MAGIC STORY

カルドハイム

EPISODE 04

サイドストーリー第2話:狙いは外さず

Setsu Uzume
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2021年1月15日

 

注:この記事は二部に分かれた物語のその2です。読み進める前に、ぜひ前回をご覧ください。


 息を止めた緊張の一瞬、地面はなかった。ニコの靴は揺らめく非現実を通り抜け、軽い音を立てて木の板に着地した。初めての旅よりもずっと平穏だった。氷の散らばる岸辺、人里離れた前哨地からニコを運んでくれた小舟での旅は短く快適で、世界を隔てる薄膜を抜けると全く異なる港に辿り着いた。小舟は木の塔門に跳ね返り、ニコは身体を引き上げて辺りの様子を確認した。ブレタガルドでカナーの人々を追いかけていた憂鬱な天気が長く続いた後では、ここの全てがあまりにも眩しかった。鏡のように静かで黒い水面、涼しい霧の中には複雑により合わさった船着き場が物憂げに広がり、他の陸地はどの方角にも見えなかった。

ニコ・アリス》 アート:Winona Nelson

 吐く息が白くなったが、寒くはなかった。ニコは鼻で息をし、テーロスからカナーの地へ飛んできた瞬間と同じような、冬の冷気が肺を刺すのを待った――だが今回、そのように不意に襲い来る冷たさはなかった。大気は涼しく、清々しく生気に満ちて、競技会には最適の気温だった。

 ニコは進んだ。船着き場は古い地層のように交差し重なり合っていた。足元の木の板にはあらゆる類の獣が彫られていた――巨大な熊やドラゴン、猪に兎、リス、魚、鯨。ニコは軽々とした動きでそれらのシンボルをまたぎ、跳び、楽しんだ。カルドハイムの人々が自分たちの誇りや物語を地面にまで組み込んだことは驚きではなかった。

 目を狭めてニコは銀紫色の髪の一房を目の上からよけ、目の前の全てを見た。宮殿のように堂々と、城塞のように力強く、その聖堂はAの字を描いてゆるやかに伸びていた。まるで並んだ踊り手が、指を組み合わせたように。聖堂そのものは、魔力を脈打たせてそびえる枝の下に収まっていた。ここは世界樹の梢の頂点、領界の高みに生ける光彩。それはカナーの鎧に、三つ組の星や、空に浮かぶ三つのダイヤモンドとして刻まれていた――ゆるやかに色を変える星のない空、その唯一の光。

 近づいてみると、実際には遥かに素晴らしかった。

 ニコは階段を上りはじめた。その根元には見張りのように立石が並び、同心円に彫られた模様は美しいがニコはその意味を判読できなかった。一歩ごとに、胸に理解と切望がはっきりとしていった。キーエルが何故あのように語っていたかがわかった。カナーの人々はシュタルンハイムを楽園と表現していた。領界路探しは、まだ解かれていない謎と。それは富と安らぎを意味するとニコは考えていたが、この場所はそれよりももっと深くにある何かに安らぎをくれていた。

 階段の一段一段が、安らぎを求める旅路の最後の一歩のようだった。聖堂の中からは暖かな熱が発せられ、沢山の手が一つの饗宴を取り囲むそれと同じ予感を運んできた。音楽と歓談が大気に響き、今にも歓迎の声が弾けそうだった。ニコは喉を詰まらせ、褐色の肌に青と紫の光が揺れた。安堵の涙がこみ上げる中、抱擁するように両扉が開かれた。入り口をまたいだその瞬間、ブレタガルドのあらゆる人々が憧れるものをニコは理解した。旅の終わりの安堵という以上に、祝賀という以上に――シュタルンハイムは我が家だった。

アート:Jonas De Ro

 聖堂の建物は築かれただけでなく自ら成長したものであり、まるで広大な遺跡がその栄光の高みへと修復されたかのようだった。ニコに似た顔、似ていない顔、刺青のある顔、ピアスを刺した顔、飾りのない顔――純粋な黒曜石でできた顔も。戦士に詩人、人間、ドワーフ、エルフ、そして霜を光らせた、あるいは溶岩に赤熱した巨人がいた。

 彼らの中には農夫や、戦いの経験があるとは思えない学者の姿もあった。その勇気や狡知で、栄光や愛や正義といったものを勝ち得たのだ。騒々しい笑い声と焼ける肉、調味した野菜、薪の豊かな匂いが海となり、その上にあらゆる物語が漂っていた。自身の任務を心に留め、ニコは顔を上げた。長い卓、栄誉ある死者たちとその果てしない物語の上で、分厚い雲が世界樹の梢の中に眩しく輝いていた。白い雲は少しだけで、その背後には嵐をはらむ深い青灰色の雲が沸きつつあった。気付いたのはニコだけのようだった。

「酒だ!」 痩せた戦士が叫んだ。炎のように赤い顎鬚、その両腕と胸は錆色の刺青で覆われていた。

「杯に言えよ、馬鹿が」 綴り鎧をまとう別の戦士が言った。その女性が笑うと、がさがさの顔面に深い皺が刻まれた。そして腕を精一杯に伸ばして炎髭の手へと角杯を押しつけた。

「蜂蜜酒だ!」 炎髭が角杯へと叫んだ。杯はすぐさま満たされ、目の前に零れた。

「婚姻の蜂蜜酒、その最初の一口は女房の家族からの贈り物なんだ」 綴り鎧の女性が言った。角杯が黄金の液体で満たされ、その蜂蜜が作られた野の花が咲く原野の芳香を放った。

「ドレースだ!」 ひとりの領界路探しが叫んだ。その顔面には、目的地を記すように長い傷が横切っていた。手に持つ角杯が、黒い斑のある白い泡で溢れた。

 炎髭がげっぷをした。「ドレースってのは何だ?」

 地図傷は満足そうに口元から泡を拭った。「ドラゴンの卵の白身を泡立て、香草と松脂を加えたものだ」

「うえっ! それでお前は死んだのか?」

 綴り鎧の女性が顔をしかめた。「よくそんな変なもの飲めるね」

 ニコは彼らの間に滑り込んだ。「船出する時には、それを作ってくれって奥さんに頼みたいですね」

 地図傷は笑い声を轟かせ、ニコの背中を叩いて角杯を掲げた。「飲んでみろよ、トゥーラ!」

「ちっくしょう」 綴り鎧が笑い、その奇妙な泡を大胆に一気飲みした。そしてもう片方の手に持った自らの酒を飲み干すと、杯を返した。

「鋼の髪、お前の名は?」 炎髭が尋ねてきた。

 鏡のような輝きを粗雑な鋼と表現されたのを聞いたなら、ニコの黒髪を染めた髪結いは悔しがっただろう。ニコは角杯を掴み、故郷を思った。それは柑橘のような、甘く強い匂いのする液体を泡立たせ、夏の海で夜に泳いだ記憶を運んできた。

 ニコは唇に杯を持っていったが、飲みはしなかった。「皆さんはとても高名な方々なのですよね?」

 綴り鎧の女性はにやりとし、猪肉の皿をニコへと押しやった。「ベスキール氏族、帆裂きのトゥーラさ」

 地図傷が泡をもう一杯、一気にすすった。「息止めのガレル。領界路探しの船、氷砕きに乗っていた。孫の一家を守るためにスケレの略奪隊を丸々一つ追い払ってやった」

「ヴィグニュートだ!」 蜂蜜酒で濡れた胸を叩き、炎髭が叫んだ。「生まれはタスケーリ……あの糞ったれの傷頭が飼ってる魔道士どもを逃がしてやったんだよ、お綺麗な靴が砂だらけになる前にな」

「立て直すか、敗走か」とトゥーラ。「戦士と狂戦士は前、魔道士は後ろに離れて」

 ヴィグニュートはあざけり、目の前の卓へと飛沫を飛ばした。「略奪者、トロール、ドラゴン――唾を吐いて届かないなら、その戦いにいないってことだ」

 ニコは角杯を片手で覆い、さっと身体を引いた。

「汚いぞ、ヴィギー。口を閉じて飲め」 若い炎髭へと、息止めが布を投げた。

「帆裂き……聞いたことがあります!」 ニコはトゥーラへと言った。裏切り者の兄と戦い、自らの刃を汚すのではなく兄自身の剣で殺した、悲劇と勝利の物語。トゥーラの立場的にその出来事は辛いかもしれないとニコは思い、やんわりと言い終えた。「ビルギさんが語ってくれました、カナーと領界路探しで満員の部屋で。あなたの名前は遠くまで広まっていますよ」

 トゥーラは卓を叩いた。「今の聞いたかい? 語りの神が自らベスキールの物語をあんたたちに聞かせてるんだよ! 醸したサメの血をおくれ! 飲みな!」

「人のことを言えるか。俺はこれが好きなんだ」 息止めはトゥーラから杯を受け取り、のけぞってひと飲みにした。「けどお前が死んだ時の話はもういい。新しいのが聞きたい。鋼の髪、俺たちの名は告げた。お前がどうやってシュタルンハイムの栄光を得たのかを語ってもらおうか」

「メレティスのニコ・アリス。決して狙いを外さないことから、ここに来ました」

 ニコが自らの物語を語り、三人は耳を澄ました。力ある神託者が、ニコは不敗の勇者になると宣告した。決して外さす、決して敗北しないと。絶え間ない訓練が勝利と、更なる勝利と、名声をもたらし――だがそこに意味はなかった。目的のない運命に何の意味があるだろう? そしてあらゆる都市国家の精鋭が集った前回のアクロスの競技会にて、ニコは槍を投げ、運命の顔面に唾を吐き、わざと負けてみせた。

ニコ、運命に抗う》 アート:Bastien L. Deharme

「運命そのものが工作員を送り込んできました。私を罰して引き戻すために、私がほどいた運命の糸を正すために」

「それでどうなったんだ?」 トゥーラが尋ねた。

「その刺客を殺したのか?」 ヴィグニュートも続けて尋ねた。

「戦いました」 ニコは表現をぼやけさせた。あの時ニコは怯えていた。必死だった。運命の工作員を鏡の破片に閉じ込めるのは、まるで子供が大人の爪先を踏みつけるような――作戦というより奇襲だった。奥深くに埋め込まれた稲妻のロッドのように、ニコの全存在が輝きを帯びた。自分の運命は誤りだったのだ。そして思っただけで、どこへでも逃げられる。どこへでも行ける。

 ニコは角杯を口に当てるだけで飲まず、その様子を息止めが見つめた。「それは神にひどいことをしたな? 闇雲にやったのだとしても、そいつらが間違ってるとお前は証明した。その事実は変わらない」

 トゥーラはその領界路探しを追い払うように手を振った。「神はいつも正しいってわけじゃない。黒い湾の船が何よりも語ってるだろ。この子はここの全員と同じくシュタルンハイムに座を得たんだよ」

 トゥーラの肩越しに、ニコは巨大な猫を見かけた。ふわふわの毛皮は、饗宴の頭上に浮く乱雲を映していた。あの小さな「強敵ちゃん」の少なくとも倍ほどもあり、そしてシュタルンハイムそのもののように、その猫の両目と毛皮の先端は極光に揺れていた。戦乙女の翼に閃くものと同じ光に。

神の間の守護獣》 アート:Sidharth Chaturvedi

 この戦乙女の家で、明らかに人型でない生物を見たのは初めてだった。そしてその猫は同じ興味をもってニコを見つめているようだった。

「また後で」とニコ。「友達に会ってきます」

 ニコは杯を満たして青く輝くテーロスの飲み物をヴィグニュートへと手渡した。猫は速足で駆け、ニコは別世界の飲み物を味わう三人を卓に残して追いかけた。

 猫はニコをちらりと振り返り、耳をぴくりと動かし、自慢し合う群衆の中へと再び駆け出した。そして鋭く左へ曲がり、壁の隙間を通って狭い空間へと入った。ニコは追いかけ、静かな広間に出た。石の床はあの湖のように黒く、頭上の静かな嵐に照らされていた。約半マイルに渡って追った先で、猫が放つ緑と紫の光はまた別の小さな隙間に向かった。その先にこだまする話し声が、広い空間を予想させた。

「……世界樹が震えている。旅がこの先もこれほど困難だというなら、いかにして死者を集め、無傷で連れてくれば良いのか?」

 猫は足を緩め、伸びをし、ふさふさの尾を振ると穴の中へと消えた。テーロスで良い印象を作るにはどうすればいいかをニコは知っていた。けれどキーエルが色々と教えてくれていた、カルドハイムではどうすればいいかというのも。

 扉を蹴破って、顔面を殴りつけてやれ。

 ニコは身体を滑らせて入り、背筋を伸ばし、そして唖然とした。

 何十人という戦乙女が、世界樹の枝に、猛禽類の群れのようにとまっていた。全員が長身ではっとする美しさを漂わせ、銀、金、つややかな黒や銅でできたあらゆる種類の鎧をまとっていた。分厚い毛皮と鎖に繋いだ石の護符の数人が目を惹いたが、他はこの地で何度も見てきた精巧な金属を埋め込んだ装具のベルトをまとい、広間をぶらついていた。長く編まれた髪は蛇の模様のように金属の輪でまとめられ、多くがあの炎髭の狂戦士のように長い角杯の酒を飲んでいた。白い翼の者たちは夜明けの淡い色調を放つ一方、ニコが捕獲したあの一人のような黒い翼の片割れたちは、冬の深い夜の不思議な緑色と青色を身にまとっていた。

 この神々を脅かせる存在があるというのだろうか?

 濃い褐色の肌に淡い翼の戦乙女が、甘い声を発した。「侵入者さん! お友達を探しているのですか? それとも迷ったのですか? 饗宴にお戻りなさい」

 戦乙女はあの猫ではなく自分に声をかけている、ニコがそう気づくまで一瞬を要した。「シュタルンハイムの戦乙女よ、私はニコ・アリス――」

「わかっています。広間へ戻りなさい」 別の戦乙女が言った。

 ニコは部屋を見渡し、あの出来事の証人を――黄色の髪に灰色の翼の、黒い肌の戦乙女を探した。だが数が多すぎた。

「私は饗宴に加わるべき者ではありません。ここに来たのも――」

 黒い翼に紫色をひらめかせ、別の戦乙女が遮った。「胸を張るがよい、小さき者よ。君はここにいて良い存在だ。私が保証しよう」

 ニコは歯ぎしりをした。クローティスと、あの工作員と、運命を檻のように用いて人々を操作する神託者と何ら変わりなかった。ニコは競技会で宣言を行うための、訓練された声で戦乙女たちへと告げた。「私は皆さんの誰も耳にしたことのない地、テーロスから来ました。ニコ・アリスといいます。そして意味のない死を止めさせるために皆さんの一人を捕え、ここへ至る手段を見つけました。ブレタガルドの二氏族が力を合わせて、皆さんに警告を伝えるために――星界の大蛇が迫っています。それは皆さんの聖堂を壊し、死者たちは消え、湖は飲み尽くされるといいます。ここには饗宴の食べ残し以外何も残らないでしょう!」

 白金の髪と白い肌の戦乙女が、顎を掌の上に乗せた。世界樹の枝の間にうねる黒雲の中、その姿は鋭く、けれど慰めをくれた。「可笑しい上に不可能です。ヴァルクマーの湖とその上に浮かぶ全ては私たちの血であり骨。気付かないなどということはありえません」

「そうですか? 入り口で誰も私を迎えてくれませんでしたが。皆さんの猫の方がよっぽど礼儀正しいですよ」 ニコはそう言い返した。

 灰色の猫が金髪の戦乙女の肩へと跳び、雪色の翼に鼻をすり寄せた。

確固たる戦乙女》 アート:Jason Rainville

「侵入者さん、お喋りな子リスの所へ連れて行きましょうか?」 金髪の戦乙女が言った。

 その猫は極光を漂わせつつ掻かれるがままにされ、――そして怯えたように両耳を立てた。猫は垂直に二十フィート跳び、垂木へと着地し、そして頭上に絡み合う枝の中へと消えた。湖を見下ろす開いたアーチに黒い翼が広がった。

「見つけたぞ、定命!」

 その声には聞き覚えがあった。先程は見つからなかった死神、アーヴタイルが降下して荒々しく着地した。翼に輝く瑪瑙の緑色は熱く、その影を消して褐色の皮膚を淡く変え、憤怒に燃える茶色の瞳はほとんど黄色と化していた。

 戦乙女たちは全員が困惑とともに見つめた。アーヴタイルの姿は少々乱れており、黒く長い編み髪は僅かにくすみ、翼は大雨の中の鴉のようにけば立っていた。彼は翼を震わせ、鎧の下で肋骨をきつく取り囲む輪を短気な様子で緩めると、群れの中央へとまっすぐに歩きだした。

 彼はニコへと指を突きつけた。「この定命はカルドハイムに生ける者と死せる者の全てが従う法に一切の敬意を払わず、我らの審判に介入したのだ。スコーティ、あの成り上がりの神々ですらそこまでの厚かましさは無いというのに!」 アーヴタイルは剣を抜きはしなかったが、今にもそうするというような憤怒が身体中に満ちていた。何人かの戦乙女をアーヴタイルが指さすと、黒いその鎧がぎらりと輝いた。戦乙女の数人は兄弟姉妹のように身を寄せ合い、他は自分たちの片割れの言葉を冷笑していた。

「エヴォト、トーヴ、このような侮辱に黙っているのか? ギスラ、君はどう思うのだ? 止められぬ戦いの中でフリスを守るというためだけにアルシグが定命に攻撃されたなら、君は彼女を見捨てるのか? 無論違う――戦うだろうが! この者が言う幻視とは、蛇狩りのフィンが追いかける若さへの未練に過ぎない。あの自慢屋が、世界樹そのものを包含するほどの生物を叩くなど想像できるか? けしからん」

 アーヴタイルは翼を振るいながらニコへと振り返った。ニコは体勢を正して身構え、吹き飛ばされるのを防いだ。

「この小動物は私と対峙するのではなく、ヴェドルーンとの交渉を強いた! ただの侵入ではない、臆病かつ欺瞞に――」

 別の戦乙女が枝から降下してきた。冬の月のように青く揺れる灰色の翼、鋭い灰色の瞳、褐色の顔を黄色の髪が縁取っていた。「アーヴタイル」 その戦乙女は彼に近づいた。「傷を負ったのですか? 翼はどうしたのですか?」

 ニコにもわかった。あの戦場にいたもうひとり。その存在に、アーヴタイルの怒りが鈍ったようだった。

「星界を通る道が――」 アーヴタイルは言葉を探し、言った。「曇っていた。もし定命を連れていたら、その者を失っていたかもしれない。リトヴァ、何故私を置いていった?」

 リトヴァは戦乙女たちへと顔を向けた。「何かがおかしいのです――雲を見て下さい。下方の領界の暴力に煮えたぎっています!」

「あなたはここに来るまでにそんな目に遭って、けど私は違うのですが?」 ニコは無邪気に尋ねた。

「お前自身に星界を渡る強さはない」 アーヴタイルはリトヴァの肩越しに言った。「良く言って子供騙しの技だ」

 戦乙女全員を説得しなければならない、それも素早く。ニコはアクロスで用いられる大仰な、それでいて誠実さを示す仕草を思い出した――胸を張り、剣先を自らの腹に触れさせながら、感情を損なった相手へと柄を差し出すというもの。

 武器を出して全員を警戒させるのではなく、ニコはその秘密を明かした。「私の鏡にひびを入れるか砕いたなら、解放されます。鏡の罠を沢山作るごとに私は集中しなければならず、中に捕らえておける時間は短くなります。そして集中する必要がなくなる、あるいは忘れてしまったなら、魔法は自然と消えます。最大でも数時間です。私があなたに危害を加えることはありません」

 戦乙女たちは全員がアーヴタイルを見た。彼の告発と体験は、ニコの言い分に反するのではなくそれを裏付けているように見えた。アーヴタイルは鼻息を鳴らし、挫けつつも降参する気はないようだった。彼はニコにわからない長い一連の罵りを呟くと、リトヴァと群れを肘で払う仕草をした。

 そして凍り付いた。

 リトヴァは彼の腕に触れたまま、恐怖に空を見つめた。「我らが全ての母……!」

 頭上高く、雲が描く柔らかな静寂の先、滑らかな黄昏の広がりが悪しきものを煮えたぎらせていた。薄氷を通して見るように、他の領界の様子がちらりと現れ、はっきりと映り、消えた――まるで十ものドゥームスカールがシュタルンハイムの端に迫るかのように。大地と空が直交する重力で相対し、炎の湖が上方へと流れる様が見えた。その一滴が苔むした巨岩の上に長い時間をかけて落下し、奇妙な空の下に見慣れた地が広がった。

 この最後の映像はうねり、波打ち、裂けた。当初、それは黒く凝固した血が現実へと長くしみ出した、ただれた穴のように見えた。だがその細流は張りつめて逆戻りし、太くなり、表皮が裂けて破片に剥がれ、ヴァルクマーへと落ちた――その一枚一枚が村ひとつほどもある、純粋な虹色でできた落葉のように。ありふれた蛞蝓のようだったそれはとぐろを巻いて宙で緊張し、膨れ、鱗と棘にけば立った。そして星界そのものから生まれた巨大な、装甲に覆われた鰻のような姿へと凝固した。

 そして、その音が響いた。

 顎が開かれた。むしろ、顎が外れた。青みがかった大口の肉に、高くそびえる棘のような、毒を帯びた歯がぎらついた。その金切り声は空を波打たせた。よじれた金属、崩れた都、瓦礫と帰す世界が放つ拷問のような不協和音だった。

 ニコは両手で耳を覆い、だがその手も恐怖に感覚を失った。

「コーマ」 アーヴタイルが息を吐いた。「星界の大蛇」

星界の大蛇、コーマ》 アート:Jesper Ejsing

 一本の領界路が別の世界へのいざないだとしたら、この生物がもたらす傷は侵略だった。寄生虫の酸が世界の柔らかな皮膚を傷つけるように、魔法のエネルギーの弧が走って弾けた。ニコは統制を、統率を求めて戦乙女たちを見た。だが何もなかった。戦乙女たちもニコと同じように恐怖していた。

「このようなことは、ありえません!」 リトヴァが低く呟いた。

「何者かが放ったに――送り込んだに違いない。だが何が我々を攻撃しようというのか? 何故だ?」 アーヴタイルは口ごもった。

 リトヴァは息をのんだ。「た――戦わねばなりません。放っておけば、民に害が及びます」

「逃げなければ」とアーヴタイル。

 大蛇はのたうち、黒い湖がその軌跡に波打った。雲が荒れ、大蛇は動きを見て突進した――大岩が稲妻に割られるように、顎を閉じる音が響き渡った。

「不安定な世界の間に逃げ道はありません。私たちの家を――私たちの血を――戦わずして見捨てはしません!」 リトヴァが叫んだ。

 あのネズミ捕り、「強敵ちゃん」が荒々しく興奮する様子をニコは不意に思い出した。ニコが投げた鏡をどこへも追いかける姿を。「戦えないのなら、逃げられないのなら、元いた場所に帰さなければ。固まって、並んで飛んでください。玩具を追いかける猫のように、皆さんを追わせるんです」

「あれよりも速く飛べなかったらどうする?」 アーヴタイルが尋ねた。

「鏡があります。その中なら安全ですし、小さすぎて大蛇には見えません。動物は生きているものを追うでしょう? 手綱を引くみたいに大蛇の注意を引きつけて、巣穴の一つに帰すんです」

 リトヴァとアーヴタイルは視線を交わし、そして大蛇を見上げた。「死者はどうするのです?」 リトヴァが尋ねた。

「彼らは飛べますか? できないのなら、建物の中にいてもらって下さい。あの大蛇の気を散らせることができれば、上手くいきます」

 リトヴァはアーヴタイルへと柔らかく告げた。「あなたもわかったでしょう。強情にならないで下さい」

 アーヴタイルは言葉を飲み込んだ。「来た道を通って帰すべきだな――どこか適当で不当な場所へ戻す危険は冒せない」

「決まりですね」とニコ。「あれを棲処まで追えたなら、送り込んだ者が見つかるかもしれません」

 苦々しい決意で、アーヴタイルはリトヴァの先導に従った。二人の戦乙女はベルトから角笛を取り出して吹き、果てしない広間から仲間全員を集めた。戦乙女たちは槍、剣、盾、戦鎚、斧を手にし、鎧を整え、そして並び立った。

 ニコは片腕を伸ばして胸につけ、そして逆の腕も同じようにし、肩を伸ばした。恐怖はあるが、我を失うことなくそれを受け止めようと、受け入れようとした。焼け付く太陽、群衆で満員の闘技場で、顔も知らない異邦人たちが自分の名を叫ぶ、その中に入る寸前の暗闇と同じように。動く台に乗った動く目標を狙うというのは、長年訓練してきたもので、けれど……今回は、死ぬかもしれない。今回は、不死の者ですら死ぬかもしれない。ニコは警告を伝えに来ただけのつもりであり、攻撃を率いるつもりは全くなかったのだ。

 ここはとても多くの人々にとって、とても多くの意味を持つ場所なのだ。トゥーラにとって、息止めにとって、あの狂戦士の若者にとって。キーエルにとって。誰もがその生の終わりにはここに帰る権利を持っている。また彼らに会いたかった。

 競技者として、達人として。ニコは足指の根元に力を込め、来たる長距離走のために落ち着いて構え、アドレナリンのうねりを抑えた。

 ニコを運ぶリトヴァを含め、四十人の戦乙女が次々と飛び立った。聖堂と果てしない黒い湖に挟まる船着き場が細い線になっていく様を見つめ、ニコの胃がうねった。薄い、もろい防衛。

 空は泡立ち、他の領界が今も伸びては押してきていた。原初の森、焦げた村の残骸の映像が四方八方に広がっては消えた。リトヴァとニコは群れの塊から離れて大蛇へと向かった。

 コーマが空を泳ぐ軌跡に吹き飛ばされないよう、リトヴァは上昇して避けた。アーヴタイルは翼を打ちつけ、黒い羽根に緑色の光を燃やしながら、ニコが大蛇の頭部へと向かっていける着地点を見つけようと前方へ飛んだ。

「いいですか?」 リトヴァが呼びかけた。

 ニコは返答しようとしたが、恐怖に口はからからだった。代わりにニコは武器で返答した。意識的な思考が逃げたところを、筋肉の記憶が補った。

 滑らかな銀が深い藍色の光を放ち、ニコは先端が鉤になった槍を作り出した。そして握る手を強く意識し、大蛇の頭蓋骨の根元へと定めた。あれが最初の目標だ。

 戦乙女たちも行動を開始した。リトヴァとアーヴタイルは共にニコを抱え、降下した。落下に備えて足を曲げるや否や、ニコは宙に放たれ、大蛇のうねる身体が近づいた。ニコは着地し、転がり、その勢いを利用して風に抵抗しながらうずくまり、コーマが動く感覚を掴んだ。ニコは熊のように手をつき、ある所では岩のように分厚い鱗を、ある所では氷のようになめらかな皮膚をゆっくりと進んだ。辺りの様子は気味が悪いほどにフィンの盾に似ていた。ニコは首への最後の数フィートを滑り降りると、コーマの頭蓋骨の鱗の間に槍を突き刺した。

 歯を食いしばり、ニコは槍に魔力を流して錨とした。それは三つ又に広がり、大蛇の肉の奥深くまで伸びて刺さった。焦げた金属と酸の悪臭がした。ニコはその傷の両脇に足を広げ、靴が最悪の火傷から守ってくれるよう願った。

 ニコは左手を掲げ、すると遥か左に飛ぶアーヴタイルが角笛を吹き鳴らした。五人の戦乙女が前進し、戦鬨を叫んで嵐のような光を放った。戦乙女たちは盾を剣で打ち鳴らし、コーマを挑発して追いかけさせた。

 コーマは餌に食いつき、光と雷を追って飛ぶと、顎を開いて最後尾の戦乙女を噛みちぎろうとした。戦乙女たちは四方八方へと散り、最も遅れた戦乙女にコーマの歯が迫った瞬間、ニコは鏡を投げた。その戦乙女は無数のガラスの欠片へと砕け散ったように見え、だが本物の身体は投擲された破片の中に捕われたまま、無事にコーマから逃れた。大蛇の顎は雲を噛み砕いただけだった。

 罠が解けると、その戦乙女は空中の落とし戸から落下するように、ガラスから出現した。そして羽ばたき、体勢を整えるとコーマを迂回して仲間に合流した。

「上手くいきました!」 ニコの遥か右でリトヴァが叫んだ。

 ニコは空を見て徴候を探し、戦乙女の次の隊へと準備するよう合図した。そして別の路が開き、電気が弧を描いたがまだ完全に現れてはいなかった。ニコは右手を掲げ、するとリトヴァが角笛を鳴らした。戦乙女たちがコーマの右側に群れ、侮辱と嘲りを口々に放ち、武器を揺らしたが攻撃はしなかった。コーマの第二の両目は傷ついており、作戦失敗の恐れがあった。

 大蛇は戦乙女たちへと飛びかかり、ニコは鏡の罠を投げ、獣の獲物を消した。戦乙女たちがコーマの顎から離れるたびにニコは次の鏡を呼び出し、最初のそれを割った。コーマは前方へ飛び、ニコは正解の領界路を探して幾つもの鏡を近くに浮かべた。

 コーマが首をもたげ、金切り声を上げた。ニコは世界が傾くのを感じ、体勢を崩しかけた。大蛇は槍を痒みのように感じているに違いない。ニコは膝をついてゆっくりと前進し、最初の槍を割った。ニコは手袋の指をコーマの鱗二枚の下に差し込んで力を込め、腕でそれらを持ち上げ、短く太い二本の槍をその下の柔らかな肉へと突き刺した。コーマは吠え、頭を前後に振るい、宙で悶えた。

 ニコは全身全霊でコーマの鱗にしがみついた。同時に大蛇の酸の体液が鎧を焦がし斑にした。カナーの鎧。ブレタガルドの鎧。返礼など何も考えずに贈られた鎧。雪の中で見つけた者が敵であろうと家族であろうと、そこに違いなどないのだから。

 ニコは体勢を正し、膝に力を込め、二本の槍を深く刺し、更なる領界路が開く中で鏡を旋回させた。瓦礫を吐き出す路、あるいは嵐の風を、あるいは砂漠の塵を。そのどれも違った。もっと前に開いたもの――どこだ? どれだ?

 ニコ、リトヴァ、アーヴタイルは命令を叫び、コーマはその通りに飛んだ。残る戦乙女の隊はふたつ。ニコの両腕が重くなり、身体の芯と肺が燃えるようだった。続けなければ。戦乙女とシュタルンハイムのためでなくとも、その光と我が家の約束のもとに生きる、カルドハイムの全ての者のために。

 コーマは急に身体を左へ傾け、ニコは遠心力の中で身を屈めた。視界の外れ、ヴァルクマーのすぐ上にまた別の領界路が開いた。

「ニコ!」 アーヴタイルが叫んだ。彼も見たのだ。コーマがこの地を破壊しなかったとしても、門は無事ではないかもしれない。

 容赦ない風に目がかすんだが、ニコは瞬きをしてはっきりさせた。そして他のどれとも異なる門が開く様を見た。きらめく滝も緑に曇る山々もなく、渦巻く雲が炎に輝き、まるで世界の終わりのように、肉体の衝突が戦争の中にうねっていた。

 危険で、確信もない。それでもニコは選んだ。

「あれです!」 ニコは叫び、左の拳を掲げた。「急いで!」

 アーヴタイルが角笛を慣らした。戦乙女の最後の一団が結集し、戦いへと咆哮し、光に燃え、大蛇を引き付けた。

シュタルンハイムの解放》 アート:Johannes Voss

 戦乙女たちが降下する中、船着き場と黒い血の水面との間で、世界の穴が閉じはじめた。ニコは両手を挙げるのがやっとだった。今、鏡を投げたなら、外れる。ニコは微笑みすら浮かべたかもしれない。つまり選択が簡単になったのだ。ニコは吠え、魔力を最後の一滴まで残らず集め、コーマの頭蓋骨に刺さる二本の錨へと、力を最後の一片まで残らず込めた。槍が長く伸び、コーマはそれを感じた。

 肉の奥深くに刺さった針を振り払おうとコーマの頭部が痙攣し、最後の戦乙女がその前から退散した。コーマはのたうち、顔面を世界の穴の端に打ちつけた。木の板とちぎれた金属板を弾けさせ、船着き場が砕け散った。ニコは投げ出され、大蛇は衝撃を受けたまま、穴へと滑り込んだ。

 コーマはその重みと勢いのまま、穴へと落ちていった。ヴァルクマーの黒い水が溢れて続き、世界の穴へと流れ落ちた。それはコーマの酸の血に触れ、蒸気音を立てた。

 ニコは両手で身体を持ち上げて膝をつき、這って離れようとした。だが船着き場の残骸はニコの体重に崩れ、穴へと傾いた。最後の瞬間、ニコは塔門の断片を掴み、疲れ切った腕と消耗した脚でしがみついた。頭上の木材がきしんだ。ニコは荒く息をした。汗が流れた。震えていた。銀の髪が顔に張り付き、星界の大蛇の恐ろしい悲鳴に耳鳴りが続いていた。

 どうしようもなかった。恐怖も、勇気も及ばなかった。これこそ自分が狙ってきたものだった。そして決して外さなかった。

 限界に達し、弱って、ニコは両目をシュタルンハイムの光へ向けた。旅の終わりへの短い路、我が家を願うカルドハイムの人々の……

 そして手を放した。

 風か、それとも消えゆく魔法か、ニコは寒気を感じた。心臓を引きちぎるような狼狽が、シュタルンハイムの安堵の端を噛んだ。全身の筋肉が燃える中、ニコは光に向かって片手を上げた。そして鏡を一枚出そうとした。

 アーヴタイルの手がニコの手首を掴んだ。

 彼の翼が放つ光は蛍のそれのように柔らかく、茶色の瞳は見慣れない輝きを帯びていた。

「死神さん、監視はもういいんですか」 ニコはそう呟いた。

 アーヴタイルはオラフトがそうしたようにニコを見た。疑念と希望が何もかも絡み合いながら、希望の方が少し勝っていた。

「お前の運命はまだ決まっていない」 彼はそう答えた。

 息苦しい笑い声がニコの唇から発せられた。「運命なんて、お前はそうなるんだって誰かが言ったことに過ぎませんよ」 戦いの只中へと落ちて行きながら、ニコは戦乙女の隣で弁明した。

 アーヴタイルは羽ばたき、ニコをしっかりと掴みながら、速度を上げて世界の間の路を飛んだ。ニコの片手に一本の銀の槍が実体化し、鏡のように眩しく、深い藍色の軌跡を輝かせた。戦乙女の軍勢がそれを追い、黄金色と緑色、紫色に橙色、銀、緋、そして青色に路を照らしながら、闇の世界に虹を生み出していった。

 冬空の中で、いつしか落下は飛翔となっていた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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