MAGIC STORY

サンダー・ジャンクションの無法者

EPISODE 10

エピローグ第2話 結末を その2

Alison Lührs
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2024年4月2日

 

 ヴリンにて

 ジェイスは瞬きをして汗と油を両目から払い、発熱に身震いをした。小さなその部屋の匂いはひどく懐かしかった。まるで自分は遠い昔の幽霊であり、呼びかけに応えてやって来たかのように。近くの明かりが発する光に、ジェイスが外した僅かなケーブルがひるんだ。こんな不自然な形の帰郷は気まずく、だが母が即座に行動を開始する様子にジェイスは驚嘆した。戸惑うことも問いかけることもせず、母は治療に取りかかっていた。

 ラーナ・ベレレンは膝をついて片手を息子の頬にあて、もう片方の手でカーディガンを握り締めて胸の傷に押しあてた。ジェイスはヴラスカと並んで母の居室の床に横たわっていた。ふたりとも血にまみれて怪我だらけだった。彼は苦しい息を吸い、発熱でべたつく額に母の手が触れるのを感じた。今この時、彼は大人であると同時に子供でもあった。治療師の母が最後に熱を診てくれたのは、ずっと小さい頃のことだった。だが母の手から違和感が届き、自分がいつしか心に入り込んでいたと気付いた。ジェイスは恥ずかしさと共に退いた。

 母はヴラスカにどう反応するだろう、そうジェイスはしばし不安になった。血まみれでぼろぼろの、ファイレクシア化したゴルゴンが居室に降ってきたのだから。だが少ししてジェイスは自身の大きな幸運を思い出した――ヴリンにゴルゴンはいない。つまり母はゴルゴンという種族を知らないのだ。最愛の人は、良く言って蛇の怪物に見える。悪く言ってファイレクシアの蛇の怪物か。もし死にかけていなかったら、彼は笑っていただろう。

 「ジェイスを、先に、助けて」かすれた声をヴラスカが発した。ジェイスが顔を向けると、彼女は母の目をまっすぐに見つめていた。信頼の視線を向けていた。「私は、ヴラスカ……貴女の、息子は、私の、命より、大切な、人……お願い、ジェイスを」そうだ、ヴラスカは母を知っている。自分のすべてを見たのだから。ジェイスは時にその事実を忘れてしまうのだった。

 ラーナは眉間に皺を寄せ、その表情には集中と同時に不安があった。母の両目がジェイスへとちらつき(自身の瞳が映った。ふたり同じ、底のない透き通った湖の色)、投げかけられた質問を彼は心の中に聞いた。

 あなたのお嫁さん?

 その問いかけはあまりに巨大で、ジェイスはその重みに咳き込んだ。お嫁さん。そんな小さな概念にヴラスカを閉じ込めようなどと思ったことはなかった。けれど想像した――ヴラスカが自分の家族の色をまとい、祖母のイヤリングを繋いだ首飾りをつけて沢山の次元を旅し、皺だらけで年老いたふたりの手にはヴリンの結婚腕輪が……ジェイスは一瞬、希望に囚われた。口を堅く閉じたまま、彼は母へと返答した。

 この人は、俺にとっての世界そのものなんだ。母さん。

 ラーナは一瞬の後に頷いた。「犠牲になる必要はないわよ。ふたりとも元気になってもらいますからね。さあ、ヴラスカさん。私のために10から数えてもらいたいのだけど、できるかしら?」

 今や痛みに圧倒されそうだった。それはジェイスの筋肉を掌握し、引きずり込もうとしていた。胸は燃えるように熱く、開いた傷に冷たい空気が沁みた。彼の隣でヴラスカが弱弱しく声を出した――

 「10……9……」

 8を待っていると、母の指先に護りの魔法が光るのが見えた。抑えた明かりの中で輝く薄い青緑色。そしてラーナが両手を掲げると、息子とその恋人も一緒に浮かび上がった。ジェイスは感謝を伝えたかったが、十年以上の時を経て母が息子へと囁く安らぎの歌に導かれ、意識が遠ざかっていった。


 香と煙の薄いもやの中でジェイスは目覚めた。足元には馬の頭蓋骨、ケーブルがちぎれた傷口には川の石、包帯を巻いた胸には上向きの鐘――母の専門知識が、身体の箇所に注意深く配置されていた。ジェイスは治療師ではないが、それでもそれぞれの物体から身体の各所へ流れるエネルギーを感じ取ることができた。

 疲労と痛みをこらえて頭を動かすと、自分がどこにいるかがわかった。ラーナは自分たちを治療室に――ジェイスの子供時代の寝室に移していた。天井には毎晩見つめていた染みが今もあり、棚の高い所には初代ピューターの蹄鉄が飾られていた。大人になった今では、部屋はとても狭く感じられた。母はヴラスカへと屈みこみ、その両手が温かく輝いてジェイスの恋人の肌を明るく照らしていた。

 「熱が下がらないわ」

 ああ、そうだった。ジェイスは返答を心に送った。それは俺が。

 「13年の間にあなたも治療師になったの?」射手のように鋭く母は言った。

 俺が考えられる最善の方法だったんだ。身体に命令して熱を出させて、ファイレクシア病を焼けって。

 ラーナは頷いた。「その命令で自分たちの免疫機能を高めたのね、私の施術で2日分くらいの効果があったわよ」母は言外に「いい仕事をした」と言っている、ジェイスにはそれが察せられた。自分がいない間に母は冷淡になっていた。彼女は顔を上げ、ジェイスをまっすぐに見つめた。

 「アルハマレットさんはあなたを守れなかったの?」

 質問の意味がわからなかった。守れなかった?

 「あの方は何かに殺されたって、私たちは皆そう思っていて……」ラーナは言葉を切った。今、母の姿はとても年老いて見えた。「あなたも一緒に死んだって、私たち皆思っていたのよ。それが両軍の報告だった。そうじゃないなら、何があの方を殺したの?」

 どんな償いをしても、母の顔に刻まれた皺を消すことはできない。自分は死んだと思われたまま、ヴリンでは13年が過ぎた――真実は遥かに無意味だというのに。自分は母にどんな地獄を経験させたのだろうか?

 ジェイスの胸が痛み、唇が震えた。

 ラーナは鋭い視線を向けた。「見せて、何があったのかを」

 母からの要求にジェイスの胸が更に痛んだ。それはエルズペスが残した傷のせいではなく、母が今なお自分のことをわかっているという事実からだった。時を経た今でも、母は自分の息子とその才能をわかっている。

 だから、ジェイスは一息に見せた。初めて次元渡りをしたあの夜に起こったすべてと、この13年間を一瞬に詰め込んで。ラーナは驚きに息をのんで椅子へと倒れ込んだ。ジェイスが母に見せたのは、加速度的に要約したものだった――アルハマレット、裏切り、忘却、忘却、恥辱を忘れて、愛を思い出して、愛して、母さん、これは俺の愛、俺たちを助けて、こんなこと望んでなかった。

 圧倒されながらも、母は耐えていた。「アルハマレットさんはあなたを騙して、あなたは……何もかもを忘れていたの? 私たちも?」

 ジェイスには頷く力さえなかった。母は空中の何かを読んでいるように両目を泳がせた。考え込む時の仕草。ああ、自分も何か新しい物事を調べる時には同じ動きをしている――その慣れ親しみにジェイスは痛みを覚えた。

 だがジェイスが不意を突かれたのはその次の質問だった。母は布の束で息子の胸の傷を強く押さえ、落ち着いてかつ極めて真剣に尋ねた。「あなたがアルハマレットさんを殺したの?」

 答えることも動くこともできなかったが、それでもジェイスの表情は暗くなった。

 ラーナは息子へと頷いた。そう。


 ジェイスは再び目を覚ました。両腕には包帯が巻かれていた。胸には花のような、けれど辛辣な香りを放つ湿布が貼られて火照っていた。痛みは特定の箇所ではなく、鈍く身体の広範囲に渡っていた。和らげる呪文があるに違いない。彼はかすれた息をついて瞬きをした。熱はまだ続いており、視界の隅に見えた金属とケーブルの小さな山は、自分の身体がまだファイレクシア病と戦っていることを告げていた。

 ヴラスカは隣の手術台の上で眠っており、ジェイスはすぐ近くに何かを感じ取った――真夏の太陽のように熱く鮮烈なエネルギー。ヴラスカの額の上に、橙色で長い一枚の羽根が置かれていた。その端がちらつき、長時間用の蝋燭のような輝きが見えた。炎を上げることなく燃えるそれを見つめていると、ラーナが部屋に入ってきた。母は片手にチンキ薬を、もう一方の手にスープの入った器を持っていた。

 「それは何?」かすれた声で彼は羽根について尋ねた。

 「フェニックスの羽根よ。感じられる? あなたが眠っていた時にも置いていたのよ」ラーナは微笑んだ、「臓器交換の代替手段よ。私が考案したの。生きている組織を総動員させて、感染した臓器を焼き尽くして、壊死を加速させて、死んだ臓器を生きた新品に変える。家族の中で自分だけが天才だと思っていたんでしょう?」

 「自分に家族がいるって、13年間知らなかったよ」

 「そう、そうよね」ラーナは言葉を切って考えた。「でもやるじゃないの。ヴラスカさん、綺麗な人ね」母は微笑みとともに認めた。「優しいの?」

 ジェイスは笑みを浮かべた。「優しくするべき相手にはね」

 「つまり、賢い人ってことね」母はスープと薬をジェイスのそばに置いた。「この調子なら明日には起こしてあげられるでしょうね。あなたも頑張りなさいよ。役に立っているんだから」

 ジェイスは自分たちへの精神的命令を止めていなかった。君はウイルスに感染している。燃えろ、戦え。ウイルスを排除しろ。命令は彼の脳内で繰り返し、止まることなく実行されていた。それは彼を疲弊させたが、ジェイスは努めて考えないようにしていた。

 「ごめん、もっと早く帰ってこなくて」彼は小声で言った。「母さんのことを忘れてたの、恥ずかしくてさ」

 ラーナは頷き、口を堅く引き結んだ。「私も恥ずかしいのよ。あなたが死――いなくなってから、変わってしまったから」

 両親は息子が死んだと当然のように思ったのだ。それはある意味ありがたかった。母の背後のテーブルには、空の酒瓶が置かれていた。

 彼女はヴラスカの皮膚からまた一枚の金属板を剥がし、素早くその箇所に手をざして光をあてた。「つまりお互い、おあいこっていうことかしらね」

 母は自身の感情をいとも簡単に閉じ込めてしまう。いや、もしかしたらそれはずっと前から知っていたことかもしれない。ジェイスは尋ねた。「父さんはどこに?」

 彼女は少し肩をすくめた。小さく空虚な身振り。ジェイスは理解した。

 「別れたのよ。あの人は魔道士輪の技師として辺境へ行って。私は衛生兵として軍隊に。治癒理論をひとりで研究するよりも、生きている人を癒す方が有益だと思ったから。このあたりではひっきりなしに大きな戦争が起きているのよ。色々な民兵がいて。占拠して、殺されて、また別の勢力が占拠して……」母は言葉を切り、かぶりを振って不安な息をついた。「ジェイス……まだ子供だったのに戦争に関与させられて。あのスフィンクスに会わせるべきじゃなかったわ」

 母はジェイスの手をとった。ふたりは緊張した視線を交わした。「でも、たとえあなたがアルハマレットの弟子にならなかったとしても、きっと戦争はやって来たんでしょうね。戦争は必ずやって来るものだから」

 彼はそれをわかっていた。とてもよくわかっていた。


 今やジェイスは、母が居間に置いた寝台へと歩いて向かえるまでに回復していた。それは二日間だったかもしれないし、二か月間だったかもしれない。本当のところはわからない。ほとんどの時間を彼は眠って過ごしていた――深い、回復のための忘却の中に。これまでの人生で最高の睡眠だった。彼はその日二度目の昼寝から目覚めると、治りかけの傷が発する熱い痛みを止めるように身体へと命令した。だが食卓から聞こえてきたヴラスカの声にジェイスは動揺した。

 「――どうやってわかったんだ、それがジェイスだって」

 母ははっきりしない唸り声をひとつ発し、そして言った。「将軍が覚えていたのよ。ジェイスは……子供の頃から知られていたから。あの子を外に出すことはできないわね。そうするなら変装しないと。処刑の令状が出ているのよ」

 ふたりは自分のことを話している。自分がやったことを。ジェイスは黙って耳を傾けることにした。

 「……私らじゃないんだ、ラーナさん」ヴラスカの声は冷静だったが、そこには不当な仕打ちに対する怒りがあった。「私らの身体は私らのものじゃなかった。自分たちが選択したんじゃない行動の責任なんて、どうやって取ればいいんだよ」

 「ええ。最初からやり直すだけだと思うわ」母は言葉を切った。水を注ぐ音、杯に砂糖をひとつ入れる音。ヴラスカが感謝の言葉を呟いた。

 「ヴラスカさんは、ジェイスとはどうやって知り合ったの?」

 彼は願った。お願いです、本当のことは言わないで下さい。

 「とある島で」

 ジェイスは安堵の溜息をついた。

 「男前で、可笑しな奴で。好奇心が旺盛すぎるのは欠点かな」

 頬が紅潮するのをジェイスは感じた。

 「ええ、昔からずっと好奇心旺盛で」母が言った。「ある時なんて、私が治療院で何をしているのかを知りたくて、こっそりついて来たのよ。あの子が私の昼食を持って、手術中にぶつかってくるまで気付かなかったわ」

 ヴラスカは満面の笑みを浮かべた。「なんて悪党だ」

 ジェイスの位置から母とヴラスカの姿をはっきりと見ることはできなかったが、両者の輪郭には疲れがあり、ランプの光の中で影が大きくはっきりと伸びていた。静かな会話が途切れた今も、その女性ふたりが空間全体を支配していた。

 「いつだってあの子は、良かれと思ってやっていたのよね。私たちが認識したのはずっと後になってからだったけれど、あの子は私たちが思っていたよりもずっと小さい頃から魔法を使っていたの。子供の頃、この建物で荷物を運んでいた馬が病気になって、ジェイスはすごく動揺したのね。それでその馬そっくりの幻影を作って、鞍をつけようとしたの。もちろん私たちはそれをジェイスが作ったなんて知らなかった。あの子がテレパスで、ましてや幻影術を使えるなんてわかるよりも前のことだったから。あの子がその馬と一緒にいるところを見て、何かスパイの魔法に遭ったのだと思ったわ。可哀相なジェイス。何度も必死に鞍をつけようとしていたのだけど、何度やっても落ちて」

 「子供のうちにそんなしっかりした幻影を?」

 ラーナは口元に笑みを浮かべて頷いた。「ああそう、その馬というのがピューターなの。ピューターが死んだ時、ジェイスはとっても悲しんで。幻影の分身を作って何週間も手元に置いていたくらいに。本物よりもピューターの複製を愛していたんじゃないかしらね」

 ヴラスカは押し黙り、そして言った。「ラーナさん、本当にありがとう」

 「今日はどう?」母は痛みについて患者に尋ねる時、いつもその言葉を使っている。自分が毎日学校から帰って来た時にもそうだった。

 ヴラスカの声が小さくなった。「……いろんなことばっかり思い出してる。それは私じゃないんだけど、でも私が……沢山殺して、傷つけて。またギルドマスターになれるわけないよな」

 ラーナはヴラスカの手をとった。「これは息子には絶対に言えない言葉だけど」だがジェイスは隣の部屋で聞いていた。「昔のあなたは死んだのよ。そのあなたには二度と戻れない」

 ジェイスは息を詰まらせた。

 「なるほど、あの息子のお母さんだ」ヴラスカは穏やかに言った。「ありがとう、ラーナさん」

 ヴラスカはその言葉に安堵を得たようだったが、ジェイスは全く違った。母の言う通り、かつての自分はもう死んだ。ギルドパクトの体現者は、誓いを立てた者は、海賊は、スフィンクスが振るう戦争の道具は死んだ。ファイレクシアに身体を奪われ、同胞を殺す兵器にされた時に死んだ。

 今や、彼は別の人物だった。


 その幅広の不気味な三角形は、見た目も雰囲気も匂いも馴染みあるものだった。ふたりはその傍に立ち、互いの心臓がその脈動に同調していた。それは新しく、かつよく知るもので、かつてはそれぞれの秘密だったものが物理的な形を取り、それを見ている――その奇妙な事実は何か堕落したような、正しくないことのように感じられた。それに近づくほどに、ヴラスカが身体を強張らせて不快感を強めるのがジェイスにはわかった。このポータルについて教えてくれたのはラーナだった。母は興奮しながら帰宅し、治療院で出会ったとある素敵なコーについて語った。そして今、ふたりはその前に立っていた。領界路。ジェイスは疑念(と逮捕)を避けるため、自分たちに異なる顔をまとわせていた。

 ヴラスカは領界路の端を調べ、嫌悪の目で見つめた。「こんなの、存在していいものじゃないよ」

 多元宇宙を接続するポータル。ジェイスは楽観視できることを半ば期待していたが、今こうしてその前に立つと、見えるのは必然の成り行きだけだった。「俺たちがゲートウォッチとしてやっていけたのは、脅威がひとつの次元に限られていたからこそでした。たったひとつのポータルで、ボーラスやテゼレットはあれほどのことができた。そしてこれは……」

 「こんな規模だと……遊びで色んな次元を征服したがる奴とか、ただ多元宇宙を血で汚したいだけの馬鹿が絶対出てくる。そんなのを止める方法も、こらしめる方法もない」ヴラスカは彼を見つめた。「ジェイス。私らが何とかしないと」

 ジェイスもそれは理解していたが、彼の疲労は重く、傷は生々しすぎた。「どうして俺たちが?」

 ヴラスカは憤慨したようだった。それでもジェイスにできるのは彼女の手を取り、握り締め、今ここにある現実を思い出させることだけだった。

 「俺たちはかろうじて助かったんです、ヴラスカさん。俺にはそれで充分です。むしろ次に何をするのかを考えたいんです」

 ふたりの目が合った。

 次に何を。ジェイスは母の問いかけを思い出した。あなたのお嫁さん? 未来像が見えた――ヴリンの正装をまとうヴラスカ。ベレレン家の青が緑色の肌を引き立てる。自分たちの子供。そしてヴラスカの眼差しは、ジェイス自身と同じような未来を思い描いていると伝えてくれていた。

 「お前はすごくいい親になれるよ」

 「ヴラスカさんも」

 「だから……」

 「養子を」ジェイスは素早く言い、顔を赤らめて微笑んだ。「俺たちの間にはできない、ですよね」

 「養子」ヴラスカも素早く頷いた。その事実を認め、ひるみながらも。「そうだよな。できるなら、とっくにできてる」

 彼女は鼻を鳴らして笑い、ジェイスは思わず笑みを返した。ヴラスカが笑う姿をまた見ることができるのは嬉しいことだった。とりわけ、自分たちの種族間に子供はできないという事実を笑い飛ばす姿を。多元宇宙のエントロピーは無情で、それでもこうして握り締めた手には意味がある。

 ジェイスの心を読んだかのように、ヴラスカは唇を尖らせた。「けど意味あるのかな、この多元宇宙で子供を育てることに」悩むように彼女は言った。「直すことすらできるのか」

 「直すのはもううんざりです」ジェイスは溜息をついた。「どうせすべてが壊れてしまうのに、修復する意味なんてあるんでしょうか」

 彼の最愛の人、妻となるであろう女性は、苛まれるような表情で領界路を見つめていた。「多元宇宙はすっかり壊れてしまってる。修復なんてできないよ」

 ジェイスは炎を思った。ヴラスカを取り戻してくれた、あのフェニックスの羽根。「でしたら、修復以外のことをしませんか」


 自分たちの世界の背景には、誘惑的かつ凶悪な思想が鼓動として脈打っている。それは執拗で容赦のないものであり、相手がそれを考えていることに互いが気づくと、その伝染性から目をそらすことは不可能となる。憎悪の夢、革命の夢。フェニックスの羽根がくれる安らぎと魅惑。

 ヴリンで数か月を過ごし、ジェイスとヴラスカは話し合った。時が経つとともに、自分たちの古い生活が終わったことを受け入れていった。

 ふたりは話し合った――ひとつの戦争が終われば次の戦争が起こり、永遠に続く。この多元宇宙が向かう先は苦しみだけ。そして苦しみは加速する。

 そして話し合った――今なおジェイスが時折の夜に襲われる、酒杯の力が神経を駆ける感覚について。

 最も公正な選択肢こそがあらゆる存在の未来を切り開くと同意し、その自由の代償が高くつくであろうことを嘆いた。修復しても綺麗にはならない。復元しても消し去りはしない。けれど復活は……復活はその両方を成し遂げてくれる。

 テレパスとゴルゴンはフェニックスの羽根の夢をみる。

 死ぬものなんて何もない。変化するだけ。

 ――変化こそ、ただひとつの恒常的なものですから。

 ふたりの目的は石炭の中で弾け、燃え殻から翼を広げた。


 九年前、サンダー・ジャンクションにて

 ジェイスはまだ若く、二十歳になったばかりだった。巨大な回転草の丸い輪郭が広い空へと伸び、彼はその影の中で赤土の上をさまよっていた。遠くで野生の馬が草を食んでおり、ジェイスは虚しさを覚えた。知っているはずなのに思い出せない風景がある、そんな気分にさせられる次元だった。

 テゼレットが彼をここに送り込んだのは、あの強大なドラゴン、ニコル・ボーラスが怖れる何かを見つけ出すためだった。任務を命じる際の口調から、テゼレットはその中に入れなかったのだとジェイスは察した。

 そうして今。フォモーリの宝物庫、その巨大な入り口の前にジェイスは立っていた。彼は目を閉じて扉に手を触れた。念動力の方が役に立つだろうに、ここでテレパスを用いて何があるというのだろうか。

 だが驚いたことに、彼は宝物庫の奥深くに無気力で眠たげな心をひとつ感じた。子供のような、そして静かな。そこに至るまでには障壁があり、ジェイスが精神的にその内部へ到達するのを妨げていた。

 発見した内容をテゼレットに伝えると、無限連合の長はあざ笑うだけだった。

 「なるほど。妙なガキがもうひとりいたということか」

 以来、彼らがフォモーリの宝物庫について話すことはなかった。


 二年前、ラヴニカにて

 だがそれから年月を経て、ジェイスは忘れるべきではない物事をふと思い出した。あの「灯争大戦」から数か月後、とある親しい友人との茶の席で彼は答えを得た。

 「ええ、その宝物庫については聞いたことがあります。同じようなものが多元宇宙のあちこちに存在しますよ。長い歴史の中で失われた古代帝国の遺物です。ほとんどが失われた、ですね」タミヨウはそう言って杯を置き、鞄から一本の巻物を取り出した。「お話を聞きたいですか?」


 企てがあるかのように、三人は揃って居間に立っていた。ラーナ、ヴラスカ、そしてジェイス。傷は癒され、決意に満ち溢れ、目的地をしっかりと見据えていた。

 ジェイスは母へと別れの口付けをしたが、彼女の息はアルコールの匂いを帯びていた。

 「週に一度よ」ラーナは息子の手を握り締めた。

 「週に一度は」その目に大きな悲しみを宿しながらも、彼はしっかりと頷いた。

 ヴラスカはラーナを抱きしめた。「会えて本当によかった。私らに二度目の人生をくれたんだから。ありがとう」

 そして彼女はジェイスを小突いた。「少し時間をやるよ」ヴラスカはそう言い、ふたりの声が聞こえない台所へと歩いていった。

 「母さん、ありがとう。俺たちを救ってくれて」

 「あなたが私を救ってくれたのよ」母はもう一度手を握って応えた。「あなたは私を捨てた……それを許せるかどうかはわからない。けれど、あなたのせいじゃないこともわかっているから」

 「じゃあ、誰のせいなんだ? 俺が何もかも忘れたこと、父さんが出ていったこと、戦争のこと……」

 ラーナは肩をすくめた。その姿はとても疲れているように見えた。「誰のせいでもないわ。咎める相手も、理由もない。ごめんなさいね。世界は悲しみに向かうばっかり」

 ジェイスは再び母を抱きしめた。「今はそんなことを言わないで。俺たちはそれを正しに行くんだからさ、母さん」

 「そんなことができる人がいるとしたら、それはあなたよ。私の奇跡だわ」彼女はジェイスの額に口付けをした。

 ヴラスカが戻ってくるとふたりは手を握り合い、数ヶ月ぶりの次元渡りに身構えた。

 「いいですか?」

 「ああ」

 ジェイスは忘却へと踏み出し、ヴラスカは絨毯の上を一歩進んだ。

 ヴラスカの両目が大きく見開かれた。耳が圧迫されるような何かをジェイスは感じた。圧力が高まり、ヴラスカが立っていた宙に隙間ができたような。彼はすぐさまヴリンに引き返し、ヴラスカの肩を掴んだ。彼女は動揺しながら手を心臓に、喉に、額にあてて叩いた。まるでそこにないものを感じようとするかのように。そしてよろめき、苦痛に顔をしかめた。助けようとジェイスが身を乗り出した瞬間、ヴラスカは涙とともに声をあげた。

 「感じない。どこにも感じないんだ」

 「感じないって、何をですか?」

 「渡れないんだよ! お前は?」

 すぐさま彼は動き、身体の半分を久遠の闇に立たせた。その両脚が青緑色の輝きを帯びた。ヴラスカは目を閉じ、集中し、そして息を吐いた。「無いんだ」

 彼女は近くの椅子に倒れ込んだ。ジェイスは身体を寄せ、ヴラスカを強く抱きしめた。

 ヴラスカの呼吸はひどく乱れ、恐怖で両腕は震えていた。不意に彼女は額をジェイスのそれに押し付けた。「探してくれ」

 その言葉の意味は考えるまでもなくわかった。ジェイスは彼女の心へと飛び込んだ。

 彼はヴラスカが開け放したあらゆる扉の中を徹底的に探したが、それは見つからなかった。それは、彼女の灯は、自分たちに様々なものを共有させてくれたものは、そこにはなかった。

 そして出てきた時、ジェイスの涙がヴラスカに真実を告げた。

 ヴラスカは彼の目の前で泣いた。彼女が泣く声を聞くのは初めてだった。ヴラスカの収集品を彼は思った――旅の間に手に入れたさまざまな驚異、そして一緒に行くはずだったあらゆる場所を思った。

 ジェイスの腕の中で声がかすれた。「灯がなくなって、わからないよ、もう自分が何なのか」

 昔のあなたは死んだのよ。

 かつての自分たちには二度と戻れない。

 ジェイスはその無意味さに、ヴラスカと共に涙を流した。そして自分たちで意味を作ると誓った。


 ラーナは再び寝台を整え、ヴラスカは荷物を解いた。三人が共謀する災いは新たな緊急性を帯びた。

 ヴラスカは怒れる力でその悲嘆を目的に変え、本棚の隣の壁を占拠し、自らの命がそれにかかっているように策を練った。

 そしてジェイスは決意とともに仕事に取りかかった。


 十二か月前、エルドレインにて

 ジェイスはエルドレインが気に入っていた。この次元を統制する法則は一見して楽しく混沌としているが、見方がわかると完全に理にかなったものとして映る。その気まぐれの中にある論理に彼は感服していた。

 この牢に来たのは、とある囚人を探すため。衛兵を気絶させるのは簡単だった。簡単すぎて姿を消す必要すらないほどに。鎧がぶつかり合い、彼らは同じ夢の中へと崩れ落ちた。ジェイスはその身体をまたぎ、石壁を指でなぞった。彼は閉ざされた扉が並ぶ通路を進み、とある顔をまとうための幻影呪文を唱えた。その姿はぼやけて洗い流され、ジェイスが知る中で最も恐ろしく、最も役に立つ顔が現れた。

 「誰も信頼しない奴じゃなきゃいけない」ヴラスカはそう言っていた。「誰も詳しい質問をしたがらないような奴だ」

 かつて一度だけ、ジェイスはアショクに会っていた。一度で十分だった。

 彼は足取りを緩め、幻影を動かした。軽やかに宙を滑る。両肘を上げ、爪は長いながらも手は繊細に。顎は少しだけ上向きに。かつてラクドス教団のジュディスが自信たっぷりに言っていた――素晴らしいパフォーマンスっていうのはね、決して模倣ではないの。真実から築かれるものでなくてはいけないの。幻影をまとう時間が長くなるほどに、彼はますます本物らしくなっていった。この一年で、ジェイスはとても多くの真実を見出していた。今この瞬間、表層にまとうのは相手を動かすような説得力と悪意。血まみれになって白目をむくような、自分は恐ろしい存在だということを知っている時の感覚。以前にも感じたことはあった――他者が自分を怖れているという感覚。当時はそれが嫌だったが、今はおそらく、恐ろしい姿の中に力があるのだろう。

 この役に慣れておく必要がある。この顔をまとうのはこれが最後ではないだろうから。正しくは顔半分か。

 ずらりと並ぶ扉、その最後尾の独房にいるのはエリエット。邪な魔女。

 アショクの姿をしたジェイスは口だけで微笑み、独房の鉄格子を指で掴んだ。

 エリエットは微笑みを返した。「あら、おかえりなさい。どうしてこんなに時間がかかったの?」


 六か月前、イクサランにて

 ジェイスから離れて独りでここにいるのは残念なことだった。とはいえ長くは留まらない。「次はイクサランだ」まずヴラスカが提案し、ジェイスが応えた。「でしたら、あいつらに仕事をあげませんか」彼は安全な経路を見つけるため、何人かの異邦人を追いかけて数本の領界路を通った。ヴラスカも、自力で次元間移動ができないことに慣れつつあった。

 この次がいよいよサンダー・ジャンクション。ヴラスカはそれが楽しみだった――ようやく、幻影の仮面をまとう相棒と共に悪いことができる。ジェイスが変装を提案した時、あまりにも楽しそうなその顔を彼女はからかった。そしてその通りに、居間で夜通しの稽古をして母親を死ぬほど怖がらせた後、変装は正しい選択だと三人全員が合意した。ジェイスはいい演者だと判明した。幸運なことに彼女もそうだった。

 水上都市の孤高街は彼女の記憶通りの姿で、波間に揺れながら賑わっていた。帰ってきてよかったと思える場所であり、ここでは本当の自分自身を感じられた。軋む梯子の歩道を探し、波止場を回り、捜索には一時間もかからなかった。ヴラスカは安堵した。もしここにいなかったら、海の真ん中で喧嘩腰号に乗っているのだろうから。

 ブリーチェスの声はすぐに聞こえた。マルコムの姿はすぐに見つかった。

 「デッカいキノコ!」そのゴブリンが吼えた。「デッカいキノコが、イロイロ、カンガエてる!」

 「知性のある、だ」相棒のセイレーンはその言葉を根気よく訂正した。「知性のあるキノコで……」

 ヴラスカはにやりと笑い、近づいた。「やあ、悪ガキども。仕事が欲しいみたいじゃないか」

 ふたりから返ってきたのは熱狂だった。喜びの涙とともに、セイレーンとゴブリンから等しく歓声があがった。

 「船長!」「センチョウ!」


 一か月前、ラヴニカにて

 ジェイスはしばしゴルガリの地下都市を徘徊し、標的を追いかけていた。

 プロフトとエトラータはアイゾーニと交渉していた。

 どうすればそれを目に見えるようにできる?ヴラスカに尋ねられ、ジェイスは思い出した。ラヴニカに、精神的な映像を現実に投影できる探偵がいます。恋人は頷き、一枚のメモを壁に貼り付けた。そいつの能力がお前とどう違うのかを見極めないとな。そいつの頭の中に入り込むんだ。

 今、ジェイスは彼らの会話を影から見守っていた。十分に目撃されるような距離で、彼は誘いながら待った。やがて探偵は顔をあげ、こちらを見た。ジェイスは駆け出した。彼はプロフトの不安を、背後に相手が近づいてくるのを感じた――プロフトは俊敏で、予想よりも速かったが、それでも作戦通りに追いかけてきてくれた。ジェイスの外套が背中でひらめいた。彼は鉛パイプを用意し、探偵が必死に伸ばす手を感じた瞬間に角を曲がった。

 ジェイスは振り返り、全力でパイプを振るい、プロフトを地面に叩きつけると満足のいく衝撃を感じた。

 この暴力行為をヴラスカは褒めてくれるだろう。ジェイスは笑みを浮かべた。彼は膝をつき、手を伸ばし、両目を輝かせた。精神的接続が形成された。


 サンダー・ジャンクション、現在

 砂漠の熱は不快で刺すようだった。その暑さに、ジェイスは岩と砂に捧げるように外套を脱いだ。彼はそれを畳んだまま、香りのよいピニヨン松のまばらな日陰の下にある砂岩に置いてきていた。待ち合わせ場所は静かで、少なくとも人影はなかった。頭上の岩壁でオオツノヒツジが駆け回る足音が彼の注意をかき乱したが、その直後に聞こえてきたのは期待して待つ自分の心音だけだった。あの人が来る。

 遠くで岩が転がり、ジェイスは見た。ヴラスカが自分たちの宝物を抱えながら、日陰の岩場を下ってきていた。

 ありえないことに、その子供は生きていた。仮死状態にあるのではないかと予想していたが、これほど幼いとは思っていなかった。ヴラスカが抱きかかえるその男の子(タミヨウの巻物によれば男の子らしい)は幼児のように丸く小さく、自分たちを取り巻く世界をとても嬉しそうに受け入れていた。その子がヴラスカへと必死にしがみつく様に、ジェイスは訝しんだ。もしかして自分の両親を覚えていないのだろうか。

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アート:Gaboleps


 「よう」ヴラスカは心得た笑みで言った。「正体を表してくれてありがとうな」

 「ははは」その声は作り笑いのつもりだったが、ジェイスは微笑んだ。ふたりは抱擁を交わした。「目のない俺に口付けはしたくないですか?」

 「あれは鼻がないだろ。お前の顔の中にしてるみたいで。こっちの方がいい」

 「そうですね。それで……」

 「大変な一日だった、な」ヴラスカは優しく言い、フォモーリの宝物を弾ませた。その子供が地面に下ろされると、ジェイスは反射的に膝をついて手を差し伸べた。

 「こんにちは」ジェイスの言葉に、子供は元気よく顔を上げた――理解してくれている。いいことだ。「俺の名前はジェイス。君の名前は何ていうのかな?」

 子供は短い鳴き声をあげ、ジェイスはそれが話し言葉に近いものだと確信した。「俺はテレパス、つまり心を読むことができる。君の名前を正しく言えるように、心を読んでもいいかな?」

 少し不安そうな様子を見せた後、その子供は喜んで応じ、ジェイスの手の下に頭を収めた。

 ジェイスの目が輝きを発し、彼は驚きに息を呑んだ。

 「どうした?」ヴラスカが心配そうに膝をつき、子供はわずかにひるんだ。ジェイスは安心させるようにかぶりを振った。

 「大丈夫です! ごめんな、怖がらせるつもりはなかったんだ……」

 涙が一筋、ジェイスの頬を流れ落ちた。彼は畏敬に震えていた。「おたから。この子の名前です」

 ヴラスカは鼻を鳴らした。「つまり、親はぬすみとぶんどり、か?」

 「ヴラスカさん」

 「ごめんよ、おたから」ヴラスカは謝るようにその子供を優しくさすったが、その可愛らしい頭は今のやり取りを理解できていないようだった。「ジェイス、まだそこにいるのか」そしてジェイスの両目に宿る青い光と、彼方を見つめる視線をヴラスカは指摘した。

 「この子が地図になることはわかっていましたが……すごい、こんなふうだなんて」

 「見えるのか?」

 「全部……多元宇宙が全部です。全部の次元が光の点になっていて、その点の中で、他の次元と繋がっている場所がさらに見えます……領界路です、ヴラスカさん。それもたった今どうなっているかが。世界樹から新しい次元が生まれるのが見えます。黒い霊気の穴に次元が消えるのも。どこから出発して、どこに辿り着くのか。ヴラスカさん……これで、また多元宇宙の旅ができますよ」

 ジェイスはヴラスカの緊張を感じた。「全部の領界路の繋がりが見えるのか?」

 「一つ残らず」ジェイスは彼女の手を握り締め、身震いをした。

 「どんなふうに見えるんだ?」

 ほのかで柔らかな笑みをジェイスは浮かべた。そして心を奪われている様子を隠さず、笑い声をひとつ発した。返答する彼の視線はヴラスカを見透かし、更に彼方へと向けられているかのようだった。「まるで、永遠を見ているみたいです」

 ジェイスは話し終えて目を拭った。彼はおたからに集中を続けていた。

 「君はすごいよ。ありがとう、おたから」ジェイスが顔を近づけて目を合わせると、おたからも近づいてきた。「おたから、知っておいてくれるかな。ヴラスカさんと俺が、全力で君を守る。何があってもね」ジェイスはそう約束し、最愛の人へと視線を向けた。ヴラスカは温かく、真摯に頷いた。おたからは嬉しそうに、溌剌とした声を発した。

 そしてジェイスはヴラスカを短く一瞥した。「さて、ヴラスカさんは少し休むのがいいと思いますよ」

 「風呂がいいな」彼女は口付けをして微笑んだ。

 まずは風呂を探そう。

 近くのとある小規模な町、余計な詮索をしない宿で彼らはそれを見つけた。

 その静かな部屋にて、眠たがりながらも満足そうなおたからをジェイスは膝の上に抱いた。可愛がるように、彼はその子供の額を親指でなぞった。おたからは穏やかに彼を招き入れ、ジェイスはおたからが快適にいられるよう心がけた。その心を見通すのは圧倒される経験だった。一般的な心の内部は水晶のように透明で繊細だが、おたからのそれは広大で鋼のように堅固、そしてジェイスが見る限り、果てはなかった。今やジェイスは目を閉じ、子供の心の中の地図を眺めながら、旅の行き先をヴラスカに提案していた。

 「カルシっていう場所のある次元はどうですか? 行ったことはありますか?」

 ヴラスカが自分のコーヒーを持ってきた。「あるよ! 宮殿とその周りの集落だ。家の台所に飾ってた紫色の旗だよ」彼女は微笑み、嬉しそうな声色でおたからへと語りかけた。「タルキールへの行き方がわかるんだな」

 ジェイスは尋ねた。「タルキールってどんな所ですか?」

 ヴラスカはふたりの隣に座り、おたからの鼻先をそっと撫でで喜ばせた。彼女は疲れた足を揉みながら、子供に向ける穏やかな声色でおたからへと語りかけた。「タルキールは綺麗な所で、とっても大きいよ。ものすごくでっかい山が並んでて、深い密林があって、広―――い草原があって、色んな人が住んでる。けれどタルキールを知ってるってことは、いいお茶を手に入れる方法をお前は知ってるってことだね」

 「美味しいコーヒーはありますか?」

 彼女はにやりと笑い、物騒な猫撫で声で言った。「コーヒーもあるよ、冷たいのがね」

 「え、そんなのが?」

 「私もカルシで飲んだことがある。魔法で冷やして、甘いクリームを上に乗せるんだ」

 ジェイスの表情が真剣味を帯びた。「どこですか」

 短い精神的やり取り、バーからジョッキをふたつ奪い取って、単独の次元渡りを一度。そして二十分後、ジェイスはジョッキふたつに満たした甘く冷たいコーヒーと、出来立ての食べ物の包みを六つ携えて霊気から帰還した。ヴラスカとおたからは彼の帰還に歓声をあげ、ジェイスは食事を広げた。

 十数年ぶりに、ジェイスは家族の幸せを思い出した。魚のカレー、豚肉の蒸し煮、発酵麺の香りが漂い、階下の酒場からのタバコやウイスキーや松の実のそれと混じり合った。ジェイスは微笑み、最愛の人に口付けをした。おたからは嬉しそうに笑っていた。もはや独りではない。この瞬間は先触れだった。前兆だった。

 明日になったら、存在すべきではないポータルを通り、自分たちが来るとは知らない次元へ旅立とう。旅の荷物をまとめ、この次元の塵を振り払い、おたからを担ぎ上げて。袖を下ろしてファイレクシア化の跡を隠し、癒えた両腕の傷に口付けをする。傷跡は自分たちふたりの約束。それは、悪いことはただ起こるだけではなく、理由もなく起こることもあるという共通の認識。この多元宇宙は終わりのない大禍であり、残虐と不正義を滅する希望はない。けれどその傷の中に、約束の中に、この奇妙で小さな家族は自分たちが選んだ希望を運ぶ。

 望みと決意をもって領界路をくぐるのだろう。愛する人と養子の手を握りしめ、無情な多元宇宙の久遠の闇へと踏み入り、毅然と、不死鳥の羽根とともに自らへと言い聞かせるのだろう。

 俺たちの未来は、きっといいものになる。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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