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Magic Story -未踏世界の物語-
カンの落日
カンの落日
Kelly Digges / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori
2015年2月18日
サルカン・ヴォルがニコル・ボーラスの手による死からウギンを救って数年が経過した。サルカンの生まれた時代よりも千年以上前にてウギンは生き延び、面晶体の繭の中で眠りについている。サルカン・ヴォルは時の流れへと姿を消し、不確かな運命へと奪い去られた。
サルカンにとって、ウギンにとって、そしてもしかしたら多元宇宙全体にとっては、これは歓迎すべき知らせかもしれない。だがサルカンの行動は、タルキールの氏族へと途方もない苦難をもたらした。龍の嵐は勢いを増し、氏族は蹂躙されつつある。近頃、アブザンのカン、ダガタールは氏族を持続させるための窮余の賭けとして、龍ドロモカへと氏族を委ねて退位した。
ジェスカイの高山にて、カンのシュー・ユンは前代未聞の頂上会談を召集した。不可能を可能としなければならない会合を――さもなくばカン達もまた、歴史へと消え去るだろう。
「争っているように見えながらも、各氏族は巧妙な調和の中にある」 シュー・ユンは言った。彼はその言葉を書き取らせながら一定の歩調でゆっくり歩いた。高い塔の一室に響くのは彼自身の静かな足音と、墨の筆が紙をこする柔らかな囁きの音だけだった。
「アブザンは安定と交易を促進し、街道を巡回している。マルドゥは領土を遥か遠方まで広げ、他の氏族にとっての脅威となるであろう龍を殺している。霊的に深く根ざした頑健なティムール、彼らの巫師は隠れ潜んだ見えざる危険を他氏族に警告する。不誠実な者達かもしれぬが、スゥルタイですら沼地の害獣と恐怖をその支配下に留めている。そして何よりもジェスカイ、山の僧院にてタルキールの記憶を務め、伝承、秘密、真実の記録を保持している。他の氏族が歴史の騒乱に忘れてしまうかもしれぬものを」
《沈黙の大嵐、シュー・ユン》 アート:David Gaillet |
彼が喋っていると、剃髪した弟子が一人入室し、静かにひざまずいた。シュー・ユンは、もしそうさせるなら彼女は何時間もそのまま待つだろうと知っていたが、それを正当化するには何か特別なものが必要だろう。これはただの、彼の好みの計画。タルキールの歴史を記す、とはいえ疑いようもなく近頃それは切迫したものとなっていた。
「どうした?」 彼は言った。
「大師様」 弟子はそう言って立ち上がり、頭を下げた。「最後の代表者が到着されました」
「わかった」 彼は言った。「彼らをそれぞれ部屋に案内せよ。落ち着いてもらいたい。この寒さには不満だろうが、それ以外に我らのもてなしに貧相な所は何もない。この地勢だけだ」
彼女はお辞儀をした。
「彼ら全員に、一刻後にここで会談を行うと伝えてくれ」 シュー・ユンは言った。「それと護衛は最小限にと」
誰が最初に到着するか、そこから多くが推し測れるだろう。そしてカンそれぞれが「最小限」と判断する護衛がどういった者達かも。
「そして、彼らを『カン』と呼ぶことを忘れぬように」 彼はそう言って微笑んだ。「それが彼らの道だ」
弟子が駆け足で出て行くと、シュー・ユンは最も信頼する書記者、クーアンへと向き直った。この頂上会談を設定するにあたって、彼はクーアンを連れて来ていた。彼以上に頼もしい書記者はおらず、そしてクーアンは何時間も止まることなく書き続けられるのだった。
「今日の書記はここまでだ」 シュー・ユンが言った。「だが終わる前に、年報に加えるべきものが更に増えるだろう。手の調子はどうだ?」
「変わりません、大師様」 クーアンが言った。「用意はできております」
「宜しい」 シュー・ユンが言った。「この会合は緊張した、暴力的なものにすらなるかもしれぬ。何が起ころうとも、書き残すように。我らの子孫達はお前に感謝するであろう」
......我らが子孫を残せるのであればだが。龍の嵐が激しくなって数年が経過した。タルキールの至る所で、見た所たちまちのうちに、嵐は龍の数を維持するものからその数を莫大に増加させるものとなり、翼と牙の巨大な雷雲が荒れ狂う空に轟いた。理由を知る者はなく、だが理由はもはや問題ではなかった。この会合は、カン達の会議は、生き残りを賭けたシュー・ユンの窮余の策だった。
彼は窓へと歩いた。むき出しの肩に空気は冷たく、だが彼がそれ気にしたのはごく僅かだった、人が地平線上の雲を僅かにしか気にしないように。その肩は何十年もの間むき出しのままだった。彼が最初の龍を殺し、幽霊火の戦士の証である曲がりくねった龍の刺青を入れられてからずっと。
《島》 アート:Florian de Gesincourt |
眼下には、ダルガー要塞が座す島を取り囲む広大な湖が広がっていた。小舟が水面を行き来しながらも、龍の接近を知らせる鐘を見張りが鳴らしたなら散開するよう備えていた。塔の下の中庭に、アブザン兵の小規模な分遣隊が官艇から降りてきていた。ダルガー要塞はジェスカイの四大要塞の中で最大というわけでも、最も安全というわけでもなかったが、塩路と他氏族の領土に最も近い位置にあった。
シュー・ユンは窓から視線を外し、立ちながらの瞑想に入った。風鳴りと遠く白いさざ波の音に忘我となり、他のカン達がその夢想を破ってくれるのを待った。クーアンは常に油断なく彼の背後に座し、瞑想状態の師父が突然「年報」への追記をもたらす場合へと備えた。
最初に到着したのはマルドゥのカン、アリーシャだった。彼女は護衛二人だけを従えて颯爽と入った。そびえ立つようなオークの男性と、痩せて鋭い目をした人間の女性。アリーシャの頭部はむき出しで、長い髪は背中へと流されていた。彼女は若く、堂々としていた。自分がどう見られているかを彼女は理解しているのかどうかと、シュー・ユンは思案した。アリーシャは彼に向けて獰猛な笑みを閃かせた。
《死に微笑むもの、アリーシャ》 アート:Anastasia Ovchinnikova |
「ジェスカイは貴女を歓迎致します」 シュー・ユンはそう言って頭を下げた。
「マルドゥの兵たちが言っていた、お前は耳に挟んでいるだろうと」 アリーシャは明るく言った。「だが私はここに来た。もし話したいことがあるのなら、聞こう。皆が新たなカンをまだ選んでなければ良いがな」
彼女のオークの護衛が顔をしかめて言った。「我がカン、彼らは貴女にのみ従います」
アリーシャは彼へと振り返った。その微笑みが消えた。
「それが真実なのだろうな」 彼女は言った。「私が、ついて来られない場所へ皆を導くまでは。ここがそうなのかもしれない」
「そうであれば、なおのこと貴女を歓迎致します」 シュー・ユンが言った。
その次に武具で身を固めた女性、レイハンが入ってきた。彼女はアブザンのカンの様式で武装を固めていた。長きに渡ってアブザンのカンを務めた恐るべき指導者ダガタールは龍へと膝を屈し、氏族のほとんどが彼に付き従った――それはシュー・ユンにこの前代未聞の会合を決心させた、衝撃的な転向だった。レイハンは氏族の僅か十分の一を統べる半端のカンであり、他の者達は彼女の地位を真面目に受け止めてはいないとシュー・ユンは知っていた。
《龍鱗隊の将軍》 アート:Volkan Baga |
レイハンはシュー・ユンとアリーシャへ、完璧な礼儀正しさをもって頭を下げた。四人のアブザン兵からなる彼女の儀仗兵達は壁際に整列した。
「ようこそ」 シュー・ユンは言った。「よくおいで下さいました。貴女がたは我らの中で最も危機にあるのですから」
「そうかもしれません」 レイハンは言った。「ですがこの試みが失敗しなければ、失われるものはずっと少なくて済みます」
次にやって来たのはティムールのカン、ヤソヴァだった。シュー・ユンは数年前、まだカンとなる以前の彼女に会っていた。今や彼女は歳を経たことにより弱ったように見え、鉤爪のついた長杖にもたれかかっていた。彼女はただ独りでやって来た。シュー・ユンは頭を下げて歓迎の意を表し、ヤソヴァも返した。
《龍爪のヤソヴァ》 アート:Winona Nelson |
「再会できて嬉しく思います、龍爪殿」 シュー・ユンは言った。
「同じ返事をすることはできない」 ヤソヴァは言った。「悪気はない。だが、このような会合が行われない方が良かったのだから」
「全くです」 シュー・ユンは言った。「この場の誰もがそう思っていることでしょう。ですがこれは我らにとって何よりも大きな問題です」
最後に到着したのは傲慢かつ不実なスゥルタイのカン、傲慢かつ不実なタシグルだった。彼は二人分もの毛皮に滑稽に包まれ、息を切らして塔を登ってきた。彼の背後には十人を越えるスゥルタイの部隊がいた――全員が生きた人間、シュー・ユンは気付いた――彼らの中に、汚らわしいシブシグの姿はなかった。タシグルはカン全員の中でも最も若く、最も気位が高く、だがここ数年は彼にとってありがたいものでなかった。彼は苦悩から額に皺を寄せ、そしていっそう血の気なく見えた。そして彼は丸い瞳で部屋を見渡した。
「これは驚いた」 彼は小声で言った。「本当に全員来たっていうのか」 そう言って彼の目はレイハンを見た。「ああ、『ほぼ全員』か。悪気は無いよ、勿論」
レイハンの目はすっと細まった。
「皆様、ようこそおいで下さいました」 シュー・ユンが言った。部屋の隅で、クーアンが白紙の巻物へと静かに筆記を始めた。「この会合は前代未聞のものです。礼節が幾分曖昧であることに懸念はありますが、我らのこの状況、互いへの敬意を忘れずにいようではありませんか」
《黄金牙、タシグル》 アート:Chris Rahn |
「勿論だ」 タシグルはそう言って、頭を下げた。「我が不作法をお許しを、ええと......」
「レイハンだ」 歯を軋ませてアブザンが言った。
「......レイハン・カン。言った通り、気を悪くさせるつもりはない。だがまずは知らせよう、私達全員それぞれの恐ろしい状況を」
「恐ろしい状況」 アリーシャが軽蔑するように言った。「お前の状況が今より良いのなら、お前がここに来ていないことは明らかだな。聞いた所によれば、近頃のこのごろお前は痩せこけた召使と飢えた血蝿だけを統べる王なのだとか。それともナーガはお前に手をさしのべるために戻ってきたのか?」
「痩せ馬の声嚇しめが!」 タシグルは言った。彼はマルドゥのカンへと食ってかかったが、彼女と目を合わせはせずに僅かに視線をずらしていた。「埃まみれで馬臭い、さぞかし立派な山賊どもからの噂を貴様は――」
「お止めなさい!」 シュー・ユンが言った。
アリーシャのオークの護衛がその斧の柄に手を置いた。
「そこまでです」 シュー・ユンは続けた。「我らがここに集まったのは、我らが、我ら氏族が皆、存亡の危機にあるからです。互いに争う余裕は最早ありません。別個に龍と戦う余裕すらありません。共に立ち向かわねばなりません、そうでなければ我らの生きる道は世界から消え去ってしまうでしょう」
アリーシャは少しの間タシグルの凝視を受け止めていたが、やがて肩をすくめた。彼女が合図すると、護衛は力を抜いた。
「シュー・ユンの言うことは正しい」 彼女は言った。「状況が今よりも良いのなら、誰もここにはいない」
「ああ」 タシグルは険しい視線のまま言った。「いないだろうな」
「あらゆる場所で」 シュー・ユンが言った。「龍は我らの住処を蹂躙しております。今や嵐が更に頻繁に、強烈に吹き荒れていることは誰も否定できません。単純に、龍の数はあまりに多い。その理由を、何が変わったのかを知る者はいないでしょう。ですが誰もが知っているように、これは真実です」
「理由なら知っている」 ヤソヴァが静かに言った。
他のカン達は彼女を見た。シュー・ユンはクーアンを鋭く一瞥した。彼は筆記に夢中で、カンの視線にも気付く様子はなかった。宜しい。
ヤソヴァは崩れるように座りこんだ。彼女は疲労し、打ち負かされたかのように見えた。シュー・ユンは若く尊大なカン達の言い争いよりも、遥かに大きな落胆を覚えた自身に気が付いた。
「何年か前のことだった」 ヤソヴァは言った。「私は......幻視か何か、そう言った類のものを追い求めていた。私は龍の嵐が止むだろうという予知を見ていた、もし私が......」 彼女は顔を歪めた。「この言葉がどう聞こえるかは判っている。だが私は見たのだ、悪意ある龍の精霊が偉大なるウギンを殺す、その手助けをすれば龍の嵐は止むだろうと」
小さなざわめきがあった。誰もがウギンの名を知っていた。彼が一体何なのか、正確なところは誰も知らずとも。ジェスカイは彼を知恵の源であると、氏族を龍の捕食から隠す魔術をもたらした存在であると知っていた。
《見えざるものの熟達》「ウギンの運命」版 アート:Daniel Ljunggren |
「貴女は......精霊龍を殺そうと?」 シュー・ユンが尋ねた。
「そうしなければならなかった!」 ヤソヴァは言った。「貴方がたの民も龍に殺されているだろう、私の民と同様に。嵐を終わらせる、ほんの僅かでもその機会があると考えたなら、龍を制御できると考えたなら、それを手に取りはしないのか?」
「嵐を終わらせるのは、龍を制御する以上のものだ」 アリーシャが言った。「奴らを滅ぼせる」
「ウギンを殺せば嵐は止まる?」 タシグルが言った、その瞳には切望があった。「龍を完全に絶滅させられるのか?」
ヤソヴァは首を横に振った。
「私は愚かだった」 彼女は言った。「ウギンとは力。自然の力。一体の霊の助力があったところで、彼を殺せるなど私はどうして考えたのだろう? それが賢明などとどうして考えたのだろう?」
「何があったのです?」 レイハンが尋ねた。
「私はその霊をウギンへと導いた」 彼女は言った。「道を示した。ツンドラの空に二体の精霊龍が戦った。世界は震えた」
《命運の核心》 アート:Michael Komarck |
「地震があったのを覚えています」 シュー・ユンが言った。「嵐が強まる直前のことでした」
「全てが真実になろうとしていた。あの霊はウギンを打ち負かし、消えた。そして......そして、『彼』が来た。また別の霊が。当初彼は私の前に、一人の流浪人として現れ、そして見たこともない血統の巨大な龍となった。彼はサル-カン、偉大なるカンと名乗った。龍のいない未来を私に語り、だがそれは私が見た繁栄の未来ではなかった。カンは内乱へと堕ち、タルキールは廃墟と戦の世界となった未来だった。
「ウギンの身体が地面に墜落し、その瞬間、私はサル-カンが正しかったと知った。ウギンは死に瀕し、世界の生命力も彼とともに死に往こうとしていた。嵐は彼とともに収まり始めた。少しの間、全てが沈黙した。そのサル-カンは傷を負っていた。私は彼を癒した、問い質そうと考えてのことだった。私が勝利したのは確かだったが、正しかったどうかはもはや定かでなかった。だがサル-カンは......彼は見たことのない類の魔術を使った。彼はウギンを巨大な、龍詞の魔法文字が刻まれた石の繭に閉じ込めた。静けさが終わった。嵐は四倍もの強さで復活し、私の無礼へと憤怒の咆哮を空に響かせた。そしてサル-カンは去った。彼がやって来たのであろう何処か、霊の世界へと消え去った。
《精霊龍のるつぼ》 アート:Jung Park |
「どうすればいいのかはわからなかった。始めた時よりも、何もかもが悪化していた。あの龍の霊へと接触し、ウギンはまだ生きていると伝え、やるべき事を終えるよう願おうとした。私のあらゆる力をもって、自分で石を破ろうともした。石越しにウギンを癒そうとすらした。嵐を鎮めるよう彼に願い、少なくとも元の状態に戻してくれないかと。言葉ひとつ、引っかき一つ、吐息一つなかった。繭は今も立ち続け、ウギンはその中に横たわっている。それからずっと嵐は怒り狂ったままだ」
少しの間、誰も口を開かなかった。
「あなたが」 レイハンが言った。「あなたが原因ですか。あなたが起こしたのですか。あなたが、私の血族を何千人も殺し、もう何千人に龍へと膝をつかせた! 自分が起こした事をどうお考えですか!」
ヤソヴァは深く溜息をついたが、何も言わなかった。
「言い訳はありますか?」 レイハンは言った。「アブザンのただ一つの自由な要塞まであなたを引きずって行き、誰の目にも見えるよう吊り下げる。そうしない理由はありますか?」
シュー・ユンはレイハンとヤソヴァの間に入った。この頂上会談は彼の案であり、彼の協定の下にあり、そして暴力で終わらせたくはなかった。
「いや」 ヤソヴァは言った。「何もない。私はただ独りでここに来た。氏族は置いてきた。私の行いに対して私を殺したくば、殺すがいい。私はただ、確実に誰かに真実を知って欲しかっただけだ」
紙をこする筆の音があった。
「お前は正しいと思うことをしたのだろう」 アリーシャが言った。「誰もお前を責めることはできない」
レイハンは眉をひそめたが、頷いた。
「罪を責めようとは思いません」 シュー・ユンは言った。「赦そうとも思いません。重要なのは、より多くを知ることです。知識こそが我らを救うかもしれません」
「方針は明確です」 レイハンが言った。「その繭を開くことに全力を傾ける」
「ウギンを倒し」 タシグルが続けた。「嵐を止める」
ヤソヴァは打ちひしがれたようだった。
「ジェスカイは精霊龍を殺すいかなる試みへの助力も致しません」 シュー・ユンが言った。「ウギンは常に釣り合いを求めてきました。あなたがたの記憶はそんなにも短いのですか? 以前に龍たちが優勢になったと思われた時、彼は我らに隠蔽の魔術を与えて下さいました。彼は龍と氏族とを同等にみなしております。もし彼に何事も無いのであれば、今このことは起こらなかったのです」
「ならばその繭を開き、彼を癒す」 レイハンが言った。「もし彼が真に釣り合いを重んじているなら、今の状況に干渉する筈です。そうでないのであれば、タシグルの案を採用することになるでしょう」
「彼は私達を罰しもするし、助けもする」 アリーシャが言った。「気にかけるべきは、龍王たちだ――奴らは彼の不在の間に栄えている。ウギンは忘れろ。種の主どもを殺すことに全力を傾けるべきだ」
「その必要はありません」 シュー・ユンが言った。「龍の絶滅と氏族の絶滅、どちらが良いというものではありません。我らは釣り合いを求めねばなりません。ウギンを求めねばなりません」
「釣り合いの時は終わった」 タシグルが言った。「私達は――」
「待て」 アリーシャがそれを遮った。「聞こえるか?」
カン達の声は静まり、彼女が聞いたものが全員の耳に届いた。低く、悲しげに沈む鐘の音。東の遠方から。そしてもう一つ、大きく――更に大きく。
「龍です」 シュー・ユンが言った。
彼は東側の壁の窓へと早足で向かった。湖の彼方に、短い翼の重々しい姿が幾つもあった。それらは水面上に二股の編隊を描いて滑るように進み、影がその下に揺らめいていた。数は何十体にも及んでいた。編隊の先頭には最大の龍がおり、それは空へと塗りつけられた、悪意ある暗黒の汚れだった。
《漂う死、シルムガル》 アート:Steven Belledin |
「シルムガル」 シュー・ユンが言った。沼地の龍王がこの山に姿を現したことは過去一度もなかった。龍たちの縄張り意識は高い――確実に、オジュタイと彼の子らが彼らを追い払う筈だった。
ヤソヴァ以外のカンが皆、部下の軍勢へと命令を与え始め、攻撃の準備をするよう指示を送った。
そして更なる鐘の音があった。今度は北から。
シュー・ユンは部屋を横切って北向きの窓へと向かった。その軌跡に氷を散らし波をうねらせ、オジュタイ自身が湖の水面を滑っていた。背後には彼の子が少なくとも二十体、シルムガルの子らが鈍重であるように彼の子らは優美だった。シュー・ユンはかつてオジュタイと戦ったことがあった。運よく生き延びたが、その龍王と再び対峙するという考えは嬉しいものではなかった。
《冬魂のオジュタイ》 アート:Chase Stone |
「龍を見てこれほど安心するとは考えもしませんでした」 レイハンが言った。「彼らは他と戦う......そうですよね?」
カン達の命令が伝えられ、眼下の中庭は混沌のるつぼと化していた。鐘の響きは止むことなく、あらゆる方角から聞こえてくるようだった。
水面上で、二つの巨大な龍の編隊は互いに接近し、激突し......そして混ざり合い、上昇する一つの死の雲となってまっすぐにダルガー要塞へと向かってきた。
「こちらに来ます」 シュー・ユンが言った。「全てがここへ向かってきています」
「龍は他の龍と協力などしない」ヤソヴァが言った。「こんなことはなかった」
「そうかもしれませんが」 シュー・ユンが応えた。「彼ら自ら、カン達を殺そうと考えたならば......」
「彼らは人間の召使の命は奪いません」 レイハンが言った。「時代は変わろうとしています」
湖を横切り、空高くから彼らへと向かってくるその証拠は、明白だった。
「私達がここにいるとどうしてわかった?」 アリーシャが尋ねた。「私達の誰も、旗印は出していない。それに、ただ要塞を攻撃するためにあのように協力しているというのは疑問だ」
「何者かが彼らに教えたに違いありません、この小さな頂上会談を」 レイハンが言った。
アリーシャの手が武器に触れ、彼女の目はシュー・ユンを見据えた。鷲が兎を観察するように。「何者かが」
鐘がまたも鳴った。龍たちは接近してきている。クーアンは筆記を続けていた。
「そのような事は決して」 シュー・ユンが言った。彼は魔術の光がゆらめく刺青を手で触れた。「私が生きていることを許容する龍などおりません。何故私が彼らと同調できましょう?」
「お前は自分と私達全員の命を差し出すだろう、それでお前の氏族が助かると考えたなら」 アリーシャは言った。彼女の護衛二人はその背後に立ち、武器に手をかけていた。
シュー・ユンは口ごもった。
「その通りです」 最終的に、彼はそう言って肩をすくめた。「率直に言って、それで助かるとは思えませんが」
「タシグルはどこだ?」 ヤソヴァが尋ねた。
部屋の全ての視線がタシグルの護衛達へと注がれた。カン達が命令を叫んでいた中、彼らは半数が残るのみで、スゥルタイのカン自身はもはや部屋にはいなかった。
「尋ねられはしないだろうと思っておりました」 タシグルの護衛長、飾り立てた鎧をまとった男が言った。
アリーシャと彼女の護衛達が突撃し、部屋には混乱が爆ぜた。
シュー・ユンは片目でその戦いへと注意を配りながら、壁際へと滑り出た。
「クーアン」 彼は言った。「私に年報を。守らなければならない。要塞の地下室であれば安全な筈だ」
「私が持って行きます」 クーアンが言った。彼はそれを巻きながら、まだ乾かない墨が滲むと眉をひそめた。
《達人の巻物》 アート:Lake Hurwitz |
「私の方が速い」 シュー・ユンはそう言い、意味ありげに窓の外を一瞥した。クーアンの目が見開かれた。
「大師様、いけません」
「お前が心配しているのは私の安全か?」 シュー・ユンは微笑みながら尋ねた。「それとも巻物か?」
「巻物です」 一切の躊躇なくクーアンは言った。「氏族において個人は重要ではありませんが、知識は我らの源泉です」
シュー・ユンは低く頭を下げた。
「お前は賢明だ」 彼は言った。「私に巻物を。これは命令だ。何が起ころうとも、これらが確かに守られるようにしよう」
クーアンは閉じ終わった巻物を筒に入れ、シュー・ユンへと手渡し、頭を下げた。それらはシュー・ユンが「賢者眼の年報」と呼ぶ非公開の歴史の全てではなかったが、少なくとも最新の数章であり、残すべきこの痛ましい日の記録だった。他の記録は賢者眼の要塞にて守られる筈だった、少なくともしばしの間は。シュー・ユンは巻物筒に紐を通すと腰帯に下げた。
タシグルの護衛達とアブザンの二人が死亡し、アリーシャは刃から傷痕の男の血を払った。レイハンは肩の傷を手当していたが、ヤソヴァの魔術によって既にそれは閉じつつあった。
「来い」 アリーシャが言った。彼女は再び微笑んでいた――戦意を削ぐような、陰気な笑みだった。「カン達よ、共に龍に立ち向かおう。望んでいたことではないだろうが、今はそうすべき時だ」
シュー・ユンは頭を下げた。「私の役割はまた別のもの、それが残念でなりません」 彼は言った。「幸運を、そして良き狩りとなることを祈ります。オジュタイを侮ってはなりません――彼はどんな者よりも狡猾です。そしてもしタシグル殿を見つけたなら......思い出させて下さい。彼はこの場に、停戦協定のもとに訪れたのだと」
シュー・ユンは窓の外を一瞥した。塔の周囲の空は二つの異なる血統の龍が入り乱れ、それらの口からは痛むほどの冷気と腐食性の酸が吐き出されていた。彼は視線の集中を解き、時を見極め、飛び出した。
猛烈な風が彼を通り過ぎていった。そしてある表面が彼の足元へと叩きつけられた――シルムガルの種の一体の、ぬめる鱗の表皮。彼はかさばる巻物に平衡を失い、身を縮めた。あの時、初めて龍を殺した時もこうだった。縄も、助力もなく、ただ向こうみずな一人の若者と、とても不運な龍。彼の肩で龍の刺青が魔術の力に閃き、彼はその龍の頭蓋骨の、ある特別な一点へと掌を叩きつけた。
《圧点》 アート:Chase Stone |
その龍は身を震わせ、のたうち、そして落下を始めた。腐食性の唾の塊がシュー・ユンの袖に音を立てた。
シュー・ユンはしっかりと掴まった。意識のないその龍の身体は半ば滑空しながら、地面へとらせん状に下降していった。激突の瞬間、シュー・ユンは龍の背から跳躍し、宙返りをし、膝を曲げて地面に着地した。龍は彼の背後で顔面から落下し、ぐしゃりと砕ける音を立てた。
中庭は走り回る兵士達、空から攻撃を放つ龍達、そして屍の山で混乱していた。シュー・ユンは要塞の門へと駆けた。
その内部で、シュー・ユンは逆方向へと急ぐ部隊とすれ違った。彼は独特な経路を進み、廊下を過ぎて階段を下り、要塞の地下深く、これといって特徴のない一つの部屋を目指した。彼は若い頃にダルガー要塞で過ごし、その秘密の場所を知った幸運と命運に感謝した。
彼は扉を押し開けた。その部屋は埃っぽく、長いこと使用されていなかった。彼は巻物筒をその隅に押し込み、背を向け、部屋を出た。扉には鍵穴があり、鍵が刺さっていた。彼は扉を締め、鍵を抜き、身震いとともにそれを飲み込むと、中庭へと再び駆けた。
彼は陽光に目を細くした。先程よりも更に多くの人間の屍、そして龍は数体のみ。けぶる黒い液体の塊と氷の斑点が中庭と建物の壁をひどく傷つけていた。
彼の上を影が過ぎ、そして巨体が、目の前の地面へと優雅に降り立った。オジュタイ自身が彼の頭上へと、優美な頭部を傾けていた。
《僧院の包囲》 アート:Mark Winters |
「オジュタイよ」 彼は言った。彼は両腕と掌を広げた。「私をご存知でしょう。私の行いをご存知でしょう。かつて私は貴方と再び相見えることを夢見ました、貴方に対抗する技を試すために。ですが今、私は違う目的で貴方の前におります」
彼は両膝をつき、オジュタイを見上げた。その龍の向こう、高い塔の窓からクーアンが見下ろしていた。シュー・ユンは頷き、クーアンはその頭を下げた。
「私を殺しなさい」 彼は言った。「龍殺しの印を持つ者全員を殺しなさい、もしも、そうしなければならないのであれば。私の命を差し出しましょう。ですが、どうか、願います。一人の師として......氏族は助けて下さい」
オジュタイは一連の耳障りな龍詞の音節を吼えた。シュー・ユンが見たことのない衣服をまとったエイヴンが一人、その龍の隣に降り立った。そのエイヴンは――オジュタイの通訳、そう思えた――龍の発言を人の言葉として伝えた。
「龍王様はお前の言葉を了承された」
オジュタイの顎が開いた。そして吐き出されたのは氷河の真核、世界の果ての凍りつく冷気だった。
ジェスカイのカンは、龍の息に斃れた。
クーアンは師が死ぬのを見た。霜と氷に固められ、惨めに懇願する姿勢のままに。「氏族において個人は重要ではありません」 彼はそう言っていた、だがシュー・ユンは近しい存在だった。
ヤソヴァ、アリーシャ、レイハンは力を合わせ奮闘した。レイハンは彼女の部隊のすぐ後方に留まり、龍達を押し留めていたがやがて圧倒され、シルムガル自身に殺された。ヤソヴァとアリーシャ、そしてアリーシャの護衛達は快速の小船に乗り込んだ。彼女らが漕ぎ出すのをクーアンは見守った。追跡する龍はティムールの魔術とマルドゥの弓術によって湖に落とされ、やがて彼女らは対岸へと到着しともかくも安全な塩路へと脱出した。それをもって戦いは終わったが、クーアンは何も成していなかった。彼は職人であり歴史家。戦士ではなかった。観察することが彼の役割だった。
交戦が終わるとすぐに、オジュタイの子らに追い払われてシルムガルと彼の龍たちもまた去った。クーアンは、そのうちの一体が人間をひとり掴んでいるのを見た気がした。
中庭では、ジェスカイの僧と兵士達が武器を置き、龍王オジュタイへと頭を垂れていた。クーアンは彼らの中に加わるべく急いだ。
彼は目の前にそびえる龍へと両膝をついた。クーアンはシュー・ユンとは違っていた。彼は龍と対峙した事は一度もなかった。彼は師の凍りついた屍の隣にひれ伏した。龍は吼え、息の音を立てた。
「偉大なる龍王オジュタイ様は宣言された、ジェスカイはもはや存在しない」 エイヴンは言った。「お前達のカンは死に、要塞の一つもまた陥落した。他の者は従うがよい。オジュタイ様は命じる......」
エイヴンはほんの一瞬口ごもり、そして続けた。
「......この死体、全ての屍は葬儀なく処分される。そして......幽霊火の戦士の刺青を持つ者は全て、剣により処刑される」
集まった者達の間で怒りのざわめきがあったが、龍が彼らを取り囲んでいた。
オジュタイは再び龍詞を話した。
「お前は」 エイヴンがそう言って、クーアンを立たせた。「書記者か?」
《エイヴンの偵察員》 アート:David Gaillet |
クーアンは頷き、墨で汚れた指を見下ろした。
「偉大なるオジュタイ様はお前に仕事を申しつける」 エイヴンが言った。「この日より、氏族はもはや存在しない。カンはもはや存在しない。その二つの言葉は口にされることはない。全ての書庫からお前達の記録を探し、氏族の名を存在から消し去るように。お前達の歴史は今日より始まるのだ」
クーアンはオジュタイの輝く瞳を見上げた。彼は今日書き記したものを、シュー・ユンが何処かへと隠したものを思った。彼は、誰かがそれを見つけてくれることを願った。安全に隠されることを願った。
「かしこまりました」 彼は言った。
タシグルは憤怒に震えていた。
シルムガルはその重い身体で壁を破壊し、宮殿に押し入った。その龍は玉座を――タシグルの玉座を!――運んでくると、大広間の正しい位置へと戻し、それを取り囲むように身体を丸めて眠りについた。シルムガルの顎から涎がにじみ出て玉座に滴り落ち、その華麗な装飾を溶かした。ダルガー要塞から巨大な鱗の手に掴まれての帰還は、最悪と言ってもいいものだった。自分自身の宮殿の中、最も誇った所有物が龍に汚されるのを見るのは、龍が目覚めることを心配をせずに済むとしても――あまりにひどすぎた。
《宮殿の包囲》 アート:Slawomir Maniak |
タシグルを裏切り、シルムガルの側についたあの裏切り者ナーガ、シディーキが龍の隣に控えていた。タシグルは丁寧な距離を保ったが、彼の忍耐力はすぐに限界となった。
「こいつを起こせ!」 彼は呼びかけた。「私には謁見があるのだ!」
「黙れ、蛆虫!」 シディーキは言った。彼女は明らかに自身の状況を楽しんでいた。「龍王様は眠りたい時に眠り、目覚めたい時に目覚める。それを邪魔されることを好みはしない」
「起こせと言ったのだ!」 タシグルは声を荒げた。「私こそがその玉座を約束された者だ! この......この......この、侵略を容認などできぬ!」
シルムガルは身動きをした。シディーキは彼の鉤爪の範囲外までするりと後ずさった。龍は目を覚ましたが、その雰囲気は険悪と言ってよかった。
龍は片目を開け、低く重い声で龍詞を話した。シディーキが返答すると、シルムガルは更に続けた。
「龍王様は詫びておられる」 満足げに彼女は言った。「確かにお前はその玉座を約束された者だったな」
おかしい、タシグルは考えた。この女は心から楽しんでいる、それが何であれ。
彼は背を向けたが、すでにゾンビの下僕三体に取り囲まれていた。二体が彼の腕を掴み、もう一体が音を立てて彼の首へと、黄金を散りばめた重い首輪をはめた。それは黄金を鍍金された鎖に繋がれており、長く伸び、そして......その端を、シディーキがシルムガルへと差し出していた。
《シブシグの泥浚い》 アート:Zack Stella |
「やめろ!」 タシグルは声を上げた。「同意した筈だ! 私はカンだぞ!」
龍はその鎖を荒々しく引き、吼えた。タシグルは石の床にひっくり返った。
シディーキはタシグルに迫った。
「龍王様よりの教えだ」 彼女は言った。「カンなどいない。その言葉を再び言ってみるがよい、蛆虫よ。その時我らは『苦悶』という言葉の新たな、かつ創造的な解釈を発見するであろうな」
タシグルは体勢を半ば立て直そうとしたが、シルムガルがその分厚く弾性のある上腕に黄金の鎖を巻きつけ、彼を引き寄せた。タシグルは床を無力に滑りながら運ばれ、龍王の足元にうずくまった。シルムガルの酸の涎が危険なほど近くで滴っていた。龍は明らかな愉悦に喉を鳴らした。
シディーキは身体を傾け、タシグルに顔を近づけた。彼が動けるのはシルムガルに向かってのみだと知りながら。
「龍王様はお前に保証する」 彼女は言った。「これこそが最も誇らしき位置だと」
彼女は微笑んだ。危険な、牙の笑みだった。
「つまるところ、タシグル」 彼女は言った。「お前は彼の最高の戦利品ということだ」
ダガタールは書簡を読み終えた。彼は確認のためにもう一度読み返すと、音を立てて綺麗に二つ折りにした。戦場机の上、燃える油の灯りがわずかに揺らめいた。
レイハンは死んだ。カン五人の、死力を尽くした最後の頂上会談にて。彼女はもう二人のカンを救って死んだ。ティムールのカン、ヤソヴァとその民はダガタールへと知らせるよう決断したのだった。
《勇敢な姿勢》 アート:Willian Murai |
「お前がそうなるべきだったのだ」 彼の頭の中で声がした、あの怒れる霊のあらゆる悪意をもって。だが『追憶』はもうない。それは彼自身の声に過ぎなかった。彼の罪悪感が、自身へと語りかける声に過ぎなかった。
彼は灯の隣に、折り畳んだ書簡を置いた。
「ベリル!」 彼は言った。
ダガタールが彼女の名を言い終えるよりも早く、砂色の毛皮の、痩せたアイノクの兵士が天幕に入ってきた。
「はっ!」
「龍王様へと言伝を」 彼は言った。「アブザン」も「カン」も今や「忘れられた言葉」、口に出してはならない言葉であり、彼は今や馴染んだ言い回しで伝えた。「情報を受け取った、抵抗勢力の長が死んだと」 彼はそう言い、重い溜息をついた。「龍王様へと伝えてくれ。我らは今すぐ動き、残る抵抗勢力へと降伏を強いることもできると......もしくは彼らを倒しもすると。良きことのために」
ベリルは少しの間、彼をじっと見ていた。彼女は長いことダガタールの指揮下にあり、彼がその命令をどのような心境で出しているかを感じ取った。
「かしこまりました、閣下」 彼女は静かに言った。
天幕の入り口が閉じられると、彼は再び机へと向かった。
彼は書簡を取り上げ、その端を灯のゆらめく炎に触れさせ、そして灰へと燃え尽きるまでを見つめていた。彼は無言で、禁じられた祈り文句を唱えた。全軍隊へと聞かせるために轟く声で何度も発した言葉を。それは死者への祈りであり、去った魂が安らかな眠りにつくことを願う、簡素な語句だった。
彼は思った。レイハンの魂には何処か、安らかに逝く所はあるのだろうかと。
アリーシャは全速力で馬を走らせていた。彼女の護衛二人が脇についていた。彼女は砂草原の彼方までも見えるよう、自身の旗印をはためかせていた。
彼女らの前方どこかに、常に放浪を続ける、マルドゥがいた。氏族。彼女の氏族。この最後の希望を追うために、アリーシャは彼らを残してきた......だがそれは龍が触れたもの全てと同じように、灰と帰した。彼女はタシグルを、彼の逃亡を、彼の腹へと自分の刃を突き立てられなかった不運を呪った。
遠くで嵐が吹き荒れていた。赤と紫の稲妻が空に走り、龍たちの暗い姿が既に雲の間にかき乱れていた。近頃嵐はとても頻繁になり、その全てが更なる龍をもたらしていた。
彼女はドロモカへと膝をついたダガタールを思い、シルムガルと何らかの取引をしたであろうタシグルを思い、別れる前に話したヤソヴァを、アタルカと何らかの協定を目指すと言った彼女を思った。そしてオジュタイが四大要塞の一つに座し、ジェスカイもまた降伏するようだった。カン達は斃れた。だが民は生きている。
氏族は死にゆくのではない。変わろうとしている。
「マルドゥが龍に膝をつくなどと考えているか?」 彼女は大声で尋ねた。
彼女のオークの護衛、翼番いのジェイガンが鞍上で振り返った。
《戦いの喧嘩屋》 アート:Karl Kopinski |
「マルドゥはひざまずきません」 轟く蹄の音にかき消えないよう、彼は声を上げた。「ですが皆、貴女について行きます。何処へ行こうとも」
彼女は龍の下僕として生きるよりは死を選ぶつもりだった。自身が死ぬことを思い悩みはしなかった。だが彼女の民一人一人が、その人生全てが、滅してしまうというのなら......
「あれを」 彼女のもう一人の護衛、瞳貫きのドーシンが、ほぼまっすぐ背後を指差した。彼女はアリーシャよりもわずかに年上の無口な女性であり、鋭い目とぶれることのない手で知られていた。
アリーシャは首を伸ばして見た。
暗い影が一つ、砂草原を駆けてきた。滑るように、戦士が投げ槍を当てられるであろうほどに低く――戦士がそれ以上の生を望まないのであれば。その軌跡には稲妻がさざめき、地面を焼いた。コラガン、生けるものの中で最速の存在、死そのものの影。
そして彼女はアリーシャ達の右を過ぎようとしていた。
「止まれ!」 アリーシャは声を上げた。「武器を構えろ!」
三頭の馬が皆旋回した。アリーシャとドーシンは矢をつがえ、ジェイガンは巨大な槍を持ち上げた。
コラガンは彼女らを目にしていないようだった。新たな子らを歓迎し、権威を主張するために嵐へと向かっているようだった。騎乗した三人の人型生物は彼女の注意からは外れていた。
「まだだ」 アリーシャは言った。「私の合図を待て」
その時コラガンの首回りの襞が広げられ、彼女は咆哮してアリーシャ達の方角へと進路を変えた。
その龍王はかつてないほど大きく迫ってきた。コラガンは身体を揺すりながら近づき、彼女らを見下ろしていた。その口が大きく開かれ、触れるまでもなく彼女らを焼き焦がしてしまえる稲妻が放たれようとしていた。アリーシャは弓を掲げ、合図すべき時を待った。
一人と一体の目が合った。ごく僅かな一瞬、時は静止したようだった。
《嵐の憤怒、コラガン》 アート:Jaime Jones |
龍の口が閉じられた。アリーシャは弓を下げた。そしてコラガンは渦巻く埃の雲を長く残し、過ぎ去った。
「放たなかったのですね」 ドーシンが言った。「私は当てることもできました」
アリーシャは馬を転回させ、コラガンが瞬く間に遠くへと去っていくのを見ていた。
「今、理解した」 彼女は言った。「他の龍どもは導きたがっている。奴らは王と呼ばれ、仕えられ、頭を下げられたがっている」
アリーシャは背後に手を伸ばし、鞍から彼女の旗印を引き抜くと、それを地面へと投げ捨てた。
「コラガンは導こうとは思っていない」 彼女は言った。「彼女はマルドゥのカンを殺していた、もしそう望むなら。望むなら殺せると知っていた。そして、私はここにいる」
「どういう事です?」 ドーシンが尋ねた。
「膝をつく必要はないということだ」 アリーシャはにやりと笑って言った。「ただ顔を上げ、ついて行けばいい」
ジェイガンは笑みを返さなかった。
「自分は、そうできるとは思えません」 彼は言った。
「私が向かう先について来るか、来ないかだ」
彼女は馬を蹴り、走り去った。一瞬の躊躇の後、護衛達は続いた。
馬に乗った戦士三人はコラガン、手に負えない暗黒の稲妻を追いかけた。背後の砂の上に、マルドゥのカンの旗印を置き去りにして。
そりに乗せたマンモスの死骸の隣を、龍爪のヤソヴァはゆっくりと歩いていた。新鮮な血の匂いは強烈だった。彼女は片手で剣牙虎アンチンを抑え続けていた。彼女はマンモスを倒す前に剣牙虎へと食える限りのヘラジカを与えていたが、彼のあらゆる本能が語りかけていた、まだ温かいその死骸に頭をうずめて腹を満たせと。だがそのマンモスは彼のためのものではなかった。彼女はその獲物からただ一つだけを手にしていた。辛抱強く切り落とした、その牙の先端。ヤソヴァは今もその象牙の一片を下げていた。
彼女の随員である戦士達が僅かな人数、マンモスの死骸を導いて山を登っていた。アヤゴルと呼ばれる狭い峡谷、そこにアタルカの巣がある。龍たちがその一団の上を旋回しており、ヤソヴァは目を離すことなく、彼らを追い払う準備をしていた。だがアタルカの狩猟場に敬意を表してか、降りてくるものはなかった。
クルショク達がそりを引いていた。生肉の存在と旋回する龍に落ち付かず、彼らは息を切らして唸った。ヤソヴァとともに歩く男も女も、全く良い雰囲気ではなかった。
アヤゴル峡谷が彼らの前に口を開けていた。その果てに、焼け焦げた骨の巨大な山があった。そして一つの影が太陽を横切ったかと思うと、彼らの目の前にアタルカの巨体が着地した。まるで雪崩のように一瞬のことだった。彼女の身体は熱を発し、枝角は内なる熱に輝き、口は半ば開かれて目の前の全員へ炎を吐こうとしていた。アンチンは唸り声を上げた。
《世界を溶かすもの、アタルカ》 アート:Karl Kopinski |
ヤソヴァはアンチンの首筋を引っ張り、ついて来させた。彼女と戦士達は来た道を走って戻った。アンチンは足音を立てずに後ろに従った。そして彼らは落石の背後に隠れて様子を窺った。
アタルカはしばしの間この奇妙な光景を眺めていたが、やがて咆哮とともに炎の奔流を放ち、クルショクを殺し、マンモスの肉を焼き、そりに火をつけた。そして彼女はマンモスを貪った。その肉の巨大な塊を引きちぎり、更にはクルショクの焼けこげた分厚い皮までも噛み砕き始めた。
アタルカが落ち着いたように見えると、ヤソヴァは岩の背後から進み出た。杖は置いたままでいた。
アタルカは鋭く頭部をもたげた。その口輪からは血が滴り落ちていた。彼女は貪欲にヤソヴァを見て、口を開いた。
ヤソヴァはマンモスの死骸の残骸を指差し、そして何も持たない両手を広げた。
「アタルカ!」 彼女は言った。「もうあなたと戦う気はない。私は戦いに疲れた。それは貢物だ。我らを生かせ、そうすればもっと多くの食べ物を渡そう」
アタルカは首をかしげ、そして吼えると再びクルショクを噛みしめた。
「去って良いということか」 ヤソヴァは言った。
彼女は戦士達を集め、峡谷を後にした。
彼らは無言で歩き、龍からの隠れ場所としていた洞窟へと戻った。誰かが火を起こした。ヤソヴァはマンモスの牙から象牙の一片を引き裂き、それを小さなナイフで彫り始めた。以前から続けている作業だった。
「我らはアタルカと戦うのではなく彼女のために狩りをする。そう理解してくれるまで、どれほどかかるかは判らない」 ヤソヴァは言った。「そして彼女が他の龍へ、我らを食べないようにとわざわざ言ってくれるかどうかはそれ以上に定かではない」 彼女は肩をすくめた。「これは始まりだ、どのみちな」
「貴女は、それに確信を持っているのですか?」 戦士の一人、イェランという名の髭のない若者が尋ねた。
「いや」 ヤソヴァは答えた。「だが古いやり方では生きていけないだろうということは、忌々しいほどに確かだ」
彼女は作業を終え、マンモスの象牙を炎の明りに掲げた。それは簡素な彫刻で、素朴な像と巫師の魔法文字を用いて――ティムール、その魔法文字は特別にそう意味する――龍アタルカへと肉を捧げる人々の集団を表現していた。彼女は立ち上がり、低い岩棚へ向かうと、彫刻した象牙の欠片を既に置かれていたもう一つの隣に置いた。それに描かれているのは龍の翼を持つ人間であり、「カン」を意味する魔法文字二つとともに、龍の嵐の下に立っていた。
「未来は書かれざるもの」 彼女は言った。「書こう、共に。いつの日か、一つずつ」
《巫師の天啓》 アート:Cynthia Sheppard |
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