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Magic Story -未踏世界の物語-
屈さぬ者 その2
2018年9月5日
前回の物語:屈さぬ者 その1
意識を取り戻すと、口の中に金属の味を感じた。それは頬の内側と舌の裏面を糊のように覆っていた。歯が二本抜け、一本が折れているのがわかった。ビビアンはひるんだ。とても眩しく、空気は暑いほどではないが温かく、解体されたばかりの牛の喉のように脂ぎって湿り、明らかに獣の臭いがした。
指が彼女の髪を掴み、後ろへ強く引いた。
「眠ったまま死んでしまったのかと思ったよ」 あの男爵の、鼻につく声。その影が視界に入ってきた。産毛の生えた、蝋のように白い皮膚。「それでは実に宜しくない」
「何を――」 ビビアンは血を吐き捨てた。その一言は厚ぼったく白い脂肪のように凝固し、言葉を発することがこれほど困難だと思ったことはなかった。銅のような味が喉に居残っていた。「何をしたの?」
「見ての通り、君を捕えたのだがね」 ゆっくりと、鮮明さが戻ってきた。視界が晴れてきた。男爵の深く空ろな眼窩、高い鼻、角度によっては狼を思い出させる濃い無精髭。「君の弓を頂いた」
自身の状況を把握するよりも先に、思考をまとめるよりも先に、彼女は男爵へと突進しようとした。両手首には枷をつけられ、吊るされた身体は痛み、両足首は縄できつく縛られて感覚がなかった。髪を掴む手がもう一度引いた。先程よりも鋭く強く、そしてビビアンは抵抗に吼えた。
「実に興味深い装置だ」 男爵は大きすぎる袖へと両手を引っ込めた。そのごく僅かな動作ですら気取ったもので、その笑みや蝋のような皮膚の質感と同じく信頼できなかった。ビビアンは拘束されながらも身をよじり、威嚇した。「いかなる手段で君はあれから危害を受けずにいられるのだ? あれに殺害されずにいるのだ? 我々は何度も試した。一度は熊を出現させたが、ものの数秒で消えた。我が配下を数人殺す程の時間しかもたなかった」
彼はビビアンに顔を向けたままその周りを回った。三周目には彼女の顎を掴み、鍵のように顎の関節へ指を動かすと口を開かせた。そして報奨として授与された馬のように彼女の喉を見下ろした。
「君は何者かね?」
ビビアンは睨み付けた。
「自然の精霊でないのは確かだ。神でもない。見たところ人間だ」 続く声は抑えられた。「プレインズウォーカーかね。ここにも何人かいる。だがお嬢さん、君がその一人だったとしても、ありえないほど無防備だ。防護呪文もなく、前しか見ていない。やみくもに振るわれる大鎚だ」
男爵は続けた。
「私を脅したいというのであれば、今は一休みすべきだと思うがね。そういったやり取りは大体こうして落ち着くものだ。大袈裟なことをしてしまったお詫びとして、時間は取らせないつもりだ。聞きたいことが実に沢山あってね」
その部屋は――部屋というよりは独房、ビビアンはそう思い直した。窓はなく、外からの音も届かず、天井は白で継ぎ目はなかった。出入口は一つだけ。筋道立った観察と分析ができる程には知覚が戻ってきていた。結論として、彼女は落胆した。敵は用心深かった。「返しなさい」
「何だね?」
ビビアンは乾いた口元を舐めたが、無益だった。「アーク弓を返しなさい」
「断る」 男爵の息がビビアンの頬にかかった。もう一人が視界に入ってきた。逞しい胴体に細い両脚、鍛冶工の手袋と処刑人の装いをまとい、枯れかけた木のように前屈みになっていた。大袈裟で笑いを引き起こすような不恰好さ、だがやはり危険なものだった。「お返しすることはできない。教えて頂きたいのだがね、君は何者だ?」
ビビアンは睨みつけた。
「遊戯をお望みかね? よかろう。君が何者かは言わなくていい。アーク弓について教えてもらおうか。どのように機能するのだ? 我々は既に一体の熊を呼び出すことに成功した。だがあの蛇は? 蛇については言ったかな? それは死んだ。呼び出して数秒で消え去った。不恰好な死産のようなものだった」 男爵の背後で、もう一人の男が道具の一揃えを持ち出した。葡萄色のビロード地の上に銀の道具が並べられ、その几帳面さは暗にこの男の危険性を示していた。
ビビアンは身震いをした。その貪るワームはまた別の懐かしい記憶であり、若い頃の勝利でもあった。弓に宿した特定の種に愛着があるわけでなかいが、それは古き良き日々を思い出させた。「スカラ」
「その言葉は前にも聞いた。覚えている。『スカラの死体』と」 学者が驚異へと抱く興味のそれに、男爵は表情を輝かせた。「君はそれなのか? 亡霊を虜にした亡霊だというのか? その歴史全てを」
「アーク弓を返しなさい」
男爵は不快な笑い声を上げた。「断る。あれは私のものだ」
ヴェルノ男爵は二度戻り、その後更に二度戻ってきた。その度にアーク弓の動物とスカラの一連の歴史についてビビアンを質問攻めにし、その度に前よりも多くの香を漂わせていた。あの神器は捕獲者へ悪意を示していた。アーク弓は男爵の助手数人を錯乱させ、彼らを分解してしまっていた。湿った黒色の層がタイルの奥へと浸みていった。
「あれはどのように機能するのだ?」
ビビアンは沈黙を保った。男爵は類稀なほどに賢かった。計算されたナイフと正確な切り付けはビビアンも理解する拷問だったが、男爵にとってそのような原始的な方法は始まりに過ぎなかった。その先があった。肉体的な傷跡を与えることなく痛めつける、もっと洗練された方法が。
《束縛の司教》 アート:Bastien L. Deharme |
「どのように機能するのだ?」
男爵が疑問を発する度に魔法が届き、ビビアンの身体を流れる血液を沸騰させた。だが彼女は血管を燃え立たせながら笑うだけだった。ニコル・ボーラスはもっと悪かった。この男爵がどれほど魔法と鉗子とメスで自分を追いつめようとも、何をしようとも、ニコル・ボーラスがスカラの死によってもたらした傷以上のものを与えることはできない。
ビビアンは男爵へ悪態を吐き、彼の怒りに高笑いをした。
男爵は治療師を同席させてビビアンを痛めつけていた。口元を金糸で縫い付けられ、真珠光沢のローブをまとう尼僧たち。男爵からの拷問が行われるたびに、経と魔術の両方でビビアンを正気に戻していった。彼女らの呪文はコオロギの歌のように響いた。男爵が疲れ、飽きたなら、彼女らはビビアンの身体を清め、古いパンを食べさせ、野菜の煮汁を吸わせ、ビビアンの舌が痛むほどに冷たく純粋な雨水を飲ませた。
それらの出来事が時間の経過を記すようになった。扉の軋みによって、床を引きずる衣擦れの音によって、ナイフを拭うビロードによって。
「どのように機能するのだ?」
ビビアンは片目で男爵を認めた。もう片目は傷に閉じていた。「アーク弓を返しなさい、さもないとお前は悲鳴を上げて死ぬのよ」
それ以来、男爵の訪問はなかった。だが最後に一度だけ尼僧らがやって来た。だがその時彼女らは、輝くクルミ材の大きな箱と共にやって来た。その中は乾燥花で満たされ、肌着とスカート、襟付き肩衣とローブが詰められていた。尼僧らは皮脂と汗に固まり強張ったビビアンの衣服を引きはがすように脱がせ、身を清め、髪に乾燥ヒアシンスを織り込んだ。
尼僧らは説明も文句も口にすることなくそれらを進めた。腿の筋肉や強張りすぎた首筋の腱に指が触れ、湧き立つようなライラックの香を含む水を含ませた布で何度も冷やした。尼僧らに世話をされながらビビアンは身をよじった。やがてそれが終わると、尼僧らはビビアンに嘆き鳩の羽色を慎み深く調和させた衣服を着せた。彼女は自らを一瞥して顔をしかめた。この新しい衣服は自分を小さく、弱く見せていた。柔らかい輪郭に自らの影がぼやけていた。それは教会からの援助を請う嘆願者のようだった。
嫌だった。
だが彼女は何も言わず、尼僧らが金線の鎖で手首を拘束する間も抵抗はしなかった。彼女らの表情は緩く穏やかだった、薬だろうか、ビビアンは当初そう思った。だが尼僧らの視線は、個性こそ欠けていながらも鋭かった。自動人形、そうビビアンは結論づけた。地下を巣穴のように走る通路をビビアンは引かれて進んだ。そこにルノーの絢爛さはなく、塩水の悪臭が立ちこめていた。
ビビアンは周囲へと視線を走らせた。そこかしこに鼠、親指ほどもある蛆、モグラと地虫がいた。だが使えるものは何もなかった。鼠はルノーのように即座に自分を食らってしまうだろう。蛆虫も地虫も無関心、そしてモグラはふとしたことから天井を崩してしまうかもしれない。ビビアンは落胆して何もせず、ただ尼僧らについて進んだ。
《不敬の行進》 アート:Bastien L. Deharme |
また角を曲がり、また回廊を過ぎた。足元で土は豪華な大理石となり、桃色がかった金と赤い絹が飾られるようになった。通路は昇り坂になり、辺りは蝋燭の明かりに包まれた。ビビアンは不意に乾燥花の悪臭に息を詰まらせた。薔薇、ジャスミン、サクラソウ、イランイランの香油。彼女らの列は紫檀の扉の前で止まった。両脇には頑健な男性らが立っていた。両者とも身にまとうシャツは小さすぎて皺になっていた。長すぎる装飾にきつすぎる袖、ネクタイは喉骨の下で不恰好に結ばれていた。ルノーはその全てに艶を惜しまないが、この男らは明らかに粗暴なまま、労働者らしいむき出しの拳を見せていた。二人は尼僧らへと同時に頭を下げた。それはむしろ、暴力に慣れた身体が貧相に実行する病的な動きだった。
尼僧らもビビアンも何も言わなかった。男達が扉を開けると、ビビアンは中に入った。驚いたことにそれは別の独房ではなかった。少なくとも、伝統的な牢獄の様式には一致しなかった。彼女が巡った礼拝堂よりも豊富で華美な装飾、役所よりも上品な設計だった。その部屋は壮麗で、けばけばしくすらあった。きらめく財宝に上質の家具、床は縞瑪瑙に黄金の渦巻装飾があった。
中には丸テーブルと屑籠、簡素な寝台、グリフィンに似た彫刻のある椅子がそれぞれ一つずつ配置されていた。テーブルの上には鮮やかすぎて現実味のない果物籠と、古いワインが入った蓋つきの杯が置かれていた。
ビビアンの背後で扉が閉じられた。
またも囚われたのだ。
前回と同じく、ビビアンはすぐに時間経過の感覚を失った。拷問とその痛みは少なくとも日数を幾らか認識させてくれた。今、そこには何もなかった。外の音すらなく、聞こえるのは自身の終わりない足音と果物を咀嚼する音、タイルに果汁が滴る音だけだった。終わりのない、空虚な静けさの中では、心臓の鼓動すらはっきりと聞こえる程だった。
彼女はその部屋の長さと幅を計った、二回、そしてもう二回。最初は自分の歩幅で、次は足の正確な長さで。魔法がその部屋を清く保ち、果物籠を満たしていた。ビビアンは実験した。林檎の芯と桃の種を屑籠に入れると、魔法がそれらを消し去った。だが靴やビビアンのもつれた髪はそうしなかった。
ビビアンはひたすら行きつ戻りつした。
これは拷問よりも、あの見世物よりもなお悪いものだった。ただニコル・ボーラスの姿が燃える空に昇り、スカラが白く消えようとする中で笑う以外の何よりも。ここで、ビビアンは再び時を待つ以外に何もできなかった。睡眠ですら気晴らしをくれなかった。まどろむと、彼女はスカラの夢をみた。
やがて、扉が再び開いた。状況の変化に思わず興奮し、感謝のあまり駆け寄ろうとして彼女は転びかけた。入口には男が一人立っていた。あの衛兵の片方で、神経質に襟を引っ張りながら、その顔は紅潮して汗に油ぎっていた。
「男爵様がお呼びでさ」 これまで会った者とは異なり、その発音は田舎のそれで、乱れていて遠慮がなかった。その男は息をのんだ。「大切なもののことで尋ねたいとか」
「アーク弓を返しなさいって伝えて」
男は肩をすくめた。「それはできるけど、何もなりゃしないです。男爵様は言ってました、来るかそこにいるかと」
その時は、終わりのない憂鬱よりも死の方が魅力的と感じた。その真実にビビアンは歯を食いしばった。変化のない静けさへの嫌悪をヴェルノ男爵はわかっていたに違いない。相手の言葉に従うのは自らを裏切るようにも感じたが、ビビアンはこの場所に飽きていた。この機会に賭けよう。そして男爵はこちらの誇りを思い知るのだ。
「いいわ」
「ようこそ、お嬢さん」
眩しい光に彼女は瞬きをした。舞踏場の天井は高く、壁には壁画が並び、黄金と真珠とあらゆる絢爛なものの影、屋根から磨かれた床まで窓はなかった。ここに入る前にビビアンは海を見ていた。その波頭は銀でできていた。
ヴェルノ男爵は数日前と同じ外科医の装いでモンストロサウルスの前に立ち、その細い顔にマスクをまとっていた。ルカード王は及び腰の参列者の中に座し、廷臣や公使らに囲まれていた。彼らは国の執務からは離れて男爵の活動を鑑賞しに訪れており、暗い双眼鏡を通して見つめていた。男爵その人は、呆然と驚いたことにビビアンは気付いたのだが、検死ではなく生体解剖を行っていた。そのモンストロサウルスは生きていた。
だが、かろうじて生きているに過ぎなかった。部屋には多くの鏡が巧みに配置され、観衆は男爵の動きをあらゆる角度から見ることができた。ふいごと滑車、大きさも様々な複雑な機械が、よじれ脈動していた。それらが動く度に、モンストロサウルスは苦痛に吼えた。ビビアンに付き添っていた尼僧らは、今は黒く流れるローブをまとい、男爵の実験体を取り囲んでいた。何かが弾ける度に彼女らはその傷を治しに向かい、その魔術が揺らめいて黄金色の薄層を作った。男爵の観衆はその手順を冷静に見つめ、時折礼儀正しい称賛を向けた。その生体解剖は完全に彼らの夕時にありふれたもので、会話の一片や娯楽程度のもの、そして彼らの注意はその中央へ歩み出る女性へと向けられた。
《定命の枢軸》 アート:Bastien L. Deharme |
男爵は町娘が差し出した布で両手を拭うとマスクを下げ、不意に黄金の鞄を差し出されたかのようにビビアンへと歓迎の笑みを浮かべた。自分達が古い友人同士であるかのように、同じ宮廷で育てられ、同じ野望を受け継いだかのように。拷問者と犠牲者ではなくその正反対、仲間同士のように。舞踏場に完全な沈黙が広がった。彼らは息をする必要はない、ビビアンは取り乱したように思った。男爵は近寄り、その背後には銀の荷台を引く女性がついていた。
「亡霊を統べる女王。正直な所、君の仲間については残念だが、研究者には研究者のやり方がある。君はどうだ? どうだったのだ?」 男爵は肩越しに振り返って同僚へと頷きかけると、その女性は同じく頷き返した。男爵の笑みはまばゆいままだった。「君の具合は明らかに以前よりも良さそうだな。あの果物を味わってくれたかな?」
「アーク弓を」 行動に移るには、相手の数と武器は多すぎた。失敗する可能性は大きかった。だがそれ自体については問題ではなかった。問題なのは、舞踏場の中央に横たわる、歯の間から泡を吹いて死にかけているものだった。長いことこの生物は生かされてきたが、誰もその脚を治そうとはしていなかった。彼らがそのようなことをする筈はないとビビアンは苦々しく思った。このままにしておく方が良い。上手く歩けず、無力に、その拷問に震える以上のことは何もできないように。
「その言葉は繰り返し聞いている。スカラ。君の故郷の次元かね?」 男爵は口達者に続け、満足の表情を浮かべた。
ビビアンの心臓が一つ大きく脈動した。
「いや」 その言明に毒を込め、男爵は自らの言葉を正した。「君の故郷の次元だったか。気が利かなくて申し訳ない。時制を間違えてはいけない、特にそれが死で終わる時は。スカラは君の故郷の次元だった、で良いかね? 少なくとも、それが灰へと燃え尽きる前は」
ビビアンは何も言わなかった。
「そして君はその次元の最後の生ける遺産。亡霊だ」 男爵は再び随員へと頷いた、今回はずっと簡潔な動作で。それは合図らしかった。その女性は荷台を前へ押すと、流れるような動作で象牙色の布を取り払った。その下に置かれていたのはアーク弓だった。黒い血で汚れ、だがそれ以外はほぼ無傷だった――空の矢筒を除いて。「私には才能があってね、簡単には明かされない秘密を理解してしまえる。だがそんな私ですら、自分の正確さに驚いたよ。お嬢さん、君は亡霊だ。自らの死体を背負って歩く亡霊だ」
それでも、ビビアンは何も言わなかった。白濁しつつある恐竜の目に血がかかり、光彩を液体が分厚く覆った。恐竜は浅く喘ぐ息をしていた。ビビアンの位置からでも、肺の傷がわかった。薄桃色の内臓に黒いものが広がっていた。
「だが秘密の時間は終わりだ。スカラは燃えがらと屍でしかない。とはいえ君には別の選択肢がある。その武器の使用法を教えてくれれば、我々は君を栄光で称えよう。どんな欲望も満たされるのだ。君を正当なる女王とし、スカラはこの広間に再び生きるのだ」
ビビアンは息を吐いた。
「それは素敵。けれど私はアーク弓が要るのよ」
男爵は両眉を上げた。「では君がそれを逃亡に用いないという約束は得られるのかな?」
「何も」 ビビアンは肩をすくめ、男爵の背後で死にかけている恐竜から目を離さないよう努め、表情を苦々しく保った。「けれど明らかに、この場はあなたの方が有利。そして私はここにいるのだから」
その言葉を沈黙が認めた。
「アーク弓には……独特の仕組みがあるの」 ビビアンは狩人として育ち、獲物の注意を惹きたい時にはどうすれば良いかわかっていた。鳥の渡りや北極狐の振舞いがわかるように。男爵の落ち着いた物腰、慎重な表情、冷淡な態度はビビアンの宣言に刺激された。「ある生物が死ぬ時、その死の様を取り込んで、弓の本質の内にその存在を永久に保存するのよ」
《スカラ狼》 アート:Luis Lasahido |
男爵はビビアンの説明半ばで背を向け、助手の一団へと指示をした。「実に単純そうだ」
「ただ私でなければいけないけれど」
男爵は動きを止めた。
「何だと?」
「あなたが試してみてもいいけど、私がその儀式を行わない限りは機能しないのよ」
「ほう?」 男爵は気短な視線を傾け、背中で両手を組んだ。彼は努めて優雅に、ゆっくりと踵で旋回するとビビアンへと向かってきた。「そうなのか? 自慢だとしたら興味深い」
ビビアンは困惑の仕草をし、肩が緩く鳴った。「アーク弓は私のもの。スカラのシャーマンが使うために作られたもの。もっと明確に言えば、私の手で使うためのもの。試してみてもいいけど、その厚かましさに苦しむことになるだけでしょうね」
それは嘘ではなかった、完全には。ビビアンが愛したあらゆるものは焼け焦げた骨と化し、アーク弓はその全てが込められている。その微妙な差異を男爵へ明かさない限りは、真実を取り出して突き付けることはできないだろう。経緯を見れば、これはビビアンのために作られたと言っていいかもしれない。この神器を手にしようとした者は多かったが、残されたのは自分一人だった。
「君のその言葉を信じなければどうなる? これを私自身で使おうと決めたなら?」
「それなら、周りの皆が死に続けるだけね」 ビビアンはひび割れた唇を舐め、舌を歯に滑らせた。「男爵さん、わかっているでしょう、私の言葉が正しいって。その強情さの報いは見てきたでしょう。まだ危険なことを起こすつもり? 次の実験体が連れて来られるまでもう何週間かかるかしら? 私が逃げる機会をどれほどくれるの?」
笑い声が沈黙を引きつらせた。ビビアンは両目を上に向け、男爵の表情が変化するのを見た。その超然とした外面が敗れ――それはごく短い一瞬、時の隙間ほど極小の一瞬、注視していなければ見逃す――怒りのようなものが現れた。彼は即座に笑みを見せてその隙を埋めたが、男爵を挑発できたとビビアンは知るには十分だった。
彼女自身の笑みが広げられた。「男爵さん、私達両方ともこの状況に捕われているのよ。私の選択肢は凄く少ないけれど、あなたもね」
男爵は喉から厭わしい声を出した。彼はビビアンの頭頂部から上履きの足先まで冷たい視線でくまなく見つめ、ビビアンは静かに挑戦の時を待った。獲物を視界にとらえていた。男爵はそれを知っており、ビビアンもそうだった。彼女は男爵の耳へと顔を近づけた。ビビアンはこの男よりも結構な長身であり、肩幅も同じほどだった。二人の背後で、モンストロサウルスが再びうめいた。とうの昔に寿命を迎えていたはずの身体に、死がその滑らかな手を這わせていた。
「男爵さん、自分の次元が滅ぶ様子を見てどんなことが学べるか、御存知かしら?」 ビビアンは声を低くした。「自分が知って愛した全てが燃えるのを見ることからは? そんな内容を決して忘れられないことからは? それが一人の人物に何をするかはわかるかしら?」
この時、何も言わなかったのは男爵の方だった。彼は頬の内側を噛んでいた。観衆は自分達の会話を聞いているのかとビビアンは訝しんだ。吸血鬼が持つ力について様々な噂話を知っており、彼らが持つという「魔法の感覚」はあらゆる物語に繰り返されていた。舞踏場の静寂は明らかに、それらの噂が真実だと語っていた。心得た沈黙、自己満足、耽溺。ルカード王の喉元を飾る宝石のように堅固に、その特質を証明していた。
自分は上手く進めているとビビアンは願った。大団円に誰が串刺しになるのかはともかく、ルノーはこの演出を喜んでいるようだった。何かとても面白い見世物を。ビビアンはその欲望を利用しようと企んだ。彼女の笑みは更に広げられた。
「それが教えてくれるのは、死よりも悪いものがあるということ。拷問よりも悪いものがあるということ。この男が何度も何度もやって来るよりも悪いものがあるということ。あなたなんて怖くないのよ」 ビビアンは指を彼の胸骨にそりかえらせ、大袈裟な動きで男爵の鼻先を指で突いた。沈黙は屈服し、笑い声が弾けた。「どうやら私の方があなたを怖がらせたみたいね」
「お嬢さん、思うに君は自分の健康状態を過信しているようだね」 男爵は食いしばった歯で言った。
「いいえ」 ビビアンはルカード王へ視線を投げた。王はとうの昔に会話を放棄して今や座し、強欲な興味とともに見つめていた。王は侍女へと視線で合図をし、二本の指を曲げて見せた。その女性は頷いて廷臣の群れを迂回し、透き通った瓶と優雅なワイングラスが乗せられたワゴンへと向かった。濃厚でほぼ黒色の液体を惜しみ無く注ぐと、酒精を通して虹色に近い光がきらめいた。そしてその女性が引き返すと、ビビアンは低く余裕のある含み笑いをしてみせた。
「私は全くそうは思わない」
《秘儀司祭の杯》 アート:John Stanko |
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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