MAGIC STORY

兄弟戦争

EPISODE 08

サイドストーリー第4話:暗闇(ザ・ダーク)

Reinhardt Suarez
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2022年10月25日

 

 神聖なる光を浴びて、おのれの魂がいかに穢れているかが明らかになると、不信心者たちは絶望の淵に沈んだ。

――タルの書

 

 最愛のエルズペスへ

 忘却というのは極めて自然なことです。生存とは忘却の内に存在します。あらゆる物事を完璧な順番で記憶しておくということは多くの注意力とエネルギーを必要とするのです。とても多くの。これこそが、貴女へ向けたこの手紙の目的です――忘れるという行為、思い出すという行為はそれぞれが互いの利益を奪うので、その負担を軽減するために。どうか、ここに書かれた言葉を胸に留めておいてください。


 一週間ほど前にドミナリアに到着してから、エルズペスはなかなか寝付けずにいた。休息をとり、この人里離れた塔の施設で時間をかけて入浴し、古い騎士の誓いを唱えて瞑想した。だが穏やかな雨音ですらも、彼女を夢の門へと導くことはできなかった。

 日没から夜明けまでの物憂げな時間を埋めるため、彼女は塔の大広間にて鍛錬を行い、ヴァレロンの従者時代に学んだ戦闘の型をなぞった。訪れた当初この広間はがらんとしており、望むままに剣を振るうことができた。だが日にちが経過するにつれ、この広間は次第にサヒーリの金属兵で混雑していった。テフェリーの要請を受け、エルズペスはこの機械の守備隊の指揮を執ることになった。それは理にかなっていた――この塔に滞在するプレインズウォーカーの中でも、戦場の経験が最も豊富なのだから。それでも、この構築物たちは本物の騎士に比べたなら貧相だった。誰かを守って受けた傷について、誰かの代わりに……何らかの神聖な存在へ呟く祈りについて、これらは何を知っているというのだろうか。

 何も知らない。鋼が知るのは鋼のみ。

 エルズペスは兵士の一体へと、鋤の形をした剣を渡した。鎧をまとった二足歩行の甲虫に似た構築物。そして彼女は別の兵士の腕からむしり取った小盾を持ち、第一の構えをとった。第一から第二へ。彼女は左から逆手で振るい、無言の敵に刃をぶつけ、そして額の前に戻した。第二から第三へ。エルズペスは再び振るい、剣を引き、耳のすぐ近くを過ぎた刃が歌うのが聞こえた。第三から第四へ。今一度頭上に弧を描き、彼女は金属兵の頭部を軽く叩いた。第四から第五へ。最後に剣を勢いよく振り下ろし、刃先を背後まで回転させた。

『宜しい。もう一度やってみろ』

 一……二……三……四……五。

『もう一度。もっと速く』

 一、二、三、四、五。

『まだ遅い! もう一度!』

 一二三四五――

 エルズペスはよろめき、剣が手を離れて床に音を立てた。憤慨し、彼女は小さい盾を目いっぱいの力で外へ投げ捨てた。どう戦うか、それを考えなくてもよい時期がかつてあった。動きが筋肉に縫い込まれ、骨に刻まれていた。余計な考えは必要なく、躊躇は認められなかった。だがニューカペナでの経験を経て彼女の動きは鈍り、利き腕は震えていた。

「お前の装具だ」 雨にずぶ濡れになったレンが入ってきた。七番、このドライアドの相棒である樹木が水を滴らせながらエルズペスへと盾を差しだした。

「ありがとうございます」エルズペスはそっけなく言った。彼女は盾を受け取って剣を拾い上げ、金属の兵士の向かいに立つと一連の動きを再開した。レンは七番の中から見つめていた。

「何かここに用事ですか?」 エルズペスは尋ねた。

「お前はふたつの旋律を宿している。そんなことがありうるのか?」

「どういう意味です?」

「あらゆる存在はひとつの歌の一部だ。全体の一部を構成するひとつの旋律だ。しかしお前は――お前の内にはふたつの旋律がある。ひとつは一定で誤りのない短音。もうひとつは裂け、途中で押し殺された詠唱だ」

「私は……いえ、それはきっと誤解です」

「誤解はない。まるでお前はふたつの異なる人生を歩んでいるかのようだ。ひとつは光の中を、もうひとつは影の中を」

「貴女は間違っています」 エルズペスはそう言い放ち、剣を叩きつけるように鞘へと収めた。

「そうか」 レンがそう言い、七番は脇によけてエルズペスへと場所をあけた。

 エルズペスは顔をしかめた。こんな短気に振舞うつもりはなく、だが自分についての物事をこのドライアドが自身ありげに表現する様は好きではなかった。まるでほんの数日一緒にいただけで、自分の魂を知り尽くしたかのように。

「レンさん、すみません。私は――」

「静かに」 レンは彼女を遮った。「雨の律動が乱れている。何者かが外にいる」

 エルズペスは剣を抜き、塔の巨大な正面入り口へと近づいた。このような開けた通路が塔の内部に通じているというのは嘆かわしいことだった。跳ね橋の方が戦略的にずっと優れているだろうに。濠のある楼門ならばなおいい。ともかく、軍隊の前進を妨げるものを。

「数はわかりますか?」

「二人だ。大きさは人間だ」

 二人という数は侵略軍ではない。だとしても、防衛側としては既に過ちを犯していた。

「レンさん、他の皆さんを起こしてください。私が調べます」

「いや、共に出よう。その音で目が覚めるだろう」

 エルズペスとレンは雨の中へと出て前庭を過ぎ、波打つ低い階段を下りて草や土で埋もれた石の小道へ出た。

「姿を見せなさい!」 エルズペスが声をあげた。「そこにいるのは誰ですか?」

 返答はなかった。とはいえエルズペスは危険を冒す気はなかった。

「レンさん、私から離れないでください」 エルズペスはそう言い、明かりの呪文を盾へと唱えた。そして剣の先端を用いて彼女はレンと自身を取り囲む円を地面に描き、力の言葉を唱えた。攻撃が向けられる兆候があれば、この円に力を与えて敵対的な魔法を防ぐことができる。

 彼女は盾にかけた魔法の明かりを暗闇に向け、するとふたつの人影が近づいてくるのが見えた。武器を抜いておらず、敵対するような足取りでもない。それだけでなく、エルズペスは魔法の存在を感じ取った――その人影を取り囲むかすかな緑色の輝き、そしてプレインズウォーカーの灯のかすかな気配を。

 だが味方なのか、それとも敵なのか?

 エルズペスは剣を強く握りしめた。どちらにせよ身構えておかなければ。ふたつの人影が魔法の円から数歩の所まで近づいた時、その片方が――燃えるような赤毛の女性が――手を挙げて呼びかけた。「あなたがエルズペス?」


 真剣に。休みなく。忠実に。従者の献身というのは賞賛に値するものです、特にその技術が欠けている頃は。一度ならず、貴女はアランの刃の扱い方をからかいました。彼はバントの真の騎士には決してなれない、貴女はそう知っていたのです。腕力は強く、闘技場での剣の腕はなかなかのもの。けれど印章階級の一員としては? 彼は決して相応しくありませんでした。

 それでも貴女は彼を戦場へ連れ出しました。一人前の男の真似をしていたあの若者が斃れたのは不思議でも何でもありません。貴女の癒しの魔法で連れ戻された時、彼は貴女を秘密の女神のように見上げました。『私たちに希望をくれた』、回復の床を訪れた貴女に彼はそう言いましたね。『信じております』と。当たり前ですよね? 師というのは、弟子が最も導きを必要としている時に責任を放棄などしないのですから。

 ですが貴女は放棄した。剣を置き、鎧を脱ぎ、義務を拒んだ。近頃の彼は毎朝、仕えている修道院の美しい庭園をよろめき歩いて過ごしています。その身体を苛む痛みは、魂の空虚さに比べたなら何でもありません。彼はようやく貴女からの真の教訓を得たのです――希望を抱いてはいけない、それは貴方のためのものではない。


 ニッサ・レヴェインとチャンドラ・ナラーが光の中へ踏み入った。エルズペスが彼女たちを知る以上に、彼女たちはエルズペスについて知っていた。そういった者はアジャニのおかげで何人もおり、今さらに二人が追加されたことになる。彼女たちの名誉のために言うと、チャンドラもニッサも親切であり、他の皆と同じく温かさを放っていた。けれど自分の友人ではない、向こうはそう願ってはいるものの。そのうちそうなるかもしれない、けれどその時はまだ来ていない。

 だから、エルズペスは微笑んだ。微笑んで何も言わず、報告会議で疲れ果てたケイヤへと彼女たちを引き渡した後は、挨拶のために振り返ることもなく立ち去った。結局のところ自分には自分の義務があり、会議に座ってお茶を飲むことはそれに含まれていない。塔の中は活気に溢れていた。その多くは広間を発生源とし、自動人形の召使たちが機械兵の軍勢を磨き上げていた。

 塔の外に出ると先程の土砂降りは十分に収まっており、谷の境界に沿って並ぶ監視塔へと向かうことができた。それらは古の防御網の残骸だった。ここ数日、エルズペスはサヒーリに代わって監視塔の改良を進めており、おかげでテフェリーやケイヤと協働した時空錨の作業に集中できるとサヒーリは喜んでいた。今のエルズペスにこの仕事はぴったりだった。塔の喧騒や議論から離れ、この短期間に起こったすべての物事を反芻することができる――テーロスの死の国から這い上がり、故郷の次元を見つけ、アジャニを失った。

 違う、単に失ったのではない。

『彼は奴らの一員になってしまった――ファイレクシア人に』 テフェリーはそう言っていた。『すまない』

 その思考を心から押しやり、エルズペスは袋を肩にかけると見張り塔の根元の岩をよじ登った。塔の側面に彫られた石の段で少し休憩をとるとその後は登り続け、柵を越え、最上部の小さな見張り場所に辿り着いた。屋根付き台座の中央には、かつて侵入者へと銛のようなものを発射した砲塔の残骸があった。今ではその土台、崩れかけた石の山が残っているだけだった。

 エルズペスは袋から鋼鉄で覆われたシリンダーを取り出すと、古い砲塔を素早く数度蹴って簡単に倒した。彼女はサヒーリから預かったシリンダーを所定の位置に取り付け、黄色い小さな水晶をその上部のくぼみに差し込んだ。すぐにシリンダーは自発的に回転して倍の大きさに展開し、三脚の土台の上に短い一本の砲身が形成された。その先端からエネルギーの稲妻が発射されるのだ。

「よし」 彼女はそう言い、砲室の壁にもたれて座った。そして目を閉じ、冷たい空気を呼吸し、雑念を払った。習慣的に、彼女はバントの守護天使アーシャへ祈りを唱え始めた。

「罪に迷い込むこと無かれ」 だがそこで彼女は止めた。どれほど修行を積んでも、その真言を何度繰り返しても、アーシャが自分に耳を傾ける義理はなかった。アラーラを離れた時にエルズペスはその誓いも捨てたのだ。ならば別の信仰対象、ヘリオッドは? あの狭量な暴君、信仰を捧げるに値しない悪者であり殺人者は、今や当然のごとくテーロスの死の国にて岩に繋がれている。待ち構える神々は他にもいる――ひとつ挙げるなら、このドミナリアではセラが信仰への祝福を約束している。

 そしてそれが問題だった。どんな信仰を捧げればいい? 私が愛する全ては去った。誰もが去った。何も信じることはできない。だがそれも完全に真実ではないと彼女は思い出した。残っている者たちもいる。コスは生きている。ビビアンは真の友だと証明してくれた。そしてジアーダが。今、ジアーダが自分で見てくれていたら――そう彼女は思いを巡らせた。もし、それができたなら……

「ずっと願っていたものはこの手の中にある、そう言いましたよね」 エルズペスは小声で呟いた。「ですがファイレクシア人は――奪うだけです。奪い、歪ませ、憎悪と絶望しか残らなくなるまで壊す。アジャニをそうしてしまったファイレクシアを私は憎みます。過ちが私を決めるのではない、そう言いましたよね。ですが眠ろうと床になっても、守れなかった者たちの姿だけが見えるのです」

 ジアーダがその言葉を聞いていたとしても、返答はなかった。あるとは思っていなかった。


 愛のためにどれだけのものを諦められますか? メレティスのダクソスに関して言えば、彼は全てを諦めました。彼自身、彼を意味するもの、愛でるもの――そのどれも、もはや彼の手中にはありません。彼にとってはヘリオッドだけ。堕ちた主からの罰はダクソスを解放しませんでした。日中の彼は太陽の意志を実行することを強制され、取り戻された命は永遠のくびきとなっています。ですが夜には夢の中で枷から解放されて彷徨い、貴女の名前を呼びながらエレボスの無限の園へ、鋭い刃でできたアスフォデルの花咲くその地へ踏み入るのです。刃が脚を切り裂いて血を流させると、彼は立ち止まってその痛みを感じるのです。日中の人生では決して感じることのないそれを。

 月に一度、彼の心は更なる自由を得てクルフィックスの領域奥深くへと向かいます。その神託者としての目は彼に何を見せるのでしょうか? それは貴女です――確かに複製ですが、ダクソスにとっては十分に現実的な。貴女があの多頭の怪物、世界を食らう者ポルクラノスの屍の上に立つ姿です。その手を怪物の黒い血で濡らしたばかりの貴女です。

『どうして君は、苦しみのない人生を送れるというんだ?』 彼はそう知りたがります。貴女は彼の涙を嘲笑い、そしてその胸へ、心臓へと刃を突き立てるのです。

 その直後にダクソスは目覚め、夜明けへと備えるのです。


 エルズペスが塔に戻ると同時に雨も戻った。物言わぬ眩しい金属の戦士たちを通り過ぎて自室へ向かったが、その扉へ続く廊下から聞こえてきた声に彼女は立ち止まった。角から覗き見ると、廊下の床にふたりの人物が座っているのが見えた。チャンドラとジョダー、その間にはワインの入った水差しが置かれていた。

「すっごい怒り狂って。溺れさせてあげますよ、なんて脅してきたんだから! 森を丸ごと焼き払ったわけじゃないのに! ちょっとだけだったのに。ていうか、木はそのうちまた伸びるし……あ、このことニッサには言わないでね」

「溺れさせてやる、か。その脅しは私が由来だな。ヤヤ、君はいつも破壊が上手かった。創造はそうでもなかったが」 ジョダーは水差しを掴み、長々と飲んだ。「ほう、君は彼女の料理を味わったことはないのか?」

「えー」 チャンドラはジョダーから水差しを引ったくり、喉を数度鳴らした。「あのキッシュの件を話さないといけないわけ?」

 ジョダーは笑い声を弾けさせた。「あいつがキッシュを? また作ったのか?」

「その後、ケラル砦から五マイル以内で卵を使っちゃいけないことになったの。嘘じゃないわよ――ジナラの司祭にお金を払って、鶏を追い払う魔法をかけてもらったんだから」

「サヒーリの時間遡行機械を一回転させてもらおうかな。昔に戻って……」 突然ジョダーはふさぎ込み、しばし黙ったままでいた。「昔に戻って、そいつを全部平らげてやるよ」

 エルズペスが見つめる中、チャンドラはジョダーの肩に腕を回して力を込め、自らも流れ落ちる涙をこらえきれずにいた。チャンドラとジョダーにとって、そのヤヤという人物がどれほど大切だったかは聞かずともわかった。最も近しい友だったのだ。

 ふたりの気が逸れている隙にとエルズペスは動いた。素早く現れて通り過ぎ、自室の扉へ辿り着き、チャンドラとジョダーに気付かれる前に姿を消す。何て愚かな想定だろう。

「エルズペス!」 チャンドラが声をあげ、袖口で涙の名残をぬぐった。「ねえ、一緒にどう? ほんと、色々やってくれてるし」

 エルズペスは扉から顔をそむけ、小さな作り笑いを浮かべた。「いいえ、結構です。一帯の地図を調査しなければいけませんし、全てが計画通りに進んでいると確認しなければなりません」

「調査? どういうこと?」

 ジョダーがそれに返答した。「攻撃を受けた場合に備えて、エルズペスは防衛戦略を練ってくれている、極めて大胆な戦略だ、私自身が言うのも何だがな」

 大胆? 彼女はそのような確信は持てなかった。必死という表現の方が正確に思えた。監視塔への配備に加え、彼女はジョダー、ケイヤ、サヒーリと協力して塔への攻撃があった場合の対策を練っていた。それがいずれ起こることは間違いなかった。そのため計画を整えることが不可欠と言えた。成功の見込みがほとんどない可能性であっても、何もないよりはいい。

「ありがとうございます」 彼女は掛け金を下ろし、扉が緩むのを感じた。「何にせよ、お邪魔してすみませんでした」

「待ってくれ」 不意に、ジョダーが真剣な面持ちで言った。「君がここに……馴染めていないのはわかっている」 彼は自身の近くの空いた床を身振りで示した。「ここにいるのは君の友人たちだ。どうか」

 ジョダーのその様子には、彼女が拒否することのできない何かがあった――釘付けとは行かないまでも、引きつけられるような奇妙な親しみが。単にそれは、この塔に初めて来たときに彼から受けた親切心からかもしれない。何があろうと歓迎する、そしてどんな困難を抱えていようと、必要に応じてそれらに対処するだけの余裕を持っていい――そう伝えてくれたというだけ。それだけだとしても、エルズペスの心は和らいだ。彼女は扉を引いて閉め、ジョダーの向かいの床に腰を下ろした。

「ご友人のことはお気の毒に思います」 エルズペスはそう切り出した。「あまりに大変な、苦しいことが起こったのです。悲しむことすら困難に違いありません」

「悲しんでるんじゃないのよ」 チャンドラはそう言い、エルズペスへとワインを差し出した。「ヤヤがどんな人だったかを称えてるの。私たちにそうしてもらうのがヤヤの望みだろうから」

 エルズペスは水差しを拒絶した。「私はその人を知りませんので」

「じゃあ、誰か知ってる人について教えてくれる?」 チャンドラが言った。「誰かさ、すごく早く死んじゃった人」

 エルズペスは先立った者たちの名前を思った。沢山の名前を。死んだとは思いたくない者たちも、その運命を知らない者たちもいた。そして陰気な中間にいる者たちも。ひとつの名前が心の空隙から浮かび上がった。ヘリオッドに打ち倒されて以来、一度たりとて思い出すことのなかった名前が。

「ある男性がいました。アーボーグ出身の工匠で、新ファイレクシアで共に戦ったんです。苛立たしくて、気取り屋で」 その人物を思い返し、彼女は笑みを浮かべずにいられなかった。「けれど聡明で、勇敢で、義理堅い人でした――友達が困っていると思った、それだけの理由で幾つもの次元を渡る冒険をしてのけるような人でした」

「ヴェンセールか」 ジョダーはそう言い、ワインを受け取って幾らかをあおった。

「ご存知なのですか?」

「昔、彼がまだとても若く、私も……少々若かった頃に。恥ずかしいのだが、彼を殴ったことがある――向こうは何も悪くなんてなかったのにな。悪かったと言って私は謝ったが、それで仲直りしたわけじゃなかった。ここにいて、馬鹿げた冗談でも言ってくれたらよかったのに。笑うふりだってしてやるからさ」

「考えてみてください。十年以上も戦い続けて……沢山の死を見て。私は喪失に慣れてしまいました」 エルズペスは言った。「ですが、私を守ろうとして斃れていった人たちの名前からは逃れられません。私の失敗で、私の手をその人たちの血で濡らして。その人たちの霊が夢に出てくるんです」

「ああ。私にとっては何世紀にもなる。私もかろうじて耐えられているだけだ」

「何世紀?」

「知らないだろうな」 ジョダーは背筋を正して咳払いをした。「君たちの前にいるのは、四千歳の人間だ。わかっている、わかっているとも――二千五百歳を超えているようには見えない、だろう」

 二千五百? この人は二十五歳程にしか見えないのに! 「どうしてそんな長生きを?」

「まあ、疑問に思うのが普通だよな。これは長い、長い、とても長い話になる。そんな時間も、全部喋るだけの根気も私にはない」 ジョダーは物憂げにエルズペスを見た。「これまでずっと、大切な人々を失ってきた。今やその人数はとても多くなった。目を閉じれば、今もその姿が浮かんでくる」

「簡単なことではありませんね」

「ああ。誰かを愛するからこそ、辛いよ」

 チャンドラはワインの水差しをジョダーからもぎ取り、それを掲げた。「ああもう、称えるんでしょ? だから乾杯するの! ヴェンセールに! ヤヤに! ギデオンに、それと……」 最後の名前を発しようとして、彼女の口が開いたまま止まった。その名前をエルズペスは推測する必要すらなかった。アジャニ。

「大丈夫です」 エルズペスが言った。「その名前を」

「そうじゃなくて。違うのよ、皆で助けに行くの。その後で、どんな次元にいようとファイレクシアの輩を見つけたら片っ端から焼き払ってやる。私に二言はないわよ」

 エルズペスは頷き、ワインの水差しをチャンドラから受け取った。「ヴェンセールに、ヤヤさんに、ギデオンさんに。喪った人たちと、まだ斃れていない人たちに。その全員が、いるべき場所を見つけるまで」


 構築物は夢をみるのでしょうか? ケイリクスは、もし彼が「夢」という単語を知っているとすれば、見ると答えるでしょう。ですが糸が切れた時、行動を指示する手が奪われた時、操り人形は何を夢見るのでしょうか? 答えは単純です。彼はクローティスに命令された獲物を夢見ており、彼の人生はエルズペス・ティレルの追跡に費やされています。次元から次元へ、場所から場所へ。彼は貴女の追跡を決して止めはしません――起きていても、眠っていても。

 その通り、ケイリクスは力を回復させるために眠らなければならず、眠れば夢をみるのです。貴女の戦いを夢にみて、貴女が彼に対して用いたあらゆる動きを研究し、完璧な反撃を考案するのです。人ではない人がそれを目指す――完璧であることを、自身の目的を実現することを。ですがお判りのように、彼は操り人形以上の存在です。同時に彼は自らの成功を怖れています。ひとたび貴女を捕らえたなら、貴女を連れ戻して運命が指図するようにヘリオッドと同じ破滅を与えたなら、彼には何が残っているのでしょうか? 目的が達成された時、ケイリクスの本質とは一体何になるのでしょうか?

 彼はその答えを知っており、怖れています。運命の工作員であろうとも、定めからは逃れられないのです。


 ファイレクシア人の襲撃は真夜中にやって来た。

 エルズペスは鎧の紐を締めながら塔の廊下を駆け抜けた。一秒ごとに爆発音が弾けて壁に反響し、すぐ真上から聞こえてくるかのように思えた。サヒーリの工房の扉に辿り着くと、彼女は挨拶すらせずに飛び込んだ。

 時空錨はシューシュー、ガタガタと音を立てていた。サヒーリは忙しく歩き回り、その金属細工の能力を駆使して機械部品を曲げてはひねり、装置の分解を一歩先で阻止していた。ケイヤは辺り一面に紫色のもやを放ち、テフェリーを収納した棺型の小部屋と自分自身の幽体化を保とうと奮闘していた。

「攻撃を受けています!」 エルズペスは叫んだ。「必要なものは手に入ったのですか?」

「まだです」 サヒーリは息を切らしながら言った。「ですがテフェリーさんは近づいています。装置を今切ってしまったら、もう過去に戻ることはできなくなります。どうか……もう少しだけ時間を」

 こうなることはわかっていた。エルズペスは目を閉じ、一瞬、あらゆる音が消え去った。彼女はテフェリーへと告げた言葉を思い出した。ファイレクシア人が今もこの次元にいるのなら、ここが見つかるのは時間の問題です。その時には、貴方を守る者が必要となるでしょう――もしファイレクシア人が私たちを追跡するなら。そして今、ファイレクシア人たちはその通りにやって来た。彼女は小盾を腕に締め、剣を鞘に固定していた留め金を外した。ベルトポーチに滑り込ませた光素の小さな瓶を探り、そして深呼吸をした。

 その時が来た。

「私が出ていったら扉を塞いでください」 そう告げて彼女は来た道を駆け戻った。耳をつんざく爆発音にかすかな叫び声や物が割れる音が混じった。広間に辿り着くと既にそこにはレンとニッサがおり、大聖堂のような窓から外を見つめていた。その先では監視塔の砲塔が青白いエネルギーを乱雲の下の影に向けて放っていた。

「あれは何です?」 エルズペスは尋ねた。

「飛翔艦だ」 魔法のポータルからジョダーが踏み出した。「あれを見ろ、私たちの飛行機械部隊だ」

 飛行機械たちの姿は軌跡の光でしか見えず、だがそれらは視界を駆けて飛翔艦へ向かっていった。誰もが見つめる中、飛行機械たちは無数の羽虫のようにその影に群がり、砲撃を浴びせたがそれは相手の姿を明かすことに成功しただけだった。それは船というよりは鋭い角とぎざぎざの棘が生えた空飛ぶ怪物であり、鱗のあるコウモリの翼に似た帆で浮いていた。ゆっくりとそれは軌道を変えて竜骨を下向きにし、中央の塔に狙いをつけた。船が降下するにつれて監視塔からの砲火は激しさを増したが、それらは次々と停止していった。

「防御網が」 ジョダーは虚ろな声を発した。船は地面にまで下降し、船体から巨大な昆虫の脚のように棘を伸ばして着陸した。

 そこまで見れば十分だった。「こちらへ向かってきます。レンさんとニッサさん、何があってもテフェリーさんを守ってください」 エルズペスは兵士たちの中でも、サヒーリがまさにこの時のために作った二体の機械式ヒトコブラクダに視線をやった。金線の乗騎。「ジョダーさん、準備はいいですか?」

 ジョダーはエルズペスを一瞥した。「もう少し大胆じゃない計画を、そう頼むのは遅すぎるだろうな」

「その機会はあったでしょう。ですが今は打って出ます。テフェリーさんのために時間を稼ぎます」

 ふたりは金線のラクダに騎乗し、パワーストーンを装着した槍で武装した――これもサヒーリが準備してくれたもの。ジョダーの懸念はもっともだと言えた。包囲戦において、防御側の強みはその壁にある。戦術理論は、防御側は主要構造の内部に身を潜め、射手やその他の遠距離攻撃部隊を配置して遠くから攻撃し、敵のあらゆる攻撃は消耗戦で打ち破るよう求めている。だが今回の筋書きには問題がふたつあった。まず、この塔は城塞ではない――外へと開かれているため、敵が群がったなら侵入を防ぐことはできない。そして、ファイレクシア軍は普通の軍隊ではない。攻撃に失敗してもその戦意は揺るがないだろう。闇のどこかに彼らは潜み、策動している。エルズペスがしなければならないのは、不和の種をまき恐怖を広める魅力的な機会を提供することで彼らを騙し、典型的な戦争の原則に従わせることだった。

「立て!」 エルズペスは叫んだ。百体ほどの機械兵が即座に目覚めて脚を鳴らし、一揃いの脱穀機の刃のように鋭利な腕を一斉に振るった。その列の背後では、粘土で覆われた十体の格闘機の群れが腕を上げてボクシングの構えを取り、エルズペスが指示した敵を拳で粉砕する準備をした。エルズペスが訓練した人造たち、瞬きをしないそれらの目が柔らかな金色の光に脈動した。

「集合!」 部隊は完璧に揃った足取りで広間を出て中庭へと行進し、円弧状の隊列を三つ形成して端から端まで広がった。

「進軍!」 兵士たちは前進して扇状に広がり、中央の階段を下って大通路の遠端で止まった。粘土像たちは前線を突破した敵に対処すべく中庭に留まった。すべてが配置についた。

アート:Carlos Palma Cruchaga

「急がなければ」 エルズペスはジョダーへと言った。ふたりは壁から離れることなく塔の南側を駆け、包囲網を監視すると決めていた見晴らしのきく場所に辿り着いた。エルズペスは槍を掴み、心臓が早鐘を打った。

「サヒーリさんいわく、発射できるのは一発だけだそうです」 彼女はジョダーへと念を押した。「外さないようにしなければ」

「工匠って奴は」 彼はうめいた。「こういう変わった発明は、複数回使えるようにしたら自分たちが傷つくとでもいうのか?」

 エルズペスは何か言おうと口を開いたが、ある音が彼女の注意を奪った。何かが泥の中をすり抜ける静かな音、続いて囁き声のような音。それから翼の羽ばたきがあり、低く轟く雷鳴が耳を突き刺すような金切り声へと弾けた――ファイレクシア人の鬨の声。その軍勢は塔の明かりと夜闇の境界に集まり、黒い皮膜を曲げ、引き裂くようにそれらを広げた。

 敵軍の最前列には黒い金属板で武装した人型の戦士が立ち並び、それらの腕の塊は剣、鋸歯状の刃、槍先の大きさがある針となっていた。その背後には騎乗した部隊が――巨大な狼のような生物に乗った騎士たち、エルズペスは一見そう思った。だがそれらの動きはあまりに速く、滑りやすい地面をあまりに上手に進んでいた。それらは乗騎と乗り手が融合し、単一の存在となっていた。

 ファイレクシアの地上軍は恐るべき数と武器ではあったが、エルズペスを心底ぞっとさせたのはその次に見たものだった。夜空そのものが動き、翼のある騎士たちが光を遮った。おぞましい姿。それらの身体は腱の束で結ばれた黒い鎌形の刃でできていた。あるものはかろうじて人の姿を保っていたが、あるものは下半身を蜘蛛の脚に置き換えられ、あるいは上空から敵に叩きつけるために脚ではなく棘のある球を取り付けていた。

「しまった」 空中部隊に全て任せられるとは思っていなかったが、作戦を変更するには遅すぎた。敵の進軍は防衛線に迫りつつあった。ファイレクシアの騎兵たちは疾走し、本隊を迂回した。単純だが効果的な戦略――金属獣の猛攻と挟み撃ちを行い、防御を粉砕する。

「まだです」

「エルズペス、今しかない」

 それはわかっていた、だが作戦の全部分を考慮に入れることが不可欠だった。さらに一秒待てば、罠にはまる敵の数はさらに増える。そのまま、そのまま。うごめく塊は防衛線にほぼ到達していた。もう少し待てば、塔の防衛設備の真上にくる。

「今です、ジョダーさん!」

 手の一振りと神秘的な音節の発声ひとつで、ジョダーは先だって唱えていた幻影地形の魔法を取り払った。塔を中心とする複合施設の北端からふたりが立つ場所まで続く、杭が並べられた塹壕が姿を現した。前進の勢いを止めることはできず、ファイレクシアの先兵たちは格子のように張り巡らされた鋭く尖った丸太に突き刺さっていった。力の言葉をもうひとつ唱え、ジョダーは塹壕全体を炎上させて敵軍を混乱に陥れた。

 ファイレクシア軍の歩兵の最前列は騎兵たちと同じ運命をたどり、当初エルズペスは希望を抱いた。だが次の列は躊躇なく仲間の燃え立つ死骸を踏み台にし、塹壕を突破した。続いて飛行部隊が最前列まで前進し、あるいは脚を止めた戦士たちを運んで炎を越えさせた。

 幸運にも、エルズペスたちはもうひとつの策略を隠していた。

「行きます!」 エルズペスが叫んだ。彼女は乗騎に拍車をかけ、侵略軍をまっすぐに貫く道を駆けた。そして鋭く向きを変え、大軍の側面へと突撃した。彼女は槍を掲げ、その先端が白熱した――はめ込まれたパワーストーンがジョダーへと攻撃を合図した。ファイレクシア兵へと乗騎を駆りながら、彼女は槍を敵に向けて定め、柄にはめ込まれた水晶に親指で触れた。ここまでにも、サヒーリは自らの才能を示す以上のことをやってくれていた。だが今こそ、これまでに彼女が創造したものに勝る技が必要とされていた。

 ファイレクシア兵の戦線までわずか数ヤードという所で、エルズペスは水晶に力を込めた。槍のパワーストーンが激しく輝き、熱が彼女の手を包んだ。そしてそれは砕け、溜め込まれていた力がエネルギーの帯となって噴出し、戦場を駆けて対となる相手に繋がった――ジョダーが持つ槍のパワーストーンに。エルズペスは乗騎に拍車をかけて前進し、可能な限り速度を上げて軍勢に突っ込み、エネルギーの帯は小麦を鎌で刈るようにファイレクシア兵を切り裂いていった。彼女は突撃を続け、速度を落としはしなかった。そうしたなら敵の刃がすね当てをかすめ、掴みかかられて鞍から引きずり降ろされるかもしれない。

 その背後にファイレクシア兵の死骸を並べ、エルズペスは軍勢の反対側に到達した。彼女は乗騎を旋回させ、戦場の反対側にいるジョダーからの合図を待つと、再び乱闘に突入してさらに多くの敵を切断していった。一瞬、彼女は肩越しに防衛線を振り返った。自動人形たちは持ちこたえており、敵の小集団へと群がっては反撃を受けるよりも早く相手をずたずたにした。突破した数体のファイレクシア兵は粘土像たちに直接対峙するという過ちを犯し、その柔軟な外装に肢を埋もれさせる羽目になった。

 ファイレクシアの歩兵を更に片付けることにエルズペスが注意を戻したその時、翼を生やした一体の騎士が上空から襲いかかってきたのが見えた。エルズペスは頭への一撃を逸らしはしたが、相手は彼女の乗騎を土の地面に倒してのけた。彼女は濡れた地面から立ち上がろうとするも、重い金属の靴に腹部を蹴られてあおむけに倒れ込んだ。敵はゆっくりと迫り、とどめを刺そうと斧のような腕を掲げた。その首に頭はついておらず、胴体には肉を剥ぎ取られた頭蓋骨が埋め込まれており、それが視覚や感覚を担っているらしかった。

 彼女が素早い蹴りを入れるには絶好の距離だった。それは後ずさり、その十分な隙にエルズペスは即座に立ち上がって剣を抜き、白い光の脈動を――純粋な光素を――放って敵をよろめかせ、視力を奪った。この勝機を逃さずエルズペスは斧頭を払いのけ、自らの剣を敵の胴体中央へとまっすぐに突き刺した。彼女は足でファイレクシア人の死体を刃から押しのけ、顔を上げた。無秩序の中、敵軍は戸惑い混乱していた。

 今こそこの機会を逃さず攻める時。

「突撃!」 彼女は叫び、喧騒の中にその声が響き渡った。命令の言葉を聞いて、塔を守っていた機械の軍勢は攻撃に移り、燃え上がる塹壕を越えて戦場へと突撃した。不意討ちとはならなかったものの、残るファイレクシア兵は包囲網を再構築すべく後退した。エルズペスの剣が届く距離に入ったものは、ぼろ切れや布の袋で作られた人形のように切り伏せられた。そして気付いたのは彼女だけではなかった――エルズペスが近づくと、ファイレクシア兵は後ずさりはじめたことに。

 彼女は一切手加減をせずに戦場を駆け、刃や鉤爪を受け流しながらジョダーの姿を探した。彼は二体の飛行型ファイレクシア兵によってバリケードに追い詰められていた。剣を両手で持ち、エルズペスは突撃とともにひとつの呪文を唱えた、一瞬して彼女の身体は光のらせんに包まれ、高く舞い上がってジョダーの敵の一体を切り伏せた。彼女はもう一体のファイレクシア兵の前に着地すると旋回し、上向きの弧を描く刃で敵の首を宙に飛ばした。

「敵の勢いは衰えている」 ジョダーが言った。

 エルズペスは戦場を見渡した。翼をもつファイレクシア兵は最後の一体が粘土像によって地面に叩きつけられ、引きちぎられた。機械兵たちは残るファイレクシア人の歩兵を泥の中に追い込んで打ちのめした。遥か頭上では飛行機械の戦隊がスカージの群れを追跡し、撃墜した。勝利は確実。エルズペスは振り返ってジョダーを抱擁し、急な疲労に襲われて膝がわずかに笑った。今はとにかく眠りたかった。可能性の大地を夢見て、そして目覚めて新たな日のために戦う。

 だが、それらは実現しそうになかった。

「やばすぎる」 ジョダーの両肩から力が抜けた。

 エルズペスはジョダーを離して振り返った。そこに、黒緑色の渦巻く雲に縁取られ、ファイレクシアの飛翔艦のシルエットが震え、動き始めた――長い休息から目覚めた獣のように伸び、展開していった。船体の底からは巨大な脚が更に数本生え、その身体を塔の頂よりも高く持ち上げた。その黒い姿には血のように赤い秘術文字が見え、エルズペスには読めずともわかった。あれはファイレクシアの言語であり、新たな秩序の到来を告げるべくあの巨獣に飾られているのだと。

 それは前進を開始し、途方もなく重く大きな一歩ごとに地面を震わせた。

「あれを塔に近づけさせるわけにはいきません」 エルズペスが言った。

「その通りだ」 先ほどまでのジョダーの歓呼は、熱烈な決意へと代わっていた。「だが知らなければいけないことがある――君は自分自身の力をどれほど信じている?」

「え?」

 彼はローブの中に手を入れ、首にかけていた小さな革袋を取り出した。そしてそれを外し、エルズペスに見えるよう差し出した。

「それは何ですか?」

「ヤヤがこしらえていたものだ」 ヤヤ――彼とチャンドラがその死に涙していた友人。「エルズペス、君は強い。それは利き腕の力のためではないし、プレインズウォーカーだからというわけでもない。もっと深いところに――繋がりを求める心にある。誰かを救うために炎の中に突き入れる手となることにある。平穏を、家族を、故郷を求める心にある。いるべき場所を求める心にある」

 彼はどうやってそこまで知ったのだろう? 一週間前には自分たちは会ったこともなく、互いの存在すら知らなかった。だがレンと同じように、ジョダーは難なく自分の様々な仮面を剥いでしまった。バントの騎士ではなく、ヘリオッドの勇者でもなく、ニューカペナの復讐者でもない。その全てを取り払って残されたもの――エルズペス・ティレルなのだと。

「そんな……わかりません」

「言っただろう、私はとても長いこと生きてきたと。その間、多くの魔道士と接してきた。そしてある者たちは他よりもある種の魔法への親和性を多く持っていた。君を見つめるのは……身を隠そうとする眩しい太陽をじっと見つめるようなものだ。もう隠れるのは終わりにしよう、エルズペス」 彼は両手でその革袋を包み、強く握りしめた。「ヤヤからファイレクシアへの最後の贈り物だ。チャンドラを選ぶのが当然だっただろうが、私が魔法について最初に学んだのは、炎と光はそう遠いものではないということだった。君にはこれを唱える手助けをして欲しい」

「私は何をすればいいのですか?」

「指示に従ってくれ」

 ふたりはジョダーの乗騎を探し、飛び乗り、ファイレクシアの獣へと急いだ。近づくにつれ、自分たちと世界のすべてがその怪物の重苦しい影の下で縮こまっているように感じた。エルズペスがほんの数分前に感じていた高揚は消え去ってしまった。この怪物に対して、自分たちはわずかな泥の汚れ程度でしかない。何をしたとしても、その足取りを遅らせることすらできそうにないと感じた。

 進み続け、やがてふたりは怪物のほぼ真下に到達した。ジョダーは鞍から飛び降りてエルズペスに手を貸した。ファイレクシアの紋章から発せられる赤い輝きが、ふたりが立つ泥だらけのぬめる地面をぼんやりと照らしていた。怪物を見上げ、ジョダーは両腕を広げて宙へと浮かび上がった。汚れた風にローブがはためいた。

 彼はエルズペスには理解できない言語で詠唱を始めた。彼女が耳を澄ますと、洪水のように映像が心に入り込んだ――黒髪の美女、今とさして変わらない姿のジョダー。ガラスが割れる音、そして炎、『手放すんだ』 ジョダーの声が彼女の心を叩いた。『君の怒りを、苦痛を手放せ。君の幽霊を手放せ――それらは君を悩ませるだろうが、今はその嘆願が聞こえないようにしろ。意識を伸ばせ。その先へ、地面の先へ、空の先へ、君が目覚めている間の、すべての境界の先へ』

 エルズペスはジョダーに教えられた通りにした。彼女は両目を閉じ、緩やかにうねるバントの平原を、テーロス次元のメレティス郊外に延びる守護者の道と黄金の穀物畑を思い出した。違う、それはただの想像ではない――何ゆえか、彼女はそこにいた。両方の場所に同時に。遠く、もっと遠く、自分自身が滑り落ちると感じたほどに遠く――彼女はもはやエルズペスというだけではなかった。彼女はすべてになっていた。目をはっと見開くと、身体中へとエネルギーの奔流が押し寄せており、彼女はその中心にいた。

「さあ、そのすべてを君の内へ戻すんだ」 ジョダーの声が聞こえた。「封じ込められなくなるまで、目いっぱい深く根を張って」

 エルズペスはその嵐を自らの中心へ、魂へと引き寄せた。焼け付くエネルギーに身体が引き裂かれそうだった。

「集中しろ、エルズペス! ひとつ選べ――君の人生に力をくれたものを、目的をくれたものを。君という存在をそれに繋げろ!」

 アジャニ。彼は死んだのだと、もういないのだと彼女は心のどこかで考えたがっていた。少なくとも安らぎを得たのだと。だが心の別のどこかでは、ここにいてほしいと願っていた。チャンドラが主張したように、彼を救う機会があればと願っていた。何故なら彼こそが――自分の人生に希望をくれる、力をくれる人物だから。故郷とは義務。家族とは守りたい人々。ずっと願っていたものはこの手の中にあった。ジアーダが伝えようとしたこと、ドミナリアに到着した最初の夜にテフェリーが願ったことを、エルズペスは今まさに理解した。自分の義務とは他者を守ることだけではない――愛する者たちに守ってもらえるようにすること。家族に。彼らを信じること。彼女が救い出してくれるとアジャニが信じているように。

 救い出してみせる。彼を取り戻してみせる。信じてみせる。

 光の柱が彼女から放たれ、空へ駆け、きらめく力の奔流がジョダーとうねった。エルズペスは彼へと、ヤヤの呪文へと繋がり、まばゆい光の大嵐が彼女のエネルギーから引き起こされ、ふたりを中心として渦巻いた。エルズペスとジョダーはその炎に焼かれ、嵐とひとつになった。共にふたりは自分自身を広く高く拡大し、ファイレクシアの獣を越え、それを金屑と胆液へと融かし、壮麗な旋風の中に蒸発させた。

 そして光が消えた。再びエルズペス・ティレルとなり、彼女は膝をついた。掌が触れた地面は温かく、固く乾いていた。顔を上げると、あの巨大なファイレクシアの獣の痕跡は何もなかった。

 冷たい、宥めるような雨粒が頬に当たった。


 名前とは只の符号に過ぎません。私たちが知識を持っている、ひいては支配していると思わせるための。ニューカペナ? 旧カペナ? それは問題ではありません。親愛なる貴女、収容所にいた貴女の主たちも苦しんでいたと理解して頂きましょう。彼らはファイレクシア人というよりは隣人であり、油の内に救済を見出した家族であり、完璧な金属に縛られた貪欲な膜組織として、鞭打つ絨毛として、振り回される鞭毛として生まれ変わることを望んだ者たちだったのです。

 貴女はそれを知るよしもありませんでした。そしてあの少年も。

 あの少年を覚えていますか? ああ、名前はありました。貴女は尋ねることもしませんでしたが。知ったところでもう手遅れです。貴女とあの少年、ふたりであの相当な計画を立てましたね。看守たちの悪意に満ちた暴言の中で思いついたのです。貴女たちは死体の中に隠れ、肉と内臓の毛布に身を包み、死体が収容所の外の腐肉の山に投げ捨てられるまで待つ――それができると思っていました。ですが貴女を捕らえた者たちは血と内臓を愛している、そこまでは知らなかった。臓物の悪臭は甘ったるい香であり、新鮮な野の花、焼きたてのパン、海の塩気の記憶を消し去ります。彼らの古い名の記憶を、愛したものの記憶を。

 そのようにして貴女たちは見つかった――彼らが見るであろうまさにその場所に隠れていたのですから。彼らは貴女たちの肉片を自分たちの骨に移植すると決め、貴女たちを鎖に繋いだ。プレインズウォーカーの灯のおかげで貴女は逃げ出しましたが、あの少年はそこまで幸運ではありませんでした。

 彼らがどう反応したかは想像できるかと思います。その運命が降りかかった時、少年は夢を見てはいなかったと理解してください。彼らの行いが笑みとともに成された後、少年は残されていませんでした。

 ファイレクシアだけがありました。


「エルズペス!」 ジョダーの呼びかけが届いた。辺りを探すと彼は地面にぐったりと横たわり、ほとんど動けそうにもなかった。「上手くいったなんて信じられない」 苦しい声で彼はそう言った。

 エルズペスはジョダーに手を貸して立ち上がらせ、彼の身体を支えた。沈黙の一瞬、共にふたりは塔を見つめた。穏やかな青い輝きが呼びかけていた――帰ろう、と。

「やったな」 ジョダーが言った。

「私たちが成し遂げたんです」 エルズペスはジョダーの肩に腕を回した。「私と貴方と、ヤヤさんとで」

「君にはヤヤに会ってほしかった。彼女は君を気に入っただろう。それとも嫌ったか。コインの表裏くらいの小さな差だな」 そして彼は微笑んだ。「どちらにせよ、ヤヤは君に感銘を受けただろうな」

 不意に、青白く眩しい閃光が塔の周囲の空を明るく照らし、直後に雷鳴がとどろいた。一瞬、塔あるいはその近辺に雷が落ちたのだとエルズペスは思った。だが稲妻の痕跡は何も見えなかった。違う。その衝撃は地面から発せられたもの。

「塔が攻撃されています」 エルズペスは気分が悪くなるのを感じた。「この軍勢、この怪物は――陽動だったんです」

「その通り」 背後から誰かの声が聞こえた。振り返ると、ジョダーやテフェリーのそれにも似たローブをまとう若い女性が立っていた。赤、青、金の色合いに加え、その女性の服装には重要な差異が加えられていた――彼女の胸当てには星図のモチーフが円形に描かれ、それは実線で二等分されていた。ファイレクシアの紋章。

「ローナ」 ジョダーが言った。「君との再会を喜ぶことはできない。だが――」

 ローナは矛槍を掲げて青色の稲妻を弾けさせ、エルズペスとジョダーは後方の泥の中へと吹き飛ばされた。転覆する船のようにエルズペスの世界が激しく揺らいだ。彼女は剣を手探りし、その柄を探し当てた。だが身体を起こして見たのは、弱って無力なジョダーをローナが見下ろして立つ様子だった。

「ヤヴィマヤで起こしてくれた厄介事のお返しだ」 彼女は矛槍の先端をジョダーの腹部に突き刺し、彼の喉から不快な喘ぎが発せられた。

「やめなさい!」 エルズペスは叫んだ。彼女は急ぎ立ち上がったが、両肩には疲労が巨人のように重くのしかかった。ローナはここまでに対峙してきた敵よりもずっと人間のように見えるが、あの怪物よりも遥かに悪い存在だった。ファイレクシアが約束する力へと、彼女は望んで魂を捧げたのだ。

 エルズペスは数歩後退し、ジョダーの姿が視界に入るよう努めた。だが彼女はかろうじて立っていられるに過ぎなかった。ジョダーの呪文によって彼女は倒れる寸前まで消耗しており、呪文を唱えたり次元渡りをするための気力を集中させることができなかった。今この瞬間あるのは剣だけ、それも持ち上げるのがやっとだった。不自然な素早さでローナは前方へ跳躍し、エルズペスの胴体に向けて矛槍を振るった。普段であれば簡単に受け流せるような攻撃、だがエルズペスにできたのは、腕に取り付けた小盾を振り回して矛槍を弾き飛ばすことだけだった。ローナの次なる攻撃をエルズペスはぎりぎりで避けた。

「降伏はしません」 エルズペスは言った。

 ローナは表情を輝かせた。「それはよかった」 彼女は拷問者としてエルズペスを弄んでいた、自由へのかすかな希望を持つ囚人をからかうように。力を合わせれば、きっとすべてが上手くいく――エルズペスはローナとの距離を見積もった。この決闘においてローナは、ただひとつを除いたあらゆる利点を持っている。エルズペスはそのひとつ――戦いの動きを知っていた。

 信じる。彼女は自らに言い聞かせ、小盾を目いっぱい高く掲げると第一の構えをとった。残る力の全てを集め、溜め、今一度の勝機を待つ。

 ローナがそれをくれた。彼女は無造作に進み出ると、致命傷を与えるよりもエルズペスを威嚇しようとするような一撃を放った。その示威行動の終わりに、ローナは旋回して頭の高さへと矛槍を突いた。エルズペスは残る気力を呼び起こし、直撃には耐えられないとわかっていながらもローナの攻撃を小盾で防いだ。矛槍の先端が盾を貫き、エルズペスの前腕の骨まで達した。苦痛に悲鳴を上げながら、エルズペスは左腕を下へと動かし――第五から第六へ――そしてローナの手から矛槍をもぎ取ると自らの剣を相手の肩へと深く埋めた。

 相討ちだった。ローナは倒れ、エルズペスは膝をついた。彼女は横たわって動かないジョダーの姿を見た。まだ間に合う――彼女の頭がふらついた。光素を。まだ動く手で彼女はベルトポーチを探った。ジョダーの内にまだ生命が少しでも残っているなら、光素が救ってくれる。

「ティレル、またこうして顔を合わせることになるとはな」

 エルズペスは歯を食いしばった。あの声――テゼレット。顔を上げると、その男が暗闇の中から現れて近づいてきた。彼はローナとエルズペスの間に屈みこんだ。首元に掴みかかることができるほど近く――それが最後の抵抗――だが彼女の身体は命令を拒んだ。テゼレットは矛槍が突き刺さったエルズペスの腕を掴み、一息にその武器を引き抜いた。そして彼はローナへと向き直り、血と黒くぎらつく油がにじむ傷を確認した。

「こいつはまだ生きている。残念だな。次は首を狙え」

「テゼレット、貴方は」 エルズペスは傷ついた腕を胸に抱えた。「今も哀れな飼い犬でしかないのですね」

 以前に新ファイレクシアで遭遇した際に目撃したように、テゼレットは毒舌を浴びせるのではと彼女は思った。だがそうではなく、テゼレットはただかぶりを振ると、塔で今も断続的に続く爆発を指さした。「あちら側の武装を解除させる時間はなかった。無様なことだ」 彼はローナの襟元を掴んで立ち上がった。「お前の軍勢がどれほど奮闘しようと、朝までには止められて破壊されるだろう。不可避の結末だ。とはいえお前までその運命を共にする必要はない。この機会にどこか人気の無い場所を見つけて姿を消すがいい」

「私はファイレクシアにいる貴方の主を止めるのです。そして、貴方を殺します」

「ふむ」 彼はローナを肩にかつぎ、矛槍を拾い上げた。「今私に襲いかかることを考えているのなら、それはやめておけと言っておこう。今の弱ったお前に私は確実に勝てるだろう。それを置いても、死にかけの仲間を手当てする方が時間の使い方としては有用だと思うが」

「どうして? どうして私を生かしておくのです?」

「小さなひび割れだ、ティレル。どれほど強大な建物であっても、そこから崩れ始める」 彼は頭を下げた。それは歪んだ敬意を示すもの、エルズペスはそうとしか推測できなかった。「私たちの道が交わるのはこれが最後であることを願おう」

 そして彼は暗闇へと歩き去った。


 絶妙な終焉こそ最も美しいもの。ですのでこの手紙は歯と刃を備えた、波打つ筋肉と滑らかな胆液を備えた油ぎった輝きで終わらせましょう。これこそが真の絶景、貴女のファイレクシアです。悪夢が悪夢を見ることのできる地。中でもあの大修道士――彼女の悪夢こそが最も甘美です。あの女性の心をくすぐって引き出すあれほどの恐怖、真っ先に貴女に吹き込もうというあれほどの未来視。復讐のために死にすら挑む恐るべき白衣の女性。

 最愛の貴女に伝えるべきことは沢山あります。ですが最も適切な言葉はこれでしょう――ありがとうございます。貴女のおかげで、私の作品に新たな目的が生まれました。ですので、ひとり暗闇の中にいる時には、無数の次元のどこかに貴女を思う存在があることを思い出してください。貴女の最も献身的な崇拝者は、常に貴女のすぐ傍にいることでしょう。

 愛を込めて

 アショクより


(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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