MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 07

メインストーリー第4話:源

Elise Kova
elisekova_photo.jpg

2022年4月4日

 

博物館にて

 洗練され、入念に管理されたこの馴染みある広間は、ザンダーにとっては教会のように神聖なものだった。クレッシェンドを明日に控えたこの夜、彼は最後に今一度ここを歩いてその輝きを堪能すると決めていた。束の間の平和は去りつつあり、密告や想定の通りであれば、新年が到来する前に血が流される。

「私はこれが特に気に入っていてね」 ザンダーはとある彫像の前で足を止めた。赤子を抱く天使。「これを見るたびに、私自身の母を思うのだよ」その何かしらでも、覚えていれば良かったのだが。

「美しゅうございます」 アンヘロは主に調子を合わせた。自分の歩みについてくる彼の困惑をザンダーは感じ取っていた。アンヘロは時間を確認した。「閣下、クレッシェンドに間に合うにはもう支度を始めねばなりません」

 ザンダーは動かなかった。代わりに、その天使の温和な容貌を見つめ続けた。このような安らぎと平穏が、果たしてニューカペナに真に存在したことはあったのだろうか? 自分の人生に存在したことはあったのだろうか?

 彼は含み笑いをし、独り言を漏らした。「私も年老いて丸くなったものだ」

「いかがされました?」

「何でもない」 ザンダーは杖に両手を乗せた。指先を飾る黄金の鉤爪が金属に音を鳴らした。「クレッシェンドには君が向かい、私の代わりにエルズペスの様子を見てほしい」

 最後に受け取った報告によれば、彼女は舞台座への潜入に成功したという。だが「源」についてはまだ何もなく、それでもザンダーは彼女を心から信頼していた。エルズペスには何か特別なものがある。彼女は決してどこかの一家に真に収まりはしない、ザンダーは早くにそう感じていた。何かもっと大きな目的、その気配があった。だからこそ、書庫を彼女に解放すると決めたのかもしれない。

「出席されないのですか?」

「今年はな」

「ですが『源』は――」

「私はここに留まるべきなのだ」 ザンダーは部下の言葉を切った。

「ザンダー様、何に悩んでおられるのですか?」 アンヘロはザンダーの肘に軽く手を触れた。深い懸念が伝わってくるようだった。「今夜の閣下は本来の閣下ではないように思えます」

「心配のしすぎだ」 ザンダーはアンヘロの手を軽く叩いた。「私の名代としてクレッシェンドに向かうのが、君にとっての最高の務めだ。私の不在によって舞台座にわずかでも疑念を持たれてしまうのは宜しくない」

「何にせよ疑念は持たれるでしょう。私は貴顕廊の長ではありません」

「だが近いうちにそうなる」

「はい?」

「行け。その件については新年を迎えた後に話し合おう」 ザンダーは励ますように言った。アンヘロを自分の後継とする、そう明言したことはなかった。ずっと想定してはいたが、遠い未来のつもりでいた。だがもはや準備の時間はなく、アンヘロが相応しく成長していることを願うだけだった。「今夜はクレッシェンドに出席し、満喫し、何か奇妙な出来事があれば報告してくれたまえ。これは命令だ」

「本気なのですか?」

 ザンダーは再び彫像を見つめ、その動きを用いてアンヘロに気付かれることなく視界の隅を一瞥した。もう近い。「本気だとも。さあ、行くがいいアンヘロ。勝手口を使うのだ」 ほとんど誰も考えない、あるいは知らない裏口を。

「仰せのままに」 アンヘロは頭を下げて立ち去った。ザンダーは安堵の溜息を隠しもせず、それを見送った。

 彼は再び彫像を見つめ、待った。この長居しすぎた無常の世から旅立ったなら、母に再会できるのだろうか? この年老いた吸血鬼にしてデーモンに、「来世」へ向かう魂は残されているのだろうか?

 動きが、彼の黙想を終わらせた。

 ザンダーは振り返り、広間の先に立つ生ける影へと対峙した。薄闇に向けて彼は尋ねた。「遂に私を殺しに来たのかね、『敵対するもの』よ」

アート:Matt Stewart

クレッシェンドにて

 大皿を手に、エルズペスはヴァントリオーネのダンスホールに立っていた。ジニーは嘘をつかなかった。幾つかの些細な仕事を任された後――ザンダーが課したものと大差はない――彼女はエルズペスへとクレッシェンドの手伝い業務を与えた。

 接客係の一員として、エルズペスはあらゆる物事を見聞きできる良い場所にいた。それ以上に、誰にも見咎められることなく動けた。制服を着た給仕に注意を払う者はいない。柱から垂れ下がる旗や、その下部に置かれた植木鉢と同じく取るに足らない存在なのだ。

アート:Kasia 'Kafis' Zelińska

 とはいえ、完全に注意を払われてはいないというわけでもなかったが。

「エルズペス」 ジニーが近づいてきた。いつも通り、随員のようなキットとジアーダに挟まれて。「見つかって良かった。クレッシェンドは働き甲斐があるでしょう?」

「そんな言葉じゃ足りないですよ」 エルズペスは笑みを作った。

「まあ待っていなさい。本当のお楽しみはまだ始まってもいないのだから」 ジニーはエルズペスが持つ皿から自らチーズケーキをふたつ取ると、片方をジアーダへと手渡した。いつも通りその少女は無言のままで、その目は口では満たせない何かに飢えているようだった。

「キットさんの上演は見ました」

「で? どうだった? 詳しく教えてよ!」 キットは表情を明るくした。

「素敵でした」

「それだけ? 全然評論になってないんだけど」

「すみません。音楽には詳しくなくて、感想を表現する語彙が足りないんです」 キットをなだめられればと、エルズペスは励ますような笑みを向けてみせた。

「上演と言えば、ちょっと確認しないといけないことがあるの」 ジニーはジアーダへと言い、そしてキットへと向き直った。「もしよければ、手伝ってもらえない?」

「ジニーのために? もちろん」

「少しの間、ジアーダを見ていてもらえる?」 ジニーはエルズペスへと尋ねた。

 ジアーダは常に付き添いを必要とするほど幼いわけではない。この数週間、ジニーがジアーダを溺愛し甘やかす様子を彼女は見ていたが、ふたりの関係は未だ理解できていなかった。ジアーダが居心地の悪さを常に発していなければ、とても仲の良い姉妹のようだと思ったかもしれないが。

「大丈夫です」

「ありがとう。優しいのね」 ジニーはエルズペスの肩を抱くと、キットとともに立ち去った。

「もうひとついかがです?」 ジアーダへと皿を差し出し、エルズペスは尋ねた。

「いいえ、ありがとう」 つまり、話はできるのだ。「何か食べたら具合が悪くなりそうで」

「気分が良くないのですか?」 エルズペスは皿を引っ込めた。

「不安で」 ジアーダは頷いた。「すごく大切な上演があるんです。ジニーさんや舞台座、全員にとって」

「どんな上演なんです?」 エルズペスは何気なさを装って問いかけた。無害な質問、それ以上のものはない。

 ジアーダは横目で一瞥した。「すぐにわかります」

「ごめんね!」 ジニーが戻ってきてジアーダの手を掴んだ。「この次元を変えてしまう準備はいい?」 だがジアーダが返答する隙を与えず、ジニーはその手を引いて去っていった。

 懸念がエルズペスの内に渦巻いた。何かがおかしい。全身でそれを感じていた。そして貴顕廊の者たちがジニーとジアーダの背後で動く様子を見て、その感覚は確かなものとなった。吸血鬼たちの薄い色の瞳が主張するものを彼女は知っていた。血を求めている。

 直ちにエルズペスは控室へ向かい、皿を置いた。他の給仕たちが疑うような目を向けたが、ヴァントリオーネの広間へと急ぎ引き返す彼女を止める者はいなかった。

 ジアーダは既に演壇に上がっており、その背後にはジニーがいた。舞台座の男が四人、巨大な空き瓶を演壇へと手荒に上げるとジアーダの前へと運んだ。その瓶は巨大で、ジアーダの背丈ほどもあった。

「今年のクレッシェンドはこれまでと全く違うものになる、舞台座はそれを約束しておりました。さて、これよりその約束を果たしましょう」 ジニーが朗々と宣言した。

 エルズペスはコートに隠したナイフに手を触れた。ザンダーから貰ったもの。唯一の武器であり、給仕係の制服に唯一隠せたもの。必要とならなければ良いのだが。

 ジニーがジアーダへと何かを呟き、その少女は巨大な瓶へと踏み出した。彼女は深呼吸をして身構えた。何かの決意。そしてジアーダは両手その瓶に触れた。

 光が弾けた。

 誰もが驚きの声を上げた。エルズペスも同じく、眩しい光が残した青いもやの中でしばし瞬きをした。そして演壇へと視界が戻ると、群衆にざわめきの波が走った。エルズペスを含め、誰ひとり目の前のものを信じられずにいた。

 空の瓶は今や光素で満たされていた。小さな金色の泡が空色の底部から薔薇色の水面へと昇っていた。まるで夕闇が差し込んだような濃い色が内にうねり、光素特有のもやが瓶を取り囲んでいた。まるで凝集したその力は、ガラスの容器に閉じ込めることなどできないかのように。

 目の前の出来事、その恐ろしい真実がエルズペスの内に浮かび上がった。瓶がすり替えられたわけがない。大きく重すぎる。注いだにしても、あの短い一瞬でできるはずもない。

「皆さんが目にしているのは本物です」 ジアーダがかろうじて立ち上がると、ジニーは疑問を抱く群衆へと呼びかけた。少女は目に見えて衰弱し、わずかにふらついていた。「皆さん、これはトリックでも何でもありません。我々は無から光素を作り出したのです。これは新たな秩序であり、皆さんは最初の目撃者です――光素はもはや尽きることなく、先細る資源を溜め込むことももうありません」 彼女は強調するために言葉を切った。人々の高揚が伝わってきた。そしてジニーはジアーダを示した。「皆さん、こちらが『源』です!」

 群衆から歓声が弾けた。人々は資源を、道具を、全員を悩ませる問題の解決策を目にしたのだ。エルズペスに見えたのは、疲弊しきって囚われたひとりの少女だけだった。

 彼らの「新時代」は、ジアーダの命を代価として訪れるのだ。

博物館にて

 ザンダーへと近づく男には影が付きまとっていた。隙のないピンストライプのスーツの折り目、肩と胸を縁取る金属板の装飾、その全てに影が付きまとっていた。「敵対するもの」が背負う蝙蝠のような翼、それを取り囲む者たちが武器を抜いた。ザンダーにとっては、かつての随員と仲間たち。

 彼は苦々しい笑みを裏切り者たちへと差し出した。次は、彼ら自身の心臓を差し出す。

 配下に残る数人の忠実な幹部は既に切り捨てられた、それは疑いなかった。古傷と骨の痛みは忌々しいが、その礼はしてやろう。それが自分の最期になるとしても。覚悟はできている。何が来ようとも、戦わずして屈する気はない。

 かつての配下の暗殺者、その最初のひとりが迫った。

 ザンダーは具合が良い方の脚に全体重をかけ、片手を背後に、もう片手で杖を振り上げてその先端で受け止めた。暗殺者のダガーを跳ね返し、鋼と鋼が音を立てた。相手の吸血鬼は驚きに目を見開いた。

「私が与えたダガーではないか」 ザンダーはしかりつけるように言った。「最高の使い方を知らないものを私が与えたと思ったかね?」 手首を軽くひねり、彼は刃を離すと杖の持ち手を男の首筋へと叩きこんだ。粉砕音が響いた。

 もうひとりが迫りつつあった。ザンダーは杖の持ち手を前方に滑らせ、隠された仕掛けを親指で弾いて外した。鞘が外れ、仕込み刃の柄が現れた。ザンダーはそれを掴んで振り上げ、灰色の飛沫が辺りに弾けた。

 その死に乗じ、彼は博物館の内部へと撤退していった。他の暗殺者たちは既に追跡を開始しており、だがザンダーは誰よりも構造をよく知っていた。自分がこの場所を築いたのだ。その父であり、館長なのだ。

 ギャラリーを繋ぐ細い通路を利用して彼は挟み撃ちを防ぎ、ひとりずつ相手をしていった。だが技術で打ち負かせたとしても、ザンダーは老いていた。痛みは我慢できるが、全員を一度に相手するだけの体力はない。

 ザンダーは博物館のメインホールを横切った。叫びが響き、魔法の矢弾が彼のすぐ後を追い、大理石の床に焦げ目を残した。この石材を生産する採石場はもはや稼働していない。ザンダーのこの清純な安息所は今夜以降、決して同じ姿には戻らないのだ。

 彼は階段へと辿り着き、歯を食いしばって全力で昇っていった。暗殺者たちがその背後に急いだが、博物館を知り尽くすザンダーはかろうじて彼らの先を行った。扉を抜けると、高街の新鮮な空気が顔を撫でた。息もつかぬまま彼は振り返り、展望室へと続く扉を塞いだ。

 バルコニーは広くはない。小さな庭園に彫像が並び、博物館の収集品から選ばれたそれらはむしろ都市風景の素晴らしさを引き出すために配置されていた。ザンダーは息を整えながらその隅へと向かった。

 こよなく愛する眺め。

 力強い羽ばたき音が背後で鳴った。衝撃とともに「敵対するもの」が着地した。

「本気で逃げられると思ったか?」 その声は純粋な憎悪を低く響かせていた。「それもバルコニーとは!」 彼は高笑いを上げた肺一杯に空気を吸い込み、強調するように翼を大きく広げて。

「まさか」 ザンダーは振り返り、対峙した。「そちらが手下を雇っていなければ、正々堂々と勝負ができただろうがな」

「正々堂々? 馬鹿げたことを」

 ザンダーもそれは同感だった。彼は警告もせず飛びかかった。「敵対するもの」は素手でその剣を弾き、喜びに口元を歪めた。ザンダーはフェイントをかけて「敵対するもの」の手首から刃を離し、手をひねって顎の下を狙った――装甲に覆われた身体の、唯一露出した柔らかな部分。

 だが「敵対するもの」は更に素早かった。光素で増強されているのかもしれない。あるいはこの男は、ザンダーの想像を凌駕する邪悪なのかもしれない。

 「敵対するもの」は片手を挙げて指をさし、だがザンダーがそれを目にすることはなかった。

 魔法の発砲音が高街に響いた。だがよろめくザンダーが最後に耳にしたのは、信頼するその剣が、悪名の道具が、手から最後に滑り落ちて床に跳ね返る音だった。足が空をとらえ、彼はその下の雲の中へと落ちていった。

アート:Yongjae Choi

クレッシェンドにて

 歓声は悲鳴へと変わった。そこかしこで、飲み騒いでいた人々が一家の衣装や印章を投げ捨てて武器をとった。あらゆる一家に「敵対するもの」は侵入していた。

 ザンダーから貰ったナイフを抜き、エルズペスは人々の間を抜けた。演壇上の舞台座たちは光素の巨大な瓶を倒し、その貴重な中身は虹色の滝となってジニーの足元に流れていた。光素は沸騰するように泡立ち、新星とその輪のように弾けて消えた。

「ジェトミア!」 争乱の中でジニーが叫んだ。一方のジアーダは忘れ去られたように演壇の奥へと後退し、驚きを隠せないように手袋の手で口を覆っていた。

「ジェトミア!」 広間の中、少し離れた場所にジニーは目をとめた。その視線をエルズペスが追うと、角を生やしたレオニン、舞台座の支配者は追い詰められ圧倒されていた。ジニーは武器を抜いてその戦いへと飛び込んだ。ジアーダはその場に残された。

 衝撃と怒りがエルズペスの内を流れた。彼女はその感情を素早い突きに込め、襲いかかってきた相手を瞬時に無力化した。ジアーダは彼らのとても大切な「源」。その生命を舞台座と光素に捧げた。そしてどうなった? 見捨てられようとしている。確かにジニーは舞台座の工作員たちを残していたが、演壇へと急ぐ七人とやり合うには不十分だった。

 肘で突き、人々を押しやり、死体を跳び越えてエルズペスは血と混沌の中を駆けた。舞台座の護衛たちが全滅すると同時に彼女は演壇に上がり、ジアーダへと迫る「敵対するもの」の配下をめった刺しにした。彼女は止まらず、右隣の敵へとナイフの柄頭を首筋に叩き付けて倒した。左側の敵が殴りかかってきたが彼女はそれを見越しており、相手の手首を掴むとその動きを利用して指の骨を折った。そして旋回し、三人目の敵へとそのままその男を投げつけた。

「ジアーダさん」 高まる混乱の中、エルズペスは落ち着いて声をかけた。彼女はジアーダの隣に膝をつき、その瞳を見つめた。自分とは違う瞳。「私と一緒に逃げる気はありますか?」

 ジアーダは震えるように深呼吸をした。「はい」 前向き、そう聞こえるような彼女の声を聞くのは初めてだった。「裏口を知ってます」

 エルズペスは頷いて立ち上がり、うめき声を上げる攻撃者たちを肩越しに振り返った。更なる人数が演壇上のふたりに気付き、迫ろうとしていた。

「こっちです」 ジアーダはエルズペスの手を引き、彼女はすぐ後についた。ふたりは深緑色の緞帳を何枚もくぐり、舞台袖の奥深くへ向かった。分厚いベルベットがふたりの足音を吸収し、だが同時に追跡者たちの姿も隠していた。

 エルズペスは追跡者へと耳を澄ました。「伏せて!」 彼女は踵に体重をかけ、ジアーダの手を強く掴んだ。

 彼女はジアーダを抱き寄せ、肩で守りながら床に倒すと片方の手に持ったナイフで緞帳越しに切り裂いた。そしてジアーダを放し、立ち上がった。切りつけた感触から、命中を確信していた。そしてその通り、ダガーは男の腹に突き刺さっていた。

 一歩下がり、エルズペスはジアーダを突いた。「走って」

 怯えていたとしても、ジアーダはその様子を見せなかった。彼女は暗闇へと駆けこみ、エルズペスもすぐ後に続いた。舞台座にいた間に、もっと悪い目に遭ってきたのだろう。その考えにエルズペスは心からの悲嘆を抱いた。

 ジアーダはただの子供でしかない。それが一体どんな人生を? 良いと思えるようなことは果たしてあったのだろうか。この子は牢獄に囚われていたのだ。そこには柵も見張りもなく、そして華麗な衣服を身にまとっていたとしても。

「あっちです」 舞台袖に吊るされた緞帳の森から飛び出し、ジアーダは左を指さした。積み上げられた支柱と楽器のケースの間を縫い、エルズペスは彼女を追った。もう二人の男が追いついてきたが、エルズペスは素早く両者を片付けた。時間があれば、足跡を消すためにその死体を隠していただろう。だが今は動き続けるのが正解だった。ひとたび外に出て街中に向かえば、人々の中へと姿を隠すことができる。

 ジアーダはうめき声を上げ、舞台裏の重い扉を押し開けた。エルズペスも肩で力を貸した。長いこと使われていなかったらしく、それは大きく軋み音を立てて裏道へと開いた。

 だが二歩も進まないうちに、路地の先にいた手下たちがふたりを見た。蝶番の音で察していたに違いない。エルズペスは不運を呪った。別の出口を選んでいれば、出し抜くことができたかもしれないというのに。

アート:Bud Cook

「中からも来ます」 劇場を振り返り、ジアーダが言った。

「わかっています、離れないで」 エルズペスはナイフを構えた。これが槍か剣であったなら。

「二人逃げ出したようだな」 手下のひとりが言った。

「『敵対するもの』の命令だ、誰も生かしておくなと――悪いな、お嬢ちゃんたち」 別の手下が拳を鳴らした。

「増援を呼ぶか?」

「いらん。二人くらい俺たちで始末できる」

 手下三人が浮かべる笑みからエルズペスは判断した。彼らは自分を侮っている。「やってみなさい」

 不意に、背後のどこかで緑色の眩しい光が弾けた。魔力と涼やかな緑色の炎をまとった矢が放たれ、透明な狼が現れて咆哮を上げた。それは手下たちの背後に着地し、最初のひとりを地面に叩きつけた。その男は汚い言葉で罵り、振り払おうとしたが、霊体の狼は鉤爪を突き立てた。

アート:Olena Richards

「何だ――」仲間は言い終えることはできなかった。矢が更に二本放たれ、もう二体の狼が現れた。

 緑の獣たちは素早く仕事をし、その鋭い牙はエルズペスのナイフよりもずっと効率よく手下たちを片付けた。ジアーダはエルズペスにしがみつき、狼たちが彼女らに向き直ると半ば隠れた。だが緑色のもやの中から現れたのはビビアンだった。

「次に会う時、は意外と早かったわね」

「ビビアンさん」 エルズペスはほっと溜息をつき、ジアーダを見つめた。「仲間です。信頼して大丈夫です」 それは願いでもあった。

 ビビアンはわずかに驚いた表情を見せ、だがエルズペスの言葉を否定はしなかった。「伝えたいことがあるわ、この前の件で。とはいえまずはどこか安全なところへ行かないとね」

 エルズペスとジアーダ、ビビアンは裏道を下り、だが背後で劇場の扉が蝶番ごと弾け飛んだ。吹き飛ばされた扉とともに金属音がうるさく響いた。煙る出口からジニー、ジェトミア、そして舞台座の一団が進み出た。

「良かった、エルズペス」 ジニーが安堵の溜息をついた。「ありがとう、ジアーダを守ってくれて」

 エルズペスは小さく頷きながらも、じりじりと下がった。ジアーダも彼女に合わせるように後ずさった。エルズペスが一瞥すると、返答するように少女は懸念の表情を浮かべた。

 力ずくで演壇上に立たされるジアーダ。それを見た時と同じ怖れがエルズペスを満たした。

「こっちよ。劇場から出る隠し通路があるの。ジアーダをこちらへ」

 お断りします。明白で本心からの言葉が、エルズペスという存在の深淵から響いた。どんな状況であろうと、この少女を利用し監禁するような輩へと連れ戻させるわけにはいかない。

 とはいえそれを選択するのは、自分ではない。

 エルズペスはジアーダと目を合わせ、無言の会話を試みた。貴女の望む通りに。声に出しては言えず、だがそう伝わるように。ジアーダ自身の願いも知らずに舞台座に敵対するほど大胆ではない。貴女は何を望んでいるの?

 ジアーダはエルズペスの手を掴み、軽く引いた。この逃亡を開始した時と同じように。

「どこか安全な場所へ向かいます。落ち着いたら戻ってきます」 エルズペスはそう返答した。

「安全な場所というのは私たちのところよ」 ジニーが普段見せる陽気さは消えかけていた。その下にあるのは、ジェトミアの養女であり右腕という地位を得てきた女性。他人の血を流すことなく、ニューカペナでそのような地位に立てる者はいない。

「今は二手に分かれるべきです」

「ジアーダを渡しなさい」 ジニーが近寄ってきた。

 エルズペスはナイフの柄を握り締めた。ジニーと戦いたくはなかった。不親切な女性ではない、けれどジアーダを道具のように用いかねない相手。だが戦うか逃げるか、エルズペスが心を決めるよりも早く、緑色の矢が頭上に放たれた。

 それが弾けた時、狼よりも遥かに巨大な獣が姿を現した。鱗をまとい、この道を占拠するほど長い身体をくねらせたドラゴンが深緑色の炎から這い出た。力強い一対の翼は、近くの建物の屋上まで届いた。エルズペスはドラゴンの背中しか見えなかったが、十分に恐ろしいであろうその正面の姿を思うに、ジニーは自分たちにたどり着けはしないだろう。

 肩越しに振り返ると、ビビアンが矢を下ろした。緑色の矢羽根がその矢筒の中でくすぶり、彼女の側頭部に流れる編み髪を照らしていた。

「行く?」 ビビアンは少しにやついてみせた。

 三人は夜へと駆けていった。

博物館にて

「そう気取るな」 オブ・ニクシリスは両手から灰を払った。貴顕廊の強大なる主、熟達の暗殺者、名高きザンダー。だが今は、何の主でもなかった。足元に横たわるよじれた死体に、オブ・ニクシリスは鼻を鳴らすと唾を吐いた。見るも無残な姿。落下だけでなく、苛立たしいほどのしぶとさに対してオブ・ニクシリスがその憤怒をぶつけた結果だった。

「ボス」 ひとりの若者が駆け寄り、その殺戮を目にしてはっと立ち止まった。この若者は貴顕廊の一員だったのだ。かつて敬愛した暗殺者の無残な死体を見て何を思うのか、ニクシリスはそれを聞きたくもあった。

「どうした?」

「その……」 若者は息をのみ、ザンダーの死骸から目をそらした。「クレッシェンドの報告が入りました」

 若者の視線は揺れ、落ち着かない様子だった。つまり良い知らせではない、オブ・ニクシリスはそう察した。そして悪い知らせを受け取ったなら、まずはこの若者を少々苦しめて気分を中和するつもりだった。「結構。我が勝利を報告せよ」

「全員が配置につきました、命令通りに。そしてヴァントリオーネを速やかに掌握しました」

「だが?」 危険なほどに穏やかな声で、オブ・ニクシリスは続きを促した。

「ですが……」 オブ・ニクシリスの視線の重みに崩れそうになりながら、若者は言葉を探した。「『源』は逃走しました」

 オブ・ニクシリスは若者の喉元を掴み、宙に持ち上げた。若者は人形のように揺れ、無力に宙を蹴り、本能的にオブ・ニクシリスの手甲へと爪を立てた。「言え。全員が『いるべき場所』にいたのであれば、『源』はいかにして逃げたというのだ」

「そ、想定外の――別の、説明のつかない――」 若者は息を鳴らした。

 オブ・ニクシリスはわずかに掌握を強め、束の間夢想した。このまま力を込めれば、この若者の首は栓を抜くように弾け飛ぶ。だが彼は掌握を解いた。汚れ仕事をしてもらうために、この役立たずはまだ必要なのだ。若者は地面に落下し、傷ついた喉元をこすりながら空気を求めて喘いだ。

 ザンダーの死骸をオブ・ニクシリスは振り返った。彼は顔をしかめたが、それは自らがもたらした殺戮に向けてではなかった。違う。彼は自身に対して憤慨していた。何かを見逃したのだ。墓に向かった後ですら、ザンダーは自分を弄んでいる。

「問題ない」 彼は鼻を鳴らした。「探し出す、この街の全てを灰燼に帰そうとも」

「ボス、舞台座は完全に無力化され――」 もう四人の部下が博物館から飛び出し、苦しむ僚友から数歩離れて立ち止まった。「既にご存知でしたか」

「知らせは受けた、貴様らの失敗のな」 オブ・ニクシリスは言葉を絞り出した。「貴顕廊は掌握した。他はどうなっている?」

「ジェトミアは逃走しましたが重傷を負っています。あの猫が力を失えば、舞台座は崩壊するでしょう――そしてそうさせます」

「斡旋屋と常夜会は隠れ潜んでいますが、そちらも追い詰めています。土建組は完全に諦めて譲歩しつつあります。カルダイヤは戦いのさなかですが、すぐに掌握できるものと思われます」

 オブ・ニクシリスは拳を握り締めて首を鳴らした。「一家の長どもの首を寄越せ。全員だ。全員の首を持って来い。身体についているかどうかは問わん」

「『源』はいかがされますか?」 声に出して尋ねるだけの勇気を持つ、唯一の幹部が尋ねた。

「お前たち二人はジェトミアとジニーを追え。『源』の行方を知っている者がいるとすればそいつらだ。もう二人は捜索隊を組んで探し出せ。そして見つけたならば我がもとへ連れて来い。そうすればお前たちには永遠に尽きぬ杯と、家族にも何一つ不自由のない暮らしをくれてやろう」

ニューカペナの街角にて

 街は炎に包まれていた。五つの一家が抗争を始めたのだ。

アート:Nestor Ossandon Leal

 エルズペス、ビビアン、ジアーダはメッツィオの街路を駆け、鉄の階段を駆け昇って屋根へと上がった。

「ひとたび均衡が崩れたなら、物事はあっという間に制御不能になる。いつだって驚くほどそうなのよ」 息をつきながら、ビビアンは値踏みするように言った。

「どこへ行くの?」 ジアーダが尋ねた。

 エルズペスは必死に考えを巡らせた。この次元を訪れた当初の潜伏場所は今や燃えていた。無論、貴顕廊も選択肢にはない。

「考えがあります」 ザンダーから受けた二番目の任務を彼女は思い出した。「そう遠くないところに、使われていない倉庫があります。そこなら安全かもしれません」

「何でそんなに顔を突っ込むの」 エルズペスだけに聞こえるよう、ビビアンが小声で尋ねた。「本当の脅威は一家の反目じゃないでしょう」

「一家の争いはどうでもいいのです」 ジアーダに聞こえないよう、エルズペスは背を向けた。「ひとりの少女が危険な目に遭おうとしている、それだけです」 こんな扱いをされていいわけがない。囚われて何もできなかった幼い頃、自分のために戦ってくれる誰かがいたなら、何だって捧げていただろう。けれど誰もいなかった。ジアーダを守るのは、その円環を断ち切ることのように思えた。今も自分の魂の奥深くに存在する、怯えて囚われた少女に希望を与えるかのように。

「じゃあこの子の安全を確保して、解放する」 ビビアンは腕を組んだ。「貴女と私にはもっと差し迫った問題があるものね。私たちのような者じゃないと解決できないような」

 ビビアンが何を見つけたのか、エルズペスは尋ねたくてたまらなかった。だが今は我慢した。命からがら逃げる必要がなくなった時に、そうする時間はある。

「それでいい?」 ビビアンは尋ねた。率直、けれど薄情ではない。

「完璧です。ジアーダさんの安全を確保して、それから動きます」

「わかったわ。じゃあ、まずはその倉庫まで案内して」

「そうします。ですがその前に、私は貴顕廊の本部に戻らなくては」エルズペスは近くの梯子へと向かおうとした。「ナイフよりもいい武器が必要です。戻るまで、お二方はここで待っていて下さい。もし何かまずいことになったら、高街のあのベンチで合流しましょう」

「了解」 そのベンチというのが何処を指すのか、ビビアンは正確に把握していた。

「え?」 ジアーダがエルズペスの手を掴んだ。「私も一緒に行きます」

「それはいい考えとは思えません。貴女を別の一家の巣に連れ込むのは危険すぎます」 エルズペスは穏やかに言った。

 ジアーダはしばし思案し、そして手を放した。「そうですね。ビビアンさんとここで待ってます」

 大きな問題に遭うことなく、エルズペスは公共の昇降機のひとつへとたどり着いた。道中、彼女に襲いかかろうという過ちを犯した者が数人いたが、エルズペスは難なく対処した。

 博物館に近づくと、彼女は何かがおかしいと察した。正面玄関に衛兵が立っていなかった。入り口へと続く階段には灰が積もり、骨のように白く染めていた。「敵対するもの」の攻撃対象はクレッシェンドだけではなかったのだ。

 幸運にも、ザンダーの様々な収集品を記録した日々のおかげで、エルズペスはこの博物館を詳細に把握していた。彼女は側面の勝手口へ向かい、ナイフで鍵を叩き壊した。刃は使い物にならなくなった。これは何としても新しい武器を見つけなければ。

 暗闇の広間をエルズペスは這うように進んだ。死の悪臭が大気に満ちていた。悪意ある存在が敵の形をとって廊下をうろついている、それが感じ取れるようだった。姿は見えないが、決して遭遇したくはなかった。足音が聞こえるや否や彼女は身を隠し、繋がったふたつの部屋を通ってその音を避け、武器庫のひとつへと入った。

 どの武器を選ぶべきだろう? エルズペスは辺りを眺めた。ダガー、鞭、剣。だが人の声が上がり、彼女は凍り付いた。

「本当にその新入りなのか? ザンダーがずいぶんと目をかけてたっていう」

 エルズペスの内に不安が渦巻いた。その男がザンダーについて言及する様子、博物館の状態……ここで何があったのかはわかっていた。彼女は拳を握り締めた。

「その女っぽく見えた」

「最優先で捕まえろとのことだ。舞台座もその女は逃げたと言っている。『源』をさらって逃げた本人かどうかは関係ない、もう逃げ場はないんだからな。その女はもうすぐ死ぬ」

 今や彼ら全員が自分を追い、ふたりを先頭にしてこの武器庫へ急ぎつつある。彼女は決意を固め、武器の列へと向き直った。隠れ潜む、あるいは実力を隠すのは無意味だ。一本の剣が全て。

 どの剣が一番扱いやすいかを念入りに選ぶ時間はない。彼女は柄に手を触れた。このどれか一本が、ザンダーが最後の会話の際にほのめかしていたものだろうか。声は近づいていた。彼女は直感で一本を手にとり、夜の中へと駆け出した。

 男たちの口ぶりが示していた、彼女は容易い相手だと思われていると。

 全員に、それは間違いだと証明してやろう。

アート:Rémi Jacquot

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


//
  • この記事をシェアする

Streets of New Capenna

OTHER STORY

マジックストーリートップ

サイト内検索