotaki

 転移の棺の冷たい金属と

 身体が

 遠のいた。


 任務自体は問題ではなかった。目標ははっきりしており、その答えを得られる場所もわかっていた。自分たちには力が、武器が、知識があった。仲間がいた。最も重要なことに、新たな酒杯があった。

 問題は、この恐るべき物体の使い方がわからないことだった。

 カーンの図面と記録から、サヒーリは実質的に完璧な複製を作り上げた。だがその素晴らしい才気を持ちながらも、彼女は技術者でしかなかった。酒杯の起動方法の謎は機械的なものではない――それは魔法的なもの。歴史に埋もれたひとつの呪文であり、歴史は当てにならなかった。

 当てにならないというのはこうだ――

 ゴーゴスの酒杯は兄弟戦争が勃発する数十年前、言語学者であり古の氷河の研究者であったフェルドンという人物によって創造された、あるいは発見された。またそれはアシュノッドが、師であるミシュラが跡を継いだ長王の頭蓋から彫り出して作った。またそれは、鋼鉄と油の夢からドミナリアへと這い出た悪魔ギックスが、旧ファイレクシアの最も深い胆液の井戸から引き上げた。また、酒杯は巨人の歯から切り出され、カー山脈のコボルドによって保管されていた。あるいはそれはタル神の涙が固まったものであり、流星の光環が魔法で凍らされたものであり、とある山の融けた心臓をサルディアのドワーフが鍛えたものであり、以下そういった話が延々と続く。

 古き世界を終わらせた存在の起源、その神話は世界に満ち満ちており、どれが真実かを知る手立てはない。それは酒杯の最後についても同様だった。

 カーンは自らが発見したそれが本物だと信じていたが、テフェリーが発掘した歴史は酒杯の最後を様々に語っていた。ウルザによって破壊された、ジャレッド・カルサリオンによって砕かれた、あるいは死して長い偉大なドラゴンに貪り食われた、氷に囚われた神への捧げものとしてある湖に投げ込まれた……

 テフェリーの見立てによれば、追跡する価値のある酒杯の最期は四つか五つ。そしてそれらの歴史は全て互いに矛盾していた。従って錨と、針と、タペストリーが必要とされた。

「それでは、どうやって見つけ出すのですか?」 サヒーリが尋ねた。彼女は直接的であり、解決策をまっすぐに見据えていた。この火急の時の振る舞いとして、テフェリーはそれを高く評価していた。

 目の前をテフェリーは見つめた。そこには書類、巻物、手稿、銅版画、古代の秘本が広げられていた。古い製図台を覆うそれらは、数千年に及ぶドミナリアの伝説を網羅する歴史の層だった。だが彼が思うにその全てが役に立たなかった――ただひとつを除いて。

 テフェリーは手を伸ばして歴史の数々を押しやり、ある一冊を捜索する中で幾つかを床に叩き落した。読みはしたが、早くに切り捨てていたもの――技巧の欠落からではなく、具体性の欠落から。

 サヒーリは黙ったままでいた。彼女は眉をひそめながら、時間の魔道士が貴重な文書をかび臭い部屋の隅へと投げ捨てる様を見つめていた。やがて彼はかびで覆われた一冊の写本を手にし、意気揚々と背筋を伸ばした。

「アンティキティー戦争」 彼はその写本を卓に叩きつけて開いた。「ここだ」 そして朽ちかけた叙事詩を指で突いた。「ウルザの妻、カイラ・ビン・クルーグがこの歴史の長編を記した。彼女自身が目撃した戦争の歴史記録だ。この作品には多くの改作や翻訳版が存在するが、結末はどれも同じだ――ウルザはアルゴスにて酒杯を起動し、この戦争を終わらせた」 テフェリーはサヒーリへと顔を上げた。「ここへ行く――兄弟戦争の最終決戦へ」

「わかりました」 サヒーリは頷いた。「作業に取りかかります」

アート:Kekai Kotaki

 彼女が共にいるのを感じた

 彼は時を通過する針となり、

 こだまする霊となり、こだまする、


 こだまする。

 ウルザ、この棺、ファイレクシア人――彼ですら理解が及ぶとは思わない巨大な宇宙構造が存在すると、この瞬間を活気づける何らかの道理が存在すると、そう確信するに足りるだけの糸があった。運命の知られざる律動はテフェリーだけでなく、歴史を貫く壮大なひとつの統合の中の全てを動かしていた。テフェリーにできるのは、轍のある道を振り返って願うことだけだった。その足跡の内にある何かが、来たるものを暗示していて欲しいと。

 テフェリーはこの懸念を自らの内に潜めていた。友人や仲間たちが、技を極めた達した時魔道士の弱気な姿を見たなら安心はしないだろう。彼は目隠しをして舵を取る船長であると、一度も海に出たことのない船乗りであると知ったなら。

 ある夜、彼はウルザの塔の頂上近くの自室に独り立ち、すり減った床を見つめていた。眠れなかった。

 他の全員と同じく、テフェリーもまた迷っていたのだ。


 その暗闇は絶対的で、

 彼は浮かんでいた。独り……

 独り?


 テフェリーは頭痛を感じた。この時間遡行を開始してから数週間、彼はあまり眠れていなかった。あるいは眠れてはいたのかもしれない――ずっと眠っていたのかもしれない。それは思い出せなかった。

 棺の中でテフェリーは目隠しをし、簡素な下着の一式を身につけていた。胴には包帯が巻かれていた。エルズペスが手を触れ、傷を光素で処置してくれてからしばらく経っていたが、ファイレクシアの生物から受けた傷は深かった。呼吸をするたびに痛みを感じたが、それでも彼は平静を保ち続けた。ファイレクシア病が骨髄をかじるにせよ、ファイレクシア人がこの部屋の塞がれた扉に迫るにせよ、死の接近は着実で止まることはない。ただし――

 繰り返し。時間。歴史は様々に変化をつけながらそれ自身を繰り返す。自分に深い傷を与えたあの生物がぎらつく油を残していたのかどうか、テフェリーはわからなかった。エルズペスが、レンが、ジョダーが、他の皆が敵を押し留めるのに失敗したとしてもわからなかった。自分にできるのは、役目を果たすことだけだった。

 テフェリーは呼吸を保った。今とはいつなのかもわからなかった。

 自分は死んだのだろうか? それとも暗闇の中に他の誰かがいるのだろうか?


 鼓動を数える

 一、二、三、四、

 何が、こんなにも長く――


 テフェリーが時間旅行について学んだ、簡単かつ真の冗談はただひとつ――人生で一度だけ、前にのみ向かうことができる。

 ウルザはこの自明の理を壊した。テフェリーはそこにいて、時間旅行はほぼ何もかもを失わせると知った。時に酷い目に遭わされて以来、彼はその法を犯すことは避けてきた。時を改竄するのは、干ばつで枯れた草の海に火花を散らすようなもの。ほぼ確実に大火災が起こる。その後に続く炎の力には賭けられるだろうが、それしか残されてはいない。

 けれど、既に一帯が燃えていたなら? 既に炎が全てを飲みこんでしまっていたなら?


 針と糸、

 両方が閃いたなら――

 動き出したなら、止めることはできない


 銀。

 時が持つ鉄壁の法則を銀は回避することができる。ウルザは銀が物理的に過去へ移動できると発見し、カーンを創造し、そしてテフェリーが思うに、この全てを始めた。

 物理的な時間旅行はテフェリーも誰も必要とはせず、求めてもいなかった。物理的な時間旅行は、大火災の只中に立って灯油を浴びるようなもの。そうではない。自分たちが時を遡る必要はない――何が起こったのかを見ることができればそれでよい。

 サヒーリがこの問題を打破した。銀は控える――大火災の中へ向かうとすれば、どうしても火花となって踏み込むことになる。個人の霊体を摘出してそれを送り込めば、過去に干渉することなく観測が可能となる――その逆も同様、あるいは少なくとも間違いではない。

 理論上は、筋が通っていると言えた。

 だが筋が通っていたのはウルザの計画も同じ、テフェリーはそう心した――その結果はどうなった? トレイリアは炎に包まれ、時の裂け目がいつまでもそこに残った。この努力を正当化できるほど大きな脅威がなかったら、テフェリーは決してこの旅に着手はしなかっただろう。

 あれほど大きな脅威がなかったなら、ウルザは決して――

 ああ、そうだとも。勿論だ。


 そして最後にどうなる?

 自分たちは永遠の中、何と言うのだろう?

 それはまるで落ちるような、踊るような。


アルガイヴ暦85年

 後にクルーグだと知る水浸しの街。その暗い部屋にテフェリーは到着した。

 そこで彼は、ひとりの粗暴な男が発狂して幽霊と暗殺者について叫んでいる様子を見つめた。これは問題だった――自分の姿は誰にも見えないはずだった。これまでに実行した試運転では、霊体としてのテフェリーは誰にも見えていなかった。

 テフェリーは去った。何にせよ、ここは目指す時間ではなかった。


アルガイヴ暦28年

 燃える空の下、テフェリーは暗い路地に立っていた。再びのクルーグ、その塔の姿を見てすぐにわかった――最初の訪問では廃墟となっていたもの。今、それらは包囲下の街に高くそびえていた。人々の悲鳴に負けじと鐘が叩き鳴らされていた。

 そこかしこに死が満ちていた。

 ここは最終決戦ではない、だがテフェリーはしばし居残った。ひとりの兵士が手を伸ばしてきた。まだ少年と言ってもいい年齢、後に学んだことによればその制服はファラジ軍のものだった。兵士は何かを繰り返し呟いた。痛ましい言葉。自分には理解できない言葉、テフェリーはそう自らに言い聞かせたが、理解できると彼は知っていた。

「お父さん」 息も絶え絶えに少年は言った。そして死んだ。

 テフェリーは立ち尽くし、歯を食いしばった。棺の中の彼の身体がびくりと動いた、夢をみている時と同じように。

「まだだ」 彼はそう呟いた。

 テフェリーが見る全てを見ていたケイヤは、この瞬間について他の誰かに告げることはなかった。


アルガイヴ暦44年

 テフェリーはトマクルの南東にある陰鬱な谷を歩いていた。数日前に見たものと同じ戦争、だがここは数十年後。今回の転移で訪れたのは機械化された戦争の頂点だった。

 長く深い塹壕が大地に刻まれていた。その上を飛んで見下ろしたなら、世界には泥だらけの傷跡が波打っていただろう。機械と人間の屍が農作物のように分厚く重なり、ねじれ壊れたまま塹壕や有刺鉄線に引っかかっていた。それらの間を、雨に濡れたコートの下に荷物を背負った兵士の列が行進した。生者というよりは死者の軍隊。今のテフェリーの肉体のように、彼らの魂は空虚だった。

アート:Sam Burley

 軍勢が通過すると死者の野にグールが徘徊し、有用とみた屍を拾い集めた。身震いをする黒ずくめの人影が雑な作りの荷車に人と機械の屍を積み込むと、トマクルの方角へと向かっていった。だがその一体が彼の姿を見た。

 テフェリーは気を確かに持って立ち去った。この記憶されない戦場ですら地獄の一層のように思えた。ならば最終決戦にはどれほどの恐怖があるというのだろう?


アルガイヴ暦4562年

 テフェリー、ケイヤ、そしてサヒーリの三人は開かれた棺の前に座っていた。テフェリーは食事を摂り、ケイヤとサヒーリはコーヒーを飲んでいた。今は夜と朝のどこか、身の毛のよだつ時間。三人とも、もはや眠っている場合ではなかった。

 部屋の外は静かだった。ケイヤはテフェリーへと、一、二時間前にエルズペスがやって来たと知らせた。彼女は進捗を尋ね、ファイレクシア人が近くにいると告げた。

「『近くにいる』とはどういう意味ですか?」 サヒーリは彼女へと尋ねた。

「私が出ていったら扉を塞いでください」 エルズペスはそう返答した。彼女は他のプレインズウォーカーたちと協働しており、戦闘の騒音に負けじと叫ぶその声はかすれていた。

 もう時間はない。成功するにせよ失敗するにせよ、三人は終わりまで閉じ込められた。

「見つけたんだ」 テフェリーがそう言い、沈黙を破った。

「見つけたって、いつ?」 ケイヤが尋ねた。

「戻ってくる時に。ひとつの傷跡のようなそれが見えた。インクが紙にこぼれたように、タペストリーの一部が汚れていた。『汚された時』だ。私はまだそこに辿り着けていない」

 ケイヤは頷いた。説明は必要なかった。

「ですがもう一度の遡行に錨は耐えられないかもしれません」 サヒーリが言った。その声は三人の中では最も静か、だがこの高い天井の冷たい部屋に最も大きく響いた。

「テフェリーが中にいる時に錨が壊れたらどうなるの?」 ケイヤが尋ねた。

「わかりません」 サヒーリは認めた。「死ぬと思います、少なくとも肉体は。そして灯は」 彼女は手をうねらせ、指を天井に向けて踊らせた。「良いことは何もありません」

「ならば彼女の方は?」 テフェリーはケイヤを顎で示した。「私の媒体だ――過去へ一緒に向かう。ケイヤには何が起こる?」

 サヒーリは答えた。「テフェリーさん、私は錨を構築したに過ぎません。私は技術者ですから、錨がどのように壊れるだろうかというのはわかります。錨のパワーストーンが爆発するかもしれませんし、時間橋が崩壊するかもしれません。棺が熱に耐えきれずに内破するか」 サヒーリはコーヒーを一口すすって続けた。「機械の壊れ方はわかります。ですが肉体から切り離された魂に何が起こるかは、わかりません」

 三人はサヒーリの回答をもってこの話題を打ち切り、コーヒーと軽食を終えた。無言でテフェリーは棺の中に戻り、両目を布で覆った。

「いい?」 ケイヤがサヒーリへと尋ねた。

「いけます」 サヒーリは頷いた。

「テフェリー?」

「行こう。また会おう」

 ケイヤは棺の蓋を閉じた。暗闇の中、テフェリーは肉体を離れた。


アルガイヴ暦63年

 ウルザは膝の上に杯を置き、脚を組んで座していた。杯の内側のルーン文字は中心に向かって螺旋状に刻まれていた。額の傷から迸る血が杯に滴り、ルーンの溝を真紅で満たした。

 現代にてケイヤはテフェリーの言葉を自ら繰り返し、彼が見た全てを伝えた。彼女の声の下にテフェリーの声が重なり、より深い響きを発した。錨の保持に忙しいサヒーリも、耳を傾けずにはいられなかった。

「ウルザの額の傷の血が杯に滴り、ルーンを満たしていく。彼は脚を組んで座り、膝の上に杯を置いている」 ケイヤは呟いた。彼女はよろめき、汗に濡れ、両手で棺に掴まった。

 ミシュラである機械は岩雪崩から回復し、丘を駆け上がる中でドラゴンの頭部が叫び立てていた。ウルザは顔を上げた。弟の顔、その皮膚は金属製の頭蓋骨から半ば引き裂かれていた。ウルザは弟のために涙を流した。

アート:Chris Rahn

「弟が近づいてくる。ふたりの間の共感、共鳴か何かによって引き起こされる可能性がある。おそらくそのためには人ひとり以上の集中、あるいは高まった感情を必要とする。あるいはファイレクシアの技術が近くに存在することだろうか」 ケイヤがテフェリーの言葉を伝えた。

「他には?」 ケイヤが尋ねた。

「涙。止めどない涙。ウルザは決して泣くことはなかった。ここでの彼は……とても人間的だ」 返答もまた彼女の口から発せられた。

 ミシュラである機械は今や丘を上りきり、蛇のような頭部が彼らに影を落とした。ミシュラは笑みを浮かべていた。半ば肉の、半ば鋼の笑み。それは勝利を確信した男の笑みだった。

 ミシュラは何かを叫んでいた。

 閃光が杯の底からほとばしり――

 閃光が杯の底からほとばしり――

 閃光が杯の底から――

 閃光が――

「そこだ!」


アルガイヴ暦4562年

 テフェリーは現代へと戻ってきた。

 彼はかろうじて棺から顔を出すと、水とクラッカーの薄い混合物を冷たい石の床に嘔吐した。脇腹の傷が痛み、彼は身震いをした。目隠しの下で現実世界の眩しさをこらえた――めくるめく色彩が風車のように回転していた。

「もう少しでわかる」 ケイヤに手伝われて棺から出ると、彼はうずくまった。「血が関わっているのだと思う。あるいは溝の深さか。サヒーリ!」 テフェリーは叫んだ。「螺旋になっているか? 君の酒杯のルーンは」

「もちろんです!」 細々とした調整や修理に駆け回りながら、サヒーリは錨の基部から叫び返した。

 ケイヤはテフェリーの額に冷たいタオルを押し当てた。「聞いて」 ふらつく彼を支えながら、ケイヤは言った、「私たちが過去で見ているものは――貴方の霊魂がさらされているものは、残忍なのよ」

「休む時間はあるかい?」

「食べて」 ケイヤはテフェリーの質問を無視して言った。

 胃袋が許容する範囲で、テフェリーは少しの食事をとった。そして水を一口飲むと、彼は棺の中へと戻った。部屋の外での戦いの音はもはや気にならなかった。

「急いで」 ケイヤが言った。「お願い。私にとっても大変なの」 彼女の普段の態度、その不敵な物腰は消え去っていた。

 ケイヤの言葉は正しく、テフェリーもそれをわかっていた。過去へ向かうたび、彼女もまた媒体として同行しているに等しいのだから。

「できるだけ私に時間をくれ」

 ケイヤは部屋の扉に積み上げたバリケードを、そしてテフェリーを見た。「これが最後よ」彼女は棺の蓋を閉じ、留め金を勢いよく締めた。

 この静かな停滞の棺の中、テフェリーは自分がどこにでも存在できると感じた。今やそこは温かく快適で、汗の匂いがこもっていた。彼は深呼吸をしてケイヤの手順を待った。

 棺の蓋が二度軽く叩かれた――彼女の手。紫色の渦が無音の炎のように内蓋を越え、目隠しを通して眩しく見えた。

 身体が滑り落ちた。彼はどこにでもいた。


 現実時間の境界――テフェリーが考えるに「現在」からは、その先を知ることも引き返すこともできない。だがサヒーリの時空錨、ケイヤの霊魂摘出と媒体の助けを得て、現実時間と過去との間を行き来すること自体は簡単な仕事となった。困難は疲労と航行術にあった。記憶にある地点へは何処であろうと向かうことができるが、まずその瞬間を発見する必要があった。時間旅行は彼を疲弊させ、弱らせていった。

 テフェリーは可能な限り恐怖心を無視し、目の前の課題に集中するよう努めた。綿密な調査の一か月を経て、遂に求める瞬間を、最も絶望的な時に見つけたのだ。ファイレクシア人が文字通りすぐそこに迫っていた。

 独りテフェリーは大空の下に立った。これは夜空。彼は「兄弟戦争」を示すと知る暗黒の星雲を探した。彼はそれを見つけて踏み入り、その霊は一瞬にして数千年を越えた。その空間の中には多様な闇が、そしてテフェリーがようやく理解し始めたばかりの質感をもつ無があった。

 彼は興味深いひとつを見つけた。願っていた陰鬱な汚れ、それこそが最終決戦。そして針を布に突き刺すように、中へと飛び込んだ。


 黒い空。雨に打たれる砂浜。金属の残骸がカチカチと音を立てながら痙攣し、それでも身体を引きずって敵へと向かう。巨大な構築物がふたつ、激しく燃える大木の上に交錯して崩れ落ちた。彼の背後では油に覆われた波が砕けて吠え、汚れた砂の上に死体を転がしていた。

 アルゴス。最終決戦。世界の終焉の直前に、今一度やって来たのだ。

アート:Chris Cold

アルガイヴ暦63年

 ミシュラである機械は今や丘を上りきり、蛇のような頭部が彼らに影を落とした。ミシュラは笑みを浮かべていた。半ば肉の、半ば鋼の笑み。それは勝利を確信した男の笑みだった。

 ミシュラは何かを叫んでいた。

 閃光が杯の底からほとばしり――

 全てが停止した。

 正確には、停止してはいなかった。全てが緩慢になった。身振りひとつでテフェリーは時間の速度を半減させ、それを果てしなく繰り返した。そして時間は、テフェリーが観察できる限り、凍り付いた。

 時間を意のままに操作するには途方もない力を要した。神のような力を。破滅的な結果になりうると知っていたため、実践にあたって彼は慎重を期した。求める回答は観察の内にあると考え、ウルザの動き、感情、言葉、あらゆる詳細を心に留めるため、この瞬間に特別な注意を払った。知らないことがあまりに多いため、あらゆる物事を観察して報告しようとした――この雨すらも、呪文を構成する一部なのかもしれない。

 だが細心の注意は何ら報われなかった。彼が見たものはどれも、サヒーリが複製した酒杯を温めすらしなかった。先に進むには、何らかの手段を見つけねばならなかった。

 テフェリーはひとつの手段を思った。危険を伴う――いや、そもそもこれ自体が危険なことではなかったか? そう、全てが失敗に終わるかもしれない。だが現実時間に戻ったところで、既に何もかもが失敗続きだった。カーンは連れ去られ、ファイレクシア人は再びドミナリアにいる。ヤヤは死亡し、自分たちの最後の砦も陥落寸前にあった。これ以上、どんな最悪の出来事が起こり得る? 多元宇宙の終焉か?

 状況が彼を無茶へと後押しした。無限回の時間減速は彼を守っていたが、同時に切り離してもいた――今一度、自らの時間をウルザのそれと合わせる必要があった。

 それは途方もない危険を伴った。テフェリーは自らの知る内容を熟考した。酒杯が爆発した時にウルザは死ななかった。いつ、どのようにウルザが戻ってきたのかは誰も知らない、だがテフェリーは子供時代にウルザを知った。ウルザの下、トレイリアのアカデミーで学んだのがそれだった。だがウルザが生きていたからといって、自分も――例え霊体になっていても――酒杯の爆発に耐えられるとは限らない。そのアーティファクトはただの爆弾ではなかった――十二世界のシャード、氷河期、その後の四千年間におけるあらゆる重要な出来事はこの瞬間の結果として起こったのだ。自分の一家もまた、この瞬間がなければ存在しなかった。深呼吸ができたなら、テフェリーはそうしていただろう。行動するには思考ひとつでいい。実体は必ずしも必要ではない。

 テフェリーは時の保持を止めた。

 多元宇宙が引き裂かれ、開いた。

 全てがその後に続いた。

アート:Joseph Meehan

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 ウルザの名残が脚を組み、アルゴスのむき出しの土に座していた。酒杯は膝の上に置かれ、その中では白く焼け付く光が弾け出た直後に凍り付いていた。

 テフェリーは柔らかな色合いの霊となって、少し離れて立っていた。酒杯から放たれる光の背後にいるウルザの姿はわずかしか見えず、だが爆発の中にプレインズウォーカーの輪郭が十分に判別できた。

 天の虚空の中、ふたりだけがいた。足元を取り囲むのはアルゴスの土、その先は何もない無があらゆる方角に広がっていた。テフェリーには、自分たちが雲の只中に立っているように見えた。

 ウルザ。最後に会ってからどれほどの時が経ったのだろう? どれほど多くの生涯、どれほど多くの命が過ぎていったことだろう? テフェリーはウルザへと近づき、酒杯の向かいに腰を下ろした。そして彼は咳払いをした。

「未来について、伝えなければいけない事があります」 テフェリーはウルザへと語りかけた。「貴方の未来、私の現在。全てに関わっています」

 ウルザは顔を上げた。その顔は皮膚のない、歯をむき出しにした頭蓋骨だった。「何だ?」だが、その声まで焼けてはいなかった。

「良いものではありません」 テフェリーは力を込めて言った。

「興味深いな」 ウルザは酒杯を、その底の眩しい一点から発せられた光を、そして自分たちを取り巻く空間を見た。「形のない虚無の中で良い知らせを聞けるとは思えない。ここは死後の世界か?」

「いいえ。そうではないと願います」

「ならば宜しい。君は何者だ?」

「その前に――私は、貴方の助けを求めて来ました」

「君は未来から来たと言った」 ウルザはテフェリーの主張を無視した。「私の助けが必要だと。私と話をすることで何かが変わるかどうか、それはどうやって知るのだ?」ウルザは永遠の広がりを手振りで示した。「あるいはもっと悪いことに――全てを変えてしまうかもしれないだろうに」

 テフェリーは躊躇し、だが答えた。「わかりません。私たちはこれに賭けねばならなかったのです」

「『私たち』と」 ウルザが言った。意見であり質問。「君が私に話そうとしている物事は極めて重要か、でなければ全くもって重要などではないのだな」

「そう思います」 テフェリーは呟き、沈黙が降りた。ふたりは酒杯を、破滅をもたらすそれを今一度見つめた。

「まず貴方が知るべきは、貴方は既に偉大な人物であるということです」 テフェリーはそう切り出した。「ですがこれから貴方は全く異なる存在になります。これまでの貴方とは比較にもならないほどの」 彼は酒杯の縁を軽く叩いた。光の確固とした中心核、杯の縁から水のように溢れそうなそれが揺れた。その光は破滅そのもの。彼はひとつの時代の終わりと、もうひとつの時代の始まりを見つめていた。

「異なる存在、それは何だ?」 ウルザは尋ねた。彼は膝の上に杯を抱えた。その身体の大半は酒杯の爆発で焼失していたが、苦痛の内にあるようには見えなかった。黒化した皮膚がはがれて白骨が露出し、何もないはずの場所にひとつの眩しい光があった――灯が、凝集しつつあった。

 ウルザの灯。この瞬間に、ウルザは後のウルザになったのだ。

「ある者は貴方を神と呼ぶでしょう」 テフェリーは学生時代を思い返した。「ある者は災いと呼ぶでしょう。私は先生と呼びました。ほとんどの者は、貴方を『プレインズウォーカー』として知ることになります」

 ウルザはもはや微笑んではいなかった――その頭蓋骨は黒化して崩れ、肩と肋骨は灰へと燃え尽きていた。それでも、まるで無傷であるように彼の声は力強かった。

「それを変えるために私にできることは何もない、そうだろう?」 ウルザは尋ねた。その声は疲弊していたが、悲しげではなかった。何十年も眠ることなく過ごしたような疲弊。

「私は今ここにいますが」テフェリーは呟いた。「この先に起こる物事を変えるために、貴方や私にできることがあるとは思いません。時間は時計の針のようには過ぎません。それは既に起こっているのです」

「では、これは何だね」 ウルザは自分たちを取り巻く無形の虚無を手振りで示した。彼はよろめきながら立ち上がり、鼠色をした灰の塊と化した上半身が崩れ落ちた。

「少しだけ講義をさせていただけますか?」 テフェリーは尋ねた。

「必要なだけ時間を取るといい」 ウルザの声には皮肉のような唸りが込められていた。

 テフェリーは座ったまま背をそらし、柔らかな草原にいるように、日光浴をするように寛いだ。「時間を比喩する表現には多くのものがあります。そのどれも、ある程度までは真実です。それらは合わさって、理解というモザイクを形成しています」 テフェリーが見つめる中、ウルザは地面の端へと踏み出した。もしその顔が残っていたなら、空虚の中を見つめているのだろうか。

「向こうに何かがある」 ウルザは囁いた。「急ぐのだ」

「時は川のように流れる、人々はそう言います。ですがその表現が推測させるのは、時は前方に流れるということだけです」

 苛立ちを明白にしながらも、ウルザは興味を抱いていた。彼はテフェリーの言葉に耳を傾けた。

「それは完全に間違いでも、完全に正解でもありません。私たちの見方によって限られているだけなのです。私たち、人間の。私たちは存在というプリズムの一面を見ています。時は一方向に流れるようにしか見えないので、時を川に例えるのは間違いではありません。そして私たちは誰もがこの一部であるため」 テフェリーは自分たちを取り囲む虚無を片手で示した。「私たちの比喩にはある程度の真実が含まれています。川は時の流れを仲介するものです。それらは私たちよりも大きな物事として存在し、同時に謎を抱えてもいます。もし何らかの川の岸辺を歩いたなら――例えばマルダン川でしょうか――大小の渦やどこへも繋がらない小さな支流に出くわすでしょう。あるいは他の川に合流し、あるいは湖に流れ込んで行き止まりになる。そういった湖は、川の流れが止まる場所です。もし時が一本の川であるなら、そういった湖は時が止まる場所となります。思うに、私たちは今まさにそのような場所のひとつにいるのです」

 一瞬の沈黙の後、ウルザは声を発した。「何故だ?」

 テフェリーは微笑みを浮かべ、かぶりを振った。「わかりません。私は自分が真実だと知っている内容に基づいて賭けました――私自身、ここにいることを貴方と同じく驚いています」

「将来、私は先生になると言ったな?」

「今から何千年か後に」

 ウルザは嘲笑った。「私はもっと教育について学ぶべきだな」 不機嫌な声、だが不親切ではない。テフェリーは少年時代にトレイリアで接したウルザをよく知っており、この意地の悪い老人が自らの決定を自賛しているとわかった。「さて、次は何だ? 君が必要とすることを伝えるために、私は何を知る必要がある?」

「貴方はこの先、もっと沢山のあれらに遭遇します」 説明の必要はなかった。ウルザは「あれら」が何かを理解していた。弟、そしてコイロスから現れた悪魔。

「貴方はファイレクシア人との戦いに人生を費やすことになります。最初は弟さんへの仕打ちから、そして貴方自身に向けられるであろう仕打ちから」

「それが奴らの名前か? あの種全体の……」 ウルザは呟いた。その姿は感情を表に出すにはあまりに希薄だったが、かつてウルザの体であった粗い輪郭に光が這い、燃えつきた虚無を格子状に埋め尽くしていった。かつて両目があった空白の眼窩に新たな光が輝きだした。片方は赤色、片方は緑色。

 ウルザは作り変えられていた。元とは違うものへと縫い合わされていた。

 プレインズウォーカーへと。

「貴方は敗北します」 テフェリーは言った。「ファイレクシアが勝利します。貴方は数千年間戦い続けますが、常に奴らが勝利します。世界はひとつではないと貴方は発見します、数えきれないほどの世界があると。それぞれがひとつの次元という存在を成し、無数の次元が合わさって多元宇宙と呼ばれる空間を形成しています。貴方は何世紀にも渡ってこれらの次元を旅し、同じくそれらを旅できる者たちが他にもいると知ります。やがて貴方はとある学校を設立します――そこで私たちは初めて出会います。その学校で貴方は時の神秘をこじ開けようと試み、成功しますが、過去には戻れないと知ります」

「では君はいかにしてそれを成し遂げた?」

「大変な困難を乗り越えて」疲れた笑みをテフェリーは浮かべた。

 光で編まれたウルザの骨組みの上を、若い裸の皮膚が埋めていった。それは純白のシーツの上に桃を押し潰したかのように広がり、満たしていった。唇が再生され、すぐさま彼はそれを歪めた。

 ウルザは言った。「要するに、私は何をしようともファイレクシア人を止められない。君は私にはできなかった方法で時を越えてここに来た。その理由は?」

 テフェリーはかつての師の声に痛みを感じ取った。彼はここに、死の瞬間に、未来から来た必死の人物と共に閉じ込められ、これで終わりではないと告げられているのだ。最期の行いは彼に平穏を与えはせず、更に大きな戦争を阻止する扉の鍵を開けただけだったのだ。破滅の道を歩むことは避けられず、何千年も続き、無数の命を奪うであろう戦争を。もっと情け深い人物であったなら、テフェリーは話を止めていただろう。ウルザに真実は伝えなかっただろう。

 私はウルザのように冷酷だろうか? ウルザのように必然の運命に従っているのだろうか? それは時が教えてくれるだろう。

 テフェリーは続けた。「一度は打倒したファイレクシア人が戻ってきているのです。私のいる時代に、奴らは多元宇宙全体を脅かしています。今こうして話していますが、私の身体は貴方の塔の中に横たわり、私たちのようなプレインズウォーカーたちに囲まれています。ファイレクシア人は今まさに襲撃してきています。侵略を開始する前に、私たちが奴らを止める方法を学ぶことを阻止しようとしているのです」

 今やウルザはほぼ完全な姿となっていた。「ならば何故私が――我々が――最初にファイレクシア人を打倒した時へと戻らない? 今よりも遥かに悪い何かが起こるとでもいうのか?」

「戻れません」 テフェリーはザルファーを、シヴを思った。蜃気楼戦争を、ウルザの憤怒によって引き裂かれた時を。「あの時間には戻れません。決して」

「ならば何故今へ?」

「酒杯です。私たちの時代にこれの複製があります。サヒーリという才気あふれる女性が、この装置の完全な複製を作りました。彼女の出身次元は、貴方が見たなら楽園のように思うでしょう。私たちに必要なのは、起動方法を知ることだけです」

「君はそれをファイレクシア人に対して用いようというのか?」

「そうです」

「それで終わりにすると?」

「はい」

 ウルザは頷いた。「少し下がってくれ」 彼はテフェリーを追いやるように手を振るい、酒杯に近づくとそれを見下ろすように立った。全てを消し去る光は今にも膨れ上がり、沈む夕日を覆い隠してしまいそうだった。彼は腰を下ろし、杯の縁を掴むと膝の上に戻した。再びその身体がくすぶり、灰と化して散った――だがこの時、皮膚の下にあったのは光の格子だった。

 テフェリーは大修復以前の力がどのようだったかを思い出した。身体は器に過ぎず、灯こそがもっと大きなものだった。

「このように持った」 ウルザはそう言い、瞑想するような面持ちをした。その上半身が再び燃え尽きて、彼の声は一瞬うわずった――それでも、酒杯から溢れ出る圧倒的な光の中、テフェリーはウルザの輪郭をその内に見ることができた。いかにしてか、更に眩しい光の輪郭を。死を拒絶する存在。

「弟から受けた傷の血を、杯の中に滴らせた」 ウルザは言った。「テリシアの重みを心に感じた」 彼はしばし考えこみ、続けた。「世界の全てが叫びを上げるのが聞こえた――このルーンを理解するために読む必要はなかった」 彼は白光を発する指で杯の内側をなぞった。「戦時中に、ある女性がいた――ラト=ナム大学のハーキルという」 ウルザははっきりと声に出し、だがそれはテフェリーに向けられてはいなかった。

 テフェリーは耳を澄ました――ウルザの言葉は、何であろうと鍵となるかもしれないのだ。

「その女性は魔法を使えると言われていた」 ウルザはかぶりを振った。「私はその話を信じなかったが、それは間違いだった。ハーキルの瞑想術は本物だった。自らを導管とし……大地の心に繋がる方法だ。愛、苦しみ、喜び、恐怖、感情、そして記憶。その全てを一点に流し込む。一点、ひとりの人物を通してその全てから力を引き出し、世界へと投影する。これが、酒杯を起動した時に私が行使したものだ。私には何も残っておらず、これを手にした時、全てを注ぎ込んだ。そして酒杯は全てを終わらせた」 ウルザはテフェリーへと顔を上げた。「これを手にした時、どうするべきかを即座に知った。私に言えるのはそれが全てだ」

 テフェリーは理解した。恐怖とともに理解した。知られざる呪文を発見する必要はなく、ウルザが酒杯を起動した際の秘密の手順も存在しなかったのだ。ハーキルの瞑想術は十分な記録に残っていた。酒杯のルーン文字は何度となく型にとられ、サヒーリの複製にも完璧な写しとして刻まれていた。全てが知られており、理解されていたのだ。人を除いて、必要なものは全て揃っていた。酒杯を爆発させる引き金は呪文でもアーティファクトでもなく――人だったのだ。

「どうやら時間切れのようだ」 ウルザはテフェリーの頭上、その虚空を指さした。

 ふたりは天の遠方を見上げた。その無限に、静かに染み出すようにひび割れが広がっていた。何もない深遠の空間を無数の黒い指が探り始めた。影がこの飛び地に迫っていた。受け入れられる以上に長居してしまったらしい。何かが近づいてきていた。

「私はこの出会いを覚えているのだろうか?」 ウルザが尋ねた。

「いいえ、覚えてはいないでしょう。私たちの湖は――今、再び川の一部となります」

「そうだろうな」 ウルザは立ち上がった。「何千年も、か。参ったな。覚悟などできていない」

「覚悟を」 テフェリーが言った。「覚悟をしなければなりません」

 ウルザはテフェリーを見つめ、その両目が紅玉と翠緑の面を閃かせた。「最後まで言ってくれなかったな。君の名――」

 虚空が破れた。

 暗闇が押し寄せた。

アート:Liiga Smilshkalne

アルガイヴ暦64年

 そしてテリシアに沈黙があった。


アルガイヴ暦69年

 かつて緑豊かであった海岸線は、今では瓦礫で溢れかえっていた。巨木や巨岩が何マイルもの長さに渡って打ち上げられて一帯を荒らし尽くし、生命を拒絶していた。

 瓦礫の中にひとつ、大きな金属の箱があった。長さ七フィート、幅と高さは三フィート。それはあの破壊を乗り切り、かつて遠くアルゴスであった他の残骸の中で横たわっていた。

 ウルザはその箱の傍に立ち、手を蓋に押し当てた。

アート:Slawomir Maniak

 蓋が小さな溝に沿って開き、停滞状態にあるかつての弟子の姿が現れた。タウノスはひとつ息を吸い、そして勢いよく上体を起こすと空気を求めて喘いだ。顔色は蒼白で、壊死して剥がれた皮膚の残骸に覆われていた。幽閉の中、それらの行き場はなかったのだ。

 ウルザは彫像のように辛抱強く立ち、タウノスが平静を取り戻すまで待った。タウノスは深く息を吸い、止め、そしてもう一度深呼吸をした。次に彼は周囲の惨状を見渡した。

「終わったよ」 箱の縁に腰かけ、ウルザは言った。

 タウノスは息を呑み、辺りを見渡した。「考えつく限り、これが最も安全な隠れ場所でした」彼はそう言い、だがウルザは返答しなかった。タウノスは続けた。「弟さんは?」

「死んだ」 ウルザは答えた。「私が……」 だが彼はかぶりを振った。「あの悪魔、ファイレクシア人が弟を殺していた。ずっと昔に。私は気付きもしなかった」

「ここは何処ですか?」

 ウルザは辺りを見て、深いため息をついた。「ヨーティアの南岸だ」

 タウノスは瞬きをした。「変わってしまって」

「世界は変わった。我々の行いによって。私の行いによって」

 ウルザが手を貸し、タウノスは箱から這い上がるように出た。幽閉の間に弱ってしまったらしく、タウノスは四肢をこすった。壊死した皮膚を落とし、血流を取り戻すために。岸辺は寒かった。若いころの記憶よりも寒いとタウノスは感じた。

「君には最後の仕事をひとつ頼みたい。私の元弟子に」 ウルザが言った。

「何なりと」

「西へ向かってほしい。連合王国の名残や象牙の塔の学者たちを見つけるのだ。ここで何が起こったのかを語って欲しい。我々が何を行い、何を失敗したのかを。彼らが同じ轍を踏まぬように。君ならばやってくれると信じている」

 タウノスは自身よりも年長であるウルザを見た。だがウルザはもはや老人ではないように見えた。髪は金色を取り戻し、両肩はまっすぐに張りつめていた。だがその両目は年月を超越して老い、定命の傷を超越した苦しみを宿していた。

「いつでも信頼にお応え致します」 タウノスはそう言った。「どちらへ向かわれるのですか?」

 ウルザは元弟子から顔をそらした。「どこかへ」 しばし沈黙を経て彼はそう言った。「どこか……遠くへ」

「ウルザ様はこの地の助けになれると思うのですが」 タウノスの言葉に、ウルザは声をひとつ発した。苛立たしい笑い声のような。「私がこれ以上手を貸したなら、この地は生き延びることはできないだろう。私は……去らなければならない。そして自分のことを考えよう。もはや誰も傷つけることのない場所で」

 タウノスは頷いた。「そのような遠く離れた場所などあるのでしょうか」

 ウルザはかぶりを振った。「テリシアの地から遠く離れた場所が、ドミナリアという世界から遠く離れた場所がある。あの酒杯に記憶を注ぎ込んだ時に見たのだ。かつて見たこともなかったものを、沢山」

 彼はタウノスへと向き直り、練達の学者はウルザの両目を見た。それらはもはや人間の目ではなく、ふたつの宝石であり、多彩な色を溢れさせていた――緑、白、赤、黒、青。

 マイトストーンとウィークストーン。生き延びた兄の内で、遂に再会したのだ。

アート:Ryan Pancoast

 それが見えたのは一瞬だけで、ウルザの両目はすぐに元に戻った。「私は去らねばならない」彼は微笑み、そう繰り返した。

 タウノスはゆっくりと頷いた。宝石の目をもつ男は立ち上がった。「君は長いこと生徒を続けてきた。今からは、君が師となるのだ」

 そう告げるウルザの姿が次第に薄れていった。色彩がゆっくりと失われ、輪郭だけが残り、やがてそれも消えた。「我々の勝利と過ちを教えてやってほしい」 遠い声が言った。「そしてカイラに伝えてくれ。そのままの私ではなく……

「……私がなろうとした私を覚えていてほしい」 タウノスがそう締め、だが彼の言葉は誰もいない空間へと発せられた。ウルザはひとつの世界から、その宝石の両目だけに見える更なる世界へ旅立ったのだ。

 タウノスは辺りを見渡したが、生命の痕跡は何もなかった。西へ向かう前に最悪の惨状を越えられることを願い、彼は内陸へと向かった。見覚えのある風景や建物は何もなく、それは長く続くように感じた。この荒廃はどれほど酷いものなのだろう、彼はそう訝しんだ。

 そして内陸部を進むタウノスを、寒風に運ばれてきた最初の雪が出迎えた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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