MAGIC STORY

ニューカペナの街角

EPISODE 02

サイドストーリー:契約破り

Tobias S. Buckell
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2022年3月28日

 

 ペリーのような者は、一見して「乱暴者」だと考えられがちである。だが斡旋屋一家の階級を昇るペリーにはただの喧嘩ではなく、より面白い仕事や複雑な戦いがあてがわれてきた。ケーブルのように太い首の筋肉の上に、巨大な頭が乗っている。その内に宿る精神を見逃してしまうのは、想像力の欠如によるものだ。

アート:Joshua Raphael

 ペリーは分厚く高い襟の端を上げ、ベルベット張りの薄暗いラウンジに渦巻く囁きを無視した。「斡旋屋……処罰者だ、気をつけろ……ジュナシュ、ここを離れた方がいい」

 光沢のあるマホガニー材の枠に角を引っかけないよう、ペリーは身を屈めて扉をくぐった。分厚い詰め物が貼られた扉を背後で閉め、彼はラウンジを見渡した。ジュナシュを探しているのではない――萎れた翼を悲しく背負った、取り立て屋のエイヴンだ――ペリーがここに来たのは、クレントと呼ばれるけちな喧嘩屋を探すためだった。

 隅には警備員が立っていた。レオニンが二人。その真鍮製の眼鏡が紫色の光を反射した。ラウンジの隅から隅へと張り渡された、魔法で紐へと縒られた液体が発するものだ。警備員たちの毛皮に覆われた耳がペリーに向けられた。寛いでいる、けれど油断はしていない。

 ペリーは彼らへと頷いてみせた。筋肉と筋肉。ここに来たのは捜索のためであり、揉め事になるためではない。だが左側の警備員はペリーを認識した。その耳が低くなり、牙をむき出しにした。

「おいおい、やめてくれ」 ペリーへ低い声を轟かせた。「それは良くない」

 ここメッツィオでは、ラウンジは中立地帯とされている。どんな一家にも、解放されて気を抜くための場所が必要なのだ。とはいえほとんどのラウンジを取り仕切っているのは舞台座なのだが。

 つまり、ここは中立地帯のようなもの、だろうか。

 ペリーは訝しんだ。舞台座の用心棒が本気で斡旋屋の処罰者に襲いかかろうと?

 どうやらそうらしい。ラウンジでは人々が顔を紅潮させ、足を軽快に鳴らしながら満面の笑みでダンスに興じている。レオニンたちは二手に分かれると、彼らの間を縫うように近づいてきた。

 ペリーから見て左側のレオニンがバイオリンを取り出した。仕込み武器だ。弦が光をとらえ、赤い揺らめきが走った。

 何かがおかしいと感じつつある人々の中、一瞬、三人だけの空気がそこに流れた。そびえ立つ、猫に似たレオニンが二人。そしてペリー。ロウクスであり処罰者、灰色の皮膚の巨体。小さな目が状況を吟味し、かすかに笑みを浮かべると大きな一本角が傾いた。

 ペリーは両手を挙げてみせた。「俺に何か? まだ入ってきただけだ、飲み食いする時間すら――」

「お前のことは知っている」 右の用心棒が唇を舐めた。ぴりりとした空気。用心棒の首筋の毛皮が逆立っているのがペリーには見えた。

 小柄でずる賢そうな男が磨かれたバーカウンターを迂回し、酒棚の背後にある両開きの分厚い扉の中へと逃げていった。

「仕方ない」 ペリーはそう呟いた。彼が一歩進み出ると、用心棒たちは目の前に並んで立った。

「ここの客を狙わせはしない」 彼らはそう言った。

「俺の邪魔をしないなら、俺もあんたたちの顧客を困らせるようなことはしない」 ペリーはゆっくりと、穏やかに言った。「俺はただ通り過ぎようとしているだけだ」

「お前の評判は知っている」

 ペリーも自分の評判は熟知していた。彼はただ出口を目指し、標的を追うことに集中してきた。だが今は、思い上がったこの猫どもに全神経を集中させていた。余計なことをせずにはいられない者というのがいる。この二人は見栄を張っているに過ぎない。そして彼らよりも経験豊富なペリーは、この挑戦を受けなければ、自分は弱くなったという噂が広まるだろうとわかっていた。それは宜しくない。

 雲の中、梁の上から街を見下ろすけばけばしい高街から、光が踊って建物を彩るメッツィオ、そして光素の煙を吹き出す煙突が並ぶカルダイヤまで、人々はやるべき事をやろうとしている。昼間は仕事に奮闘し、夜には踊る。ペリーも何ら変わりない。やるべき仕事がある。そしてこの猫どもはその邪魔をしようとしている。

 近くの壁、木の羽目板に光の筋が走り、魔法の隠し扉の存在を明かした。所々に金属をまとうスーツ姿の厳めしいエルフが進み出て、ペリーの姿を確認した。その男は石けり遊びでもするかのように、群衆の中をこともなく縫って近づいてきた。

「アリ、レナード、問題ない。彼を通せ」 そのエルフはピンストライプ模様のスーツに付けたカフスを撫でると、全員へと微笑んでみせた。

「ですが――」

 エルフの両目が閃いた。「君たち二人を雇ったのは、もしも容易ならざる事態が起きたなら――繰り返すがもしもだ――戦ってもらうためだ。自ら起こすためではない」

 レオニンたちは不平を呟いたが、その言葉に屈したのは目に見えた。

 ペリーはエルフへと頷き、二人の用心棒の間を抜けた。

「あんたは斡旋屋と仲違いしたって聞いたが」 右側の用心棒が嘲るように言った。「契約不履行だとか? 子供がどうとか。弱い奴だ。そのうちお前のところに処罰者が来るだろうよ、ペリーさん?」

「他の一家なら融通も利くだろうが、斡旋屋が契約不履行とかあるか?」 もう一人の用心棒が声をあげて笑った。「そりゃどうしようもない。しくじったな、ペリー」

 ペリーは扉の前で立ち止まった。今こそその時ではないか? 斡旋屋との関係がこじれて以来、ずっと気をつけてきた。不必要な混乱、喧嘩は避けてきた。だが大人しくするのも限界に達しようとしていた。感覚は張りつめ、この数日は内なる何かが膨れ上がり、弾けてしまいそうだった。

 レオニンたちは黒い瞳孔を丸くし、彼を見つめていた。そして耳を低く下げ、身体は疼いているようだった。

 いいだろう。水膨れを破ってやる時だ。

「可愛い仔猫ちゃん」 右の用心棒に彼は甘い声で言い、目配せをしてみせた。


 ラウンジの向かいの小路で、ペリーは石灰岩の滑らかな壁にもたれていた。彼はコートの内ポケットを叩き、ボクサーとしてのかつての日々から持ち続けている壊れた懐中時計を確かめた。それはまだそこにあった。

 眩しい光が弾け、彼はひるんだ。縦縞のベストをまとう若いレオニンがその光の中から踏み出した。その男がペリーの隣に立つと、火花が地面に落ちてごみの中で踊った。

「リガ」 ペリーは不機嫌そうに言った。

 リガはそのベストを叩いた。そして手慣れた満足とともに幾つかの火花を飛ばすと、短い髪を払いのけて両耳をぴくりと動かした。

「喧嘩って聞いて、お前だろうと思ったんだよ。向こうの道で用心棒がふたり寝てるが、お前だな?」

「ああ」 ペリーは側溝へと血を吐き捨てた。石材の冷たさが頭に心地良かった。深刻な打撲傷を幾つか負っていた。更に悪いことに、スーツの下には片方のレオニンの鉤爪から深い傷もあった。看てもらう必要があるだろう。けれど乱暴者のペリーには関わるべきではない、そんな噂も広まりつつある。

 リガは顔の毛をけば立たせ、顎をかいて含み笑いを漏らした。猫の牙がひらめいた。「喧嘩して気は済んだか?」

「クレントを捕まえなければ」 ペリーは溜息をつき、リガと顔を合わせた。この男は世渡りが上手く、浮浪児たちを通じて界隈を熟知しており、路地裏や影の中の動向を把握している。「何とかしなければ」

 リガは笑い声をあげた。「そうしなきゃ我慢できない、だろ?」

「俺は必要以上のトラブルに巻き込まれてる、そう広まるばっかりだ」 ペリーは話題を変えた。「俺がどんな奴らの上に立ってるかわかってるのか?」

「下っ端みたいな仕事には飽きたってか?」 リガは含み笑いをし、知っておいて欲しいというペリーの頼みを無視した。「用心棒で憂さ晴らしをするのは良くないな。ペリー、あんなのはただの雇われなんだから」

「ふん」 ペリーはうなった。彼はかつて、ファルコが高街の窓から人を放り投げるのを見たことがあった。それからの数か月間、彼は頭領への報告のためにニドーの聖域の頂上へ向かうのが怖くなっていた。

「クレントなんて忘れてしまえよ。適当な新人が見つけ出すだろうさ」

「クレントは大物だ」 ペリーは深呼吸をした。折れた肋骨が刺さり、彼はひるんだ。

「新人でもいけるさ」 リガは片耳をかいた。「しっかり仕事してるって報告が入ってる」

 ペリーは背筋を伸ばし、左耳の感覚に集中した。今も外耳道にはまったままの増幅器が、彼へと囁きかけていた。活気はなく、くぐもっている。彼はその指示へと指で侮辱のしるしを作ってみせた。

 言葉は再び聞き取れるようになった。アップデート。命令。行動の呼びかけ。クレントを割り当てられてから、ペリーはそれに耳を傾けるのを止めていた。あの戦いで機械が狂ってしまったに違いない。

『ペリー、リガを待て。更なる命令がある』 街路の斡旋屋への他の命令に混じって、増幅器が囁いた。『身を引け、ペリー。身を引け』

「俺は任務を途中で諦めたことはないんだ」 ペリーはそう口にした。正直に言うなら、首つり紐が閉まるように思えた。

 リガは肩をすくめた。「何事にも初めてはあるさ」

「斡旋屋ではそうはいかない」 契約文。秩序。全てがあるべき場所に。ファルコから下っ端まで、手続きというものに対する斡旋屋の執着はよく知られている。

「今になって契約文を気にしてるのか?」 リガは面白がっているようだった。「あの子供の何をためらってるんだよ」

 リガは光素の小瓶を取り出し、顔の前でその中身を揺らした。もう行く時間。ペリーは気分が重くなるのを感じた。あのレオニンたちから受けた傷のためではない。リガは自分をニドーの聖域へ連れ戻そうとしているのだ。判決を受けさせるために。ファルコに放り投げられたなら、長いこと風の中を舞うに違いない。

 今すぐ逃げることはできる。斡旋屋は追ってくるだろうが、ペリーは彼らの中でも最も腕っぷしに長け、手に負えない処罰者だ。彼らに逃走を止めることはできないだろう。

 おそらくは。

 ペリーは前へと踏み出した。光素の輝きは路地裏へとまだら模様の光をうねらせた。頭上の空に踊るスポットライトは、高街の上流階級たちが楽しみにふけっていると示していた。

「最近何も食べてないんだろ?」

「さっさと終えるぞ」 ペリーはそう返答した。眩しい白光とともに、リガは彼を連れて本拠地へと瞬間移動した。

アート:Robin Olausson

 頭領に対峙する時が来た。

 ファルコはバルコニーの扉の脇に立ち、風がその羽根をわずかに鳴らしていた。背負う翼は大きく、王の頭へと冠を掲げる召使のようにも見えた。エイヴンでありながら、ファルコはこの部屋を威圧していた。契約不履行に陥った者がここに到着した際、何を感じるかをペリーは垣間見た。その筋肉と大仰なコートで空間を占拠しつつ、お喋りと雰囲気で印象付けるのだ。

「ペリー君、仕事がある」 冗談も挨拶もなく、ファルコは言った。重要な仕事、そう言う必要はなかった。リガを用いて個人的にペリーを連れてきたという事実が全てを語っていた。

 金属製の壁には翼の模様が刻まれ、上向きの明かりに照らされていた。ファルコは重い足取りでそれらを過ぎた。

アート:Kieran Yanner

「あの少年については?」 しばしの沈黙の後、ペリーはそう尋ねた。

 ファルコは近くの卓に拳を叩きつけ、その勢いに契約書が床へと散らばった。「私は仕事をしてほしいと言った。だが君は自分の失敗について尋ねたいのかね?」

「彼はただの子供です」 ペリーは離れて立っていたが、視線はファルコの執務机の背後にある大きな窓に向けざるを得なかった。そこから投げ捨てられた者は何人もいる。この会話も死刑宣告となり得る。

 だが契約は契約だ。公平なものなのだ。

「ペリー君、この次元において秩序が失われたならどうなるかはわかるかね?」 ファルコは背中で手を叩き、近づいてきた。

 ペリーは息をのんだ。「彼は子供です。自分が何に署名をしたのかもわからないのです」

「あの子供は新聞を売っていた、常夜会の有名な待ち合わせ場所の真向かいでな」

 ファルコの怒りにもペリーはひるまなかった。「彼らがスパイを見つけたならどうするかはお分かりかと思います。子供であろうと何であろうと」

「契約が破棄されたなら、この次元をひとつに繋ぐ縫い目は緩み、社会の基礎は崩れる。そして我々に全てが降りかかる」 ファルコはペリーの目の前にやって来た。「来たるものに対抗すべく街を団結させよ、預言は我々にそう命じている。君はそれに背を向けるというのかね?」

 ペリーは俯き、自分の靴を見つめた。「あらゆる契約も取引も完了しなければならない、それは存じております」 署名された約束、拘束する契約、暗闇の中での囁きも嘆願も、全てが意味あってのこと。

 その裏表を、一部始終を理解しているわけではない。彼は読み書きができず、その目は小さな文字を判別できない。そのため耳の中の増幅器や泉での噂話を重宝していた。何か大きなものが迫りつつある、長い間にペリーはそう学んでいた。斡旋屋が長年備えてきた何かが。恩義と約束の大軍を築き、誓約者たちを尊敬で魔法的に束縛する。そして同じ呪文で、彼らのその記憶を隠す。

 人々の軍団が起動される時を待っている。そしてそのほとんどは何ひとつ知るよしもない。

「今回の件については判断を保留しているのだ」 ファルコは穏やかに言った、「だが君には自身の有用性を示す手段を与えようと思ってね」

「俺は法に仕えます」 ペリーは胸を叩いて敬礼し、そして痛みにひるんだ。

「我々は多量の光素を蓄えている。街への供給に影響しているとジアトラですら気付くほどに。何が起きているのか、あのドラゴンは必死になって嗅ぎつけようとしている。最新の『蜂の巣』倉庫の計画を盗んだ土建組の女がいる。その者の記憶を完全に消すことはできていない。クロスに任せたが、同行者が必要だ。腕力担当がな」

「クロスですか?」 ペリーは溜息をついた。誰かと組んで仕事をするのは好みでない。そしてクロスに付きまとわれるのははっきり言って嫌だった。あの男は自分の過ちをひとつ残らずファルコに報告するのだろう。

「クロスによれば、その土建組の女には箝口の魔法がかけられている。だが計画の文書を所持している。計画書のことを誰かに話すこともできず、そして自分が逃げ回っている理由もわからないだろう。それでも内容に目を通したなら自分が何を持っているかを理解し、また逃げ出す。行け。行ってその契約破りを見つけ出せ。計画を取り返して来るのだ。土建組は生かしておけ、ただし死んだほうがましだと思わせろ。トレザの前にそいつを捨て、ジアトラへと伝えるのだ。ドラゴンでさえも、我々との契約を破ることはできぬと」

 背後の大気がかすかに揺れた。クロスがこの部屋に滑り込んだのだ。斡旋屋は全員が勧誘員であり、法のもとに平等とされている。だがファルコが一家を統べており、満たすべき様々な役割が存在する。ペリーは契約を執行する。一方のクロスは旧カペナ流のレンジャーを自称し、街の隅や人目につかない場所を探索している。一家が貯蔵庫兼避難所として利用できるような、失われた地の残骸を見つけるのだ。とはいえ元はひとりの仲介人だった。仕立ての良い服と、街を見下ろすバルコニーでの接待を愛する請負屋。大規模取引とは、握手と笑顔で執り行われると考えている。クロスは恐らくこの部屋の影の中に立っていて、かすかな青いもやと共に踏み出して自分を仰天させる時を待っている。何よりも、驚きとドラマを愛する男。

アート:Katerina Ladon

 それは純朴な新入りには通用するが、ペリーにはそうではない。彼は視界の隅にクロスの姿を認めた。トレンチコートによく磨かれた肩甲、髪は丹精に整えられて肩へと粋に流している。実体よりも見た目、ペリーはそう感じた。本物の斡旋屋は街路で働くため、汚れがついているものだ。

 決断をしなければならない。ここに留まって破滅の判決を待つか、それとも張り切り、自分の一家の企みが土建屋に渡るのを防ぐか。戻って来た時には、ファルコは規則を好意的に適用してくれるかもしれない。あるいは少なくとも、凶悪に適用することはないかもしれない。

 決心しながら、ペリーはクロスが潜む影へと頷いた。「その土建組を探しに行こう。時間は待ってはくれないようだ」

 振り返ると、クロスは不機嫌そうな表情だった。ペリーの疲労は拭い去られ、だが骨は軋んだ。


「俺もこの任務を快く思っているわけではない」 メッツィオへと車で向かいながら、クロスはそう言い放った。スカラベに似たキチン質の機体が、高街の桁の上へと続く摩天楼の足場を縫う道路を駆けてゆく。運転手も斡旋屋の構成員であり、乗客の会話に耳を澄まして組織へと届けるのだ。

 王様通りと肉屋の角、劇場前に列を作る富裕層をペリーは眺めた。

「飲むといい」 宙に浮くような橋を渡りながら、クロスはペリーへと薬瓶を手渡した。胃袋がのたうっていた。ニューカペナとはこういうものだが、彼は高所が得意ではなかった。かつて人々が歩いていた大地の遥か上、桁の上に座す街。

 多くの人々が光素を使っていた。ペリーは大いに訝しんだ。短い間に、どうして街はこんなにも光素に依存するようになったのだろうか。「俺には必要な――」

「万全な状態でなければ、俺の役には立たない。追いかけているのはただの土建組ではない。ジョリーンだ、解体屋と呼ばれている」

 通りにおいて、彼らはブルドーザーを名乗っている。ジョリーンも間違いなく、油断したらこちらの頭上に建物ひとつを倒してくるだろう。

「『略奪の女王』とかいう二つ名を聞いたことはあるか? あの女が宝石店の金庫に押し入って捕まり、俺たちが……法的支援のために向かった時のことだ。厳しい建築契約が俺たちを守ってくれると思ったが、あの女はこっちが考えるよりも狡猾だ。飲んでおけ、ペリー」

 ペリーは一息で薬瓶の中身を飲み干した。治癒効果が苦痛とともに骨を繋ぎ、彼はこらえた。

 だが少なくとも、頭痛は収まった。

 フェルト製の帽子をかぶった人々が通りに屈み込んでいた。ペリーは彼らを見つめ、その生活に思いを馳せた。パンを抱えて家路につく者。家族は父親がカルダイヤの工場の夜勤から上がるのを待っているのだろうか? その男のコートは貯蔵光素の染みで輝いていた。

 車は傾斜路を下り、ニューカペナの深みへと向かっていった。斡旋屋の力もこの影の中では消えてしまう。そこにきらめく役員室はない。街の工業の中心、ニューカペナに息を吹きこむ鋳造所。上空の街路と光は、高街にて策略と握手で契約を交わす上品な一家の場所。けれどここで街は昼夜を問わない重労働に吠え、頭上の構造物の重みにうめている。

アート:Julian Kok Joon Wen

 降りていって、仕事を終わらせる。

 平らな帽子とすり切れた作業着の男たちが、輝く昆虫の甲殻でできた機体を睨みつけた。ペリーとクロスは小奇麗なピンストライプのスーツと精巧な鎧をまとい、それは地位と好みを、そして個人的な輸送手段という明らかな富を誇示している。

「機械の虫に乗ってきただけで襲われる確率はどのくらいだ?」 ペリーは低くうめいた。

「道中で光素を無駄にはしない。なるべく節約して進む必要がある。この先必要になるからな」 クロスはそう言って運転手に指示をした。「あの工場だ」

 数分後、ふたりは腐りかけた建物の折れた桁の内に立っていた。ステンドグラスの窓は、ニューカペナの摩天楼を守る天使の姿を立体派の様式で描いていた。だがその色ガラスは三分の一が砕けていた。略奪のためか、それとも悪戯で石を投げられてか。

 クロスは上着から一本のバールを取り出し、マンホールの蓋をこじ開けた。

「その中に?」 疑うようにペリーは中の暗闇を見下ろした。何かがひどく臭っている。まるで一度死んで、街路の側溝を数ブロック流された後に下水道へ流れ込んで、そこまでまた死んだかのような。そして今も死に続けている。「クロス、何処へ行こうというんだ?」

「外だ。行ったことはあるか?」

 ペリーはクロスを見つめた。そんな重要情報をこの男は黙っていたのだ。

「俺の母親の一族が」 ペリーはそう答えた。「二度目の脱出の時に。その後、土建組が規制を強化した。聞いた話だが」

 母は今もまだ、ヴェールのあの薄汚れたアパートに住んでいる。そこからそう遠くない場所で、ペリーはボクシングを始めた。粉砕者、そう名付けられた。印刷されて下町のそこかしこに張り出された。

 今よりもずっと単純な日々だった。死と不運に襲われる前、ファルコに拾われる前。時にその日々が恋しくなった。けれど当時の、絶えることのない空腹は決して恋しくはなかった。

「その土建組の女がそこにいるのか?」 ペリーは疑うようにマンホールを見つめた。ふたりは気が合ってはいなかった。仲の悪い兄弟のように、クロスとペリーはともに斡旋屋に入り、年長の勧誘員の使い走りをしてきた。悪ふざけかもしれない。クロスも自分をからかっているのだろうか。

 マンホールの先の暗闇には何もなかった。輝いているのは、何かの呪文の残余だろうか。そしてその先に、ニューカペナ以前の大地に存在していた何かの廃墟が見られるのかもしれない。

 クロスは上着のボタンを留め、分厚い手袋を取り出した。「ここを見つけるまで何年もかかった、だが土建組はもっとよく知っている。あいつらは取り壊しと建造を通じて、弱点を見つける」

「弱点?」

「隠しトンネルや梯子、建物の割れ目だ」 クロスは床の穴から闇へと身体を下ろした。悪ふざけだとしたら本気もいいところだ。

 ペリーは下に続く影を見つめた。「ジョリーンは本当にそこにいるのか?」

「あの女を探すため、相当な数の勧誘員がニューカペナの隅々を嗅ぎ回っている。ファルコにとっては最優先事項だ」

「そんなこと、増幅器で聞いたこともなかったが」 ペリーはゆっくりと脚を下ろし、その身体は円形の孔をかろうじて通過した。そして足がかりを探った。永遠に落ちていきたくはない。

 クロスはペリーのコートを掴んで引っ張った。「ファルコが信頼する勧誘員に、面と向かって個人的に伝えるんだよ」

 ふたりは街を構成する桁の塊の近く、張り出した棚に屈みこんだ。錆び付いた梯子がその下の暗闇へと続いていた。

「下だ。行くぞ!」

 クロスが先に降りていった。ペリーは不安な目で梯子を見つめた。果たしてこれが大人のロウクスの体重を支えられるのだろうか。

アート:Adam Paquette

 祖先が逃げてきた地面まで降りたくはなかった。足を下ろすたびに、肩にかけた鎚がぶつかって音を立てた。ゆっくりと降りながら、彼は一時間に渡って不平を呟いていたが、クロスは一度たりとて反応しなかった。コートを錆びで汚さないように気を配るので精一杯なのだ、ペリーはそう考えた。

 けれどファルコの信頼を取り戻し、元の人生に戻るためには進む必要がある。クロスはファルコが最も信頼する助言者のひとりなのだ。これはまたとない機会に思えた。失敗の全てを取り返せる。何せ今やニューカペナにて、ペリーに嫌な顔を向けない勧誘員は一人たりとていない。

 契約を破ったのだから。単純なことだ。

 ファルコに逆らえるなどと、どうして考えていたのだろうか? あのエイヴンの頭領は極めて厳格であり、契約を破るのは愚か者か自殺志願者だけだ。他の一家の頭領ですら、ファルコの法文には必ず従っている。

 復職のためには、クロスが唯一の希望なのだ。彼がファルコへといい報告をしてくれれば、処罰者が処罰される側になる気分を知らずに済むかもしれない。

 ペリーは身震いをした。

 二度とこんな状況に身を置くわけにはいかない。頭突きをして取り立てをして、違反を警告して、法的必要で束縛する新たな契約相手を見つけていればいいのだ。

 物事とはそういうものだ。状況は悪く、逃げ場も無く、けれどその時、争乱の近くに一筋の光が閃く。小奇麗な身なりの人物が影の中から現れて、助けが必要かと尋ね、全ての解決策を提示してくれる。

 お返しはほんの少し。覚えてくれなくなっていい。

「行くぞ」 クロスが呟いた。

 見下ろすと、闇の中に古の城の輪郭が浮かび上がった。壁は砕けて久しく、瓦礫の山と化していた。ふたりが降りてきた桁はその城を真二つに割っていた。まるで金属の槍をその心臓めがけて投げつけたように。

 最後の数歩を経て、ようやくふたりは地面に足をつけた。クロスは軽快に、そしてペリーは重々しく。クロスは笑みを浮かべた。「ようこそ、古の国へ」

 クロスは慣れているようで、だがペリーは辺りを注意深く見つめた。ニューカペナの下部に挟まれ、漂う霧の中から瓦礫と古の壁が現れた。遠くの丘からの光が、地平線を細く輝かせていた。

「追えるか?」 クロスが尋ねた。

 ペリーは胸ポケットから片眼鏡を取り出し、右目にはめた。薄く透き通る色彩の群れが古の廃墟と敷石に漂っているのが見えた。

「かすかだが、あっちだ」 ペリーは頷いた。「痕跡は新しい。ジョリーンかもしれない」

 ジョリーンが契約を破棄して逃走した瞬間、それはグランド・オペラ・ハウスのスポットライトよりも眩しい魔法の光をひらめかせる。斡旋屋の勧誘員たちは、ペリーの片眼鏡のような正しい道具を用いて容易に追跡できる。だがここ、ニューカペナの外でありニドーの聖域から遠く離れた場所では、追跡の色彩はごくかすかな汚れでしかなかった。

 クロスはオペラグラスに似た道具を手にしていた。「ああ、俺にも見える」

 革のジャケットと毛皮に身を包んだ小さな姿が、雑草のはびこる石畳に足を踏み出した。ラクーンフォーク。ペリーは周囲の崩れた壁、影の中に輝く幾つもの目を見た。

「クロス……」

 その男は既に両手を挙げ、手袋は青い光に揺らめいていた。その唇の端に、かすかで尊大で笑みが浮かんだ。

「街から来たんじゃないな」 ペリーは呟いた。この小さな獣どもは引っ込みはしないだろう。ここでは、一家の間の対立における不文律は存在しない。ラクーンフォークは狂暴で、頭上の街をうろつくお喋りな浮浪児や労働者とは違う。

 クロスが顔に不気味な笑みを浮かべているのは、そのためかもしれない。この男がファルコの腹心であるのは、そのためかもしれない。

「お出迎えをどうも」 クロスは平静な、だがどこか興味深い声色で言った。「友達を探してるんだけど」

 彼は小さな紙に描かれた似顔絵を取り出した。そしてラクーンフォークの前に、極めて正確で生きているようなそれを見せた。

「友達なんだが――」

 毛だらけの、明らかに飢えたラクーンフォークが二十体、ふたりに襲いかかった。


 ペリーは長いこと相手の膝を砕き、顔面を殴りつけてきた。時にはそこかしこで四肢を折った。一般市民はいつも、一家の構成員たちに窓から投げ捨てられるのではと怖れていた。凧乗り、彼らはそう呼んでいた。

 実のところ、本当にそのような目に遭う一般市民はいないと言っていい。

 そして、それほど頻繁に喧嘩が起こるわけでもない。ペリーもその仕事のほとんどを追跡に費やしていた。新規契約者を嗅ぎ回り、斡旋屋の処罰者が秩序を保っていると示すために街路を歩く。

 ラクーンフォークが殺到する中、ペリーは指の印章指輪に口付けをした。この数週間で初めてのことだった。あの用心棒たちとの喧嘩でも壊していなかった。両手が光に包まれ、メリケンサックが現れた。ペリーの右拳に更なる光が走って手甲へと変化し、光は触手のようにペリーの太い腕を昇っていった。

「世界が俺に願うのはこれか」 ペリーは低く呟き、そして腕を振り回した。

 心の深くで獣のような満足感があった。拳を当てるごとに骨が砕けるのがわかった。殴打音が響くたびに、粉砕音が響くたびに、ラクーンフォークは散り散りになった。彼らはロウクスの戦いぶりを見たことはあるかもしれない、だがこのような魔法の輝きに包まれたロウクスを見るのは初めてだろう。

 自分はただの喧嘩屋ではなく熟達の戦略家、ペリーはそう考えていた。ノックアウトを回避すべき瞬間を把握し、そのため目の前の敵を盾として用いる。古の敷石の上、この戦いの推移の様子がわかった。まるで頭上から見つめているように。

 ラクーンフォークは体勢を立て直し、次なる攻撃のために集まった。彼らはナイフと鉤爪での流血だけを求めていた。前方で四、五体が動くのがペリーには見えた。

 そこに首領がいる。

 首領は常にいる。そして戦いの律動を見つめ、その隙間を、相手が誰を守ろうとしているのかを探せば、力が集中する場所を感じることができる。まるで巣の中心に蜘蛛がいるように。

 それはダンスだった。そして喧嘩腰で傷ついた敵側の首領は不意に気付いた。ペリーがひるむことなく、圧倒もされずに戦いながら、広い空間を用いて自分に近づいてきていると。そしてパニックに陥り、ペリーの拳を受けて終わりを迎えるよりはと逃げ出した。

 この数日で初めて、ペリーは大きな笑みを浮かべた。

 小規模な戦い、そして逃走したのは力のない指揮官だったとしても。

「浸るのはやめろ、まだ仕事は残っているんだ」 崩れた壁の影の中から、クロスが声を上げた。彼は長いダガーの血を拭うとコートの中にしまいこんだ。

 ペリーの笑みが消え、そして敵意をあからさまにしてクロスを見つめた。彼はベストの裾をいじっていた。「そっちの準備ができたらな」

 ペリーは手をすっと差し出した。まるで執事が待合室への行き方を示すかのように。

 クロスが一歩踏み出そうとしたその時、彼が隠れていた壁全体が恐ろしい軋み音を立てて倒れた。岩が落下し、モルタルの破片が宙を舞い、一瞬前に勧誘員が立っていた場所には瓦礫の山があるだけだった。

「クロス?」 ペリーは状況が飲みこめなかった。クロスは厄介な人物かもしれない、兄弟のようなライバル関係として長年付き合ってきた。それでもしばし彼が動けなかった。クロスは素早く、攻撃に対しては目敏い。そして大抵は、何が起こったかを相手が理解する前にいなくなるというのに。

「クロス!」

 もしクロスが殺されてしまったなら、ファルコは斡旋屋の指揮系統にペリーを戻しはしないだろう。ファルコに何をされるか、ペリーは今や恐ろしい物事を予想していた。それが誤りだった。ペリーの足元の敷石が震えた。

 解体魔法。

 ペリーの真下で道がひび割れた。

 巨体の喧嘩屋が素早く動けるとは誰も思わない。だがペリーは駆けた。命がかかっているかのような速度で駆けた。

 何故ならその通りだから。

 破片が彼の分厚い皮膚に当たり、彼は喘いだ。古い丸石が道を転がっていった。混沌と塵が舞い、ペリーは戦略も次の一歩も忘れ、ただ潰されないようにでたらめな方角へと駆けた。

 獲物は自分たちが来るのを知っていたのだ。罠を仕掛けていたのだ。

 恐らくはラクーンフォークに、強盗に適した柔らかい異邦人が来る場所を伝えたのだろう。

 ペリーは片眼鏡を取り出しつつ、防御から抜け出して戦いにおける主導権を掴み取ろうとした。あの忌々しい土建組の女はどこにいる?

 混乱が弾ける中、それを読むのは難しかった。

 だが彼の耳が何かをとらえた。足音?

 ペリーは街路を抜け、古い厩と宿屋の廃墟に飛び込んだ。この街に人々が生きていたのは何世紀も昔だが、辺りにはまだかすかに馬の匂いが残っていた。

 そこだ。咳き込む音がした。塵が舞い、何者かの喉を刺激したのだ。

 戦いにおいても、このような些細な物事がしばしば勝敗を分ける。ペリーはコートの下に不格好に吊るしていた鎚を取り出した。こんな事態を引き起こすような者に対峙するなら、必要になるだろう。

 期待するように、鎚が小刻みに震えた。

 ペリーは柄を強く握りしめ、目は辺りを注視しながら、耳はあらゆる些細な音をもとらえた。縦縞のスーツはぼろぼろに切り裂かれていた。その布をはためかせながら、彼は近くの壁へと鎚を叩きつけた。解体の魔法ではないかもしれない、だが結果は同じ。ペリーは壁を破壊した。

 瓦礫と塵の中、土建組の金属と宝石の手甲が輝いた。ペリーは最初の拳を受け止め、手の骨が砕けるのを感じたが鎚を振り上げた。ジョリーンは避けてその鎚を掴もうと試み、そして魔法を込めた拳で彼の上腕を殴りつけた。ペリーの歯が鳴った。

アート:Caroline Gariba

 ペリーは頭突きを食らわせた。

 その勢いにジョリーンは壁に激突し、手甲を掲げて身構えた。

 ペリーは鎚を振り上げた。「同時に攻撃したなら、この全部が俺たちに降りかかる。俺は逃げられるが、お前はどうだ?」

 ジョリーンは辺りを見渡した。壁、そして古く腐った梁。ほんの一瞬、彼女は踏み出て戦いを始めようとした。だがその中で何かが瞬いた。呪文のかすかな光。

「俺たちのものを奪っただろう」

 彼女は何も言わず、ただ待っていた。冷静すぎるほどに。

「ああ、間違いなく」 背後でクロスの声がした。もちろんこの男が死ぬはずがない。安心すべきだろう、ファルコが死刑判決を下すことはない。生き延びられる確率は飛躍的に高まった。

 大変な仕事を成し遂げた、とはいえクロスは――

 昔からのライバルを一瞥すると、頭の傷から血が滴っていた。影の中から優雅に滑るように表れるのではなく、今の彼は脚を引きずっていた。呼吸すら苦しそうだった。

 かろうじて生き延びたかのように。

「だが、それで全部じゃない」

 クロスが宙に粘着質のエネルギーを放つと、大気が音を立てた。ペリーは爆発や痛みに身構えたが、そうではなくこれまで気付いていなかった何かの重みが消えた。そしてジョリーンは唖然とした。

 彼女は心から戸惑っているように見えた。

「常夜会の呪文だ」 クロスは苦しい声を発した。彼はペリーの肩を掴んで立った。

「土建組じゃないのか?」 常夜会は高価な魔法を惜しみなく浸み込ませ、土建組の構成員をこのように操る。一瞬前には頭蓋をかち割ろうとしていた相手ではあったが、哀れみと恐怖にペリーはぞっとした。

「もうその計画は持ってないよ」 ジョリーンは言った。「常夜会に強制されてても、そこまで馬鹿じゃない」

「ならば、尋ねたいことがある」 クロスが囁き声で言った。彼はペリーの肩から手を放し、よろめきながら前進した。かすかにきまりが悪そうに、片足を引きずって。クロスの指が魔法の輝きを帯びた。

 魔法の証言録取。ペリーは再び身震いをした。


「問題がひとつある」 ジョリーンの額から手を放し、クロスは言った。青い光点が彼女の目を取り囲んでいた。記憶消去の魔法。勧誘員にとっては有益な技術、何せ相手はその契約に署名したことすら覚えていないのだから。

 今の自分たちにとってそれ以上に有用なのは、同じ技術を用いて証言録取の記憶を掘り下げることだった。

 つまずきながら、クロスはペリーのところまで戻ってきた。ジョリーンの心の中で戦っていたのは疑いなかった。そして怪我をおして戦ってでも手に入れなければいけない何かがあった。

「計画は?」 ペリーが尋ねた。

 クロスはシロアリに食われた古い木の梁を除け、瓦礫の上に腰を下ろした。そして深呼吸をした。

 ペリーはジョリーンを一瞥した。彼女は縛り上げられ、クロスの魔法を受けた後とあって喋る雰囲気ではなかった。その両目に生気はなく、遠くを見つめていた。ペリーは少し感心していた。背は低く筋肉質、そして自分たちふたりを殺しかけたのだから。

「常夜会はこの女をアパートから誘拐した」 クロスはそう言った。「土建組の中で働かせながら、常夜会の工作員として仕立てるために」

「つまり……」 ペリーは混乱していた。「ともかく俺たちは計画を手に入れて、この女の記憶を消して、ファルコのところへ戻ることはできる。だろう?」

 そう言いながらも、そこまで単純ではないだろうと彼はわかっていた。全てが正しく進んでいる、そう示してクロスを安心させてやりたいだけだった。

「常夜会は何が起こっていようと全てを把握するようにしている。光素がどこへ消えたのかを探ったなら、俺たちの建物を担当していた土建組へと行き着く。奴らは土建組に偽情報を与える、斡旋屋が自分たちの労働者を狩っていると言って。俺たちは土建組の構成員らしき人物をひとり、記憶を消した上に叩きのめして街路に捨てる。戦争が始まる」 クロスは柱に背を預け、目を閉じた。「何もかもが罠で、この女は餌だったんだ」

「ファルコが光素を溜め込んでいる、常夜会はそれを知って?」 その物質は今や通貨と言ってもよかった。他の一家には、供給不足を悟り始めている者もいる。けれどこんなにも早く起こるとはファルコは思っていなかった。

「俺たちがそうしているのは感づかれているが、理由まではわかっていない。あいつらは俺たちを元々の居場所へと突き返したがっている。常夜会は自分たちこそがこの街の後継者だと考えている。全てを知っているからだとな。全てが何も変わらないように努めている。傲慢な馬鹿どもだ」

「俺たちはどうする?」 ペリーはジョリーンを見た。「ファルコが言うには――」

「それはわかっている」 クロスは両手で顔を覆った。「けれどそうすれば、土建組との戦争になる」

「ファルコはそれを望んでなどいないだろう?」

「ああ! 契約は契約、ファルコはそれを示したいだけだ。戦争の準備なんてしていない、今はまだ。まだ早すぎる」

 何か大きな計画が存在する、ペリーはそれを察した。自分には関与できないような計画が。常夜会が手に入れられる限りの光素を、ファルコが熱心に溜め込む理由を彼は知らされていなかった。それでもパズルのピースがはまるのを感じ、そしてそこには抜けがあった。何かはわからない、けれど大きなものが。

 歴史に残るほどのものかもしれない。彼らはたくさんの光素を溜め込んできた。

「土建組と戦争になれば、俺たちのこれまでの努力が台無しだ。懸念すべきは常夜会だ」

「戻ってファルコに伝えよう」 ペリーは頷いた。

「ファルコは仕事をしろと命令した」 クロスが言い返した。

 ペリーは一瞬、言葉を切った。「だが――」

「誰よりも知っているはずだ、ファルコの命令は絶対だと」

 そしてクロスも、組織の最上層にいるという地位を危険にさらす気はない。

 ペリーはまだ呆然としていた。「俺たちが戦争を始めたら、人死にが出るぞ。それも多くの」

 彼は想像した。建物がそっくり崩れ去る様。爆発。地下洞窟での戦い。土建組の群れが壁の中から弾け出る、あるいは自分たちを殺そうと潜む。それは縄張り争いではなく、頭領同士の真剣勝負だから。

 そうなれば、ファルコには将軍が必要となるだろう。戦略の達人が。再びファルコに気に入られるためにはいい方法かもしれない。

 けれど多くの罪なき人々が巻き添えになる。

 ペリーは溜息をつき、立ち上がった。「その傷じゃ旅は難しいだろう。この土建組と待っていてくれ。助けを呼んでくる」

「ペリー、手ぶらで帰るつもりか。ファルコは――」

 ペリーは笑い声をあげた。「そうすれば、俺はどのくらいの生命を救える?」

 クロスはうつむいた。「お前自身の命を危険にさらすことになる、それはわかってるんだな?」

「よくわかってるさ」


 ファルコの執務室に連れ込まれた時、ペリーの足取りはぐらついたままで、リガの瞬間移動魔法の残像が目に残っていた。廊下には戦争の準備を終えた斡旋屋たちが並んでいた。全員が魔法で武装し、神経を尖らせていた。

アート:Keiran Yanner

 街路がこの様相になれば、ひとつ見間違えるだけで、一言嘘を言うだけで、土建組と斡旋屋は互いの喉を切り裂くだろう。

「計画を持ち帰ってはいないようだが。そしてクロスもいない」 ファルコは低い声を唸らせた。バルコニーへと続く手彫りの扉は大きく開かれていた。向かいの建物の壁が夜の中にそびえ、縞大理石のガーゴイルがペリーを睨みつけていた。

 彼は息をのんだ。

「クロスは生きているのか?」 ファルコは背を向け、外の空を見上げた。

「帰路についています。例の土建組、ジョリーンを連れて」 ニューカペナでも最も恐ろしい人物のひとりに対峙し、今ペリーは、自分の呼吸音がうるさすぎるのではと怖れていた。ファルコを苛立たせるかもしれない。そのため彼は息を抑えた。

 ファルコの声が更に低くなった。「だが手ぶらだ」

「罠でした」 ペリーは大きく息を吐いた。ゆっくりと、これも作戦。「計画を取り戻すこともできました。ですがもっと重要なのは、それを真に盗んだ者です」

 ファルコは今も彼に背を向けていた。そして翼をはためかせ、その音にペリーはひるんだ。

「常夜会か?」

「何故それを――」 そう言いかけてペリーは気付いた。ファルコはファルコでこの件を探っていたのだ。

 ファルコはバルコニーへと踏み出し、高街の派手な光を浴びた。眼下の街がきらめいていた。「こちらへ。ともに新鮮な空気を吸おうではないか」

 ペリーは武器を置いてきていたが、それでも拳はあった。とはいえファルコのような頭領に対しては役に立たない。そう思い、彼は肩を落とした。

 恐る恐る、ペリーはファルコのバルコニーへと踏み出した。人生で初めてのことだった。ファルコはわずかに翼を広げ、羽根に風を通した。彼は目を閉じた。

「私とともにここに立ち、この光景に感極まる者もいる」 ファルコが口を開いた。「そして時に足を滑らせ……落ちてゆく」

 何を言えばいいのか、ペリーにはわからなかった。脅されているのだろうか? 自分もそのような者のひとりになるのだろうか? そうなれば、頭領を道連れにするつもりではあった。だがファルコは敵意のようなものは見せていなかった。

「怖れることはない、ペリー君。そんな弱い心の持ち主ではないだろう。君が戦略家であることを多くの者は知らない、だが私は君の行動を見てきた」 ファルコは肩越しに振り返り、微笑んだ。「君は抜け目がないな」

 ファルコは手すりにもたれかかり、ニューカペナの全てへと手を伸ばした。その様子は――疲れている、老いている、ペリーは初めてそう感じた。

アート:Adam Paquette

「ペリー君、戦争が始まろうとしている。勧誘員、我々の契約、街中に秘匿した光素、その全ては準備なのだ。来たる日々に、私は君を必要とするだろう。だがその前に、未解決の問題がひとつあったな」

 ペリーは再び、大きく息をついた。「あの少年ですか?」

「誰も契約を破ることはできない」 ファルコは背中で腕を組んだ。「誰もだ。この街を守るためには、小さな犠牲が必要とされる。君もそれは理解しているはずだ。君があのレオニンの用心棒たちを放りだしてきたのは、君が大局を見たからだ。統率の側へと踏み出すか、それとも――」

 それとも。その言葉はバルコニーの中に浮遊したままでいた。少しの間、ペリーの意志もまた。

 ペリーはファルコの目を見つめ、両手をポケットに入れた。ファルコは手すりのすぐ傍に立ち、両手は背後に回されていた。隙だらけ、ペリーを嘲っているかのように。やってみるがいい、斡旋屋の頭領は無言でそう告げていた。

 ペリーが求める全てが今ここにあった。認めればいいのだ。あの少年は契約を破り、斡旋屋を怒らせたニューカペナの人々と同じ罰を受ける。ファルコは目の前に昇進をちらつかせている。幹部に加わり、組織が長年に渡って備えてきた戦いにて頭領の力となるか。

 それともファルコに挑み……翼もなしに飛ぶか。

「私の意見は、先週と変わりません」 ペリーはゆっくりと言葉を紡いだ。「頭領は書類に署名し、同意しました。正当なものです。あの少年は契約を破りましたが、ただの怯えた子供です。どちらの組織にも踏み潰されないように、そう考えただけなのです」

「その子供が私の言う通りにしていれば、君が街の地下で常夜会の笑い者にされることもなかっただろうな」 ファルコは不満そうに言った。「仕事をこなしていたなら、我々は一歩先を行けただろう。混乱と流血沙汰の可能性に悩まされることもなく」

「きっと」 ペリーはそう返答した。

「きっと、か」 ファルコはゆっくりと翼を畳み、一歩踏み出した。

「そのために子供を傷つけて、得られるものがあるのですか?」 両手をポケットに入れたまま、ペリーもまた一歩を踏み出した。そして屈しない面持ちでファルコを見上げた。「私にはありません」

「喧嘩屋はもういる」とファルコ。「これ以上は必要ない」

 ペリーは続く言葉を待った。石のように静かに、向かいの建物から自分たちを睨みつけてくるガーゴイルの彫像のように。

「君よりも賢い戦略家がいる。大勢がな」

「ではその者たちをお使い下さい」

 ファルコは笑い声をあげた。そして不意に踵を返し、執務室へと戻っていった。「ペリー君、私が君に求めるものは少々違うのだ。あの少年を私のもとに連れて来てほしい。斡旋屋の世評を守るために君が必要だ。さもなくば我々が築いてきたものは無へと帰すだろう」


 ペリーは車の扉を開けた。ぼろぼろの衣服をまとった孤児が、目の前の華麗な建物を見上げた。

「また閉じ込められるの?」 悲しむように、少年は尋ねた。

 ペリーはその肩に手を置いた。「そんなことはしないよ」

 煉瓦造りの正面、その小さな扉が開いた。黒ずくめの制服をまとった監督官の女性がペリーへと合図し、彼はその少年を連れ出した。誰かに見られていないかを確認するように、ふたりは辺りを見渡した。

「問題ありません」 その女性が告げた。

「怖いよ」 少年がペリーへと囁いた。「ヨムが言ってたよ、ひどいことされるって。斡旋屋を怒らせたら、すごく」

 汚れた頬に涙が伝った。少年は怯え、破れた靴の中で足を震わせた。足首を覆うように新聞紙が差し込まれているのにペリーは気付いた。この子は靴下を持っていないのだ。

「この優しいお姉さんと一緒に行くんだ。大丈夫だよ。君のような孤児のための場所がある。学校だよ。明日になったら私も顔を出すから」 それは嘘だった。ペリーの心が痛んだ。

 少年は大きすぎる平らな帽子を脱ぎ、ペリーへと手渡した。「これ、あげる。助けてくれたから。たぶん僕にはもう要らなそうだし。もう新聞を配らせてはもらえないだろうから」

 黒ずくめの女性は少年へと優しく腕を回し、彼は玄関を過ぎて別の部屋へと向かっていった。黒いガウンをまとう老女が数人、続いてその部屋へと入った。

 眩しい光がその部屋を照らし出し、黒をまとった人々が鴉の群れのように少年を取り囲んだ。光は消え、最初に出迎えた女性がペリーの所へと戻ってきた。「終わりました」

 彼は茶色の麻紐で縛られた包みを手渡した。「ありがとう、監督官殿」

「今日以前のことは思い出せないでしょう」 その監督官が言った。「あの少年の面倒は我々がみます」

 そうしなければならない。今や、斡旋屋との契約を交わしたのだから。高街のエリートとなるための寄宿学校においては、街路の暗部を知りすぎていない方がいい。それでもここでは、契約は破るべきではないと知っておくのがいい。

 ペリーは車の後部座席へと戻った。

「ペリー君。私が今必要とするのは」 あのバルコニーからペリーが執務室へ戻ると、ファルコは言ったのだった。「喧嘩屋でも策士でもない」

 ペリーはコートの下から鎚を取り出し、外を見つめた。人々は機敏に、何の疑念もなく働いている。運転手は常夜会との喧嘩の場へと車を走らせていた。翌月にはニューカペナでの縄張りをめぐって多くの取っ組み合いが起こる、ファルコはそう推測していた。その最初のひとつ。だが少なくとも土建組は関わっていない。それはペリーの働きによるものだった。

「必要とするのは、良心だよ」 ファルコは語調を強めてそう言ったのだった。

 甲虫の殻をまとう車はニューカペナの光を吸い込み、ペリーを乗せて街の喧騒を駆けた。車の外で、内情を知る者たちは囁きあった。あれには斡旋屋の処罰者が乗っている、それも特に危険な奴が。

 ペリーは物思いに耽りながら、手にした帽子を見つめた。そして彼はそれをコートの内ポケットにしまい込んだ。決して手放すことのない、壊れた懐中時計の隣へと。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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