MAGIC STORY

サンダー・ジャンクションの無法者

EPISODE 11

サイドストーリー 我が家は遠く

Akemi Dawn Bowman
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2024年3月14日

 

 ナシは特大のサボテン群が作り出す影の真下に立っていた。まばらに生える小さな棘の隙間を日光がすり抜け、足元に影を交差させた。一歩下がり、さらに日陰へと身を潜める。サボテンの森はサンダー・ジャンクションで最も緑豊かな場所のひとつではあるが、最も頑丈な野生の花と砂漠の植物だけがこの乾いた暑さを生き延びる。

 それは人も同様だった。

 ナシの尻尾が背後で揺れ、手に持った巻物を広げて、暗記した物語に目を走らせる。すべての言葉を心に沁み込ませ――そこに留めるために最善を尽くす。その呪文が根を下ろし、自分の魂そのものに定着する様を想像する。魔法が自分の中を駆け巡り始めたとき、それは生きて不安定な存在のように血流の中で脈動した。

 その感覚に思わず身震いをする。

 「しっかりなさい」傍らから母の声が聞こえる。「物語の魔法は急くものではありませんよ。いわば対話、均衡を必要とするものです。言葉に力を与えれば、言葉もまたあなたに力をくれるのですよ」

 聞きなれたその口調は、ナシが喉を詰まらせるに足るものだった。心をなだめてくれる、思慮深くて知的な声。目を閉じれば、母の着物から漂う花と香辛料の残り香、そして母が目の前を通るたびに頬をくすぐる空気の感触が思い出される。けれど顔を上げて見えるのは、かつての姿で揺らめく母の似姿だった。

 まだこの状態の母さんには慣れないな――確かに生きてはいないが、真に失われてはいない母さんの姿には。今ここにあるタミヨウは単なる記憶の集合体にすぎない。かつての母のすべてを表現する、生ける物語の巻物。

 タミヨウは粒子でできたオーラのように動き、その周囲の空気が光を散らした。彼女はナシに一歩近づいた。「均衡を見つけるのですよ」

 ゆっくりと息を吐き、物語を自分へと流し込む。一粒の砂から芽吹き、その創造主によって制御されたすべての蔓がありえない高さに成長していく植物の物語、その言葉を正確に朗読する。大地から生まれた兵器の話を。

 最後の言葉を読み終えると、一本の芽が砂漠の砂から弾け出て、陽光に向かってゆっくりとその先端をもたげた。

 「そうです」タミヨウが根気強く見守る。「さあ、物語を終わらせなさい。命を吹き込んであげて」

 命。その言葉が不意を突いて襲い掛かり、瞬間、タミヨウだったものを放浪者が殺害したあの日へと心が引き戻される。母がまだそこにいたのか――母の心が少しでもその変質を生き延びていたのか――それはわからないけど、問題はそこじゃない。あの日の喪失感は、母が完成されたと知った日と同じぐらい強烈なものだった。

 ナシがたじろぐと新芽は弱々しく震え、縮こまりながら砂の中へと戻っていった。

 巻物を強く握りしめ、ひげがひくつく。「僕には――僕には無理だ。母さんみたいな才能はないよ」

 幽霊のようなタミヨウの姿は明滅を繰り返し、そしてナシの顎を持ち上げようと手を伸ばした。何も感じ取れないけれど、そうされている様を想像する。

 「自分自身で制御できないものに気を取られやすいですね。あなたの悲しみはわかりますが、あなたの物語の流れを途切れさせてはいけませんよ。集中を維持しなくてはね」

 ナシは肩を張って言う。「母さんになら集中できるよ」片時も手放すことのないタミヨウの記憶の巻物、それを身振りで示す。「いつだって、母さんの物語を読めば母さんはここにいる」

 「そうですね。そう思えるのはどうしてですか?」

 答えは考えるまでもない。ただそれを声に出したくないだけだ。

 紡ぐ意味のある物語は、僕が母さんの元に戻る物語だけだなんて。

 ナシは顔をそむけ、涙を払うように強く瞬きをした。植物の巻物を背負い袋に詰め込み、口紐を強く引っ張る。「もうすぐ日が暮れるし、帰ろうと思うよ」

 タミヨウはナシを詮索するようにじっくりと見つめた。ようやく、彼女はうなずく。「それでは、また次にしましょう」

 紡いでいたタミヨウの記憶の巻物を解除する。輝く母の姿は消え、けれど胸の痛みは消えない。

 ナシは疲れからため息をつき、周囲の低木の茂みに潜むガラガラヘビを避けながら、サボテンの森を重い足取りで歩いて最寄りの町へと向かった。


 夕刻の列車が太い汽笛の音を鳴り響かせつつ、きしむ車輪の音と共に駅へと到着した。少しして乗降場には勢いよく旅行者があふれ出し、靴音の地鳴りが夜空に響き渡る。ひとつの小さな金属球がその群衆の中を素早く出入りし、旅行者の間を軽々とすり抜けていった。その球体は人々の手の届かない空中で静止すると、騒々しいその空間を青色の光で走査し、細部まで記録していった。数分後、それは列車の上を飛び越えると、町の幹線道路を挟んで向かいにある三階建ての酒場へと直行した。

 その装置は閉ざされた扉の前で静止した。この暗闇も建物のあちこちに見られる損耗――塗装の剥がれ、窓枠の割れ、屋根板の欠けの多さなど――を隠すことはできなかったが、ナシは見た目の良し悪しでアイアンストーン亭を選んだわけではなかった。

 列車での旅でここを経由するほとんどの人々が求めるのは、一息つくことだけ。ここは街道沿いのひとつの町に過ぎず、サンダー・ジャンクション最大の都市からもはるかに遠い。提供できるものといえばカードの賭博場がひとつと廃坑、そして郊外の荒野まで続く鉄道駅のみ。しかし毎日新しい人々が到来するため、常に新しい物語が見つかるというわけだ。

 歴史を記録し保存することこそが、タミヨウ最大の研究だった。タミヨウが遺したものだった。ナシは何としても、自分が実行できる唯一の方法で母を生かし続けたかった。

 金属球は空に向かって飛び上がり、屋根の傾斜に沿って進んでいった。ナシは屋根の一番上、いくつかの露出した梁が滑らかな座面になっている場所で待っていた。偵察ドローンは目の前で速度を緩め、伸ばした手のひらの丸みに納まった。

 こめかみのマイクロチップを指で押し込み、ドローンの作動を「記録」から「再生」へと切り替える。装置はその場で回転し、カメラの円鏡面上にホログラムが形成される。駅の様子を描いた輝く映像が目の前に広がり、記録内容が再生され始めるのを興味深く見つめる。

 そのほとんどはごくありふれた出来事だった――旅行者たちが鞄を抱えて乗降場を横切り、切符と頭上の時計塔へと不安そうな視線を彷徨わせていた。ふたりの幼い子供が駅のカフェの軒に立ち、レモネードの瓶を取り合っていた。年配の女性が長椅子で昨日の新聞を読みながら待っていた。そしてある二人組は、間違った駅で下りたのは誰のせいなのかと言い争うことに夢中だった。そのため、悪党の手が外套の懐中に滑り込み、銀の懐中時計、金貨数枚、さらにとても重要そうな身分証明書を奪われたことにどちらも気づいていなかった。

 軽微な窃盗以上に注目すべきものはないなと結論付け、サンダー・ジャンクション全域から集めた映像録画の共有ライブラリを精査しながら、こめかみのチップをさらに何度かつついた。地獄拍車団と荒野無頼団が荒々しい魔法を撃ち合いながら決闘している映像もあったが、彼はそれよりも過去に何度も再生している録画映像を見たくなった。

 その映像が屋上で点滅し再生される。母親とふたりの子供が領界路の前に立っている。子供たちは期待と共に指を絡ませあたりをうろつく。ふたりの目はちらつく幅広のポータルにくぎ付けとなり、母親は子供の手を取り強く握りしめた。

 青い渦の中に影が見え、大勢の人々が領界路を通り抜けてきた。そのうちのひとりは背が高く大柄な姿だったが、肩に背負った特大の鞄が彼をより大きく見せていた。表情には旅の疲れがありありと見えたが、そこには希望もあった。

 ポータルを出るや否や、男の視線は周囲の人だかりの中に誰かを探した。彼が家族を見つけ、家族が彼を見つけるまでに長い時間はかからなかった。

 喜びが男の顔に溢れ、鞄が砂の上に落ちた。彼は家族全員に両腕を廻して力いっぱい抱きしめ、互いの手足がもつれる中、男の目に涙が滲んだ。長い間待ち望んでいた再会であるのは明らかだった。

 喉の詰まりが鉄のように感じられる。心のどこかでは、母との再会を奪ったとして放浪者を責めるのは不当だと分かっていた。しかし心の大半に感じる悲嘆はあまりに重く、そのため裏切られたとしか思えなかった。

 母さんの命を救う方法はまだあったはずなんだ。魁渡が話を聞いてくれていたら……放浪者が剣を振るっていなければ……

 手はいつしか拳を形作り、その考えは家族の笑い声をかき消していった。

 タミヨウは自身の記憶を魔法の巻物に保存していたが、ナシの記憶は自身の頭の中にある。よくてもそれらは間違えやすく、いつか忘れ去ってしまう危険性はさらに高い。自分の人生を細部までもう一度つぶさに見ることができれば。母さんが最後に抱きしめてくれた時のことを思い出せたなら。最後に、泣いている僕を母さんが抱きしめてくれた時のことを。最後に、僕を寝床に寝かせて歌をうたって眠らせてくれた時のことを。

 目の端が熱くなり、手の甲で頬を拭きながらドローンの映像再生を切り上げた。

 母さんに誇らしく思ってもらうことなら今でもできる、顔を熱くしながら自分に言い聞かせた。母さんが始めたことを僕がやり遂げるんだ。

 息を整えて落ち着きを取り戻そうとしたとき、下方の路地から聞こえたふたりの会話に耳がぴんと立った。

 「言っとくけどな――こういう田舎での仕事に給料の価値なんてほとんどないぜ。オーメンポートの上等な仕事なら二倍は稼げる」

 「危険も二倍だけどな。最近スターリング社の警備兵が町中をうろついてるだろ。グレイウォーターの手下とやり合うつもりはないね。少なくともこんな僻地なら、自分の仕事だけ気にしてりゃいいからな」

 荒々しい笑い声が聞こえ、ナシは屋根の端へと近づいた。派手なビロードの上着をまとうふたりの精鋭射手団が建物の間に立ち、酒場で勝って手に入れたであろう金を数えていた。町から遠く離れた地でひとりの精鋭射手団員を見かけるのですら奇妙なことだが、彼らが二人組で行動しているのはさらに奇妙なことだった。ほとんどの団員は、互いを信頼しないほうがいいと知っている。

 「リラーが最近いい仕事についてるのも不思議じゃないぜ。あの魔法増幅薬のせいで実際手が出せねえ!」

 「ああいう薬が闇市で売ってたらいくらになるのかねえ?」

 「値段なんて意味ないぜ――精鋭射手団から物を盗んでカネにするようなやつはいねえだろ」

 「売るんじゃなくて――使いてえんだよな。あとよ、あれがひとつしか無えってわけじゃないよな? どう考えたってどっかから来たやつだ」

 「領界路ってのが繋がってるんだから、可能性は星の数ってか。もっとか」

 「そうだな、神様がいっぱいいる寒い次元から来たって話も聞いたぜ。そいつらが飲んでる不老不死の薬だとか」

 「そんなの嘘に決まってるだろ。あの都会の次元の光素とかいうやつの方がそれっぽいんじゃね」

 「ラヴニカか?」

 「いや、そっちじゃねえほうだよ!」

 「ああ、やれやれだ。最近はもうついて行けねえ。いや問題は、そんな薬はもっと沢山出回ってるはずなんだよ」

 「頑張って探すこった。でもお前がリラーから盗もうって話を続けるなら、お前を引き渡すのもいいかもな。今なら簡単に稼げそうだ」

 言われた側はそれを聞いて笑ったが、そこには見過ごせない鋭さがあった。ナシには予感があった――朝に町へと戻るのはどちらかひとりだけかもしれない。

 ふたりは通りを横切って宿へ向かい、その話し声は遠くへと消えていった。彼らを追うつもりはない。話は充分聞けた。

 サンダー・ジャンクションには増幅薬がある。物語の魔法を瞬時に強化できるようなものが。そしてそれは現在、リラーと呼ばれる精鋭射手団の首領が所有している。

 服に着いた砂を払いながら立ち上がる。今夜できることはもうほとんどない。では明日は?

 乗るべき列車がある。


 ボイジャー・グランデは雲に向かって伸びていた。鋸刃のような三角屋根と広範囲に広がる風車群が、巨大娯楽施設の最上部にそびえ立っていた。色とりどりの旗布が露台から露台へと伸び、屋根の切妻破風ごとに球状の照明が吊るされ、青の塗料で均一な縞模様も整然と描かれていた。

 リラーに関する情報を求めて録画映像を何日も精査して、ナシはようやく必要なもの、つまり増幅薬の場所を見つけた。ベルトに付けた装備を隠すように外套を整え、彼は巨大施設の正門をくぐった。

 入るとすぐに大広間があり、木製のカード用テーブルが端に並んでいた。幅広の階段をふたつ上がると二階にたどり着き、いくつもの照明が点灯して別の施設の出入り口を示していた。飲食店、舞踏場、演劇場などがあり、それらはどれも来場者からできるだけ多くの貨幣を取り上げるよう設計されていた。ナシは昇降機のひとつに向かい、目立たないよう努めながら身を屈めて入り込んだ。

 昇降機の扉が周囲を閉じ、床が上昇を始めた。壁にある操作盤を確認する。青銅のボタンが二列に並び、その上部には十階へと進むための鍵穴があった。調査は十分。精鋭射手団の本部は地下にあるが、十階は宿の中でも最上級の顧客のために用意されているということは確認済みだ。言い換えるならば、リラーが人目に触れないようにしたがっている者のために――あるいは物のために。

 装置のひとつをベルトから外し、操作盤に取り付ける。ボタンが激しく点滅し始め、鍵穴がけばけばしい青色に光った。十階で昇降機の扉が開くと、広い通路が見えた。

 廊下を右へと進んで最も近い通気口までたどり着き、ドローンのひとつに手を伸ばす。小さな金属球は震え、暗い穴へするりと潜り込んだ。こめかみの装置を使って通気口の中の球を導きながら、廊下をそのまま進んで角を曲がる。とある部屋の前で立ち止まり、ドローンをその部屋の通気口の金属格子に貼りつかせる。円鏡面を回転させて下の部屋すべてが映った画像を取得する。警備兵がひとりかふたりはいるだろうと考えてベルトにはそのための発煙弾も用意していた――しかし窓の近くにある事務机と奥の壁全体に設置された広いガラス棚があるだけで、部屋には誰もいなかった。

 これはいい――ナシはにやりと笑った。魁渡の侵入方法が参考になったという考えがちらついたが――その思考を押し退ける。魁渡との関係は……複雑だ。

 ドローンを部屋の中で旋回させながらカメラの映像に集中し、警報装置がないかと隅々まで調べる。侵入者検知用の光が仕掛け線のように床に伸びていて、ナシは思わず笑いそうになった。

 子供だってもっといい罠を仕掛けるぞ。そう思うと心は躍った。

 ドローンを上下に分割する。カメラ部分は空中に浮かんだまま、下半分は蝶の折り紙の形を取る。蝶は部屋の扉に向かって素早く宙を飛び、ノブに取り付く。金属製の脚が鍵穴に届き、向こう側からカチリという音が聞こえた。だが扉を開け、光を慎重に跨いで奥へと進もうとしたところで、彼をためらわせるものがあった。

 机の中央に、一本の小さなガラス瓶がぽつんと置かれていた。

 中の液体は真紅で、間違いなく金属だった。瓶には何も記されていなかったが、その匂いを嗅ぐと鼻孔が焼けるようだった。この魔法薬は忌まわしいほどの刺激臭を放ち、悪臭からナシの目に涙が滲んだ。もしかして、だから警備兵がいないのだろうか。

 こんな気持ち悪いものを飲み干すのはまったく勘弁願いたいが、これで母のように魔法が使えるようになるなら……

 母さんが望む自分になれるかもしれない。そう考えると胸が締め付けられた。

 薬に手を伸ばし――その手は、まるで瓶がそこには無いかのようにまっすぐすり抜けていった。おかしいな、ともう一度霊薬の瓶を握ろうとしたが、感じたのは空気だけだった。

 腕を引くと、危険を察するようにうなじの毛が逆立った。何かがおかしい。

 割れるような音がして思わず瓶へと振り返ると、瓶はその場で砕け散っていた。その音が立て続けに鳴り、はやる心臓の鼓動に合わせてガラスが割れていくところでナシは気づいた。瓶だけでなく――部屋全体が砕け散っていく。視界に線が現れ、小さくした稲妻のように周囲の世界を切り裂く。急ぎ振り返って扉を探すが、そこにも亀裂がある。そして――世界は爆発した。

 ナシは両手で頭を覆って屈みこみ、歯を食いしばって喉の奥に叫び声を押しとどめた。深く響き渡る笑い声が混乱を恐怖へと変えた。

 広げた指の隙間から周りの様子を伺うと、部屋はもはや何兆もの砕けた破片にはなっていなかった。全て元のまま動いていなかった――しかし先ほど瓶が置かれていた机には、青灰色の肌と獰猛な目つきの、女性のオーガがいた。片側の側頭部の髪は皮膚ぎりぎりまで剃りこまれ、もう片側の髪は赤く荒々しい波のように広がっていた。何らかの動物の牙が尖った両耳に刺し飾られ、袖のない栗色の外套がよく訓練された戦士の筋肉の曲線を露出させていた。けれどナシがひるんだのは、胴衣にぶら下がっている砂時計のランタンに気づいたからだった。

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アート:Ryan Pancoast

 「時間の魔道士」なんとか声を絞り出す。精鋭射手団に雇われた傭兵に関する情報について、急いで記憶を捜索する。ドローンの映像で見たことはないが、何度かその名前が挙がっていたことはよく覚えている。「オベカ」

 その女性はちらりと歯を見せてにやついた。「私が誰だか知ってる、なのに私から盗もうとしたのか? 私の腕が鈍ったか、あんたが死にたがってるか、さてどっちだろうね」

 ナシはゆっくりと立ち上がって言う。「いや、これはまったくの誤解だよ。この部屋には誰もいないと思って」

 「その言葉の後半は信じるよ。誰の差し金だ?」

 「誰でもないよ」断言する。

 オベカは首を横に傾け、上着からあの霊薬を取り出した。「これが目的なんだろう? 増幅薬を狙ってるのは誰だ? グレイウォーターか? 地獄拍車団か?」彼女は嫌そうに歯噛みをした。「あのヘビどもが競争に耐えられないってのはわかってた。子供相手なら私が手加減するとでも思ったのか。なんて骨のないやつら――」

 「僕は子供じゃない」オベカの声を遮る勢いでナシは否定した。「それに、何の話をしてるのかわからないよ」オベカは握った瓶を回しながらこちらを観察しており、それを睨み返す。脳内は精鋭射手団、時間の魔道士、オーガについての詳細を求めて全速で回転していた――自分が有利になるために思いつく限りのことを考える。落ち着いて話さねば。「僕はひとりで来たんだ」

 「私の雇い主が泥棒をどうするか知ってるのかい?」オベカは慎重に言葉を紡ぎ、黒い瞳がナシの中にある恐怖を探った。

 ナシはオベカを見た。瓶を見た。距離を測る。

 オベカはその動きを恐怖によるものと勘違いし、鼻で笑った。「精鋭射手団は互いに見せびらかすのが好みでね。普通の古臭い決闘だけじゃ足りない。何か特別なものがいるんだよ。派手なやつがね」

 「あなたもそうなら」こめかみを指でこすりながら話す。「僕の資格は十分みたいだ」

 蝶のドローンが空中から急降下し、オベカの拳に激突してその手から霊薬を奪い去った。ナシはそのままドローンを通気口に向かわせたが、それはかろうじて金属格子までたどり着いたところで震え――その場で凍り付くように一切の動きを止めた。

 オベカは怒りに顔を赤くし、片腕を伸ばして立っていた。その手の周囲から魔法が波紋を広げ、金色の鎖が前方へと飛び出し、ドローンに時を遡らせるかのように空中を勢い良く引っ張った。

 蝶のドローンはオベカの手に霊薬を送り返そうとするかのように、元の動きを辿った――予想通りだ。

 オベカの注意がドローンに向いているうちに、鞄から母の巻物を一本取り出し、不可視の覆いを被って逃げ出す泥棒の物語を急いで読み取る。自分の思考に邪魔されないよう気を付けながら文章を口にし、魔法を身体に流す。一瞬、その力を感じたが――鏡張りの壁に移る自分の姿がちらついて消えていくのが見えたが――サボテンの森のときと同様、その呪文は鈍った。

 彼の魔法が発した波は、オベカが霊薬を回収してドローンを床に叩きつけながらも、注意を引くに足るものだった。

 オベカの笑いは侮蔑に満ちていた。「わかったよ。あんたは本当に自分で欲しくて増幅薬を狙ってたってわけだ」彼女は瓶を上着の中へと押し込み、肩を怒らせた。「あんたみたいな弱っちいやつには薬が効かないってことは知っておいた方がいいな。この霊薬は力を与えるもんじゃない、強化するもんだ――どう見てもあんたに強化すべきものはないね」

 ナシの怒りが内に湧き上がる。相手が正しいかどうかは問題じゃない。素早く行動しなければ。発煙弾に手を伸ばし、投げつけようと腕を振り上げる瞬間、彼はオベカに顎を思い切り殴られた。

 痛みが顎全体に広がる。続けざまの激しい余波が体の芯まで揺さぶってくる。しかしオベカの拳は目の前で動きを止めていた。周囲に亀裂が走り、再び世界が崩壊していく。周りはどんどんガラスの破片になり、爆発が現実を粉砕するまで続いた。

 何かが体を強く引き、割れたガラスの穴を転げ落ちるようにナシは背後へと引っ張り込まれた。部屋は、万華鏡を覗いたように形を変えながら過ぎ去る映像の移り変わりへと変化していった。

 いや、これは単なる映像じゃない。そう気づき、周囲の情報に溺れながら目を丸くする。これは記憶だ。僕の記憶。

 タミヨウの顔がかすみながら目の前を通り過ぎた。残されたすべての力を振り絞って目に見えない拘束に抵抗する。母に向かって突き進むよう自身を引っ張る。やがて記憶に包まれ、彼は無重力のような状態で光と色の方向へと流されていった。

 ずっと幼いころの自分が、母さんの書斎の戸口に立って、巻物を読む母さんを見つめていた。その自分の手には小さな装置があった。ボルト、予備の仕掛け線、水上ドローンのチップを再利用して作ったものだ。それは鳥のようにさえずり、手の命令に反応して動く。母さんに喜んでほしかった。母さんはいつも鳥が好きだったから。

 だけど母さんを見つめる時間が長くなるほど、自分自身について考え直すようになった。再利用した部品を寄せ集めた玩具では褒めてもらえないんじゃないか。認めてもらえないんじゃないか。勉強が必要だ。物語の魔法を練習するために。

 母さんみたいにならないと。

 子供の自分が小さな装置を肌着の懐に仕舞い込み、疑念に肩を落としていると、母さんがこちらを向いた。母さんは何も聞いてこなかった。始めは何も言わなかった。ただ興味深そうな瞳で見つめていた。ちょうど、自身が記録した物語の人々を見つめるように。

 しばらくして、母さんは巻物を置いて子供の僕を腕に抱きよせた。「本当の自分を隠してはいけませんよ、ナシ。私にも、世界にもです」

 子供の僕はおどおどした声で答えた。「ぼくはみんなとちがうのはいやだ。いっしょがいい」

 母さんは顔を少し傾け、僕を見つめた。「私たちは家族です。あなたは私の息子です。あなたを愛する私の心と、私を愛するあなたの心はいつも同じです。それが、私たちが一緒ということですよ」母さんが子供の僕の顔を手で優しく包み、指で頬を撫でてくれる。「ですが、私があなたを誇らしく思うために、私たちが同じでなければならないということはありません。あなたはナシ。ナシこそ、私が誇りに思う子です。それをどうか忘れないで。本当のあなた自身をどうか忘れないで」

 記憶が溶けて消えた。瞬きをしたが、頭はふらつき、顎は痛み、ナシはようやく床の敷物から起き上がった。宿の一室に戻っているものの、オベカはすでに増幅薬と共に姿を消している。自分がどのくらい意識を失っていたのか、オベカに送り込まれた記憶をどこまで遡ったのか、まったく分からない。だけれども、思い出の暖かさが胸の一番前で静かに強まっていた。

 そのつもりはなかっただろうが、オベカはいい贈り物をくれた。

 落ち着きを取り戻して自分の宿に戻ってきたナシは、次に何をすべきかをはっきりと理解していた。


 宿の机の上には、組み立て途中のドローンが広げられていた。眉をひくつかせながら作業を進め、両目はマイクロチップの端のピンに集中する。はんだごての先端をそこに押し当てると、熱せられて焼け付く音から郷愁の感情が波紋のように広がった。金属の焼ける臭いに安らぎのようなものを感じた。

 我が家を思い出す。

 改造はこれでよし。保存領域からすべての録画映像を取り出す。サンダー・ジャンクション全域から集めた監視映像を見て、コマ送り単位で画像を調べ、必要なものを探す。

 自分が母の書斎にいて、かつて母が巻物を研究していたようにドローンを研究している様を想像すると、心の隙間にぴたりとはまるのを感じた。

 僕と母さんはそんなに違ってもいなかったんだ――そう思うと安堵感で喉が詰まった。

 徹夜で録画映像の内容を選び出し、各ドローンへと転送する。砂漠に日が昇り、埃っぽい窓ガラスから光がちらつく。椅子にもたれかかってこめかみの装置を押した。

 ナシの指先で、魔法はこれまでになくすんなりと活性化した。負担はない。制御に難儀することもない。自分自身という存在の延長であるかのように自分の内を通っていく。この数か月で初めて、自分が自分であると感じた。

 母はいつも、それでいいと思ってくれていた――そして今は自分も、これでいいと思えた。


 再びボイジャー・グランデの前に立つ。小さな鳥の折り紙を模した五機のドローンが周囲を旋回する。母のお気に入りだ。

 今回は帽子も外套も不要だ。自分自身と、胸に秘めた真実だけがあればいい。

 ナシは昇降機に乗って宿の最上階に上がり、廊下を慎重に進んで見覚えのある扉の前で立ち止まった。鍵を装置で解除すると、彼は返答を待たずに扉を開けた。

 オベカは椅子に座り、手前の机に足を乗せていた。その背後のガラスケースにあの霊薬が仕舞われていた。

 扉が勝手に開くのを見てオベカは眉をひそめたが、その目はこちらを捉えていなかった――彼が不可視の呪文を解くまでは。

 彼女がこちらを認識するまではほんの一瞬だったが、気づくと彼女の口端が上がった。「マジかい? 確かにあんたの命は取らなかったけど、二度と来るなって意図も相当込めたんだが」

 「そうだね。でも感謝を伝えたいと思ったら、他に方法はないし」

 オベカは胸の前で腕を組み、せせら笑った。「昨日へ殴り飛ばしてやった奴にされる反応じゃないね」

 ナシは一歩前に踏み出した。「あなたは僕に記憶を見せてくれた。そのおかげで、僕は今まで見逃していたことに気づいたんだ」

 「常識か? それとも生存本能かい?」

 思わず微笑む。「いや。うん、まあそれも少しはあるかも。だけど僕は母さんみたいになろうとしすぎて、自分の中にいる自分を受け入れることを忘れていたんだ」

 オベカは拳を机に押し付け、表面の木材をめりめりと砕いた。「じゃあ、そいつは何者だ?」

 ナシはドローンを誘導し、そのカメラから立体映像が現れた。オベカに殴られた昨夜の録画映像。音声は歪んで不明瞭だったが、映像は滑らかに動いている。正確に。

 オベカと共にその映像を鑑賞する。映像の中のナシが本当はそこにない霊薬に手を伸ばしたときの彼女の反応には興味ないけれども。

 オベカは鼻を鳴らした。「そうだ、あんたは時間の錯覚に騙されたガキだ。それを言うためにここまで来たのかい?」

 ナシはかぶりを振り、オベカの視界から消えた。オベカは驚き、慌てて目を見開いて部屋中を見回したが、そこで背後のガラスケースが大きく開いていることに気づいた。

 部屋の中央から再びナシの声が聞こえて、オベカは振り返ってそちらを見た。

 ナシは霊薬をその手に握ったまま肩をすくめた。「僕は大した語り部じゃない――でもカメラの扱い方は知ってるんでね」

 オベカは両目を怒りに燃え上がらせ、ナシへと突進した。だが彼女はその姿をすり抜け、勢いのままに床へと倒れ込んだ。「何をしやがった?」

 オベカが再び自分へと殴りかかるのを、開けた窓からナシは眺めた。部屋の中央にいるのは、録画したオベカの魔法を複製して作った幻影だ。これは便利な魔法だな。巻物の役割を監視映像に入れ替えてみると、物語の魔法を操るのがはるかに簡単になると分かった。彼はにやりと笑い、外壁をしっかり掴んで人目につかない屋上へと登った。

 屋根の勾配を横切り、こめかみに指を当ててドローンを呼び戻す。ドローンは彼の周囲をゆっくりとした軌道で動き、壁に張り付いて下に見える群衆にまぎれるまでついてきた。そしてナシはフードをかぶり、影の中に顔を隠した。

 「よくできましたね」母の囁き声が聞こえた。「あなたなら出来ると思っていましたよ」

 今日はお祝いだ。明日には、母さんの自慢の息子になろう。訪ねるべき新しい次元、発見すべき物語、そして記録すべき魔法――何でも来いだ。母さんが僕のそばにいてくれる限り、僕の邪魔をするものは何もない。


(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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