2022年4月5日

 

ニューカペナの街路にて

「どう思います？」 あの密告者を追いかけた時と同じ庇の上で、エルズペスは同行者たちへと尋ねた。ザンダーから受けた試験からもう数週間になるとは信じられなかった。昨日のようにも、数年前のようにも思えた。

「このあたりは街でも一番静かね、今のところは」 ビビアンが頷いた。

アート：Adam Paquette

「ジアーダさん？」

　その少女は疲れ切った様子で、そのため返答にエルズペスはさして驚かなかった。「ここにいるのがいいと思います」

「ジアーダを見てて、私は少し様子を伺ってくるから」 ビビアンが言った。

「ありがとうございます」 エルズペスは建物の側面を指さした。「このあたりの路地にはラクーンフォークが潜んでいます。気をつけて」

　ビビアンは飛び降り、濁った夜の闇へと消えた。その身のこなしにはいつも感心させられた。あらゆる動きが確固として油断ない。ニューカペナに来てそう長くないのは自分と同じだが、ビビアンはガラスやコンクリートの破片までも知り尽くしているように歩き、そしてそこには自慢も思い上がりもない。同じ期間でも、ビビアンはエルズペスよりも難なくこの街に適応しているように見えた。ここを安住の地にするかもしれない自分以上に。

「エルズペスさん」 ジアーダが沈黙を破り、エルズペスを内なる葛藤と疑念からすくい上げた。

「はい？」 ジアーダからの言葉は続かず、エルズペスは彼女へと視線を向けた。ジアーダは背伸びをすると顎を両手に乗せ、心配するように下唇を噛んだ。以前にもこのように不安がる彼女を見たことがある。エルズペスは幾らかでも安心させようと、その背中に手を軽く触れた。ジアーダはニューカペナのかすむ地平線を見つめたままでいた。

「怖いの」

「怖いのは、何に対してですか？」 ジアーダが怖がる理由は何千とあるだろう。それでもこの小さな肩に何がのしかかっているのか、それを知りたかった。

「私の力が足りなかったら、って」

「力というのは、何をするためのですか？」 エルズペスは穏やかに続きを促した。

「私がニューカペナを救えなかったら？ 本当に私の力は足りるの？ もしも――尽きてしまったらどうなるのか」 ジアーダはかぶりを振った。「どれだけ与えればいいのかもわからないし、本当にそれで世界が変わるのかもわからない。この街は……壊れてる」

　その言葉は突風のように発せられた。まるでジアーダの中で堰が壊れ、彼女を内から食らっていた疑問が解き放たれる時を見つけたかのように。胸が張り裂けるようなその疑問へと、エルズペスは真摯に耳を傾けた。疑問のひとつひとつが、これまでのふたりのやり取りを新たな光で染め上げた――ジアーダの内に見ていながら、今この瞬間まで理解していなかった怖れ。

　あまりに多くのものがジアーダの肩に課せられている、自主性も面目も与えられることなく。舞台座も、どの一家も、「敵対するもの」も、誰もがジアーダを問題の解決策と、道具とみなしている。先細る光素の供給源という安易な解決策のために、血管に流れる血が、骨の骨髄が、魂の内なる力が尽きるまで絞り尽くすのだ。彼女の健康や幸せなど何ら考えることなく。

　私はもっと早くに、ジアーダのために尽力するべきだったのだ。

　ジアーダは答えを求めてエルズペスに視線を移した。エルズペスの方でも、それを与えられるかどうかはわからなかった。もしかしたら、アジャニもこんな気分だったのだろうか。答えは自分の内にあるとわかっていながら、アジャニにそれを求めた。彼が知るはずはないというのに。答えを迫る今のジアーダは、あの時親友へと憤慨をぶつけた自分と同じなのだろうか。

「貴女の言う通り」 エルズペスは穏やかに切り出した。「ニューカペナは壊れていて、光素はこの街の傷を押さえる薄っぺらい包帯でしかない」 本当の平穏は、本当の繁栄は、内から来るものでなければ――この街を築いた文字通りの悪魔と、今も街路を悩ませる比喩としての悪魔の両方に目を向けることで。

「じゃあ、私は何をすれば？ 手助けはしたいんです――目的が欲しいんです」

「目的を……果たす……」 その言葉とともに、エルズペスはこの数か月間ずっと抱いていた思考に没頭した。だがこの時、胸の痛みはなかった。空ろな感覚は、かつてほど大きくはなかった。「それは、貴女の内から見つけ出すものです。私が与えられるものではありません。誰も与えてくれません」

　ジアーダは落胆するように顎を手に乗せた。エルズペスはその背中を軽くこすった。

「けれどジアーダさん、これだけは言えます。貴女自身でその答えを見つける機会がきっとあります。目的を見つけられます」 そう、私と同じように。「それまで、私がジアーダさんの安全を守ります。どれほど長くかかろうとも」

「約束してくれますか？」 ジアーダは願うような瞳を向けた。

「誓います」

　ふたりの会話はビビアンの帰還に中断された。彼女はエルズペスとジアーダがくつろぐ台へと軽やかに着地した。「放棄されて久しい感じ。誰も中にはいなかったわよ」

「それなら良かった」 エルズペスは立ち上がった。「今夜はそこで一息つきましょう」

倉庫にて

　肩に重みを感じ、エルズペスは目を覚ました。もやのかかった光が天窓から差し込み、隣でまどろむジアーダの顔を温かく照らしていた。倉庫の奥、小さな事務室に三人は縮こまっていた。出入口はひとつだけであり、安全をたやすく確保できた。そして窓に面した壁には鏡が取りつけられており、こちらの姿を見られることなく倉庫の床を一瞥できた。

「移動した方がいいわ。誰かが近づいて来てる」 向かいの壁にもたれかかったビビアンが囁き、エルズペスには聞こえない音の方角へと目を向けた。

「ただのラクーンフォークだと思います。この子をもう少し寝かせておいてあげて下さい」 エルズペスはまだ動かずにいた。こんなにも穏やかな様子のジアーダは初めてだった。これまでの彼女は、常に内なる葛藤に苛まれていた。昨晩の会話で、初めてエルズペスはその詳細を知ったのだった。

　ジアーダはどんな人生を過ごしてきたのだろう？ ずっと舞台座に囚われていたのだろうか？ 光素を作り出す能力をどのように発見したのだろうか？

　あらゆる疑問が答えのないまま渦巻いた。ジアーダは既に多くの疑問をぶつけられていた。これ以上要求する必要はない。今は誓った通りにジアーダを守る、それだけでいい。

　鋭く、軋むような金属音が鳴り響いた。ジアーダは跳ね起き、エルズペスははっと口を押さえた。彼女はジアーダの肩に腕を回して引き寄せた。

「静かに」 エルズペスは小声で囁き、鏡に映る動きを見つめた。

　ビビアンは膝をついて弓に手を伸ばし、その瞬間扉が蹴り開けられた。窓が破られてガラスの破片が降り注ぎ、三人の平穏な朝は叩き壊された。

　ジニーが入り口に立っていた。その背後には舞台座の用心棒が二人、斧を振り回していた。更に三人が剣を抜く様子が鏡に映って見えた。

　ビビアンが矢をつがえるよりも早く、ジニーが短剣を投げた。ビビアンは咄嗟に腕を掲げて防ぎ、だが短剣は彼女の上腕に深い傷を与えた。用心棒のひとりが回り込み、負傷したビビアンの腕から弓を叩き落して拾い上げた。

「これが無けりゃ大したことはできまい」

　ビビアンの両目が輝いた。弓などなくとも自分はどれほど危険かを知らしめたいかのように。彼女はゆっくりと笑みを浮かべた。落ち着いていると言っていい。お前が最後に見つめるのはこの笑み、そう約束するような。

「本気で私たちから逃げられるって思ってた？」 ジニーが進み出て、手にしたナイフをエルズペスの顎の下にあてた。ジニーはどうやって自分たちの居場所を？ この倉庫は放棄されており、街は広い。ジニーが自分たちを追跡するための何か、それを見逃していたに違いない。

　ナイフの刃は、ジニーが向ける厳しい視線よりも温かいと思えた。まだ息をしてはいるが、ジニーにとってエルズペスは死んだも同然だった。

「私はただ――」

「嘘は言わないで。『敵対するもの』と組んでいたの？」 刃の先端がエルズペスの首筋に食い込んだ。

「それはありません」

　ジニーは視線でその返答を探った。そしてエルズペスの言葉を信じ、尋ねた。「じゃあ何故？」

「ジアーダさんを守っていただけです」

「嘘ね。光素が欲しかったんでしょう」 ジニーはナイフを押し付けた。もうほんの少しで首筋の血管に達する、だがエルズペスは息をのみすらしなかった。

「ジニーさん、裏切り者の扱いはジェトミアさんが決めることですよね」 意を決したようにジアーダが口を開いた。ジニーの表情に痛みと困惑が走った。エルズペスはジアーダを一瞥した。この娘は私を守るために？ だがジアーダは舞台座をよく知っており、言葉を巧みに選んだ。「このふたりをどうするかは、ジェトミアさんに決めてもらいませんか。頭のいい人だから。けど、ジニーさんが来てくれて良かった。助けてくれてありがとう」

　ジニーは掌握を緩め、エルズペスの喉元からナイフが離れた。「私もよ。『源』を永遠に失ってしまったかと思ったわ」

「私はここにいますよ」 ジアーダは弱弱しい笑みを見せた。

「そうね」 ジニーは怒りを吐き出し、頭を冷やした。だが再びエルズペスを見る目には変わらない憤怒が燃えていた。「拘束しなさい。ジェトミアのところへ連れて行きます」

「ヴァントリオーネに戻るんですか？」 ジアーダが立ち上がった。

「いいえ、あそこは危ない。味方のところへ向かうわ」 ジニーの返答は曖昧だった。「どの一家も『敵対するもの』にニューカペナを奪われたくはない。それに『源』が手元に戻ってきたのだから、他の一家に協力させる交渉材料があるということ」

　源。交渉材料。彼女には名前がある、エルズペスはそう叫びたかった。

「そのためには生きて脱出しないと」 ジニーの穏やかな口調に反し、用心棒たちは手荒にエルズペスとビビアンへと手枷をかけた。

　エルズペスは両手を拘束され、魔力が刺すような痛みを手首に感じた。ビビアンは彼女の後についたようだった。剣を回収した舞台座の男をエルズペスは慎重に確認し、口を固く閉ざした。今は素直に従うのが、ジアーダの傍にいる最善の手段なのだ。

「そうしたら、貴女がこの次元に均衡をもたらす時がようやく訪れる」 ジニーはそう言い終えた。

　口を固く閉ざしたまま、ジアーダは頷いた。ジニーは彼女の手を掴み、ジアーダはエルズペスへと視線を移した。彼女はゆっくりと、小さく頷いてみせた。

　誓いは守ります、エルズペスは無言で繰り返し、ジアーダに伝わることを願った。だがジニーに倉庫の外へと連れ出される中、ジアーダは無表情を保っていた。

占い館にて

　メッツィオにて連行されながら、エルズペスとビビアンは警戒の視線を交わした。舞台座の者たちがすぐ近くにいるこの状況では、口を開かない方がいい。その「安全な場所」だというところに辿り着いたなら、ビビアンとともに落ち着いて体勢を立て直せるだろう。

　サンダルウッドとオレンジの香りがエルズペスの鼻孔をくすぐった。

「ジニーさん」 エルズペスは呼びかけ、立ち止まった。

「歩け」 用心棒のひとりが突いた。エルズペスは前によろめき、その動きを用いてジニーとの間隔を狭めた。

「ここは常夜会の隠れ家です」

「私が知らないとでも？」 ジニーは片眉を上げた。「味方って誰のことだと思った？」

　エルズペスの心臓が早鐘をうった。「クレッシェンドで見ましたよね。貴顕廊、舞台座、それに土建組も――どの一家にも『敵対するもの』は侵入していました。罠かもしれません」

「真に忠実な者もいるのよ、貴女とは違ってね」 ジニーは扉の前で足を止め、ノックをした。ザンダーの荷物を届けた時に聞いたノックと、全く同じ。

　エルズペスは下がってビビアンの隣に立ち、相手の視線を受け止めた。「気をつけて」 そう呟くと、ビビアンは頷いた。忠実な仲間か自分勝手に動く者かを見極めるジニーの能力について、あまり信頼はしていなかった。何といっても、自分は熱心なおべっか使いに過ぎないと思われていたのだから。

　ジニーが何も言わないうちに扉が開き、セファリッドの女性が現れた。金で飾られた藍色のトレンチコート。その衣服と帽子は、エルズペスがあの荷物を届けた常夜会のそれとよく似ていた。エルズペスの首筋の毛が逆立った。

「カミーズ」 ジニーの声には安堵があった。「ジェトミアの具合は？」

アート：Chris Rallis

「安定はしたけれど弱ってる。『源』を確保したんだね、やってくれると思ったよ。入りな、誰かに見られる前に」

「ありがとう、隠れ場所をくれて」 ジニーは中に入り、他の者たちも続いた。

「そいつらは？」 カミーズはエルズペスとビビアンを一瞥した。

「裏切り者よ――処遇はジェトミアに任せるのが一番いいと思って」

　入るとそこは受付らしく、机がひとつと椅子が幾つか並んでいた。カーテンの背後に藍色の絹地のテーブルクロスで覆われた正方形の卓が座し、その上には大きな水晶球とカードの束が置かれていた。カミーズが壁掛けを除けると、もっと広い隠し部屋へと続く扉が現れた。木箱や本棚には貴重な秘密が仕舞われているのは疑いない。ここは常夜会のスパイの休憩所なのだ。

「首尾よく行ったようだな」 ジェトミアは低い寝台に横たわり、舞台座の治療師が処置を行っていた。ジニーが近寄ると、その女性は脇に避けた。

「父様、御加減はいかがですか」

「心配をしすぎだ」 それは答えになっていなかった。離れていても、ジェトミアの瞳には生気がないのがエルズペスには見えた。宙には血の匂いが重く漂い、寝台の脇には血まみれの布が捨てられていた。これを乗り切るには、奇跡が必要となるだろう。

「ジアーダ、いらっしゃい」 ジニーはその少女へと手招きをし、備品を漁ると小さな瓶を取り出した。「お願いよ、彼を癒して」

　ジアーダはその瓶を受け取り、ためらいがちに目を閉じた。光が小さくひらめいてジアーダはふらつき、そしてジニーへと光素を差し出した。だがその瓶が相手の手に渡ることはなかった。

　入ってきた扉と裏口の両方が、同時に騒々しく破られた。そして前掛けと労働者の衣服をまとった喧嘩屋が十人ほども飛び込んできた。混乱が弾けた。

「土建組!?」 ジニーははっと振り向いた。苦々しい表情は瞬時に純粋な憤怒へと変わった。「土建組、この裏切り者！」

　ビビアンはその瞬間を逃さなかった。彼女は両の拳を丸め、弓を持つ用心棒へと旋回し、破城鎚のように腕を伸ばして顔面を殴りつけた。床に落ちた弓を彼女はすぐさま拾い上げた。手首を拘束されていて射ることはできないが、その弓で他の用心棒たちの額を殴りつけた。

　エルズペスは両手に力を込めた。手枷の周囲の大気が揺らめいたかと思うと、魔法が鍵を壊して床に音を立てた。その手を振るい、エルズペスは同じ魔法をビビアンにも向けた。彼女の手枷も同じように落下した。

「どこにそんな技を隠していたの？」ビビアンはそう賞賛し、倒れた男からエルズペスの剣を回収して放り投げた。

　エルズペスは鞘を受け止めて言った。「本当に必要になる時のために、なるべく隠しておくようにしているんです。その時が来たようですね」

「やっと本気で戦ってくれるのね。嬉しいわよ」 ビビアンは弓を握り直し、矢筒へと手を伸ばした。「ジアーダをお願い。私は道を切り開くから」

「ありがとう」 エルズペスは剣を抜き、前へと急いだ。ビビアンの矢から緑の光が閃いた。

　ジアーダはジニーとジェトミアに守られていた。ジニーは善戦していたが、貴顕廊の暗殺者と土建組の喧嘩屋が群がり、数で大きく圧倒されていた。

　この乱暴者たちはジアーダを殺そうと？ 「源」を奪いに来たのではなく？

　わざわざそれを確認する気はなかった。

　彼女は右へ駆け、鎚を振り上げた土建組へと剣を振るった。刃は相手の肩に命中し、鎚は床に落ちた。視界の隅で別の男が襲いかかってきた。彼女はその腕を受け止めて武器を取り上げた。足先でダガーを蹴り上げてその柄を宙で掴み、同時にまた別の攻撃を弾いた。三人目の突きを避けて肘を腹部に叩き込み、身体を引いて刃を突き出すと最初の相手の胸を刺した。

　だがこの部屋は狭すぎた。エルズペスは同時に複数人を相手にせざるを得ず、加えてジアーダに目を配っていなければならなかった。この娘を守ると約束したのだ、命尽きるその時まで。

　敵味方が激しく入り乱れ、失敗を犯すのは時間の問題だった。エルズペスは屈んで攻撃を避け、自分の剣を振るうために離れた。だが自分に向かってくる木槌に気付くのが遅れた。

　剣を振り上げたところで、それは彼女の胸を強打した。骨が砕け、肺が潰されるのを感じた。エルズペスは血を吐き出した。肩にダガーが突き立てられ、ジアーダの悲鳴が遠くに聞こえた。

　この寒気は知っていた。エレボスの、節くれ立って冷たい指が背骨に触れる記憶。その指が首筋に回され、最期の吐息が途切れる時を待つ。

　ごめんなさい、ジアーダ。貴女を守ろうとしたのに。

　視界が狭まる中、彼女にとどめを刺そうとしていた男が不意に倒れた。その作業着は、ビビアンがまとう深緑色の実用的なコートに取って代わられた。戦いの喧騒が遠くなる中、別の人影が近づいてきた。

　エルズペスの肩に腕が回され、彼女の上体を起こした。見覚えのある黒い瞳が心配そうに見つめてきた。

「ジアーダさん？」 エルズペスは瞬きをし、今見ているものを理解しようとした。

「これを」 ジアーダはエルズペスの口へと何かを押し込んだ。飲みこむ以外の選択肢はなかった。

　温かなものが身体の中に広がった。骨が動いて繋がり、傷が塞がった。見えざる手が彼女の壊れた身体を組み直し、ゆっくりと意識を修復し、エレボスの手を振り払った。世界がこんなにも明白に見えたことはなかった。その光は更に眩しく――

「ジアーダさん……」 エルズペスは少女の頬に軽く触れた。「輝いてます」

　ジアーダはわずかに驚きの表情を見せた。「これ、見えるの？」

「見え――」 それ、が何なのかを訪ねる余裕はなかった。ジアーダを取り囲むかすかなオーラ。

「こっち！」 カミーズが叫んだ。

　ジニーがジアーダを掴み、腕を引いた。「こいつらを助けたりしなくていいわ。逃げないと」

「待ってください」 エルズペスは再び立ち上がった。血管に光素がうねり、彼女は今一度素早さと力を取り戻していた。「一緒に行きます」

「どういうつもり――」 攻撃を避け、ジニーの怒りは途切れた。彼女は大声で罵り、エルズペスと倒れた貴顕廊の兵士たちを睨みつけた。「いいでしょう、ずいぶん喧嘩が上手なようだし。ついて来なさい、おかしなことをしようとか思わないことね」

　カミーズを先頭に彼女たちは裏道へと逃げ、土建組と貴顕廊が追いかけた。エルズペスとビビアンが最後尾を務め、攻撃を押し返した。やがて追う者はいなくなった。

「まいたようね」 ジニーが安堵の溜息をついた。

「急いで、こっちだ」 カミーズが扉を開くと、全員がほぼ完全な闇へと飛び込んだ。「常夜会の地下通路だよ」 登り坂を進み、ニューカペナの内部をくぐりながら彼女は説明した。「目撃されずに先回りするために使ってる」

「その常夜会は大丈夫だって言えるの？」 エルズペスの疑問をビビアンが代弁した。

「わからない」 カミーズの返答は素直だった。「だから動き続けるんだよ」

「どこへ向かっているの？」 ジニーが尋ねた。

「高街だ。常夜会の本部、雲頂。そこが無事でなければ、無事な場所など何処にもない」

アート：Sam White

高街の聖堂にて

　坂を上り続けながら、エルズペスはジアーダの手を掴んで軽く握りしめた。助けてくれてありがとう、エルズペスはそう呟き、ジアーダも壁の上にかすかに漏れる青みがかった光が見えていることを願った。少女は唇をわずかに歪めて微笑み、頷いた。エルズペスの手が離れても、ジアーダは自らの手を見つめ続けた。

　ジアーダは手首から腕輪を外し、ジニーとエルズペスを一瞥した。ジニーが前だけを見ていることを確かめると彼女はその腕輪を落として指さし、短く呟いた。「追跡の魔法」

　エルズペスはその腕輪を踏みつけた。ジニーがいかにして自分たちを見つけ出したのか、エルズペスと同じ疑問にジアーダも悩まされていたのだった。エルズペスの内に誇りがうねった。ジアーダは賢明であり、今まさに逞しく強くなりつつある。自らその腕輪を外したのも、一緒にいたいというジアーダの意志表示なのだ。機会が訪れ次第、彼女を再び連れ出そう。

　通路は行き止まりになっていた。

　カミーズは隠し扉を滑らせ、すると馴染みある高街の土の香りが彼女たちを出迎えた。眩しさにエルズペスは目を細めた。午後の陽光は既に陰りつつあり、まもなくニューカペナのような血の色に変わるのは間違いない。

「遠くはない」 カミーズは丹精に整えられた生垣を抜けていった。「行くよ」

　だがビビアンがそこで立ち止まった。エルズペスも、足音と武器の金属音を聞いた。

「待って下さい、罠――」

　ジアーダとジニーは既に角を曲がっていた。

「どういうこと！」 ジニーの叫びが聞こえた。

　ビビアンは弓を構え、背後から迫る常夜会の処罰者たちへと振り返った。エルズペスは彼女に背中を任せ、駆けた。

　その先では常夜会の処罰者たちが、更なる数で待ち受けていた。ジニーは既に彼らと戦闘に入っており、その足元では負傷したカミーズが這いながら離れようとしていた。欺きを知ったジニーの怒りが向けられたに違いない。

　全てが罠だったのだ。他の全てと同様に、常夜会にも「敵対するもの」の手が伸びていたのだ。あの隠れ家での戦闘は舞台座の他の戦力と分断し、罠へと誘い込むためのもの。とはいえカミーズも、エルズペスとビビアンがここまでついて来るとは想定していなかっただろう。

「今のうちに」 エルズペスはジアーダを掴んだ。

「でもジニーさんが――」

「ジニーさんは戦うことを選んだんです」 エルズペスはジアーダを勝ち取ったも同然だった。「逃げなければ死にます」

　ジアーダは応じた。

アート：Ekaterina Burmak

　ビビアンを後背に三人は公園を駆けた。隠れ場所を探す中、顔面や腕を枝が引っ掻いた。どうかひとつだけでも安全な場所を、不可侵の場所を。エルズペスは冷酷で薄情な神々へと無言で願った。やがて彼女たちは天使の彫像が支える近くの聖堂に繋がる道へと出た。

「あそこへ」 エルズペスはそう決め、控えの間へと駆け込んだ。足音がこだまし、彼女は歩みを緩めた。

　その聖堂は傑作の建築物だった。両翼へと続く側廊には天使の彫像が無数に並んでいた。天窓から光の柱が差し込み、薄暗がりの中で両手を掲げる天使たちを照らし出していた。

　エルズペスは数度瞬きをした。光の悪戯ではない。立ち並ぶ天使の彫像は自ら輝きを放っていた。まさにジアーダのように。まるで――

　彼女は自らの掌を見つめていた。以前もそうしていなかっただろうか？ そしてエルズペス自身も……ごく薄くではあるが、かすかな黄金の輝きを放っていた。

「聞こえます？」 ジアーダが囁いた。

「ええ」

　彫像全ての内からコーラスが鳴り響いた。それは聖歌隊席と通路にこだまし、厳粛な鎮魂歌が聖堂全体を満たした。音だけで言葉はなく、あまりに深い葛藤と苦痛から出でたそれはエルズペスの両目を刺すようだった。ソプラノがひときわ高く響き渡り、誰もが心の底から求める必死の希望を歌い上げた。

　それは温かさと優しさそのものだった。満たしながらも切望の止まない、それは……

「これは一体？」 エルズペスが囁いた。

「私の家族です。私のいるべき場所」 不意に全てを悟ったかのように、ジアーダが恭しく告げた。

アート：Eric Deschamps

　いるべき場所。不意にその言葉が意味を持った。謎めいた笑みを浮かべるジアーダと、エルズペスはしばし視線を交わした。少女は聖堂の天使たちのように輝きを放っていた。その姿そのものが、この場所に相応しく思えた、まるでひとつの欠片が、収まるべき場所にようやく収まったかのように。

「いるべき場所」 エルズペスは繰り返した。それは目的。私を必要としている人々を守ること。アジャニの言う通りだった。居場所とは、安住の地とは、決して場所を指すのではない。そしてエルズペスは初めて、自分の居場所を見つけたように思えた――目的を見つけたのだ。信じて守るべき誰かであり、何か。

　だが低い轟き音が聖堂に満ち、コーラスを遮ると騒々しい足音が続いた。エルズペスが振り返ると、角を生やした巨漢の姿があった。乾いた血の色をした被膜の翼がその背後に広げられていた。

　敵対するもの。

「私の後ろに隠れて、ジアーダ」 エルズペスは剣を抜いた。

「この我より、本気で逃げおおせられるとでも思ったか？」

「姿を見せてくれてどうも、オブ・ニクシリス！」 ビビアンは返答を待たず、一本目の矢を放った。

　オブ・ニクシリスは霊体の狼の顔面を拳で殴りつけ、それは鳴き声をあげて消えた。ニクシリスの背後に処罰者たちが群がり、ビビアンは更に二本の矢を放った。

「あの悪魔をお願い。他は私が。気を付けて、あいつは同類だから！」 ビビアンが叫んだ。同類、つまりはプレインズウォーカー。エルズペスは剣の柄に力を込めた。

「逃げるがいい」 ビビアンが離れていくと、オブ・ニクシリスは不機嫌にうなった。削ぎ落すような声。「手下どもと遊んでいるがいい、その後で貴様を苦しめてやろう」 彼はエルズペスとジアーダだけを見つめ、冷酷な笑みを浮かべた。自己満足。全てが自分を燃え立たせる火口であるかのように。「我を倒せるとでも？ あえて我に逆らう者がどうなるかを見せてやろう――それどころか、我が前に立ちふさがろうとするとは。『源』さえ手にしたなら殺してやろう。ひとりずつ、ゆっくりとな」

アート：Slawomir Maniak

　相手が放つとてつもない力をエルズペスは感じた。「ジアーダさん、もし状況が悪くなったら逃げて下さい。できる限りあの男を抑えますが、私がそうしている間に逃げるんです」

　オブ・ニクシリスはその体格に似合わない素早さで迫った。そのはち切れんばかりの筋肉では動きは遅い、エルズペスの推測は誤りだった。だが彼は翼でバランスを取り、恐るべき速度で突進してきた。

「なぶり殺しにしてやるわ！」

　エルズペスは身を守るための攻撃に集中した。相手を疲労させなければ。オブ・ニクシリスは力と速度で勝り、唯一の勝機はそれらを逆に利用することだった。

　隙ができるや否や彼女は突き、切りつけ、だがかすり傷以上のものは与えられなかった。煩わせ、苛立たせるには十分だが、減速も止まりもしない。手にした剣は大きすぎて振るいにくく、決定的な機会を待たねばならなかった。

　彼女の小賢しい動きに我慢の限界に達し、オブ・ニクシリスは力の爆発を放った。その勢いにエルズペスは吹き飛ばされた。石壁に頭を強打し、感覚の全てがぐらついた。吐き気がこみ上げた。

「ジアーダさん」 エルズペスは苦しい息を吐いた。顔を上げようとしたが、視界が更にちらつくだけだった。「逃げて」

「いいえ。逃げる場所なんてない」 ジアーダは宙に浮いていた。その姿はぼやけ、輝きを更に増していた。

　オブ・ニクシリスの轟くような足音が近づいてきた。低い笑い声がエルズペスの骨を鳴らした。「まずはお前を始末し、次に『源』だ。そしてもうひとりのプレインズウォーカー……その先に我を止める者はない」

「逃げて」 エルズペスは願うように言った。涙が浮かんだ。ジアーダと守ると誓ったのに。義務と目的を見つけたというのに、更なる失敗に行き当たるだけとは。

「もう私を気遣わないで、エルズペスさん。ここは私のための場所――家族に会えるんです」 ジアーダはエルズペスの隣に膝をついた。彼女はもはや物理的な実体ではなく、揺らめく魔法が輪郭を成していた。

　家族……かつてアジャニが、ダクソスが教えてくれたもの。ジアーダの言葉はエルズペスの奥深くにあった何かに火をつけた。先程自分を覆っていた光ほどにかすかな、ゆらめく希望の灯。オブ・ニクシリスの足音が停まった。「何を考えている？」

　ジアーダはエルズペスだけを見つめていた。「ありがとう、何もかも。私は答えを見つけました。今度は私が守ります」 彼女は顔を上げ、その姿は彫像の天使によく似ていた。「行きましょう」 見えざる相手へと、ジアーダは囁きかけた。

　光が辺りに満ちた。それはジアーダの身体から発せられ、オブ・ニクシリスすらその勢いに投げ出された。だがエルズペスは、いかにしてか無事だった。輝く光素を放つ姿へと変身するジアーダ、それをエルズペスは畏敬とともに見つめた。

アート：Eric Deschamps

　エルズペスはそれを吸い込み、皮膚にまとわせ、骨へと浸み込ませた。完全な調和を成すあの歌が戻ってきた。歌は正真正銘の、歓喜のクレッシェンドへと達した。不遜にも同じ名を抱く舞台座の祝祭、その悲鳴を上書きするかのように。

　うねる光は次第に弱まり、同時にエルズペスは身体を起こした。オブ・ニクシリスは屈みこみ、うめいていた。ビビアンや手下たちも仰向けに倒れていた。ジアーダの変身はニューカペナの全てを唖然とさせてしまったのだろうか、エルズペスはそう訝しんだ。

『エルズペスさん』 消えゆくコーラスの中、ジアーダの声が遥か遠くからかすかに届いた。その姿は消えかけ、だがそこにいるのは彼女だけではなかった。同じような輪郭の人影が幾つも、ジアーダを取り囲んでいた。『これを終わらせて、ニューカペナを救ってください。武器は貴女の手に。ずっと貴女と共にあり、貴女を追いかけ、貴女がそれを手にできる時を待っていたのです』

『私にその力はありません』

『あります』 ジアーダの声は力強かった。『過ちが貴女を決めるのではありません。諦めないで下さい。ずっと求めてきたものがもうすぐ手に入るのですから。戦うのです！』

　ジアーダの言葉に、アジャニのそれが重なった。時間と場所を越え、友は今も語りかけていた。エルズペスは瞼を閉じ、そっと溜息をついた。

　安住の地とは、義務。

　家族とは、守りたい人々。

　ずっと願っていたものは、この手の中にあったのだ。

　エルズペスは目を開き、立ち上がった。滑らかな動きひとつで、彼女は剣を振り上げた。その武器はもはや一本の不格好な大剣などではなかった。それは今や細身の剣となり、彼女の体格に相応しい長さと重さに変化していた。柄頭は飾り気のない鋼ではなく、鮮やかで目まぐるしい色彩に揺れる光素の宝珠だった。

　光素が刃に浸透し、その溝を走った。刃の中央から、その武器はジアーダと同じかすかな光に輝きだした。エルズペスは顔の高さに剣を持ち上げて刃を上に向けた。きっとどこかで、ジアーダがこの敬礼を見て変身を終えている。そして自分は誓いを果たすのだ。

　ニューカペナを守るのだ。

アート：Volkan Baga

　両手で剣を構え、エルズペスは駆けた。オブ・ニクシリスはかろうじてその斬撃から逃れた。だが同時に彼は片手を挙げてエルズペスを指さした。宙に魔力が凝集するのが感じられ、放たれたそれをエルズペスはぎりぎりで避けた。

　光素と目的に焚き付けられ、ジアーダから与えられた刃を振るう。エルズペスは強大な「敵対するもの」を相手に一歩も退かなかった。彼女の攻撃は熟練のそれで、確固とした目的を持っていた。

　昔の自分が戻ってきたようだった。いや、違う。かつての自分の動きではない。もっと強く、優れた者の動き。今の自分に比較したなら、昔の自分などほとんど何の意味も持たなかった。

　彼女が攻撃を当てるごとに、オブ・ニクシリスは冷静さを失っていった。彼は吼え、下がり、次なる攻撃のために手を振り上げようとした。だがエルズペスはそれを許さなかった。彼女は距離を詰め、相手の顎をめがけてまっすぐに突いた。

　寸前で彼は避けようとしたが、完全には間に合わなかった。刃が首筋を滑り、鋼が肉を裂いた。オブ・ニクシリスは声を上げ、だがそれは傷を悪化させるだけだった。彼は無益に傷口を押さえたが、指の隙間から血が流れ出た。次なる攻撃のため、エルズペスは刃を引いた。終わらせるためには、指の隙間を狙わなくては。

　だがオブ・ニクシリスはよろめいて後ずさった。大気が揺れ、彼を取り囲む全てを歪めた。空間が折り畳まれるように、オブ・ニクシリスの姿が認識の外へと崩れて消えた。一瞬の後、その姿はなかった。プレインズウォークしたのだ。

　オブ・ニクシリスが一瞬前までいた場所には今や何もなかった。エルズペスは罵りを呟きかけたが、後方からのうめき声が彼女を現実へと引き戻した。ビビアン！ エルズペスは出口へと急ぎ、友に手を貸した。ビビアンは頭部を撫でた。

「何があったの？」

「ジアーダさんが救ってくれたんです。けれどオブ・ニクシリスは逃げました。終わってなどいません」

終章――博物館にて

　エルズペスとビビアンは博物館への階段を上っていった。灰は既に掃除されており、それは驚くべきことではなかった。だが正面口の大理石には焦げ跡が残っていた。貴顕廊は博物館を元通りにするため全力を尽くしていた。

「お待ちしてましたよ」 数人の若者に指示を出していたアンヘロが向かってきた。一家の規模はずいぶんと小さくなってしまっていた。

「私をですか？」 エルズペスはベルトに差した剣、その光素の柄に軽く手を触れた。ここには戦いに来たのではない。だがザンダーの書庫を利用できるのかどうか、それを断られたなら引き下がる気はなかった。

「はい。あのクレッシェンドの夜、これが私のコートに縫い付けられているのを見つけまして。目を通してすぐに戻ったのですが、既に遅く……とはいえ、お陰でヴァントリオーネの殺戮から逃れられたんですが」 アンヘロは一通の封書を差し出した。ザンダーの印。エルズペスはそれを開き、読んだ。

　アンヘロへ

　長年の献身に感謝している。君は暗殺者としてだけでなく、人として素晴らしい。だが残念なことに、別れを告げなければならないようだ。

　貴顕廊は今や君の手にある。この長い夜の後は一家が新たな時代を先導し、それを君が導いてくれると信じている。私が長年をかけて収集してきた全ても、君を存分に支えてくれるだろう。一家を、君が相応しいと思うようなものにして欲しい。長い年月を経て、若き主が導く時が来たのだ。

　それと、あの娘はこの夜を生き延びるだろう。その件については微塵も疑っていない。エルズペスは私の書庫を求めてやって来るはずだ。閲覧を許可し、あまり多くの質問をせずにいてあげてはくれまいか。

　最後にこれだけを伝えたい。

　ありがとう。

　ザンダー

 

「私が戻ってくるってわかっていたんですね」 エルズペスはさらに二度目を通し、その手紙をアンヘロへと返した。

「ザンダー様は常に、ニューカペナで起こりうる物事を把握しておられました。誰よりも早く」 アンヘロは背中で手を組んだ。「こちらです」

　彼女はアンヘロの後について博物館内を進み、ザンダーの執務室に入った。隅のカーテンを引くと、ひとつの扉が現れた。アンヘロはその鍵を開け、ビビアンとエルズペスに入るよう促した。

「ザンダー様の書庫の収蔵物は、全てご自由にお持ちいただいて構わないとのことです。お時間は気にせずにご覧下さい」 アンヘロはそう言い、去っていった。

　ふたりはその日を捜索と情報収集に費やした。あらゆるページに目を通した。アンヘロは親切にも昼食を、そして街に夕闇が降りると夕食までも運んできてくれた。

　ザンダーの執務室に隠されて、カペナの歴史が記されていた。遠い昔、ファイレクシアンはこの次元への侵略を試みた。天使はそれを止めようとしたが、単独で対峙するには敵はあまりに強大だった。絶望の中、天使は悪魔王と同盟を結んだ。ファイレクシアンの脅威を前に、互いの敵対心などは些細なものだった。しかしながら、その敵対心は忘れ去られはしなかった。やがて悪魔は天使を裏切り、一種の機能停止状態に陥らせ、天使の身体をその精髄――光素へと変換した。そしてザンダーが語ったように、その力をもって街を守った。汚いやり方ではあったが、それは功を奏した。悪魔王たちは光素を用いてファイレクシアンを打倒すると、自らもまた姿を消した。

　鍵は光素だった。この次元ではそれがファイレクシアンを押し留めた……アジャニが求める回答かもしれない、とはいえ光素の供給量は減少しつつある。幸運にも、書庫には光素もまた少量が蓄えられていた。もしもの時のためにザンダーが貯蔵していたに違いない。そして今こそ、そのもしもの時であるように思えた。この光素と得た情報の全てを、アジャニとゲートウォッチへ持ち帰る。

　エルズペスとビビアンは並んで立ち、ザンダーがそうしていた場所で大窓の外を見つめた。何時間も、どちらも言葉を発していなかった。新事実と知識がその沈黙を満たしていた。

「ニューカペナは光素を巡って争い続けると思います」 やがてエルズペスが言った。「ほとんど使い尽くされようとしていますし、枯渇したなら人々は引き裂かれるでしょう」 しばし、彼女の心はジアーダへ、そしてジアーダとともに旅立った輝ける者たちへと浮遊した。この街に火急の時が訪れたなら、天使たちはニューカペナへと帰還して新たな時代を先導するのだろうか？ それとも何か別の、より大きなものへと去ってしまったのだろうか？

「この次元にあるのはひとつの街だけじゃない。ニューカペナの運命が自壊だというなら、その跡に自然が蘇るでしょうね。命は続いていく」 ビビアンの言葉は冷たくはなく、だが思慮深いものだった。街が滅びようとも、長い時が経てば栄えるものがある。それを主張したいのかもしれない。

「そうだとしても、背を向けることはできません」

「ここにいても、この次元の人々を守れはしないでしょうね。今やファイレクシアンは全てにとっての脅威なのだから」

「わかっています」

「けれど、戦うことはできる」 ビビアンはエルズペスの剣を、そしてザンダーが隠していた光素へと頷いた。「それに、ウラブラスクが信用できるなら……」

「何と言っていたんですか？」

　ビビアンは腕を組んだ。「革命ですって」 そして熱心に考えこむように、額に皺を寄せた。「新ファイレクシアで。それが彼らを止める突破口になるかもしれない」

　彼らを、あの法務官を止める。大修道士の、白磁の笑み――かつての牢獄、そしてファイレクシアンの首都がエルズペスの記憶に大きく浮かび上がった。ニューカペナから離れ、今一度あの金属の地獄へ向かう。コス、メリーラ、カーン……戻れば、自らの悪夢に再び対面することになる。また戦いになる。また戦争になる。

　私は強くなったのだろうか？ 心を決めたのだろうか？ 私の他には？ 安息だけを求めていた、けれど今、戦いから逃げられるわけがあるだろうか。ドミナリアへ戻り、学んだことをアジャニへと伝え、光素を見せ、自分自身もまた備える。

　まだ何もやり終えていないのだ。エルズペスは頷き、剣の柄にうねる光素のように決意が自身を焚きつけた。目的があり、守るべき人々がいるなら、その中で安住の地を見つけられる。選ぶべき最良の道はそれだ。

「行きましょう」 エルズペスは力強く宣言した。

「どこへ？」

　ビビアンはこのまま一緒に来てくれるようで、それは嬉しかった。戦いが迫り来るのであれば、強い仲間が何人も必要になるだろう。

「ドミナリアへ」 ニューカペナの都市風景に、エルズペスは背を向けた。「昔の友達と合流します」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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