MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 05

メインストーリー第3話:試練

Elise Kova
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2022年3月30日

 

博物館にて

 当初、その博物館こそが彼女の求める全てだった。それはニューカペナにそびえる摩天楼、高街の頂上に座している。アンヘロは彼女に「居室」を与えていた。新人のための、むしろ兵舎と表現すべきもの。だが彼女はほとんど気にしなかった。

 エルズペスは可能な限り人付き合いを避けた。貴顕廊に馴染もうとは思っていなかった。アンヘロは「一家の一員である」と言ったかもしれない、だがそのように感じたことはなかった。一家の争いは取るに足らないもので、手段も怪しい。エルズペスが関わりたいと思う類のものではなかった。

 けれどファイレクシアを止める方法を見つけるまでは、我慢できる。

 博物館の雑用をこなしながらも、心の最前列にはあのファイレクシアンの彫刻が居座っていた。その怪物のような姿はそこかしこで見られた。時に、戦天使たちの背景の影がただそう見えるだけなのではと疑いもした。だがその疑いを強めるや否や、今手にしているような絵画に出くわすのだった。影の中から鉤爪の手が伸ばされる中、翼のある人物が祈りを捧げている。

 エルズペスはその絵画を裏返すと、溜息とともに台帳に書き込んだ。出所の疑わしい芸術品の目録を作って、また一日が過ぎてゆく。求める答えに近づけないまま、また一日が過ぎてゆく。エルズペスは手袋をはめたまま、その華麗な額縁に親指を走らせた。ニューカペナの過去の遺物の中に、秘密が囚われている。けれど過去のカペナ人もまた足跡を残しておらず、彼女はこの遠い昔の謎を繋ぎ合わせる十分な情報に至っていなかった。

 だがそれを所持する者がいるとは知っていた。この博物館の館長。貴顕廊の長がこれらの遺物を集めているのは偶然であるわけがない。何かを知っている、だからこそエルズペスは貴顕廊に賭け続けていた。

「デーモンといえば……」

 閲覧室の扉が開かれた。入ってきたのは頭に角を生やした吸血鬼――貴顕廊の長、ザンダー。男性と女性がひとりずつ彼の脇を固め、主の抑えた声に耳を澄ましていた。

 館長にして貴顕廊の長とは、初めてここを訪れた時にごく短く対面していた。アンヘロから紹介があった後は、遠くから見るだけだった。関りは限られていながらも、エルズペスは確信していた。ザンダーはニューカペナとファイレクシアンの真実を把握している。そうでなければ、これほどの知識を抱え込んでいる意味はない。

 ザンダーの視線が彼女へと向けられた。熱心な視線を察したのは疑いない。エルズペスは目をそむけなかった。この数週間、顔を下に向けて言われた仕事だけをこなしてきた。だが裏方として忘れ去られ、博物館の簿記係として永遠を過ごすつもりはなかった。

「行け」 ザンダーは両脇の男女へと告げた。エルズペスにも届くほどの声で。「命令だ」 そして彼はエルズペスへと近づいた。

 エルズペスは埃っぽい木枠や黄麻布に包まれた彫刻、モスリンで覆われた肖像画の間を抜けてザンダーに対面した。そして小さく頭を下げた、礼儀正しく、相手の地位に相応しく、とはいえ卑屈にならないように。貴顕廊が重んじるのは忠実な兵であり、媚びへつらう者ではない。

「来たまえ」 ザンダーは強調するように杖で床を叩き、両手を覆うほどの袖に飾られたカフスが音を鳴らした。彼は閲覧室から出ると博物館の本館へと入った。「一家での暮らしはいかがかね」

「順調です」

「君についての不満は耳に入ってきていない。忠実で腕もよく、期待に応えてくれている。とはいえ更に上を目指してはいないようだが」

「私は学ぶために来ました。手を血で汚すためではなく」 彼女は率直に返答した。

「だが知識の対価とは、しばしば他者の血の中に見出されるものだ」 ザンダーの両目が輝いた。象牙の王冠のように彼の額を縁取る角、その一本を飾る黄金のように。貴顕廊の吸血鬼で角を持つ者は他におらず、つまりこれはニューカペナの吸血鬼種族内の多様性というわけではない。

アート:Dominik Mayer

「求める情報を得るためには、殺しをしろと?」

「今はまだそうではない」 ザンダーは独り言のように言った。「やる気のない者に命を取らせたなら通常、散々な結果となる。とはいえ私も慈善家ではない。君が今以上のものを欲するというのであれば、そのために働いてもらう」

 杖が大理石の床を叩き、博物館の広間にこだまを響かせた。天使の姿に彫られた柱が延び、その背中がガラス天井を支えている。この街の基礎部もこうなのだろうか。忘れ去られた創設者たちが力一杯、放蕩の寺院を支えている。

「何をすればいいのですか?」

「少しの仕事だ」 ザンダーは立ち止まった。「だが心して欲しい。君は一家の真の一員となる道を歩き出すことになる。貴顕廊の一員として生涯を過ごすのだ。従ってそれは君が真に求めるものなのかをよく考えることだ。そうでないならば……」 彼は博物館の正面玄関を示した。「今すぐ立ち去ってくれたまえ。誰も咎めはしないし、今後君を悩ませることもしない」

 エルズペスはザンダーと博物館の大扉に視線を往復させた。今ここで引き返すために来たのではない。それに、死すら自分を繋ぎ止められなかった。ならばザンダーも。彼が何を言おうとも、どこかに囚われるつもりはなかった。

 彼女はザンダーをまっすぐに見つめた。「やります」

メッツィオの街路にて

 鞄の中の小さな荷物が柔らかな音を立てた。開けてはならない、ザンダーがはっきりと言ってくれたのはありがたかった。中身が何なのかは知りたくもなかった。これを博物館からメッツィオのとある戸口まで運ぶ、それだけでいいのだ。

 とても単純。

 博物館前の乗降口から、エルズペスは昇降機のひとつに乗って次の発着所へと降りた。そこから更に下り続け、彼女はその間ずっと荷物を離すことなく抱えていた。だが誰も一瞥すらしなかった。

 何か妨害が入るのではという予想に反し、彼女は難なく目的地に向かっていた。大通りから逸れ、脇道を一本下り、その先の分岐を左に曲がり、裏通りを渡って、建物ふたつの間を……エルズペスはザンダーの指示を繰り返し、厳密にその通りに進んだ。

 派手ではない扉がその先にあった。深い藍色に塗られており、裏通りのくすんだ光の中ではほとんど黒色に見えた。取っ手のあるべき所には小さな印が描かれていた。掌に似て、扉よりもごくわずかに濃い黒で縁取られている。とても微妙で、そこにあると意識して探さなければ確実に見逃してしまうような。

アート:Muhammad Firdaus

 エルズペスは三度ノックし、すると扉は勢いよく開いてひとりの若い女性が現れた。傾斜した金属帽をかぶり、垂れたその先端は鼻先に触れるほどだった。両目がかろうじて見えた。その肩に揺れる煙から、サンダルウッドとオレンジの香りが漂ってきた、

 常夜会。彼らの洗濯物はいつも、ヘリオッドの寺院で焚かれていた香をかすかに思い出させた。あの世界の懐かしい記憶の痛みが蘇り、心にダクソスの姿が浮かび上がりかけた。彼女はそれを必死に振り払った。

 女性は無言で手を差し出した。エルズペスはその上に荷物を置き、迅速に立ち去った。

ザンダーの執務室にて

「約束通りに荷物は届いたと連絡があった。道中は問題なかったかね?」 彼女が執務室へ入るなり、ザンダーは尋ねてきた。

 豪華絢爛な博物館、だがザンダーの私室はそれを遥かに凌駕していた。頭上にシャンデリアが輝き、天井の廻り縁はむせび泣く天使と笑うデーモンの姿が華麗に刻まれていた。そして至る所に黄金がきらめいていた。

「全く問題ありませんでした」 配達が終わったとなぜわかるのか、そう尋ねるのは我慢した。まっすぐ帰ってきたというのに。とはいえザンダーにはザンダーのやり方があるのだ。それに、そう尋ねるためにここに来たのではない。「それでは、ニューカペナの歴史について教えて頂けますか?」

「そういった物事について議論するのであれば、最初から始めるのが良いだろう」 ザンダーはゆっくりと立ち上がった。左膝を少々かばいつつ、けれど杖は手にせずに。彼は私室の外でのみそれを使用していた。「我らが愛しきこの街は、信じられないような取引によって創設されたのだ。大天使と悪魔王が歩み寄って、な」

「天使と悪魔が協力を?」 エルズペスはザンダーの視線を追いかけ、スポットライトの下の絵画を見つめた。なるほど確かに、翼のある天使と角を生やしたデーモンが握手を交わしていた。

「敵の敵は味方と言うが、ニューカペナの設立当時、それは何よりも真実だったのだ」

「その敵というのは?」 エルズペスには見当がついていた。

「それはひとつの謎であり、私が今も追い求めているものだ」 ザンダーは額をこすった、遠い昔に忘れてしまった何かを思い出そうとするように。唇が無念に歪んだ。「途方もなく恐ろしい脅威であり、天使すらこの次元を守るために疲弊しきったという。当時の詳細は、参照するものによってしばしば異なっている」 ザンダーの両目が輝いた。「最も一般的に伝わっているのは、デーモンですらその戦いに加わらなければならなかったということだ。そしてその際、デーモンたちは五つの一家に接触し、それぞれの長と契約を交わし、彼らの名において街を支配させた」

 彼女の両目がザンダーの角に向けられた。その視線を見逃さず、彼は陰気に笑った。

「そう、私だよ。署名したうちのひとりであり、望んで半ばデーモンとなった。血の賜物に加えてね」

「つまり、創設以前から生きておられたのですね。ですが戦った相手を覚えておられないのですか?」

「契約に署名したのは遠い昔のことだ。年月と契約の魔法が私の記憶を歪めてしまった。それに凄まじい戦いが幾つもあったが、私は加わっていなかった……」 ザンダーの声はかき消え、彼はしばし物思いに沈んだ。「私が今も当時の記録を探し求める理由のひとつがそれだ――私をそっくり飲みこんでしまうような、記憶に空いた大穴を埋めるために」

 不憫に思い、エルズペスはこの件を追求するのを止めた。代わりに彼女は違う角度からの接触を試みた。天使は姿を消した、そう語るアンヘロの苦々しそうな様子を思い出しながら。「天使とデーモンが姿を消した後、その敵というのもいなくなったのですか? この次元の人々は勝利したのですか?」

「我々はまだこうして生きている。それが証拠ではないかね?」

 それはもっともだった。とはいえ、アジャニへと伝えるにはもっと確実な何かが欲しい。彼女が次の質問を発するよりも早く、ザンダーが口を開いた。

「今日はここまでにするのが良いだろう」 片手で額をこすり続けながら、ザンダーは執務机へと戻っていった。「次の命令を待ちたまえ。その後でまた話をしよう」

メッツィオの倉庫にて

 エルズペスは身体をひねり、感覚を取り戻そうと爪先を動かした。最初の三十分で足は痺れ、だが立ち上がらないことには感覚は戻ってきそうになかった。そしてこの場で立ち上がったなら、眼下の道路から動きを見られてしまうかもしれない。そのため選択肢はなかった。

『その密告者は日没から二時間ほどでキャバレーから出て、次の目的地へと向かう。誰がその密告者なのかは見ればわかる――我々の一員だ。君は目撃されることなく彼女を見守り、厄介事に巻き込まれないように計らってほしい』 ザンダーはそう指示していた。

 言われた時間から数分が過ぎた。だが舞台座の吸血鬼が現れる様子は何も――

 緑色に厚塗りされたキャバレーの扉が開き、ひとりの若い女性が膝丈のスカートを揺らしながら現れた。彼女は笑い声を上げ、中の人々へと手を振った。だが扉を閉じるや否や、その笑みは消えて表情が真剣味を帯びた。そして目的をもった足取りで街路を進んでいった。

 あの人物が、ずっと待っていた密告者だ。

 エルズペスは影の中に隠れながら、その女性を追跡した。建物の装飾から装飾へと軽い足取りで渡りながら、彼女は前方の光とそれが作り出す自分の影に集中した。密告者は不意に立ち止まり、エルズペスは彫像の背後でじっと動きを止めた。

 その吸血鬼は進む方向を変え、エルズペスは口をすぼめた。何かあったのだろうか? あの女性は避けるべき何かを、あるいは誰かを見たのかもしれない。

 エルズペスは追いかけ、建物を貫いて大型の倉庫へ繋がる短いトンネルを抜けた。「何処へ行くの?」 そう呟き、彼女は二つの建物を繋ぐアーチへと跳んだ。そして身体を低くして屋根の下を素早く駆けた。この倉庫を取り囲む建物内からは自分の様子が丸見えであり、明らかに怪しいのは疑いない。人目を避けるためには、早く道に出なければ。

 明かり取りの窓へ急ぎ、エルズペスは覗き込んだ。無人の倉庫内をあの密告者が横切っていった。今のところ何の問題もない。エルズペスは屋根の端へと駆けた。ほぼ滑らかな壁の建物ふたつの間に、細い路地がうねっている――こちらから追跡はできない。

 だが反対側はまた別の路地になっていた。

 何とかなりそうだ。

 エルズペスは倉庫の右側へ急ぎ、追跡相手に自分の存在を気付かれないよう注意深く進んだ。思った通り、密告者が向かう方角と平行に、別の細い路地が伸びていた。目にしたものが正しければ、建物の狭い隙間を抜けて迂回して追いつくことができる。

 彼女は石材の隙間に身体を押し込んだ。手足を壁に押し付けて身体を支え、エルズペスは注意深くかつ素早く降りていった。だが落ちないよう集中していた彼女は、甲高い鳴き声と素早い足音を聞き逃した。不意に、近くの隙間から荒々しい影が飛びかかってきた。

「ここで何をしてる?」 毛皮の口が鼻先でうなった。「新鮮な肉だ!」

「離れなさい、ネズミ!」 エルズペスは呻き声をあげてその生物を押しやった。ネズミとは言ったが、むしろアライグマに似ている。だがうなり声を前に、訂正している余裕はなかった。

「ネズミなんかじゃねえ、教えてやれ!」 ラクーンフォークはダガーを抜いた。路地は苛立たしいほどに狭く、接近戦は難しい。最初と同じような相手が三体、彼女に飛びかかった。

アート:Aaron Miller

 エルズペスはその刃を除け、相手の首筋を掴んだ。「そんな暇はないの!」 彼女は敵を掴んだまま旋回し、破城槌のように他のラクーンフォークへと叩きつけた。驚いたことに効果はあった。彼らが呆然としているうちにエルズペスは離れ、路地を駆けて低い壁を乗り越え、先程見ていた建物の隙間に飛び込んだ。

 密告者を見つめ、待ちながら彼女は耳を澄ました。ラクーンフォークは怒れる声を上げていたが、彼女が何処へ消えたかはわからないようだった。安堵の溜息をついてエルズペスは這い進み、密告者が通過した時は動きを止め、そして追跡を続けた。

 その後は何も起こらなかった。エルズペスは影の中に身を隠しながら進み、やがて密告者は立ち止まり、ある扉をノックし、待った。魔法が放たれてその扉が開き、不気味な紫色の光が中から漏れ出た。

 交わされた言葉は聞き取れず、だが敵対するような様子もなかった。その女性は招き入れられた。

ザンダーの執務室にて

「武器が必要です」 ザンダーの執務室に入るなり、エルズペスは言葉を飾ることなく告げた。

「何故だね。聞こうか」 ザンダーは普段通り執務机に座し、エルズペスが見たことのない古く大きな書物をめくっていた。彼女は長い時間をかけ、貴顕廊の博物館を出入りするもの全てを列記していた。そのため何か違うものは一目でわかった。特別なもの。それは執務室の近くのどこかに、秘密の書庫があるという噂を裏付けるものだった。恐らくそこからのもの。自分が探し求める真の宝物。

「ご存知ではないのですか?」 彼女は眉をつり上げた。

「一般的に信じられてはいるが、私とてこの街の出来事全てを知っているわけではないのだよ」 ザンダーは彼女へと顔を上げすらしなかった。

「ご冗談を」

「宜しい。私自身が正しく仕事をこなしている証拠だ」 彼はその本を閉じ、ようやく顔を上げて彼女と目を合わせた。「あの密告者は?」

「問題なく目的地にたどり着きました。私の方はそうではありませんでしたが」

「おや?」

「ラクーンフォークに襲われました」

「君にとっては何でもない相手だと思うがね?」

「私は無事です」 エルズペスは近くの椅子のひとつへと勝手に腰を下ろした。その厚かましさをザンダーは困惑ではなく面白そうに見つめた。「とはいえ次に暗闇から何かに襲い掛かられたなら、それほど幸運ではないかもしれません。自分の身を守るために、拳よりも良いものが必要です」

 ザンダーは指を立て、考え込むように彼女を見つめた。「我々の中で認められ、役職を得たなら武器を手にできる。それまでは自力で切り抜けることだ」 悪戯めいた笑みがザンダーの口元に浮かんだ。「鉄筋を見つけてそれを使うのはどうかね?」

 それが冗談なのか嘲りなのか、エルズペスは定かでなかった。彼女はそれを無視すると決め、代わりに告げた。「私は役目を果たしました。次は閣下の番です」

彼は含み笑いをし、首飾りの鎖をわずかに動かした。「仕事の話ばかりというのも何だ。今日は少し寝酒を振舞おう」

 ザンダーは執務机の引き出しから、一本の小瓶と二つの小さな酒杯を取り出した。瓶の中身はかすかに輝く液体で、その水面は陽光のように揺らめいていた。鮮やかな黄金色。かと思えば深い橙色に、そして真夜中のような深い紫色へとうねる。まるで宇宙そのものを蒸留して濾過し、その精髄だけを取り出し、液体でも固体でも気体でもない形にしたような――むしろ純粋な魔力の凝集、だろうか。

アート:Aleksi Briclot

「それは……」 彼女の声は途切れた。まるで神々の美酒を前にしたかのように。

「光素だよ」 ザンダーははっきりと言い、透明な栓を抜いた。瓶の先端から泡が溜息のように弾け、宙に輪を作り出して消えた。「長いことこの街にいて、未だ味わったことがないというのは気の毒だからね」

 彼はグラスの縁までそれを注いだ。それでも、わずかな一口以上の量はない。エルズペスは口元にグラスを近づけ、その不思議な液体を見つめた。一瞬の躊躇の後、彼女は飲みこんだ。

 温かい、そう感じるとは思っていなかった。ダクソスと共に過ごした、長く物憂げな午後のような。記憶と想像の中だけに存在する、感傷と郷愁のような。飲む、というよりは吸収だった。光素は力と目的で彼女を満たした。筋肉の疲労は消え去り、感覚が研ぎ澄まされた。けれど最も驚いたのは、魔力のうねりが内をうねり、解放を迫ったことだった。

「確かに、魅力的ですね」 そう認め、彼女はグラスを置いた。

「これを巡って人々が争うだけはある。我々もそうだ」 それは苦々しい現実であり、ザンダーの表情に影が浮かんだ。「光素は、天使たちからの最後の贈り物なのだよ」

「こんな素晴らしいものをどうして?」 仮説が心に浮かび上がり始めた。けれど確信に至るには更なる情報が必要だ。

「誰が知るというのかね? ニューカペナを永遠に続く壮大なパーティーにするため、かもしれないな」 ザンダーは含み笑いとともにかぶりを振った。彼自身、そのような説明は信じられないというかのように。

 エルズペスもそれは全く信じなかった。これほど強力で貴重なものは、ただ楽しむためのものではない。目的があるに違いないのだ。そして彼女は推測し始めていた。その目的とは、ファイレクシアンを打倒するためかもしれない。

高街の中央にて

 今夜の仕事は簡単なものだった。光素の瓶が胸ポケットに温かく感じた。単に持つだけで温かいのか、それとも飲んだ時の感覚を思い出してなのか。これを高街の緑地帯にある待合場所まで運び、置き、立ち去る。疑問は持たず、居残りもしない。行って、帰る。

 これまでザンダーに与えられてきた任務に比較すれば、簡単極まりない。ただの公園の散歩。

アート:Olga Tereshchenko

 それでも、彼女は妨害がないかと目を光らせていた。時間は真夜中でうろつく人々は僅か、だが警戒すべきように見える相手はいない。エルズペスは余裕をもって暗く人気のない道を選び、指定の場所へと向かった。

 事前に聞いていた通り、公園のベンチの足元に、忘れ物のように茶色の紙袋が置かれていた。彼女は辺りの茂みや木々を素早く見渡し、近づいた。

 エルズペスがその紙袋に手を伸ばした瞬間、彼女の手首を何者かが掴んだ。

 驚いてその手から顔を上げると、翠玉色の瞳と目が合った。人間の女性。髪の半分は黒く、もう半分は白で側頭部にきつく編み込んでいた。ザンダーのように整った服装、とはいえもう少々実用本位だろうか。その衣服が抱く矢尻模様をエルズペスは見逃さなかった。なるほど、背の矢筒とそして包みの中の弓らしきものがその女性の脇に見えた。

「誰が回収しに来るのかと思って」 冷静で低い声だった。

「先ほど、これを置き忘れて」 エルズペスはそう答えた。この女性は、自分が運んだ光素を回収する者のようには見えなかった。何かが違うように思えた、他の……ニューカペナの人々とは。この女性は、他にはない自然の生命力を響かせていた。

 そうか。自分と同じ、プレインズウォーカーなのだ。

「嘘つかないで」 その女性は笑顔を浮かべた。「そんな仕事に向いてるようにも見えないし」 その両目がエルズペスへと閃いた。貴顕廊の気配を察しているのは疑いない。「どこかの一家の仕事に向いてるようにも見えないしね」 意見を述べているというよりは、知りたがっているような口ぶりだった。

 エルズペスは小さく笑った。「私には私の理由がありますので」

「それはわかるわ」

「私、この次元の歴史を学びたいんです」 情報を与えた方が、得るものは大きいと彼女は判断した。同じプレインズウォーカーであれば、助けになってくれるかもしれない。あるいはこの女性はニューカペナの歴史について既に何か知っているかもしれない。

「どうして?」

「ここに落ち着けるかもしれないので」 彼女は柔らかく言った。かもしれない、けれどそうはならないだろう。地下に隠れ潜む少女時代から、心に思い描いていた安住の地は存在しそうにない。自分は永遠にさまよい続けるのだろうか。「それよりも。脅威が迫りつつあって、その情報を手に入れようとしているんです」

「それは間違いないし、どうやら動機は同じのようね。そうそう、私はビビアン」

「エルズペス、です」 偽る理由はなかった。人を見る目はあると信じており、ビビアンは信用に値すると感じた。

「誰のためにその情報を集めてるの?」 ビビアンが尋ねた。エルズペスが返答を考えている間に、ビビアンは続けた。「当ててあげる。ゲートウォッチ?」 その名が出たことで、エルズペスはビビアンをまっすぐに見つめた。

「ビビアンさんも、そのためにここへ?」

「元々は違うけどね。何が起こっているかは知っているでしょう。もしかしたら――」 そこでビビアンははっと顔を右へ向け、その先を睨みつけた。「貴女を追っていたごろつきが近づいてくるわよ」

 自分の居場所や状況をザンダーは常に把握していた。驚くべきことではない。彼は監視を送り込んでいたのだ。

「私はさっさと退散するのが良さそうね」 ビビアンは手を放した。「けどその脅威について、ちょっと教えてあげられることがあるかも」

「本当ですか?」 声を落とし、エルズペスは一歩踏み出した。あまり多くのことはあえて言っていないのに。

「気になるかもしれない手掛かりがあるのよ。一緒に来てくれれば――」

「それはできません」 エルズペスはそう即答した。「昔、ニューカペナの人々がどのように――」彼女は「ファイレクシアン」という言葉を避けた。「――その脅威を打倒したかを調べているんです。その情報が手に入るまで、ここを離れることはできません」

「わかったわ」 ありがたいことに、ビビアンはその件を追及しなかった。もう少しの時間が必要だった。アジャニからの要請だけでなく、自分自身のためにも。「私ももうちょっと探ってみて、何か情報が入ったら伝えるわね」

「どうして私を手伝ってくれるんです?」 ニューカペナに来てもう長くなる。見知らぬ者がただの善意で手を差し伸べてくれるというのは、怪しく思えるようになっていた。

「この次元の問題にはまり込む前に、詳しいことを確認した方がいいわよ」 ビビアンは重苦しい声色で告げた。「次に会う時までにね」

「それはいつになります?」 声を上げないように、エルズペスは尋ねた。

「価値のあるものが手に入った時に」 ビビアンは小さく頷いてみせた。「会えて嬉しかったわ」

 ビビアンの周囲で草木が動いたように見えた。彼女のために、今までそこになかった道を作り出すかのように。魔法だろうか? あるいは彼女の動きが見せるトリックか――確固として、躊躇がない。

 ザンダーの手下が向かってくる音が聞こえた。エルズペスは屈みこむと、紙袋の中に光素の瓶を置いた。そしてうつむいたまま、博物館への帰路についた。

ザンダーの執務室にて

「遅くなりました」 彼女はあえて正直に言った。何せ追跡されていたのだから。

「問題ない」 ザンダーは執務机の背後、高い窓の前に立っていた。大型の猛禽類のよう、エルズペスは彼をそう評するようになっていた。彫像のように静か、けれど獲物を目にしたなら、たやすく空から死を降らせてのける。

「お待たせしてすみませんでした」 彼女はザンダーの隣で立ち止まった。

「君と話し合いたい重要事項がある」 微笑みを唇に浮かべ、ザンダーは彼女の様子を一瞥した。「それと繰り返すが、帰還が遅れた件は問題ない」

 彼女はそっと笑い、かぶりを振った。この場所も、ここの人々も、完全に理解することはできないのかもしれない。そして物事についてザンダーと完全に意見が一致することも、果たしてあるのだろうか。だが彼は常に親切であり、エルズペスはいつのまにかこの老いた哲学者にして暗殺者へと意外な仲間意識を抱いていた。いや、仲間意識というほど近しくはない……ならば理解、だろうか。

「その重要事項というのは?」 エルズペスは尋ねた。遅刻の原因にザンダーは興味がないらしく、それはありがたかった。

「『敵対するもの』は知っているかね?」

「その名前は聞いたことがあります」 宿舎で数度、その曖昧な名前が囁かれるのを聞いていた。常に小声で。まるでその名前を大声で発したなら、呼び寄せてしまうかのように。

「この街の構造そのものへの脅威だ」 ザンダーは窓へと身振りをした。建物が並ぶ尖った光景が、月光に淡く一様に照らされている。「五つの一家に均衡が、理解があるからこそニューカペナは平和なのだ。尊敬と信頼、そして協調性のある競争意識が」

「協調性?」 エルズペスは眉をひそめた。

「誰もが他の誰かの予算内で動いている、とでも言おうか」

アート:Dominik Mayer

「そんなやり方で秩序と構造を作り出すなんて」

「君の好みではないかもしれないが、実際に機能している」 ザンダーは両手を杖に乗せた。「我々は混沌から秩序を創造した。人々が頼りとし、その内で繁栄する構造を……それと同時に少々の楽しみを」

「楽しみ」 小声で、エルズペスは冷たく言った。

 ザンダーは聞いていた。「そう、楽しみだ。君もこの人生を少々楽しむといい。スリリングだよ――その頂点にいる限りは」

「期待しないでください」 エルズペスは無感情に答えた。

「そうだろうな、気にしなくていい」 彼は一瞬笑みを見せ、だがその表情は直ちに重苦しいものへと戻った。「『敵対するもの』は全てにとっての脅威だ。あの者は光素の取引を妨害し、我々が長年に渡って保ってきた均衡を揺るがしている。人々が光素を欲するからこそ秩序があるのだ。『敵対するもの』が光素の大半を手にしたなら、残る我々は僅かな量を巡って争うだろう。それは戦争を意味する」

「そのために私に何をして欲しいのですか?」 彼女は要点を迫った。

「君は有能で機知に富み、賢く、勤勉だ。そして、恐らくこれが最も重要なのだが、この街でまだ顔を知られていない。心配いらない、『敵対するもの』と戦えというのではないよ。君には舞台座に潜入してもらいたい」

「舞台座がそれと何の関係があるのですか?」

「舞台座は『敵対するもの』を出し抜く手段があると主張している。『源』、彼らが持つ無尽蔵な光素の供給源だ」

「それを盗んで来いと?」

「いや、言うまでもなく違う。その噂が本当なのかを確かめ、そしてそうであったなら『源』が何処に仕舞い込まれているかを調べ、鍵を開けておいて欲しいのだ。そこから先は私の仕事だ」

「本気なのですか?」 ザンダーの濁った瞳を見つめ、エルズペスは尋ねた。「一家の間の均衡を乱すことになりませんか?」

「君が正しく仕事をこなし、貴顕廊への忠誠を秘していれば、舞台座は何も気づくまい。だが私の策謀を察知される危険は承知の上だ。時代は変わり、今は窮余の時だ。古いやり方に固執していたなら、私はそれらとともに死んでしまうだろう。戦争となれば、真っ先に狙われるのは私だ」 静かな、かつ極めて真剣な口調だった。「ああ、ところで……」 ザンダーは執務机に置いた一本のナイフに手を伸ばした。貴顕廊で使われているものと同一ではない――持ち手が刃と並行についているものではなく、ごく一般的な形状。それでも上質で実用的な武器だった。「これを君に」

「ナイフですか」 彼女はそれを受け取った。

「君は武器を欲した。そしてそれに見合う働きをしてくれた。我が貴顕廊が重用する者としてね」

 この一家の中で地位を求めていたわけではないが、自分の働きが認められた嬉しさと誇りが胸の内にうねるのがわかった。「ありがとうございます」

「感謝は更なる働きで示してもらおう。首尾よく行ったならば、戻ってきた時にもっと素晴らしい武器を贈ろう」

「そうします。ですが戻って来た時には……」

「ふむ?」 彼はエルズペスの決断を常に面白がっているようだった。

「武器はいりません。閣下の書庫への閲覧許可を頂きたいのです。この重要な役目を閣下のために果たします、そしてもう小出しの情報ではなく、全てが欲しいのです。『敵対するもの』以外にも、大いなる脅威が迫りつつあります。私が求める情報が頂けるのでしたら、その脅威というのが何者なのかをはっきりさせられるのです」

 ザンダーは彫像のように無言だった。だが彼が自分を見積もっているのが、肩の重みのように感じられた。ビビアンとの会話は聞かれていたのだろうか。その情報を他者に伝える可能性を知っているのだろうか。

「良いだろう」 やがて、ザンダーは言った。「役割を果たしたまえ。そうすれば我が書庫の知識は全て君のものだ」

「ありがとうございます」エルズペスは退出しようとし、だがザンダーは彼女を止めた。

「おや、まだ終わりではないよ」

「はい?」

 ザンダーは楽しむような笑みを広げた。「そのような装いで舞台座のキャバレーに向かうつもりかね?」

エピローグ――キャバレーにて

 エルズペスは右肩にかけたケープの羽根を正した。ザンダーがこの衣装を見繕い始めてからキャバレーにたどり着くまで、彼女の不安は途切れなかった。仕立ては申し分なく、金属の装飾は彼女の胸や肩や腰にぴったりと合い、その下の絹地を守っている。けれど最も印象的なのは恐らく、網状の長靴下に似せて脚を守る具足だろうか。額の小環は女王のような気分を感じさせ、ザンダーが指定したキャバレーに入るための自信をくれた。舞台座が新人を雇い入れるための場所。

アート:Anna Steinbauer

 混み合った部屋を素早く見渡し、エルズペスはバーカウンターへと直行した。

「光素かい?」 バーカウンターの先でエルフが尋ね、舞台座の紋章が飾られた小さなナプキンを置いた。

「そうじゃなくて、仕事を探してきたんです」 何気なく言うよう彼女は務めた。

「ここに仕事はないよ、あるのは光素だけだ」 エルフはくすくすと笑った。

 早くも上手くいっていない、エルズペスはそう感じた。彼女は咳払いをし、異なるアプローチを試みた。「クレッシェンドがもうすぐで、舞台座は人手を必要としているに違いありませんよね。私、舞台座で働きたくって。本気です」

「私がそれを決められるって思ってるのかい?」 疑うような返答だった。

「決められる人をご存知ですよね」

「顔も知らない余所者のために、何で私が危険を冒さなきゃいけないのさ?」 バーテンダーはエルズペスの隣に立ったレオニンに素早く顔を向けた。「いつものかい、歌姫さま?」

「よくわかってるじゃない、ロッコ」 楽譜から顔を上げもせず、そのレオニンは言った。分厚い羽根の袖飾りとガウン大きな襟が邪魔にならないのだろうか。「出番が来る前にリラックスしたくて。ちょっとでいいわよ」

「はいよ」 エルフは指先ほどの光素をその歌手に差し出し、戻ろうとした。

「仕事を――」 もう一度エルフの注意をひくため、エルズペスは声をかけた。

 ロッコという名のそのエルフは彼女を一瞥した。あんたは一体何? 視線でそう告げると、ロッコは即座に立ち去った。

 エルズペスは唇を噛み、手袋の縫い目をそっと摘まんだ。直接的すぎた? 前のめりすぎたのだ。だから――

 隣のレオニンが声をあげて笑い、少ししてエルズペスは自分が笑われていると気づいた。「ずいぶん必死に仕事探してるのね?」 その声は感情豊かで、まるで歌のようだった。

「どちら様です?」 エルズペスは苛立ちを抑えようとしたが、上手くいかなかった。

「私を知らないなんてことある?」 彼女はきらめくドレスのスパンコールを手で撫でた。「聞いたことあるでしょう、素晴らしき歌姫キット・カントの名前を」

「ごめんなさい、あるとは言えません」 答えてすぐエルズペスは訝しんだ。キットの自尊心のためには嘘をつくべきだっただろうか。

 幸運にも、キットにそう狼狽したような様子はなかった。「じゃあこれから本物の興奮に出会えるわよ。もう一時間もしないうちに私の出番が来るから、ええと、何さん?」

「エルズペス、です」

「エルズペス? 本当に?」

「はい」 何故、キットは自分の名前に反応したのだろうか? エルズペスにはわからなかった。

「なら、いいからとにかく私と来て。その名前に絶対に食いつく人がいるのよ」 キットの先導に、エルズペスは渋々ついて行った。キャバレーの壁に並ぶ扇形の小部屋、そこに女性がふたり座っていた。

「キット、その人は?」 ふたりのうち年長の女性が眉をつり上げた。その前の卓に丸くなる犬も同時に顔を上げた。

「貴女が言って」 キットはふざけたようにエルズペスを突くと、長椅子に滑り込んだ。

「エルズペスといいます」

「エルズペス」 先ほど問いかけた女性が、面白がるように繰り返した。「墓場以外でその名前に会うのは初めてね。現代にようこそ、お人形さん。いいドレスじゃない、名前とは違って全然古臭くなくって。私はジニー」

 ジニー。舞台座の長の右腕。幸運がエルズペスに微笑みかけているように思えた。

「お会いできて光栄です」 エルズペスの視線は卓についたもうひとりの娘へと移った。彼女はもうふたりに比較して軽装であり、衣服はその体格に対して大きすぎた。まるで内にある何かを隠すように。

「この娘はジアーダ」 膝の上で喉を鳴らす猫をそっと撫でながら、ジニーが言った。

「よろしく、ジアーダさん」 エルズペスは彼女に向けて声をかけた。ジアーダは頷いただけだった。

「エルズペスは仕事を探してて、クレッシェンドを手伝いたいんだって」 キットが説明した。「で、ふたりとも気に入るんじゃないかって思ったのよ。そんな名前でこのファッションセンスの娘、接客係に入れると良さそうじゃない?」

「そういう事なら、貴女はだいたい私よりもセンスは良いものね」 ジニーは頷き、エルズペスを見た。「働きたいというのは本当?」 エルズペスは頷いた。「それなら、幾つか仕事をあげられると思う。上手くやれたなら、クレッシェンドに向けて舞台座の一員になれるかもね。言っておくけれど、きっと見逃せないパーティーになるわよ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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