MAGIC STORY

サンダー・ジャンクションの無法者

EPISODE 07

第6話 盗人と雷撃ちのバラッド

Akemi Dawn Bowman
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2024年3月25日

 

 一陣の熱風に運ばれてきた燃え殻が、オーコの周囲をホタルのように舞った。彼は髪を撫でつけると宝物庫の入り口を見つめた。丸い扉がひとつ、暗い霧の中に伸びていた。亀裂から溶岩が浸み出て縁を越え、眼下のターネイションへと流れ落ちていた。

 オーコは振り返り、合図に応じて集合した仲間たちへと向き直った。「この宝物庫を建てた者が誰であれ、宝を隠しておきたかったのは間違いない。私たちを一番奥の部屋から隔てるものは単純な錠前と鍵だけではないだろう。警戒しながら進む必要がある」

 「ブービートラップ!」ブリーチェスが毛皮で覆われた両拳を空に上げると、ベルトにずらりと取り付けられた爆発物が現れた。

 「まさしくその通り」オーコはアニーを見つめた。「私たちの目になって頂けますか」

 アニーは口を堅く閉じたままでいた。あの酒場から、彼女はずっと黙り込んでいた。宙に浮くこの宝物庫へと昇降機で上がる際もアニーは可能な限りオーコから離れて立ち、街中で繰り広げられる雷の銃撃戦を凝視していた。

 ケランを置き去りにするのはオーコの意図ではなかった。息子が監禁されていても自分に利益は何もない。だがケランは仕事をするために雇われていたのであり、ケランを救出することは任務を諦めることを意味する。スターリング社の衛兵に任せておく以外に選択肢はなかった。

 この論理をアニーが理解できずとも問題はない――オーコが彼女に必要としていたのは、いかなる幻影にも騙されることなく、自分たちを宝物庫に入れることだけだった。

 「終わりにするよ」アニーは不機嫌な声で言った。「宝物庫を早く空にできるなら、それだけ早くあの子の所に戻れるんだから」

 オーコは子煩悩な父親の演じ方はわからなかったが、感謝しているふりは完璧だった。彼は軽く頭を下げ、扉へと片手を挙げた。「恐れ入りますが……」

 入口に近づきながら、アニーの左の虹彩が鮮やかな橙色に輝いた。扉の印が光を放ち、細長い螺旋模様が命を得たように脈動した。そして扉は中央から開き、岩の中に開口部が現れた。

 アニーは先頭に立って暗い通路を進み、オーコは彼女のすぐ背後についていった。チビボネの神経質な骨の音が背後で響き渡り、性急で重々しいラクドスの足音がそれに続いた。デーモンの翼が壁をこすり、塵と破片が床に落ちた。

 彼らはやがて広く開けた部屋に辿り着き、オーコは足を止めた。何十というランタンに炎が揺れ、湾曲した天井を照らすと同時に凹凸のある黒色の床に歪んだ光を投げかけていた。揃いの台座が部屋の両脇にひとつずつ据えられて、それぞれに一本のレバーが付いていた。部屋の一番奥にはきらめく扉へと続く階段があった。

 アニーは片手を掲げ、それ以上は進まないようオーコへと合図した。彼女は部屋の端から端へと指をさした。「糸みたいな光が交差してここに伸びてる。何らかの罠だろうね」

 「警備システムだ」梅澤が頷いた。その視線は天井の中央に走る裂け目を追いかけた。「光は恐らく引き金なのだろう」

 オーコは眉をひそめた。「何の引き金だい?」

 ブリーチェスは黒色の床の端に屈みこみ、所々で光を反射する表面に青色の指をこすりつけた。「カザンのイワとスイショウ」彼は鋭い息をたて、恐らくこれまでで最も静かな声で言った。

 ゲラルフは蔑むような目で天井を見つめた。「今にも天井から溶岩が流れ落ちてくるかもしれないと? 一応言っておきますが、肉が残っていなければ、私といえども肉を縫い直すことはできませんよ」

 その隣でギサがくすくすと笑い、これまでになく興奮した様子で手を叩いた。「想像して下さいな、皆さん全員が焼き殺されたなら、私はどれほどのグールを起こすことができるのでしょう!」そして一味へと向き直った。「楽しくって興味深い屍になって下さる方もいそうですわね」

 「警備システムを切る方法を探すべきだろう」オーコがそう提案した。

 梅澤はふたつの台座を示した。「あのレバー二本でシステムを解除するのだろうな。神河でも似たようなものを見たことがある。光網を解除するには、二人で同時にレバーを引く必要があるのだろう」

 「罠を発動させることなく、誰かが向こうの台座へ行かなければ」オーコが結論付けた。

 「やってみることはできるが……」アニーはかぶりを振った。「隙間は狭い。大人が安全に通り抜けられるかどうかはわからないよ」

 チビボネが飛び上がり、カチカチ音やうなり声のような言語でまくし立てた。

 「勇敢で陽気なスケルトンが志願だ!」ラクドスがそれを通訳した。

 「ちょっといいか」梅澤が言葉を挟み、ポケットから金属製の丸い器具をひとつ取り出して掌に置いた。その上部で画面が展開して外れ、下部は折り畳まれては広がり、折り紙のトンボへと形を変えた。それが宙へ飛び立つと梅澤はアニーへと画面を渡し、操作方法を手早く説明した。「これを使えば光網の中でチビボネの通り道を指示してやれる。後を追わせればいい」

 アニーは試しにトンボを空中で何度か旋回させた後、離れた台座へと送り出した。金属製のその装置は上に下に、左右に、まるで奇妙なトンネル網の中を移動するかのように飛んだ。チビボネはすぐ後に続き、あらゆる動きをいとも簡単になぞった。最後の旋回をするとトンボは低く沈み、そして弧を描いて上昇し、階段の下で静止した。

 チビボネの頭部が首から転げ落ち、待ち構えていた両手がそれをしっかりと受け止めた。彼は身体を低くして駆け、最後の壁の向こうへと頭蓋骨を投げた。不安そうに骨を一度だけ鳴らし、チビボネは不可視の光を越えようと大きく跳躍した。そして着地した瞬間、頭のない身体が虚ろな音を立てて石段を転がり落ちた。

 チビボネは頭蓋骨を拾い上げて肩の上に乗せ、胴体を回転させて仲間たちの方を向いた。

 梅澤は近い方のレバーを握り、チビボネが反対側の台座の上に辿り着くまで待った。「いいか?」

 チビボネは骨を鳴らして返事をした。

 梅澤が緊張した息をついた。「3……2……1……」

 ふたりは同時にレバーを引いた。壁の奥深くで金属が動き、古の時計の歯車のように軋みながら回転した。頭上でランタンが位置を変え、二本の直線を形成してガラス質の床に一本の道を照らし出した。

 「光は消えたよ。渡っても大丈夫なはずだ」アニーが言った。

 誰も動かなかった――チビボネが肩から上腕骨を外して放り投げるまでは。それは床の上に音を立てて跳ね、そして止まった。

 オーコは得意の笑みを浮かべ、外された腕を拾い上げてチビボネに返した。「だからこそ私は君が気に入っているんだ」

 スケルトンは腕を元の位置に戻した。

 残る全員が階段の下まで辿り着くと、アニーは顔を上げて扉の表面に揺らめく色彩を観察した。「これは幻影じゃないね」

 「その通り。護法だ」ケアヴェクは息混じりの声を発した。彼は梅澤の脇をかすめるように踏み出し、意図的にその男を見下ろした。「精巧すぎる仕掛けに頼るのは弱さの表れだ。本物の魔法に何ができるかを見せてやろう」

 ケアヴェクは身体の前に両掌を広げながら階段を上った。その指が橙色の炎をまとい、扉を守る呪文を試すように触れた。ケアヴェクの魔法にひるむように色彩が波打った。石から蒸気音のようなものが発せられた。反撃するような、中に隠されているものを守ろうとしているような、調子外れの囁き。

 オーコはケアヴェクのために一歩後ずさり、声が背後へと届くようわずかに顔を傾けた。「この扉を抜けたなら、何人かはラクドス殿と一緒に残るのがいいだろう。私たちが鍵を手に入れたと気付かれるのは時間の問題だろうし、出口を確保しておかなければいけない」

 「それは少し手遅れだったな」物憂げな声が言った。

 すぐさまオーコは振り返り、反撃しようと身構えた。部屋の向こう側にアクルが立っていた。その目の端から鼻の一番下まで、赤色の傷が一本伸びていた。スターリング社はアクルの歩みを遅らせはしたが、打ち負かすことはできなかったらしい。

 残念な結果だ――オーコは冷静にそう思った。

 地獄拍車団がドラゴンの背後になだれ込み、武器が点火されて炎と雷の壁が作られた。

 「ケアヴェクに当たらないよう、あいつらの炎を引きつけて欲しい」オーコは低い声で仲間たちへと言った。「扉を開くには時間がかかる」

 「急いだほうがいい」アニーはサンダーライフルを構えた。「スターリング社も遠くない所まで来てるはずだ」

 アクルは両顎を広げて身体の内に雷を起こしたが、そこでラクドスに横から殴打されて床に叩きつけられた。

 慌てて立ち上がるアクルをよそに、ラクドスは両腕を掲げて大声で笑った。まるで時間などいくらでもあるというかのように。

 「さあ!」その声が轟いた。「これこそが約束された享楽だ!」

 部屋の両側から雷が弾け、ドラゴンと悪魔が激突した。部屋の中央にうなり声が響き渡り、誰もがその戦いから慌てて離れた。ヴラスカとオーコはケアヴェクの両脇を守り、他の仲間たちは四方八方に攻撃して敵の狙いをケアヴェクから遠ざけた。

 マルコムはブリーチェスを肩に乗せ、天井のランタンに向かって飛んだ。部屋の上方を旋回しながら、ブリーチェスは地獄拍車団員が群がる場所へと小型の爆発物を幾つか投げ込んだ。

 「オオアタリ!」

 チビボネは飛び跳ねて爆風を避け、身体を分解して破片を通過させ、また組み直した。彼はとある地獄拍車団員の背中によじ登り、そのホルスターに差し込まれた予備のサンダーピストルを引き抜いた。そして骨の指を引き金にかけ、その団員の足を狙って発射した。相手は驚きと痛みに吼え、チビボネは大喜びで床に着地した。

 ギサは地獄拍車団のグールを上手く一体起こし、自らの創造物が肉を求めて群衆の中をよろめく様子に歓喜の声をあげた。ゲラルフは剃刀のように鋭い2本のナイフで敵を切り裂いていた。その狙いは外科的かつ戦略的で、回復が容易ではない身体の部位に傷を与えていった。部屋の向こう側ではエリエットが数人の地獄拍車団員を深い眠りに陥らせ、一方で梅澤は伸縮自在の短剣を用いて無防備な敵を物陰から攻撃していた。

 アニーはサンダーライフルをもう一発放ち、銃の後部を地獄拍車団員の顎に叩きつけた。「扉はどうなった?」彼女はオーコに向かって吠えた。「援護があるとありがたいんだが!」

 ケアヴェクの両手が魔力を帯びて輝いた。「必要なのは忍耐だ。準備が整う前に解呪を強いても、決して良いことはない」

 ヴラスカは長い爪を空中に振り回しながら戦いの様子を眺めた。「相手が多すぎる」彼女はオーコ以外には聞こえないほどの静かな声で言った。「扉を開けても、敵まで中に入ったなら意味はないよ」

 「つまり何が言いたいんだ?」

 ヴラスカの黄色い両目が閃いた。「お前と私とで宝物庫の奥へ辿り着く。犠牲を出してでも」

 石扉の中でカチリと大きな音が鳴り、護法が消えた。階段が一度だけ震え、扉が上昇を始めた。

 ケアヴェクは一歩後ずさったが、大声をあげて襲いかかってきた地獄拍車団員に横から殴りつけられ、うつぶせに倒れ込んだ。

 オーコは仲間たちへと振り返った。彼らは地獄拍車団を食い止めるので手一杯だ。そして援護も隠れ場所もないとなれば……

 彼らは助けを必要としている――だがオーコは彼らに、アクルをもう少しだけでも足止めしてもらう必要があった。

 アニーは彼の視線をとらえ、額に皺を寄せた。だが彼女の集中が周囲の地獄拍車団員へ戻ると、オーコは自らへの弁明を放棄した。彼は自責の念すら持たずに背を向け、ヴラスカを連れて扉をくぐると階段を下りていった。

 湿った通路は闇で満たされており、冷たい空気がオーコの皮膚を刺した。そして底に辿り着くと、ひとつの扉の中から奇妙な輝きがにじみ出ていた。まるで領界路のような。その光は不安定な魔力を帯びており、扉の中央には鉄の彫刻がひとつ、エネルギーの網に絡めとられたかのように浮いていた。その端からは金色の光線が漏れ出ており、輝く太陽のように見えた。あのメダリオンと全く同じ形状。

 古代の機構からわずかに離れたところで、オーコは鍵を取り出した。認めるように光が揺らめいた。「何が隠されているのか、それを見つける時が来た」

 その時だった。金色の蔦がオーコの手首へと放たれ、投げ縄のように巻き付いた。唐突な力で彼は後方に引っ張られ、鍵が床に落ちて滑っていった。

 指先にまだ魔法のちらつきを宿しながら、階段の上にケランが立っていた。

 驚きを隠せずオーコは目を見開いた。だがヴラスカは既に動いていた――視線を合わせた瞬間、彼女はケランを石に変えてしまうだろう。

 「待て――」オーコが思わず手を伸ばしたその時、雷鳴とともに稲光が駆けて彼は後ずさった。眩いもやの中でどうにか目を開くと、ケランの隣にラル・ザレックが立っていた。

 ヴラスカは硬直し、ケランの存在は意識から飛んだようだった。「何で、ここに来るんだよ」途切れがちの声で彼女はラルへと言った。

 「どうしてこんな事をしてるんだ?」ラルが問いただした。「俺たちは友人同士だろ、ヴラスカ」

 「敵同士だったこともあるよ」

 ラルの両手で電気が弾けた。「お前もまだラヴニカに戻ることはできる。何があったのか、ずっと何処にいたのかはわからない――けれどこんなことをする必要はないはずだ」

 ヴラスカは厳しい調子で言った。「私がやったことを正すには、宝物庫の中にあるものを手に入れるしかないんだよ」

 その言葉にオーコはびくりとした。私がやったことを正すには。それはまるで、正しくはまらないパズルの欠片のように彼の脳内を跳ねた。ヴラスカが報酬のためにこの仕事を引き受けたことは知っていた。自分と同じようにアショクに雇われたことも。けれど理解できなかったのは、ヴラスカの声に込められた渇望だった。ただ見返りを欲しているだけではないような――必要としているような。

 普段であれば、オーコにとって他者の絶望は大歓迎だった。それによって操りやすくなり、交渉もさらに容易になる。だがその絶望を秘密にしていた者は?

 そういった者は柔順とは言えない。危険な相手となる。

 「僕のことなんて本当にどうでもいいんですね、見てもくれないんですから」ケランの問いかけがオーコの思考を中断させた。

 ケランの怒りの熱を感じ、オーコはヴラスカから注意を移した。「君のために戻ってくるつもりだったよ。仕事が終わったなら、君は取り分を受け取れるからね」

 「宝物が欲しくて父さんをずっと探していたわけじゃありません」

 「そうかもしれない。けれど君は私が何のためにここに来たのかを知っていて、捕まるその時まで自分の意志で参加してくれていた。私は君を他の仲間と同じように扱っただろう?」

 「僕は仲間じゃありません。息子です。その違いをわかって欲しかったんです」

 オーコは顎を引いた。ヴラスカとラルはまだ言い争っていた――すぐにふたりの戦いは言葉だけではなくなるだろう。無駄にできる時間はない。

 「力を貸してくれるのかい」オーコは冷静に言った。「そうでなければ、私の邪魔をしないで欲しいな」

 ケランは口を固く閉じ、顎の筋肉に力を込めた。

 オーコはしばし見つめ、ケランが本当に父親の敵となる可能性を推し量った。だがその時、あの鍵が手から落ちたことを思い出した。オーコの視線が床の上を探った。

 ケランはそれに気が付いた。

 先にメダリオンを手にしようと、ふたりは同時に動いた。ケランは金色の塵をなびかせて宙へと飛び出した。その速さにオーコは敵わなかった。ケランは父親の下へと滑り込んで鍵を掴み取った。

 手の届かない所までケランが離れると、オーコは横滑りして止まった。少年はメダリオンを握り締めたまま空中に静止していた。オーコは歯に舌を這わせ、両目を暗く輝かせ、指をうねらせて魔法を呼び起こし、色鮮やかな数本の蔓を辺りに放った。それらは空中を突き進み、鋭い棘を生やし、ケランの胴体に巻きついた。オーコがわずかに指をひねると、蔓はケランを床へと強烈に叩きつけた。鋭い叫び声をあげた時、ケランの手から鍵が滑り落ちた。

 オーコはメダリオンを拾い上げた。「君が学べたかもしれない物事は沢山ある。私が教えてあげられたかもしれない物事が」その満足そうな声色は、極めて危険といえた。「私たちの血統にはね、君が知っているよりもずっと強い力があるんだよ」

 ケランはどうにか立ち上がり、拳を握り締めた。「父さんから教わったのは、もう絶対に父さんを信じるなってことだけです」彼は反抗するように肩を震わせた。「宝物庫を開けさせはしません」

 近くで火花が散った。ヴラスカとラルのやり取りは激しさを増していた。

 オーコはメダリオンを固く握りしめた。「私について、知っておいて欲しいことがある」注意深く、彼は息子と対峙した。そこに優しさの見せかけはなかった。自らを偽る半分の真実はなかった。彼はケランへと、自らの奥深くにある本質の一部を見せていた。「私は、誰かに何をしろとか言われるのが好きではないんだよ」

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アート:Andreas Zafiratos

 オーコは片手を引き、もう一本の蔓をケランに投げようとした。だがその時、雷が肩をかすめた。彼はよろめきながら後ずさり、腕を押さえて歯の間から空気を吸い込んだ。

 階段の上から、サンダーライフルの照準器越しにアニーがオーコを見つめていた。サンダー・ジャンクションで最高の狙撃手である彼女は、わざと外したのだ。オーコはその理由を尋ねはしなかった。

 「ほとんど面識もない子供ひとりのために、人生最大の報酬を手放すとは本気かな?」苛立ちを含んだ声でオーコは尋ねた。

 「多元宇宙は自分勝手な理由で悪事を働く奴で一杯だ」アニーは悩む様子もなく言った。「けれど善いことをして何も見返りを期待しない奴は? 守る価値があると私は思うね」

 オーコは魔法を呼び起こし、腕に力を込めて蔓でアニーを攻撃しようとした。だがその瞬間、ケランが両目を奇妙な緑色に輝かせて彼の視線に飛び込んできた。即座にオーコはそれを感じた――寛ぐような静けさが彼を覆い、毛布のように心を包み込んだ。オーコはふらついた。ケランがメダリオンへと手を伸ばした。

 だがその指が鍵に触れた瞬間、ケランは何かに恐怖したようにのけぞり、頭を抱えて血の凍るような悲鳴をあげた。オーコの心の中でその音は不明瞭にしか聞こえず、まるですべての動きが緩慢になったようだった。影が床を横切り、ケランだけでなくアニーとラルをも包み込んだ。彼らは脳内に浸み込む悪夢に圧倒され、苦悶の叫びを発した。

 ケランの魔法が揺らぎ、オーコは強く瞬きをして偽りの静けさを振り払った。そして部屋を駆ける影を追いかけ、その持ち主を把握した。

 鍵のかかった扉の横で、アショクがヴラスカと並んで立っていた。その足元には黒い煙が立ち込めていた。

 オーコは言った。「完璧な時に来てくれたね」

 ヴラスカは焦るように扉へと顔を向けた。「これ以上、余計な相手が来る前に扉を開けようじゃないか」

 オーコは中央の錠を開く鍵を握り締めた。金属がわずかに震え、収まるべき場所にはまった。輝く扉の中へと棘が伸び、音を立ててその中心が不規則に回転した。

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アート:Leon Tukker

 鍵の各部位が分離し、それぞれが異なる方向へと動いた。光はカーテンのように後退した――もはや道を遮るものはなくなった。

 オーコは顎についた血を手の甲でぬぐい、宝物庫へと足を踏み入れた。

 金色の霧が視界に弾け、四方八方に広がった。壁も天井も見えなかった――ただ無限に広がるような空間の中、金属製の通路が中心へと何本も伸びていた。浮遊する円盤が重なり合って階段のようなものを構成し、それらは常に揺れ動いているように見えた。最も内側の台座の上に、ガラスに包まれた繭のような物体があった。古代の文字が刻まれた金属がその輝く球体を取り囲み、琥珀色をした魔力の糸がそれを薄く覆っていた。その背後には角をもつ巨大な生物の壁画が、台座を守るようにそびえていた。

 金属の檻から目を離さず、オーコは宝が収められているというその繭へ向かった。彼は少し離れた場所で立ち止まり、脈動する光の中へと目をこらした。ガラスの中で動くものの形は、もやに隠されてはっきりとは見えなかった。

 オーコは顔をしかめた。何か、生きているもの。

 アショクが床に足をかすめながら、オーコの隣を過ぎていった。「やっと」その繭へ向かいながらアショクは呟いた。そしてオーコが見たこともないような優しさで、その鋭い爪をガラスに当てた。「君を見つけた」

 アショクが伸ばした指に近づこうとするかのように、中の生物がガラスに触れた。その瞬間、幻飾が消え去った。アショクがずっとまとっていたものが。

 闇が消え去り、アショクを覆う外套の下にいたのは――ジェイス・ベレレンだった。

 オーコは鼻息を荒くした。あってはならない、トリックスターが騙されるなどということは。「いつから隠れていた?」

 「今も隠れてるよ」アニーがよろめきながら入ってきて、視線をジェイスだけに集中させた。彼女の目が鮮やかな橙色に輝き、ジェイスが今なお注意深く幻飾の下に隠しているものを垣間見た。「その傷跡……プラグ……それは?」

 貫くようなジェイスの青い瞳が憤りに満ちた。「貴女が見るべきじゃない秘密です」彼は片手を挙げてアニーへとひとつ身振りをした。彼女は床へと倒れた――眠りに落ちていた。

 ジェイスは輝く球体へと再び向き直り、両手をガラスに押し当てた。繭が砕け、塵がきらめいたかと覆うと完全に消え去った。祭壇らしきものの上に、小さな生物が座していた。身体は橙色の毛皮に覆われ、頭頂部には乳白色の毛が一房、二本の黒い角の間に挟まれていた。一本の長い尻尾が脚に巻き付いていた。尻尾の先端は空洞で、その中には青い球体が輝いていた。鼻が外気を感じてひくつき、大きな緑色の瞳が瞬いて開かれた。まるでとても長いこと眠っていたかのように。

 ジェイスは何かの子供のようなその生物を両手ですくい上げ、大切そうに胸に抱えた。そしてジェイスの指が額に触れると、子供は状況を理解する間もなく眠りへと戻った。

 「今はおやすみ。お互いの自己紹介は後にしような」

 「どういうことだ?」オーコは問い質した。「宝物庫には力があると言っていたな。けれどこれは……ただの子供だ。幼獣だ」

 「それ以上の存在だ」ジェイスは目を輝かせ、オーコの背後にいる何者かへと促した。

 オーコが振り返ると、そこにヴラスカが待ち構えていた。

 「お前にもう用はないよ」ヴラスカの両目が金色の魔力に輝き、すぐにオーコは足全体に硬直が広がるのを感じた。視線を下ろすと、両脚はすでに石と化していた。石化の魔法が身体を駆け上る中、オーコは裏切られた腹立たしさと戦った。今すぐ行動しなければ、自分の意志はヴラスカの魔法に圧倒される。そうなったら終わりだ。ケランも同じ運命を辿るのだろうか――ほんの一瞬、彼はそう訝しんだ。

 石化が首に達した時、オーコはその考えを押しのけ、次元渡りでサンダー・ジャンクションから逃げ去った。


 ケランは身動きをし、指が石の床をこすった。ラルは近くで眠っていたが、アニーの姿はどこにも見当たらなかった。

 きっと独りでオーコを追いかけたのだろう。

 どうにか立ち上がり、ケランはよろめきながら最後の部屋へと入った。かすかな光を放つ壊れた祭壇がひとつ、そしてヴラスカの隣には見覚えのない男が立っていた。その腕の中で何かの子供が眠っていた。

 アニーは床に横たわっており、動いてはいなかった。

 ケランは妖精の塵をきらめかせて彼女へと急いだ。そしてアニーの隣に辿り着く頃には、ヴラスカとその男と子供は跡形もなく消えていた。

 床が震え、宝物庫の扉にひび割れが走った。アーチの道から岩の破片が落ち、霰のように降り注いだ。

 ケランは必死でアニーの呼吸を確認した。生きている、だが倒れた時の衝撃でこめかみを負傷しており、頬に血が流れていた。ケランは片腕を回してアニーを抱きかかえようとした。そして身体を起こそうとした時、彼女はわずかに動いてうめき声をあげた。

 「逃げないと」彼は短く促した。

 アニーはケランに掴まりながら、床に投げ出されたままのサンダーライフルへと手を伸ばした。彼は空いた方の手でそれを拾い上げた。ふたりは足を引きずりながら出入り口に向かい、危うくラルに衝突しかけた。

 「天井が崩れてきてます」ケランは早口で言った。

 ラルは壊れかけた祭壇を困惑の視線で見つめた。「だが――宝物は――」

 「もう関係ありません。宝物庫の中にあったものはなくなりました」

 ラルは顎を強張らせ、厳しい表情を浮かべた。

 彼らは落石の混乱の中を左右に避けながら、急いで宝物庫から引き返した。最初の部屋に辿り着くと、地獄拍車団のほとんどはすでに逃げ去っていた。アクルは敗北に目を閉じ、不格好に伸びていた。力の抜けたその身体を床に押し付けていたのは、勝ち誇るラクドスだった。

 「この岩から出て下さい!」ケランは警告を叫んだ。「宝物庫の中で何かがあって、崩れてきています!」

 ラクドスは顔を上げ、天井の亀裂から滴りはじめた溶岩へと瞬きをした。他の者たちはラルの姿を見て警戒の視線を交わした。

 エリエットが混乱した戦闘現場から現れ、額の血を拭った。「オーコはどこ? それとヴラスカは?」

 「もういません」ケランは早口で言った。「説明している時間はありません。逃げないと」

 宝物庫が崩れる音が背後に響く中、彼らは通路を急いだ。外に辿り着いた瞬間、マルコムとブリーチェスは夜の中へと飛び立ち、広大な砂漠の地平線へと遠ざかっていった。残るオーコの仲間たちはラクドスの背中に乗り込み、その角の間にチビボネが快適に収まった。

 ラクドスは腹を立てた。「二度と誰かを乗せるつもりはないと誓ったのだぞ。これが最後の最後と知れ!」不機嫌な大声を残し、ラクドスは宝物庫が収められた浮遊岩から飛び立った。

 「先に行って下さい」ケランはラルへと言った。「僕は飛んでアニーさんを下ろします」

 「ターネイションからできるだけ離れろ。危険を脱したら探しに行く」稲妻がひとつ放たれて峡谷を駆け、そしてラルの姿は消えた。

 アニーは顔をしかめた。「旅をする時は地面の上を四本脚で進む方がいいんだが」

 「飛ぶのは好きじゃないんですか?」

 「一度だけ鳥に乗って、首の骨を折りかけたことがある。つまり好きじゃない」

 ケランは飛び散る溶岩を見てたじろいだ。「僕を信じてください。落ちるよりも飛ぶ方がずっとましですから」

 アニーは短く頷いた。だが彼女がケランの傍へ寄るよりも早く、アクルが鉤爪を大きく広げて入り口から飛び出した。そのドラゴンはアニーの腰を掴んで引き寄せ、鱗が雷を帯びて火花を散らした。彼女は恐怖の悲鳴をあげてアクルの爪を蹴りつけたが、それは相手の掌握を更に強くしただけだった。ケランはひび割れ音を聞き、それは骨ではないかと焦った。

 慌てふためき、ケランは必死に集中した。彼は両手を掲げ、エネルギーの剣を二本作り出そうとした――そしてその時、父の言葉を思い出した。自分たちの血筋について、自分たちの内に流れる力について。父親のようにはならない、ケランはそう決めていた。なりたくはなかった。けれどフェイに由来する自分の能力は恐れるものではなく、自分の一部。前にアクルと戦った時は、自分の魔法と継承するものを受け入れる覚悟ができていなかったために躊躇したのだ。完全な覚悟ができていなかったために。

 その過ちを繰り返しはしない。

 ケランは両手を下ろし、息を吸い、自らの内に脈動しながら流れる魔法を落ち着かせた。自分にはできる。

 ケランは黄金色のエネルギーを一粒、誘うように、ゆっくりと慎重にアクルへと向かわせた。互いの視線が合った瞬間、ケランは何の警告もせずにアクルの心へと飛び込んだ。波打つ憤怒と血への渇望を通り抜け、彼はドラゴンの核たる奥底へと潜っていった。そしてケランの魔法がアクルの魂を捉えた。彼は掌握に力を込め、ドラゴンがただの操り人形と化すまで戦意を削いでいった。それは単なる催眠ではない――制御だった。

 「その人を放せ」ケランは命令した。

 アクルの爪が緩み、アニーは地面に転がり落ちた。ドラゴンの背後で岩山が崩れて粉々になった。尖った岩が地面に向かって倒れ、あらゆる裂け目から溶岩が噴出し、開いた傷口から血が流れるように眼下のターネイションへと注いだ。

 ケランは両目をアクルから離さなかった。解放することはできない。もしそうしたなら、地獄拍車団は自分とアニーを、そしてアニーが必死に守ろうとした町を狙い続けるだろう。ここで終わらせなければいけない。

 アクルの心へと、ケランは再び魔力の波を送り込んだ。「宝物庫の中へ戻れ――そして二度と出てくるな」

 その目のかすかな輝きは、アクルが心のどこかで状況を理解していると示唆していた。それでもアクルは従った。彼はゆっくりと尻尾を引きずりながら、崩壊しつつある宝物庫の入り口へと戻っていった。落石が開口部を塞ぎ、ドラゴンの姿が消える様子をケランは見つめた。

 地面が裂け、浮遊岩が最後の破片を落とし始めたその時、ケランはアニーを掴んで空へと逃げた。最後に彼が宝物庫の中に見たのは、その岩そのものに隠されていた巨大な黄金色の球体だった。

 ある瞬間、それはそこにあった――そして魔力の糸が織り合わされて球体を包み込み、そのあらゆる編み目が脈動した。宝物庫は雲へと打ち上げられ、視界から消え去った。


 オーコは久遠の闇からワイルドカード・サルーンの中に現れた。ヴラスカの石化魔法を受けた兆候はなかった。変身能力のおかげで、彼はその石を最後の一片まで残らず取り除くことができていた。

 幸運だった――賢く振舞えていたなら、その方が良かったのだが。

 ヴラスカとアショクが自分を騙していたのだ。あるいはどうやら、ヴラスカとジェイスか。あのふたりは自分と仲間たちの才能を利用し、支払うべきものも支払わずに逃亡したのだ。そしてあの子供らしきものは……

 オーコは唇をすぼめて額の皺を消した。今更悔しがっても何にもならない。この敗北から立ち直り、よりよい機会を探し求める方がいい。復讐は後でもできる。

 オーコは黒髪を手で撫でつけ、バーカウンターの鏡に映る自分の姿を眺めてから奥の部屋へと向かった。

 ラクドスは窓の外を歩き回っていた。チビボネはゲラルフとギサを追いかけっこに誘おうと全力を尽くしていたが、どちらの屍術師もその餌にはかからず、半ば空になった酒瓶で失望を紛らわしていた。エリエットはピアノの椅子に腰かけ、退屈から時折鍵盤を叩いていた。梅澤とケアヴェクはバルコニーの両端に座り、影の中から睨み合っていた。

 オーコは明るい笑顔を浮かべた。「心配をかけたね、皆――私はこの通り無事だよ!」

 エリエットの声は明らかに苛立っていた。「誰も支払いは受けられないってことでいいかしら?」

 ギサは両手で頭を抱えた。「地獄拍車団は全くもって面白くありませんでしたわ。私がグールを起こし終える前にほとんどが逃げ出してしまったのですよ!」

 「任務そのものが大惨事だった」梅澤が言った。「最初から失敗するよう仕向けられていたのだ」

 「貴様らの恥辱にわしを含めるな」ケアヴェクが吐き捨てた。「わしは自らの役割を果たし、あの護法を解除した。首領であるはずの者がこの悪党集団を管理できなかったことこそが、真の失敗だ」

 オーコは軽蔑するように爪を弾いた。「ヴラスカとアショクは最初から裏切りを計画していた。君たち全員を裏切ったのと同じように私を裏切った」彼は辺りを見回し、まだ残っている仲間を数えた。「ブリーチェスとマルコムはどこに?」

 「あいつらが忠誠心を向けるのはあのゴルゴンだけよ」エリエットが返答した。「あの女が戻ってこないとわかると去っていったわ」

 オーコは失望を見せないように努めた。ブリーチェスの叫び声は時に耳障りだったが、マルコムは理想的な斥候だった。自分たちが恒久的なチームを組むのなら、いい追加要員になると考えていた。

 ゲラルフは空になったグラスを指で軽く叩いた。「梅澤氏の仰る通りです――最初から最後まで大惨事でした」

 「なんと愉快な時間であったことか!」近くの開いた窓からラクドスが吼えた。「これほどの楽しみは何十年となかったぞ!」

 チビボネが両腕を掲げ、その喜びに骨がカタカタ音を立てた。

 梅澤は胸の前で腕を組んだ。「支払いを誤魔化されて楽しいわけがあるものか。弁明を聞かせてもらおう」彼はオーコへと視線を定めた。

 ギサは眉を上げ、期待に満ちた笑みを浮かべた。

 「何もないよ」オーコは単純に認めた。すぐに仲間の大半が渋面を向けた。「少なくとも当面は。アショクとヴラスカの行方については何の手がかりもない。多元宇宙には他にも沢山の宝物があるというのに、時間と資産を無駄遣いする習慣は私にはないのでね」

 ケアヴェクは嘲笑した。「奴等を放置するというのか?」

 「あのふたりはいつか姿を現す」オーコの瞳が暗くなった。「その日が来たら、私たちを裏切ったことを後悔するだろうね。でもそれまでは……」彼は肩をすくめた。「お互いの不満をぶつけ合ってもいいし、より良い機会が訪れたなら再会すると同意してもいい。復讐のためでも、より大きな儲けのためでも」

 ラクドスは熱狂的な咆哮をあげた。他の者たちは視線を交わした。

 オーコは両手を背中に回した。「連絡を取り続けるということでいいかな?」

 「俺のいる場所はわかるだろう」梅澤が言った。「だが次は報酬を三倍にしてもらう」彼は軽く会釈をした後、影の中に消えていった。

 ケアヴェクは宙へと手を振り、扉へと向き直った。「オーコよ、この惨めな失敗はわしに借りを作ったと思え。裏切り者を探す時間は与えよう。だが約束されたものはいずれ回収する、それは知っておくがいい」

 ギサはテーブルの向こうで溜息をつき、髪の一房を指に巻きつけた。「私と弟も含めてよろしくってよ。もちろん、それまでに私がゲラルフを殺していなければ、ですけれど」彼女の笑みが大きく広がった。「ですが心配なさらないで――会合のある時には弟の屍を連れて行きますからね!」

 ゲラルフは呆れた顔をしてみせた。「もしも訓練を受けた衛生兵と頭の鈍い死体処理屋のどちらかを選ぶとなったら、いつだって私が選ばれるでしょうね」

 ギサが舌を突き出した。姉弟は小声で口論しながら出ていった。

 チビボネはガタガタと音を立ててラクドスの顔に駆け寄った。

 「このスケルトンもまた、更なる享楽の時には戻るとの約束だ!」ラクドスは窓から咆哮を上げ、砂漠へと向き直った。そして翼を大きく広げて陽光を遮ると、嬉しそうなチビボネを角に掴まらせて飛び立った。「今度こそ最後だ、スケルトン! 真にこれが最後だ!」そしてラクドスもまた去った。

 エリエットだけが残った。彼女は今なおピアノの鍵盤をひとつずつ叩いていた。オーコとの間に沈黙が流れたが、やがて彼女は尋ねた。「あなたが失踪した後、息子くんがどうなったのかは知りたい?」

 オーコは近くの柱にもたれかかり、ポケット両手を入れた。「私に似ているところが何かあるなら、あの子は逃げ延びたのだろう」

 エリエットは頷き、首をかしげて尋ねた。「アニーもね。ところで、このサーカスにもう一度あいつらを参加させるつもり?」

 「いや。今後は向こうの事情に干渉はしない」それは本心だった。

 ケランとの対面は計画の範囲外だった。ケランを裏切ったこともまた。だがその両方が起こり、そしてオーコはそれを申し訳ないと思うつもりはなかった。ケランは無事に逃れた――やがて自分たちの間に起こった物事を乗り越えるだろう。もしかしたら、互いの道はいつかまた交差するかもしれない。

 自分にも父親と言えるような相手はいなかった。自分の子供に対しては、もっといい父親であれたかもしれない。もし状況が違っていたなら……

 彼は両肩を正し、瞬きをしてその考えを追い払った。今は、もっと注目すべき大きな物事が多元宇宙にはある。

 オーコはゲラルフが残していった、中身が半分しか残っていない酒瓶に手を伸ばし、二つのグラスになみなみと注いだ。彼はひとつをエリエットに渡し、もうひとつを自分で掲げた。

 「次に会う時まで」

 エリエットもグラスを掲げた。「再会を楽しみにしているわ」


 マーグ・タラナウが空から落下し、ターネイションの地表に大混乱を引き起こしてから 2 週間以上が経過していた。ケランに残った物理的な傷は打撲だけだったが、心の中に抱える痛みを取り除くのはずっと困難だった。

 ケランはオーコのことを考えないよう努めたが、気が付くと見知らぬ人々の中に父の顔を探していた。幻飾をまとった父が見守ってくれているかもしれない、そう考えるのは馬鹿馬鹿しいだろうか――けれどそれは慰めでもあった。実際の父ではなく想像上の父ではあったが、ケランは今なおそれを完全に手放すことができずにいた。

 アニーの牧場でケランは雑務に忙殺されていた。それは彼に故郷の村を思い出させてくれた。羊だらけの町オリンシャー、時間が今よりも少しゆっくりと流れていたあの頃。労働、日常の決まりきった仕事、そしてここではない次元に急いで向かわなくてもいいという事実を彼は気に入っていた。自分がどこかに属していると心から感じたことはなかった――父を知ってその思いが解決できなかったとしても、友人の力になることで解決できるかもしれない。

 ケランは最後の干し草の俵を積み上げ、納屋の扉を閉め、近くの野原で草を食む動物たちへと振り返った。雷鳴がひとつ鳴り響き、数頭の馬が驚いて後ろ脚で立ち上がった。

 ラル・ザレックが門の傍に現れ、ケランを見つけると手を挙げて挨拶した。

 ケランは作業用の手袋を外して後ろポケットに押し込み、ラルへと近づいていった。「まさか、もうヴラスカさんを捕まえたとか言いませんよね?」

 「それがまだだ」ラルは暗い表情で認めた。「あいつが逃げてからというもの、手がかりはない――ジェイスもだが」彼はため息をつき、表情を和らげた。「とはいえ、ラヴニカではやるべきことが沢山ある。信頼できる奴を雇いたいんだよな」

 「僕に次の仕事を、ってことですか?」

 ラルは笑った。「どう言えばいいかな。俺はお仕置きが大好きなんだ」

 ケランは牧場へと振り返った。アニーがサンダーライフルを掘り出した穴はまだ見えていた。彼女はそれを再び埋めようとはしていなかった。町の安全が確かなものだとわかるまでは。

 ケランも同じ理由で留まっていた。それがアニーへの恩返しとして、最低限のできることだと考えていた。けれどアクルがいなくなり、ターネイションが混乱している中、自分たちは大丈夫かもしれないとも考え始めていた。

 それでも――まだサンダー・ジャンクションを離れようという決心はついていなかった。

 「放浪はしばらくいいかなって思ってます」ケランはそう認めた。「それに、待っている人がいるんです」

 ラルはにやりと笑った。「物語があるみたいだな。それにその赤くなった顔を見るに、何やらいい相手なんだろう」

 ケランは緊張した笑いをこらえた。「何のことですか、わかりませんよ」

 ラルはケランの肩の先にある家を見つめ、鼻から大きく息を吸った。「この匂いは蜜芋のパイか? 挨拶に行ったらアニーは分けてくれると思うか?」

 「試してみることはできますよ。けど、その代わりに柵の支柱を切ってくれって頼まれても驚かないで下さいね」

 ラルは袖をまくり上げた。「パイと交換に? 柵を作る装置だって組み上げてやるさ」

 ケランはラルが家の中へと姿を消す様子を見つめた。そして自分もそうしようかと考えたその時、馬に乗った人影が道を近づいてくる様子が見えた。彼は日光の中で目を細め、よく見えるように手をかざした。

 それは日傘をさしたひとりの女性だった。先端の尖った耳、長い黒髪を三つ編みにして垂らし、午後の灼熱の日差しにも関わらず分厚く着込んでいた。肩からは重そうな鞄が下げられていた――背中からは丸めた羊皮紙が数本突き出ており、その脇に揺れる革紐にはインク壺が結び付けられていた。

 ケランは待ちきれず、道の途中で彼女に合流して笑いかけた。「やっとグルールの遺跡から抜け出せたんですね?」

 「中継塔で招待を受け取りました」アマリアはそう言い、馬から降りるのを手伝ってくれるようケランへと手を差し出した。彼女は微笑みを浮かべ、問いかけるように色白の顔を彼へと向けた。「そんな伝言を送るのはとっても高くつくはずですよ。私がいなくてそんなにも寂しかったのですか?」

 ケランは頬を紅潮させ、首筋をかいた。「僕は、その――アマリアさんが来てくれて、嬉しいです」

 「ラヴニカからはるばる来たというのに、私を抱きしめてもくれないのですね?」アマリアはからかいながら日傘を回し、影が彼女の周りに踊った。

 アマリアの腕が首に回され、力が込められた。ケランは恥ずかしそうに口を開いた。

 「会いたかったんですよ、ケランさん」アマリアは頬をケランのそれに押し当てた。「そして楽しみです。これから一緒に、この世界の地図を作っていくのですから」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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