MAGIC STORY

サンダー・ジャンクションの無法者

EPISODE 08

エピローグ第1話 結末を その1

Alison Lührs
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2024年4月1日

 

 一年前、侵略樹にて

 旅の果てに残されたものは大惨事だけだった。ジェイスの手には酒杯があり、ファイレクシアはその侵略を成功させようとしている。そして、なぜ殲滅こそが平和に至る唯一の道なのか、ジェイスは友人たちへと必死の説明を試みるしかなかった。

 ジェイスを止めようとしている彼らは、正しいと感じるものしか見えていない。現実をわかっていない。耳を傾けていない。生き延びて苦しみ、やがて自らの滅亡を目の当たりにするであろう何十億もの人々を思い、ジェイスの心はひどく痛んだ。石のように確固たる倫理観を持つあの男がここにいてくれて、自分の主張を擁護してくれたなら。ファイレクシアが生き続けたなら多元宇宙の存続はありえない。自分たちは最初からやり直さなければならない。

 その先に勝利したとしても、何千という次元が滅びる。敗北したなら、それはあらゆる存在の終焉を意味する。ファイレクシアに汚染されていない多元宇宙を次の世代に渡せるかどうかは、俺たちにかかっている。

 行動しなければならない。自分はひとつの爆弾であるとジェイスはわかっていた。とてつもなく巨大で重い火打石であり、上向きのナイフがびっしりと並べられた戦場であり、蜘蛛の巣に支えられた鉄槌なのだと。そして今この瞬間、彼は震える手を酒杯のすぐ手前に固定していた。腕からうごめくケーブル、それは自分のものだったが、酒杯を嫌がるように後退した。わずかに残る彼自身はその反応に興味をそそられた。ファイレクシア化ですら、自己保存の本能を根絶することはできないのだ。それは理想的なものとは言えない。エリシュ・ノーンに消し去られないように、自分は今すぐに死ななければならない。

 変質はほとんど完了していたが、極限状態の自制心だけがそれを押し留めていた。時が経つごとに新たなケーブルが蛇のように腕から這い出し、友人たちの心を刺激した。そしてその度に彼はそれを宥めようと力を費やした。外見からして既に警戒すべきものだったが、真に不安にさせられたのは、目を閉じてもなお見ることができるという事実だった。彼は今、友人たちを見ていた。彼らそれぞれの表情が怒り、失望、傷心へと変わる様を見つめた。裏切られたという彼らの思いを感じた。

 ファイレクシアが勝利した時には――「もし勝利したなら」ではなく――自分がどれほど危険な存在になるかをジェイスはわかっていた。何せ、ファイレクシアは自分が知る最強の存在のひとりを既に転向させてしまったのだから。自分のこの能力をもってしても、果たして対抗できる術があるだろうか? 今この時も、ジェイスは自身の力が大きく広がりつつあるのを感じていた。温泉のように心地よい油が浸み寄る感覚があった。惹かれるのを、硫黄の匂いを感じた――自分自身の死の警告。彼の知るヴラスカは死に、自分もまもなく死に、完全なる統一が訪れる。だから多元宇宙を新しく始めるのは筋の通った唯一の結論。無数のために少数を犠牲にする。そうだろう、ギデオン?

 友人たちは理解してくれないだろう、ジェイスはそう認めていた。けれど少なくとも、騙されているという思いは長くは続かないはずだ。酒杯はまもなくその力を発揮する。ジェイスは最後にもう一度、友人たちを見た。ケイヤと魁渡。そして彼らに安らぎを与えようかと少し考えた。目を閉じ、死の訪れまで眠れと命令する――けれど自分はもうあの少年ではない。今わの時に最後の優しさを与えたなら、彼らは選択肢を得てしまう。

 酒杯を最後に使用した人物の名を彼は知っていた。どのような男であったかを知っていた。かつてリリアナが、ドミナリアの古い格言で毒づいたことがあった。悪意を込め、彼女はジェイスの知らない名前を囁いた。「瞼をしっかり開いて見なさい。そうでないとウルザの目で見ることになるわよ」

 ジェイスはそれが侮辱であることは分かったが、文脈は理解できなかった。今こうして酒杯に手をかざし、文字通り終末のふちに指を触れていると、善いことと正しいことの境界線は想像上のもののように感じられた。ウルザは正義の人ではなかった。まあ、自分もだが。けれど正しいことは、時々ではあるが、ある瞬間にのみ善いこととなる。おそらく、自分たちのような人物だけにこんなことができるのだろう。

 俺たち全員がここにいる限り、状況は悪化するだけだ。

 ジェイスは酒杯を掴み、同時に、身を委ねた。

 「大地を拭い去れ。終焉をもたらせ」彼は呟いた。「ごめん」

 彼は自分自身を断ち切り、感じることのできるすべての苦悩を酒杯へと注ぎ込んだ。友人たちも沢山の次元もファイレクシアに屈した。それを清めることができるのは真の消滅だけ。

 ジェイスの身体が痙攣し、両目は輝きを発し、物質と自己として保持していたものがすべて切り離された。彼は狼狽の中で掌握を試み、自身の身体を制御しようとした。だが完成化は終わった――ここにいるのはファイレクシア人としてのジェイスであり、肉体などという些細なものが入り込む余地はなかった。

 壁が崩れ去り、彼の意識は目覚めの世界から遮断され、見慣れた暗闇の中に飲み込まれた。

 まるで落下していくような、この断絶。酒杯はきちんと機能したのだろうか。彼は諦めの中でぼんやりとそう思いながら、ファイレクシア化とこの静かな場所の温もりの中を泳いでいった。内へ、そして下へ。向かう先は死ではなく、ギデオンとカリストが待っている眩しい雲でもなく、彼自身の心の広大な内部。

 身体は残っているが、ジェイスはもはやいなかった。

 心の内部を落下しながら、ジェイスは自分自身を封じ、表層から切り離していった。避難したかったのか、それともファイレクシア人としての自身に強制されたのかはわからない。

 奇妙だった――完成化とはこんなふうに感じるものなのだろうか? 馴染みがあった。まるで忘れてしまっていただけのような。


 まっさらな心の平原の中でジェイスは目覚めた――意識を取り戻した、と言えるのだろうか。彼方の地平線に継ぎ目はなく、ただどこまでも続く純白の石と、その中心に簡素な井戸がひとつあるだけだった。これまでにも何度も来たことがある場所。

 ジェイス自身の心の井戸。それは見慣れていながらも不安を覚えるもので、表面に掌を触れると自らの血のように温かかった。またここに来るとは。彼は腹を立てながら近づき、足でそのふちを蹴り、更に落下していった。

 内へと。

 下へと。

 彼は無事に、温かな海面に衝突した。水面まで泳ぎ、塩水を吐き出し、陽光に瞬きをした。潮の流れが彼をゆっくりと浅瀬へ運んでいった。青緑色に輝く水は心地よかった。足元には魚が鱗をきらめかせ、爪先の下には粗い砂とサンゴの破片を感じた。柔らかな風が一羽のアホウドリを上空に運んできた。その鳥は何も言わず、だがその存在が、今いる場所を伝えてくれていた。ただひとつの場所。

 穏やかな緑色の標のように、役立たず島の複製が彼のすぐ背後にあった。心をかき乱すかもしれない光景、だがジェイスは安堵した。今回は記憶喪失ではないらしい。ここは自分の心の中(けれどどうやって――泡のようなものだろうか? ファイレクシア化から守られた意識の一部だろうか? どうやらそうらしい。沢山の怪物に干渉されてきたおかげだ)。そしてここにいる今の自分は、何にも触れられていない無傷の自分だとわかっていた。身体には傷もケーブルもなく、何一つ損なわれてもいないようだった。ジェイスは穏やかで澄んだ海を眺めた。どうやら自分自身の奥深くに、心の拠り所を作っていたらしい。ぎらつく油から隠された、小さな無傷のかけらを。

 だが自身の存在について熟考すべきその瞬間は、巨大な引力によって中断された。

 激流が彼を荒々しく引きずり、来た道を連れ戻していった。

 役立たず島が次第に小さくなり、海は広く遠くなっていった。引き上げられ、ジェイスは驚きと憤怒に叫んだ。待て、やめろ、あそこはいい場所で――

 心の避難所、限りある小さな楽園の外へ。

 遠くへ。

 空へ。

 頭上にあいたひとつの穴、丸く暗い洞窟。井戸の底。

 ジェイスは更に上へと引かれ、井戸の壁に叩きつけられ、目を固く閉じて氷と油の中を突き進んだ。そして不意に……目覚めた。

 そこは物質的な世界だった。

 ジェイスは自らの身体に戻っていた。実際に存在するものの上に立っていた。彼は狼狽し、皮膚に震えが走った。本物の空気を吸っており、自身の(ふたつの)目で瞬きをしており、両腕の忌々しいケーブルから辺りの状況を把握していた。

 ここは侵略樹? 何が起こった? どれほどの時間が過ぎている?

 その身体は彼のものではなかった――完成化されていた。動きがあり、声があがった。近くで味方が叫んでいる。酒杯を起動してからほんの数瞬しか経っていないということか。自分には意識がある、そしてそのはずはない。何故? すべてが終わろうとしているのに、どうして終わらない?

 視線を下ろすと、一本の剣が胸に突き刺さっていた。その内に込められていた光素が、刻まれたばかりの傷からにじみ出ていた。

 ――こんなことが。

 危険を察し、焼けつく痛みが全身に広がる中、ジェイスは本能に従って自身を幻影で覆い隠した。死んでいないなら、最善の選択肢は死んだふりをすること。幻影の影武者がいとも簡単にその剣を引き抜く一方、本物のジェイスは胸に剣を刺したまま倒れ込んだ。自身の身体的能力を痛感した。彼は黒色の胆汁を吐き出した。咳き込み、震え、心臓は油を送り出した。うずくまり、柄に両手をかけ、実際的な勇気をもって彼は剣を引き抜いた。不可視状態のまま、苦痛の中で沈黙を保つためにできる限りを尽くした(とはいえ発せられた音は精神波で押し殺した)。剣が地面に落ちると彼はその横にうつぶせになり、震えながら咳き込んだ。刃の中の光素が彼の精神を支え、ファイレクシア人としての身体から支配を奪おうとした。目に見えない自分自身を彼は見守った。

 ジェイスはエリシュ・ノーンの傍らに幻影を送り出した。ありがたいことに、その支配力にもかかわらず彼女は精神魔法に関しては素人だった。機械の母は詩を口ずさむように告げた。「彼女らはひとつ。其方らも、同じくひとつとなれる。屈するだけでよい。速やかに終わるであろう」

 彼は自身の幻影を動かした――物静かで自制心があり、生意気だが従順な、他者の計画のための便利な道具として。だがエリシュ・ノーンは全く気付いていない。俺をそんなふうに見てるのか、精神魔法に関しては幼児ってところだな? 幻影が傲慢な笑みを浮かべる一方で、本物のジェイスは再び嘔吐した。食いしばった歯の間から油がにじみ出た。ノーンは傲慢で無防備だった。もし刺されていなかったなら、一撃を与えてやっただろう。

 タイヴァーは拒否した。魁渡はジェイスが羨む気軽なそぶりで断った。ケイヤはその招待へと唾を吐いた。「其奴らは敵だ」、エリシュ・ノーンはそう宣言した。

 時間が無益に過ぎていくように感じ、光素が身体を流れていった。自分は治るのか、それともこの解毒剤によって死を意識できるようになっただけなのか、それはわからなかった。もう力はなく、抵抗することはできなかった。終わりはまだすぐそこにあった。だがジェイスの胸の傷の中には希望があった――多元宇宙を救うことはできない、けれどあの人を救うことはできる。

 ヴラスカさんも、ノーンが相手なら許してくれますよね。彼はそう正当化し、誘われていないにもかかわらずエリシュ・ノーンの心を素早く読んだ。その行為はねばつく髄液の中で手を洗うような不快なものだった。だが彼を捉えたのは、ノーンからの命令だった。

 帰るがよい。機械の母が命じた――帰るがよい。

 その命令を解析するためにジェイスは少しの時間を要した。彼女は精神魔法の使い手ではなく、ボーラスのようにこちらの出自を調べていたわけでもない。ノーンの望みは単純にして明快だった。それでもジェイスは依然として、ファイレクシア人としての自身が解釈したその願いを囁き声として聞いていた――ヴリンに戻れ。其方が壊したものを直せ。これが其方の償いだ。

 (思い出した。今。何の償いをしなければいけないのかを)

 (記憶を取り戻した後も、ヴリンについては壁の向こうに封じていた。アルハマレットが自分に何をさせたのか、自分たちの罪がもたらした影響はどれほどのものだったのか、大人になってから見るそれはとても明瞭だった。自分たちがどれほどの争いを引き起こしたのか。更なる争いをもたらすために、あのスフィンクスが弟子の記憶を消すことにどれほどの喜びを見出していたのか)

 エリシュ・ノーンの心を読もうとする、その奮闘が彼の集中を乱した。ジェイスは先程の潮流に再び引かれ、意識があの井戸の中へと後退するのを感じた。安全で離れた場所へ。彼は心にしがみつき、わめき、だがノーンが指示する場所へと身体が次元渡りを始めるのを感じた。

 行っては駄目だ。

 行かなければならない。

 不可視状態のまま久遠の闇に這い入ると、凝縮された息が絞り出されるようだった。彼は残してきた幻影を消し去り、身体が上昇すると同時に心は退いていった。遠く離れた身体の感覚が届き、郷愁の恐怖をとらえた。降りはじめた雨の匂い、帯電したオゾンの匂い、低木地帯に降る雨、魔道士輪の巨大な曲線から雫が落ちる音。

 「駄目だ!」ファイレクシア化が再び掌握を確保して光素の楔を引き抜く中、彼はかろうじて叫んだ。彼の身体は久遠の闇の霊気から出て、何年も見ていなかった次元の湿った土へと踏み出した。潮流がジェイスの精神を引き離し、内なる広大な海へと連れていった。

 ファイレクシア化が更に彼を遠ざけた。ジェイスは自身への制御を失い、心の奥深くへと戻って身体から離れていった――そして水飛沫をあげて浅い海の水面に激突した。

 彼は立ち上がり、咳き込んで海水を吐き出し、怒りを込めて水面を叩いた。そして罵りながら岸辺へと向かい、憤怒とともに水から上がった。自分に何ができるのだろうか。光素のおかげで一度は意識を取り戻すことができたが、それは一時的な解決策に過ぎなかった。ここで制御できるのは自分の心だけであり、その先の身体はできない。

 ジェイスは砂の上にうずくまり、解決策を必死に考えた。扉のない独房から囚人はどうやって脱出すればいい?

 火をつければいい――心が有益に示唆してくれた。

 ひとつの遠い記憶が焼き付くように現れ、彼はすぐ隣でそれを聞いた。「脳は身体の座。脳の主導で身体は癒え、あるいは衰えもする」

 それは古い記憶だった。複雑で遠く、十年以上もの忘却の層を隔てたこだまだったが、何にせよその知恵が回答をくれた。自分自身を病気に罹らせ、身体を強制し、心が戦えないものと戦ってもらう。

 ジェイスは立ち上がり、粉のように柔らかな浜辺の砂を足で踏みしめた。そして体幹に力を込め、息を吐き、テレパスで命令しながら水平線へと両手を伸ばした。両目が燃え上がるように感じた。

 君の血管の中の油はウイルスだ。

 即座には何も起こらなかった。だが水平線の端で空の色が濃くなり、歪み、乱れ、渦を巻くのが見えた。

 君は熱病にかかっている。重い病気にかかっている。

 空に稲妻が弾け、ジェイスは自分自身が前へと引っ張られるのを感じた。持ち上げられて引かれ、爪先が砂をこすった。彼は呼びかけを強め、意志のすべてを自身の務めに集中させた。生き延びるためには、身体をファイレクシア化のウイルスと戦わせなければならない。彼は促し、そして内へと戻り――

 君は息をしている。生きている。

 君は感染と戦い、勝利しようとしている。

 ジェイスは瞬きをした。意識をちらつかせ、外で自分の身体が何をしているのかを――

 ――耳鳴りではない。これは静電気のざわめき――

 ――身体は荒れ狂う空の下にあり、群衆に揉まれていた。耳鳴りがした。自分と同じファイレクシア人の長蛇の列、その中に彼はいた。沢山の、とても沢山の人々。彼自身のケーブルが見つめ、読み取り、精神攻撃の波動を外へと集中させていた。身体が雨粒を感じ、奇妙な爪弾き音を聞いた。惑星の鼓動のような……そして深く激しい罪悪感とともに、その音の正体がわかった。魔道士輪の音。子供の時以来、聞いていなかった音。だがジェイスが周囲の状況を理解したのは、顔を上げたその時だった。周囲のファイレクシア人たちが前進し、その先には死体の道が一本、彼らのために切り開かれていた。そしてそれを切り開いたのは、ジェイスだった。

 見つめた先に凄惨な光景が広がっていった。ヴリンの戦場で人々が痙攣し、喘ぎ、四肢を地面に打ちつけていた。二十人の兵士が目の前に並び、彼らの心は静止した不協和音の中でジェイスに合わせて歌っていた。その音量はあまりに大きく、あまりに騒々しく、そのためジェイスは気付くまでに少しの時間を要した――そのざわめきは、静けさは、発作を引き起こすその呪文は自分から発せられているのだと。

 彼はその呪文を中断し、吐き気に耐えながら乱れた呼吸を整えた。心が張り裂け、両手が震えた。恐怖の中、ジェイスは目の前の惨事に自らの真実を見た。これこそが真の自分の姿。羞恥に縛られない、止めることのできない力。いつでもなり得た姿。

 あの潮流が再び引き、ジェイスの意識が流されていった。引き戻されるにつれ、ファイレクシア人としての自身が表層に浮かび上がった。その変化を止めるため、ジェイスは力の限りに自身の身体へと命令した。

 君は眠っている。君は眠っている。君は眠っている。

 そして不意に、

 彼は眠った。


 まるで何かに衝突するように、唐突にジェイスは意識を取り戻した。喘ぎを発して彼は目覚めた。身体と心は再びひとつになっており、峡谷の地面にあおむけに横たわっていた。辺りは死体だらけで、そのほとんどはファイレクシア人のものだった。雨が皮膚に浸みこんでいた。胸は光素の残滓に焼け付き、腕には引き抜いたチューブの傷が皺になっていたが、ジェイスが何よりも感じたのは熱だった。熱い眩暈とぼやけた幻覚で視界は揺れ、筋肉は悪寒に震え、額の汗が雨と混じった。自分の力を新たな限界まで押し上げたのだ。彼は誇らしく、また弱く、そして同時に力強くもあった。

 だがそして、彼は土の上で死へと向かう犠牲者たちの列また列を思い出した。それが自身の過ちであることを思い出した。支配し、破壊し、殺す。なんと簡単であったことか。簡単なのは、前にもヴリンの兵士を殺したことがあるから。アルハマレットは誇らしく思うだろうね。聞こえた声は彼自身のものだった。熱病から来る妄想、そしてジェイスはその裁きを耳にして震えた。自分が何者かを忘れてしまったのか? 熱病に燃えつきなかった自分自身がすべて、目の前の地面に落ちた。ジェイスは救世主の幻を見事にまとい、酒杯を運べるのだと、自分たちは多元宇宙を救えるのだと友人たちを説得したのだった。その快適な幻想は、彼が難なく支配して傷を与え、死なせた沢山の兵士たちとは明確な対照をなしていた。そう、自分は忘れてしまっていたのだ。

 新たな熱の波に襲われ、ジェイスはうなされた声を心の中で吐き出した。凍えるほどの寒気がして、身体は汗でじっとりと濡れていた。自ら引き起こした脳炎の妄想の中、彼は次にどこへ向かうのかもわからないままに立ち上がった。自分の身体が抵抗するのを感じ、油からの呼びかけがまたも聞こえた。だが今回は違った――ジェイスは油にまみれた土に踵をめり込ませ、自身の心へと断言した。「俺は自分を掌握している」

 彼は瞬きをし、呼吸をした。掌握している。これは俺自身。そして自らを取り戻した喜びの中、ジェイスは腕のケーブルを一本掴んで引き抜いた。彼は悲鳴をあげた。油混じりの血が傷口から流れ出し、素肌が熱を帯びるのを感じた。

 油の引力は弱まっていたが、彼の心臓や肺も同様だった。今や、胸の傷からは油ではなく血が漏れ出ていた。彼は死につつあった。それでも、死体の幾つかは今なお動いていた――ジェイスは彼らに夢のない眠りを与えた。彼らは雨に濡れた柔らかな壌土に座り、四肢を近くのセージの茂みに押し込み、長い根を張る草に頭を横たえた。ジェイスは自身が目にした植物それぞれの名前をかすかに思い出した。それらが何の治療に用いられるのか、昔教えられたことを覚えていた。ファイレクシア人は撤退して久しく、遥か頭上の魔道士輪の響きだけが風に乗って届いていた。生きて、かつ目覚めて戦場にいるのは彼だけだった。その感覚に彼は怯えた。達成感を思い出した――あのスフィンクスが承認に低く喉を鳴らす声を。

 別の記憶が高鳴る心臓を掴み、彼を現在へと引き戻した。

 ヴラスカさん。

 理性が、熱が、傷が、血管の中の油が、心の内海へ退けと促していた。目覚めた目を永遠に閉じろと促していた。そのすべてに逆らい、ジェイスは苦痛の叫びをあげて次元渡りを試みた。

 ラヴニカに行かなければ。自分を救えるなら、ヴラスカも救えるかもしれない。

 ジェイスが帰還すると、我が家というべき世界は血まみれになっていた。

 ラヴニカは再び戦乱のさなかにあり、同胞たちが両目を奪われて顔を押さえ、街に溢れていた。ボロスの天使たちがスズメバチのように空に群れ、猛々しいグルールの獣がバリケードを突破してファイレクシア人たちを蹂躙した。再びの灯争大戦、けれどジェイスはわかっていた。勝利をもたらそうとしている者はラヴニカの舵を握る王神ではなく、最愛の人であると。

 彼はアゾリウス平和維持軍の大隊を避け、磨かれた金色のスパイクで武装したオルゾフ組のスラルの群れから離れ、とある路地に身を潜めた。ジェイスは静かな戸口を見つけ、胸の傷を押さえながら目を閉じ、そして放った。彼の心は橋や歩廊をかすめ、戦闘やその騒音を過ぎ、死にゆく者たちの意識を巧みにかわし、誰よりも愛する人の心を求めて進んでいった。ほんの一瞬しかかからなかった――そこだ。ジェイスが見つけたものはとても小さく、けれどそれは彼女だった。薄い、ひとつの破片。

 ジェイスは心臓近くの穴を手で押さえ、駆け出した。

 戦いは激化し、ファイレクシア軍は押し戻されつつあった。狼狽と混乱に陥った侵略者たちが、不安をジェイスの脳裏に響かせた。自分たちの指揮官は死んだのではないか、ラヴニカ人は油を電気で焼き尽くす装置を所持しているのではないか、逃げなければならないのではないか――

 それは雑音でしかなかった。ジェイスに聞こえるのは遠くでかすかに震える、静かな水晶のようなヴラスカの心の響きだけだった。彼は瓦礫を乗り越え、空き家を探し、階段を上るために押し入った。血の痕跡を残してジェイスは駆けた。身体を無理矢理持ち上げるように屋上に出ると、空を舞うドレイクを召喚して低空飛行させ、それを掴んだ。かろうじて上手くいった。その生物は彼を運びながら抗議したが、十分な仕事をしてくれた――眼下の屋根に、ヴラスカが力なく倒れている姿が見えた。

 その様子に、ジェイスは声をあげずにはいられなかった。

 彼女の身体は燃えて壊れた合金の塊だった。金属が内側から焼け、肉の皮膚でない部分は青くなり、あるいは焦げていた。爪は獣のそれのように長く伸び、触手の髪はもつれたワイヤーと化し、認識できるあらゆる部分が彼自身と同じように歪んでいた。ヴラスカは動いていなかったが、まだ生きているとジェイスはわかっていた。

 彼はひざまずいてヴラスカへと両腕を回し、焦りながらも残された意志を振り絞って膝へと抱き上げた。「目を開けてくれますか?」柔らかく、緊張とともに彼は呼びかけた。不安に手が震えた――血まみれで油が飛び散った手、それでもジェイスは彼女の頬を撫でた。「息はできますか?」

 ヴラスカの返答はなく、そのためジェイスは彼女の内へと入り込んだ。辛くないように、心の隅に。そして馴染みのある嘲りが聞こえた。

 「いい気になるんじゃないよ、ベレレン。息ができないくらいお前に見とれてなんかいない」

 ジェイスは安堵の息をつき、ヴラスカへと自身を近づけた。彼女がまだ存在しているのはひとつの奇跡だった――精神魔法の才能なしに、どうやってファイレクシア化に耐えたのだろう?

 「何を思い出せますか?」

 ヴラスカは説明した。

 それを聞いてジェイスは理解した。彼女は外の様子を知らず、自らを無傷で守る泡の中から話しかけているのだ。ちょうど彼がそうしたように。

 そしてふたりはしばし、一緒の時を過ごした。

 ヴラスカに誘われ、ジェイスはその鮮やかな心の全貌へと入っていった。そして彼女の自衛本能と無意識の創意工夫に驚嘆した――かつて作ってあげた秘密の隠れ処にいたのだ。ヴラスカは自らを守った。そうするのが当然だったから。ふたりは寄り添い、互いを記憶に留めた。ジェイスは愛する人を抱きしめながら、この瞬間が永遠に続くことを願った。ヴラスカの触手の髪と、微笑んだ時に浮かぶ目尻の皺だけを見ていたいと願った。

 一万の次元よりも大切な人。

 けれどその時は終わった。自分たちのどちらも、あのカラデシュで見たような直前パーティーを開催することはない。ジェイスはヴラスカを瓦礫の上に横たえた。そして片脚をつき、額をヴラスカのそれに近づけ――それはまるで、ガラスの家に向けられた大砲だ――両手で彼女の顔を包み込んだ。自分のファイレクシア化を(ほとんど)逆行させられたのだから、きっと彼女に対しても同じことができるだろう。少なくともそれがジェイスの仮説だった。これまでに用いてきた精神魔法の中でも、最も困難なものになるだろう。そしてヴラスカがどうなるのかはわからない。けれど、きっとこれが最善なのだ。

 ジェイスは警告した。「身構えて下さい。これは痛みますから」

 ヴラスカの声が扉を挟んで応えるように届いた。かすむ意識の中で、幸せそうに、純真に。「いつだって私はお前のものだよ」

 ジェイスはヴラスカの額に口付けをした。そして自らを治癒しろと命令するためには、完全に覚醒していてもらう必要がある。彼は昔の約束、ニコル・ボーラスを妨害する計画を思い出した。今なおヴラスカに取り付けられたままの錠。方法はひとつだけ、そしてそれは自身の限界を試すことになる。ジェイスは鋭くひとつ息をつき、身構えた――

 「俺も愛しています、船長」

 そして、落ち着いた呼吸とともに、ジェイスは同時に五つの奇跡を行使した。

 最初に、そして即座に。ジェイスがその肩書きを声に発するや否や、ヴラスカの精神の奥へと繋がる扉が弾け飛んだ――彼女をファイレクシア化から無傷でその内に守っていた扉が。ヴラスカの人格が意識の表層に飛び出し、ふたりの繋がりの中で輝く白光に燃え上がった。ジェイスはそれを捉え、自らの愛という光で包み込んで保護すると、完成化したヴラスカの心が感染を広げて定着する前に素早く受け止めた。目覚めの世界でヴラスカの両目が勢いよく開かれた。彼女は息をのみ、筋肉が痙攣を始めた。

 同時に彼は、ヴラスカの身体を変化させた毒がその心にまで及ばないよう、長く堅固な壁を内なる領域に築いた。その壁はジェイスが愛する彼女のすべてで作られていた。鱗と甲殻、どこかの次元のティーカップやこの次元の美しいドレス、帆船の床板、彼女だけが生み出すことのできる石。それはヴラスカの強さと意志の記念碑であり、その背後に彼はファイレクシアの汚染の毒気を集めて囲い込んだ。

 そしてまた同時に、彼女自身の命を救うよう、ジェイスの別の部分が声高に告げた。それは生存のために脳から身体に発せられる指令として、彼自身の心にもまた反響した。

 貴女は感染と戦っています。熱病にかかっています。貴女は呼吸をしていて、生きています。その血管の中の油はウイルスです。

 四つめに、ジェイスは全力でヴラスカの身体を持ち上げた。筋肉は疲労に屈し、胸にあいた穴からは油の混じらない血液が再び噴き出した。そして死に際の決意とともに、彼はヴラスカを久遠の闇へと引き込んだ。何処へ向かえばいいかもわからなかった。だがその永遠の揺らぎに踏み入るや否や、彼は気付いた――ここまで努力して、最も複雑な精神魔法を行使したというのに、自分たちは衰弱しきっている。先に進む力はほとんど残されていなかった。助けがなければ死んでしまうだろう。

 そして最後に、ジェイスの心の五つめの部分が思い出した。治療師をひとり知っている。生まれた時から知っている。

 愛する人を抱え、彼は立ち去ったばかりの次元へと引き返した。

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アート:Fajareka Setiawan

 久遠の闇はひとつの心と同じように、ジェイスへと常に同じ様相を見せる。果てしなく入り組んだガラスの層が曲線を描き、重なり合い、数学的であると同時に感情にも訴える。心は論理的な場所ではない――激しい生物的衝動と天性の反応を誰もが包含している。空間のはざまの霊気は、ジェイスの前に常にそれと同じように現れた。非論理的で、壊れやすく、混沌として美しい場所。

 ヴラスカは彼の腕の中にいた。霊気の中を横断しながら、彼女が目を開くのがわかった。そして上を、背後を見るのがわかった。おそらくジェイスの目に映る久遠の闇を初めて見ているのだろう。一瞬、彼女とジェイスの目が合った。

 肉体的な苦痛がジェイスの歩みを遅くした。彼は背中から外れたケーブルにつまずき、同時に皮膚が引き裂かれて悲鳴をあげた。命の危機を逃れられるであろう唯一の場所、そこを目指す間も血が滴り、下方の霊気へと雫の音を立てた。いつでも帰ることができた唯一の場所。ノーンに帰れと告げられた時に真っ先に思い浮かんだ場所。

 スミレの香りとともに入口が開き、久遠の闇からジェイスは踏み出た。

 彼は再びつまずいた。ケーブルが外れ、背後に血を飛び散らせながら、彼とヴラスカは別の次元に、手織りの敷物の上に倒れ込んだ。

 その敷物は古く、藍色の手織りのもので、精巧な円と簡素な馬が描かれていた。ジェイスが転がって仰向けになると血が流れ出し、敷物全体を汚すのがわかった。到着した部屋は、彼が覚えているよりも小さかった――白く塗られた板壁、梁がむき出しの低い天井、壁一面を占める手作りの本棚、その向かいでは横長の窓に雨が叩きつけていた。どこもかしこも散らかっており、顔の近くに積み上げられた本の上には眼鏡が置かれていた。

 ヴラスカは顔を緑色に熱くし、呼吸はしているものの咳き込んでいた。その隣でジェイスも自身の熱に息を切らした。そしてヴラスカの手を握ろうとすると、彼女の指から金属の塊が剥がれた。ケーブルが落ちて傷の開いた自分と同じく、ヴラスカも酷い様相だった。けれど生きており、だからこそ美しかった。

 彼は微笑んだ。そしてそのために残る全力を要した。

 「どういうこと」声が聞こえた。十年以上も聞いていなかった声が。

 顔を上げるとひとりの中年女性の姿が見えた。灰色がかった茶色の髪、彼と同じ澄んだ水色の瞳。背は低く、しなやかで逞しく、顔つきはテンのように鋭い。感情を見せずにその女性は立ち止まり、治療師の教本をテーブルの上に置いた。常に冷静なラーナ・ベレレンは、自身の居室に落ちてきた血まみれの怪物たち相手にも警戒を露わにしなかった。

 ラーナは恐る恐る近づき、右手の指に紺碧色の光を尖らせた――咄嗟の防御のための外科用メスの呪文。だが自身と同じ瞳を見て、彼女ははっと立ち止まった。

 「ジェイス?」そして毒づくように彼の名を囁いた。

 消耗しきって、言葉を発することすらできなかった。そのため熱と疲労に圧倒される直前、ジェイスは相手の心に直接語りかけた。

 助けて、母さん。本当に、ごめんなさい。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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