MAGIC STORY

カルドハイム

EPISODE 10

サイドストーリー第5話:ラスリルの英雄譚

Elsa Sjunneson
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2021年2月5日

 

 ラスリルは洞窟の入り口に立った。その血管は、厳しい試練の間に授与された魔法で脈打っていた。指を曲げ伸ばし、変化が定まる様子を彼女は感じた。一介の定命を超える存在となり、全身の筋肉や骨や腱が変化していた。ラスリルは神性をまとっていた。

 この決定は、幾つかの点では簡単だった。民は守護を、神性との更に強い繋がりを必要としていた。少し前に戦争があり、勝利したとはいえ危ういものだった。自らの社会が再び多くのものを失う様子は見るに忍ばず、そのため彼女は民を守る方法を見出した。そうしなければならなかった。ラスリルは一柱の神に、民を受け入れてくれるよう、守ってくれるよう願った。そしてそのための犠牲を捧げた。

 ラスリルは目を開け、群衆の顔を目にした。祝祭に賑わう村へ彼女を連れて行こうというのだ。何かが違っていた。目に見える何かが。自分が変わったというのはわかっていた。自分の内なる何かが、もはや以前とは異なっている。神になるというのは要するに、自らの一部を失うことを意味する。それは対価だと彼女は受け入れていたが、何を失うのかはこれまでわからなかった。

 世界の見え方がそれまでと異なっていた。焦点がしっかりと定まらなかった。群衆の中に娘の顔が見えたが、距離にぼやけ、衣服で判別できただけだった。木々が見えたが、葉の一枚一枚は見分けられず、緑色のもやが黄金の太陽で背後から照らされていた。世界のあまりの小ささにまごついた。これまでは、目に見えるよりもとても大きいとわかっていたのに。振り向くと更なる顔が、更なるもやが見えた。世界はあまりに小さくなってしまっていた。

 それでもラスリルは、一柱の神なのだ。


 真夜中に、彼女はまるで昼間のように目覚めた。本能的に寝台の横の剣を掴もうとして、だがそれを遮ったのは……毛皮だった。物を見るために顔を向けるのはまだ慣れていなかったが、ひとたびそうすると、銅色をした美しい狼の、青緑色の両目があった。蝋燭の薄暗い明かりの中、この種の狼の特徴として知られている三色の毛皮が見えた――上層の白い剛毛に、下層の銀と金と、言うまでもなく銅色の柔毛。その毛皮は陽光にも月光にも、標のようにきらめいた。狼は彼女の隣に身体を休め、顔を前足にうずめ、眠っていた。

 ラスリルはそれからずっと長いことそれを見つめていたが、やがて眠りについた。事実、この狼は何もしてきていなかった――眠っている間に狼が自分を引っかくことは、不思議にも心配していなかった。

 どの神が自分を選んだのかは知らなかった。ただ自分が懇願し、受け入れられたということだけだった。選んだ者へと狼の子供を送り込む存在はひとつしかない。サルーフ。これは彼の狼に違いない。それが考え付く最良の説明だった。

 彼女は眠った。


 次の朝にラスリルが目覚めて浅い寝台から出ると、狼は彼女の左の掌に背中をすり寄せ、住居の中央に位置する日光浴室へとついて来た。試練を受けて以来、彼女は新たな感覚に順応してきた。辺りが暗く何も見えない時のために壁には手で触れる目印を、通路には方角を。今の彼女の視界は狭く、距離感覚も幾らか失われていた。自らの家であっても、新たな知覚への適応が必要だった。

 狼は顔を上げて彼女の袖を優しく噛み、上着から柔らかな繊維を少しだけちぎった。

「服を食べないで」 彼女はそう叱り、だが狼が導く方向に従った。自分自身の家の中で狼に連れて行かれるというのは、他に何もなければ面白いことかもしれない。だが狼は家の外、村へと続く緑色の大きな扉へとラスリルを招いた。ぎらつく扉の取っ手に何かがぶら下がっており、知覚を調整して見るために一瞬を要した。装具。滑らかな革に、磨かれた金属が光っていた。狼は頭にそれを通すと、ラスリルへと持ち手を差し出した。それを使えと言っているのだ。エネルギーを持ってはっきりと、狼はラスリルを示していた。

 革はしなやかで滑らか、まるで扱い手のために特別に誂えられた剣のように、手の中に完璧に収まった。狼は前足で扉を引っかくのではなく叩いた。丁寧に、自分たちはここから出るのだと主張するように。ラスリルは長年の冒険から、扉の隣に立てかけた剣を腰の鞘におさめた。その心は忘れておらず、少なくともその技術も失っていなかった。そのために目は必要なかった。彼女は緑色の靴先で扉をそっと蹴り開け、狼を追って陽光の中へと出た。

 扉から踏み出すと両目は即座に反応し、痛みが燃え上がった。ラスリルは目を閉じてその場に立ち、光への感受性がすぐに収まるのを願った。左手の装具が前に引かれた。強くはなく、だが踏み出すように告げた。一歩また一歩と、目を閉じていても彼女は狼の装具に引かれて道を進んだ。面白い。

 狼は時に自ら相棒を選ぶ、その話は聞いていた。しばしば目や耳が不自由な者を、あるいは邪術師が琥珀に捕らえる記憶のような、酷い心の傷を負った者を助けるのだと。だが自分が狼の相棒を得るとは予想していなかった。装具が左に鋭く引かれ、ごく僅かな腰の動きで彼女は従った。何十年もの長きに渡って剣を振るってきたラスリルの足取りは軽やかで、これもまた同じ敏捷性の表れ、そう思えた。

 ようやく痛みが薄れ、ラスリルは両目をしっかりと開いた。驚いたことに、彼女は思わぬ場所にいた。村の中へ向かっていたのではなく、森へと入る道を下っていたのだった。辿ってきた道はほとんど見えず、だが苔に覆われた岩が並んでいた。緑や黄の木々と低い藪が、世界をひとつの緑色にぼやけさせていた。

 前方にひとつの人影があった。遠すぎてはっきりと見えなかったが、そこに人影がひとつだけあり、自分たちがそこへ向かっているというのはわかった。

 近づくにつれ、その人物の衣服の色が見分けられた。深い青と貂の茶色から成るその衣服。尋ねずともラスリルには相手の正体がわかった。狼は自分をこの人物に会わせるためにここへ連れてきたのだ。

「ラスリル様! 召喚です。貴女様とその狼を――ところで、その狼はいつ来られたのですかな」 エルフ氏族の長、ヤディラだった。「何であれ、問題が起こっております。それが何なのかはわかりませんが、世界の間を渡る扉があり、その狼であれば見つけられます。どこへ行くかも狼が知っているでしょう。ただ、最も必要とされる所へ連れて行けと言えばよいのです」

 ラスリルは考え込んだ。自分が最も必要とされている場所。自分がそのように期待されている、必要とされているというのはわかっていた。だがこの視覚で、隣の狼とともに向かうというのは予想していなかった。だが自分の人生は、一度たりとて予想できるようなものではなかったのだ。

「わかりました。狼さん、いずれ名前が必要ですね。私が最も必要とされている所へ連れていって下さい」 狼は踏み出し、装具を強く引いた。そしてラスリルは前方に開いた領界路へ向かい、立ち止まりも疑いもせず踏み入った。


 領界路の中を進むのは、稲妻でできた滝の中を歩くようなものだった。滝のように全てを飲み込む――全身が水の中を進むような感覚――だがそれは水ではなく、エネルギーなのだ。

 ラスリルがそれを抜けた時、衣服は濡れていなかった。髪は逆立っており、狼はうなり声を上げた。だがそのうなり声が収まると、もっと重要な音が聞こえてきた。

 悲鳴が。

 ラスリルは右手で腰の剣に触れ、それを抜いた。剣は狼の頭上で優雅な弧を描いた。狼は彼女が身構えるまで反応はせず、そして共に駆け出した。深い枝と木々の間を抜け、やがて空き地に出た。幾つものもやの中央で、何かが何かを払いのけていた。ラスリルと狼が近づくと、幾つかの正体が判明した。

エルフの刃、ラスリル》 アート:Caroline Gariba

 人間の少女、歳は十一か十二ほどか。人間に見えるからといって、人間とは限らない――果たしてこの見知らぬ領界には何が棲んでいるのだろう? だがそれは問題の本質ではなかった。ここに自分の助けを必要としている者がいる。ラスリルは狼の装具を放し、動いた。

「狼の後ろに隠れて!」 彼女は明らかに怯えた少女へと叫びながら駆け、混乱の只中へ突入した。

 目が見えなくとも、自分と相手の技を把握できれば剣術で戦える。そのため彼女は素早く動き、状況を判断した。近づくと、相手は明らかにドローガーだった。刃は深い青色で、これまでにも近くで見たものと同じように鋭かった。だが彼女の技量は並ぶものなどない程に研ぎ澄まされていた。剣を叩きつける音を立て、彼女は戦いに加わった。

 目を閉じても戦うことはできた。刃の間の緊張が全てだった。相手の剣が自身の剣に叩きつけられ、位置取りをして受け流す、右からうなり声が聞こえ、何かが近づいていると警告した。彼女は二つめの鞘から左手でダガーを抜き、見えざる標的へと刺しながら右手の剣で敵を押し返した。

 そして次に剣が激突すると、彼女はそのまま押し込んで相手の武器を落とさせた。数か月は剣を手にすることもできないだろう。そして素早く頭部を蹴り、もう一人の敵を無力化した。荒く息をつきながら振り返ると、目の前にあった光景は心が痛むものだった。

 ラスリルの狼はこの新たな世界の月光にきらめきながら、あの少女に身体を寄せていた。その子は狼の毛皮に顔をうずめ、泣いていた。

 ラスリルは速足で狼と少女の所へ向かい、膝をついた。

「大丈夫ですか? どうしました?」

 その少女は一度深くしゃくり上げて息を整え、恐る恐る狼の肩から顔を上げた。その白がかった水色の両目に瞳孔はなかった。

「私の狼がさらわれたの!」 少女は声を上げ、今や自分のものだというように狼の毛皮を強く握った。

 この少女は、ただ森の中で迷った盲目の少女ではない。そしてこの少女のいる世界がどこであれ、奪われた狼はただの狼などではない。

 サルーフには何匹もの子供がいる。狼の子供が。そして彼らはしばしば才能ある魔法使いを守る。この少女には力があるのだ。だがその力は、この子が使いこなせる年齢に達するまでは世界から守られるべきなのだろう。狼はそのためにいる。あの者たちの正体はともかく、この少女に危害を加えようとしていたのは間違いないのだ。

「安全な所まで連れて行ってあげますから、それまで一緒にいましょう」 ラスリルはそう言った。狼を一瞥すると、意識を失った襲撃者へと小さくうなっていた。「そうですね――まずは、あの者たちを対処しましょう」

 彼女は雪を踏みしめ、倒れた二体の敵へと近づいた。そして彼らの持ち物から縄や他の道具をくまなく探し、ベルトや靴紐を駆使して両手両足を拘束した。永遠にはもたないだろうが、刺し傷と脳震盪でしばらくは動けないと思われた。

 そして振り返ると、その少女は狼の背中の紐に手を置き、装具をラスリルへと差し出した。一緒に歩こう、そう伝えるように。

 ここは奇妙な世界だった。雪は地面を青や白や紫に輝かせるように覆い、だがそれがシュタルンハイムの光を反射しているのか、それとも単純に地面の色なのかは、ラスリルの知るところではなかった。木々は高く細く、腕のように伸びる腕は踊り手にも戦士にも見えた。それらは伸び、掴みかかり、土のそこかしこから伸びて絡みつこうとしてきた。ラスリルは危険に備えて耳を澄ましていたが、前進する自分たちの八本の脚が踏みしめる音以外に、聞こえるものはほとんどなかった。

「ここはどんな所なのか教えてくれますか? それとあなたの名前は?」 ラスリルはそう尋ねた。

 少女は鼻を鳴らした。

「リアナ」 歌うような声で少女は答え、ふん、と大げさに鼻を上げた。「それと私の狼はキット」

「キット。子猫という意味ですね?」 笑い出さないように、ラスリルは気取って言った。彼女の娘もかつて同じことをしていたのだ。

 少女はくすくすと笑った。

 その笑い声に隠れて衣ずれのような音が聞こえ、そして狼が小さく鳴いた。

「止まって」 ラスリルは囁き、立ち止まって再び剣を抜いた。彼女はぐるりと頭を巡らせ、視線を追うようにゆっくりと身体を動かした。森をくまなく見つめ、その音の出所を探した。何もなかった。

「進みましょう。リアナ、どこへ向かっているのですか?」

「私が住んでる村へ。森を抜けた所にあるよ。どう行けばいいかは狼が知ってる。狼はみんな知ってるんだよ」

 その声は喜ばしく愛情に溢れており、ラスリルは不吉な意味を感じ取りはしなかった。狼は迷うことなく二人を導いて森を通り、ラスリルはその間ずっと尾行を警戒し、木々のさざめきに耳を傾けていた。まもなく、彼女たちは村の端にやって来た。

 村に入ると、そこでは中央のかがり火を木と岩の小屋が取り囲み、外側にも同じ円構造があるらしかった。炎のそばに人影を見つけ、ラスリルたちは近づいていった。

「あなたがたのお子さんが迷子になっていたようですが」 炎の番に忙しいその長身の大人へと、ラスリルは声をかけた。不意の割り込みに驚き、その人物は振り返った。

「あら、ええ、そうです」 その女性は少しの非難とともにリアナを見下ろした。「キットはどうしたの、リアナ?」

「散歩に出てたら、ドローガーがいて。そいつらがキットをさらって北へ向かったのよ」 観察力の鋭い子、ラスリルはそう心に留めた。

「それからどうしたの?」

「退治しようとしたけれど、そこでこの人が来てくれたの」 リアナは責めるような声で言った。強い感情とラスリルへの同意、そしてあらゆる子供が大人へと持つ少しの嫌気がそこにあった。「そしてここへ連れてきてくれたの。私の狼を取り戻さないと」

「私が取り戻します。そのためにここへ導かれたのです」 気付くとラスリルはそう言っていた。今ここに自分が現れたことが、どれほど運命的かを考えた。この探求のために自分は送り込まれたのだ。

「お姉さんの狼の名前は?」 更に責めるような声色で、少女が尋ねた。

「まだ教えてもらっていなくて」 正直にラスリルは返答した。

「きっと教えてくれるよ」


 少女と離れ、ラスリルは狼に引かれて再び森へと入り、不気味な藪の間に隠れた空き地の隅へとやって来た。細い枝の樹皮は白と灰色、葉は黒一色で、だが近づくと白い葉脈が見えた。

 空き地の中央の地面に、長く黒い鎖のついた一本の杭が刺さっていた。鎖の先には一匹の、小さな狼が繋がれていた。輝く月と炎のゆらめく光の中、その毛皮はラスリルの狼よりも濃い黄金色だった。

 炎の近くでは一人の男が腕の刺し傷の手当をし、もう一人が角杯の酒を飲んでいた。先程ラスリルが頭を蹴った人物ではない、左には隠れ場所らしきテントがあり、その中にいるのだろう。耳を澄ますと、いびきの音が聞こえた。

 ラスリルは音を立てないように冷たい地面へと腰を下ろし、待った。その男たちはやがて眠りにつくだろう。一時間の監視の末にその時が訪れると、既に炎は消えかけ、眠る彼らの隣で燃えさしだけが輝いていた。装具から手を放し、ラスリルは隠れ場所から滑り出た。狼も一緒に音もなく出ると、ラスリルが鎖を外すかたわらで子狼を守るように丸くなった。首尾よく鎖が外れるとラスリルは自らの狼を一瞥し、そっと引き返そうとした。

 そして逃げ出そうとしたその時、テントの中から音がした。咳き込み、そして罵る声。

 全員がその場に固まった。

 ラスリルが振り返ると、蹴りを入れたあの男が頭をさすりながらテントから現れた。視界の隅に気をつけながら、彼女は可能な限り静かにかつ素早く動いた、だが遅かった。一本の手が伸び、彼女が剣を抜くよりも速く右肘をとらえた。

 ならば剣ではなく、拳での戦いを。彼女は本能に身を任せた。膝を腹に入れ、肩を突き出し、跳ねて戻る。目は閉じて、どのみちもう役には立たないのだから。振るわれる拳の勢いを顔に感じ、そして掴み、ひねり、落とす。沈黙とともにある戦いが、相手の戸惑いを明らかにした。下手に詰められた枕を殴るような打撃音が弾け、敵は雪の上に倒れた。それが合図だった。目を開けて、走れ。

 目は見えずとも、構わずにラスリルは森を駆けた。木々は敵のように感じられ、狭い視界を侵食し、彼女はただちに方角を見失った。狼たちはどこに? 村は? 間違いなく追ってきているであろう敵は?

 ラスリルは振り返り、枝を掴んでやみくもに辺りに目を向け、やがて完全な狼狽の中で止まった。自分がどこにいるのか、どこへ行くべきかもわからなかった。

 だがやがて悟った。自分はまさに、いるべき場所にいるのだと。

 前方の木立の中で、巨大な狼が身体を休めていた。その両目は力を輝かせ、ラスリルが一緒に逃げてきた二体がその狼の前で深く頭を垂れていた。

領界喰らい、サルーフ》 アート:Chris Rahn

 力ある存在に対面したならどうすべきか、ラスリルは知っていた。彼女は膝を屈めて頭を下げ、両手を伸ばして武器から遠ざけた。

『其方は群れを害する者から我が子を救い出してくれた。そして其方は私が送り出した子に受け入れられた。子の名はルキア』

 ラスリルは口を開くことも、前方の狼に目を合わせることもしなかった。

「謹んで、賜物を拝受致します」 そう答えたラスリルの隣へとルキアが戻り、彼女の左に立った。

『もうひとつ賜物を与えよう。其方の民は我が地を安全に歩き、我が獣と意志を通じるであろう。我が祝福を持つと持たざるとに関わらず』

 ラスリルは再び頷いた。

「キットをあの少女のもとへ送り届けて参ります」


 その子狼、キットは、全速力で友へと駆け寄った。町の中心で少女は狼とともに転げ回った。一人と一匹は狼の姉妹のように、取り囲む群衆の中で、幸せにぼやけてひとつに溶けた。

 領界路が開いていた。新たな友と離れることなく、ラスリルは踏み入った。

(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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