MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 08

サイドストーリー:一家の父

K. Arsenault Rivera
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2022年4月4日

 

「お父様、こんなところに何の用事なの? こんな……何もなくてみすぼらしいところに」

 アンヘロはぎくりとした。娘の言葉は間違っていない。高街は入念に作り上げられた芸術であり、誰もが目にしたくてたまらない。その全てが調和し、まるで……そう、天使のコーラスのように。そしてアンヘロのような人物にとって――指揮者であり、鑑定家であり、真の美食家でもある――自らの作品に相応しい環境を選ぶのは、交響曲を完成させる鍵を選ぶに等しい。

 だがこのような場所で、一体誰が作曲などできるというのだろうか。みすぼらしく、味気なく、質素。腐敗臭が漂い、壁は汚れている。美しい石材ではない。大理石も、黄金もない。道端にはごみが散乱し、拾い上げられるのを待っている。人々も同じく胡散臭い――このような場所にしかいられない者たち。天使もこの場所を見守ってはいないに違いない。

 エラントが嫌うのももっともだった。当然と言えた。この場所でのこの娘の存在は、洞窟に差し込む陽光のようなもの。とはいえどうしようもない。ボスは機密情報を欲しており、エラントは明日という大切な日の直前になって必要とするものがあった。

 娘のために尽くす機会が、この先あとどれほどあるのだろうか。その機会を逃す気はない。だがボスは、そう……

「済まないね」 アンヘロは娘の額に口付けをした。「ほんの五分だ、約束する」

「こんなところで何を買うの?」 すねるように彼女は尋ねた。肌は母親から譲り受けた褐色、けれど豊かにうねる髪はアンヘロと同じ。彼女は窓の外を指さし、維持管理のずさんな街灯が高価なマニュキュアを安っぽく照らし出した。「こんなところに芸術家なんていないでしょ」

「芸術は何処にでもある、見るべき場所を見たならね」 アンヘロはそう答えた。願望であり、とはいえ完全に嘘でもない。彼は車を降りた。自分が不在の間にエラントに何かあったらわかっているな、そう告げるように運転手をひと睨みして。巷の噂では、この場所の仕事はさっさと済むという。だがそうでない場合は……「十五分経って戻らなかったら、明日朝にまた会おう」

 エラントは腕を組んだ。その様子は母親にそっくりだった。気迫もまた。「五分って言ったじゃない。なのに今度は十五分。そのセヴェロとかいう男のために、パーティーに欠席するんじゃないでしょうね」

 娘が向けるその失望は、どんなナイフよりも彼を傷つけた。当然の報いと言えた。エラントは父親がここに来た理由を知らないのだ、自分がここに来た理由も。

「その通りだ」 アンヘロは頷いた。「五分で戻ってくる」


 五分で言い分を述べ、情報を得て、車に戻る。二度と娘を失望させはしない。そう考えるだけで、単刀直入に話す十分な動機になった。

「トルーズ。あの知らせは聞いたか?」

アート:Donato Giancola

 事務所の暗闇の中でその笑みは大きく白く、まるで夜そのものの喉に突きつけた剃刀のように薄かった。彼女の声はこの近隣住人の全てを合わせたよりも豊かだった。「全部聞いてるよ、アンヘロ。それが家族への挨拶?」

 アンヘロは自身の鼻先を掻いた。「あまり時間はない。それにまだ、家族ではないだろう」

 見えない所で爪が机を叩いた。部屋は暗いながらも、アンヘロはよく知る相手の表情を察した。夜遊びを見咎める母親のような表情。その黒く太い眉はこの界隈で最も印象的なものと言えた。「じゃあ仕事? 貴顕廊には何も期待しちゃいないよ。礼節ってものがなってないね」

「仕事だ」 アンヘロは頷き、その先の言葉については無視した。今日ではない。「白ずくめの女がひとり、ボスの周辺を嗅ぎ回っている。何か知っているか?」

「たくさん」 予想通りの返答。トルーズは獲物を弄ぶことで名高く、アンヘロもそれはよく認識していた。外での彼は誰にも止められない暗殺者であり、ナイフを使わせたら比類なき芸術家となる。だがここでは?

 トルーズが事務所を暗くしているのには理由がある。そして彼女を怒らせたとしても、エラントがトルーズの娘と結婚することにさして問題はない。暗闇のルーズ、その名で呼ばれているだけはある。かつて上層部から、彼女いわく公明正大に手に入れたという巧妙な装置。影の生成機械。暗闇のルーズが死を望んだ相手は、彼女が迫る姿を見ることはない。

 だがアンヘロに時間の余裕はなく、闇の中に潜む者は好みではなかった。堂々と動く方がずっといい。この界隈を彼が嫌う理由のひとつがそれだった。発明の才を持つ者がたくさんいる――だというのに、表現するセンスに欠けている。

「どうすればその情報がもらえる?」

「家族同士ならタダだよ」

 こうやって物事をひきずり出すのだ。アンヘロは歯ぎしりをした。「教えてくれ」

「そう怖い顔しないでよ、アンヘロ。ちょっとお願いがあるだけ。持ちつ持たれつってことでどう」

「君の評判を考えるに、あまり信じられんな」 トルーズが顧客へと特別なものを提供する際は、斡旋屋が彼女に支払う以上の額が請求される。この稼業で脚を悪くしていたが、仕事は遅くない。ただ自分であまり動かないだけで――そして動く際には杖を使う。

「私のことをそう知ってもいないだろうに」 彼女は床に踵を鳴らした。「フィエロ・ヴェスピン。この名前を聞いたことは?」

 アンヘロは小さく笑った。「その男は知っている。同胞だ。服装のセンスはないが、それでもビュッフェへ行くのを止めない。どんな仕事だ?」

「それは偽装だよ。私の娘がね、何年もずっとそいつに悩まされているんだ。昨晩にも動きがあった。あの娘とは会っただろ」

 その通り、会っていた。パルネスは昨晩、頬に棒ガム程の切り傷を負って晩餐のリハーサルに現れた。エラントは一晩中、その件で苛立ちを彼女にぶつけていた。アンヘロは彼女に血の匂いを感じ取り、そしてエラントが彼女を抱擁した際にひるんだ様子を見逃さなかった。肋骨が折れていたのだ。無論、パルネスはそれについて喋りたがらなかった――馬鹿なプライドだ――それでもアンヘロには悪い予感がした。何度も耳に入っていた白ずくめの女がそこかしこで問題を起こしている、そう考えた。

 だがフィエロ? フィエロが? それは全くわけがわからなかった。アンヘロが知る限り、あの男が実質的な仕事をしたことなどない。本当のフィエロはただの画商なのだ、それも粗悪な。

 それでも、トルーズは嘘つきではない。特にパルネスに関わる物事とあっては。

「一家のために情報が欲しいなら、こちらのために少し働いてもらわないとね。あの男を始末して。そうすれば話してあげる」

 アンヘロは鼻筋を押さえた。同じ一家の者を消すとあっては説明が難しくなるが、何とかできるだろう。自分自身、フィエロを気に入っていたわけでもない。誰一人そうではない。あの男から1マイル離れていても、香水の匂いで窒息死しそうになる。

「いつまでに?」

「明日」

「それは――」

「式でしょ、知ってるよ」 冷たい床を叩く音――彼女の杖だろう。「あの男は部下のごろつきを二十人引き連れて、揉め事を起こそうとしてる。笑い種になるのがいいかげん嫌になったんだろうね、そして自分で名声を手に入れようとしてる。幹部の娘の結婚式なんて注目行事を台無しにしたなら、それはそれは評判が高まるだろうねえ?」

 アンヘロは右の拳を握り締めた。そのような……

 時間はぎりぎりになるだろう。結婚式のため、三時半にはグランド・カペナ・ホールへ行かねばならない。式では一緒に歩きたい、エラントにそう言われているのだ。フィエロが卑怯者で裏切り者であると知らしめるには、何時間もかかるだろう。「なぜ自分でやらない?」

「貴方がやってくれるから。それだけ」

 違う、自分でもできははずだ。フィエロはパルネスを殺そうとしたが、母親はそのロウクスを素手で叩きのめし、厚かましさと思い上がりを知らしめたのだ。だからこそ、一家を越えた結婚式を襲撃して仕返しをしようとしている……

 彼女は正しい、そう認めるのは嫌だった。自分がやるべき仕事。

「三分半経ったよ、アンヘロ。今出れば時間内に車に戻れるだろ」

「ありがたい言葉だ」 アンヘロは扉へと向かった。「やってやろう」

「そう思ってた。娘さんの結婚、おめでとう」

 彼はわざとらしい笑い声をあげた。「ああ、トルーズ。君の方もな」


 世界最高の交響曲を作曲しても、音の狂ったバイオリンを奏でる子どもたちしかいないとしたら。素晴らしい芸術においては――音楽、絵画、あるいは暗殺――全ての構成要素が重要となる。作曲家、演奏家、楽器。画家、カンバス。絵の具。

 仕事を進めるにあたって、厳しい箇所がひとつ存在した。フィエロに友人はなく、また彼がファッションと呼ぶものはアンヘロの芸術的表現の妨げになるだけだった。派手すぎる。この仕事を上手く終わらせるためには、死体は清潔かつ人目につく場所で発見されることを確実にしなければならない。引き立たせるためだ。博物館を運営する男にとっては、無茶な注文だ。

 それを十二時間以内に終わらせるというのは、更に無茶な注文だ。

 だがアンヘロは誰かを失望させるのが嫌いだった――ボスを、エラントを、愛する市民を。やり遂げてみせよう。

 まずは招待状を送る。夜のうちにそれを行えば、動く時間ができる。

『親愛なるフィエロ・ヴェスピン殿へ。常に移ろうニューカペナのファッション界への貢献により、貴殿を博物館への特別ツアーにお招きしたく存じます……』

 次に、協力者を見つける。このような大いなる芸術には、芸術家がふたり必要になるものだ。朝が来るとすぐに彼はエヴリンの店へと立ち寄り、その指輪に口付けをし、最近の掘り出し物について尋ねた――だが彼女は五分で察した。

アート:Marta Nael

「肖像画を探しに来たんじゃないでしょう?」

 エヴリンは彼が袖口に隠したナイフのように鋭い。数世紀をかけてその感覚を磨き上げてきたのだ。「やはり嗅ぎつけてくれたか。明日のために必要なものがあってね」

「結婚式に?」 エヴリンは片方の眉を上げた。「パルネスが乱闘に巻き込まれたとは聞いたけれど、貴方だとは思わなかった」

「私ではないよ」

「なら……娘さんの結婚式の日に、一家の仕事を?」

 アンヘロは口の端を歪めた。その響きは実に嫌なもので、だが……「ああ。博物館に飾れるようなものが必要だ」

 ふたりの間にしばしの沈黙が流れた。エヴリンは品定めをするように見つめた。「それは困ったことになったわね。いいわ、手を貸してあげる……」

 アンヘロの気分が重くなった。「有料で、か?」

「賢い人ね」 彼女は牙をひらめかせた。「詳細は後で改めて検討するとして、ひとまずは貸しにしておいてあげましょうか」

 貴顕廊において、エヴリンに借りを作る以上に最悪なことはない。一家の一員としてそれに勝る絶望は、ボスの機嫌を損ねることくらいだろう。前回彼女に借りを作った際、アンヘロは一体のナイトメアを殺してくれと頼まれた。自分が街で唯一のそれになりたい、そう言って。彼は成し遂げた――だがその時の傷は今も胸に残っている。永遠に消えることのない醜い傷が。トルーズならばそれも誇りとするかもしれないが、彼はそうではない。

 断ることはできる。自分だけでやる方法を見つけられる、もっと地味なものを。この暗殺を芸術とするのを諦め、フィエロを袋小路に追い込んでそこで殺害するだけでいい。結婚式には充分間に合い、銀食器を並べる手伝いすらできる。

 だがそこに、どんなメッセージが残る? どんな印象が残る?

 それは駄目だ。芸術家は決して妥協などしない。両方を残す時間はある。路地裏でフィエロの喉をかき切るのは、娘を見捨てるようなものだ。やってやろう、やらなければならない。

「わかった。言い値を払おう」


「アンヘロさん、ああアンヘロさん!!」 まるで昔からの友人のように、フィエロはアンヘロへと腕を回した。光素の煙がふたりを取り囲み、警備員が睨みつけた。フィエロは印象付けたいのだ――そこかしこに掲示されている注意書きなど気にしてもいない。「懐かしき友よ! 何という栄誉だ、君が案内してくれるとは。今日は娘さんの結婚式ではなかったのか?」

 アンヘロの笑みが引きつった。「そうなのだよ」

「私のような駄目男のために大切な時間をとってくれるとは」 肩をもう二度叩いて彼はアンヘロを解放した。安物の香水の匂いが漂っていた。「一家でも君のような者は他にいないよ、こんな小物に目をかけてくれる相手はね」

 少なくとも、駄目男だというのは意見の一致するところだった。「全くもって君の仕事だよ」 アンヘロはそう声をかけて歩きだした。フィエロがその仄めかしを察してくれることを願って。「新人の世話をして、やり方を教えて、新しい作品に目を光らせる。君なしで我々はありえない、そうではないかね?」

 フィエロはまんまとはまっていた。自分の墓穴へと歩みを進める男。相手がいかに陳腐な人物であろうと、今この場面の厳粛さはアンヘロも抗えない確かな詩情を与えていた。

「そんな、私は私にできることをしているだけだ。ところでお嬢さんはどうだね? 晴れの日だが不安になってはいないかね?」

 アンヘロは一枚の絵画の前を通過した。天使が悪魔を抱擁し、その喉を切り裂いている。救い主と救われし者。だがこの愚か者は一瞥すらしなかった。これで画商だというのか。特別ツアー、そしてぶち壊したがっている結婚式の話題を出す。今ここでこの男を殺すなら、それは礼儀にかなっていると言えるだろう。

「どうだろうな。様子を見ていないのでね」 声に込めた罪悪感は演技ではなかった。「だが今朝見た限りでは幸せそうだったよ。あの娘にとってはパルネスが全てだ」

 フィエロは一服の光素を吸い込み、目の前の油絵へと煙を吐き出した。アンヘロは歯を食いしばった。「そして娘さんは君の全てだろうに。今まさに式場にいないなんて驚きだ」

「いやいや、私だって今すぐにでも行きたいさ。だがわかるだろう、ボスの命令とあってはね」 愛想のよい笑みの下で、毒が沸き立っていた。「こちらへ、フィエロ。新たな展示をぜひとも見せたいのだ。専門家としての君の審美眼を借りたい」

「おお? 何を見せてもらえるというのだ?」 アンヘロが開いた扉を、彼はまっすぐにくぐった。その部屋の空気は控えの間よりも明らかに冷たく乾いていた。「ご存知でしょうが、私の専門は当世風のものです。近代主義ともいいますかね。展示品の大量放出でも始めるのですかな?」

「どうでしょうかね」 いつまでこのような世間話を続ければいいのだ? 少なくとも目的地点には向かっていた。彼は取り囲む壁を示してみせた。旧カペナの教会から引き上げた木の羽目板が用いられている。頭上の軒も同じく本物で、樫材と桜材でできていた。「ようこそ、旧カペナ展示室へ」

「旧カペナ? アンヘロさん、貴方のような――おお、あれは一体?」

 フィエロのような田舎者であっても、それが特別であるのは一目見てわかった。そう、特別なのだ。高さはアンヘロの倍、幅はフィエロの倍もある、武器を構える旧カペナ人戦士。鋭い刃の雨あられ、金属の交響曲。アンヘロもこのようなものを見るのは初めてだった。エヴリンは一体どこでこれを見つけてきたのだろうか。

 だがフィエロを所定の場所に立たせたなら、それが手にする斧が彼の首を切断し、ステンドグラスを透過する光がその首を照らし出す。喜びをもってアンヘロはその製作に取り組んでいた。

「素晴らしいでしょう?」 アンヘロはそう言い、フィエロの肩に手を置いて作品へと向かわせた。斧頭だけでも、怯えて縮こまりたくなるほどの大きさ。「届いたばかりでしてね。どのような構えにするのが良いか、ご意見を伺いたいのですよ」

 フィエロはここに来て初めて、光素の管をしまい込んだ。「この大きさ……果たしてこの斧で何ができるのか……」

「手に持ってみますか?」 アンヘロは尋ねた。もう少し、もう少し近く……。「降ろせますよ。お望みであれば振ってみることもできます」

 フィエロは彼を見た、まるで菓子店で好きなものを買ってあげると言われた子供のように。「いいんですか? 私が?」

「昔からの友達でしょう、どうぞ」 アンヘロはにやりとし、血がたぎるのを感じた。その時は近づいている。「そこに立っていて下されば、私が降ろしますので」

 フィエロは完璧な場所に身構えた。既にその足首に光がかかっていた。時間だ。

 口笛を吹きつつアンヘロは台座を迂回した。よじ登る際にはうめき声すら上げてみせた。とはいえ実際は、ほとんど目に見えない細いワイヤーを切断するだけで良かった。ナイフすら必要ない――指の爪で事足りた。

 この戦士の素性はともかく、その腕に取り付けられた戦斧は今なお鋭かった。フィエロの首は一撃のもとに切断された。血飛沫が完璧な弧を描いて彫像を飾り、そして今朝アンヘロが時間をかけて刻んだ溝へと落ちた。戦士の足元に、血文字の警告文が浮かび上がった。裏切り者には死を。

 彼はしばし自らの作品に感嘆した――鮮やかな光の色彩が緋色の血の上に踊る様を、大理石の滑らかな床とフィエロの死体のコントラストを。ほぼ完璧と言えた。死体の姿勢をわずかに調節して、彼の作品は完成した。

 時間はぎりぎりだった。アンヘロの時計は三時を指していた。半時間で目的地に着かねばならない。

アート:Aurore Folny

 自分で車を運転するというのは不格好だ。昨夜のうちにフィエロを簡単に殺害しなかったように、古めかしい車を自ら運転して結婚式へと向かうというのは彼の知性が許さなかった。死か流行遅れのファッションでパーティーに出席するかのどちらかを選べと言われたなら、アンヘロの決断を揺らすのは娘の嘆きだけだろう。

 どれほど時間が重要でも、車を盗んで運転するよう自らに強いることはできなかった。それがどれほど速くとも。そして言うまでもなく、フィエロを美しく殺すことに集中していたため、車の手配にまで気が回っていなかった。貴顕廊が所有する車を待つ時間はない。すなわち、事もあろうに……

 タクシーを使う。

 構わない。エラントのためであり、自分で運転するのでもないのだから。これでいい。それに、運転手はニューカペナの道を誰よりもよく知っている。そうではないか?

 彼は門衛を無視して階段を駆け下りた。外では車の群れが、金を払いたいという間抜けなよそ者を待っていた。アンヘロは中でも最も綺麗なものに目をとめた――外に立つ運転手は目をひく仕立てのジャケットをまとい、車もまた洒落ていた――黒一色に金のアクセント。この男とこの車ならば、タクシーに乗っているとは思わないだろう。

「グランド・カペナ・ホールへ。急いでくれ」 後部座席に滑りこみながら、アンヘロは告げた。「十五分で着いてくれれば、何だって買ってやろう」

「了解しました。お任せ下さい」 運転手は答え、そして笑みを見せた――だがアンヘロはその目に何か違和感を覚えた。炎が燃え上がるような。

 そう思った瞬間、扉の鍵がかかった。アンヘロの首筋の毛が逆立った。この状況の重圧かもしれない、だが何か怪しくないだろうか? 桜の香りが鼻についた。最も強力な業務用洗剤は、溶剤の匂いを隠すために桜を使っている。そして車の内装は豪華で新しく、新しすぎた。ただのタクシーには相応しくない。

アート:Dan Scott

「グランド・カペナ・ホール。今日は大切な日なのではありませんか?」 運転手の声は穏やかで軽く、それでもバックミラーを調整するその目には炎があった。「アンヘロさん」

「とても大切な日だ」 アンヘロは運転手から目をそらさなかった。「宜しいかね。先程の申し出は有効だ。君が何者かは気にしない。今日はとにかく、私の行きたい場所に連れていってほしい――何だって支払おう」

 車は大通りに出た。真の目標が何であれ、この運転手は車を飛ばすのが好きではあるらしい。すぐに街の明かりが高速で流れていった。他の車は進路をそれ、あるいはクラクションを鳴らした。角を曲がるたびに、車の中で身体が傾いた。トランクの中で何かが音を立てた――ガラスのような音、高価なものの音。

「私が欲しいものは手に入りませんよ」 運転手の声は今も滑らかで、今も専門職のそれだった。

 アンヘロはこの男の運転許可証を探した。間仕切りにそれは掲げられていた――小さな似顔絵と基本情報。アントニオ・スウィフト。これが運転手の名前とは。そして聞き覚えもなかった。このような名前、忘れようがないというのに。

 だがそういえば、この顔もどこか見覚えがないだろうか? 特にこの鼻――いちど折れて治癒した跡がある、コンクリートのひび割れのように。

「お気づきになられましたか?」 アントニオが言った。「私の顔を。ご覧になったことがあるはずですよ」

 アンヘロはナイフを掴んだ。踏んだり蹴ったりとはこのことか。「そうかもしれない。アントニオ、仕事の話か? 仕事なら後でもいいだろう。今日は私の娘の――」

「結婚式ですね。存じておりますよ。貴方のことは何もかも。実に簡単に騙せましたよ。この車、このスーツ。上手くいく自信はなかったのですが、貴方がた吸血鬼というのは単純です。哀れを誘うほどの贅沢好きだ」

 盗んだ車と盗んだスーツ。下手な似顔絵だけではなく。

「お前の名はアントニオではないな」

「ええ、違います。セヴェロと申します。三年前、貴方は私の父を殺しましたね。私の誕生日に」 そう告げる間ずっと、男は歯を見せて笑っていた。そしてハンドルを大きく左へと切った。間違った車線に車が移動し、眩しい光が車内を満たした。「おめでとうございます。私と同じように、娘さんが心を痛めますように」

 アンヘロは仕切りを乗り越え、だがセヴェロの胸にナイフを突き刺しても来たるものを避けるには十分ではなかった。土建組の巨大な輸送車が怒れるロウクスのように衝突した。仕切りに頭を強打し、アンヘロの視界が赤く、そして白く染まった。セヴェロの高笑いが耳鳴りにかき消された。

 だが意識を失いかけても、アンヘロは諦めなかった。諦めるわけにはいかない。今日ではない。もう時間はないのだ。そしてセヴェロの言葉はひとつだけ正しかった。彼が欲しがるものを与えることはできない。

 式にたどり着かなければ。轢死した動物のような見た目であっても、ルーレットのように頭がぐらついていても、たどり着かなければ。

 車がようやく停止した時、彼の頭にあるのはその思いだけだった。ダガーほどもあるガラスの破片が上腕を貫いていた。アンヘロはそれを割り、セヴェロの肩に挟まった手を抜いた。よろめきながら、彼は車から降りた。定命であったなら、胃を空にしていただろう――だが彼には不死者としての特典があり、嘔吐の必要性から解放されるのはそのひとつだった。

 だが良い知らせばかりではない。車の残骸に手を置いて身体を支えると、背後から叫びが届いた。

「貴顕廊がうちの商品を!」

 アンヘロは溜息をついた。商品。トランクの中身、ガラス……彼は車の後部へ向かったが、怖れが確信へと変わるだけだった。

 このアントニオが何者だったかはともかく、土建屋の光素を運んでいたのだ。

 たった今自分たちに衝突した土建組が、商品を取り戻そうとしている。バールやレンチを手に、彼らが迫りつつあった。姿は見えずとも音は聞こえた。

 エラントを失望させてしまうまで、恐らくあと十五分。目はほとんど見えず、スーツは見るも無残。一日にふたりを殺し、身体じゅうの骨が折れていた。

 だが土建組たちが近づく中でも、アンヘロが思うのは娘の大切な日だけだった。自分は仕事のやり方を間違った、そういうことではないか?

 だとしても、自分の過ちで結婚式を台無しにするつもりはない。

 血まみれでふらつきながら、アンヘロは予備のナイフを靴から抜いた。「踊りを所望かね?」 言葉も今や不明瞭だった。「ならば踊ろう!」

 それは挑発だと土建組は察した。距離をつめる足音が聞こえた。ロウクスがアンヘロの頭めがけて鉄骨を振るい、超自然的な反射神経で彼はそれを避けた――攻撃はほとんど見えず、だが頭上を切る風は感じた。とはいえその回避には代償が伴った。アンヘロは即座に体勢を立て直せなかった。

 彼は顔面から倒れ込んだ。頬にガラスが刺さり、舌に灰の味を感じた。仰向けになると、取り囲む土建組の姿が見えたが、それぞれの顔までは認識できなかった。世界が揺れていた。ぼやけた視界に、エラントの姿が浮かび上がった。そしてクラクションとエンジン音が轟く中、娘の声が聞こえた。

『約束してくれる?』

 一体何度、そう尋ねられただろう? 座して数えたなら、この街の明かりよりも多いかもしれない。

「私は……行くよ」 アンヘロは呟いた。彼はガラスの埋まった拳をアスファルトに突き立て、立ち上がろうとした。

 背中にナイフが迫る様子は見えなかった。

 だが彼がそれを見る必要はなかった――トルーズが見ていた。

 ナイフが音を立てて地面に落ちた。何十もの骨が砕ける音、そして「明かりが!」の慌てた声。それらは助けの到来を告げるものではなかったかもしれないが、不意の暗闇が全てを説明してくれた。闇の雲が辺りの全てを飲みこんだ。その中で、アンヘロは死に際の喘ぎと骨の粉砕音、夢が潰えて望みが絶たれる音を聞いた。そして全てが終わった時、彼女だけがそこに立っていた――スーツに一滴の血すらつけることなく。

 彼女は手を差し出した。アンヘロは一瞬それを見つめ、彼女の掌についた血を見つめ、どうすべきかを考えた。自分自身の力で立とうとしてみるか、それとも……この件が一家の耳に入ったらどう思われるだろう? ごろつきの群れに酷い目に遭わされ、トルーズに救ってもらった。ボスはいい顔をしないだろう。

「変なプライドを発揮しないで。家族なんだからさ、アンヘロ」

 その言葉に彼は少しだけ警戒を解いた。視界は今も揺れ続け――だが彼女の手が繋ぎ止めてくれた。「私をつけていたのか?」

「投資したものは守るんだよ」 トルーズはアンヘロの腕を自分の肩に回した。今やふたりを杖が支えていた。揃って道の端へ向かうと、そこには彼女が用意した車が待っていた。「それに……ちょっとこの仕事を後悔してもいてね」

 彼は笑い声を発したが、血を吐く結果になるだけだった。「君が後悔を? それはぜひ聞かせてもらいたいな」

 驚いたことに、彼女もまた笑った。「貴重だろう?」 トルーズの手下が扉を開き、リムジンの後部座席に彼を乗せた。中で待っていたのは治療師がひとり、そして新品のスーツを掲げた男。それどころかデザイナーか。「諦めるんじゃないよ、アンヘロ。貴方に何があったらパルネスにいつまでも文句を言われるんだからさ」


 頭がふらつく中、街の風景は素早く過ぎていった。アンヘロはその流れをとうに見失っていた――皮膚が繋がり、台無しになった服は脱がされて新品に替えられていった。光が目まぐるしくうねる中、彼が追うことができたのは時間の経過だけだった。あと十分。八分。五分。

『約束してくれる?』

 グランド・カペナ・ホールに到着しても、彼の関節はかろうじて稼働を再開したばかりだった。それでも心臓さえ動いていれば、メトロノームの動きを追える。娘を。控室に縮こまって、父親はまだかと不安になるその姿は……

 車が停まるのを待つことなく、アンヘロは飛び出した。驚いたことに、トルーズも彼に続いた――とはいえ彼女はもう少々落ち着いているように見えた。常夜会のスタイルに見るべきものは多くないかもしれないが、それでも感情を抑える術を心得ている。

 それに、彼女の杖はそれなりに見栄えがいいと言えるだろうか。

 入り口を越えた瞬間、パーティーが始まった。辺り一面の黄金、真珠、羽飾り、絹。落ち着いた灰色をまとう常夜会は頬を赤らめて笑い、シャンパンで心を高揚させていた。貴顕廊の暗殺者たちは光素を挟んで噂話に興じていた。軽快な演奏は疲弊したアンヘロの足取りにすら活力を与えた。

 隣で、トルーズが安堵の溜息をついた。「貴方のところの輩が喧嘩を始めてたらどうしようかと」

「そして素晴らしい夜をぶち壊しにすると? とんでもない。喧嘩を始めるとしたらそちらの側だろう」

 トルーズは得意そうに笑い、かぶりを振った。「今夜はないよ、今夜は」 アンヘロと同じく、彼女も群衆の中に娘の姿を探した。会場隅に立つ常夜会がふたり、既に彼女へと合図をしていた。トルーズはジャケットから一通の封筒を取り出し、それをアンヘロへと差し出した。上質な黒い紙、そして黒い蝋の封。「全部をさ、疑ってたんだよ。私らみたいなのはそう簡単に協力はしないだろ。流した血の量が多すぎる。けど全部見届けて、それと貴方が身を投じた様子はさ……私、きつく当たりすぎたかもしれないね。貴方があんな目に遭う羽目になったのは私のせいだ。次に何か情報が必要になったら、タダにしとくよ」

 彼は封筒を見つめた。ここに向かう直前、彼女の手を見つめたように。そして今一度返答が彼の内に浮かび、アンヘロは手を振ってそれを退けた。「聞きたまえ、それは分かっている。私のような者は仕事のことばかり考えている、君についてもそのひとつだ。仕事の話は日を改めよう」

 トルーズは了解を示すように頷き、封筒をしまい込むと通りがかった給仕からグラスを受け取った。退出しながら、彼女はそれをアンヘロへと掲げてみせた。「おめでとう、アンヘロ」

「君もな、トルーズ」 彼は式場へと続く階段を見て、すぐさま向かった。両脇に立つ老婦人たちが励ますようにグラスを差し出したが、そのようなものは一切不要だった。必要なのは、三分以内にたどり着くことだけ。

 だからこそ、手下のひとりに腕を掴まれたその時、アンヘロは我慢の限界に達した。傍の女人像が掲げた壺から垂れ下がる花よりもその男の顔色は蒼白で、だがアンヘロは気にしなかった。「今の私を止めるほどの理由があるのだろうな?」

「ボス、カルダイヤで何人もやられ――」

 アンヘロは顔をしかめた。「私は今何と言った?」

「ボスに伝えるほどの理由があるということです」

「ああ、それはない。誰か他の者へと伝えろ。最悪の場合は、私に会えなかったと言えばいい。雇われどもが殴り込んで来るならばともかく、今から八時間の間、私が気にかける一家はこの部屋の中の者だけだ。さっさと行け」

 少なくとも、その命令を繰り返す必要はなかった。手下は去り、今度こそこれで終わりと思えた。残るは式場だけ。中から、エラントが友人たちと談笑する声が届いた。幸せそうに弾ける笑い声が。

 その瞬間、ここにたどり着くまでの苦労は吹き飛んで消えた。

 アンヘロは扉を開けた。娘が、母のウェディングドレスをまとってそこにいた。瓜二つの姿に、彼は思わず足を止めて息をのんだ。こんなにも幸せそうな娘の姿を見たことがあっただろうか? 友人たちに囲まれ、喜びに満ちあふれ、身にまとう大気までも輝いて見えるほどに。膝の上のブーケですら、敵うべくもない。彼女は父の姿を見て立ち上がり、付添人にブーケを放り投げて駆けてきた。「お父様、お父様! 来てくれたのね!」

アート:Justine Cruz

「当たり前だろう」 彼はエラントを抱擁し、想いに息を詰まらせた。この娘の母がこの姿を見ることはなかった――そう悟り、こみ上げるものは大きくなるばかりだった。可能な限り、自分がずっと見守ってきたつもりだった。だが……

 いや、それは問題ではない。自分は今ここにいるのだ。セレナ、エラント、いつまでもと約束をした。

 今日のこの日、そしてこれからも、ふたりは世界の中心であり続ける。

 どんな芸術作品にも勝る宝物なのだから。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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