MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 03

メインストーリー第2話:汚れ仕事

Elise Kova
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2022年3月29日

 

メッツィオの駅にて

 ニューカペナはひとつに霞んで見えた。進む列車の中、エルズペスは握り棒に掴まっていた。だが乗客が詰め込まれた車両は動くことすら困難であり、実際その必要はなかった。揺れ、うめきながら列車はメッツィオの中央駅で停車した。ここは街の脈打つ心臓、そして列車は煙と人々を吐き出した。

アート:Muhammad Firdaus

 この駅から、巨大甲虫の形状をした黄金の昇降機が富裕層を高街へと運んでいる。労働者はカルダイヤから蒸気で満ちた階段を昇ってくる。華麗な様相の前者よりも、彼女は後者の方が性に合った。

 エルズペスは衣服を正した。飾り気のない頑丈なズボン。列車内は暑く、彼女は腕まくりをしてベストの前を開けていた。ニューカペナを取り囲む天蓋は街を適温に保ってはいるが、これほどの人混みの中はうだるような暑さだった。更に、一日中働けば体温は上がりっぱなしになる。ニューカペナの派手なファッションに身を包みたいと思う以上に、彼女はまず生き延びることに集中した。

 そして生き延びることは、働くための実用的な衣服をまとうことだった。

 彼女は目立たないよう努めながら、街中の雑用を見つけては請け負っていた。一見してその姿はこの街のどこにでもいる人々と変わらない、けれど……。エルズペスは腹部を軽く撫でた。ヘリオッドに突き刺された時の、神送りの刃に刻まれた空虚が今も感じられた。ニューカペナでこの痛みが癒えればと願っていたが、この新天地は居心地が良いとは思えていなかった。

 物思いにふける彼女は、全力で駆けてくるレオニンに気付かなかった。

 その男は彼女に正面から衝突し、ふたりは床に転げた。エルズペスはしばし呆然とし、周囲では通行人たちが気にせずに通過していった。

「ぼけっとしてんじゃねえ! どこ見て歩いてんだ!」 そのレオニンはぼやくように言い、斑模様の毛並みを撫でつけると抱えていた織物の束を拾い集めた。人混みの中では踏み潰されてしまう。

「すみません」 衣服から見るに、このレオニンはニューカペナを牛耳るどこかの一家の所属ではないらしい。それはありがたかった。統治組織があるとしても名前すら覚えていないが、幾つかの一家の名前は記憶にあった。常夜会、舞台座、貴顕廊、斡旋屋、土建組。

「ちっ。目は前につけておけって言われたこともねえのか」 レオニンは立ち上がり、そして去っていった。

 その言葉が耳に残り、彼女を抑えつけた。低く。ニューカペナの通勤客の流れは途切れなかった。ある者は彼女に顔をしかめ、あるいは困惑して見つめた。ある者は完全に無視した。

 だがエルズペスは人々には目もくれなかった。居場所だけでなく、自分がいる時代すら違うように思えた。

少し以前、ドミナリア次元にて

「生きてるんだな!」 アジャニが駆け寄ってきた。その大きな抱擁は押し潰すようだった。

 エルズペスも腕を回し、同じ強さで友を抱きしめた。首周りの毛皮が鼻と頬をくすぐり、彼女は唇に笑みを浮かべた。幸福。安堵。そして安全。この喜ばしい感情に浸ったのはいつ以来だろうか。そもそも今もそれらを感じられるのだろうかと疑問すら抱くほどに。

「この目で見るまで、君が生者の世界を歩いているとは信じられなかった」 アジャニは抱擁を解き、エルズぺスの肩に手を置いた。その瞳は感激に潤んでいた。

「私も同感です。見つけられて良かった」 エルズペスは疲れた笑みを見せた。二人とも、ドミナリアに頻繁に通っていたわけではない。ずいぶん昔、ここで会ったことが一度だけあった。いや、そう昔ではないのかもしれない。この馴染みのない地で古い友人を探すのは難しいものだから。「どうしてここに? ナヤにいると思っていたんですが」

「ボーラスを倒した後、ここでファイレクシアの脅威について話し合っていたんだ。カーンやゲートウォッチとともに。いや、その件は後でいい」 考えを振り払うように、アジャニはかぶりを振った。「それよりも、どうやってここに?」

「長い話になります……」 エルズペスは語り始めた。ヘリオッドの手によって死の国へと送り込まれた後、太陽の神と対決するまでを。そしてその過程で、死の神エレボスへとヘリオッドを幽閉する機会を与えたことを。「昔からの宿敵への恨みを晴らす手助けをしたことで、エレボスはとても感謝してくれて。だから私を解放してくれたんです」

 彼女が話を終えても、アジャニはしばしの間黙っていた。考えこみながら、彼は虚空をじっと見つめていた。過去にも何度もあり、こんな時のアジャニを急かさない方がいいと彼女はよく知っていた。だが通常、その思考内容に彼女は含まれていなかった。再会はとても嬉しく、だが心のどこかでエルズペスは怯えてもいた。

 離れていた期間はあまりに長く、互いに多くの物事を経てきた。エルズペスは死の国から帰還した。アジャニはゲートウォッチやカーンと密接に協力し、迫りくる脅威を調査している。彼は以前と違った視点で私を見ているのだろうか? 私のこれまでの行動を判断しているのだろうか?

 アジャニは座ったまま身体を動かし、ゆっくりと、そして確固とした意志をもって彼女の両手を握り締めた。そしてまっすぐに目を見つめ、彼は尋ねた。「大丈夫なのか?」

「え?」 エルズペスはわずかに背筋を伸ばした。

「エルズペス、君自身は大丈夫なのかと。私が知る中でも、君は最も強い類の人物だ。それでも君の身体と心に降りかかり、君が耐えねばならなかったものは私の想像を絶する。君はただずっと、確固としたものを求めていただけだというのに。それに……ダクソスは。君にとって彼がどれほどの存在だったかは、知っている」

 思わず彼女は目をそむけた。そうしなければ、アジャニは自分が今も隠す深い傷を全て見透かしてしまう。強くありたかった。全てを置いてきたかった。けれどアジャニは知り尽くしていた。テーロスが安住の地であったなら、その深い願いを知っていた。激動する多元宇宙において揺らぐことのない、確固とした場所であったならと。失った恋人を生き返らせるために彼女が全てを捧げ、けれど取り戻したのは変わり果てた姿であったことも。

「一番辛いのは……」 彼女はゆっくりと切り出した。「何処へも行けないことです。ケイリクスは私を追いかけていて、振り払えるとは思います……けれどそうした後に、何処へ行けばいいんですか? 今のダクソスとは一緒にいられません。それにどんな次元もずっと安全ではありません」 安全でない場所は帰るべき場所ではない、それは幼少の頃に学んだ教訓。その教訓が彼女をテーロスへと導いた――神々に守られた地。けれど神々が安全を意味しないのであれば……何がそれになり得るというのだろう?

 エルズペスは笑い声を発した。今この時、希望など何もない。声はその苦々しさを帯びていた。「私はエレボスの掌握から逃れるために戦いました、ですが何のために? 時々、わからなくなります」

 アジャニは溜息をついた。「エルズペス、安住の地とはひとつの場所ではない。感じるものだ。君と夢を共有し、君が信頼する人々がそれだ」

「言うのは簡単です」

「簡単に見えるか?」 アジャニは少し立腹したようだった。

「貴方は何処へ行こうと安らげる。私はいつも狩りをして、自分のために戦わなければいけない」

「私が何処でも安らげるのは、私自身の毛皮の中が最も安らげるからだよ。君はまず――」

「理解してもらえるとは思いません」 彼女は両手を引いた。この会話にはもう一分たりとて耐えられなかった。迷子になった子供の辛さをわかってもらおう、そう思うことすら馬鹿馬鹿しかった。

「君の言う通りだ」 アジャニは頷いた。「君の願いも苦痛も、その奥底まで理解しているなんて言えない。それでも君は私の親友なんだ。君の苦しみを隅から隅まで知らなくとも、痛みは伝わってくる。それを癒す手助けをしたいんだ」

「貴方にできる事は何もありません」

「君を励ますことはできる。前を見続けてくれ。未来を。過去の悪魔に自分自身を食わせてはならない」

「悪魔なんていません」 むきになった、苦々しい返答。説得力がまるで感じられないほどに。

「安らぎとは内から来るものだ、目的を取り戻した時に――自らの内を見つめ、自らを信じる。そうしなければ、君はいつまでも真の自分自身にはなれないだろう。決して平穏は得られない、そして自分自身に満足できなければ、どんな場所も安住の地にはならないんだ」

「小言を聞くためにここに来たんじゃありません」 彼女は椅子を蹴るように立ち上がり、自らの身体を両腕で抱きしめた。内を見て、平穏を、そして安住の地を見つける。それは場所ではない。その言葉が居心地悪く突き刺さっていた。数歩進んだところで、その言葉からは逃れられなかった。ずっと逃れられないのかもしれない。ここから離れて、頭をすっきりさせたなら、遠くから新たな視点で見ることができるだろうか。

「エルズペス」

 背を向けたままでも、アジャニが立ち上がる音はわかった。「貴方の言うことは考えてみます、けれど今話す気はありません。再会できたのは嬉しかったです」

 それでも、アジャニは続けた。「君が――」死んでいた、それに代わる言葉を彼は探した。「いない間に探していた、君の安住の地を……」そして身構えるように深く息を吸った。「そして。見つけた」

現代、メッツィオの洗濯店にて

 現在の職場の外にて、彼女は立ち止まった。辺りには石鹸の強い匂いが立ち込め、窓には立派にアイロンをかけた衣服が幾つも下げられている。ガラスに映った彼女の姿は歪み、ほとんど見分けがつかなかった。

 アジャニの言葉は正しかったのだろうか? この自分は自分なのだろうか? エルズペスはかぶりを振り、その思考を押しやって洗濯店へと入った。その日その日を生き延びねばならない。他の全ては来るべき時にやって来る……その時というものがあるのなら。

「遅い」 彼女の姿を目にするなり店主が言った。「時間を守らないようなら、こんないい仕事は続かないぞ」 エルズペスは壁の時計を一瞥し、既にわかっている物事を確かめた――約束の時間ちょうど。「時計は見るな、そいつに意味はない。私が言う時間が全てだ、そして私が遅いと言っている。遅刻だ」

「すみません」 エルズペスは小声で呟いた。現在の店主の名前をわざわざ覚えてすらいなかった。彼女の雇い主は頻繁に変わった。自分たちの回りくどい人殺しのゲームに彼女が加わらないとわかると、誰も雇い続けてはくれなかった。執着するのは無意味に思えた。「次からは気をつけます」

「それがいい。お前の仕事は私でもできる」 彼は親指で裏口を示した。「袋が六つあるから、それを貨物車へ運ぶんだ。行け、そうすれば今日の賃金を払ってやる」

 エルズペスはそれ以上の時間も言葉も無駄にせず、言われた通りにした。洗濯店の奥の部屋は六つの区画に分けられていた――五つの犯罪組織一家と、一般市民のための。天使は自分たちの洗濯物にすら触れることを禁じたためだった。

 彼女は袋をひとつ肩にかけ、外に出た。遥々メッツィオの中央駅へとそれを運び、そして徒歩で戻る。その間ずっと、エルズペスは人々の声に耳を澄ましていた。特に面白そうな会話があった際には少し長くその場に留まり、あるいは歩調を緩めた。それでも誰も彼女を気にはしなかった。新たな仕事に就くたびに、ニューカペナを学ぶ機会とした。もしかしたら、いつか耳に入るかもしれないのだ。ここが安住の地だと確信できるような何かが。

 最後の荷物を置いて戻ると、店の扉は半開きになっていた。そのため中でのやり取りがかすかに耳に入ってきた。

「――てめえの借金、きっちり支払えるんだろうな」 聞きなれない男の怒鳴り声。

「約束します。金を手に入れてきますので」 普段厳しく自信に満ちていた店主の声は震えていた。「どうか。もう一週間だけでいいんです」

「もう一週間?」 女性の笑い声。「一か月もあげたじゃない。私たちがどれだけ優しいと思ってるの?」

「もう一日、いえ二日で――どうか。お願いです」

 こんなにも怯えた店主の声を聞くのは初めてだった。弱弱しかった。気分が沈んで肩にのしかかり、嫌気の後味を喉に感じるようだった。必死に働く街の人々、それを食い物にする輩がいるのだ。

 割って入るべきだろうか? いや、それは自分の仕事ではない。つまるところ、店主はこんな目に遭うようなことをしてきたのだ。ここは無視すればそれで――

「二日? どこかに金を隠してるんだろう!」 叩き壊す音、そしてしわがれた笑い声が続いた。

 懇願するような声が聞こえ、だがそれは鈍い殴打音と更なる笑い声に途切れた。

 エルズペスはすぐさま扉を押し開け、客人たちがもたらしたであろう惨状に身構えた。マネキンは首を折られて床で砕け散り、着古した服は床に積み上げられていた。血を流して倒れた店主を取り囲むようにレジの破片が散らばり、男が三人と女が一人、彼に迫っていた。

 加害者四人の青白い瞳が彼女へと向けられた。

「何だ?」 黒髪の男が言った。最初に聞いた声の男。リーダー格、彼女はそう推測した。

「その娘は……その娘はただの客です」 店主は苦労して言葉を紡ぎ出した。まさか、この男が自分を守ろうとするとは。

 エルズペスはリーダー格の男へと目を向けた。「出て行きなさい」

「ただの客、にしてはずいぶんと強気だな」 その口元が悪意の笑みに歪んだ。「この親父はお前の何だ?」

 それはもっともな質問だった。後に何らかの傷を手当てしながら、自問自答するに違いない。けれど今、負傷した店主からこの者たちを遠ざけることだけに彼女は集中していた。このまま放置していたなら、彼らは店主を殺してしまうだろう。

「丸腰の相手を喜んで痛めつける残虐な者は、私が相手します」

「残虐?」 女がくすくすと笑い、拳を鳴らした、「その言葉の本当の意味を教えてあげるべきね」

「貴顕廊の処罰者相手に、大胆な物言いだ」 側頭部を剃った男が言った。

 貴顕廊。その一家については、市井の人々が口にする以上の物事は知らなかった。その名は芸術や死といった文脈に現れ、彼らの衣類は常に血の金属臭を放っている。

アート:Jodie Muir

「今日の俺は気前がいい」 リーダーが店主から離れた。「ポケットの中身を全部寄越して謝りな。そうすれば言葉に気をつけなかった件を許してやってもいい」

「面白いですね。私も今日は気前がいいんです。何もせずに立ち去れば、その膝を砕かないでおいてあげますよ」 エルズペスは言い返した。このような輩は暴力以外に何もわかっていない。脅しが彼らを吸い寄せるなら、自分が餌になろう。

「どういうつもりだ――」 赤い手袋の男がうなった。

「もういいわよ!」 女が飛び出そうとし、だがリーダーがその肩を掴んで止めた。

 彼は部下を睨みつけて近寄り、鼻が触れそうだった。「取り仕切ってるのは俺だ。俺が命令するまで攻撃するな」

「けど――」

「そして命令だ。この女の血で道を染めるぞ」 彼は女性を放し、エルズペスは攻撃が来るのを待たなかった。彼らは挑発に乗っていた。店主から気をそらすには十分であり、次は自分の身を守る番。普段であれば四対一は問題ではないが、完全武装の相手とあっては戦略的撤退が最も好ましい。

 エルズペスは表へ飛び出し、貴顕廊の四人がすぐに追いかけた。彼女はメッツィオの混み合う街路をくぐり抜けながら逃げた。多くの人々は汚れた彼女の様相を一瞥したが、ほとんどはそれだけだった。ニューカペナの住民にとって、喧嘩と流血沙汰は珍しくも何ともない。

「逃げられると思うの?」 近くを歩いていた夫婦を突き飛ばし、あの女が迫った。「私たちは追跡に慣れている、けれど貴女はただの洗濯屋の従業員よね」

 その言葉とともに女は腰から剣を抜き、エルズペスへ向けて大きく切りつけた。傍観者が三人、巻き添えになりかけた。エルズペスは身体を低くして避け、刃は頭上を走った。女はその動きを止めることなく、刃はエルズペスの胴に向けられた。エルズペスは踏み出して距離を詰め、貴顕廊の女の腹部へと拳を叩きこんだ。

 だが苦みと驚きに喘いだのはエルズペスの方だった。

 拳は金属に命中していた。上質な仕立ての衣服の下に、金属鎧が隠されていた。貴顕廊の女は大きく笑みを浮かべ、牙を見せつけた。つまりは吸血鬼。完璧だ。

「後悔してる?」

 離れて再び逃走する、それがエルズペスの返答だった。彼女は拳を撫でながら、逃げ場を探して群衆を見つめた。弾ける音、そして閃光が走った。怒れる彗星の尾のように魔法が宙を駆け、エルズペスの足元の敷石に当たった。小さな爆発があり、焦げ跡が残された。

 肩越しに振り返ると、男のひとりが指を突き出して罵っていた。混み合う街路の真ん中で魔法を放ったのだ。巻き添えが出るなど気にもせずに。つまりここを逃げ続けたなら、無関係の人々が傷ついてしまう。

 赤い手袋の男が指を突き出した。エルズペスは屈み、滑り、裏道に入ったところでまたも魔法の矢が頭上を過ぎた。労働者を押しやって駆け、背後から悪態が届いた。それらも彼女を追う四人にすぐさま黙らされた。

 エルズペスは角を曲がり、方向を変えて逃げ続けた。だが何度引き返し、幾つの壁を乗り越えようとも、追跡は止まなかった。そして肩越しに振り返りつつ次の角を曲がった所で、彼女は慌てて停止した。

 目の前の奈落で風がうなっていた。

 駆けてきた道は不意に途切れ、作りかけの橋が何もない宙へと延びていた。隙間の先もまた建築の途中だった。跳べないことはないかもしれないが、反対側には建築機械が設置されており、安全に着地できそうにない。眼下の奈落からは怒れる赤い煙が上がっていた。炎と血の海に沈むような、街の下層。

「はてさて。行き止まりだな」 リーダーが近づいてきた。手下たちはその脇で荒い息をつき、全員がこの逃走劇に憤慨しているようだった。「さあ、どこへ逃げる?」

 何処にもない。脇道はない。唯一の出口は彼らの背後か、下か。彼女はカルダイヤの煙と煤に今一度目を向けた。落ちたなら底まで何もない。

「今日の俺は気前がいいと言ったな」 リーダーが告げた。「ちょっとだけ痛めつけて、歯を何本か折って、二度と生意気な口をきかないって約束させるつもりだったんだが。あのまま黙って立っていればな」

 それが嘘であるのは明白だった。それでも彼女は罪悪感に襲われた。自分が街路を逃げ回ったことで、人々を危険にさらしたのだから。暴力に、あるいはもっと悪いものに耐えていれば、それは起こらなかったのだろうか。

 リーダーは手を挙げ、二本の指をエルズペスへと向けた。その手首が火花をまとい、見えざる熱に大気が揺れた。「お前はもうすぐ死ぬ」

 可笑しさに彼女は声を漏らした。「あいにく、それは経験済みなもので」

 魔法が放たれた。

 エルズペスは避け、転がった。建物と道路が入り組む辺りへ向かい、隠れなければ。吸血鬼の剣が迫った。この時エルズペスは吸血鬼の利き腕を掴み、相手の動きを利用して壁へと叩きつけた。頭が跳ね返り、コンクリートに金属が当たって甲高い音を立てた。

「どういうつもりだ!」 赤い手袋の吸血鬼が飛びかかってきた。エルズペスは片足を上げて旋回し、それを避けた。だが立ち上がった所で別の男が迫った。そしてあのリーダーを取り巻く大気はまたも魔法を帯びていた。

 数でも手段でも圧倒されていた。エルズペスは拳を交わし、屈み、避けた。だがこのままでは消耗し、やがて決定打を受けてしまうだろう。その前に離れなければいけない。

 あるいは、武器を見つけるか。

 積み上げられた長い鉄の棒が目にとまった。建築途中の橋から飛び出しているものと全く同じ。彼女は跳ね、頭を狙った魔法の弾をかろうじて避けながら棒の一本を掴んだ。

 エルズペスは間に合わせの武器を持ち上げた。手に馴染んだあの神の槍からは程遠く、それでもこれで優位に立てる。

「ん? そんなものでやり合うつも――」 言い終える前に、吸血鬼は側頭部に鋼を受けて倒れた。

 もう二人は一瞬、唖然として動きを止めた。それが過ち。エルズペスは鉄棒で二人の足元を払った。女吸血鬼は跳ね、赤手袋の男は足首を引っかけられた。エルズペスは鉄棒を引いて旋回し、相手の額を鋼で強打した。

 残るはリーダーだけ。

「お、落ち着け」 彼はかすかに震える両手を掲げてみせた。「落ち着いて話し合おう――」

 不意に魔法が放たれ、だがそれは彼女に読まれていた。エルズペスは避けて距離を詰め、鈍い音を立てて気絶させた。戦いの熱気が収まりはじめ、エルズぺスはようやく力を抜くと追跡者たちの様子を確認した。意識を取り戻した時の痛みには同情しない、けれど……少なくとも全員が息をしていた。誰も殺したいとは思わず、そして貴顕廊に復讐されたくもなかった。

 彼らは一家の腕力係として鍛えられているのかもしれない。だがエルズペスは神々と戦ってきたのだ。簡単に圧倒できる相手ではない。

 鉄の棒を元の場所に戻そうとしたその時、ゆっくりとした拍手の音に彼女ははっとした。もう一人、何者かがここにいる。

 エルズペスは即座に振り向き、鉄棒を突き出した。一人の男、その顎の直前でそれは止まった。色白の肌、黒髪を後頭部へと撫でつけて鋼の襟元に流している。顎と口回りの髭は綺麗に剃られ、悪意ある笑みを際立たせていた。男がまとう鎧は、たった今倒した者たちのそれとよく似通っていた。

「お仲間さんたちはちょっと寝ているだけです」 青白い瞳を彼女は見つめた。「これ以上の揉め事は好みませんので」

「揉め事の方が貴女を見つけ出したようですね」 その通り。何処へ行こうとも。「彼らは『お仲間さん』などではない。強いて言うならばお荷物、でしょうか。この者たちが処罰者として未熟であったのは明白。礼儀がなっていなかった件、お詫び致します」 あるいはこの男は、彼らが自分を速やかに殺さなかった件を詫びているのだろうか。エルズペスの疑念に、男の両目が楽しむように輝いた。「金属の棒だけでその恐るべき腕前、であれば真の武器ではどれほどのものとなるのでしょうね?」

「この棒しかなかったのは、『お荷物』さん達にとっては幸運でしたよ」 相手の喉元に突きつけたまま、彼女は言った。一突きするだけで倒せるだろう。とはいえ殺すつもりなどは全くなかった。

「それは手に取るようにわかるとも」 男は指で鉄棒の先端を軽く上げた。「これを置いて話し合うというのはどうかな?」

 エルズペスは応じなかった。「話をする気もありません。私は自分の仕事を平穏に進めたいだけです」

「貴女にふさわしい仕事があると言ったなら?」

「興味ありません」

「おや? 既にいずこかの一家に所属していると?」 彼はエルズペスを頭から足先まで見つめ、顎が鉄棒の先端に触れた。全く怖れてなどいないのだ。

「誰にも従っていませんし、そうする気もありません。私は日々を生きて行こうとしているだけです。もう行かせて頂けませんか?」

 やや芝居がかったように、男は溜息をついた。「いいですとも。とはいえその才能を放置するのは残念としか言いようがない」

 彼女は男を見つめたまま、少しずつ後ずさった。だが相手は微動だにしなかった。鉄棒の山まで来ても、動きはなかった。エルズペスはゆっくりと鉄棒を元の場所に戻した。敵となるかもしれない者が目の前にいながらも、唯一の武器を手放す――それはわかっていた。

 襲いかかる気はない、そう示すように男は両手をポケットに入れた。エルズペスは横目で見ながらその前を過ぎた。男はそれを見送った。

 だが建物の影に入ったところで、男は再び口を開いた。

「ところで。もう少々簡単に『日々を生き』たいのであれば……いい仕事があるのですがね」 エルズペスは睨みつけ、だが男は続けた。「ふむ。金に興味はなさそうだ。では光素は?」

 彼女は動きを止めた。

「やはり光素でしょう?」

 光素という名前はこれまでにも耳にしていたが、それが何なのかという具体的な情報は何ら得ていなかった。「それが何です?」

「いつでも飲めるようになるとも、御所望であれば。我々は舞台座ではないかもしれないが、だからといって蓄えが枯渇しているわけでもない」

「どうして私がそれを欲しがっていると思うんです?」 つけ入る隙を与えないよう、エルズペスは注意深く言葉を選んで尋ねた。相手の目がわずかに真剣味を帯びる、あるいはその視線が企てや飢えではなく好奇心を示すようであれば、それは失敗したことになる。

「この辺りの出身ではないようですね」

「まさしくそうです」 エルズペスは肩をすくめ、歩き出した。

 背後で足音が急いだ。「まあ待ちなさい……ニューカペナでは誰もが目的あって光素を欲している。切望する理由が常にあるのです」 男は新たな視点で彼女を見つめた。「貴女はニューカペナの衣服をまとっている、だが明らかに我々とは異なっている」

 我々とは異なっている。一体何度、そのような目で見られただろう? 何処にも属さない者として。決して簡単なことではない。その度に、寂しさが更に深く心を切り裂く。

「そんなことは問題にもならない!」 早足で追いつきながら、男は彼女の表情を見たに違いない。「誰もが何処かから始めるのだから。ならば貴顕廊はいかがですか? 廃墟の外から新人を勧誘する機会はめったに無いが――率直に言えば、今もそこに住む人々がいるというのは驚きなくらいで――それにニューカペナの歴史に興味があるのであれば、耳寄りな話があります。我々の新人は皆、高街の博物館から仕事を開始するのです」 男は立ち止まり、片手を差し出した。「おっと、私としたことが名乗りもせず、失敬。アンヘロと申します」

アート:Aurore Folny

 エルズペスは油断なくその手を見つめた。その手をとったなら、契約を交わしたように感じるのだろうか――その内容は知らないが。だがそうはせず、彼女は無視して歩き続けた。「エルズペス、です」 答えはしたが。

「エルズペス。ふむ。少々古風な名前ですな」 彼は含み笑いをし、そのまま彼女についていった。道は開けて建物の間の広場へと続き、その中心には噴水が飛沫を上げていた。エルズペスは脚を緩めて立ち止まり、泉の中央の彫刻を飾る姿を見上げた。

「おや、興味があるのですか?」 アンヘロが小さく笑った。「あれはこの街なら何処でも見られるものではありませんか」

「あれ?」 彼女は尋ねてみせた、この男がどれだけ情報を提示したいのかを試すために。驚いたことに、そしてありがたいことに、アンヘロは続けた。

「天使ですよ」 彼は激闘を繰り広げるふたつの姿を顎で示した。翼のある女性が、倒れた敵へとその剣を輝かしく掲げている。だがエルズペスの目にとまったのは天使の方ではなかった。大口を開け、節くれ立った指の鉤爪を天使へと向ける、猫背で棘だらけの生物。鋭さと悪夢でできた生物。「街の至る所に天使の彫刻はありますよ。古の戦いやそのようなものがあった故、崇拝すべきとされているのでしょうかね。とはいえその何らかの重要性は今や失われ、戦いについても僅かな記録が残されているのみですが」

 古の戦い。天使。エルズペスは天使が打ち負かそうとしている生物を見つめた。アンヘロは知らないかもしれない、だが彼女はその正体を正確に知っていた。

 ファイレクシアン。

少し以前、ドミナリア次元にて

「君が――」死んでいた、それに代わる言葉を彼は探した。「いない間に探していた、君の安住の地を……そして。見つけた」

「え?」 エルズペスは即座に振り返り、今一度アジャニを見つめた。心臓が高鳴っていた。安住の地。幼い頃に失い、以来見つかっていない場所。

「ニューカペナという名前だ」

「ニューカペナ」 彼女は口に出した。心の内で安住の地と思うような、ぼやけて不確かな風景に合うのかどうかを試すかのように。「どうして早く言ってくれなかったんです?」

「君自身の様子を確認する方が大切だったからね」

「お陰さまで上々です。ニューカペナ? 本当ですか?」

「ああ。それとカーンによれば、君以上に入り組んだ歴史を持つかもしれない」 アジャニの声が重くなった。「新ファイレクシアへの攻撃計画があるが、準備を終えるまで動きたくはない――勝てると確信できるまでは」

「ニューカペナとファイレクシアンに何か関係が?」 懸念が喜びを締め付けていた。ファイレクシアンは至る所に破壊を振りまく。果たして自分に帰る場所などあるのだろうか?

「過去に侵略があったという話だ。けれどニューカペナは現存している。つまり、その脅威を打ち負かしたということだ」

「それで、私にその詳細を探し出してほしいんですね」

「その通りだ」 アジャニは立ち去ろうとする彼女の肩を掴んだ。「行く前に……約束してほしい。私が言ったことを考えてくれると。この仕事は少々個人的なものになるだろうとは判っている。そして君が探しているものを――必要としているものを――ニューカペナで見つけてほしいと願う。けれど、どうか忘れないでほしい、君自身の過去と折り合いをつけない限り、何処へ行こうと安住の地にはならない。エルズペス、君は神を殺し、死を克服し、多くの偉業を成し遂げてきた。その全てと戦えるのだから、自らと戦って、求める安らぎを得ることだってできるはずだ」

「最善を尽くします」 それは本心であり、今の彼女が返答できる全てだった。

「信じている、だが気をつけて」 アジャニは最後にと彼女を引き寄せ、抱きしめた。「君の死は二度と見たくないし、死んだという知らせも聞きたくはない」

「私もそれは避けたいです、アジャニ」 少しだけエルズペスは笑った。数年ぶりに、心が軽くなった気がした。そして彼女は振り向くことなく渡っていった、安住の地と呼べるかもしれない場所へ。

現代、メッツィオの広場にて

「さて。いかがでしょう?」 アンヘロは再び返答を迫った。「十分なお金、部屋に食事。貴女はここそこで少々の仕事をこなすだけで良いのです」

 少々の仕事。その言葉が意味するものは正確に知っていた。ニューカペナの縄張り争いで手を汚す気はない。けれどこの男の言うことが真実ならば、この奇妙な地についてずっと詳しく学び、真実を知る最高の機会となる。アジャニの言葉が真実であり、ここが本当に安住の地なのかどうかを。

「それで、貴顕廊の博物館に行けばこんな彫刻についてもっとわかるんですね?」

「もっと?」 彼は笑い声をあげた。「それどころか。我らが館長の働きにより、何百という彫刻を所持していますよ」

「わかりました」 エルズペスは不承不承頷いた。ひとつの組織のために働きたくはなかったが、目的のためには致し方ない。少なくとも、彼らのところにはファイレクシアンの情報があるかもしれないのだ。アジャニやゲートウォッチが欲しているものが。

「後悔はさせません」 アンヘロは彼女の肩に腕を回し、歩き出した。「どの一家よりもニューカペナを熟知している、それが貴顕廊の誇りです。貴女が求める情報が確かに、そして紛れもなく得られますよ」

 得意げな表情だった。自分が盲目的に従うような餌を見つけた、そう考えているのだ。そしてある意味その通りでもある。だがエルズペスは目を見開き続けていた。権力の手駒にされるつもりはない。

エピローグ――控室にて

 鏡張りの部屋に「敵対するもの」は座していた。その入り口は酒場の書棚に隠されている。この建物に入るには、特別なノックの作法と魔法の才覚が必要となる。この部屋に入るには、望んで命を賭けねばならない。

アート:Vincent Proce

 忠実な副官と役員たちが彼を取り囲んでいた。その全員が目的達成の手段。息をしている限り、そして有用である限り使ってやろう。彼の頭上に、弱弱しい紫色の光が浮いていた。

「――これこそが、『源』の正体です」 彼らの中で、最も地位の高い者がそう告げた。

 「敵対するもの」はしばし考え、そして吠えるような笑い声をあげた。何という。あれが「源」だというのか? 実に哀れを誘う。とてつもない力、それが熟して奪われる時を待っている。そして舞台座は実際、盗んでくれと言っているようなものだった。

「この意味がわかるか?」 彼はそう尋ね、光素の瓶から栓を抜いた。その中身が幾つものグラスに注がれる様を、他の者たちは飢えた目で見つめた。「我らが、クレッシェンドを注目に値するものにしてやろうではないか」 オブ・ニクシリスはグラスを回し、自らのそれを乾杯に掲げた。「この次元の支配に、乾杯だ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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