MAGIC STORY

カルドハイム

EPISODE 08

サイドストーリー第4話:導き、目的、誉れ、そして栄光

Miguel Lopez
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2021年1月29日

 

 ラナールが目を開けると、そこは名誉なき地だった。年老いた戦士である彼はあおむけに寝転がっていたが、眠ってはいなかった。彼は立ち上がった。周囲には荒涼としたツンドラが果てしなく広がり、凍土の薄緑色は光のない黒い空へと消えていた。彼は独りだった。そこで斧にもたれかかり、一息ついた。そして自分の胸から何本もの矢が伸びていると気づいた。その先端には油で汚れた羽根がついていた。

 ああ、つまり私は死に、戦乙女たちに連れて来られたのか。

 消えかけの記憶。自分が鍛えた最後の子供が、領界を繋ぐ裂け目へと踏み入り、その入り口が閉じる。略奪者たちの灰色の群れ、それらの角は黒く悪臭を放ち、煙をなびかせて突進してくる。石の庭園に積もった雪を、靴底の鋲が踏み潰す。湿った音を立て、デーモンの肉に斧が沈む。湯気を上げる汚らわしい血。デーモンの死者が山となり、ラナールの義務は終わった。

 名があった、戦乙女が授けてくれた名が。だがそれは何だったか?

 ラナールは胸から矢を引き抜き、鎧の下にあいた穴を確認した。ぼやけた緑色の塵以外に滲み出てきたものはなく、痛みもなかった。一瞬してその穴は滑らかに塞がり、緑色の塵もまた止まった。彼の鎧は今や身体の一部だった。恐怖はなく、彼は悟った。この死後は予想していなかった。自分はイストフェルにいる。

 イストフェルは、ありふれた生涯を送ったと戦乙女が判断を下した者が至る領界だ。自身の孤独な英雄譚はシュタルンハイムの座に値するとラナールは考えていたが、どうやら戦乙女たちはそうではなかったらしい。だがそれを知っても悔しさはなかった。鎧と武器はまだこうして身につけている。生前が誉れ高くなかったとしても、イストフェルで誉れを示せばよい。

 やれることは沢山ある――だがどこから始めればいい?

 ラナールは斧を持ち上げ、両手で宙へと放り投げた。それが落ちてくると彼は脇によけ、刃は柔らかな音を立てて薄い色の砂へと着地した。柄が行く先を示してくれる。ラナールは斧を引き抜いて背負い、歩き出した。


 歩いていたのは一時代か、それとも一瞬か。空腹も渇きも感じなかった。疲労はあったが、ここイストフェルでは大した重さではなかった。この淡緑色の砂漠において時は抜け落ち、停滞していた。生者の世界では、時間の経過は空を横切る太陽と、明けゆく夜で示される。昇り、動く太陽はなく、つまり時の流れなどなかった。

 ラナールは足を交互に踏み出し、萎びた砂漠をとぼとぼと進んだ。単調で寒々としていた。息はしてなかった――その必要はないようだった――この枯れた大気の中、息をしていたら白くなっていただろう。凍れる砂を孤独に踏みながら、彼は生前に出会った名前と顔を思い出そうとした。だができなかった。枯れた翠緑の地平線を両目で見据え、彼は進んだ。霊魂の寒気を感じたが、凍えはしなかった。魂に疲労がたまるのを感じたが、ひどくはなかった。鎧と斧の重みを感じたが、重苦しいものではなかった。イストフェルが留める霊魂は、生前の苦難を幾らか残している。苦痛、疲労、乾き、痛み――生者が持つそれらは、霊魂となっても反映される。この領界に悪しきものの入る余地があるならば、確実に善きものの入る余地もある。他の者も寒気を感じていると知っても、イストフェルの霊魂はどう思うのだろうか? シュタルンハイムではどうなのだろうか?

 ラナールは決して学者ではなく賢くもなかった。それでも生前、イストフェルは無数の死者の領界であるとは知っていた。ありふれた死者たちの領界。十分遠くまで行けば、彼らに出会えるだろう。彼らとともに、この謙虚な平原で目的をきっと見つけられるだろう。彼らとともに、目的を通して見た生前と死後がどのようなものかを知るだろう。


 進む間ずっと、ラナールは頭上のシュタルンハイムの光に驚嘆していた。世界樹の根元、格子状の枝を通してもその栄光ははっきりと見えた。この領界を光で包む北極星。

 ひとつの謎が遥か前方にあった。地平線のすぐ上に、イストフェルの双子の緑の太陽があった。だがそれが動いた時、ラナールはそれが太陽ではないと気づいた。星界を放浪する巨体の両目が光っているのだ。その巨体は瞬きをし、伸びをし、そしてイストフェルの冷たい光の中、ラナールは世界ひとつほども大きな狼の影を見た。その狼の何本もの脚の間を、かすかな光がひとつ通過した。世界の果ての狼は動かず、ただ監視していた。

 恐怖は感じなかった。自分は既に死んでおり、再び殺されるとは思わなかった。彼は斧を手にし、身構えた。あるいは、これなのかもしれない。試練と挑戦。世界の果てで狼と戦う。ラナールは勇気をもって対峙しようと決心した。そしてもしこの領界で死んだとしても、きっと喜び勇んだ戦乙女が頭上のシュタルンハイムの黄金の広間へ導いてくれる。斧を手にすると、その刃は重く鋭かった。栄光の瞬間だ。

 世界の果ての狼は息を吐き、すると領界を飲み込むほどの吹雪が遠い地平線から吹き荒れた。それほどの大きさのものと戦うのは、神々への挑戦に等しいと彼は即座に悟った。一柱の神ではなく、多くの神々への挑戦。ラナールは高徳な人物かもしれないが(少なくとも、高徳な人物だっただろう)、神ではなかった。斧を掲げて森へ入り、オーガになったつもりで木々を叩き切るのは、愚者にしては勇気ある行動だろうか? 違う。愚行では、シュタルンハイムの座を戦乙女は認めてはくれない。

 そのため突進するのではなく、ラナールは頭上に斧を掲げて無言の敬礼とし、自らの目的へゆっくりと歩きだした。世界の果ての狼はずっと、ずっとラナールを見つめていたが、やがて踵を返して星界へと歩き去った。


 ツンドラは枯れた植物とはぐれた石で粗くけば立つ、広大な粘土の平原へと変わった。淡い緑の霜は骨のような白へと薄まった。それは大地を照らしていたが、色の抜けた粘土と石は空の闇を深く見せるだけだった。

 ここでラナールは孤独ではなかった。見渡す限り、平原のそこかしこに石塚がわびしく立っていた。最も小さいものでも優にラナールの倍はあり、どれもそれらの高さに等しい距離で仲間から離れているように見えた。混乱する光景、だが一つの体系の存在を感じさせる熱的な均一性が作り出されていた。秩序ある混沌、手つかずの自然から噴出した彫像の庭園。

 風が石塚の間を一度うめき、氷と細かい粘土の塵が高く舞い上がった。ラナールは想像した――風にはためくぼろぼろの旗。家々が燃え、光が踊り、合図の焚火となる。想像ではない、思い出していた。風、石塚、燃える家――それはかつて彼が守り続けた村の記憶だった。イストフェルによって、彫像庭園としてその領界から切り出されたのだ。

 ラナールは彫像庭園の深くへと進み、思い起こした。わずかな針葉樹林を通る巡視を、領界路が飲み込んだのだ。石塚を通り過ぎると、松の巨木が何本もあった。重い雪でしなり、領界同士が衝突した際に根元を切られて枯れていた。今の彼は孤独にイストフェルを歩いているが、かつては子供たちの小さな行列の先頭を歩いていた。あの移送された村の唯一の生き残り。年老いて、風に節くれだってもなお倒れない木のように不屈に、ラナールは立場を守り続けた。彼はその僅かな生存者たちを子供から手強い若者へと育て、無事に旅立たせた。生者の領界においての死を反復しながら、ラナールは石塚の間をさまよった――子供たち、村、取り巻く光、炎――そしてその中で自らを失った。

 ひとつの手が足首を掴んだ。攻撃ではない――その手が自分を倒そうというなら、掴むのではなくそうしているはずだ――それでも彼は斧を掲げた。しなびた、赤色を帯びた霊魂が、脚を組んで隣に座っていた。その姿は、骨の上に骨に羊皮紙のような皮膚が伸びているに過ぎなかった。その霊魂は唇に指をあて、息の音を立てた。

『静かに』

 ラナールは従った。その霊魂は前方を指さした。

『危ない』

 その動きを追うと、前方で石塚は減り、かつてそれらが立っていた所には穴があいていた。わずかな数の石塚が基礎部を残していたが、何千という霊魂が力を合わせてそれらを壊そうとしていた。その労苦は見渡す限りの地平線にまで続いていた。霊魂たちは無の平原を進み、石塚を倒し、構成する岩を他の霊魂が掘った穴へと投げ込んでいた。この世界の姿が、ゆっくりと食われていた。

『永遠に止めない。私はずっとあれから逃げてる、永遠に』

 石塚喰らいのゆっくりとした進行をラナールは見つめた。

『この捧げ物、イーガン様のためのもの。私の作品を倒すために動かされた、この迷える魂たちの憎しみが私への褒賞。君も、きっと同じことをされる』

 ラナールは斧を持ち上げた。進むのだ。背後で、捧げ物を築いたその霊魂は誰にともなく小声で呟き続けていた。

『私は力及ばなかった? 貴方様の栄光を称えてこの地を作り替えたのではありませんでしたか? イーガン様、私の褒賞はいずこに?』

 ラナールは深い穴と石塚喰らいを避けて進んだ。中にはあまりに薄い霊魂もおり、見えないも同然だった。ある霊魂などは、宙に浮く岩を見つめてようやく存在を知った――石塚喰らいが一体、目には見えず、だが石をその山からほんの僅かに持ち上げる力だけを留めていた。この領界にあまりに長いこと居座ったなら、自分もこうなるのだろうか? 自らの存在が持つ強さは吸い取られ、放つ光は景色に散る程度のものとなる。影にすら満たない、けれどそれでも消えてはいないというだけ。

『従うならば、君たちのためにシュタルンハイムへと届く塔を築こう。私に続き、栄光への階段を上るのだ』

 ラナールは近づいて見た。石塚喰らいは皆、壊れた枷の残骸を身につけ、背後に鎖を引きずる者たちもいた。彼らは力を合わせてこれらの石の記念碑を倒していた。彼らは偉大な芸術家の偉大な作品を壊す役目を課されたのではない。褒賞を独り占めしようというある者が建てた強欲な記念碑を倒していたのだ。


 ラナールは緑色の川に行き着いた。近づくと、それは川ではないとわかった。霊魂が曲がりくねって行進し、この物憂げな土地の未知なる輪郭に沿って流れていた。ほとんど音もなく彼らは過ぎていった――岩に降る静かな雨、あるいは風のない岩の岸を霧が過ぎていくような。多くの霊魂は不明瞭にぼやけて霧のようで、それぞれの衰えの度合いの違いによってのみ識別が可能だった。四肢や頭部、霊のような乗騎に座した影が見えた――だが無数にあった個々は拭い去られていた。そして明らかに、不満にしかめた表情を浮かび上がらせた者たちもいた。生ける身体との違いは、その姿が柔らかな緑色に透過しているというだけだった

 ラナールはその川に加わらなかった。彼はその流れに近づき、沿って進んだ。渡れる所があるかもしれない。石塚喰らいたちが石を動かす様を思い出し、川の中に踏み入るのは賢明ではないと考えた。霊魂が力を合わせて石を動かせるなら。この霊魂の川はひとつとなって自分を動かしてしまうかもしれない。

 ラナールは霊魂の川をたどって大きな湾曲をたどり、すると大きな砂州の上に二つの人影が離れて立っていた。それらは汚れた鎧をまとい、革と硬化して乱れた毛皮を着込んでいた。手には黒く長いガラスの槍があった。それぞれが背中に盾をくくりつけ、小さな骨と歯の粗末な冠をかぶっていた。霊魂ではなく、デーモンの類。二体は近づくラナールに気付いて振り返り、兜の下の顔を露わにした。正確には歪んだ顔らしき恐ろしいものを。金属製の兜からは角が伸び、深い両目は沸き立つ赤色をしていた。

『止まれ』

 ラナールは従った。

『なぜここにいる』

 二体は彼へと向かってきた。ラナールは斧を下ろして背筋を伸ばし、二体は値踏みするように彼を見つめた。

『鎧と斧』

『同類か?』

『ありえない。一人で歩くわけがない』

『そうだ。こいつは食わせなくていい』

 二体は槍を脇に振るった。

『行け、霊魂』

 ラナールは従わなかった。彼は進み続ける霊魂の川に目を向けた。背中に羊を背負っているものがいた。包みを抱えた子供たちがいた。売り物ではなく生きるための物品を重く背負う者たちも。彼らの目に浮かぶ怖れは隠せなかった。怖れと疲弊、物騒なガラスの武器と漆黒の革鎧を密かに見つめる目。この世界への新参者――けれど何処へ向かわせられるのだろう? そして何と言っていた――食わせなくていい?

『無視しろ』

 二体は槍を振るって戻した。

『我らは義務を果たす』

『立ち去れ、霊魂よ』

『我らは処置を認められている』

 ラナールは流れに加わらなかった。二体のデーモンは顔を見合わせた。一体の顔に笑みを見たと思ったが、キチン質の装甲の下に笑みを判別するのは不可能だともわかっていた。それでも残酷さと歓喜がそのデーモンから発せられ、腐敗するような波でラナールに押し寄せた。この二体は支配権による力を滲ませ、物騒な武器に頼り、無力な相手に対して何ができるかを知っていた。

『立ち去れ』

『武器を置いていけ』

『立ち去れ』

 槍を水平に構え、二体のデーモンは進み出た。死後にもう一度死ぬことができるのかはわからなかったが、この場所はイストフェル、不名誉な者の領界だった。ここで死んで更に死後があり、更に悪い所へ行くとしても、ここだろう。ラナールは片足を引き、体重を移動させた。

 槍先をラナールに向け、一体が突進してきた。もう一体は横に駆け、赤熱する槍先は傷を宙に描き、攻撃をほのめかした。

 ラナールは優れた戦士だった。生前は素早かった、年を経てからもなお。一撃さえ与えればいい。三歩からなる、流れる一つの動き。

 最初に、彼は突き出された槍を避けた。勢いをつけ、重い金属のついた柄の先端を顔のない兜へと叩きこんだ。その衝撃は予想よりもずっと小さかった――冷たい水の中で棒を動かすようだった。

 一体目のデーモンが倒れると、次にラナールは斧を回転させ、両手で構えた。視線はもう一体が脇に回って突いてくるのを追っていた。彼は斧の柄で二体目の槍を受け流し、その動きを完了させた。

 最後に、受け流した勢い用いてラナールは旋回し、斧を振り回してデーモンの脇腹へと振り上げ、利き腕のすぐ下をとらえた。ラナールの斧は少しの間デーモンに食い込み、そして切断した。ラナールの攻撃の勢いにデーモンは霊魂の列から飛ばされ、どさりと地面に落ち、死んだ。

 ラナールは斧を短く持ち、刃を綺麗に拭った。のろのろと進む魂の列を離れる者、攻撃してくる者はなかった。だが消えかけた人間性の川とともに、彼はまた独り残された。ラナールはそこへ飛び込み、横切って進み続けようと考えた。だが近づいた時、すぐ近くの魂が歩みを止め、彼を押し戻そうとした。

『あなたは私たちへの義務を果たしてくれた』

『行って。もう私たちを気にしないで。自由になれたのだから』

『私たちが望むのは休息だけ。もう放浪したくはない』

『休息はあなたのものじゃない、今はまだ』

 ラナールは人々の川から後ずさり、そして全てがぼやけ、彼がそれまで見分けていた明瞭な姿はもやと霧へ溶けていった。やがて、川は消えた。


 イストフェルの門は開かれており、地平線と星界を隠す分厚い壁の中で、そこだけが空へと続いていた。ラナールはもう寒気は感じず、門へと踏み出すと巨大なアーチをくぐり、大理石の広大な通りの中央に立った。イストフェルの橋は都の広場ほども広く、けれど霜が張っている以外には何もなかった。道はそこから数百フィートの登り坂になり、そして不意に途切れていた。その先は乳白色の闇をした星界、ラナールも運を試そうとは思わない深淵。斧の導きに従ってきた彼だったが、これ以上は進めなかった。そのため、ラナールは待った。

 橋の下には川が流れていた。それは壮大な壁に沿って流れ、ゆるやかに分岐し、壁とともにこの領界の端を記していた。川と壁――イストフェルは霊魂を閉じ込めようとしているのか、それとも侵入者を防いでいるのだろうか? 門は大きく開かれていたが、戦乙女によって星界から導かれてやって来る霊魂の流れはなかった。この謙虚で空虚な領界に加わる新たな死者の列はなかった。孤独に、斧を手に、自分イストフェルの果てを記すのだろうか? 侵略に立ちはだかる歩哨か、あるいは逃亡を防ぐ看守だろうか?

 数世紀が過ぎ、ラナールは遠い昔から知っていたことを理解するようになった。イストフェルこそが自分いるべき場所なのだ。シュタルンハイムの壮大な広間ではない。ラナールとその偉業の物語がかろうじて加われる、既に混み合った卓ではない。悲しみとはかけ離れた祝福を与えられた、蜂蜜酒の川ではない。そう悟ってから十年を経て、ラナールは屈み、手袋を外し、橋の冷たい大理石に触れた。シュタルンハイムでは寒さを感じるのだろうか? 試してみようと思うことすらあるのだろうか?

 領界の果ての闇が震え、ひとりの若者がイストフェルへ踏み入った。橋の上に立ったその若者は上質だが汚れた衣服をまとい、腰のベルトに剣を下げ、顔はしかめていた。彼は高貴な物腰で歩き、近づいてくるとラナールは繊細かつ簡素な額飾りを見た。どこかの小貴族か、あるいは裕福な族長の次男か。十代も半ばを過ぎていないように思われた。興味深い。

「そなたがイストフェルのラナールか?」 若者が口を開いた。まるで生きているようで、血の気があった。

 ラナールは頷いた。

「宜しい」 若者は頷いた。そして片膝をつき、剣を抜き、柄をラナールへと差し出した。「我が名はベスキールのビョルン、この地にいるべき存在ではない。イストフェルのラナールを探すよう告げられた、我が探求に力を貸してくれるであろうと。そなたの斧と力を貸して頂きたい。私を守って頂けないだろうか。さすればそなたには褒賞が与えられるだろう」

 これだ。丸くうずくまっていたことを忘れ、ラナールは背筋を伸ばして立った。新たな展開だ。

「ベスキールのビョルン殿」 ラナールはそこで言葉を切った。口をきけることが面白かった――このビョルンがイストフェルに生気をもたらしたようだった。「ここに来るにはお若いですな」

「いかにも」

「私を頼れとは、どのようにして知られたのですか」

「父上が語ってくれたのだ。そなたはイストフェルの守護者であり、高潔かつ不屈の偉大なる戦士であると――迷いし者の導き手であると。私の民はそなたの伝説を語っている――領界路と、そなたが守り抜いた子供たちを」 ビョルンはラナールを見上げ、剣を鞘に収めた。「そなたにはシュタルンハイムの座が与えられるべきだと、誰もが言っている」

 ラナールは声をあげて笑った。「それで十分です。どうか立って頂けますかな」

 ビョルンは眉をひそめ、一瞬だけ当惑したが言葉の意味を理解した。「そなたはひとりの英雄だ」ビョルンは立ち上がってそう言った。そして自らを落ち着かせ、興奮を抑えた。「イストフェルのラナール殿、私の願いを聞き入れて頂けるだろうか。そしてシュタルンハイムに至る力になって頂けるだろうか」

 イストフェルのラナールは、再び喋れるようになり、ぞくりとした震えが全身に走った。当初、その感覚の真新しさが受け入れられなかった。だが一瞬して悟った――また。何かを感じることができる。再び心臓が脈動した。薄い生、だがそれでも彼を満たしはじめていた、まるで液体が器を満たすように。

「必ずや」

「宜しい」 ビョルンの物腰が変化し、だがラナールは気付かなかった――生気が再びみなぎり、彼の知覚を曇らせていた。ビョルンはラナールを追い抜いて歩きだした。ラナールは振り返り、若者が門を過ぎるのを見つめ、斧を手に追いかけた。

 ビョルンはラナールの百ヤードほど先を進んだ。緩やかな起伏のツンドラの中で彼は唯一の動く姿であり、そのためラナールはその距離で問題ないと感じていた。ビョルンは疲れを知らないように、片手を剣の柄にかけ、もう片手はぶら下げたままでうねる砂丘を進んだ。彼は目的をもって歩き、足取りには目指す場所を知っているような自信があった。訝しむよりは尋ねる方が良いとラナールは判断した。例えイストフェルであっても、放浪する者には常に何らかの目的があるのだ。

「ビョルン殿」 ラナールは呼びかけた。

 ビョルンは返答しなかった。

「ビョルン殿、何処へ向かっておられるのですか」

「シュタルンハイムだ! 私と共に来るのか、来ないのか?」

 ラナールは足を速めた。無論、行く。放浪の中でのイストフェルは、当初に想定していたよりも遥かに豊かな物事があると彼はわかっていた。そしてここが自分の領界だと受け入れるに至っていたが、神々はしばしば心を変えるものだ。兆候を決して無視してはいけない、特に、ついて来いと言われている時は。

「シュタルンハイムに向かうというのは、どのように」 ビョルンに追いつくと、ラナールは尋ねた。「歩いて、ではありますまい」

「この剣とそなたの助力をもって」とビョルン。「星界には常にひとつは傷がある。私はそれを見つけ、扉を開くつもりだ」

「私も貴方も、そのような偉業を成し遂げられるとは到底思えません。意地の悪いことを申し上げるつもりはありません、ですが骨折り損となるのではないかと私は思います」

「やめたまえ」 ビョルンは吠えた。彼はラナールの背後へと回り、背中を押した。「私はベスキールのビョルンなのだ。生きているべき存在であり、静寂の中で無益に衰えるつもりはない」 ビョルンは地団駄を踏んだ。「私はシュタルンハイムへの道を切り開く。そなたは手助けをせよ」

「切り開くとは、どのように?」 突然の声色の変化にラナールは唖然とした。橋の上での希望に満ちた若者は、今や冷酷な雰囲気をまとっていた。

「占術師が私に語ったのだ、我が曽祖父がここに来たと。世界樹の根元、イストフェルの中央に。そこで曽祖父は一本の塔の基礎を築いた。そしてその息子がその上に塔を立て、その息子は更に高く、全て私のために。今、私はその塔を登り、この剣でシュタルンハイムへの道を切り開くのだ」 ビョルンは一本の指をラナールへと突きつけた。「そなたはイストフェルのラナールであろう。生前、そなたは我が家臣のひとりの子供を守った。今度は我が先駆けとなり、案内してくれ」

 ラナールは考え込んだ。イストフェルについての知識、シュタルンハイムについての知識、そして自らの欲求を秤にかけた。自分はこの領界の新参者と感じてはいたが、死後において時とは何本もの傍流を持つ一本の川なのだ。この領界は、自分が住むべきではない所なのかもしれない。あるいは――この貴族の若者のように傲慢かもしれないが――この探求こそ自分の目的なのかもしれない。ひたすらな放浪を超え、義務を見定める。ラナールは了承に頷いた。

「宜しい」とビョルン。「さあ、私についてくるのだ。殺すべき王がいる」


 多くの力を持たない王の砦の中、ラナールは血であったもので道を染めて進んでいった。ビョルンがそれに続いた。この若者はただ訓練されているだけではなかった――堂に入った戦士だった。剣は素早く致命的、そして正確だった。王の近衛兵はこの領界の基本的な霊魂からかけ離れた姿をし、北方風の鎧を揺らめかせていたが、今や深緑色の血の中に切り刻まれていた。彼らは強かったかもしれないが、老獪なラナールと若きビョルンは遥かに勝っていた。二人は何かを熱烈に守るのではなく、入るために戦った。

 ビョルンは自ら最後の一撃を王に与えたいと言った。彼が玉座へと向かうと、そこでは負傷して痩せた貴人が腰を落とし、息もつかない声で慈悲を懇願していた。ビョルンはそれを一切与えなかった。彼はダガーをその霊魂の首筋に突き立て、床へと倒した。王冠が跳ねて転がり、ラナールの足元で止まった。

「触れてはいけない」とビョルン。「これが私の、シュタルンハイムへの鍵だ」

「私のものは?」 ラナールが尋ねた。

「もうひとつを見つける」 ビョルンは落ちた王冠を拾い上げた。「ここに来る以前、我が占術師は熊と鴉と鹿の内臓を読んだ」彼はラナールへと王冠を掲げ、精巧な宝石細工を見せた。王冠は編み込まれた鉄の帯で作られており、鹿角の形をしていた。「次は鴉、最後に熊だ。そしてシュタルンハイムは私へと開く」ビョルンは目を輝かせ、にやりと笑った。

 ラナールは生気の熱が戻ってきたのを感じた。脈打つ、切望する強欲の渇きが彼の内へと温かさを通した。奪い、奪い、爪を立て、登り、そしてシュタルンハイムが手に入るのだ。ラナールの飢えが語りかけた。ビョルンが私の鍵だ。この若者は、命令できていると考えている――だから、奪え。

 不意に、割れるような頭痛がラナールを襲い、彼は叩かれたようにひるんだ。ラナールはかぶりを振った。突然のその頭痛は圧倒し、そして消えた。彼は若者から後ずさった。

「そうだ」とビョルン。「覚えておくがいい、これは、私の英雄譚だ」 彼は鹿の王の冠をベルトに差した。

「鴉の王はどのように見つけ出すのですか」 ラナールが尋ねた。

「死者が方角を示すだろう」 ビョルンは近衛兵の死体から短槍を取り上げ、見つめ、倒れた霊魂たちの中へと投げた。それは音を立てて落ち、静止し、そしてまるでそれが中心となるように、部屋に隠されていた模様が露わになった。倒された近衛兵は曖昧な姿で崩れ、散っていたが、この不気味な地図に従った。切り刻まれた者も姿を留める者も、全員が同じ方向を指し示した。王の間のひとつの壁とその先を。

「イストフェルにも方角はある。あるいは褒賞も」 若者はラナールの両手を指さした。

 ラナールはそれを見下ろした。自分の両手、霊魂のかすれた緑色だったものが、肉体のそれに戻っていた。彼は驚嘆し、片手を顔の高さに掲げた。

「シュタルンハイムには生きて入らねばならない。神話の三人の王を倒すのだ。我が守護者ラナール、そなたはただ従えばよい」

 ラナールは斧の柄を握り締めた。すり減った革が巻かれているのがわかり、掌握する軋み音を聞いた。この若き英雄の存在はラナールに生という祝福をくれただけでなく、ひとつ殺すたびに生者の赤い血をみなぎらせてくれる。この若者を信じれば褒賞に繋がる――忍耐の果てに待つ褒賞はどのようなものだろう?

 鹿の王は死んだばかりだが、城塞は既に無人となっていた。二人は出発し、霧深いイストフェルの奥地を目指した。ラナールもビョルンも、遥か頭上の星界の騒動には気付いていなかった。世界の果ての狼は放浪から帰還していた。静かに、それは強い好奇心をもって二人を見つめていた。その両目は今一度、イストフェルの双子の太陽のように空に留まっていた。


 鴉の王の城の頂上で、ラナールとビョルンは羽の近衛兵と戦った。空高くの城を風が叩きつけ、羽の近衛兵の名の由来となる何層にも重なった羽の外套に音を立てた。彼らは二人一組でラナールとビョルンに襲いかかり、物騒に湾曲した刃を猛禽類の憤怒で振るった。ラナールとビョルンは背中合わせになって、鴉の王の配下でも最も忠実な兵と戦った。炎に照らされた広間で斧と長剣がぶつかり、鳴った。しぶとく油断なく、ラナールは羽の近衛兵が振るう黒い刃を消耗させ、彼らの敏捷さを力ずくで突破し、重い斧で叩き切った。

 黒ずくめの羽の近衛兵、その最後の一体が悲鳴とともに死んだ。彼らの鎧と外套はシュタルンハイムの光が差さない空のように暗かったが、死とともにその闇色は更に深さを増した。乱戦の中の一瞬、鴉の王はラナールに一撃を食らわせ、物騒な鉤爪で彼の鎧に溝を刻んだ。ラナールは斧でとどめの一撃を与えようとした。これで倒す。彼は斧を掲げ、血の飢えがその内で怒り狂い、そして――

「止めたまえ」

 ビョルンの命令に、ラナールは動きを止めた。それまで身体を構成していた筋肉の残影が――今や再び動いていたものが――力をうならせ、戦いで鈍った刃を鴉の王のむき出しの首筋に振り下ろしたいと吠えていた。だが止めた。ビョルンの声が彼を拘束した。

「この王は私のものだ」 ビョルンは戦いの只中で剣を振るっていたが、さほど多くの返り血を浴びていなかった。「行け。そして王の戦士たちが来る前に扉を塞いでくれ」

 外から家臣たちのざわめきが聞こえてきていた。ラナールは命令に従い、王の部屋の扉を塞いだ。ビョルンは羽の近衛兵の死骸から外套を取り上げてまとい、負傷した鴉の王へと近づいた。

「仮面と王冠を外せ。民を解放しろ、そうすれば命は取らない」とビョルン。「私は探索行の途中にある、追放されたこの領界から自由になるためのものだ。そしてお前は私の行く手を塞いでいる」

「小童よ」 鴉の王は吐き捨てるように言い、その声はくちばしの形をした黒い鋼の兜の奥でかすれた。「イストフェルに来て、自分が正しく裁かれたと思う者はいない。生者の領界で生きているのと同じこと――運命があろうとなかろうと、生きる道は自ら見つけねばならん」

 ビョルンは鴉の王の下腹部に剣を突き立てた。王は抵抗しなかった。彼は刃を掴んで身体を折り、兜と王冠が床へと落ちた。黒い鎧の下は緑色の薄い霊魂で、叫び声は出さなかった。その顔は冷静な決意が貼り付いていた。彼はこの不名誉な死者の地の王だった—-ビョルンはこの王が知らない何を知っているのだろうか?

「違う」 ビョルンは低くうなった。「運命など拒否する」 彼が剣を引き抜くと、王は滑り落ちるように地面に崩れた。外の喧騒は静まった。都は沈黙した。

 ラナールは斧を手に、扉から後ずさった。城の頂上の穏やかな風に押され、扉は軋んで開いた。霊魂たちは姿を消していた。用心深く、ラナールは踏み出て崖の上の不安定な端に歩いていった。眼下の都は無人だった。

「人々はどこへ?」 ラナールは尋ねた。

 羽の近衛兵の黒い外套に身を包むと、ビョルンは年長者の衣服をまとう子供のようだった。彼は返答せず、鴉の王の冠を引き寄せた。

「ビョルン殿」 ラナールは声を上げた。「人々はどうなったのですか? 何処へ行ってしまったのですか?」

「いずこかへ。私たちも行かねばならない」

 血の飢えが消え、ラナールは腹の奥に深いうねりを感じた。不安。偉大な探求行とはこう感じるものなのだろうか? 何か間違ったことをしているような?

「熊の王は」 ラナールは尋ねた。「貴方のお父上です」

「それは質問か、それとも告発か?」 ビョルンの声は低かった。

「質問です。この鴉の王については御存知だったのですかな? 鹿の王は? 彼らも貴方の血族だったのですか?」

「熊を生前に知っていた以上のものはない」

「同族殺しは勇敢とは言えません」

「勇敢さが欠如していようと、偉業が劣るものとなるわけではない。狡猾とはそれ自体が美徳である、傲慢も同じだ」

 ラナールは恐怖とともに若者を見た。「貴方は、いかにしてイストフェルに来られたのですかな」

 ビョルンは返答しなかった。

「目的を持ってここまで成し遂げたのでしょう? 占術師、予言――貴方は自らの手でここへやって来た」

「自分の運命は自分で作る」 ビョルンは刃をラナールに見せた。「シュタルンハイムへの扉を切り開く剣が、イストフェルへの道を簡単に開かないと思うか?」 そして笑った。「来るのだ。このような会話は堂々巡りとなる。私の好みではない」

 世界の果ての狼は、二人が立ち去る様子を興味深く見つめていた。ラナールとビョルンがイストフェルの深くへ向かうと、狼は星界へと入った。ある存在へとある物事を、そして来たる出来事を伝えるために。


 鴉の王の兜がビョルンへと的確な視覚を与えてくれた。霧の中を導かれ、二人はイストフェルの中心へやって来た。崩れ石の平原には剃刀のように直線的な道が走り、霧の中から巨大な塔が黒く不気味にそびえていた。その高みは濃い霧の中に消え、石の表面の様子は頭上からかかる影にぼやけるだけだった。ビョルンは広くまっすぐな道へ出て、暗闇の中で鴉の王の兜の両目がかすかな黄色に輝いた。道の脇には巨石が並んでいた。それらの周囲を霧が漂い、辺りは地下道のように暗かった。

 ラナールはビョルンの後ろを歩いた。羽の近衛兵から受けた多くの傷が痛んだ。生きた皮膚の燃えるような痛み、だがどれも致命傷ではなかった。多大な努力で斧を持ち続けていたが、疲労が彼を砂へ引きずり倒そうとしていた。だが、まだ髭も生えていないような若者にそのような姿を見せたくはなかった。そこで彼は疑問に思った。戦乙女たちがこの探索行を耳にしたなら、彼女たちは現れるだろう。その時は、生きて斧を引きずるよりは斧を掴んだまま死ぬべきだろうか。死、あるいはイストフェルで斃れた霊魂はどうなるのか。ラナールはそれを思った。

「ビョルン殿」 ラナールは声を上げた。「ビョルン殿。あの塔では何が待ち受けているのですか」

「熊の王だ。シュタルンハイムへの道を塞ぐ嫉妬深い守護者だ」

「戦乙女に導かれるのが唯一の道だと思っておりましたが」

「そなたが知っている以上に多くの手段があるのだ。イストフェルがどのようにイストフェルとなったか、知っているか?」

「存じておりません」

「では教えよう。世界はひとつの種から生まれた」 ビョルンは語りはじめた。「その種は世界樹へと成長し、他の全てもまたそこから成長した」 ビョルンの声色が変化した。何らかの記憶から参照しているのだ。「始まりの英雄譚。人間が初めて、創造の素晴らしさを言葉に凝縮しようとしたものだ」

「我々は、自分たちの時代に何をしますかな」 ラナールは独りごちた。ビョルンは歩きながら、同じ調子で続けた。

「イストフェルは長いこと、それを壊す力を持つものたちから無視され続けていた。その間にシュタルンハイムの光の下、世界樹の影でこの領界は育った」 ビョルンはにやりとした。「この領界には常に、追放者や忘却された者たちがいる。頭上の者らは決して見下ろすこともない――それが利点だ」

 二人は熊の王の塔の扉に辿り着いた。声をかけてくる者も、入り口を塞ごうとする者もなかった。扉は彼らの肩の下でうめいて開き、暗く質素な内部を露わにした。塔の基礎部は、その壁の中に都が一つ入るほど巨大だった。だがそこにあったのは流れのない一つの水たまりと、塔の高みへと続く巨大な階段、そしてその足元のひとつの死体だけだった。

 死体は遠い昔に干からびており、古代のものとわかる槍が刺さっていた。その槍に絡まっているのは布、一枚の旗だった。ほどかれると、そこには一語が塗られていた。「上れ」

 そしてそのように、ビョルンとラナールは広く曲がりくねった階段を、濃霧のような薄闇の中を上った。進むごとに、塔の内部は新しくなっていった。最下部の階層は暗く崩壊し、粗く削られた石材は長い年月の間に無数の通行人によって滑らかに摩耗していた。だが上ると、粗い石材は見事に繊細に彫刻された石となり、それは漆喰に、そして煉瓦に、大理石に、そしてラナールにはわからない素材に変わった。最初に塔を建造した者はビョルンの曽祖父から何千年も遡ることを、そして最新の建造者はラナールが知るどのような職人よりも遥かに素晴らしいと、この構造が明らかにしていた。

「これはいつの時代のものだろう」 ラナールは呟いたが、その疑問をビョルンは無視した。今いる階層の壁は鎚で撃たれた何らかの金属でできており、触れると冷たかった。「ビョルン殿、どれほど上れば良いのですかな」

「もうすぐだ」 ビョルンは壁を指さした。「これらは戦乙女たちの槍と同じ金属でできている。外の光は」 そして床に移る細長い窓の形を示した。白く眩しく、見ると痛みを感じた。「シュタルンハイムそのものの光だ。備えよ。近いぞ」

 伝説にうたわれる地が近づいている、戦乙女たちが振るう金属で作られた塔の中で。ラナールの質素な斧はこれまでになく平凡なものに見えた。木と鉄、虹色でもなく、黄金でもなく、星界で採取した伝説の素材から作られたわけでもない。彼はそれを前方に掲げて構えた。だがシュタルンハイムへの道の守り手たちが現れたなら、この古い斧がどれほど有能か、再び思い知らせてくれるだろう。

 精一杯、ラナールは気を引き締めた。


 イストフェルの屋根の上、シュタルンハイムから差し込む眩しい光の下。ラナールとビョルンは熊の王と、最後に残る熊の衛兵の前に立っていた。塔の最上階は平坦で特徴はなく、床は継ぎ目のない黒ガラスでできていた。大気は沈黙していた。この高さでは、英雄の領界の光はあらゆる影を消し去っていた。熊の王は、ラナールが推測していたよりも若かった――だがその称号から連想する全てを持ち、体格も面立ちも英雄のようだった。熊の衛兵が列をなす中に立っても、その最大のものよりも頭一つは長身で、毛皮で覆われた肩甲の下の身体は逞しかった。王の剣は彼自身ほどの幅があり、鋼の板と言ってよかった。霜の巨人やデーモンを殺す武器だった。

「熊よ」 ビョルンが口を開いた。「私が何故ここにいるかは知っていよう」

 熊の王は頷いた。「いかにも」

「そして私が何者であるかも」

 熊の王は再び頷き、肩を回した。「いかにも」

「ならば何故私の行く手を塞ぐ?」

「我らはこの領界の守り手でありますゆえ。それを壊そうという者には立ちはだかるのみ」

「命令する、そこを退け」 ビョルンは声を上げた。

「なりません、我が主よ。イストフェルへのあらゆる脅威に我らは立ちはだかります――内と外からの脅威に」

「ならばそうするがよい。星界は私よりも遥かに親切ではないぞ」 そう言うと、ビョルンは大股で前進し、剣を構え、突撃した。

 続く戦いは優美であり、同等に汚いものだった。ビョルンは滑らかな動きで剣を操り、防御をくぐっては鎧の隙間を狙った。その動きは触れることの叶わない、闇の稲妻だった。熊の衛兵は武装を固めており、刃と刃の激突が雷鳴のようにイストフェルに響き渡った。斧が極太の剣に叩きつけられ、戦士たちが踏みしめるガラスにひびを入れた。

 ラナールは門をこじ開ける破城槌、ビョルンは王を狙う狙撃兵の矢だった。二人は共に熊の衛兵を倒していった。最後の一体が倒れると、二人と熊の王の間に立つ者はなかった。

「このようなことはおやめください。まだ間に合います」 熊の王はそう告げた。「塔を去り、鹿と鴉の大地を貴方様の勇者に授け、その者の忠義に報いるのが良いでしょう」 熊の王の声は平坦で冷静だったが、悲しみに染まっていた。「イストフェルは既に貴方様のものです。慎ましい家令としてこの庭園を慈しみ、訪れる巡礼者と共に果実と花々を愛でる。それで良いではありませんか」

 ビョルンは唾を吐き、それは黒いガラスの平原に焦げ付いた。彼は剣を空へと突き立てた。「力と歌によって、私に帰するべきもののために来たのだ。シュタルンハイムと世界樹のあらゆる領界は、我がものとなる」

「そうはなりませぬ」と熊の王。

 ビョルンは突撃し、ラナールはすぐ後についた。黒いガラスの上で二人は駆け、辺りで風がうなりだした。二人が接近すると熊の王は剣を大振りにし、ビョルンはその下に滑り込んだがラナールへと刃が襲いかかった。ラナールは精一杯素早く――だがその瞬間をゆっくりと感じた、まるで冬の朝の樹液のように――かろうじて斧を持ち上げて受け止めた。かろうじて致命傷は防いだが、斧の柄が折れ、熊の王の飢えた刃の端が鎧に食い込み、ラナールは投げ出された。血と、薄緑をした霊魂の精髄が漏れ出て宙に軌跡を描いた。

 ラナールは黒いガラスの床に落下し、転がり、塔の端すれすれで止まった。そこに横たわったまま、彼は戦いを見つめた。ビョルンが熊の王の脚を、巧みに素早く切りつけた。王は膝をつき、ビョルンはそこを旋回した。素早い一撃で、ビョルンは熊の王の分厚い鎧に剣を突き立て、それは胸にまで達した。王は喘ぎ、剣を落とした。戦いは終わった。

 ラナールはうめき、傷を押さえ、立ち上がろうとした。血と緑色の精髄が指の間からしたたり落ちた。折れた斧の柄を支えに用いて膝をつくのがやっとだった。彼はビョルンと熊の王が最後の言葉を交わし合う様を見つめた。父親と子が、父殺しの抱擁を交わすのだ。

「鹿と鴉は騙されたかもしれませぬが、私は騙されません」 熊の王はそう言った。「私を星界へ送られるのであれば、真の姿を目にするという栄誉をお与えください」

 ビョルンはにやりと笑った。その笑みが広がるとともに、若者としての姿もまた剥がれていった。まるで叩かれた毛皮から土が落ちるように。汚れてはいるが上質な貴族の装いは揺らめき、真に陰鬱な闇色の外套と衣服へと変化した。日焼けした肌は血の気のない灰色に薄まり、髪は白骨のような色となった。ビョルンはもはやいなかった。その場所立っていたのはイストフェルの王、死の神イーガンだった。イストフェルのツンドラ、その氷の下の岩ほども古い存在。

「イーガン様」 熊の王が囁いた。「我が主よ」

「お前は善きしもべであった」 イーガンは背後から熊の王を持ち上げた。剣もまた変化しており、鋼は曇りガラスの物騒な大鎌となっていた。イーガンはその黒い刃を熊の王の首筋に当てた。「行け、旅をせよ。そしてここへ戻ってきたなら、どのデーモンが我が領界を脅かしているのかを伝えよ」

 熊の王が返答するよりも早く、イーガンは王を大鎌の刃に押し付けた。熊の王の身体が傾き、重く不名誉な轟音を立ててガラスに倒れた。イーガンは熊の王の首を掲げた。自らの頭よりも高く、頭上の輝く空に向けて。

「シュタルンハイムよ!」 イーガンは叫び、その声は雷鳴のように響いた。「我がものよ、開け!」

 ラナールは倒れたまま、畏敬とともに見つめていた。頭上の空が開き、薄緑色の現実が剥がれてその先の黄金色が露わになった。ひとつの風景が目の前に固化し、静かで光沢のある黒色の湖が見え、その表面を豪奢な長艇が滑っていた。シュタルンハイムが目の前に開かれていた。ラナールはその眩しさに目を閉じつつも、栄光の領界へと手を伸ばした。

「イーガン」 合唱のような、戦鬨のような声が、その瞬間を裂いた。シュタルンハイムの光は消え、星界の裂け目は塞がれ閉じた。「またなのですか?」

 イーガンは熊の王の首を落として大鎌を掲げ、歯をむき出しにして声もなくうなった。

 声の主は、並外れた威信を身にまとう戦乙女だった。滑るように塔へと降りてきたその姿には、二対の翼があった。一対は純白、もう一対はイーガンがまとう衣服のような漆黒。その戦乙女は見事な槍を片手に持ち、鎧の上には大きな伝令の角笛をかけていた。塵のように軽やかに、彼女はイーガンの前に着地した。

「ファーヤ」 イーガンは高い声で吠えた。「私は要求する――」

「なりません」 ファーヤはこともなげに言った。「シュタルンハイムは、裁きを経ていない神々には開かれておりません。イーガン、まだ貴方の時ではありません。イストフェルに残るのです」

「貴女に拒む権限はない」 イーガンはあざ笑った。「私は偉大だ。私の探索行は誉れ高い。私は強大だ。貴女自身の法によれば、私を入れねばならぬであろう」

 ファーヤは声をあげて笑った。「イーガン、私は何の法も作りません。私はその裁きであり、私自身の裁量を持ちます。私の領界にあなたの立ち入りを許すことは、その終わりを示します。よって、許すつもりはありません」

 イーガンは攻撃しようと大鎌を掲げたが、ファーヤはそれを叩き落した。大鎌はガラスの床を跳ね、塔から落ちていった。イーガンはそれを見つめ、うめき、膝をついた。彼の戦意は失われていた。拳が床を叩きつけ、ガラスにひびを入れた。

「霊魂よ」 ファーヤがラナールへと向き直った。「私を見るのです」

 ラナールは言われた通りにした。ファーヤは恐ろしくかつ壮大、比類なかった。怖れ、励まされ、だが希望を吹き込まれてラナールは立ち上がった。彼は半分になった斧を掴んだ――自分は何があろうと、戦士なのだ。

「功績に基づいてシュタルンハイムに値する者がいるとすれば、貴方です」とファーヤ。「ですが貴方の判断について質問です。苦しい道程の中でこの者を追いつつ、その間ずっと、この者の正体に気付かなかったというのですか」 ファーヤはかぶりを振った。「栄光への欲は目を曇らせます」

「そうです、死の神が私を導きました」とラナール。「ですがそれを選んだのは私です。私自身がこの神と同じ欲を抱いていなかったなら、従ってはいなかったでしょう」

 ファーヤは片眉を上げた。「正直に答えるのです。もし私が貴方のシュタルンハイム入りを拒否し、イストフェルに留まるよう告げたなら、どうしますか?」

 ラナールは光り輝くファーヤと、煮えくり返るイーガンとを交互に見つめた。「私は、仕える生き方を知っております。そして過ちを犯した時に、どう謝れば良いかというのも」 彼はファーヤへと壊れた斧を差し出した。「生前、私は見張っておりました。死後も同じです。この探索行は私を試し、そして私は失敗しました。ご厚情を願います。私が、同じ失敗から皆を守れるように」

「良い答えです」とファーヤ。「質問は終わりです」

 ラナールは立ち上がり、手の中で斧が直っているのを見て驚嘆した。それまでと同じく使い込まれてはいたが、戦乙女の金属の脈が木の柄に走り、斧頭には結び目模様が刻み込まれていた。

「ファーヤ、私は戻ってくる」 イーガンは鼻を鳴らした。「シュタルンハイムへの道を見つけてみせる」

「そうするのでしょうね。ラナール、貴方の領界を守るのです。この者を倒しなさい」

 ラナールは一瞬考え、そして従った。イーガンの抗議をよそに彼は斧を振るい、死の神を一撃のもとに打ち倒した。

「宜しいです」

「また生き返るのでしょう?」

「ええ、勿論です」 ファーヤはラナールの肩に手を置いた。「ここは彼の領界です。そして今のところは、この領界もまた彼の規則に従います。彼はしばし星界を彷徨うでしょうが、やがて身体と衣服と武器を得て玉座に戻り、再び統治するのです」そしてファーヤは帰るため、翼を伸ばして広げた。

 ラナールが見つめる中、イーガンの身体は更に色を失い、砕け、塵となって散っていった。

「イーガン様は以前にも同じことをされたと。私もそうなのでしょうか?」

 戦乙女は頷いた。「長い時の中、彼は何度も試みてきました。貴方の姿も何度も見ました、常にではありませんでしたが。貴方はこの循環の中の、不可欠の要素なのです。最後にいつも役に立ってくれますが、貴方がこれを思い出すことはありません、私が再び守り手として任命するまで――それがこの地の難点なのです。イストフェルは忘れられた者と無名の者の領界、ここに至った者は次第に消えていきます。姿を保つ人々も、領界の力からは逃れられません」 ファーヤは無感情に言った。弱気な耳にその言葉は厳しく聞こえるかもしれない、だがラナールにはそうではなかった。これまでラナールが聞いてきたのは冬のように厳しい族長の命令、あるいはデーモンの略奪者が上げる騒々しい雄たけびだけだった。その冷たさが冷たく残酷なのか、あるいはただ冷たいだけなのか、彼はそれを感じ取ることができた。

「自分の義務を忘れてしまうなら、私はいかにして領界を守りに向かえばよいのでしょうか?」

 ファーヤは彼の視線を、イーガンの白い灰の名残へと向けさせた。神の姿はわずかな輪郭だけが床の暗いガラスに残っていた。他は風に吹き飛ばされていた。

「このようになる前に、です」 ラナールはうめいた。

「貴方は守り手です。魂の中に、その役目は確固としています。このような任務に、あるいは単純なものになるかもしれません。それでも貴方はそれを形にするでしょう」 ファーヤはラナールを手招きして塔の端へ向かった。そこで二人はイストフェルの全てを見渡すことができた。彼女は遥かな地平を指さした。あの川で隔てられた、この領界の果てを。「あの川を考えてごらんなさい。その水となる魂は変わるかもしれません――それでも、それは常に一本の川でしょう」

「そう思います」とラナール、「とはいえ、あの川はそう変化しませんが」

「そうですか?」 ファーヤはにやりとした。戦乙女の表情としては稀だった。「イストフェルのラナールよ、この領界と人々によく仕えなさい」 彼女は翼を一度だけ羽ばたかせ、浮かび上がった。雲の覆いを割り、黄金の光が差し込んだ。シュタルンハイムの遠い岸が頭上に開いた。ラナールは敬礼に斧を掲げた。それを利用して彼は目を覆い、ファーヤが光の中へ飛び去る様を見つめた。孤独に、これまでもそうであったように、彼には任務があった。


 少しの後、イストフェルの有形の緑色がラナールの身体に今一度降りかかり、気が付くと彼はこの領界の広大なツンドラを歩いていた。地面は青白く固く、霧にぼやけた頭上の光はその下のきらめく氷に柔らかく降りそそぎ、影はどこにもなかった。

 渇きも、苦しみも、空腹も、痛みも感じなかった。彼は今一度、一体の幻影となっていた。この領界にいる霊魂たちのために存在する、一体の霊魂。監視こそが自分の義務、だがどこから始めればいい? イストフェルの門で寝ずの番をして、魂たちに会う? この領界での、あるいは他の領界から来る略奪者の知らせや噂を集める? ラナールはファーヤが直してくれた斧を持ち上げた。以前と同じく、これが答えを知っている。

 ラナールは斧を宙へと放り投げ、脇によけ、そして落ちた場所を見定めた。柄は測りがたいほど遥か遠くを、星界そのものがうねる所を示していた。イストフェルの至る所で、うたわれない霊魂たちが今なお英雄を求めている。

「そうか」 ラナールは頷いた。導き。目的。誉れ。ただ独り、イストフェルの守護者は斧を拾い上げると、彼方の地平線へと歩き出した。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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