MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 01

メインストーリー第1話:安住の地へ

Elise Kova
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2022年3月28日

 

神々の神殿にて

 勝利と裏切りの味は、同じだった――血のような。それはエルズペスの口を満たし、衝撃に零れ出た。彼女は手に馴染んだ槍を掴んだ。まるでそれをヘリオッドの手から奪い取り、自らの身体から刃を引き抜こうとするかのように。けれど生命が失われるよりも速く、力が指から失われていった。

 アジャニが吠えていた。遠く、彼の手は届かない。けれど届いたとして何ができるだろう? ゼナゴスとの戦いで自分たちは傷つき弱り果て、そうでなかったとしても、今や意味はない。エルズペスの生命は死の神にしてヘリオッドの宿敵、エレボスと取引を交わしたあの時から、失われることが運命づけられていた――死した恋人、ダクソスを生き返らせるために。既に彼女は生命を手放していたのだ。ヘリオッドはその成り行きに手を貸し、同時に彼女の背信への復讐を行ったに過ぎない。

「レオニンよ、この者を定命の世界へ連れ帰るがよい。エレボスのもとへ届けよ」 神はアジャニへと命じた。ヘリオッドは神送りをひねりつつ引き抜いた――天から落ちてきた剣をエルズペスが拾い上げ、後にヘリオッドが槍へと変え、彼女の責任、重荷としたもの。支えを失ったエルズペスは崩れ落ち、神々の神殿の固い石に膝をついた。死すべき運命が身体にのしかかり、ゆっくりと傷に屈していった。

「ここで死したなら、この者は虚無へと散るであろう」 ヘリオッドは目を狭め、軽蔑にその神聖な光が霞んだ。エルズペスは言葉を発しようとしたが、何も見つからなかった。ゼナゴスを斃し、自身が犯した過ちを正すためにはるばるニクスへとやって来た。そして勝ったのだ。

 けれどその勝利は彼女の罪を消しはせず、ヘリオッドの冷たい嫌悪を確かなものとするだけだった。神はエルズペスの力の謎と、行いと、神殺しに立腹したのだ。もはや彼女に何の優しさも向けていなかった。

「エルズペス!」 アジャニが常に見せていた優雅さは消え、彼は不格好かつ慌てふためいた様子で向かってきた。

 彼女は腹部の傷に手を当てた。致命傷、生き延びる望みはないと感覚でわかった。「アジャニ」 彼女は小声を発し、顔を上げようとした。だが重すぎた。身体が鉛と化したようだった。

 アジャニの腕がエルズペスを抱え込んだ。世界が回転し、神の領域からテーロスの定命の大地へと繋がる門を抜けた。アジャニは友を慎重に下ろした。

「こらえてくれ」 悲痛に、彼女の手を握りしめた。「助けを呼んでくる」

 エルズペスは瞬きをした。時の進みが次第に遅くなっていくのを感じた。そこにいたアジャニは、次の瞬間にはいなかった。視界に靄がかかり、ぼやけ、痛ましいほどに狭くなっていった。アジャニの不在が次第に苦痛になっていった。寒い。戻ってきて。独りで死にたくはない、けれど声を上げる力すら残っていなかった。

 遠くの叫びが届いた。大きな戦が? それともゼナゴスとの戦いの名残が、最期に残る意識の中で響いている? けれど今や何ら問題ではなかった。戦いの日々が流れ出し、血のように身体の下に溜まっていた。

 最後の力を振り絞り、エルズペスは視線を空へと向けた。何を探しているのかはわからなかった。何も探していないのかもしれない。星々の間の暗闇を見つめた。静寂を、平穏を。

 唇から小さな溜息が漏れた。長い間ずっと、安らげる場所を探してきた。ただそれだけを。死は、遂に見つけたその場所なのかもしれない。

 光が弾け、天を二つに裂いた。それが、彼女が最期に見たものだった。

貴顕廊の博物館にて

 壮麗な無秩序。ニューカペナの美は、そして生き方は。

 途方もないこの街は、天へと延びて繊細な鉄骨へと砕け散る、金色をした力強い何本もの線。装飾は高街の特徴となっている空中庭園の、水の風景や動物たちを映し出す。絵筆やペンにその姿を捉えられたなら、ザンダーはそうしただろう。だが悲しいかな、彼の才能はカンバスに風景を作り上げるためのものではなかった。

アート:Grady Frederick

 だとしても街はその名高い建築家たちと同じほどに、彼の印を知っていた。長年に渡って、彼はそれを血で描いてきた。

 ザンダーは顎ひげをこすり、かすかな笑みを唇に浮かべた。全くもって愉しい日々であった。若き日々、少々……粗野であったと気づけるほどに遠くなった日々。それを思い返すのは、いわば編集のようなもの。

 時を戻し、若い頃のそういった暗殺の幾つかをやり直すことができたなら。よりよい流儀で。今の類稀な技術と正確な狙いが当時の身体にあったなら――痛む古傷と持病から解き放たれて――ニューカペナは真の恐怖というものを知るだろう。だが時は進むのみ、彼とニューカペナを引きずりながら。かつて彼が徘徊した街は目の前で消え、今日の彼は刃と印よりも絵画と彫刻をずっと好むようになっていた。

 それでも街が立ち続けているのは、真に驚異だった。それは広大な無と見捨てられて久しい街から発展した。遥か昔に忘れられた創始者たちの、力――あるいは思い上がりの証。建築家たちが残した壁は、今や誰も覚えていない巨悪に対する最後の希望の砦となっている。だが今のニューカペナが直面している危機は外から来るのではなく、内にただれる腐敗なのだ。この街を統べる五つの一家が交わした危うい同盟関係は今や緊張し、取返しのつかない所に行きつつある。中には二度と修復しえない関係というものもある。自分とその一家が最終的な勝者の側にいることを確かなものとする、今ザンダーにできるのはそれだけだった。

 扉を叩く音が、この夜ずっと続いていた気病みを遮った。ザンダーは懐中時計を取り出して時間を確認した。数分の遅刻。まあいい。「入りたまえ」

「遅れまして申し訳ございません」 アンヘロが頭を下げ、そして顔を上げることなく続けた。そのためこの部屋のシャンデリアと圧倒的な絢爛の下、彼は小さく見えた。「解決まで、予測以上に時間を取られてしまいました」 懸念がその語調を重くしていた。

「遅れてなどいない。この先の新たな眺望を鑑賞する時を私にくれたのだからな」 ザンダーは窓を示した。彼が愛してやまない空中庭園で庭師たちが働き、ドレスのように花を取り換えていた。緑地は惚れ惚れするほど美しく、その中では人工の小川と滝が、博物館に面した建物の壁を流れ下っていた。

「だとしましても――」

「問題ない」 ザンダーは断言し、この話題をきっぱりと終わらせた。平伏や言い訳は要らない。ザンダーが執事に要求するのは忠誠だけだった。絶対の、臆しない、揺るがない忠誠。そしてそれは既に、紛れもなく備わっている。「さて。君の次なる仕事に向けて、少々その姿を調節してやらねばならない」

 アンヘロは部屋を横切り、低い台座の上に立った。机に立てかけた杖はそのままに、ザンダーも続いた。古傷は今日はさほど痛まない。アンヘロの採寸には両手を必要とするため、それは幸運だった。

「今日のメッツィオはいかがかね」 今なお正確な指さばきで巻き尺を伸ばし、数字を確認しながらザンダーは尋ねた。

「私がメッツィオに行っていたと、何故ご存知なのですか?」 アンヘロの声は不快というよりも、面白がっているようだった。

「知らないわけがあるまい?」 実のところ、それは匂いからだった。靴磨きの油と市場の香り。占い師が焚く香が最上層にあり、そしてダンスホールに漂う汗のかすかな気配。衣服についた独特の香りは、間違いなくメッツィオのものだった。それはこの街の中心へと誘う招待状のように人々にしがみつき、危険と退廃を甘く囁きかける。

 アンヘロは口元を歪めた。特徴的な笑みが、吸血鬼の牙を一本見せた。「だからこそ閣下はこの街を動かしておられるのですね」

 ザンダーは含み笑いをし、巻き尺を置くと自ら収集した肩甲の数々に指を走らせた。この数週間、アンヘロの装いは不十分であり、単純にそのままにしてはおけなかった。それだけではなく、下層の群衆に正しく溶け込むためには幾らか変えてやらねばならない。

アート:Christian Dimitrov

 ニューカペナのあらゆる階層に、それぞれの魅力がある。最下層、ジアトラと土建組一家の不気味なファッションで再解釈された実用本位のカルダイヤから、舞台座が確約する犯罪と好機に満ちた喧騒の中層メッツィオまで。だがザンダーのお気に入りは間違いなく、天上に広がる高街に位置する自らの博物館だった。他にも理由はあるが、だからこそ彼は滅多にこの場所を離れず、そしてアンヘロが常に付き従ってくれているのだ。

アート:Christian Dimitrov

「私がこの街を動かせれば良いのだがな」 ザンダーはそう呟き、鋼の襟へと繋がる肩の装飾をようやく取り付けた。アンヘロが通常好むよりも顎に近い。だがザンダーが見るに、この執事はシャツを見せすぎている。そしてファッションにおいてザンダー以上に目が利く者はいない。

「何かお悩みなのですね」 ザンダーが肩甲の具合を試す間、アンヘロは視線を前方へと保ち続けた。

「何か、は沢山あるな」

「伺っても宜しいでしょうか?」 アンヘロの白い目が主の表情を探った。期待し、けれど要求してはいない。

「何処から始めれば良いかね?」 ザンダーは机へと戻り、肩甲を陳列の中へと戻した。次に彼は暗器を見繕いはじめた。短剣、毒入り指輪、メリケンサックにもなる指輪、そして個人的なお気に入りである沈黙のカフス。これは音や魔法の光をほとんど無にまで弱めるもので、暗殺の道具としては最高だった。「これがいい」 ザンダーはカフスと考えの両方を選んだ。「この街の力関係が変化しつつある」

「噂を耳にしました――敵対するもの、そう呼ばれております」

「名の知れぬ成り上がり者よりも、光素の供給の方をよほど懸念すべきだな。敵対するものは野蛮人でありひとつの症状だ。問題ではない」 光素――長年に渡って、ニューカペナの力と生命を維持してきた魔法の物質――それは減少しつつあった。力への渇望は人を無様かつ無謀にさせる。そして光素以上に大いなる力はない。それが枯渇するような事態になれば、ニューカペナへと無秩序を招くだろう。

「『敵対するもの』は足がかりを築きつつあります。ただの成り上がり者とは言えません」

 「敵対するもの」の隆盛についてはザンダーも熟知していた。あの男は光素の安定供給を見返りとして約束し、貴顕廊の構成員からゆっくりと搾り取っている。不誠実な者たちが自分の下から抜けていくのはどうでも良いが、「敵対するもの」がいかにしてあの魔法物質を確保しようというのかは大いに謎だった。それを解明する、ザンダーはそう決意していた。

「そうかもしれぬ」 アンヘロの手首にカフスを留めながら、ザンダーは穏やかに言った。「だが『敵対するもの』とて、光素を安定して手に入れられねば力は得られぬ」

「舞台座と組んでいるのではありませんか? あれらは光素を溜め込んでいます」 アンヘロは指を曲げ伸ばした。手甲の魔法を試しているのだ。

「舞台座はクレッシェンドに向けて要求を増やしている。『敵対するもの』に光素を確保する手段があるならば、舞台座は既に手をつけているだろう」 アンヘロは主の言葉を熟考し、その沈黙のうちにザンダーは続けた。「舞台座について私が最も懸念しているのは、あれらがクレッシェンドの祝祭にて公開するとされている『新たな源』の噂だ。それこそが君に注視してもらいたいものだ――この源とは何なのか、情報を集めてほしい。手段は問わない」

「スパイですか? それは常夜会の仕事のように思えますが」

 常夜会の一家は幻術、陽動、小細工に長けている。アンヘロの問いかけはもっともであり、非難ではなく好奇心からのものでもあった。そのためザンダーは部下の無礼な言動を許した。自分にここまで大胆な物言いをしてくる者は滅多にいない。「光素が関わるとなれば、物事は我が一家の内に、そして私が最も信頼する者に留めておきたい。君以外の者にこの任務を知られてほしくはない」

 アンヘロの笑みが消えた。何かもっと深いものが欠けている、そう気付いているのだ。アンヘロは彼の右腕であり、執事でもある。目ざとくなければその地位は得られない。

「教えて頂けないことがおありなのですね」

「常にそうではないかね?」 この会話の流れを切るため、ザンダーは道具が並べられた机へと戻った。アンヘロを信頼してはいるが、情報とは光素そのものに似ている――ほんの少し与えれば自らを強く感じさせるが、多くを与えたなら無謀にしてしまう。「君の仕事を完遂するには十分だろう」 そして彼はアンヘロにひとつの指輪を渡した。

「これにはどのような機能が?」

「実に当世風だろう」

 隣でアンヘロが含み笑いを漏らした。けれどザンダーの口調は速やかに真剣なものへと戻った。「我々は常に先を行かねばならない。ニューカペナの力は揺らぎつつある。注意を怠ったなら、我々の地位は足元から崩れ去るだろう。貴顕廊の影響力は長く、大きくなった。それを手放すわけにはいかない」

「お任せください」

「期待しているぞ」 アンヘロが台座から降りると、ザンダーは脇に避けた。完成した装いはザンダーが通常求めるものではなく、メッツィオに相応しいものだった――十分に洗練されていながらも実用的、そして流行を難なく取り入れている。「光素を集めるため、メッツィオの舞台座は残忍になっていると聞く。現地へ戻り、とにかく状況を把握してくるのだ」

 アンヘロは出発した。ザンダーは窓辺に戻るのではなく、部屋の片隅へと向かった。カーテンに隠されて施錠された扉があり、鍵はただ一つ、彼が常に隠しポケットに持ち歩いている。その先の小さな物置には、あらゆる類の古の秘宝が収蔵されていた。翼を広げた天使の彫像は石の姿で祈りを捧げ、ザンダーが殺しを経て収集した書物を守っていた。

 これらはニューカペナ創設の歴史、その最後の名残。彼は覚えているはずが、続く行いによってその記憶は濁ってしまっていた。ザンダーは綿の手袋をはめると、最初の書物を開いた。何度も読んできたもの、だが過去の記録のどこかに未来への鍵が見つかるかもしれない、その希望を捨ててはいなかった。

アート:Martina Fačková

舞台座、偉父の執務室にて

 陽気な旋律が、ヴァントリオーネの上部アーチへと昇っていく。管楽器の暖かな音が、シャンデリアのように吊るされた花と混じり合う。階下のダンスホールで客人たちが踊るリズムに合わせ、ジニーの足先がジェトミアの執務室の絨毯を軽やかに叩いた。

「行ってくれば良いではないか」 ジェトミアは含み笑いをし、椅子に背を預けた。「面倒事は後で良い。何しろパーティーがあるのだ」

「パーティーはいつもあるでしょう」 ジニーは笑みを浮かべ、膝の上に丸くなる猫を撫でた。「けれどクレッシェンドはひとつだけ。全てをそれに向けて完璧な状態に、私はそれを確かにしたいのよ」

「来年、また別のクレッシェンドがあるだろう」彼はおどけて返答した。「この次元が終焉を迎える時までは、新年を祝える」

 ジニーは睨みつけたくなるのをこらえた。ジェトミアは自分をからかう術を熟知している。だが父というのはそういうものだ、養子に対してであっても。

「私が何を言いたいかはおわかりでしょう」 彼女が座す位置、ジェトミアに向かい合う場所からは、ヴァントリオーネのガラス天井とそれに映る人々の姿しか見ることはできない。今夜はまずまずの祝祭であり、舞台座の標準を十分に満たす見事なものだった。けれどジニーはクレッシェンドが滞りなく始まるために全てを求めていた。それが最優先事項。「ほぼ全ての一家から返事がありました。貴顕廊を除いて」

「それと『敵対するもの』か」

 ジニーは考えを振り払い、その動きに膝上の猫は怒ったような視線を向けた。彼女は素早く姿勢を戻し、ムーリの耳の間を掻いた。「『敵対するもの』は招待に値しません。そのような行為は不相応な尊重を見せることになります」

「早くに尊重を示すのが良いこともある。ひとりの小さき友が後に強大な仲間に成長するかもしれないのだ。君は知らないだろうがね」

「あの者が新たな一家を形成するかもしれない、そうお考えなのですか?」 疑うように、彼女は尋ねた。

「ニューカペナにおいては、どんなことにも可能性がある」 ジェトミアの声色は大気の浮かれた気分を吸い出し、ジニーに注目を強いた。彼については昔から知っていた――舞台座の裕福な長となる以前から。だからこそ、注目しなければならない時がいつなのかは熟知していた。「あの男は力を集めつつある。富と光素を約束し、忠臣たちを惹き付けている」

「少しの光素があるからといって自分の一家を興せる、そう勘違いして一家を裏切る者は、血管に血を流す価値もない」 彼女の言葉は毒を帯び、そこに一切の哀れみはなかった。裏切り者が役立つとすれば、それは同じことを考える者たちへの見せしめとしてだ。

「否定はしないよ」

「それを置いても、『源』が明かされたならニューカペナの全ては変わり、舞台座がその頂点に立つでしょう」 声に出してそう言うだけで、彼女の背に震えが走った。この次元は根源的な変化を被ろうとしている。そして自分のように、捨てられ目を背けられながらも強さと影響力を持って育った者が、その中心になろうとしている。

「『源』はいかがかね?」 ジェトミアは指を広げ、鉤爪をわずかに伸ばした。印章の指輪に光がきらめいた、ジニーが何度も口付けをしてきたもの。

「管理下にあります。問題なく」 その報告ができるのが嬉しかった。「全ては私たちの期待通りに、そして舞台座の評議会以外に『源』の存在を知る者はいません」

「ならば今回のクレッシェンドは、後世に語り継がれる祝祭となるだろう」 ジェトミアは頭をのけぞらせ、咆哮のように笑い声をあげた。彼は常に上機嫌だった。舞台座の偉父として当然のことだ。彼を取り囲む世界は祝祭、食べ物と飲み物と踊りに満ちている。ジニーにとって、人生を彼へと捧げるのは、決して困難なことではなかった。

「間違いありません」

「さあ、君はここを出て今夜の祝祭へ戻るがいい。他の議論は明日だ。可愛らしい君がこのような狭苦しい部屋に一晩籠っていていいものではないからね」

「その言葉、そのままお返ししますよ」 ジニーは屈み、財布を掴んだ。そこにはジェトミアの指輪と、彼の三日月のような二本の角を飾る太い黄金の環が抱くものと同じ紋があった。ムーリが膝から飛び降り、鞄に入り込んだ。彼女の別の使い魔、レジスという名の犬が丈夫な前足の間から顔を上げ、主の探求心を察した。彼女が立ち上がると、犬もその行動を真似た。ジニーは自分とジェトミアを隔てる机を迂回すると、彼が首に巻いたカシミヤのスカーフに手を触れ、身を乗り出してその頬に軽く口付けをした。

「私は可愛らしくなどないさ。ひとりの老人だ」

「そんなお年寄りでもないでしょう!」 戯れるようにジニーは彼の肩を叩いた。「それに貴方はどんなパーティーでも主役だって皆が知っています。だから誰もが舞台座に入りたがるのです」

「それは私がパーティーの金蔓だからだよ」 ジェトミアはにやりと笑った。おどけているのだ。舞台座はこの街の脈打つ心臓であり、喜びであり、人生なのだ。リズムと楽曲と音と色彩なのだ。そしてまもなく、ニューカペナへと『源』を、誰もが夢見るほどの光素を与える存在となる。

「そんなものではない、おわかりでしょう」 彼女は自分の椅子へと戻り、宝石をあしらったショールを肩に乗せた。繊細な糸が光にきらめき、まるでダイヤモンドで作られた蜘蛛の巣をまとっているように見えた。「ですが、私はもう戻るべきというのはその通りです。キットもジアーダも、あまり長く放っておきたくはありませんから」

「二人によろしく」 ジェトミアは机から立ち上がると、飾り帯を肩に巻きつけて錫杖を手にとった。その先端には王冠を被ったレオニン――舞台座のシンボルが抱かれていた。

アート:Ryan Pancoast

「もちろんです」 ジニーは眩しい笑みをひらめかせ、扉から退出した。

 ジェトミアの執務室はヴァントリオーネのメインホールよりも上階に位置している。黄金の花があしらわれた深緑のカーテンと、ジニーのドレスの裾を彩る孔雀の羽根模様が階下から響く音楽を鈍いものにしていた。だがダンスフロアーの入り口まで来ると、溢れるほどの音が戻ってきた。

 近くの長椅子に、女性がふたり寛いでいた。ジニーが残してきたそのままに。キットの毛皮に覆われた耳がぴくりと動いたかと思うとジニーの方角へと回転し、そして頭部が続いた。キットは足音だけで彼女を判別していた。

「クレッシェンドの準備はどんな感じ?」 ただの質問にも詩のような響きがあった。キットの声はいつも、まるで歌のようなのだ。

「順調に」

「私のソロはある?」 キットは口の端を曲げて笑みを作った。

「お嬢ちゃん、無いわけないでしょう?」 ジニーは親友の隣に座る少女に注意を映した。「ジアーダ、貴女はどう? 楽しみ?」

 その少女は笑みを作ってみせたが、願うような瞳にまでは届かなかった。まるで苦しんでいるような表情は、ジニーにとってはいつも奇妙だった。ジェトミアは彼女に食べ物と宿、そして贅沢を提示したが、ジアーダは何も求めなかった。彼女がまとう空気は常に最上の芳香に満たされ、その爪は常に彩られていた。ジアーダの短い黒髪に――今は珍しい羽根が留められている――誰一人、指一本触れることのないよう、ジニーは常に付き添っていた。彼女は望むもの全てを手に入れられる、ここから出ること以外は。

「はい」 だがその言葉が本心でないのはわかった。

 ジニーは彼女の前に膝をつき、ジアーダの両手をとった。「よかった。何せもうすぐ私たちはこの次元を変えてしまうのだから」

カルダイヤの奥深くにて

 ビビアン・リードは狩りに出ていた。獲物をではなく、存在しないかもしれない何かを。一歩ごとに彼女をさいなむ、スカラの幽霊たちを遂に眠りにつかせるための調和を。彼女が探しているのは、文明と自然の世界が調和して生きる場所――調和して生きる人々だった。

 だがニューカペナはそのような場所ではない、それはすぐにわかった。

 この街の外には自然も生命もなく、瓦礫があるだけ。街の壁の内側は鋼でできた人工物の大都会。工業へと捧げた神殿。建築物が内に抱くモチーフには自然のものが多く見られた。扇形の窓には椰子の木の形状。金属を叩き、磨き上げて作られた滝。だが実際の植物はコンクリートと鉄に閉じ込められ、市民の衣服に多く見られるジグザグ模様のように剪定され、引き抜かれていた。

 ここにも自然はあるのかもしれない、けれど本物ではない。この次元は直線と不調和でできている。そして自然と人工物の両端に重みがかかっており、破綻をきたすのは時間の問題に思えた。偏りすぎてしまったものは、常にそのような結末を迎える。

 彼女は多くの路線のひとつを経由してこの街の中心に入り、そこから降りると高く伸びる尖塔や空ろな瞳で街を見下ろす天使のレリーフから離れていった。そして赤みがかった下層のもやの中に身を投じ、煙と汚れの下深くに隠された土との失われた絆を探し求めた。根は忘れ去られるかもしれない、それでも耐え続ける。

 なめらかに舗装された頭上の歩道は、鋼の高架に変わった。ビビアンは人々と変わらぬ自信をもって桁を渡っていった。地元民は難なく梁から梁へと飛び移り、一歩間違えれば確実な死が待つ空間を跳び越えていく。上層の街を支える柱はその途中でありえないほど細く削られ、その下でピラミッドの先端が全てを支えていた。

 ビビアンは旅の中、印象的な場所を沢山見てきた。けれどここは間違いなく、驚嘆そのものだった……自然を拒絶するという重大な過ちを犯す以前の姿を見たいと思えるほどに。

アート:Jake Murray

 炎に包まれた金床を見つめていたところで、近くの建物の開いた扉から耳障りな騒音が弾けた。ビビアンは渡ろうとしていた桁から飛び降り、その扉へ続く階層へと着地した。中の部屋からの光が、煙と霧を一直線に貫いた。ビビアンは中に入り込んだ。その滑らかな動きに気付く者はほとんどいなかった。気付いた者も、注意を払うことはなかった。彼らは演説に夢中になっていた。

「我らが築いたもの上でぬくぬくと寛ぎながら、我らが差し出した光素を舐める。そのような者どもの命令を聞くことなどない――」 労働者の衣服をまとった群衆へと、声が轟いた。演説の源は、全員の頭上高くにとまった巨大な一体のドラゴンだった。群衆が一語一句聞き漏らさずにいる様子からして、熟達の演説家であるのは疑いなかった。「舞台座はクレッシェンドのために要求を増している、利益を分け与えることもせずに。斡旋屋は我らの街路で威張り散らしている。そして常夜会が今まさに我らの内に潜み、飼い犬のように報告を持ち帰ろうとしているのは疑いない」

 群衆は同意を叫んだ。ある者はドラゴンと共に不満を呟いた。鼻孔から煙をひとつ吹き出し、ドラゴンは続けた。「彼奴らが遊ぶキャバレーやラウンジを建てたのは誰か、それを心すべきであろう。緩んだネジ、古い梁……そういったものは不意の事故を起こしうるものだ」

「お前はここの者ではないな」 近づいてきた男に、ビビアンの注意が途切れた。分厚いコート、手袋、長靴、つばの広い帽子。

「貴方もね」 ビビアンは値踏みするように見つめた。この男はここにいる労働者たちとも、その実用的な衣服とも全く異なっている。

 男は含み笑いを漏らした。「少なくとも私は、別の次元の衣服をまとっていないがな」

 ビビアンはもたれかかっていた壁から離れ、背筋を伸ばした。帽子の影の中、この異邦人の瞳は眩しく輝いていた。この男がまとう空気、この男が抱く気配そのものに鳥肌が立つようだった。違和感。自分たちは似ても似つかない、だがそれでもひとつの性質を共有していた。

 この男もまたプレインズウォーカーなのだ。

「お前もわかったようだな。さて、ジアトラの下僕どもが暴れ出す前に情報交換といこうか」

 振り返ることもせず、男は先程ビビアンが入ってきた扉から出ていった。ついて来ると確信しているのだ。ビビアンはその男と、演説を続けるドラゴンを交互に見た。二者を比べると、より興味があるのは男の方だった。

「今夜は別のプレインズウォーカーを探していたわけではないのだが……それでも探していた相手よりはずっといい」 男は桁の端に立ち、煙と鋼の先を見つめた。「ここに来てどれほどになる?」

「結構長く」 男に近づくと、あの広間の騒音は消えていった。彼は再び歩き出し、ビビアンの一歩先を進み続けた。ビビアンは後についたが、片手はすぐにでも弓を手にできるよう意識した。戦うためにここに来たわけではないが、あまりに厚かましい相手に対してはやぶさかではない。

「我々のような者がまだいるとわかる程には、か?」

「まだいる?」 他にもプレインズウォーカーが? どうして? ここに来たのは個人的な理由からだったが、今や予想以上に深い何かへと足を踏み入れてしまったように思えた。

「光素についてどこまで知っている?」

「ほとんど何も」 ビビアンは人々がその名を口にするのを耳にし、酔客のグラスを満たす虹色の物質と何か関係があるものと推測していた。だがそれ以上を学ぶ時間は持てていなかった。

「この次元は光素によって栄えている、そして光素は果てしない力を保持している。私は今ある男のために動いているが、そいつはそれを手に入れようとしている。だがそいつの真の目的は別のところにある」

「真の目的?」

「知りたいかね?」 彼は肩越しに振り返り、にやりとした。そのあらゆる動きに、小さな金属音がついて回った。

「たぶんね」 この男を信用すべきか否かはわからない。とはいえ信用せずとも、より多くの情報を引き出すことはできる。

「そうか、ならばついて来い。ウラブラスクは喜んでお前に会うだろう」

 男は再び歩き出し、だがビビアンは動かなかった。「で、貴方の名前は?」

 彼は立ち止まり、そして振り返らずに答えた。「テゼレットだ。待たせている相手がいる。だから急いだほうがいい」

 ビビアンは急ぎはしなかった。動きすらしなかった。顔を合わせたことはなかったが、その名は確かに聞いていた。テゼレット。あの「灯争大戦」にて敵の側にいた相手であり、次元橋を今も利用できるのではと彼女はずっと訝しんでいたのだった。テゼレットは侮っていい相手ではない。ここにいるというのであれば、もっと深くで何かが流れている。間違いなく。

「どうした?」 ビビアンがついて来ていないと気づき、彼は立ち止まった。

「はっきり言うわよ……」 決意の表情に懸念と疑念を隠し、ビビアンは大股の数歩で自分とテゼレットとの間隔を縮めた。今や、ふたりは隣り合って歩いていた。桁は細い、だが譲る気はなかった。「お前のような者に指図はされない」

 テゼレットは立腹してみせた。「なるほど」

「で、ウラブラスクって誰?」 テゼレットに友人がいる、それは更なる警戒が必要と感じさせた。

「それは込み入った話になる」 テゼレットは遠くを見つめていた。彼はビビアンが見える彼方のどこかに注目していた。その目はよく知っていた。次元の帳を踏み越え、その間にしばしば見られるあらゆる恐怖を目撃してきた者の目。「会えばわかる。だが今言えるのは、そいつは我々の側にいるということだけだ」

「私たちの側というのは何?」

「自由の側だ」

メッツィオの駅にて

 エルズペスは呆然としていた。線路から吊り下げられた輸送機関が頭上を高速で駆け抜けた。これほどうるさいのは、少々低すぎるためだろうか。彼女は数度瞬きをし、薄暗い車両からニューカペナの眩しい光へと目が馴染むのを待った。街はありとあらゆる姿と大きさの人々で溢れ、彼らはありとあらゆる見慣れない衣服を身に着けていた。

アート:Thomas Stoop

 頭上に高くそびえる建物は線路や通路で結ばれ、それらを飾るバルコニーや華麗な装飾はただ耽溺だけを語っていた。あらゆる天井が次なる床のように思えた。街はひたすらに伸び続け、目のくらむような高さに至って雲間へと消えていた。

 彼女は肩にかけた荷物を正した。中にはこの次元に持ち込もうと考えたわずかな所持品が含まれている。これまでの出来事を経て、名前以外に今も持ち続けているものはほとんどなかった。

 この街は予想していたような場所ではない、当初のその失望をエルズペスは飲みこんだ。どんな期待をしていたというのだろう? 何もない。存在するという希望はとうの昔に捨てた、そのような場所を探す中で期待するというのは間違っている。

「安住の地」 エルズペスは呟いた。声に出して言ったなら、ニューカペナがそれに相応しいと思えるだろうか。そうはならなかった。「アジャニはそう言っていたのに」

 アジャニが彼女に嘘をついたことはなく、常に適切と思える助言をくれた、たとえ彼女が耳を貸そうとしなくとも。アジャニを信頼する理由は十分以上にあった。ここが安住の地だと彼が言うならば、そうに違いないのだ。長いこと探し求め、夢見て、願ってきた……

 だとしたら、何故こんなにも場違いに感じるのだろう?

アート:Sam Chivers

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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