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Magic Story -未踏世界の物語-
屈さぬ者 その1
2018年8月29日
「お嬢さんは魚とも話されるのですか? 一体幾つの技をお持ちなのでしょうか」
その男の声に長魚は水中へと退散した。細いバリトン、それでいて成人男性のものではない。そもそも成人することもない。ビビアンはやって来た男の顔つきを考え込むように眺めてみせた。陰気な顔色、少年のように柔らかい口元と血の気のない肌。癖と寿命の両方で、吸血鬼は変化することがなく永遠に生きる。
ビビアンは足を広げた。長身で筋肉質、褐色の肌。吟遊詩人が見れば騎士が変装していると取るだろうか。その黒髪は後頭部で実用的にまとめられていた。ビビアンは美しいにしても、口にしてそう言おうとする者はない。それは好戦的な物腰と冷たく飽きた鋭い視線を怖れるためだろうか。
海は渦巻いて船を叩き、宝石を散りばめたような泡を宙に投げ上げた。
「恐竜にも魚にも同じように話します」 ビビアンはアーク弓の位置を正した。その紐は胴着を通しても温かかった。付き添いを自称する吸血鬼の狩人フレデリックは、その武器を仕舞うよう朝までかけて彼女を説得しようとした。油紙で包み、有害な塩気から守るようにと。
だがビビアンは拒否した。その秘宝から引き離されるくらいなら皮を剥がれたほうがましだった。銀で飾られ、背骨のように緩やかな曲線を描くそれは、彼女自身の身体の他にもう一つだけ残されたスカラ次元の最後の一片だった。
「つまり、貴女は彼らのあらゆる方言に通じ、彼らの笑みがわかり、彼らが持つ逸話を通訳する力があると仰っているのですか?」 堂々としたその態度は報われるのが当然とばかりに、フレデリックは晴れやかに言った。彼からは血と塩水と乳香、教会にいる肉屋の臭いがした。同行して数日が経過した今もなお、ビビアンはその存在に緊張を解くことはできなかった。「魚『と』話すのではない、と言っているんです」
長魚の一匹が水面へと上昇し、問いかけるように彼女を見た。瑪瑙色の瞳はヤギのように長方形の瞳孔に分かたれて活発に動き、だが船が大切に持ち帰る捕虜の低い鳴き声に追い払われた。ブロントドンの若い個体。その恐竜の巨体は檻に入らなかった。尾と長い首の両方が船の両脇の舷窓から飛び出ており、絶えずカモメやフクロウナギに取り囲まれていた。ビビアンが判断するにその恐竜は眠っておらず、ただ時折のうめきと吼え声を上げただけだった。
「ですが、恐竜に語りかけることはできるのでしょう?」 彼は両眉を扇情的に動かしてみせた。その背後ではフレデリックの仲間が群がって騒ぎ、雄大なほどに大胆な混合原語で叫んだ。毒々しく絡まった俗語に、ビビアンは八語のうち一つしか理解できなかった。だが彼らの興奮を翻訳する必要はなかった。水平線上に故郷が見えたのだ。
《陰鬱な帆船》 アート:Jason Felix |
彼女は籠から最後に残った果物を取り上げ、ブロントドンへと投げた。水気の多い果肉がソバの蜜のように糖を滴らせている。恐竜は口を鳴らして食いつき、そして見すぼらしい禿鷹のように貪った。それは陰鬱に彼女を見つめ、苦悩にもう一度吼えた。「嫌だ」
「そうでなければ我々が目にしたものを説明はできませんよ! 今そこに立ち、獣へとその手を伸ばす貴女の威厳についてもです。このような獣ただ一体を持ち帰るだけでも、ルノーの総力を尽くした探検旅行が必要となります。ですが貴女は、貴女は、ただ一人で探してのけた! お嬢さん、あなたは才能がある。それとも魔法が使えるのか、いえ両方だというのでしょうか!」 フレデリックは片手を頭上にひねり上げて止め、口元に期待の笑みを乗せた。
その吸血鬼にとっては不幸なことに、ビビアンは注意を向けるのを止めていた。「このブロントドンに医学的な配慮がされることは望めますか?」
「きっと、あらゆる新種と同じく、王立動物園から最高の扱いを受けるでしょう」 フレデリックは胸元に掌を置き、低く頭を下げた。
この男はいつも直接的な返答を避け、もっともらしく微笑む。ビビアンは留意し、それらの事実を苦々しい表情の下に収めた。問われたら適当なことを言うのだ。彼女は作り笑いや微妙な当てこすり、幾層にも重なった意味合いに疲れていた。フレデリックのあらゆる言葉は複数の様々な意味にとれるのだ。
自分の決定を後悔したのはこれが最初ではなかった。密林から彼らを追い払うべきだった。だがフレデリックは柔弱にも熱心に、王立動物園の実に多くの物語を神話よりもずっと印象的に語った。一つの生態系をそっくり保持するほど巨大だと、その金歯の口で主張した。秘蔵品と宝物の山また山。この人生で、いや次の人生があったとしても二度と見ることはない程のもの。
ビビアンは屈むと片腕を曲げて手桶をすくい、ズボンで指をぬぐった。遠くのルノーと同じ真珠色の小舟が幾つもやって来ては船を旋回し、船乗りらは陽気で可笑しい舟歌を口ずさんだ。情夫の暮らし、そしてその道楽。フレデリックは肩越しに振り返り、続く言葉と同じ欺瞞の笑みを浮かべた。
「我が配下についてお詫びするべきですね」
「いえ、何も問題はありません」 ビビアンは言った。「文明的な人々というのはそういうものですから」
ルノーに上陸するまできっかり二十分を要した。入り組んだ小路と古風なバルコニーから、波に磨かれたガラスのように濁ったあらゆる視線がビビアンともう十人に向けられ、そして関わる価値はないと判断した。ビビアンはすりを働こうとした人間を捕え、その髪をきつく引っ張った。首がその男の良心のように曲がり、苦しい息が気管で音を立てた。やがてビビアンは屈み、男の耳に歯を近づけた。
「理解し合いましょうか?」
錆びた鍵の蝶番のように、すりの男は悲鳴を上げた。
「お赦しを。お詫びとして私の血を一杯差し上げます」 ビビアンがもう一度力を込めて引くと、男は両肩を前後に震わせた。ルノーの街は既にその光景に飽き、周囲にぼんやりとしていた。吸血鬼の荷下ろし人とその水夫らは人間の漁師と談笑し、ビビアンと同じ程に長身で日焼けした女性たちはエプロンをまとい、大きすぎるチョウザメの内臓を海へ捨てていた。フレデリックを除いて誰もそのすりの苦境を気にすることはなく、その吸血鬼すら寛いだ様子でわずかな笑みを浮かべ、ただ楽しんでいるようだった。
「この男は何を言っているんです?」 緩く物憂げな微風は皮膚に不快だった。
フレデリックはうずくまり、手袋の手ですりの顎を掴んだ。そしてもう片手で短刀を持ち出した。「ルノーの通貨なのですよ、お嬢さん」
片膝をすりの肩甲骨の間に押し付けたまま、ビビアンは掌握を緩めて目を見開いた。彼女の視線は柄を向けて差し出されたその武器へとひらめいた。「これで何をしろというのですか?」
「この男の言葉を聞かなかったのですか?」 フレデリックは甘く、興奮した笑い声をもう一度あげた。「あなたに一杯の血を提供しようというのですよ――」
「いえ。聞きましたが」 ビビアンは不機嫌に言った。「彼の血で何をしろと?」
「それは現在の相場によりますね。ですが私が思うに、少なくとも新たな衣装をお求めになられますよ。あなたの労働者階級的な自然さに魅力がないわけではありません。とはいえ王族方は喜ばれるかと思います、あなたが彼らのために衣装を揃えたとしたら」 歯の間から赤い舌が覗き、ビビアンはヒルを思わずにいられなかった。血に膨れ、乾いていない絵具のようにぬめっている。「それとも貴女が寛大なのであれば、私に引き渡して頂けますか。教会は罪人を積極的に利用しますので」
ビビアンはその短刀を叩き返した。「いいえ」
「お赦しを」 すりは死にかけて放っておかれる犬のように息を切らした。「お赦しを。ルノーから離れたかっただけなんです」
「ルノーを離れる?」 フレデリックはすりの顎を放して立ち上がり、その影は小路へと斜めに刺す月光に切り取られ浮かび上がった。尼僧の一団が立ち止まってその場面を眺め、真珠層のような滑らかな振る舞いに金歯がきらめいた。「この島から出てどうする気だ? 鉄面連合に加わるのか? あの悪党どもが受け入れるのは最高に有能な船乗りだけだ。教会の手が届いていない街を見つけられると思ったのか? まあできるだろう。だがそこでお前は働かねばならない。静脈から滴る紅玉で食糧や住処を得ることはできない。やめた方がいい。ルノーを出ることはならない。この外に居場所などない――」
ビビアンはフレデリックへと声を上げた。粗くも強くもなく、だがその吸血鬼の美辞麗句にはうんざりだと示せる程に。彼女は立ち上がり、アーク弓に指を滑らせた。すりの男は抜け目なく動かずにいた。「言わせて頂きますが、少々皮肉っぽいかもしれませんが、あなたはこの若者を苛めているだけです。家畜のような運命を受け入れろと。そしてこのルノーは鋳造したてのコインのように綺麗ですが、美しい畜殺場でしかありません」
「傷つく言い方ですね、お嬢さん」 フレデリックの横柄さは消え、熱望する舌に言葉のべたつきは消えた。代わりに陰険な底流が現れ、それは堕落的な自慢を帯びて更にビビアンの気分を悪くした。「ルノーは全くもって家畜場などではありませんよ。それどころか、生きていく手段を与える場所なのです」
「そのために血で支払いをさせる」
「貴女はライオンも同じように嫌うのですか? それらが穀物ではなく子羊の肉を好むという事実を責めるのですか? 救済の儀式には必然的な結果が伴うものです。我らは必要がゆえに血を飲むのです。とはいえ、野蛮にそれを求めるわけではありません」 フレデリックは首をかしげ、厚い巻き毛を微風が揺らした。「ここに一杯、そこに一瓶。何らこの定命の市民を死に至らしめるものではありません。ところで我々にはこの先の予定がありましてね」
ビビアンが嫌悪を示すと、フレデリックは口を尖らせた。
「この若者については」 フレデリックは溜息をついた。「私は踏み誤ったかもしれません。ですが薄暮の軍団は自らをイクサランの世話人とみなしています。ここルノーには彼のような人々を世話する設備がありますが、外の世界ではそこまで幸運ではありません。そしてこの地を守るという我々の責務を果たさなかったとしたら、上流階級の者とはみなされません」
「ではあのブロントドンは? 海を越えて無数の野生動物を連れてくるのも同じ目的のためなのですか?」 ビビアンはアーク弓の屈曲した先端で男を叩いた。逃げなさい、彼女がそう囁くと若者は桟橋へと逃げていった。ルノーの内側には、クリームのように薄い光沢のある建物が並んでいた。
「保護ですよ、お嬢さん。一つの種がいつ絶滅するかは誰にもわかりません。イクサランは非常に獰猛で過酷な地なのですから」 再びあの笑み。あの親切な欺瞞への共犯者のような。「ですがお願いです、結構な時間を浪費してしまいました。ルノーの驚異は言葉では到底表せないものです。我らが街をお見せしましょう。そうしたならあるいは貴女にも判って頂けるかもしれません、我々についての知識がいかに乏しく誤ったものであったかを」
ビビアンは無言で座していた。フレデリックはルノーへの称賛を途切れさせることなく展開し、全身を駆使して国土や議事堂の素晴らしさを表現していた。彼は国王夫妻の偉大さ、その美徳、速やかにその絶妙な婚姻に至った経緯を不作法な喜びとともに物語った。そして彼らの偉業を並べ立て、それ以上の賛辞を続けた。
その何もかもがとても不器用だと、ビビアンは内心思った。
都市の欄干には蓮の花が飾られ、庭園には人目を忍ぶ恋人が握る手のような塔が配置され、木には柔らかく発光する花がはびこっていた。だがそれらは問題でなかった。良く言っても、ビビアンはこの島国への嫌悪感を強めただけだった。大気には不道徳が満ちていた。ルノーは狡く傲慢、あらゆる驚異が作り物だった。建物は白色大理石、小さなカフェにも博物館にも店頭にも、分厚いガウンや高くそびえるかつらがひしめいていた。ルノーは誰かの夢の街のようだった。綺麗で洗練され、肉屋やパン屋、古い敷石の小道を見回る官吏といったありふれたものは何一つない。その外、あらゆる目障りなものをしまい込む場所、路地裏や曲がりくねった小道に隠れてのみ、ビビアンは人が骨折る姿を見ることができた。
ここに真の美があったとしても、それは痛ましいもので、不死の住人の気まぐれに締め付けられて窒息死してしまったのだろう。
だがビビアンはその沈思黙考を一切口にせず、アーク弓の弦に指だけを引っ掛けて、控えめに微笑んでいた。喜んでいると同行者が解釈する表情を。
「あなたはどのような所から来たのですか?」 フレデリックはビビアンの茶色の手首、その骨の突起に指を沿わせた。あまりに精密な動きは彼がまとうレースのひだ飾りのようで、ビビアンは腕を背中へと引っ込めた。その指の感触が細い静脈をさまよった。夕闇のルノーはぼんやりと、窓越しに自らを誇示していた。
ビビアンは考えないようにした。空に浮かぶ角の影を、悲鳴を、焼け焦げてひび割れる皮膚の音を、世界が白く燃えた時の沈黙を。炎を考えないようにした。
「美しい所でした」 そしてそう呟いた。
馬車は進み続けた。
壁の上に並んだ身体をビビアンは呆然と数え、そして詠唱のようにその数字を呟いた。戦慄の一瞬、彼女はニコル・ボーラスを、スカラの死を、自らが知り愛した全ての終焉を理解した。
控えの間には百もの絶滅動物が並んでいた。身体には針金がねじ込まれ、剥製師によって脂肪を処理され、部屋を飾る黄金の輝きを毛皮の光沢が映していた。ビビアンはその只中にて、その全てが消え去って欲しいとしか願えなかった。
「これこそ唯一無二、そう思いませんか?」 フレデリックの手が今度はビビアンの肘を掴み、その指が関節の動きを押さえた。「宝物の間は礼拝堂そのもの、自然世界に捧げられたものです」
ビビアンはその掌握を解いた。「自然を敬う方法としては、私の考えとは実に異なっています」
「その筈です。私達は同じ世界の生物ではないのですから」 貴族とその随員らが二人とすれ違っていった。彼らは不合理にそびえ立つかつらに疲れ果て、その塔は奇妙で曖昧な形状に崩れかけていた。「そしてまさに、これこそが美なのです」
「美というのは壁にくくりつけられるようなものではありません」
「ええ、全くもってその通りです」 フレデリックは唇を曲げた。「生きたまま、そして金線で美しく飾ることができればなお良いのは確かです。モンストロサウルスのつがいが持ち込まれた時を覚えています。何という喜びだったでしょうか。言うなれば事件でした。そしてそれらは王立動物園の素晴らしい賓客となりました。動物によっては単純にすぐさま死亡し、展示にそぐわないものもあります。ですがそのつがいには実に多くの見どころがありました。大がかりな宣伝が成されました。ですが雄の個体は雌ほどに丈夫でなく、直ちに死亡し、雌もその悲劇に心から痩せ衰えて後を追いました。それらは一通り記録され、永遠に残されています」
ビビアンは怒りをのみこんだ。「ルノーをもっと見せてください」
《突進するモンストロサウルス》 アート:Zack Stella |
香りの宮廷はその名の通りの場所だった。貴族は竜涎香と薔薇水で聖別され、騎士は塩と麝香と聖なる香を吹き付けられていた。緩いかつらに綿をまとう嘆願者と召使さえも粉を臭わせ、常にもっと多くの粉を臭わせ、その粒子は夕闇の藍色の影で彼らの肌を真珠のように艶めかせていた。
ビビアンはハンカチを鼻に押し当て、香りにむせた。息が詰まり、その端に指を滑らせた所で縫い込まれた乾燥花に気付いたが遅すぎた。ルノーに不可侵のものなど何もなかった。自然のものなど何もなかった。
「リードお嬢さん、大丈夫ですか?」 フレデリックが腕を伸ばした。半時間ほど前に二人は離れ、彼はいかにしてか時間を確保して狩猟用の服からより派手な衣装へと着替えていた。薄紫と乳白色のサテンからなる波打つフリルと膨れたズボンが、その影を膨れさせていた。
「大丈夫です」 彼女はフレデリックの腕に自分のそれを通し、ハンカチを四つに折り畳んだ。「あなたの故郷の素晴らしさにただ唖然としてしまったのだと思います」
「そうだとしても、気を散らしすぎないで頂ければ幸いです。ルノーは崇拝を要求します。イクサランにおいてこのような場所は他に存在しません」 企むように声を鋭くし、フレデリックはにじり寄った。「ヴェルノ男爵は、我々が狩ったトカゲの仲間に巨大なものがいると信じています。神々です。言葉ですら表現できないほど大きな生物です。いつの日か、王立動物園のためにそれらを手に入れます。そうすれば歴史においてルノーに並ぶものはなくなります」
「わかりました」
フレデリックは得意げに鼻を鳴らした。顔料がその頬を染めていた。生命力を模した伝統的な桃色ではなく薄青緑色で、ビビアンはかつて海で釣りあげたカニに似た生物の死体を思い出した。「ああ、お嬢さん。報われない愛国心と思うでしょうが、王立動物園を見た今であれば間違いなく理解して頂ける筈です」
怒りがビビアンの皮膚を震わせた。アーク弓に脊柱を素早く爪弾かれたように、一瞬、底なしの井戸のような飢えに彼女は襲われた。アーク弓は引かれたがっていた――それはできない、彼女はその秘宝の力をルノーの中枢へ向けるつもりだった。アーク弓はこの場所をひどく嫌っていた。ビビアンはそれを察していた、樫とハンノキが春に自ら芽吹くように、炎が肉の中で脂肪を食らうように。ルノーから立ち去ることはない。共にその消滅を見届けるのだ。
だがそれは今ではない。
今ではない。
待たなければならなかった。
ビビアンは丁寧に声を制御し、笑顔を作った。感じ良く見せることまでは無理だった。建物の天井は高く、あらゆる角度から彼女らの鏡映しが見つめ返していた。ほとんどは藍色の石で建てられ、それ以外は黄金と眩しい金属に華やかな象眼と壮大な化粧漆喰の装飾だった。見苦しい眩しさに目を狭めることはないよう、灯火と魔法の明かりが巧妙かつ的確に配置されていた。
ビビアンが思うに、その明かりはルノーに欠けているあらゆる優しさと心遣いを宿していた。
「ごめんなさい、ですが私が見たのはやつれて死にかけた獣の檻ばかりでした。そして沢山の死体が曲芸をする広間」 彼女は口元を歪めた。「もしそれを誇り、喜ぶのでしたら、何か別のことへの投資を考えると良いかもしれません」
ビビアンの声には警告が込められていたが、驚いたことにフレデリックは声をあげて笑った。空虚かつ平静に。「お嬢さん、我々が全身全霊をかけてそれらを生かしておいたとしても、どこに置いておけばいいと思いますか? 王立動物園ではイクサランでも最大のものですが、魔法ではありません。そうでなくとも、解剖に使用する死体が手に入らなかったなら、男爵はいかにしてその科学を追求すれば良いのでしょうか?」
《征服者の誇り》 アート:Tomasz Jedruszek |
廊下は豪華な広間へと続いていた。頭上の丸天井には、クラーケンと戦う船のフレスコ画が飾られていた。数を増す廷臣らの間を、杯を重ねた真鍮の盆を運ぶ給仕人が通り抜けていった。彼らの姿は鏡面仕上げの床へと倍もの数に映し出された。
衣服は修道士でも中身はどうか、ビビアンは内心そう思った。いかに着飾り香りを漂わせようとも、闇の魔術で保存された身体にどれだけ沢山の分厚いビロードをまとおうとも、上品な振る舞いをしようとも、彼らは屍なのだ。フレデリックはビビアンの手を軽く叩き、彼女はその指を叩き返さないよう全力を尽くした。
「ところで」 フレデリックはそう言いかけ、澄ましてビビアンを一瞥した青白い肌の女性に口付けの真似をした。その胸の谷間は細氷に覆われたかのように白かった。「あなたは実に良い時を選んで来られました。今はルノーを訪れる絶好の機会なのですよ」
「どうしてです?」
その女性が振り返り、扇を広げた。束になったレースが襟周りを飾り、袖口へ下りつつ、また雪花石膏の仰々しいかつらにまで織り込まれていた。参列者の中でもその女性からは、霊廟と髄と骨と泥の臭いがした。「かわいそうなお嬢さん、ここまで何も教えられてこなかったの? 今夜のお祝いはイクサラン中でも有名なのよ。それは――」
題目を翻訳して宣言するような、一つの溜息。
「妖しき雷鳴に踊るトゥーディオン、で良かったかしら、フレデリック? いえ、言わないでくれるかしら。私は割とどうでもいいのよ」 その女性は扇をゆっくりと上下に動かした。鼻と唇の間にほくろが見えた。「お嬢さん、あなたは耐えられないくらい幸運だということだけ。ルノーの田舎にはこの催しに参列するために長子を売る者だっているのよ。率直に尋ねるけれどフレデリック、そもそもどうしてこのお嬢さんを連れてきたのかしら?」
「思うに、目新しさからでしょうか」 ビビアンは周囲にぐるりと注意を向けた。吸血鬼の数は多く、また彼らがどれほどの力を持つかもほとんどわからない。当面の間は待ち、観察し、疑わねばならないだろう。「この場所の全てと同じように」
ビビアンの返答を高くわざとらしい含み笑いが受け止めた。フレデリックは寛大な叔父のように見つめた。「どうかご容赦頂きたい。このお嬢さんは有能なのですから! 私にとっても喜ばしいことですよ」
ビビアンが怒りを整理するよりも早く、両扉がきしんで開き、精巧な王位の象徴をまとって背中を伸ばした男女がまず現れた。その頭部には象牙のかつらが飾られていた。二人のうち女性は厳しい顔つきで華奢、装飾品をあまり快適に思っていないようだった。物腰は狩人のそれで、むしろ腰に当たる剣や革の衣服に慣れ親しんだ者の足取りだった。かすかに不安そうな雰囲気にもかかわらず、至福の表情を浮かべていた。そしてその連れは汚れ一つない髭を生やした細い顔の男性で、王冠の重さのためか肩を張っていた。
「ルカード王とサラザール女王です」 フレデリックはビビアンの耳元で冷たい息とともに囁いた。「頭を下げてください」
彼女は背後を素早く一瞥した。「嫌です」
ルノーの君主らは首を傾げると、群集は一斉に応えた。女性は膝を曲げて会釈をし、男性は頭を下げ、全員が掌を心臓の部位に当てた。その中でただ一人、ビビアンだけが頭を垂れず、顎を上げたままでいた。群集は夫妻がゆっくりと通過すると優雅に顔を上げ、ゆったりとした服をまとう子供たちが後についた。ビビアンの無礼に気付いた者がいたとしても、口に出すのは適切とみなさなかった。
「大胆だこと」 再び背を伸ばしながら、フレデリックの知人が呟いた。「あなたのご友人はどれも特別面白い方ばかり」
「最高の友人を連れてきているというだけですよ」
扉が再び開かれ、群集に静けさが走った。背が高く痩身の、簡素な司祭服に身を包んだ人物がその白い手を胸骨に触れながら影の中から進み出た。物腰から滲み出る厳粛さはわざとらしく、あらゆる動きに目的が吹き込まれていた。その人物が頭を上げると、群集はその姿を見て溜息をついた。興奮がそこにあった。
ビビアンは首をかしげた。「あれはどなたです?」
「ヴェルノ男爵ですよ」 フレデリックの友人女性は溜息をつき、自らを扇いで言った。その敬称をまるで生まれたばかりの救世主を抱き上げるような声色で包んで。「マルコー・ジャン=ジャクン。王立動物園と宝物広間の驚異を統べるお方です」
「紳士淑女の皆様がた」 その蛇のような視線は密集した参列者の中にビビアンをとらえ、目蓋を落として怠惰に彼女を見つめた。油断した昆虫を溺死させようとする黄金の樹液のように。「特別なお客様がた。準備ができております」
最初の催しにビビアンは息をすることもできず、喘ぎながら彼女は腰を下ろした。恐竜の下腹部へと一人の男が松明を近づけると、ビビアンの強く握りしめた拳に爪が掌に食い込んで血が滲んだ。恐竜は炎に皮を黒く焦がされて高い鳴き声を上げ、火傷の斑点が浮かび上がった。暗赤色と橙の蔓草模様、薄い青の静脈跡。その恐ろしい行為が芸術として扱われていた。
催しはそこから更に悪化した。
演者らは合わない僧服と馬鹿げたパニエを着せた熊、侯爵服のラプトル、脚を縛られた鶴の女子爵を持ち込むと、赤熱した石炭の上を不器用に踊らせた。どの動物も痛めつけられており、激痛に苦しんだ。参列者らは楽団へと歌の題名を叫び、ルノーの君主二人は公使らと会話をしていた。
《選定された助祭》 アート:Winona Nelson |
「これはただの虐待です」 声を怒りに荒げてビビアンは呟き、席から立ち上がりかけた。
「いえ、これは歓待ですよ」 フレデリックは歯を舐め、ビビアンの手首に指を強く当てた。「リードお嬢さん、どうか今はお座り下さい」
高揚する祝歌を楽団が響かせ、群衆は咆哮した。真鍮の足場が小刻みに揺れた。何かが起こっていた。アーク弓の弦に指をかけながら、ビビアンは舞台へと注意を向けた。
「ご来場の皆様」 またもあの男だった。この場の聖職者。今回は地位を示す服ではなく、装身具も典礼でまとう鎖も身につけていなかった。黒いローブから、骨のような白い手が大衆へと掲げられた。音楽は震えおののくフルートを残して止んだ、まるで何か孤独なものが闇の中で死にゆくように。「長らくお待たせ致しまして申し訳ございません、お待ちかねのものの準備が完了致しました」
沈黙が場に流れ、空気が張りつめた。その男は光輝く壇上に、聴衆の視線を燦然と支配していた。ビビアンが鋭く見つめると男は声を低くした。聖者が起こす静寂。
「我らが最高の探検家らは過酷な自然の中で数ヶ月を過ごし、深い草の中を長く追跡しました。彼らは自然と戦い、その奮闘の中で死してゆきました、それも全て皆様がたの喜びのために」 そこで男の声色は温かさを帯び、群集は喜びにざわめいた。「何よりも壮大な宝を追い求めるために、何よりも素晴らしい巨獣を故郷の皆様に届けるために。今夜ご紹介します動物は特別に興味をそそる、黄金の都すら怖れる巨獣です。紳士淑女の皆様がた、今夜の、最高に特別なお客様をご紹介致します」
金糸が編み込まれた太い綱で紅のベルベットが引かれ、緞帳が開いた。投光が黒衣の男から離れて祈りの手のように合わさり、やがて現れるもの道を照らし出した。暗闇で、何かが怒りの叫び声を上げた。
「イクサランの密林の奥深くから、新種のモンストロサウルスをお連れ致しました」 まるで呪いを運ぶように、男爵は声を落とした。「あのつがいをも凌駕するほどの感動を。もっと狂暴であり、今もまだ原初の炎をその身に満たしております」
その音は。あのブロントドンではなかった。その筈はなかった。反芻動物の喉はあのように吼えることはできない。胃が複数あるため、身体の中にそのための空間はない。腹から死を響かせるような音は出せない。何か別のものだった。もっと大きく、もっと怒り狂っている。その声から判断するに、少しでもその機会があるなら世界を食らう以外には何も求めない。痛いほどに、全てを呑みこんでしまいたがっている。
だがそれは薄闇からよろめきながら、悲しく現れた。ただ孤独に戦うべく、立っているのがやっとだった。それを見てビビアンは恐怖に我を忘れ、驚きの喘ぎが喉を詰まらせた。その生物は、かつては巨大で、壮大ですらあった。だが今は前屈みに身体を鎮め、ただ怒りだけに飢えていた。何かがそれを痛めつけたのだ。ビビアンは激痛のような恐怖とともに気付いた。何かがその頭部から最大の牙を抜いたのだ。
「もう沢山」 ビビアンが下向きに弦を爪弾くと、アーク弓は呼応し、不意にその力を淡く輝かせた。故郷スカラであったように、あるべき姿に、昔のままのように息を吹き返した。ごく僅かな間であっても。
聴衆は気にしなかった。ビビアンも、そのモンストロサウルスの苦境も。その必要などないのだ。この吸血鬼らにとって大切なのは優位のみ、上辺だけの言動と洒落た嘲笑のみなのだとビビアンは思った。兵士らがその恐竜へと進み出て、閃く鋼と羽根飾りの帽子で半円に取り囲んだ。彼らの警告は演技のようだった。反撃の可能性はなかった。四肢に枷をつけられ、皮は剥がされて幾つもの傷跡が走り、両脇にそれぞれ随員が二人ずつついて、巨体を床に押し付けるように力を込めているのだから。それもなお、その獣は聴衆のために苦しんで見せはしなかった。何かすれば、観客を喜ばせることになる。そのため、兵士には工夫の余地があった。
そして兵士らがもたらした惨事たるや。彼らはモンストロサウルスの皮へと槍先を突いて穴をあけ、星雲のような斑の傷跡の中に新たな星座を加えた。彼らは目を切り裂いたが、片方は既に白濁しており、もう片方は黄ばんで眼窩から落ちかけていた。彼らは鴉や犬のように、もしくはわがままな子供がその重大さを知らずに酒を飲むように、その身体を引きちぎった。
「お嬢さん、どうか――」 フレデリックが言葉を続けるよりも早く、ビビアンは矢をつがえた。そしてフレデリックが三言めを吐き出すより早く、放った。
矢弾が宙に鳴り、木の柄が緑色に燃えた。それは黒衣の男が立っていたすぐ隣の床に刺さり、軸が衝撃に震えた。ビビアンは優雅にお辞儀をして微笑んだ唇に指を当てると、輝く緑色のハイドラの輪郭が矢尻からよじれて現れ、目にした世界へと飢えを咆哮した。そして騒ぎが起こった。
ルノーはハイドラと戦うすべを知らなかった。
長年、彼らは恐竜やその程度の巨大動物を収容することは学んできた。だがそれらは別種の危険だった。イクサランの野性生物は、獰猛ではあるが、当然首をはねれば倒れて死ぬ。だがハイドラはそうでなかった。
《飢餓ハイドラ》 アート:Daarken |
そうでなくともそのハイドラは魔術で作られたものであり、どのみち有効ではなかった。
その頭のうち二本は、緑色に揺らめきながら、悲鳴を上げる貴族をとらえた。一本がその肩に、もう一本はふくらはぎに噛みついた。頭二本はその貴族を引きちぎった。
ビビアンは観客席から大股で下り、逃げ惑う観客の群れに入った。衛兵が彼女の後を追い、止まるよう叫んだ。
彼女は走り続け、半ばかつらが脱げながらも膝をついて祈る汗まみれの侯爵を跳び越えた。そして調教師に逃げられ、反抗を吼えるモンストロサウルスへと駆けた。混乱の中、その恐竜は足を叩きつけ、逃げる演者の一人を転ばせようとしたが失敗した。傷ついた膝から骨が飛び出し、だがそれを思い留まらせるには至らなかった。恐竜は悲鳴を上げた。報いに、怒りに、言語に絶する希望にそれは苦しくも前進した。一歩また一歩、ハイドラへと向かう衛兵へと。
恐竜はその頭を振り回した。歯が兵士の肉をとらえ、防御が不十分な腰の部分を噛み砕いた。片脚が動かず、恐竜は立ち続けられなかった。だがそれでも頭を振るい、獲物を砕いてモルタルと寄せ木細工の舞台へ投げつけ、華麗な鎧の中で骨が砕けた。そして恐竜は吼え、その声には勝利があった。
ビビアンは転回して片膝をつき、狙いを定めて一本の矢を放った。緑色に輝く大口としなやかな身体、ペラッカのワームが現れて進み出た。衛兵は足を止め、その光景に唖然とした。ビビアンは続く物事を待ちははせず、立ち上がって改めて舞台へと駆けた。背後で悲鳴が上がり、ワームの顎が閉じる音と共に素早く静まった。見る必要はなかった。何が起こるかはわかっていた。ワームの犠牲者は大抵、驚愕を顔に貼りつかせたまま死ぬ。丸呑みされることなど誰も予想できない。
《ペラッカのワーム》 アート:Daniel Ljunggren |
ビビアンは手すりを跳び越えてそのまま降りた。そして矢をつがえ、またも放った。この時、命中した点から飛び出したのは一体の草食動物だった。センザンコウのような甲殻で覆われ、鍬のような角を広げた鹿が仔馬のようによろめき、そしてやや脚をもつれさせながら駆けた。それは場の周囲を数度眺め、そして衛兵に気付いた。
突然の出現に驚き、何者かがその動物へと槍を投げた。狙いは正確だった。それは緑色に輝く筋肉質の肩へと命中し、魔力の鹿はひるむと激しく脚を蹴り上げた。衛兵らはそれを、物言わぬ動物が痛みに反応して暴れる本能的な動きと解釈した。だが美しくも貪欲なスカラは、マングローブの密林に吹く南風とホタルと野火のスカラは、新たな季節の到来を眩しく歌うスカラは、そしてその野生生物は、サンゴ縞の蟻一匹に及ぶまで、もっとずっと利口だった。
鹿は慌ててはいなかった。それはゆらめく枝角を低くし、両目に怒りを宿して攻撃者に襲いかかった。ルノーの警官よりも幾らか長身のその衛兵は、息を吸った直後にその角にすくい上げられ、壁へと投げつけられた。短く唐突で病的なひび割れ音が響いた。その身体は床へと滑り落ち、うずくまる塊となって動かなくなった。
アーク弓を構えたまま、ビビアンは舞台の隣へと優雅に着地した。
ペラッカのワームが最後の勝利の咆哮を上げ、場を震わせた。劇場の音響効果がそれを増幅し、ビビアンの耳をつんざく程だった。だがそこに叫びが続いた。ビビアンはすぐに視線を向け、団になった観客席を上へと辿った。通路の只中、クロスボウを構えた護衛らに囲まれて、ヴェルノ男爵が立っていた。ビビアンが狙うその研究者は生き延びていたのだ。
「そこの君」 その声は高々と、ビビアンが屈む場所へもたやすく届いた。
プレインズウォーカーは歯をむき出しにした。「何て忌まわしい場所」
何かが男爵の視線に燃え上がった。認識ではなく、だが男爵は薄い笑みを浮かべながら階段を下った。残る矢はもう片手ほど。ビビアンは目を狭めてクロスボウの兵を見ると、魔法の動物の中でも何を呼ぼうかと思案した。スズメバチか、三日月刀のくちばしを持つ虹色の鳥か、大食のワームか、冷たい水と山と獣の臭いを漂わせる、最も古い記憶にある灰色熊か。
「田舎者というのはいつもそうだ。世界の姿はこういうものだと思い込んでいる」 その言葉は油のように零れて滑り出た。「変化というものにひどく怯え続けている。君のような者をどれほど多く見てきたと思っている? どれほど多くとやり合ってきたと思っている?」
《アーク弓のビビアン》 アート:Magali Villeneuve |
随員のうち半数が男爵の前に出て階段を下り、幾つもの屍が横たわり血がぬめる場に集まった。そして彼らは二列に分かれた。前列は膝をつき、後列は立ったまま構えた。そして翠玉の火花へと崩れはじめたハイドラに狙いをつけた。
「暴君はだいたいお喋りが好きよね?」 ビビアンは矢筒から次の矢を引き抜いた。スズメバチの群れにしよう。「自分の声が好きでたまらない」
「暴君?」 男爵の笑い声は溌剌としていた。「止めて頂けないか、お嬢さん。私はしがない研究者だ。領地だって押し付けられたものだ。女王からの贈り物としてね」
ビビアンは女王を目にした時の印象を思い出した。王冠のように硬い乳白色の巻き毛、その下の鋭い表情。笑みのない口元、飽きっぽいぼんやりとした視線。その女性は玉座に深く沈んで掌で顎を支え、目の前の情景に飽き、残虐さに飽きていた。贔屓をするような女性ではないだろう。だがこの男爵にとってはどうでも良さそうだった。
「何でもいいわ」 ビビアンは矢をつがえた。全ての動きが計画通りだった。クロスボウの兵士らは男爵を取り囲むように集まった。「ルノーがこの世界に行ったことの報いを見届けるのよ」
この時、兵士らは躊躇しなかった。彼らはクロスボウの矢を放ったが、その攻撃が無害にハイドラに当たる様を見るだけだった。そしてハイドラはようやく消滅した。
「そうしたいというのはわかる。だが私は、君が持つその弓についてもっと知りたいのだ」 男爵の視線はビビアンの手にあるアーク弓へと移った。「何と魅惑的な武器だろうか。どのように使うのだ? その生物はどこからやって来るのだ?」
その返答として、ビビアンは矢を放った。飛跡から魔法が放たれ、栓を抜かれたようにスズメバチの群れが現れた。半透明の翼を一瞬だけ虹色に輝かせ、その昆虫は群れへと凝集し、辺りを暗くした。ビビアンはそれらを追って駆けながら、思考の下でその銅色の縞の個体それぞれの存在を感じた。淡く光るスズメバチは猟犬や馬ほどの大きさで、その全てが体格通りの食欲を持っていた。その中に女王はなく、巣もなく、だが全く問題ではなかった。飢えは彼らの記憶よりも古いのだから。
「スカラよ」 ビビアンは息をつきながら、アーク弓をダガーへと持ち替えた。スズメバチの群れは分かれ、男爵の姿が見えた。彼は祈りのように両手を合わせ、穏やかな笑みを浮かべていた。「私達はスカラの死体」
彼女は刃を突き出し、ひねった。鋼が肋骨の隙間に差し込まれるのを、その柔らかな内部をとらえるのを感じた。ビビアンが手首をひねると、ダガーは膜組織を切り裂いた。だが男爵の落ち着いた表情は変化しなかった。彼はただ見上げ、歯を見せて微笑んだ。その舌の赤さ、丸々とした口。この男は満腹のヤツメウナギを思い起こさせた。男爵の指がビビアンのそれを掴み、その接触は焼けるように熱かった。
「私の番だな」
男爵はビビアンを逆手で叩いた。とても何気ない攻撃、あまりの素っ気なさにビビアンはその力に驚かされた。彼女は後ずさり、直撃を避けた。顎の端から湿った熱が滴っていた。ビビアンは手の甲で顎を拭い、唸り声を上げた。
「おや、私を只の洒落男だと思っていたのかね」 男爵の声は穏やかなままだった。彼は胸からビビアンのダガーを引き抜くと床に投げ捨てた。「君を失望させたのではと――」
「終わりじゃないわ」 スカラでは武器のみに頼ってはならない。自然は決闘や儀式や、剣を抜くのを待ってはくれない。しばしば、ただ歯と鉤爪と腱の勝負となる。ビビアンは男爵の言葉を遮るように転回して大振りの蹴りを放ち、相手の肩に脚をかけ、そのまま共に床へと倒れ込んだ。
ビビアンの肩に痛みが弾けた。その倒れ込みは狙った通りにいかなかった。男爵の体重がのしかかり、だがビビアンは怖気づきはしなかった。彼女は首をもたげ、男爵の顎めがけてアーク弓を棍棒のように叩きつけた。そして相手の頭部に鋭い攻撃を三発当てたが、兵士らが彼女を引きずり出した。
ビビアンは戦った。猛烈に、そして手が尽きて敗北するという苦い諦めとともに。それでも彼女は衛兵二人の意識を失わせた。一人は頭部への狙い定めた蹴りで、もう一人は肘での突きで、骨が砕ける音が聞こえる程に。意識が遠のきながらも、それは少なくとも見苦しくない最後の抵抗だった。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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