MAGIC STORY

兄弟戦争

EPISODE 02

メインストーリー第2話:始まり

Miguel Lopez
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2022年10月20日

 

アルガイヴ暦69年

 タウノスの公用機工場は人と機械の喧噪に満ち、常に不協和音が響いていた。あらゆる階級と種別の工匠や労働者が広大な作業場を行き交い、荷車を押し、機械加工されたばかりのベアリングやねじ、モジュラープレート、帆布製の覆い、および沢山の新たな武器を抱えた旧型の公用機を先導していた。がたつくベルトコンベアやゆっくりと移動する棚から下げられているのは、戦いのために改造された新型の公用機だった。タウノスが設計した製造環境は極めて秩序だっており、なめらかな石の床と塗装された線が最も安全かつ効率的な経路に沿って人や機械を誘導するようになっていた。だがこれほどまで慌てふためき、かろうじて統制された騒ぎが見られたことはなかった。彼はそれらすべての上に立ち、ガラスの背後にあるドーム状の事務室から見つめていた。機械による平和という夢がそのヴェールを脱ぎ、血なまぐさい真実が明らかになりつつあった。

 ウルザとミシュラはただ殺すためだけの機械を設計していた。ミシュラの教えについてはわからないが、ウルザは師として実例を示してくれた。若いころのタウノスは聡明で、非凡な玩具職人かつ名高い技術者だった。だがウルザが太陽の輝きだとすれば、自分はただの蝋燭の炎でしかなかった。タウノスが知るものは全て、ウルザの教えによるものだった。聡明な玩具職人から熟達の工匠へ、ウルザの確固とした手は巧みに、そして冷淡にタウノスを変えたのだった――ウルザが世界の姿形を変えたように。

 事務室の展望デッキに取り付けた金属製の手すりを、タウノスは指の関節が白くなるほど強く握りしめた。まるで水を絞り出そうとするかのように。公用機たち――戦争以外のどのような目的にも使えるようにできる、そんなものは自身への欺瞞だった。ペンレゴンの公用機製作の計画を立てたのはタウノスだが、その設計理論そのものはウルザが考案した機械が元になっていた――燃やし、潰し、壊すためだけの機械。公用機の手は繊細ながらも頑丈で、建設用工具を掴んだり収穫物を背負ったりするために洗練されている。それらはいとも簡単に、武器を振るえるように改造可能だった――何故ならそれらは元々、ウルザの報復者のために設計されたものであったから。公用機の関節や留め具の規格が共通であるのは、ペンレゴンの備蓄品にある修理部品を使用できるようにするためではなく、ウルザが戦場で戦争機械を修理できるようにする必要があったから。孤独な観察から振り返り、タウノスは異様に歪んだ憤怒と苦痛に直面した。その最も恐ろしい事実の暴露は、揺るぎない明晰さをもって彼を打ちのめした。そして機械のあらゆる部分の中でも、その動力源以上に破滅的なものはなかった。スランのパワーストーン。入念に割られ磨かれたそれらは、ウルザとミシュラの戦争機械を動かしていたように公用機を動かしている。苦々しい一瞬、タウノスは気付いた――ペンレゴンの備蓄はもう数年で枯渇する。ペンレゴンにエネルギーを供給するための代替資源や方法がなければ、人々の要求は満たせなくなる――そして暴動が起こるだろう。人々の助けになりたいという自分の熱意は、ただ状況を元に戻しただけだったのだ。世界の状態が兄弟戦争の開始以前に戻ったことは必然と言えた。

 光を点し続けるための別の方法が見つからない限り、冬が来たなら再び争いが巻き起こるだろう。ただ時間の問題というだけだった。

 タウノスは椅子に身体を沈め、卓上の紙の山を見つめた。失われて久しい世界の知識を集めた唯一の書庫。彼は古いフォリオ本、丸めた青写真、何冊ものノート、綴じられた紙束に目を通した。あの終わりの前にともかく掴み取ってきた師の業績。これらの才覚溢れた文書の前では、タウノスはただの占い師と言えた。技術者ではなく占い師。それどころか、武器作り師か。彼は拳を握り締めた。気分が深く沈んだ。若い頃には野心が自分を高みへと持ち上げていた。だがそのエゴは玩具職人として満ち足りることを許しはしなかった。そして今、鈍い頭痛とともに彼は悟っていた――他者の作品を改良することだけに人生を捧げてきたなら、世界の死に対する自分の罪はもう少し薄かったのだろうかと。騙されやすい王や女王のために、屠殺されたばかりの雄牛の内臓を占って人生を費やしてきたなら、自分が世界へと与えた危害はもっと少なかったのだろうかと。

アート:Matt Stewart

 卓の隅、半ば埋もれた小さなノートにタウノスは目をとめた。見慣れたそれはウルザではなく彼自身のものだった。中に描かれているのは自作の設計図――機械仕掛けの鷹や蛇、入り組んだ構造、パワーストーンを効率的に利用するための機構、そして粘土と工匠術を混ぜ合わせた殺人者、生体兵器の設計。タウノスは紙の山からそのノートを引き出して開き、手早くめくった。中には素晴らしい図表、緻密に描かれた線、理路整然とした計算が満ちていた。さまざまな色のインクや消えかけた石墨で殴り書きにされたメモは、稲妻のような一瞬の発想や改造案や思い出しの瞬間を物語っていた。若い頃の筆跡は素早く確固としており、そこには微塵の疑いもなかった。当時は自分の仕事に確信を持っていた。自分が設計した武器の優雅さにやりがいを抱いていた。自分たちの目的は正当だと思っていた――国を守り、敵を打ち倒す。あれから、敵の服装以外に何が変わったのだろう?

 世界が変わった。自分が変わった。

 タウノスの背後、事務室を囲む巨大なガラス板を通して聞こえる創造の音は途切れなかった。作業員たちは耐水性に優れた厚手の帆布を公用機の弱点である関節に巻き付け、重要な部品を守るために分厚い装甲板を溶接していた。若く優秀な工匠たちは戦場で兵士に用いる指揮と命令を公用機に転用するため、翻訳と見直しを行っていた。斥候隊と衛兵隊の士官たちは小集団に分かれて歩き、技師たちからこれら即席戦争機械の限界と運用能力を学んでいた。街のそこかしこで技術者が土台をこじ開けてパワーストーンの小片を取り出し、街灯や地区の暖房装置が切れた。それらの石は公用機の胸部や稼働剣の柄、高熱槍の核へと取り付けられる。今一度、平時は戦時に。全てタウノスの命令によって。

 彼はノートを閉じ、ウルザの設計図の山の上に置いた。

「全部、海に捨てる」 タウノスはそう呟いた。彼はカイラを思い、彼女は約束を守ってくれることを願った。そしてまた別の女性、アシュノッドを彼は思い出した。世界が終わった今、果たしてまだ時間はあるのだろうか。

 だがまずは、長年でも初めての勇敢な行動をとらなければ。自分の最初のアイデアを。とうとう自分が導き、世界をよりよいものへと変えるのだ。彼は自分のノートから破り取った数枚の頁を見つめた。機械仕掛けの蛇、鳥、ネズミ。自分の玩具たち。異なる手法。彼はそれらをポケットに押し込んだ。

 闇の中、タウノスは笑みを浮かべた。

 工場にいた者がその炎を目撃した時には、既に手遅れだった。それはタウノスの事務室を焼き尽くしていた。炎がガラスを舐め、燃え上がる紙とインクの悪臭を放つ炎が中のすべてを飲みこんだ。


 ペンレゴンの包囲は一日続き、日没までに二度の小競り合いへと発展した。一度目は予想されていた争いであり、タルの聖戦士たちが外から街を奪おうとして失敗した後の流血沙汰だった。太陽が灰色の地平線に沈むと、ペンレゴンの守備隊はタル教団の歩兵を敗走させるため、城壁にただひとつ開いた血まみれの裂け目から忍び出た。聖戦士たちは開いた唯一の突破口を活用することに失敗し、生き延びた者たちは死体を放置して夜の中をよろめきながら敗走していた。負傷者たちはうめきながら彼らの後を這って追いかけた。遠くでは、行軍の本隊と勝利したペンレゴン守備隊との間で、重厚な鎧をまとう残忍な騎兵たちが汚れのない武器を持ってたたずみ、暗い視線を街に向けていた。武装された公用機が城壁の裂け目から現れ、崩れ落ちた石塊の間をぬって進み、それらの武器や核は古いパワーストーンからの放熱で輝いていた。機械やその人間の片割れたちに圧倒され、タル教団の騎兵はペンレゴン人が捕虜を確保し死体を集める中、見ていることしかできなかった。

アート:Ryan Pancoast

 二度目の戦いはもっと広範囲に及んだ。ラディックの軍勢は以前――誰も確信は持てないが、恐らくは昨年のうちに――熱心な信者をペンレゴンの居住地域と商業地域へ入り込ませていた。長く暗く寒い冬の間にこの伝道者たちは人々を改宗させ、秘密の信者集団を育てていた。タル信者の教えは機械と魔道士の両方を呪った。福音の熱意に動かされた彼らはタウノスの公用機がまとう滑らかな金属の装甲の中に悪魔を、「第三の道」のわずかに残る学者たちの中に悪鬼を見た。ペンレゴンにおいて魔法は使われていなかったが、工匠術だけでも信者にとっては十分な燃料だった。この街における彼らの重要性は、戦時から続くものであろうと戦後に得たものであろうとに関わらず、教団員を完璧に焚きつけた。

 その炎はタルの聖戦士の本隊が到着したことで一気に燃え上がった。ラディックの布告が拒否されて城門が閉ざされると、中の教団員たちは怒涛のように行動に移った。包囲戦が始まる夜明け前、タル教団がペンレゴン前の原野に軍勢を展開する中、爆発と炎が街を揺さぶった。タウノスの工廠で、居住区のそこかしこで、そして港に停泊した数隻の商船が燃え上がった。黒ずくめの狂信者たちが群衆へと駆け込み、鎮火にあたる衛兵や古い公用機に襲いかかった。街の防衛隊の反応は遅れたものの大挙して動員され、城壁からの援軍にも助けられた。タル教団員は狂信に突き動かされていたが、ペンレゴンの人々は自分たちの家を守るために戦った。路地を一本ずつ、大通りを一本ずつ、ペンレゴンの公用機と軍はタル教団員を隠れ家へと追いやっていった。正午までに死者は数百人をかぞえ、街中で火災が猛威を振るい、有志の消防隊が戦った。夕方には最も激しかった戦いも鎮静化し、最もしぶとい少数の教団員たちが包囲されて立てこもるのみとなった。

 カイラは街の警備隊長や民兵隊長と共に、守りの固い哨所にてその暴力の一日を過ごした。ジャーシルも一緒だった。このような危険の中、孫を別のどこかに残しておくというのは考えられなかった――戦争で一人息子を戦争で失っただけでなく、もう一人の血縁を刃の危険にさらすなどとは。ジャーシルが自分を祖母ではなく女王として見ることになる、それを意味するのだとしても。

 街の指導者として、カイラは軍の冷徹な計算をただ目撃しただけではなかった。司令官たちが城壁から公用機を移動させ、だが街中の狂信者たちと戦わせるのを躊躇した時、彼らは事態の打開のためにカイラへと願った。偵察隊は増援を必要とした時、カイラへとペンレゴンの民兵を城壁の裂け目に向かわせてくれるよう頼んだ。夜が明けて城壁の防衛が成功したとわかると、彼女の部下たちは知る必要にかられた――捕虜とした教団員は処刑すべきか、投獄すべきか、それとも追放すべきか? その日の精密な戦術は指揮官たちに委ねられていたが、カイラは街の良心であり、ペンレゴンの代言者であり、誰が生きて誰が死ぬかを決定する存在だった。

 翌朝。カイラは鼻と口を布で覆い、焼け落ちたタウノスの工廠を見渡した。巨大な建物の骨組みは焦げて灰色の空へ突き出し、辺りは湿気と煙に満ち、炎をあおって燃え尽きた油や化学物質の悪臭が漂っていた。鉄屑の山と部分的に融けた公用機の物言わぬ塊が建物の床を埋め尽くしていた。

「火事は深夜に発生しました」 ミュレルの声は布越しにくぐもっていた。「監督者に聞いた話によりますと、出火はタウノス氏の事務室からだそうです」 ミュレルは他とは異なる、判別不能の金属や残骸の塊を指さした。「申し訳ございません、カイラ様。彼の姿はどこにも発見できておりません――ここにも、私室にも、死者の中にも」

 カイラは頷いた。タウノスは行方をくらました。「作業員の方々は?」

「全員逃げることができました。数人が消火を試みて煙を吸入しましたが、安静にして新鮮な空気を呼吸させれば回復するでしょう。ですが工廠内の公用機が駄目になりました――少なくとも十体ほどが」

「これは襲撃ではありませんね」 カイラが言った。

「炎は一気に燃え上がりました」 ミュレルは眉をひそめた。「ウルザ氏の古い設計と、タウノス氏の戦時中からの成果が全て――」

「ミュレル、周りを見てごらんなさい」 カイラは偵察隊長の言葉を切った。「他には何も燃えてはいませんし、誰も死んではいません。タウノスの事務室から出火した時、彼はそこにいたと作業員は言っていました。爆発はなく、煙が上階に流れ込むまで誰も気づかなかったそうです」

 ミュレルは唸り声を発し、頷いた。

「タウノスがこの火災を起こしたのです」 カイラはそう言い、斥候隊長の返答を待たずに焼け跡の中へと踏み入った。鼻と口を覆う布は悪臭を幾らか防いではくれたが、炎の勢いは強かったのだろう。焼け焦げた金属の臭いは彼女の鼻をついた。湿った焼け跡を漁っていた数人の作業員は手を止めて道具にもたれかかり、無関心な目でカイラを見つめた。

 カイラはタウノスの事務室であった塊の前で足を止めた。今となっては、一晩中燃えて崩れ落ちた灰と金属の塊が湯気を立てるだけだった。書類も書物も残っておらず、卓上に置かれていたと思われる汚れたパワーストーンの破片だけがかすかに輝いていた。

「自分勝手なお爺さん」 カイラは灰へと囁きかけた。

 焼けた金属が音を立てて冷えてゆく。水滴がまだ熱い灰の山に滴り落ちて蒸気になる。戻ってきた作業員たちのショベルが床をこする。それらだけが彼女への返答だった。明るい笑い声も真面目な呟きも、丁寧な咳払いも、力強く確固とした声もなかった。かつての人生への繋がりが、またひとつ断ち切られてしまった。

「私に何も残してくれなかったのね」 カイラはそう言った。焼け残った日誌も、奇跡的に保存されていた書物もなかった。来たる冬にペンレゴンが立ち向かうため、タウノスの公用機を再現したり新たな自動人形を発明したりするために使えそうなものは何もなかった。好天の季節と豊作が彼女の前に広がっていたが、何十体かの公用機が残っていなければ、街は再び人力の労働に戻らざるを得なくなるだろう。カイラは昨年の冬にタウノスの事務室を訪れ、残る数体の公用機は寿命が近いことを知っていた――それらのパワーストーンは古く摩耗しており、十年前にそのエネルギーをほとんど使い果たして動きを止めた戦争機械から回収されたものだった。昨日の戦闘がそれらに与えたであろう負荷を考え、カイラは不快な苛立ちが自らの内に凝固するのを感じた。

「私たちに、何も残してくれなかったのね」 カイラはそう言って立ち上がり、工廠の残骸を見渡した。自分が彼を必要とした以上に、ペンレゴンは彼を必要とした。確かに、タウノスが彼女のかつての人生へと提供した繋がりは、傷が癒える痛みのようではあったが心易くもあった。その傷を魂から切り離し、自分は癒えることができた。だがひとつの街はひとりの人ではない。癒えることはなく、生きるか死ぬかのどちらか。タウノスは、自身の生涯の業績と収集したウルザの工匠術の知識を携え、ペンレゴンをも連れ去ったのかもしれない。今ではなくともいずれきっと、冬を止めることはできなくなるだろう。氷はますます近づいてきている。季節が短くなり続けたなら、近い将来には冬だけの時代が訪れるだろう。公用機とパワーストーンなきペンレゴンは、死ぬのだろう。

 カイラは惜しむように灰に背を向け、立ち去った。やるべき仕事がある。守るべき街がある。不可避と思われる終わりから守れるのであれば。

 その日遅く、損傷したものの機能する公用機が二体、作業員に加わった。ペンレゴンの街路の雪かきをさせるためにタウノスが設計したショベルを取り付けられ、それらは瓦礫を手早く片付けた。包囲戦で破壊された公用機の残骸、パワーストーンを摘出された機械、そして灰や瓦礫はペンレゴンの港に投棄された。長年の工匠術がペンレゴンの黒ずんだ湾に死した。穏やかな波の下、冬を迎えることなく。


アルガイヴ暦79年

 ペンレゴンの終わりは包囲から十年後に訪れた。カイラの最も楽観的な予測よりは長く、とはいえ彼女も確信していたわけではなかった。終わりに至る数年間は短い混乱と恐怖によって時折遮られたが、あの包囲戦のようなものはなかった。

 まず、声のない夏が訪れた。ペンレゴンの庭園や果樹園は毎年、賑やかな蝉の鳴き声に満たされる――ペンレゴンの獅子の真の咆哮、アルガイヴ人は冗談めかしてそう言う――だがその夏、蝉の鳴き声はなかった。多くの者は当初安堵したが、翌年も訪れた静かな夏はあらゆる冗談を押し殺した。鳥たちも昆虫に続き、夏の静寂は沈黙の春を生んだ。

 不吉な兆候は積み重なっていった。あの包囲からわずか数年後の冬、ペンレゴンの港は初めて氷に閉ざされた。防護の固い港の海水は凍り付き、漁船や貿易船を分厚い氷の中に閉じ込めた。当初、人々は絶望した。そして暴動が起こった――仕事と食べ物を失って。そういった示威行動が収まると、人々は凍り付いた船体の隣にあばら家や小屋を建て、まばらで簡素な漁村を作り上げた。船を海に出せないのなら、自分たちを海に出せばいい。当初、商人や船主たちは衛兵を雇ってそのような人々を追い払ったが、氷が割れそうにないとわかると不承不承彼らに漁をさせた。それから冬が訪れる度に、湾は地主が貸し出し、業者が支度を整え、労働者が働く新たな土地となった。人々は魚を見つけ、地主たちはその働きに応じて――多すぎることはないが――金を払う。そして人生は続いた。

 ペンレゴンの斥候隊は内陸への遠征を続けていた。タル教団の出現をきっかけに、彼らは遠方の脅威を調査していた。冬が長くなり始めると、斥候隊は温暖な土地を求めた。カイラは斥候隊の任務に重きを置いて熱心に支援したため、ペンレゴンの人々は彼らの冒険行を希望とともに注視した。冷酷な冬に対抗するため、ペンレゴンの港の地主たちにとって、春の穀物倉庫管理人にとって、夏の船主たちにとって、斥候隊は英雄だった。

アート:Sam Burley

 その希望は報われた。終末が迫る中、斥候隊は遠い西方に緑の大地があるという知らせを携えて帰還した。南カー山脈の険しく細い山道を越えた先では、今も太い草が力強く伸びている。その地には古のヨーティアやコーリス、トマクルの子孫たちが築いた街や村が幾つもあり、人々は山頂よりも下で雪を見たことがないという。更にそれらの人々は斥候隊へと自信をもって伝えた。大砂漠のオアシスと砂を越えた先、トマクルの遺跡の西にも幾つもの街がある。大砂漠の先にはあの大破壊の最悪の惨害から隔離された世界が広がっている。斥候隊は確信をもってそれを伝え、カイラは――口論の絶えない商人や地主、組合長や兵士たちに疲れきっていた彼女は――自分たちの救いの地は遥か西方にあるとペンレゴンの人々に宣言した。

 その知らせに、興奮がただちに広まった。キャラバンが組織され、物資が取り決められてやり取りされ、家々が解体されて荷車や荷馬車へと積み込まれた。何千という入植者――難民が西へと出発し、ペンレゴンへ戻ってくる者はなかった。街は次第に静かになっていった。残ったのは破滅に直面する前にきっと神々がこの冷気を取り払ってくれるという信念に――割に合わないと知りながら――すがりつく者、あるいは街を離れることができない、離れる気はないという残酷な諦めを受け入れた者だけだった。

 年ごとに、冬は夏へと浸み出ていった。かつては爽やかだった中間の季節は身が引き締まるような寒さとなった――それは兆しだった。通常は控え目だったが、時折ペンレゴンを一週間も続く嵐が包み、居住区の誰もいない二階建ての建物よりも高い降雪で街を埋もれさせた。ペンレゴンに残った数少ない公用機は街路の雪かきをし、暖かな建物を渡り歩く孤独な歩行者のために石畳の雪を片付けた。それが死ぬ時は、単純に労働の途中で動きを止めた。立ったままの彼らに雪が降り積もって氷の柱となり、融け、そしてまた凍り付いた。

 ペンレゴンの終わりは――アルガイヴ最後の女王、カイラにとってのペンレゴンの終わりは――秋に訪れた。テリシアの遥か北方へ探検に向かっていた斥候隊が帰還した。彼らは終戦とともにテリシアでは忘れ去られた邪な組織の名残、ギックス一派の噂をその地に聞いて赴いていたのだった。だが帰還した斥候隊は、その地は歩く氷山に埋もれていると伝えた。その動きは時よりも遅いが、時と同じように止めることもできないと。斥候たちは震えながら、カー山脈の最北端が崩壊する物語を伝えた。それらが死ぬ際の咆哮は何日にも渡って響き続けていたのだと。絶望の中で彼らは北西の海岸へと逃れたが、そこでは汚れた灰色の塊へと凍り付いた海を恐怖とともに目撃した。海は氷山を吐き出し、波に揺れては再び凍り付き、カー山脈そのものよりも高くそびえていた。氷の海が割れ、弾ける音はまるで神々の骨そのものが折れる音であったという。魚の揚げ物と湯気を立てるコーヒーで暖まりながら、斥候たちはカイラへと世界の終わりを語った。その氷がこの地に到達するのは何世代もかかるだろうが、止めることもできないだろう。


 最初から最後まで、カイラは落ち着いていた。不吉で止められない世界の変化が加速する中、ペンレゴンがひとつでいるためには彼女の厳格な態度が必要だった。絶望的な諦めに対する公の砦として立つには途方もない労力を必要とし、カイラはありとあらゆる手段を探求した。彼女は古今のヨーティアの神々へと祈った――タルにまでも一度は懇願した。だがアルガイヴ人は無神論者に近く、彼女も特に何も感じなかったため止めた。次に彼女は、亡き父の武術の腕前と身のこなしを見習おうと考えた。戦士の力を得るために身体を鍛えたが、走っても馬に乗っても剣を振るっても心の安静は得られなかった。肉体の鍛錬から離れ、カイラは書物や学問、芸術といった教養に没頭した。彼女はペンレゴン郊外に大邸宅の建設を命じた。その館は未来の支配者への贈り物として、アルガイヴへの彼女の献身を示すものだった――それは職権の行使であり現実に目を背けている、建設が完了して移住すると彼女はそう気付いた。一年間滞在しただけでカイラはその館を引き払い、街へと戻った。

 臣民や顧問たちにとって、これらはすべてアルガイヴの女王カイラの意欲と決意を物語っていた。公の場において、彼女は全員にとっての模範だった――冷静でありながら禁欲的な冷たさはなく、死ぬのではなく標として燃え立つひとりの殉教者。この外面的人格は牢獄のようなものだった。怖れる自由を得られたのはひとりきりの時、真夜中だけだった。闇の時間に、カイラは恐れを世界へと吐き出した。それは彼女が持ち続けることのできる唯一のはけ口だった。

 ペンレゴンの包囲とタウノスの死から数年の間、この怖れは生々しくはあったが、はっきりしてはいなかった。夜の眠りを妨げる冷たい汗、誰も聞いていないことを願って枕にくぐもらせる白熱した憤怒。苦痛、憤怒、悲嘆からは決して逃れられないのではと彼女は考えた。毎朝目覚めると肺は熱く、顎は軋み、頭痛がした。ずしりと重い針の王冠、釘のコルセットを身に着けており、できるのは刺さる場所を調整することだけのようだった。どれほど熱心に祈ろうとも、安堵はなかった。全力の模擬戦も山歩きも心を晴らしてはくれなかった。絵画も詩も心をとらえてはくれなかった。壮大で空ろな邸宅を独りそぞろ歩いても、息抜きにはならなかった。カイラは臣民たちへと、ペンレゴンは皆を必要としている、世界は皆を必要としている、痛みや悲しみや恐怖に打ち負かされることはないと励まして一日を過ごした。その助言の背後に真実は何もなかった――彼女は何も感じず、孫への愛情さえかき立てることができず、悲嘆が自分を殺してしまうかもしれないと考え始めるようになった。

 ある寒い冬の日、あの包囲から数年後、それは起こりかけた。


 独りで寒さに震え、汗だくのカイラは丸めたマントを顔に押し付けると再び叫んだ。誰かに聞かれる心配はなかった。彼女は邸宅へと戻り、雪の中を独り歩いて立派な顧問たちやペンレゴンの金持ち連中の些細な口論から心を解放していた。世界は終わり、それでも志の高い悪党たちは契約と賃料をめぐって言い争っていた。目の前しか見えないダニ、強欲な愚者。カイラは彼らが嫌いだった。自分が愛した者はことごとく死んだというのに、どうしてこの者たちは生きている? 失ったヨーティアが、家族が、未来が恋しかった。あのうるさい蝉の鳴き声すらも恋しかった。もう沢山だった。

 カイラは斥候隊が追いかけてこないようにミュレル隊長へ書き置きを残すと街を出た。そして一時の救いを求め、あの閉鎖していた大邸宅へと向かっていた。

 古い外套、クルーグから救出された時のくすんだ緋色の衣服に身を包み、カイラは邸宅の玄関広間にうずくまると喉が枯れるまで叫んだ。街を離れてから一日が過ぎていたが、彼女は邸宅のそれ以上内部には入り込んでいなかった。彼女は荒れ狂う感情を何もかも呼び起こし、愛したものへの呼びかけを止めることができずにいた――ウルザ、タウノス、ハービン、ジャーシル、母と父、燃えるクルーグ、輝けるクルーグ、ラディック、氷、それらのあらゆる記憶を。かすれ声しか残らなくなるまで彼女は叫び続け、やがてむせび泣くことしかできず、そして何かが折れるのを感じた。

 熱が彼女の内に流れた。腹の奥底のどこかから炎がうねり、身体のあらゆる神経を焦がした。彼女は唖然とし、恐怖し、火花が手から弾ける寸前にかろうじて外套を脱ぎ捨てた。炉の熱が掌の上の空間に眩しく燃え上がり、祭りの花火のように弾けた。耳鳴りがし、顔は熱に紅潮した。

 魔法。

 耳鳴りが止んだ。それが起こった瞬間、彼女はそれが何であるかを察した。このような驚異が存在すると少女時代に聞いたことがあった。以来ずっと、工匠術の及ばない力があるという噂を耳にしていた。ウルザですらそれについて言及し、世界の片隅にて操られる難解な力だと罵りを呟いていた。彼女もそのようなものは空想だと一蹴していた――連合王国の誰もがそう考えたように。だがこの夜、あらゆる疑いは彼女から離れた。ウルザが世界を殺した時、魔法が世界へと弾け出たのだ。絶望のどん底で、カイラは自ら炎を点したのだった。

 震え、焦げ、ただ独りカイラは掌を見つめた。細い煙が宙へと伸びていた。掌に火ぶくれができていた。大気に焦げた匂いが漂った。彼女は微笑んだ。数年ぶりに、カイラは声をあげて笑った。

 新たな、密かな慰めが絶望の夜から取って代わった。彼女は街へ戻り、職務を再開し、ペンレゴンの書庫へと執事を送り込んで魔法の書物や巻物を探させた。驚いたことにそれらは豊富に見つかった。秘儀の組織「第三の道」の古い拠点であったテリシア市の生存者たちがペンレゴンに移住しており、それなりの量の著作をもたらしてくれていた。それらの中には一冊の複製本があった。ラト=ナム大学の学者であり、「第三の道」の指導者の一人であるハーキルが技術を探求したもの。あの戦争についての話が本当であるなら、テリシア市を攻撃したミシュラ軍の最初の部隊が一斉に姿を消したという。カイラも戦時中にその話を聞いていたが、空想の類だろうと思っていた。長く血なまぐさい包囲からの生存者たちが紡いだ希望なのだろうと。だが自ら実践した今、彼女はそうではないと考えていた。

 カイラは毎晩、その書物に記されているハーキルの瞑想術を実践することで訓練を続けた。魔法の制御は集中力を磨くことで上達できるとあり、彼女はペンレゴンの書庫から最愛のクルーグの石をひとつ持ち出し、その石に力のすべてを注ぎ込むことを学んだ。彼女は石が赤熱して手に持てなくなるまでエネルギーを込めた。次に彼女は苦痛を消すことを学んだ。練習しながら彼女はしばしば火傷を負ったが、止めはしなかった。代わりに彼女は両手に清潔な包帯を巻き、エネルギーを通しても皮膚が焼けず痛みが起こらなくなるまで練習を続けた。そうして彼女は次の段階へと進み、この熱に方向性を与える方法を学び、粗い炎や冷たい光を作り上げて自らの傷を癒した。

 これらの訓練はカイラを元気づけたが疲弊もさせた。ハーキルが書いていたように自身の魂に語りかけることは、生々しい記憶と感情の泉へと自らを開くことを意味した。涙が乾いて練習用の石が冷えても、カイラの絶望はかすかに残っていた。最後まで残るこの感情を燃やし尽くすことはできなかった。つまずきだらけの初心者から確信ある熟練者へと成長してもなお、この幽霊は彼女から離れなかった。指でかすめるだけで蝋燭の炎を点したり、紙で切った指先を治したり、掌に乗せた石を赤熱させられるだけかもしれない。だがそれが起こった、それを制御できたという単純な事実は、彼女に自信を持たせてくれた。

 カイラは悟った――この荒々しく思いがけない魔法を操ることができるなら、自分自身を暗闇から救い出すこともできるかもしれない。どちらの克服にも同じ努力を要求する、そして彼女は勤勉な生徒だった。

 夜を経るたび、練習を経るたび、カイラは訓練用の石のように冷静になっていった。悲嘆に怒り狂うのではなく自らの石に炎を込め、それを用いて蝋燭を点し、蝋燭が燃え尽きる中で怒りを制御した。慣れ親しんだ痛みに遭遇したなら熟考し、受け入れ、脇にやった。絶望が彼女から去っていったのではなく、カイラはそれを聞き入れ、別れを告げたのだった。氷の中でも太陽は毎朝昇り、彼女よりも怯えて力ない人々は毎朝訪れては彼女に助力や導きを、そして安らぎを求めた。毎日、彼女は人々に手を差し伸べた。毎日、彼女がカイラ・ビン・クルーグとして知る女性は、クルーグのカイラは――死ぬことはなかった。彼女は変わった。生き延びた。今もまだ怯えてはいたが、希望は携えていた――燃え続ける炎を内に宿していると知った今、彼女は夜を怖がりはしなかった。

 そのため、斥候隊が新たな希望の知らせとともに西方から帰還すると、カイラは移住を望む民の全員に準備と保護が行き渡るように気を配り、移住者たちが必要とする物資を組合長や穀物王たちの倉庫から持ち出すようミュレルと斥候隊に命じた。カイラの命令に抵抗しうる者はほぼいなかったが、数人は試みた。彼らは人々と戦うための金と傭兵こそ有しているもののそれだけであり、穀物王たちは態度を和らげた。斥候隊の大多数は移民の先遣隊としてペンレゴンを離れ、街の人口の半数近くが荷馬車の列をなして続いた。ミュレルも彼らとともに出発した――カイラは母親が愛する子供にそうするようにミュレルの両頬に口付けをし、いつか西方でまた会えると励ました。

 最後の荷馬車の列が出発するとペンレゴンは静まり返り、これまでになく長い冬とともに闇が訪れた。嵐が街を打ちつけた。とりわけ過酷な暴風雪のある日、タル教団の聖戦士たちが戻ってきた。カイラは城門を開けるよう命令し、ペンレゴンの暗い大通りへと彼らを招き入れた。機械の悪魔をどこに隠したのかと彼らは問い質したが、それらは氷の先へ歩き去ったとカイラは聖戦士たちに伝えた。ペンレゴンには隠すものも悪魔もない、ただ飢えた人々がいるだけだとカイラは告げた。彼女は避難場所を提供すると言い、教団員たちはようやくペンレゴンへと入った。ふと興味を覚え、彼女はラディックについて尋ねた。鍛え抜かれた聖戦士たちの中に彼の姿はなかった。

「死んだ」 彼らの新たな指導者はそう言った。やせ衰えて冷淡なその男にラディックのような魅力はなかった。カイラは市場で蒸留酒とワインを買い求める彼の姿を見つけた。

「鉄の塔の後、ミシュラの炉へと行軍した。悪魔どもの数と怒りはすさまじかったが、タルの加護あって全滅させることができた。信心深き者も多くが死に、ラディックもそのひとりだった」 彼は蒸留酒の瓶を鞍袋へと押し込んだ。「あいつはお前の何だ?」

「何でもありません。古い世界を思い出させる人、それだけです」

 痩せた男と随員たちは去り、黒ずくめのタル教団員の長い列も――長年の行軍を経て残る者たちも――続いた。彼らは雪の中をとぼとぼと進み、白い闇の中へと消えていった。

 最後の年が終わろうとしていた。日を経るごとに人々は街から去り、命と熱と音を奪っていった。幾つもの地区が荒廃したまま残され、街は縮んでいった。

 カイラは最後にペンレゴンを発つ者たちの中にいた。ここは自分の街ではあるが、寒く無人の街路で死ぬつもりはなかった。その悲嘆はクルーグの石に込めた――残すべきものができて、彼女は離れる決心をした。斥候隊は乾燥した草の葉と押し花を手に帰還し、緑の草の海を約束した。砂漠の向こう、雪をかぶるカー山脈と東の廃墟の先に、生きている世界がある。街や村があると斥候隊は断言し、だが彼らがカイラに伝えたのはそれだけではなかった。優しくも残酷な噂話――西の空に、ひとりの男と空飛ぶ機械が目撃されたと。

 ハービン。

 カイラは悲嘆の全てを吐き出していた。希望に染まるかもしれない悲嘆をも。そのため、カイラはその話を聞いても心を激しく乱すことはなかった。息子を探すために急いで独りペンレゴンを離れ、山々や川を渡ることはしなかった。彼女は民の最後のキャラバンを準備し、彼らとともに西方へと出発した。残ったのはペンレゴン港の冷酷で血に飢えた地主たちだけだった。彼らは自分たちの惨めな土地からの移動を拒み、金貨を数え続けてそこに留まり、やがて氷に飲みこまれた。


 カイラはペンレゴンと自らの邸宅を後にし、残る移住者たちと共に今やはっきりとした道を辿った。吼えたけるカー山脈へ登る道でキャラバンは苦戦し、最も標高の低い経路を選んだにもかかわらず、寒さや暗闇やその地の危険な生物によって全体の四分の一の人数を失った。辛い下り坂をよろめき進むと、そこには以前の年から残された何百という凍死体が転がっていた。移住者たちがようやく緑の広がる西側に到着すると、低い標高は彼らへと幾らかの安堵をもたらした。そこで、カー山脈の苦い影の中、カイラは若い頃を過ごした土地に今一度立った。ヨーティア、かつては自分が正統な女王として統べることになっていた地。カイラはずっと、血まみれで好戦的な将軍や女将軍の称号を嫌っていた。なんと不愉快で不道徳なのだろうか。戦争の達人という称号を神々に与えられた者が、どうして平和に国を統治できるというのだろうか?

 自分は良い女王になれただろうに。

 春の雪解け水で、マルダン川は彼女が覚えているよりも激しく豊かに流れていた。移住者たちは古い川の新たな岸に沿って進み、川が曲がれば同じく曲がり、小さな浅瀬や渡し船に出くわしたならそれを用いて川を渡った。まだ橋はなかったが、架けられる時も遠くないだろうとカイラは見積もった。雪と氷はペンレゴンや東方のように、カー山脈西方の土地を脅かしてはいなかった。長い冬はやって来ており、大陸を隔てる壁がそれを遅らせていただけではあるが、今のところは山の影の中で金を稼ぐことができた。キャラバンでも疲弊しきった、あるいは身体を痛めた者たちはこの地にできたばかりの村々で移動を止めた。そこでは豊かな土を耕し、砂金をふるい分け、鉄屑を漁り、獣を狩り、魚を釣ることができた。ここでは生計をたてることができるだろう――文明が滅びた後の人生。けれど少なくとも、生き延びるだけではなく生活することができる。

 丘陵地帯と深い森はまもなく乾いた草地へと変わった。広い空の下、ペンレゴンを発った避難民、その最後の数百人は西への旅を続け、苔に覆われた古い戦闘機械の残骸や見捨てられ砦を通過した。彼らは滅びた街の石の廃墟や古い戦場を横切って進んだ――爆発で開いた穴や塹壕は池となって夕時には蛙が鳴き、古い死者の骨は朽ち果ててユリや葦の根覆いとなり、それらの間を小鳥たちが飛び交っていた。西への道は道であると同時に墓所でもあった――時に彼らは馬車や荷車の腐った残骸を通過した。それらの持ち主や荷役獣の死体は食われて久しく、あるいは斃れた場所に埋葬されていた。

 彼らはついに西でも最初の街、新ヨーティアへと辿り着いた。広大な西方を見渡す台地の上、木造建築が立ち並ぶ新ヨーティアは古いマルダン川の激しい水流を見下ろしていた。川では巨大な水車が幾つも回転し、石臼を動かし、川沿いのあらゆる産業へと動力を供給していた。自然の台地と山々に面した土塁以外に街を守る壁はなく、周囲には耕作地と農家の小集落が広がっていた。背の高い信号塔が一定の間隔で街に向かって並んでおり、荷馬車の列を目撃した管理人が合図を伝えていった。

 その門を訪れた者をペンレゴンが歓迎したように、新ヨーティアも彼らを歓迎した。街は温かく親しみやすく、カイラの民のほとんどはこの地に居付いた。カイラもそうしようかと考えた――彼女は疲弊しており、新ヨーティアは若い頃を思い出させてくれた。街の匂い、食べ物、音楽、言葉、簡素な木造建築ですら、徹底してヨーティアのものだった。新ヨーティアはクルーグではない――クルーグの屍は何十マイルも先に眠っている――けれど近くまで来ていた。

 カイラはその冬を新ヨーティアで過ごし、賑やかな街区にある小さな茶店の上階にて比較的快適な暮らしを営んだ。夏になったら、西への旅を再開しようと彼女は決意した。新ヨーティアは川の港であり、カー山脈の西側を行き来する罠師や鉱山労働者や農民で賑わっていた。もっと遠方から来た者もおり、そういった人々を通してカイラは更に西方にもまた街があると学んだ。ラト=ナム、スミファ、他にも古い街や新しい街が、東を破滅させた大破壊の影響を受けることなくあるという。同じく、カイラは更なる物語も耳にした。そのひとつは優雅な機械の話だった。鏡のような銀色に輝き、閃光のように素早い。そして西の青空に舞う、最後の空飛ぶ男。彼は英雄、そう人々は言った。太陽へ飛んでいってその黄金を盗み出したのだと。その男はかつてあの大破壊で死んだが、風の伝令として生まれ変わったのだと。ハービン。彼女の息子、西の空の伝説。

 死んだのか生きているのか、幽霊なのか魂なのか、カイラは大陸を渡ってその真実を知ろうと決意した。テリシアではこれまでにも奇妙な出来事が起こっていた――タウノスとともに彼女は死者の帰還を見た。自身とジャーシルの内に彼女は魔法を見た。古い世界は死にかけ、思い出し、震えていた。新しい世界が生まれつつあった。


アルガイヴ暦80年

 西へと出発する前の晩、孫のジャーシルが彼女の質素な部屋を訪ねてきた。賑やかな市場を見下ろす階にて、家族ふたりは洗練されたヨーティア風の夕食をとった。最後の一皿が供されると、カイラは待機させていた使用人を下がらせた。食事は軽いもので、ふたりは黙って食した。しばし夕時の市場の喧騒が辺りを満たしていたが、やがてカイラは孫がふさぎ込んだ様子に耐えられなくなった。

「ジャーシル」 カイラは食器を卓に置いた。「小鳥みたいに食べるのではありませんよ」

「すみません、おばあ様」 ジャーシルは礼儀作法が許す限りに背を丸めて座っていた。彼の料理はおざなりに切られただけで手をつけられていなかった。

「私と一度も目を合わせてくれませんね。心配事があるのでしょう。恋人、勉強、それとも他の何かですか?」

「他の何かです」 孫はそう言い、市場へと視線を向けた。「どうしてこの場所を選んだんですか? おばあ様は女王です――新しい宮廷に部屋を持つこともできたでしょうに」

「その通りですね。でも私はずっと皆と離れて過ごしてきたでしょう。だから皆の中で生きたいと思ったのですよ」 彼女は再び食器を手にした。

「けど護衛もなしに」

「私はただのおばあさんですよ。もう香水をつけなくて済むのがありがたいのです。香辛料や油や香の匂いの方が良いですから。護衛は必要ありませんし、欲しいとも思いません」

「でしたらタル教団は?」 ジャーシルは眼下の市場を探し、茶売りと言い争うタル教団の兵士ふたりを指さした。「魔道士を狩ってる、そう言ってますよ」

「そう言っていますね」 カイラは頷き、料理を一口食べた。

「怖くないんですか?」

 カイラは笑い声をあげた。「全く怖くなんてありませんよ。老女というのは誰かしらから魔女呼ばわりされるものです。国を導くような不幸な目に遭ってきた老女は特に。それに――私たち全員を捕まえられはしません」 彼女がウィンクをすると、エネルギーの柔らかな脈動が部屋に満ちた。カイラが置いていたランプの灯火が一斉に消え、そして再び点いた。

 ジャーシルは両目を見開き、眼下の市場にいるタル教団員を見た。彼らは気付いていなかった。誰も気付いていなかった。

「タル教団は私など気にしていません」 カイラは微笑み、ほとんど手をつけていないジャーシルの皿を顎で示した。「私が気にしているのはあなたの食欲ですよ――それと上の空な様子を。何を悩んでいるのです?」

 ジャーシルは冷えてしまった食べ物を突いた。

「言ってごらんなさい」 優しく、だが確固としてカイラは言った。

「一緒には行けません」

 カイラは片眉を上げた。ジャーシルは一人前の大人かもしれないが、この瞬間の彼は男子生徒のようにおどおどしていた。一瞬彼女は血の気がひくのを感じたが、表情に出す前にかろうじて平静を保った。

 ジャーシルは父親にそっくりだった。かつてハービンも同じように、自分の前に立った――飛行機械の部隊に加わるつもりだ、そう告げたあの日。怖れにうわずる声も――どうなるかではなく、カイラがどう反応するかの怖れ――遠い昔のハービンのそれと同じだった。

 彼女は息をついた。今、戦争はない。ジャーシルは、この聡明な子は、ハービンではない。

「噂を聞いたんです。北の、ロノム湖のほとりに学校があるって」

「ロノムには何もありませんよ。ギックス派がいましたが、タル教団の最初の聖戦に駆逐されたそうです」

「ええ、その通りです。けど今は別のものがあるという噂を聞きました。学校、その――何かができる人のための」

「魔法の学校が?」

 ジャーシルは頷いた。「魔法と工匠術の両方です。僕らのような人に、どうすれば上達するかを教えていると。どうすれば強くなれるかを」

 カイラは考え込んだ。ジャーシルは、古い世界の慣習と新たな世界の要求の両方から見ても、既に大人だった――とはいえ彼女はしばしば彼をまだ少年のように思っていた。彼はカイラの隣で人生を過ごしてきていた。父親から預けられ、世界の終わりに育った。カイラの世界の終わりに。だがジャーシルの世界は、危険ではあるが彼のように若く、成長し続けている――彼が追おうとしている噂と自分が辿ってきた物語、信憑性が低いのは果たしてどちらだろうか?

「魔法と工匠術」 カイラは繰り返した。そして疑問が浮かんだ――そんなことがあり得るだろうか? 「その学校は誰が動かしているという話は聞きましたか?」

「ノッドという工匠の女性と、ダックアヒルちゃんと呼ばれる魔道士だそうです」ジャーシルはそう言って首筋をこすった、まるでそれらの名を口に出すのは気恥ずかしいとでも言うかのように。「西の方から来た人なのかもしれません。奇妙な名前ですよね」

 ノッドとダック。古い友と新しい友。タウノスがあの日に本当に死んだのか、カイラはずっと疑っていた。彼女はジャーシルへと微笑んだ。「行きなさい、北へ。私よりも素晴らしい先生がそこにいるのなら、見つけ出しなさい」

 肩の重荷が降りたかのように、ジャーシルは表情を輝かせた。それでも、その目に涙が溢れ出た。

 カイラは立ち上がり、卓を回ってジャーシルへと向かい、彼を持ち上げるように抱きしめた。「私の可愛い子」 彼女は抱擁に力を込めた。「私とあなたの物語は異なるものです。私の物語は終わりつつあるかもしれませんが、あなたの物語は始まろうとしているのですから」

「でも、行くのは怖いです」 抱擁の中、ジャーシルの声はくぐもっていた。

「ええ、私も」 カイラはそう言い、孫の頬に口付けをした。「ですがあなたと同じく、私も楽しみです。その楽しみが導く行き先を選ぼうではありませんか」

 ジャーシルは頷いた。彼は一歩下がり、鼻を手の甲で拭った。「僕のこと、伝えてくれますか?」 誰に、それは説明されずともカイラにはわかった。

「きっと」 カイラは頷いた。「あなたもダック校長に私のことを伝えてくれるなら。それで、いつ出発するのです?」

「明日の朝に出発する部隊があるんです」 祖母の願いに対する彼の好奇心は、自身の計画を喋る中で消えてしまったようだった。「急いで持ち物を揃えないといけないんですが、その部隊の先導役には興味があるって伝えてあります。僕が行くことは想定してくれているはずです」 ジャーシルの涙は乾き、さっそく彼は早口に喋り始めていた。興奮した時、ジャーシルは目に見えてエネルギーに燃えていた。

 学校で学ぶ。本当に魔法の学校がそこにあるのなら、彼に良い教育をしてくれるだろう。「ぐずぐずしていては駄目ですよ」 もう行くようにカイラは示した。「急いで荷物をまとめて、明日の朝絶対に行くとその先導役に知らせておきなさい」

「おばあ様、お別れを言うのは辛いです。言いたくはありません」

 カイラは頷いた。「そうであれば、お別れは言わないことにしましょう」 彼女は孫を今一度抱きしめ、その額に口付けをした。「また会いましょう」

「また会いましょう」 ジャーシルはそう囁いた。

 カイラは孫を送り出した。翌朝、夜明け前に彼女も街を発った。


 西へ向かう最も安全かつ早い道はマルダン川を経由するもの。この大河はクルーグの廃墟を通過して旅人たちを砂漠の端に降ろす。そこからはトマクルの廃墟を通る幹線道路にてその先へと至る。

 カイラはかつての故郷を見たいと願った。新ヨーティアの人々は、ずっと昔にマルダン川の洪水がその街を水浸しにしたと言っていた。テリシアを揺るがした破壊的な爆発が堤防ごと壊したのだと。かつて王宮と貴族階級の居住区があったクルーグの南部地区を除いて、街の大半は水没したままだった。かつての壮大な首都は今や川の新たな流路に沿うひとつの湖となり、南のカー山脈からはるばる雪解け水が流れ込んでいた。

 将軍が再びクルーグを統べている、そう聞いてもカイラは驚かなかった。その人物はかつての強大な指導者たちの流儀を真似る乱暴者だった。将軍の略奪隊は街を取り囲む街道や原野を脅かしており、新ヨーティアの射手やタル教団の傭兵に守られた速い船の旅を選ぶ方が賢明といえた。タル教団は新ヨーティアに密集しており、野原の花のようにどこにでもいた。彼らの陰気な悔悟と悪魔狩りは新ヨーティアのまばゆい明るい喜びにとって迷惑な存在だったが、その騎士団の規模は大きく街の防衛戦力を提供してくれていた。クルーグの略奪団の脅威を跳ねのけるために彼らの存在が必要であると、カイラは理解していた。自分ひとりの力で彼らを根絶し、故郷となるかもしれない街から彼らを追い出すことも不可能であると理解していた――例え魔法を用いたとしても。そのため彼女は船に黒ずくめの兵士の一団が乗り込んできても反対はしなかった。教団員たちは深い青色の清潔な制服をまとい、鎧は黒く、油をさした剣には錆ひとつなかった。かつてペンレゴンに襲いかかった必死の群衆とは似ても似つかなかった――最初の敗北は彼らの信仰を思いとどまらせはしなかったようだった。

 タル教団員は下部甲板と船倉に、乗客と新ヨーティアの射手たちは上部甲板に乗り込んだ。戦闘が発生したなら、最悪の事態はタル教団へと降りかかると思われた。彼らはこの取り決めを気にせず、またカイラも気にしなかった。彼女の下方で教団員たちは祈り、食べ、武器を磨き、眠り、見張った。彼女に目を向ける者はいなかった。彼女の身元を知る者はなく、気にしようと言う者もいなかった。カイラにとっては、とてもありがたかった。

 ひとたび出航するとカイラは船の第二甲板を支配し、夕時には船室に戻るようにという船長の言葉を無視した。彼女に連れはおらず、聞く耳も持たなかった。新ヨーティアの代表団はカイラの古いアクセントと態度に気付き、彼女が自分たちと距離をとるのは無礼であるとはみなさなかった。年老いた奇人、世界の終わりを生きてきた数少ない年長者――そう彼らは受け取った。川に出て最初の数日が過ぎると、新ヨーティア人は質問や提案を止めた。独りとなったカイラは自由に休み、過ぎ行く世界を見つめた。

 クルーグの廃墟まではあと一日ほど。彼女の膝の上には、ずっと書き進めていた詩の最後の頁があった。世界を殺した男の、壮大な歴史。こうして残さなければ誰もが忘れてしまうだろう――あるいは許してしまうだろう。

 弓術の練習をする新ヨーティア人たちの明るい笑い声がカイラの注意を引いた。彼らは弓を鳴らして岸辺の木々や放棄された農場の柵、戦争機械の錆びた残骸を目標に訓練という名の勝負を行っていた。下方の甲板ではタル教団員のひとりが歌いだし、すぐに他の者たちも加わった。彼らの歌が合唱となって昇ってきた。

 このまま一週間を過ごすのも悪くなさそうに思えた。カイラはトマクルを見たいと心から願った――例えその壮大な街の廃墟が残るだけだとしても――そして物語でしか聞いたことのない、更に西の土地を探検してみたいと熱望した。

 歌に合わせ、カイラは足で床を叩いた。この日の執筆から休息をとろうと決め、彼女は本を閉じた。船の穏やかな揺れが心地よかった。陽光が頬に温かく、彼女は目を閉じて微笑んだ。

 カイラは解放された。


アルガイヴ暦85年

 今のクルーグは、かつての壮大な都市とは似ても似つかなかった。石造りの誇らしい塔はほとんどが崩れ、わずかに残る中空の一本石は鳥たちだけが住んでいた。湖を見張るこれら孤独な歩哨はクルーグでも最も背の高い構造物の名残だったが、そこに広がる新たな街の一部とはみなされていなかった。あの大変動後のクルーグは、高床式の建物や歩道が水面の上に寄りかかり、積み重なった雑多な塊のようなものだった。街のすべてがふたつの物事のうちどちらかひとつに捧げられていた――湖の恵みを収穫すること、あるいは川を行き来して略奪を行い、金貨や捕虜や物資をクルーグの暴君、ファスク将軍の富へと加えること。

 ファスクは賢い乱暴者だった。将軍という称号と物腰を備えた彼は、あの大破壊に続く十年の間に頂点への道を切り開いた。ファスクは現在、テリシア南西岸のゼゴンの廃墟から北方の緑が迫る砂漠の端までのわずかな王国を支配していた。新ヨーティアやタル教団と争う東の国境は不明瞭であり、それらは依然として彼の略奪団を押し留めていた。国境内では誰もが彼を称え、単純な「十分の四税」に従っていた――あらゆる価値あるものの四割が彼の宝物庫と個人の宝箱に収められ、残りは忠実な臣民へと分配される。彼は、その支配に苦しむ人々にとっては残念なことに、この地を争った将軍の中では最も公正だった。そのように、ファスクはお気に入りの戦士たちには死ぬまでの忠誠を、臣民にも同じく死ぬまでの服従を命じた。

 ファスクの終わりは、新たに台頭する国家と飢えた将軍とに領土を奪い取られて訪れた。新ヨーティアとタル教団が彼の領土の東半分を征服して分かち、一方でファスクの強敵たちが西半分を引き裂いた。その戦いが終わったのかどうかは誰にもわからない――記録が存在したとしても時と氷の中に失われ、あるいはタル教団の書庫に埋もれてしまった。ファスクの最期、暴君と幽霊の夜の物語もまた失われた。


 クルーグの暴君、ファスク将軍は最も深い深夜に目が覚めた。私室に音が鳴っていた――缶、硬貨、大メダルがぶつかる音。

 ファスクは薄い毛布を跳ねのけ、彼と同じく裸の剣を掴み、その音へと向けた。彼の部屋は、その質実剛健な設備からは想像できなかったが、倉庫や宝物庫のように物が分厚く詰め込まれていた。護衛たちは将軍の妄想と狂気を噂したが、ファスクは必死だった。自分が見たものを証明する必要があった。

 細い紐が蜘蛛の巣のように広い部屋じゅうに交差し、あらゆる類の小さな輝くものが吊り下げられていた――缶、硬貨、銀やブリキの食器、大メダル、ナイフ、鎖帷子、矢尻――誰かが少しでも触ったなら、大きく明白な音を立てるもの。これはファスクの罠、自分は狂っているのではなく正気であると証明するための仕組みだった。

 この数か月間、ファスクは夜に聞こえる声に苛まれていた。足音や会話、建築や崩壊の音。表面上、彼は暗殺者を怖れた――警報の仕組みはそのため、彼は護衛へとそう語った――だが内心では、彼は他のものを怖れていた。もっと危険なものを――運命を。

 ファスクは両目から汗を拭い、あの神託者の言葉を今一度、不意に思い出した。

『死者は殺した者を忘れはしないよ』 血まみれの歯を見せ、その女は甲高く笑った。『いつの日かまた会うだろうね――お前さんが振るった剣が、一千倍にもなって帰ってくるのさ!』

 ファスクがその神託者に出会ったのは「剣の行軍」の征服行のさなか、雨降る暗い夜のことだった。彼は略奪隊とともに、立ちはだかった名も知れぬ村を破壊した。あの女が告げた破滅は彼を十年に渡って苦しめていた――戦で築いた玉座についていても、あの大破壊以来これほど重く彼の心にのしかかるものはなかった。

 覚醒から続いた沈黙の数分の中、ファスクは汗に濡れた背へと恥辱が緞帳のように降りるのを感じた。自分は時代遅れの老婆を怖がるような愚か者なのだ。この剣は素晴らしくも誇らしい武器、剃刀のように鋭く、そしてこの部屋には誰もいない。自分はクルーグの暴君、古ヨーティアの将軍ファスクなのだ! ただの風に違いない、湖を越えてきた風――

 その音は、寝台の下から聞こえてきた。

「そこにいるのは誰だ?」 ファスクは叫び、剣の柄を両手で握りしめた。恐怖が彼を動かし、震えを止めることができなかった。

「何者だ、名乗れ」 ファスクは問い質した。「誰に送り込まれた、幽霊よ?」

 沈黙があった。長い静止に、ファスクの思考が堂々巡りをするほどだった。風だろうか――強い風、それだけかもしれない。いや、ありえない! 糸を動かしたとすれば強風でなければならない。警報を作動させたものは間違いなく生きている。それらは胸の高さにぶら下げられ、缶やガラスの破片が床に散りばめられている。音を立てずにこの部屋の中を移動するなど不可能だった。

 寝台の下からまたも音が聞こえた。何かが怒っているような、一瞬の息の音。まるで獣が牙をむき出しにして、口から涎を垂らしながら忍び寄ってくるような。

 ファスクは大慌てで背中を壁につけ、その音から可能な限り離れようとした。格子が塞ぐ小さな窓からは明るい月光が差し込んでいたが、彼には何も見えなかった。剣の柄から片手を放し、彼は寝台の上に手を伸ばしてそこに置いていた覆いつきのランプに触れた。その取っ手をひねると覆いが外れた。暖かな光線が闇を貫き、寝台の足元を照らし出した。

 ひとりの人間がそこに立っていた。いや、人間ではない――ほの暗い影。ランプの光線でも途切れることのない、この部屋の闇にできた痣。それは形のない煙とひとりの男の確固とした姿とを行き来する、半ば実体化した霊だった。短く刈られた髪と小奇麗に整えられたあごひげをファスクは確認できた。その霊はじっと動かず、彼を見つめた。

 ファスクは悲鳴をあげた。クルーグの暴君は剣を落とし、両手で目を覆った。彼はがくりと膝をついた。これこそが怖れていた破滅。死者の霊がやって来て、クルーグの冷たい水の下へひきずり込むのだ。その墓の上に、自分は王国を築いていたのだ。

 その霊は浮遊したまま後ずさり、その動きのさなかで下半身が霧から実体へと固まった。男は缶と大メダルが下げられた糸に当たり、小さな音を立てた。

 護衛たちが剣を手にして部屋に飛び込んだ。だが彼らが目にしたのは、将軍が悲鳴をあげながら自らの顔をかきむしる様子だけだった。彼らは困惑して顔を見合わせた。ある者はファスクを助けようとその隣に急いだ。またある者は無骨な顔を曇らせたまま立ち去った。もう沢山だった。


「ケイヤ」 見えない姿、聞こえない声でテフェリーは影から囁きかけた。「引き戻してくれ」

「テフェリー、ほんの数分しかそこにいなかったけど」 ケイヤの声は彼方から吹く風のように柔らかかった。「何をしたの?」

「何も! だが見られたようだ」 彼は寝台に丸まって悲鳴を上げる裸の男を見つめた。護衛と思しき者たちが宥めようとしていたが、男は彼らに暴言を浴びせていた。

「それと私も、その、実体があるようだ」 テフェリーはそう言うと、確かめるために罠の糸へと手を伸ばした。それは風に吹かれたようにそっと跳ね返った。慰めとは程遠い動き――今の彼に実体はない想定だった。物理的な存在ではなく、ただの霊に過ぎないような。テフェリーはかぶりを振った。「ケイヤ、錨が正しく調整されていないようだ。それと目標に届いていないように思う――十分に遡れていない。引き戻してくれ」

 ケイヤが何かを呟いたが、テフェリーには聞き取れなかった。

「何だって?」

「何でもないわよ。サヒーリに何か考えがあるって」

 ケイヤが驚く声がテフェリーには聞こえた。

「わかったわ。戻すわよ」

 テフェリーの霊は霧と化して消えた。静穏な夜に、クルーグの暴君の悲鳴だけを残して。


 それから何百年も後のこと。ある老いた男がその夜の物語を孫たちに語り、楽しませていた。彼はその後に続く争いを、王国へと一体の幽霊がもたらした隆盛と凋落を、そして予言と魔法の重要性を語って聞かせた。

 孫たちは皆その話をただの物語と考えていたが、それを話してくれる時の祖父の表情や声は大好きだった。そのため彼らはしばしばその話をねだった。テリシアの氷河の厳しく寒い夜に、物語は心を高揚させてくれた。

 ドミナリアに氷河期が訪れ、孫たちは皆長生きをし、この物語を自分たちの王朝に合わせてさまざまに変えて語り継いだ。だが彼らも、暴君と幽霊の物語も、氷より長生きはできなかった。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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The Brothers' War

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