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開発秘話

Making Magic -マジック開発秘話-

ゲームとは何か

Mark Rosewater
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2018年6月4日

 

 今日の記事は、ポッドキャストの「Drive to Work」を元にしたものである。(その内容はこちらで聞くことができる。)多くの好評を受けて、聞くよりも読むことのほうが好きな人がいることを踏まえ、私はこの内容を記事として書き起こすことにした。この記事にあってポッドキャストにない内容も、またその逆もあるので、この題材に興味がある諸君は両方チェックすることをおすすめしよう。

 さて、1995年、私が初めてウィザーズ・オブ・ザ・コーストに来たとき、開発部にはさまざまな内容について議論するための一連のフォルダがあった。マジックのセット(や、他の我々が作っていたゲーム)ごとにそれぞれ1つのフォルダがあった。プレイテスト用のフォルダもあった。新商品の発想のためのフォルダもあった。基本的に、開発部が話し合いたいかもしれないと思われるようなあらゆる題材についてのフォルダがあったのだ。そうしたフォルダの中の1つに、神秘的にも「Kickshaw/おつまみ」と命名されたものがあった。(命名の理由を知りたい諸君のために説明すると、マジックの創造者のリチャード・ガーフィールド/Richard Garfieldは自分のプロジェクトの名前を辞書から無作為に選んでつけるのが好きなのだ。)

 リチャードがこのフォルダを作ったのは、ゲームの概念について話し合う場所があることが重要だと考えたからである。我々はゲームのさまざまな側面について議論し、そして我々がさらに議論を続けられるようにリチャードが新しい言葉を作ったのだ。(ちなみに、リチャードは、マジックのデザインのための用語を事前に作るという私の発想のもとになっている。)私がゲームというものが何なのかという広い発想について話し合ったのは、おそらくこの「おつまみ」のときが初めてだったと思う。

 大学でスタンダップコメディを学んでいたころ、コメディアンの余暇に交わす議論としてよくあるのは、コメディの定義だった。何かを作るためには、その作ろうとしているものが何なのかを理解するのは重要である。ゲームを作るにあたり、私はゲームをゲームたらしめているものが何なのかという基礎になる見解を固める必要があるというリチャードと同じ信念を持ったのだ。

 今日の記事は、私にとって基礎になる定義を作るにあたっての私の努力の話である。他のゲームデザイナーが、それぞれに自分にとってのゲームを定義したいと気づく助けにしてもらうため、このことについて語ろうと思う。ゲームのプレイヤーであってデザインすることにまったく興味がない諸君にとっても、ゲームとは何かという基礎になる見解を持つことはゲームについての考え方を形作り、さらにその趣味を突き詰める助けになることだろう。

 ここで強調しておきたいのは、私は、ゲームとは何かという定義を万人が共有することが重要だとは考えていないということである。(私は、全てのコメディアンがコメディとは何かという定義を共有すべきだとも考えていない。)重要なのは、ゲーマー各人が自分にとって基礎になる定義を持つことなのだ。今日の記事は、私の定義の話である。

マークのゲームの定義

ゲームとは、目標があり、制限があり、行為者性があり、現実的意味がないものである。

 この定義のそれぞれの部分について説明していこう。

目標がある

 ゲームには要点が必要である。プレイヤーが目指すものとは一体何なのか。ゲームに勝利する方法があるとしたら、どうすれば勝利できるのか。ゲームを終わらせる方法があるとしたら、どうすれば終わるのか。ゲームに参加しているプレイヤーには動機付けが必要で、行動の指針となる何かが必要である。それは、目標の存在から得られるものなのだ。目標は能動的(敵を倒す)であっても受動的(死なない)であってもよいが、プレイヤーにすべきことが何なのかという考えを示すものでなければならない。

制限がある

 ゲームには妨害が必要である。プレイヤーには目標があるが、何かが単純にそれを達成することを阻むのだ。ゲームに課題が必要なのは、ゲームの楽しさの元になるのはその課題を乗り越える方法を見つけることだからである。

行為者性がある

 ゲームには決定が必要で、その決定には意味がなければならない。常に同じ選択をするのが正解になるような選択は、実際は選択ではなく、プレイヤーに行為者性を与えることにはならない。ゲームやその結果にプレイヤーの関与が存在することは、ゲーム体験の中核である。

現実的意味がない

 ゲームとは、プレイする体験を求めて行なうものである。直面するあらゆる妨害を実生活に基づいて分類すると、ゲームはすぐにその意味を失ってしまうのだ。我々が「ゲームをプレイする」という表現を使うのは、ゲームが何かを求めてする活動だからである。(通常、娯楽や教育だが、プレイする理由は他にもいろいろとある。)

足りない要素

 この4つが重要である理由を示す助けとして、1つが欠けている場合にどうなるかを検証してみよう。

制限があり、行為者性があり、現実的意味がなく、しかし目標がない

 ここではそれを「玩具」と呼ぼう。「レゴ」を例に取ってみよう。制限はある。レゴのブロックの形や色は決まっている。行為者性はある。ブロック同士をどう組み合わせることもできて、好きな形を作ることができる。現実的意味はない。作っているものは、日常生活で何か機能を果たすものではない。しかし、目標はない。レゴで勝利する方法は存在しない。例えば特定の形を作るなど、自分なりの目標を定めることはできるが、それはレゴという商品が本来的に持っているものではない。(確かに、特定の何かを作るために特にデザインされたセットも存在するが、それにはそのための工程表がついていて、何も決定するものが存在しない。)

 ゲームと玩具を区別する例として私が気に入っているゲームが「マインクラフト」である。詳しくない諸君のために説明すると、マインクラフトとは、3次元のブロックで作られた世界にあるコンピューターゲームである。最初は何も持っておらず、次第に物質を手に入れ(その多くは掘り出し)、物品を作り始める。その物品の中には、他の物品を作るための道具もある。このゲームには、サバイバルとクリエイティブの2つのモードがある。

 サバイバルモードでは、主に夜になるとモンスターが現れ、攻撃してくる。目標は、モンスターを防いで生き残る助けとなる(武器や防御施設などの)物品を作っていくための自分の資源をゆっくりと整えている間生き残ることである。クリエイティブモードでは、モンスターは攻撃してこない。(出現しないように設定することさえできる。)何でも作りたいものを作ることができるように、必要な物質を何でも手に入れることができる。

 
強引な採掘》 アート:Franz Vohwinkel

 私の定義では、サバイバルモードはゲームであり、クリエイティブモードは玩具である。サバイバルモードには、死なない、という目標があり、プレイする際のほとんど全ての選択の元になっている。クリエイティブモードは、本質的には仮想レゴそのものである。何でも作ることができるが、その動機となるものはマインクラフトによるものではなく、プレイヤー自身の想像力によるものなのだ。

 ここで、私は玩具を否定しているわけではないことを強調しておく。玩具は人間が、大人であっても(それを「玩具」とは呼んでいなくても)本質的に求めるものだと思っている。ここで言いたいのは、目標の存在を否定するなら、ゲームを作ることではなく玩具を作ることに意識が向いているということである。

目標があり、行為者性があり、現実的意味がなく、しかし制限がない

 ここではそれを「活動」と呼ぼう。ジョギングを例に取ってみよう。毎日8キロジョギングしたいと仮定する。目標がある。8キロ走ることだ。行為者性がある。どこをどのように走るかを選ぶことができる。走りやすいように、何を着るか、水筒など何を持っていくかを決めることができる。現実的意味はない。どこかに移動するために走るわけではない。通常は出発点に戻るように周回コースを走るものである。しかし、制限がない。自分の意志や身体的能力以外に、特定の妨害が存在するわけではない。するべきことはあるが、それは解決すべきものではない。対処すべきものではないのだ。

 ゲームと活動を区別する例として私が気に入っているのは、子供のころによくやっていたことである、ガレージにテニスボールを当てること、である。成長して、私はテニスをするようになった。球を当てる練習として、私はガレージのドアを下ろし、それからラケットを取って、ガレージに向けてボールを打つ。ボールは跳ね返ってくるので、それを再び打ち返すのだ。テニスのゲームでも、ガレージのドアに向かって打っていたのと同じようにボールを打つという行動はするが、テニスではゲームであり、壁打ちは活動である。これはなぜだろうか。

 テニスのゲームでは、従わなければならないルールがいくつも存在する。ボールはコートの中に保たなければならない。ボールはネットを越すようにしなければならない。サーブすることもあれば、レシーブするときもある。対戦相手がいて、そのコート内の場所によって私のボールを打つ戦略が変わる。点数があり、誰かが勝つ。一言で言うと、ボールを打ちながらさまざまな制限に対処しているのだ。

 ガレージに向かってボールを打っていたときは、何も制限はなかった。実のところ唯一の目標が、ただ打ち続けることだけであり、失敗しても何の問題にもならなかったのだ。単にもう一度ボールを取り、再び始めるだけだった。どちらも同じような能力を使うが、文脈は全く違っていた。制限による誘導がなければ、すぐに、その行動をすることそのものが中心になる。それは活動であった。

目標があり、制限があり、現実的意味はなく、しかし行為者性がない

 ここではそれを「出来事」と呼ぼう。映画を例に取ってみよう。目標がある。その物語で起こることを知りたいと思っている。制限がある。特定の時間に特定の場所に行かなければ見ることはできないし、料金を支払わなければならないし、席を見つけなければならない。現実的意味はない。これは娯楽であり、日常の仕事を終わらせるために必要なものではない。しかし、行為者性はない。私がした判断は、映画の上映には何も影響を及ぼさない。私がいるかどうかにかかわらず、同じことになる。私が目撃している眼の前で起こることではあっても、私はそれに何も影響を及ぼしていないのだ。

 ゲームと出来事を区別する例として私が気に入っているのは、大人がやる三目並べと子供がやる三目並べでの違いである。知らない諸君のために説明すると、三目並べとは3×3のマスの中で、2人のプレイヤーが交互にコマを置き(片方は×、片方は○)、縦横斜めどの方向であれ3つ並べることを目指すというゲームである。三目並べを充分な回数繰り返すと、対戦相手を勝利させない戦略が存在することに気づくことになる。両プレイヤーともがその戦術に気づくと、ゲームに勝利することはできなくなる。

 子供がプレイする場合、彼らが三目並べの限界に気づくまでは、これは間違いなくゲームである。結果に影響を及ぼす決定をしている。全体としての行為者性を持つのだ。興味深いことに、限界を知る大人同士がプレイする場合には、これは出来事になる。初手には9通りあるのでゲームの始まり方はわからないが、すぐに応手は決まりきったものになっていく。驚きはなく、「猫のゲーム」(三目並べの引き分けのことを言う)になるという結果を変えるような決定は存在しない。つまり、誰かにとってはゲームであっても、他の誰かにとってゲームでないものが存在しうるということである。それは、そのプレイしている人物の行為者性によるものなのだ。

 
野生の勘》 アート:Lucas Graciano

 ここから、ゲームの定義について論じる際の有名な話題である「Candy Land」の話をしよう。詳しくない諸君のために説明すると、「Candy Land」とは、複数のプレイヤーでコースの終着点に最初に到達することを目指す子供向けの「ゲーム」である。盤面にはそれぞれが別のお菓子を参照している「Candy Land」内の場所が表されており、プレイヤーはそこを通ってキャンディ王の白を目指すのだ。駒を進めるのは、山から引いたカードに従う。カードにはさまざまな色で1つか2つの四角形が描かれている。(四角が2つある場合、それらは必ず同じ色をしている。)プレイヤーは次のその色のマスまで、2つ四角があるカードを引いたなら2つ先のその色のマスまで、進むのだ。

 「Candy Land」では、選ぶほうが戦略的に絶対に正解であるショートカットを除いて、選択は存在しない。カードの情報は公開されていないので結果はプレイヤーにはわからないが、ゲームを始める前に山札を見ていれば、プレイヤーの人数と順番から結果がわかることになる。では、「Candy Land」はゲームだろうか。私は、一応、そうではない、と答えよう。カードを引くことで結果に影響を与えると信じるほど若いなら、そのプレイヤーにとってはこれには行為者性があり、従ってこれはゲームであると認めよう。

目標があり、制限があり、行為者性があり、しかし現実的意味がある

 ここではそれを「生活」と呼ぼう。飛行機で旅行するためのスーツケース詰めを例にとろう。ほとんどの航空会社では、スーツケースは1個ごとに有料で、重量が50ポンド(およそ23キロ)以上になると追加料金を取られる。目標がある。旅行に必要なあらゆるものを詰め込むことだ。制限がある。荷物1個あたりの重さが50ポンドを越えないようにしながら、荷物の個数を最少にすることだ。行為者性がある。何を詰めるか詰めないか、それらをどの荷物に入れるか、全ては自分で決めることだ。しかし、現実的意味がある。娯楽や教育のためにしているのではなく、そうしなければならないからしているのだ。

 ゲームと現実的意味があるものの区別の例として私が気に入っているのは、フライトシミュレーターと実際に飛行機を飛ばすことだ。実際の飛行機のコクピットをリアルに再現した、最高のフライトシミュレーターを想像してくれたまえ。それでも、それは飛行機を飛ばすこととは違う。最大の理由は、失敗に現実的影響がないことである。フライトシミュレーターで墜落した。しまった、次こそは。実際の飛行機で墜落した。死んだ。すること自体は似ていたとしても、影響の大きさがこの2つの経験を全く違うものにしている。

 この分類が私の定義に加えられている理由は、この話題について話すときに、我々の生活の半分は条件を満たしているということにしばしば気付かされていたからである。生活には多くの目標があり、制限があり、行為者性がある。しかし、ゲームではない。そのため、私はゲームをプレイすることには必要がない負担に挑むことが含まれるという意味を込めてこの最後の条件を加えたのだ。

重なる分類

 ゲームを定義していて、他のいくつかの分類がゲームと混ざりがちだということに気がついたので、それらについても少し話しておこう。

スポーツ

 スポーツは、濃い肉体要素を持つゲームや活動である。スポーツの中には、アメフト、野球、サッカーなど、上述の必要な要素全てを含んでいるものがあり、それらはゲームである。他のスポーツは、対処すべき制限がないので、活動である。活動であるスポーツの中で最も多いのは、制限なしで特定の技術を試すものであり、それらは問題をさらに複雑にしている。例えば、100メートル走は可能な限り速く走るというものである。これは活動であり、ゲームではない。

パズル

 パズルは難しい分類である。行為者性がないのでゲームではないパズルもある。パズルを解くときに判断していないというのではなく、その判断がパズルの結果に影響を与えることができないからである。例えば、クロスワードパズルは、判断によって答えが変わることはない。こうなるとこれはゲームと言うよりも出来事になるが、映画やアートショーとは違い、受け手がもっと主体的に関わっている。だからといってパズルがゲームでありえないというわけではないが、ゲームであるには動的な解決が必要である。つまり、回答者がその行動に応じて異なる解決策を見つけることができなければならないということである。

 パズル要素を持つゲームの好例としては、ビデオゲームの「Scribblenauts」がある。そのゲームでは、何か目的が与えられ、それからそれに適合する物を何か作ることができる。例えば、最初の課題は木からスターライト(星型で、これを手に入れるのが目的である)を取ることだとする。はしごを作って、木に登ることができる。翼を作って、スターライトまで飛んでいくことができる。チェーンソーを作って、木を切り倒すことができる。これはパズルだが、動的である、つまり解決方法が1つだけに限られず、さまざまな取りうる行動に基づいたさまざまな解決方法が存在する。これによって、これはパズルであると同時にゲームでもあるのだ。

 
パズルの欠片》 アート:Magali Villeneuve

 また、パズルはゲームの要素として使われることもあるので、ゲーム内のパズル単体ではゲームではないが大きな構造としてのゲームの一部であることがありうる。「ゼルダの伝説」のゲームはこの好例である。

諸君の番

 私なりのゲームの定義に3000語を費やしてきたが、今度は諸君にゲームとは何かという考えを公開してもらいたいと思う。この記事の内容を土台にしてくれてもいいし、自分なりの別の分類を考え出してくれてもいい。そこで重要なことは、自分にとってゲームがどういう意味を持つのかを分析することである。

 いつもは反響を求めるのだが、今回の話題は私にとって大事なものなので、私の定義についてどう考えたか、そして諸君自身の定義を聞かせてほしい。メール、各ソーシャルメディア(TwitterTumblrGoogle+Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。

 それではまた次回、ストーム値の新しい記事でお会いしよう。

 その日まで、あなたがさらに多くのゲーム、玩具、活動、出来事、生活をプレイしますように。

(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)

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