MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 11

肉の庭

Lora Gray
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2022年5月2日

 

(編訳注:この物語には残酷、衝撃的、グロテスクな描写が含まれます。)


「ここ機械聖典に完成あり。ここに祝福あり」

 その声が機械的に合成され、美麗聖堂の庭園に響き渡る。エリシュ・ノーン、ファイレクシアの統治者にして機械の母は、神聖なる機械の身体の奥深くにその真実の光を感じた。機械聖典は究極の完成へと繋がる唯一の道。彼女自身のぎらつく油と同じように純粋で絶対確実、疑いようのない道。

 集うファイレクシア人たちを高座から見下ろし、乳白色の光に鎧を輝かせながら、ノーンはこれまでになくいほどに確信した。ここにあるのは、自分が広めてきた力の象徴。美麗聖堂、その塔、白磁のような金属の尖塔、空へとそびえる大聖堂。優雅で繊細な曲線。真紅の旗印が橋梁や砲塔に揺れ、庭園にぎらつく建築や敷石との際立った対比を成している。

 ファイレクシアの忠臣たち。機械的に改造された彼らの顔が彼女へと向けられた。彼らの意識が彼女自身のそれと混じり合い、彼女の言葉を待ちわびた。我が民、生育の殻で育ったものたち。そして敵軍から捕えた養子たち。かつては不愉快な生来の皮膚をまとって長く生きてきた、貧相で哀れな生物であった彼らは、今や機械の部位を与えられて理想化された。大気には彼らの新たな身体の匂いが漂っていた。金属の、鋭く、清潔な匂い。かすかなファイレクシア語の詠唱。何百もの声が同調し、辺りに流れていた。

相応の敬意》 アート:James Ryman

 この美を否定できる者がいるだろうか? この正しさを? 絶対の真実を?

 それでも、目の前に捕らえたミラディン人は今も抵抗していた。愚かな努力。この女の黒くもつれた髪の頂点部ですら、ノーンの肩にようやく届くほど。長い鉤爪の指が掴んだ肉は哀れなほど弱く、ノーンがわずかに手に力を込めただけで抵抗を止めた。両腕と両脚を潰されて女は悲鳴を上げ、ノーンが与えた傷口から血を迸らせて硬直した。

 人間とは、かくも不完全で弱きもの。

 演説をしながらも、ノーンは槽の司祭や接合者にこのミラディン人の改造を始めさせることを考えていた。彼らは間違いなく、素晴らしい仕事をしてくれるだろう。だが機械聖典は急速に成長し、拡大している。

 子供たちに教える手段として、見せしめ以上に優れたものがあるだろうか?

「今こそ結束の時」 聖堂の地面を吹き抜ける風のように冷たく滑らかに、ノーンは声を上げた。「この不完全なる生物をとくと見よ。この有機体の異形であっても、聖典の慈悲に値する。祝福すら与えられよう」

 ノーンはこのミラディン人を高座の隅へと突き出した。女はよろめき、情けなく喘いだ。弱弱しく恥ずべき態度。だがその何かが、黒い髪が、目の角度が、顎の形が、ノーンの記憶の隅をくすぐった。以前にもこの人間に遭遇していた? それは疑わしい。このような哀れな生物を手にしたなら、間違いなく改造させている。

 機械聖典から逃げのびた者の存在など、ほとんど聞いたこともない。

 ノーンは手に力を込めた。「まもなく、この惨めな人間は恐怖という重荷から解放される。皮を剥ぎ、この弱き身体に拘束する肉を取り払う。そして、この女もまた、完全な同一意識をもって我らの神聖なる目的と意志に加わるであろう」

 音の動きが、深い轟きがあった。聞いたこともないような音が辺り一面から放たれていた。ファイレクシア人の信仰の力、彼らの機械的な声が祈りの中で深まっているのだろうか? ノーンは手を掲げ、長い鉤爪の指を曲げ、自らの手首を貫いた。

 一瞬、煙で曇ったかのように、青ざめた空が暗くなったように思えた。だがノーンの注目は手首から流れ出るぎらつく油に、自身の身体に、最も純粋な可能性の源に向けられていた。群衆はひとつになったかのように前のめりになり、ノーンの傷から流れ出た油がミラディン人の頭と震える肩へと滴る様に目を輝かせた。それは女の髪を滑り、首筋を覆った。そこにある傷を油が貫くと女は悶え、悲鳴を上げた。甲高く有機的な音。苛立たしい。すぐにこのような声という束縛も取り換えられ、完全に定められ、声もまた崇敬をもって他者に加わるだろう。

 ぎらつく油に窒息させられ、満たされて女は咳き込んだ。開いた口と目の端から油が流れ込むと、その身体が痙攣した。

 ノーンを取り巻くそこかしこで、響きが大きくなっていった。

 彼女はミラディン人の首筋を掴み、全員に見えるよう持ち上げた。「完成をとくと見よ」

 だがその手の中、ミラディン人は身震いをした。不意にかつ不規則に、身体の中心から沸き上がる有機体の動き。機械的なものは何一つなく、神聖なる改造の律動には及ぶべくもない。代わりに、ノーンの手の中の肉が膨れ上がった。うねり、悶え、掌に触れる脊椎骨がノーンを振り払おうとしているかのように。

 ミラディン人の身体が持ち上がった。荒々しいひきつけに、ノーンはそれを手から落としかけた。そしてどろどろの有機体が、繊維質の木の根が、しなやかで異質なものがその人間の腹部から弾けた。不自然に濃く汚らしい血が高座を汚し、ノーンの足元に溜まった。彼女自身のぎらつく油の歪んだ紛い物。一方でその人間の口からは更なる根が、歯をねじり取り、舌を追いやりながら膨れ、眼窩からも弾け出て宙へと悶えた。

 あまりの当惑に、エリシュ・ノーンは反応するまでに一瞬を要した。乾いた音と白い光を迸らせ、彼女は白磁の鎧の一片を細い刃へと変え、一撃でミラディン人の喉元を切り裂いた。その命なき身体が、不自然な根が、血が、臓物が、ノーンの足元に崩れ落ちた。

 変化、あるいは機械の兆候は何もなかった。ただ不自然な堕落だけがあった。

 このようなことが起こるはずがない。

 下方で、ファイレクシア人たちの詠唱が途切れていた。だが深い響きは今も続き、狼狽の中で低くうねり続けていた。

 ノーンは気を引き締め、白磁の刃を戻しながら背筋を伸ばした。「この見せしめの証人となり、憐れむがよい」 穏やかな声、だが心はぐらついていた。今この時何が起こったのか、あらゆる可能性を、あらゆる説明を照合した。「何という堕落の器、我らがぎらつく油ですら救えぬとは。これこそ、我らが教義を速やかに広めねばならぬ理由である。全てのものを救うために」

 だがそう言いながらも、ノーンは必死に心を落ち着かせようとしていた。

 何もかもがありえない。理にかなっていない。

 ぎらつく油が失敗するなど、ありうるはずがないのだ。


 エリシュ・ノーンが庭園へ戻ると、美麗聖堂の薄い光はその丸屋根と尖塔を冷たい銀白色に、旗印を闇の色へと変えていた。

 あのミラディン人の女性の出来事の後、彼女は長く居残りはしなかった。膨れた身体と肉の根を除去し、すべて解体して処分するよう命令を出しただけだった。そして自分はまだ落ち着いている、それを示すために優雅にあの高座から立ち去った。あの人間の身体が痙攣し、根が弾け出る。まるでその失敗を見越していたかのように、彼女は悠然と聖堂へ戻った。だがあのようなものは見たこともなかった。

 自分ほどの力がなくとも、ファイレクシア人によって与えられたなら、ぎらつく油の効果は予測可能だ。それは無用なものを消し去る――記憶、執着、欲望――そして混沌とした、有機的な精神を完全なパターンへと再配置する。その油はしばしば目や鼻といった身体の開口部から漏れ出るが、それも接合者や槽の司祭が有機組織を機械に取り換えるまでのこと。油そのものは決して卒中などを引き起こしはしない。血を濁らせることも、身体を破裂させることもしない。

 ぎらつく油はあらゆる要素の中でも最も聖なるもの。その賜物は自明。

 ならば、一体何がおかしかったのだろうか?

 群衆へとあのように語りはしたが、ぎらつく油に抵抗できるほどの力を持つ人間はいない。

 庭園を横切る中、整然とした彼女の足音に付き添うのは、遠くかすかなファイレクシア語の詠唱だけだった。彼女は長い指の一本を高座の端に滑らせた。この段へと昇り、あのミラディン人が崩れ落ちた場所を再訪し、何があの混乱を引き越したのかを断定できるかと考えたその時、敷石に小さなひとつの汚れが目にとまった。

 エリシュ・ノーンは動きを止めた。

 そこに、あのミラディン人の血が高座から庭園へと流れ下った場所に、小さく黒い草が、敷石の割れ目から芽生えていた。その茎はねじれ、緑と茶の斑模様をしていた。完全な有機体。忌まわしい。不快だ。

 エリシュ・ノーンは手を伸ばしてそれを摘み取ろうとした。この雑草以外は完璧な敷石。だがそれに触れると、あのミラディン人の柔らかい肉のように滑った。ノーンは顔をしかめた。何が起こっているというのだ。機械聖典に忍び込んでいるこの異常が何であろうと、とうてい容認はできない。この場所を啓発するためにどれほどの努力を費やしてきただろうか。ファイレクシアの目的が、ごくわずかでも汚されるなどとは許されない。

 ノーンは手首をひねり、その草を動き一つで抜き取って潰そうとした。だがそれは石の下にしがみつくように抵抗した。

「異端め」 ノーンは息をつき、その雑草を乱暴に引いた。それは緩み、予想したよりも遥かに大きく、抜去の威力に敷石が破裂した。だがその小さな侵入者に根はついていなかった。代わりに、人間の上腕が一本ぶら下がっていた。不釣り合いに大きく、半ば腐敗し、骨は脱臼してひび割れたベルの舌のように揺れていた。力ない指は今なお広げられ、ノーンが今しがた引き抜いた土そのものへと伸ばされているようだった。

「忌まわしきものめ」 ノーンはその攻撃的な物体を持ち上げ、首をかしげて注視した。

 これは、あのミラディン人の汚れた血が敷石へと流れた結果なのだろうか?

 ありえない。

大修道士、エリシュ・ノーン》 アート:Igor Kieryluk

 ノーンは嫌気とともにその草を投げ捨てた。この異端が意味するものを解明しなければ。再び根を張られる前に、真の目的を潰さなければ。司祭たちに処分を命じようとした所で、彼女はもう一本の奇妙な草を足元に見た。その先にも続いて。そしてまた先に。

 エリシュ・ノーンの奥深くに、馴染みのない緊張が渦巻いた。

 ノーンは大股で脚を進め、大理石から次の草を引き抜いた。それは人間の肺の残骸だった。根はなくたわんだ塊で、上部が植物の茎らしきものにくるまれていた。彼女はそれを握り潰した。あのミラディン人の身体が直接の由来であるはずがない。槽の司祭たちはあの女の死体を解剖したが、根を除いて異常は何もなかった。そもそも、根が人間の身体から生えるということ自体ありえない。

 彼女の内なる緊張が強まった。

 一本また一本と、ノーンは地面から忌まわしいそれらを抜いていった。切断された太腿。彼女がそれを真二つに引き裂くと、細い指の間で腱が千切れた。心臓。太い動脈がぶら下がっていた。スポンジ状の腸の塊。腎臓がひとつ。耳。多数の歯が、不揃いな真珠の首飾りのようにありえなく繋がっている。ひとつまたひとつと彼女はそれらを引き抜き、この聖堂から不浄を清める決意で速度を上げていった。そして発見するごとに内なる何か強張り、苦々しさが増すのを感じた。

 四肢に苛立ちと怯えが広がっていった。

 これは機能不全なのだろうか? ありえない。自分は機械の母。統治者であり、完全無欠なのだ。

 それでも、あのミラディン人が最後に触れたのは、このぎらつく油だったのだ。

 エリシュ・ノーンは立ち尽くし、白磁の鎧を輝かせ、土に汚れた拳を握り締め、赤いローブを穏やかで絶えない風に揺らした。

「我らは機械の母」 彼女は息をついた。すると遠くのどこかで、決して止まることのないファイレクシア語の詠唱が震えたように聞こえ、そしてあの低い轟きが戻ってきた。深く、ほとんど感知できないほどに。かつては力と信念の確約のように感じたそれは今、疑いをもって響いているように思えた。千ものファイレクシア人の心が揺れていた。

 機械聖典を、自分を害するこの異質な感覚の獲物に堕とすわけにはいかない。この全てが説明できるに違いない。この全てに対する道理が。

 エリシュ・ノーンは片手を掲げた。だが眩しい空ですら、今やありえないほどに薄暗かった。まるで大気そのものが暗くなったような、雲が聖堂へと降下してきたような。曇った薄暗さは繰り返し凝集しては薄まり、一瞬、聖堂の上に浮遊する細く暗い人影へと定まるようで、そして消えた。彼女はかぶりを振り、これは視力の衰えによるものではないと信じようとした。変化する光の悪戯に違いない、そう自らに言い聞かせようとした。

 あるいはそうではなく、説明できない堕落か。

 自分の輝かしい創造物の美を不遜にも何かが汚す、その考えそのものが馬鹿げていた。それでも、雰囲気は普段よりも暗く思え、取り巻く世界は機械聖典にはありえない様でかすかに調和から外れていた。その質は迫真に迫っており、懸命に教化してきたこの場所の性質に反する重さがあった。

 この聖堂は我がもの。

 自分自身の延長でなくて何だというのだろう。

 それでも……

 ノーンは広場を見下ろし、そしてひるんだ。有機的汚染を取り除いたすべての穴から、あのミラディン人の血が汚したすべての高潔な地面から、新たな草が一斉に芽吹いていた。それらは脈打って成長し、美麗聖堂をまるで肉の庭であるかのように蹂躙していた。

 聖堂と北塔の間、かつては開けていた場所へとノーンは進んだ。不自然な草は、今や壊れた敷石の上にうねっていた。通り過ぎざま、彼女はそれを土から引きちぎった。

 彼女は塔の隣で立ち止まった。そこでは一本の脚が生えかけの歯のように敷石から弾け出ていた。これは本当に、あのミラディン人の血がもたらしたのだろうか? 有機の汚染に機械聖典を侵させたためにこうなったのだろうか? ノーンはちぎれた肢を持ち上げ、その肉を両手で持った。柔らかい。弱い。機械にはない形で腐敗している。まるで自分の聖堂が腐らされているような気分だった。地面からの腐敗。耐えられない。

 いや。

 それは不可能だ。

 肉塊を投げ捨てながら、ノーンは再び自らに言い聞かせた。

 不可能だ。

 筋の通った説明があるはずだ。

 あの人間とその不自然な血がこの異様なものを放ったのでなければ、だとしたら、エリシュ・ノーン自身が築いてきた世界を変えてしまうほどに力のあるものは、一体何だろうか?

 ノーンは両手を見つめた。ぎらつく油が流れ出た手首を。

 まさか、自分自身がこれを?

 機械聖典の秩序をここまで完璧に乱してのける力は、他に何があるというのだろう? 油があのミラディン人の身体に及ぼした影響、その理由が自分だとしたら?

 法務官であるために全てを尽くしてきた。けれど何かを誤っていたとしたら? 間違っていたとしたら? 自らの内にずっと、何か見えざる欠陥が潜みながら育っており、弾け出て機械聖典を汚す時を待っていたのだとしたら? 自分自身が本質的に堕落していた? この大修道士エリシュ・ノーンが、こんなにも不純で有機的なものを意図せず広めていた? 機械聖典を導くに相応しくないというのだろうか?

 聖典は正しく、従ってぎらつく油そのものも咎めるものではない。卑しい、哀れな人間の血が自分の目の前に広がる恐怖を生むなど、説明がつかない。

 エリシュ・ノーンは自らを支えるように、珍しくおぼつかない手を高座に押し当てた。自分自身の世界が不完全さの中にねじれ、不可解だった。

 全てが、その全てが今も奇妙なほど、現実味が欠けているように感じた。

 過去に一度、反乱の後に捕らえられたミラディン人がその独房の中で眠る様を彼女は見たことがあった。彼らは身体を丸くして夢をみながら、奇怪で弱いその精神が起こした悪夢にすすり泣いていた。自分たちの中にのみ存在する現実に吠え、悲鳴を上げていた。囚われ、目覚めをせがんでいた。

 機械聖典は彼らへと改造を与えた際、それらの夢からも浄化した。だがノーンは彼らが夢をみる異質な光景を忘れていなかった。その光景は何よりも、肉とは劣ったものであるという信念を確かなものとした。だからこそ、それらを剥いで聖典の機械的な確信を与えてやるべきなのだ。

 ファイレクシア人は夢をみない。

 ファイレクシア人の心は現実に、機械と正しさの予期可能な律動に繋がれている。自分の心がこのような植物と肉の恐怖、不合理な仮説で満ちた気まぐれな潜在意識の空間に迷い込むなどありえない。だがこの場所に立って、身体は緊張し、精神は起こりそうもない現実を理解しようと奮闘している。まるであの眠る人間たちのように囚われている、ノーンはそう感じた。ひとたび目覚めて再び明晰な思考を取り戻したなら、世界の全てが正しくなるかのように。

 動けなくなっていた。彼女は息をしていなかった。白磁の鎧は周囲の石柱のように動かなかった。

 この世界は我がものとは違う。

 ゆっくりと、エリシュ・ノーンは空を見上げた。先程、暗い人影が形を成そうとしていた場所。顔をしかめ、彼女は呟いた。「アショク」

 全ての下で轟くあの音が深まり、そして聖堂の庭園の先に、細く性別不詳の姿が現れた。それはまるで重力を無視するかのように浮かび上がり、優美な橋や丹精に彫刻された塔を越えて近づいてきた。裸足に薄いローブが揺れ、細い顔は目のあるべき場所から一対の角がらせん状に伸びていた。尖った角の先端からは、黒い煙が幽霊のように揺れながら立ち上っていた。あのミラディン人を切りつけた時に見た、暗い大気と同じ。

悪夢の織り手、アショク》 アート:Karla Ortiz

 ノーンは指の力を強め、高座の白い石にひびが入った。

 アショク。プレインズウォーカー。悪夢の魔道士。無論、その名は聞いていた。アショクがミラディン人へと与える混乱についてはよく知らず、またこの悪夢の魔道士がいかにして自分の楽しみのためだけに劣った者たちを侵害し、恐怖を吹き込むのかも知らなかった。だがその悪夢のような「芸術」を自分に押し付けようとするほど愚かだとは思っていなかった。

 エリシュ・ノーンはファイレクシア人にして統治者であり、感情を爆発させるべき存在ではない。それでも彼女は怒り狂っていた。この全ては――聖堂を荒らした有機の汚れも、足元から草のように生えた人間の身体の部位も、自分自身のありそうもない苦悩すらも――現実ではなかったのだ。幻影でしかなかったのだ。

 ただの戯れ。

 ただの無駄。

 エリシュ・ノーンは背筋を伸ばし、白磁の鎧を輝かせ、深紅のローブをなびかせた。

「アショク」 この時、その名を呼ぶ彼女の声は冷たく、母音と子音それぞれが危険な鋭さを帯びていた。それは軍隊に命令を下す声、真実と清廉を語る声、この日まで決して自らを疑うことなどなかった声だった。ノーンは肩を正し、その姿勢に権威と神聖の脅威を隅々までまとわせた。

 アショクはゆっくりと近づき、庭を横切りながら、自らの悪夢の創造物を見下ろして小さく満足の笑みを浮かべた。そしてノーンがかろうじて手の届かない距離で止まると、汚された敷石にはぎりぎりで足を触れることなく、そのローブを背後にうねらせた。

 その全てを愛でるように、アショクは大きな手を広げた。「美しいと思いませんか? この特別な傑作のために、とても長い時間をかけたのですよ」 アショクはわずかに近寄り、首をかしげた。「貴女の精神は非常に……独特なカンバスですよ、エリシュ・ノーン様。全くもって独特です」

「つまりこの忌まわしきものは、この汚れは、お前の仕業なのだな?」 ノーンは冷たく尋ねた。

「ええ、もちろん」 アショクは笑みを浮かべた。「正直に申しますと、ファイレクシア人が私の芸術に適しているかどうか定かではありませんでした。正しいカンバスなくして、傑作は創造できませんから」

「つまりお前は我らを実験に用いていたというのか?」 怒りが沸き立ちながらも、ノーンは冷静に、注意深く計算された声で言った。今も居残る不安の核が自分の疑いを永続的なものにしてしまうかもしれない、その考えを受け入れたくはなかった。

「最適な実験台が他にありましょうか? つまるところ、貴女は機械の母なのですから。そうではありませんか? 貴女の精神は……」 アショクの声は小さく消え、瞑想するように、わずかに困惑するように続けた。「人間の心と同じように恐怖を処理しませんので」

「我らはファイレクシアの統治者だ。完成が姿を成したものであり、恐怖することはない」 今日まで、この声明に疑問を抱いたことはなかった。自分自身を疑ったことはないと言うのは嘘ではないだろう。だがその不確かさを完全に表に出すわけにはいかなかった。彼女は威厳を、競争相手を倒すために磨いてきた欺瞞と誤魔化しの全てを声に込めた。自分は全くもって、有機組織で作られてなどいない。

 弱くなどない。

 肉ではない。

 人間ではない。

 アショクの笑みは大きくなるばかりだった。そしてノーンを大きく周回し、爪先は地面をかすめつつも明確に触れはしなかった。「ああ、それが真実だとしたら、私が今もここにいるのはおかしいと思いませんか?」

 アショクはゆっくりと上昇した。角の先からくすぶる煙が下方へと流れだすと、敷石から弾け出た人間の四肢や内臓を包んだ。ノーンの視線はその束の間の接触を追いかけた。壊れた石の山の中に人間の頭部がひとつ、大きなひび割れから茸のように突き出ていた。黒い髪と明るい色の肌の女性。その顎を取り囲んで、白い鎧が葉のように伸びていた。顔は泥に汚れていたが、その落ち着いた表情にはどこか奇妙に見覚えがあった。

「彼女と出会ったのは、テーロスにて作品を手がけていた時でした」 煙がその人間の頬や額を撫でる中、アショクの言葉は柔らかくもどこか威圧感があった。「エルズペス・ティレルというのがその名です」 まるで初めて味わうかのように、アショクはその名を舌で転がした。「彼女は私の注意を惹きました。そして彼女を死の国にて追跡しました。ファイレクシアに対する彼女の恐怖は素晴らしいものでした。息を飲むほどに。好奇心を刺激されないわけがありましょうか? 自分の技術を磨くこれほどの機会を逃す芸術家はいません。貴女のような存在を試すというのは。私は単純に、見つけ出さねばならなかったのですよ。ファイレクシアの悪夢とは、一体どのようなものかを」

 エルズペス・ティレルについては覚えていた。あの女は神聖なる美麗聖堂への攻撃に失敗したのだった。そしてあのミラディン人に感じた既視感が不意に理解できた。

「エルズペスは逃げ延びたのですよね?」 アショクはそう言い、柔らかく微笑んだ。「小さく、取るに足らない人間が機械聖典から逃げ延びた」

「重要ではない」 ノーンは憤りが増すのを感じた。「アショク、我らが見る真実はお前の理解の先にある。我らに脅しは効かぬ。我らはお前の『芸術』の道具ではない」 どのような悪夢も貫けない奥深くで、彼女は民との繋がりを、集合的なファイレクシアとの繋がりを感じた。ひとつとなった団結の力が、見事な改造を施された何千何万という止まることのない軍勢が、攻撃命令を待っている。

 アショクの笑みが揺らいだ。

「この冒涜をこれ以上許してはおけぬ」 ノーンは続けた。彼女は深呼吸をし、内へと集中を向けた。影の中に、庭園の奥深い隅に動きがあった。扉が開く軋み音。石に響く整然とした足音。一体また一体と、彼女の夢の中のように現実的なファイレクシア人が、何十という数でこの目の覚めた世界に、影から実体化した。金属の身体はきらめき、目は熱意に赤く燃えていた。

 少しの間、アショクは混乱したようだった。「この作品の一部ではないはずだ。ここに現れるようにはしていない。今はまだ」

「我らはひとつ」 ノーンが宣言した。「この悪夢ごときで、そんなにも容易く我らを支配できると思ったか?」

 一瞬の静寂に、全ての機械兵が黙った。歯車の摩擦音が、そしてアショクの悪夢の庭園が発する湿った音が止んだ。風だけが、腐敗と油の匂いを運びながら、頭上高くに真紅の旗印をはためかせていた。

「我らを侮ったな」 合成音の囁きで、ノーンは静かに言った。

 そして、祈りのように純粋に、背後のファイレクシア人たちが復唱した。「我らを侮ったな」

 アショクは首をかしげ、指を打ち鳴らすと注意深く後ずさり、ノーンやファイレクシア兵と距離をとった。白光をひらめき、白磁の刃の群れがノーンを包む金属から形を成した。

「面白いですね」 アショクはそう言った。

 あの轟きは咆哮と化し、深くかすれた、有機的な音が波のように悪夢の風景をなぎ倒していった。アショクの角にうねる煙が暗く濃く変化し、降りていった。地面から生え出た肢はよろめきながら一つにまとまり、ファイレクシアの美の紛い物となり、庭園そのものがそのクリーチャーと合わさってノーンへと殺到した。それらは脚や腕のもつれた塊であり、裂けた肩からできそこないの頭部がぶら下がっていた。

 ファイレクシア兵も突撃した。彼らは実体化した夢を、ノーンの意志の延長である有形の幻影を切り裂いた。ファイレクシア兵に打ち負かされなかったものに対しては、ノーンが眩しい白光とともにその身体から白磁の鋭い針を矢弾のように放った。その武器は物騒な音を立てて宙を駆けた。ノーンはアショクの悪夢たちをずたずたに切り裂いた。彼女が隣に立つ高座に近づけるものすらなかった。

「我らを侮辱したな!」 ノーンの声が響き渡った。彼女は腕を引き、幽霊のようなアショクの身体を消滅させるべく備えた。その時、エルズペス・ティレルに似たものが目覚めた。

 それはノーンの足元に身体を持ち上げ、厚く湿った音をたてて地面から抜け出ると、悪夢のぬかるみから立ち上がって浮遊し、ノーンに対峙した。齧歯類の尾のように、背骨がぶら下がっていた。アショクの煙が素早くそれを取り巻き、うねり、大気そのものから長身の、堅固な姿を作り上げた。しなやかな筋肉で繋がり、真珠のような白磁の金属と曲線状の兜に身を包んだそれは、エリシュ・ノーンの神聖なる姿の映し身だった。

 ノーンは一歩後ずさった。エルズペスもその動きを真似た。それは自分自身の歪んだ映し身であり、不意に恐ろしく、疑いないほど人間に似た自分自身の姿だった。そして今再び、喉元の強張りが、首筋の悪寒が、まるで石のように彼女の中の深くへと落とされた。後ずさりたい。逃げたい。これは機械聖典にとってだけでなく、自分自身にとって異質極まりないもの。機械の母にとって、統治者にとって。機械聖典が描く未来が歪んだもの。

 それを恐怖と呼びたくはなく、だがエルズペスの手が口元へと伸ばされる様を見つめ、その指が自分の指と同じように震える様を見つめ、彼女は知った。そう、論理的に、今この瞬間、自分はこう見えているに違いないのだと。

 不純。

 不完全。

 不可能。

 このプレインズウォーカーは、悪戯や悪夢や幻影をもってこのような感情を抱かせてのけたというのか。よく似た姿に作り上げた女性の、単純な映像で、嘲るために? 主としてその意志に敵を屈服させてきた、このエリシュ・ノーンを? ファイレクシアの頂点たる者を?

 耳をつんざく破砕音と眩しい光の一閃とともに、針ほども細いダガーがノーンの身体から飛び出し、その手の中で巨大かつ危険な刃を成した。これまでにない力を込め、彼女はそれを悪夢のエルズペス・ティレルへと放ち、吹き飛ばすほどの勢いでその胸を切り裂くと、相手は重い音を立てて遥か先に落下した。彼女自身の白い金属と真紅のローブをまとう姿は、人間の肉に覆われたまま、死んだ。

 いや、死んではいない。

 そもそも、最初から生きてなどいないのだから。幻影であり、悪戯。

 ノーンはアショクへと向き直った。内なる機能が新たかつ馴染ない感情に脈動していた。怒りが恐怖を熟させ、抑えきれない何かへと変えていた。彼女はその全てをプレインズウォーカーへ放とうしたが、アショクは既に聖堂の遥か上空へ逃れていた。これまでにない速度で後退して攻撃範囲から離れ、その様子はノーンと同じく不安であるように見えた。

「機械の母君、貴女は素晴らしいカンバスです。全くもって」 アショクは両腕を広げ、そして頭を下げた。「もうひとつの傑作です」

 アショクが夜空へと姿を消す様子をノーンは見つめた。それとともに、アショクの悪夢の世界のヴェールは剥がれた。ノーン自身が存在を命じたファイレクシア兵たちも消えた。壊れた敷石は今一度、完全な滑らかさを取り戻した。ねばつく血と不自然な植物は震え、強張り、そして塵へと崩れて新鮮な風に散った。

 ノーンの鎧をまとうエルズペスの身体が、最後に消えた。それはノーンが一歩踏み出して近づくまで現実にしがみついていた。エルズペスがまとう鎧は震えて白砂のように細かく崩れ去り、切断された人間の頭部だけが残った。皮膚がひび割れた。煙の一粒のように薄い線が口回りから広がり、悪夢の肉を内から消滅させていった。

 だがそのエルズペスは消滅の寸前に目を見開き、ノーンの凝視を見つめ返した。彼女はあの人間の哀れみを、あのおぞましい同情をもって見つめた。ノーンは息を詰まらせた。

 そして悪夢が真に世界から消えると、エリシュ・ノーンは聖堂の庭園を注意深く歩き、石に触れた。エルズペス・ティレルが生えていた場所は今や清く純粋、神聖だった。彼女は精神からエルズペスを消し去ることができなかった。その哀れみを無視することはできなかった。人間的な何かが自分をこんなにも不安にさせる、その考えが我慢できなかった。

 そして機械聖典への信奉と同じほどの確信をもって、エリシュ・ノーンは悟った。この新たな感情を、この恐怖と不安を粛清するためには、あの人間を見つけ出さねばならない。エルズペス・ティレルを、あの女を多元宇宙から取り除かねばならない。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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