MAGIC STORY

カルドハイム

EPISODE 03

メインストーリー第2話:目覚めるトロール

Roy Graham 協力:Jenna Helland
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2021年1月13日

 

 コシマの長艇の底にケイヤは横たわり、頭上に流れていく夜空を見つめていた。この船にはオールも舵もなく、今できるのはそれだけだった。乗り込むや否や船は不意に船着き場を離れ、アールンドが船へと告げた「この女性が行くべき所へ連れて行け」の意味をケイヤは理解した。この件で自分に選択の余地を与える気はなかったのだ。ならば横になって考えにふける以外、特にやるべきことはなかった。

霧門の小道》 アート:Yeong-Hao Han

 通常、カルドハイムの領界同士の繋がりは個々の次元同士のそれと大差ない――それどころか、領界の間の隔たりはもっと絶対的で、ケイヤが持つプレインズウォークの力でも渡ることはできなかった。この世界の神々ですら、星界を渡るというのは簡単な仕事ではないのだ。

 インガによれば、例外はあるという。時折、定命の技によって、あるいは偶然の機会に、二つの領界を繋ぐ一時的な道が開く――彼らはそれを「領界路」と呼んでいた。だが人々が怖れるドゥームスカールの際には、世界の衝突は常に惨害をもたらすらしい。前回ブレタガルドがカーフェルと衝突した際には、凍れる地の死霊と歩く屍、アンデッドの軍勢がベスキールの要塞にまで辿り着き、そこでようやく打倒されたという。デーモンの領域イマースタームと彼らの領界が繋がった歴史記録はないが、そのような事が起こったならどうなるかはとても想像できなかった――昔、一体のデーモンがブレタガルドに辿り着いたことがあった。デーモンは手のつけられない蹂躙を行い、その惨害は一年でも最も暗く荒れた季節の名として今も残されている。

 要するにそれは、まさしく今後防ぐべきである類の出来事に違いない。集中しなさい、ケイヤ。間違いなく危険な、次元外から来たかもしれない怪物を発見したのだから。気を抜かないで。

 小さな衝突らしきものがあった。ケイヤは夢を見ない眠りから覚め、無意識にダガーの柄へと手を触れた。

 待って。船は、どこに着いたの?

 彼女は上体を起こし、背中の痛みにひるんだ。確かにこの長艇は、星界の荒々しいエネルギーの中を渡る強大なアーティファクトかもしれない。だが寝床としては全く快適などではなかった。深い霧が背後の水面に漂い、船体を叩く波の音以外の全てを飲み込んでいた。前方で、木の根が絡まる泥深い土手に舳先がぶつかっていた。

「到着ってこと?」 誰ともなくケイヤは言った。船から出ると、湿った黒い土に靴がずぶりと沈んだ。岸にうねる太い根に船をもやいておくべきかと思ったが、船は押し出されたかのように揺れながら波間へと戻っていった。すぐに、長艇は霧の中へと消えた。

「乗せてくれてありがと」 彼女はそう呟いた。もしあの怪物が領界に再び沸いたなら、自分は何をすればいい? いや、それは後で考えよう。枝を掴んで身体を持ち上げ、ケイヤは岸辺から森へと入った。

 ケイヤはこれまでも、古の場所で長い時間を過ごしていた。死ぬべきだが死んでいないものを対処する専門家は、人生の結構な時間を古の墳墓や忘れられた都といったものの中で過ごすことになる。だが自然の中にいて、これほどまでに古さを感じたのは初めてだった。あらゆる木が老人のように身体を曲げ、最も若いものでも既に幾度もの生涯を過ごしているように見えた。苔に埋もれて判別も困難な石造建築の残骸がそこかしこにあった、何もかもが時に屈した、失われた時代の遺物のように見えた。一時間ほども歩いたが、損なわれていない建物はひとつだけだった。石造りの高いアーチ。そこには何か壮大な、だが今は屈した城塞の門が収まっていたに違いない。この場所にこれを築いた何者かは、高さ二十フィートの入り口が必要だったということ。

 森はどこまでも続いているように思えた。その間ずっと、ケイヤはアルダガルドの洞窟深くで見た銀色の、生きているようなあの金属鉱脈を探していた。あるいは、大きくて気味の悪い足跡か、鉤爪の跡があるかもしれない。だが何もなかった。あの怪物がここにやって来た気配は全くなかった。

 倒木の幹にもたれかかって休んでいた時、喋るような声が遠くで聞こえた。瞬時にケイヤは活力を取り戻した。ありがとう、この次元のきらきら眩しい神様。領界路探しのように友好的ではないかもしれないが、少なくとも道を尋ねることはできる。

 ケイヤは重く垂れた枝をのけ、苔むした岩の張り出しをくぐってその音を目指した。やがて、開けた場所に出た。その片隅には切り出した巨石の塊が、消えかけた組み紐模様と鱗のような茸の列に覆われていた。そして奇妙で、うるさい生物の群れがいた。

 それらは背を曲げていても彼女ほどの身長があった。まっすぐに立ったなら相当大柄なのかもしれない。どれも緑色をしていた――あるものは淡い緑、あるものはもっと濃く、あるものは醜悪なまだら模様――そして黒く長い髪が、骨ばった身体を肩掛けのように包んでいた。口を開閉してケイヤにはわからない言語で喋ると、物騒な牙が音を立てた。トロール。これまでカルドハイムで見かけたことはなかったが、それでも間違えようはなかった。そして領界路探しの言葉を信じるなら、この次元のトロールは気性の荒い輩だ。

 ありがたいことに彼らはお喋りとふざけ合いに夢中で、ケイヤに気付く者はなかった。彼女は注意深く一歩また一歩と引き返し、だがその時、巨石の背後からひとつの人影が踏み出した。トロールではない。そのフードには黄金の円盤が幾つも揺れ、ベルトには鞘に収めた剣が下げられていた。

 巨石を取り囲むように、四体のトロールが影の中から現れた。群れのどれよりも大型だった。身体に合わない錆びた金属の鎧をまとい、全員が何らかの武器を持っていた――棍棒、粗末な斧、折れた剣。一体が斧を巨石に叩きつけ、耳障りでくぐもった声で何かを怒鳴った。喋っていた群れは黙り、フードの人物が彼らへ向かって身振りをするように両腕を広げた。

「友よ」 低く朗々とした声だった。「我が多くの名を知っていよう。ある者はトリックスターと、またある者は嘘つきと呼ぶ。悪戯の王子と、嘘の神と呼ぶ者もいる。だが誰もが知る我が名はヴァルキー。そして君たちへの最初の贈り物は、言葉の贈り物は、無償だ。我が言葉を聞き、理解せよ。今から告げる内容は極めて重要である」

嘘の神、ヴァルキー》 アート:Yongjae Choi

 神? こんな所に? 少なくともただの老人のふりはしていない。けれど……ケイヤはその男に何か奇妙なものを感じた。はっきりとは言い表せない何かを。

「大いなる争いの時は近い! 甚だしく貪欲で邪悪な生物で満ちた、過酷で異質な世界への路がまもなく開くのだ! その地の野蛮な人々は、これ幸いとノットヴォルドの森を焼き尽くすであろう! 誇り高きトロールの氏族を剣の錆とするであろう!」 だが返ってきた反応は沈黙と、時折立てる神経質な歯の音だけだった。「汚らわしき侵略者が望むのは」 適切な言い回しを探すように、その男は言葉を切った。「君たちの巣穴の宝物を根こそぎ奪うことだ!」

 その言葉に、トロールの群れは怒れる金切り声を爆発させた。ヴァルキーはしばしそれを許し、そして両手を振って黙らせようとした。静寂は訪れず、そのため鎧をまとう巨体のトロールが前列のトロールを棍棒で殴りつけた。群れは再び黙った。

「だが策がひとつある――ノットヴォルドの氏族らが機先を制するのだ! 君たちのつまらない喧嘩はもう終わりだ! 一丸となって攻撃せよ、そうすれば君たちを止められるものは何もない!」

 そしてケイヤは自分が見ているものを把握した。ヴァルキーが放つ微光。それは一見かすかで、アールンドが溢れさせていた輝きとは全く異なっていた。見逃すのは容易――だがケイヤは実体のない敵を長いこと狩ってきており、エネルギーの微妙な流れを見分けるのは慣れていた。今見ているのは幻影なのだ。つまり、嘘の神が作った幻影ではないということ。

 静かに、ケイヤはひとつの呪文を唱えた。何ら珍しいものではない――ちょっとした浄化、覆いの下を覗く魔法。それをわずかな風に乗せて放てば……

 彼女はヴァルキーへ向けてそっと息を吹き、白く小さな光の粒が突き出した唇から発せられた。呪文はゆっくりと前進し、大気がうねり、トロールの群れのたてがみをうねらせる突風となった。呪文が吹きつけられ、ヴァルキーの姿が剥がれたように見えた。嘘の神が立っていた場所には、頭から二本の角が突き出た赤い肌の男が、心から驚いたという表情を浮かべていた。「どいつの仕業だ――出て来やがれ!」 その男は憤って叫んだ。

 やめとけばよかった。とは言うものの、これまで自分の思いつきが上手くいったことがあっただろうか? ケイヤは木の背後から姿を現した。「その下手な幻影を使えば逃げられると思ったんでしょ? 頭の悪いトロールに違いなんてわからないわよ。運が悪かったわね、ティボルト」

星界の騙し屋、ティボルト》 アート:Yongjae Choi

 ティボルトの口の端が笑みに歪んだ。その表情から、怒りが弱まったようには見えなかった。「目ざとい奴だ。ところで前に会ってたか?」

「まさか。けど――噂を色々とね。評判通りだからすぐにわかったわ」 このデビルのプレインズウォーカーについての話は沢山聞いており、そのどれも良いものではなかった。

「そいつはどうも。お会いできて光栄だ、けどどちら様で?」

「ケイヤよ」

「ふん、聞き覚えがあるな。オレの記憶が正しければ、こそ泥だ。殺し屋か」

「あなたにそう言われるのは極めて心外だけど。ここで何をしてるの?」

 ティボルトは肩をすくめた。「同じことを聞きたいね。オレたちプレインズウォーカーってのはそもそもお節介屋だろう? けどたぶん見ての通り、オレは忙しい所のまっただ中をあんたに無礼にも邪魔された。だから失礼して――この女を殺せ!」

 トロールの群れは不確かに彼女とティボルトに視線を往復させた。だが巨石の脇にいた大柄の者たちはためらわなかった。彼らは動物のように大股で駆け、小柄なトロールを突き飛ばしながら群れの中を雄牛のように突進した。最初の一体がケイヤに辿り着き、大声で吠えながら斧を両手で振るった。それは幽体化した彼女の身体を通過し、トロールはその勢いのまま前のめりによろめき、木の根につまずいた。

 二体目は錆びた古めかしい見た目の剣で突いてきた。彼女は脇によけるとそのトロールを強く押しやった。隣の巨木に当たった瞬間、ケイヤはそのトロールを一時的に幽体化させた。結果、トロールが物理的な肉体に戻ると、見るもおぞましい枝のように緑の四肢が幹から醜悪にもつれて突き出ていた。最後の二体は群れの隅で足を止めた。仲間に何か起こったのかを見て、考え直しているのは明らかだった。

「殺されるつもりはないわよ」

 二体のトロールは視線を交わした。一瞬の後、両者とも武器を落として逃げ出した。ケイヤが顔を上げると、ティボルトも踵を返して森の中へと駆け出したところだった。あの輩は自分に追跡させようとしている。

 ケイヤはもつれて瘤だらけの木々の間を追いかけた。ティボルトは先んじていたが、彼は自由に身体を幽体化はできなかった。倒木や崩れた石のアーチを通過し、ゆっくりと、だが確実にケイヤは追いついていった。やがて、一連の苔むした土山とぐらつく木造建築に挟まれた空き地で、彼女はティボルトをとらえた。彼は前屈みになって息を切らしていた。

「あんたの走りはデビルみたいだな!」 息も絶え絶えに、笑いながらティボルトは言った。

「いいかしら? ここで何をしていたのか話しなさい。トロールの群れを焚きつけて何をするつもりだったの? それがあなたの何に役に立つの?」

「おやまあ」 ティボルトはずらりと並ぶ尖った歯を見せつけた。「混沌こそが報いそのものだ。そして少しの大騒ぎこそ、オレを笑顔にしてくれるものだ。けど、あんたには何の関係もねえだろうが。ここはあんたの故郷じゃねえし、ここの奴らと関係があるわけでもねえ」

 確かにその通りだった。けれど終わっていない用事があるのだ。「カルドハイムにとある怪物がいるのよ。この次元の外のどこかから来た。あなた、まさか何か関係はないわよね?」

 ティボルトは首をかしげた。「怪物? おお恐ろしい、足がガタガタ震えちまうな! オレはどっかに隠れてるわ。じゃあ――」

「やめなさい。それに今回あなたのトロールたちは助けに来てくれないわよ。私を止められないみたいだし」

「そりゃそうだな!」 ティボルトはにやりとした。その様子にケイヤは不安になった。「少なくとも、ハギのトロールには無理だ。あんたはあいつらを追い払うのはものすごく上手い、けどあいつらの従兄弟、トルガは――そうだな、そいつらの方がちったぁ上だろうね」

 ティボルトは唇に指を二本あて、そして、ケイヤが初めて聞くほどうるさく鋭い口笛を吹いた。彼女は手で耳を覆って屈み、ひるんだ。それが過ぎるとケイヤは必死に辺りを見回して身構え、トロールの群れが森の中から飛び出してくるのを待った。だがその様子はなく、草むした緩やかな土山と崩れた建物が朽木とともに入り混じっているだけだった。

「図体だけのトロールのお友達は来ないみたいよ。さあ――」

 地面の震えが彼女の言葉を遮り、ティボルトに近い土山が1フィートほど隆起した。彼の笑みもまた数インチ大きくなった。

アート:Simon Dominic

「どうやら、あんたの目も自分が思うほど鋭くはないようで」

 一体また一体と、それらは地面からはがれ、黒い土を辺りに降らせた。ケイヤの傍らで、裏返しになって崩れていた木造建築が震えて木片を不規則に落とした。まるでそれを押しのけて、地面からビヒモスが現れるように。

 それらは巨大だった――身長は少なくとも二十フィート、身体に沿う骨ばった突起は風景の一部にしか見えなかった。最も目を引くのは拳で、それぞれが大岩ほどもあった。長く艶のない髪には苔と草が育ち、木造建築の下から現れたものは厚板や梁を原始的な鎧のようにぶら下げていた。時を耐えてきたように古い顔面の深くには針穴のように小さな赤い瞳があった。一体があくびをしながら立ち、口を開けて黄色くねじれた牙を見せた。

「どうだ、これがトルガのトロールだ。深い眠りから目覚めさせられるのを単純に嫌う」とティボルト。「そして一度目覚めさせられたなら、近くのものを誰かれ構わず引き裂くっていう不幸な性質がある」

「正気?」 ケイヤは罵り、振り返って背後のトロールに対峙した。全部で六体。「あなたも殺されるわよ!」

 その時、背後で聞き慣れない音が響いた――鋭く、さえずるような音。まるで大気そのものが研がれたような。振り返ると、ティボルトが剣を抜いていた。それが驚嘆すべきものだというのは一目でわかった。ガラスらしきもので鋳造されたその剣は、以前に一度だけ見た色彩の残像を宿しているようだった――アールンドから溢れ出ていた光。

 ティボルトの隣に、世界の穴があいていた。ありえなかった。それは宙に浮き、輪郭は尖って粗く、かすかに輝いていた。熱く硫黄臭い大気がそこから溢れ出ているようだった。その裂け目の先に、火山の噴火で裂けた黒い地面が見えた。

 ティボルトはその剣を持ち上げ、彼女へと笑みを向けた。「お守りみたいなものさ。健闘を祈る、けどああ、オレは嘘つきだったな?」

 その言葉とともに、彼はポータルへと足を踏み入れた。すると裂け目が閉じて消えた――ケイヤとトロールたちを残して。

 彼女はできる限りゆっくりと、ダガーを鞘から抜いた。まだ、戦わずに立ち去れるかもしれない。「聞いて――あなたたちを起こしたあの男はたった今逃げた。けど説明をさせてくれるなら――」

 まるで虫を潰そうとするように、トロールの一体が掌を叩きつけてきた。幽体化していなければそれは成功していただろう。だが攻撃を通過させてもなお、その勢いに歯が鳴った。「つまり、やってみるしかないってことね」

 彼女はダガーの一本をトロールの腕に突き刺した――正確には、突き刺そうとした。それはまさしく岩の塊に突き刺そうとするかのようだった。鋭い音が響き渡り、彼女は故郷トルヴァダから持ち続けていたダガーが二つに折れる様を見つめた。ショックを受けたのは一瞬だけだったが、その隙にトロールは手を払い、ケイヤは空き地を吹き飛ばされた。

 頭はガンガンと鳴っていたが、彼女は必死に立ち上がった。これほど強い攻撃を受けたのはとても久しぶりだった。彼女は残るダガーを回し、逆手に持った。「あのダガー、気に入ってたんだから」

 だが彼女は別のトロールの攻撃範囲に入っていた。それは根こそぎに抜いた木を振るい、ケイヤは幽体化して通した。ケイヤは背後に回るとトロールのむき出しの脚を切りつけた。それは分厚い皮をこするように滑り、残ったのは薄いひっかき跡だけだった。「来なさい」そう言うと、彼女は二体目のトロールの裏拳を避けた。

 ケイヤは三体目の脚の間を転がり、掴みかかってきた所をかろうじて避けた。嫌な戦い方をしなきゃいけない。彼女は刃を霊のエネルギーで包み、二本の巨大な脊柱の間を突くと、刃が再び実体化した瞬間に手を引いた。際どいタイミング――だが刃が脊髄の中で実体化すると、応えるように深いうめき声が上がった。地面を大きく震わせ、そのトロールは倒れた。

「次は?」 彼女は他のトロールに向き直った。この小技で今だけは丸腰になったかもしれない、けれど何だってやれる――

 左脇腹に苦痛が弾け、次の瞬間彼女はよろめき、地面を転がっていた。たった今倒したトロールが――今、叩きつけてきたトロールはどうやらそれらしい――ふらつきながらも迫っていた。脚のかすり傷が近づいてくるのが見えた。自然治癒、吐き気の中で彼女はそう考えた。どうしてこの次元では何でも勝手に治るの?

 他のトロールたちは吠えて拳を地面に叩きつけ、半円に広がって太陽を遮った。一対六。これより不利な戦いに勝ったこともあった。けれど、その戦いでは武器があった。ダガーの一本は折れ、もう一本は怒れるトロールに埋まったまま。ケイヤは深く息を吸い、関節に痛みが走ってひるんだ。

「手を貸そうか?」 左の方角から声がした。

タイヴァー・ケル》 アート:Chris Rallis

 この場所の古い、よじれた木の一本に寄りかかっていたのは、赤毛を長く編んだ男性だった。尖ったその耳からエルフだとわかったが、これまでに出会った同類よりも分厚い筋肉が身体を包んでいた。彼がそれを自慢しているのは明白だった――この寒さの中、シャツの一枚すら身に着けていないのだから。様々な魔除けを下げた首飾り、両腕には腕輪、その片方には真鍮のナイフの刃が取り付けられていた。その寛いで呑気な姿勢の中にある何かが、常に若く見える種族であっても、この男をどこか幼く見せていた。

「いつからそこにいたの?」

「貴女が上手くやっていないとわかる程には。非難しているのではないよ! トルガのトロールは一体でも手強い、ましては六体もいるとあっては。私が通りがかったのは幸運だったな」

 ケイヤはうんざりした。トロールたちは今もケイヤを叩き潰そうと全身で示しながら向かってきていたが、一旦、彼女はその男へと顔を向けた。「ねえ、聞きなさい。怪我をするまえにここから逃げて。私は自分でなんとかするから」

「そうかな? 見たところ、貴女は武器を二本とも失っている。一方私には隠し武器があるのだが」

「隠し武器って、手首のそれ?」

「そうではないよ。これだ」 彼は小さく平らな石を軽く放り投げた。そしてそれを受け止め、長い指の間で転がした。

 ケイヤはきょとんとした。「それが隠し武器? ただの石じゃないの?」

 そのエルフは微笑んだだけで、まるで心配事など何もないかのようにトロールへと向かっていった。

「ちょっと! 気を付けて!」 ケイヤは叫んだ。馬鹿な若者――自分だけでなくあの子も助けなければ。もはや、ただ逃げるというわけにはいかなかった。あのエルフを幽体化しようと構えながらケイヤは動いた。だが離れすぎていた。

 トロールたちの様子はどうやら変化がなかった。彼らはこの新たな敵も同じように引き裂きたがっていた。エルフが近づくと、トロールの一体が泥まみれの拳を振るった。エルフは歩みを緩めないまま、脇に避けた。

 素早い、ケイヤもそれは認めた。幽体化する力がなくとも、動きの鈍いトロールたちがそのエルフを捕えるのは不可能に思えた。トロールたちはエルフを殴りつけたが、彼は横に跳ね、拳が地面を叩いた。両手で叩きつけるとエルフは宙返りでかわし、一瞬前に彼が立っていた場所でトロールの両手が鳴った。まるで煙をとらえようと、稲妻を瓶に詰めようとしているようだった。一度ならずケイヤは、彼が必要以上に長くその場に留まるのを見た。余裕をもってではなく、すれすれで敵の攻撃をかわしていた。見せつけているのだ。

 その一方で、あの石を掴んだ拳に変化が起こった。エルフの腕と手の皮膚が次第に光沢を帯び、石とほぼ同じ灰色へと変化したように見えた。トロールの一体が足の速いエルフを丘の下の岩盤に圧し潰そうとすると、彼は不意に前方へと跳ねた。そして腕に取り付けた真鍮の刃で敵を攻撃はせず、石と化したその手でトロールの脚に触れた、それだけだった。

 不意に、若きエルフの腕を覆っていたものと同じ変化がトロールの脚にも素早く広がり始めた。元々まだら模様でごつごつした緑灰色の皮膚が、ざらつく岩へと変化した。その変化は波打つように上半身に広がり、恐るべき速度で這うように上昇していった。鈍重なトロールですら、気が付いて驚きに顎を落とした。すぐに石の波が顔面を覆い尽くし、驚愕の表情でトロールはその場に凍り付いた。

 木の幹を持ったトロールはそのエルフへと大きな弧を描いて振るった。彼はそれをまっすぐに跳び越え、しなる二本の枝の間に身体を傾けて通過し、その先へと転がり出た。そして灰色をした石の手でトロールの肘に触れた。瞬時に、そちらも岩と化した。

 エルフは次の攻撃をかわし、次のトロールを石に変え、また続けた。全てが終わるまで一分もかからなかった。トロールが全て倒されると、そのエルフは自ら刻んだ彫像を誇るように、手に腰を当てて立った。自惚れがありありと見え、ケイヤは感心したことを認めたくなかった。「悪くなかったじゃない、坊や」

 表情を苦くし、彼はケイヤを見た。「そのように呼ぶのはやめてくれないか?」

「なら何て呼べばいい?」

「タイヴァー・ケル。スケムファーのエルフの王弟であり、あらゆる領域に名を轟かす英雄だ。そして貴女の命の恩人でもある」

「じゃあ、タイヴァーくん」 彼女は驚きを見せないよう努めた。「私はケイヤ。助けてくれたのはとてもありがたいけれど、そんな英雄さんが森の中で何をしていたの? まさか私を追って?」

「貴女ではないよ。ヴァルキーだ」

「ヴァルキーじゃないわよ」 ケイヤは折れたダガーの所へと向かった。彼女はその金属片を鞘に収め、柄はベルトに引っかけた。「あいつの名前はティボルト」 ダガーが埋め込まれたトロールはどれだろうか? 見分けるのは困難だった――今や全て彫像と化しているのだから。彼女は片手で触れ、注意深く調べた。完全に石と化しており、ケイヤは小声で罵った。

「私もそれは把握した。貴女の手際よい呪文のおかげでな。あの男についてはずっと疑っていたのだ。少し前に、あの男は我が兄の宮廷に現れた。兄ヘラルドにどのような嘘を吹き込んだのかは定かでないが、その訪問以来、エルフは戦の準備をしている。神々へ攻め入るという噂だ」 ケイヤが振り返ったその瞬間、彼がそれまで見せていた虚勢と尊大さは消えていた。幼く、不安であるように見えた――直後に背を伸ばしたが、ケイヤが見逃すほど素早くはなかった。ティボルトが彼の民を悩ませているというなら、少々の不安を抱く彼を責めることはできなかった。

「だが、軍勢をいかにして神々の領界へと向かわせようというのか」 タイヴァーはそう言い終えた。

 ああ、そうか。「ドゥームスカール。アールンドが言っていたわ、ドゥームスカールが迫りつつあるって」

 その言葉に、タイヴァーは背後に並ぶトロールの彫像のように唖然とした。「ドゥームスカールが? そして貴女はアールンドから直接聞いたというのか?」

「ええ。いい男だったわね。船を貸してくれたし」

「そして――そのティボルト。その男は貴女の敵なのか?」

「友達じゃないのは確かね。何にかまけているのかは知らないけれど、何にせよ厄介よ」

「ならば共にその男を追おうではないか。明らかに貴女には私の力が必要だ」 その微笑みに、ケイヤはまたも怒りそこねた。そんな心構えでは、この若者は死に向かっていくことになる。だがそこまで世話はできない。「聞いて、私には別の用事があるの。不細工な角が生えた悪人を片っ端から追いかけてる暇はない。そうじゃなくても、どうやってあいつを追えばいいのかもわからないし」

「それはどういう意味だ?」

「あいつ、ポータルか何かを開く剣を使ったのよ」

「その先の様子は見たのか?」とタイヴァー。

「少しだけ。開いてたのはほんの一瞬だったから」 ケイヤは思い返した。「けど炎が見えたのは覚えてる。それと、地面は焼け焦げたみたいに黒かったわね」

「イマースタームだ」とタイヴァー。その名前は鉄の重しのように胃袋に落ちた。インガがその地の物語を囁くのを聞いていた。デーモンの領界。タイヴァーは不可解なことに、それを聞いて興奮したようだった。

「そうね、あの魔法の船が流れてくるのをたまたま見つけない限り――」

 だがタイヴァーは既に目を閉じていた。彼は目の前に両手を伸ばし、ケイヤは反射的に一歩後ずさった。ゆっくりと、周囲の大気が、マナの流れが曲がってよじれ、輝く組み紐細工の複雑な模様を描いた。これに似た魔法を以前にも見ていた――アールンドが他の領界への扉を開いた時に。あれはほぼ瞬時に出ていたが、基本は同じだった。それが揺らめく星界へ開くと、彼女は両耳に奇妙な減圧を感じた。まるでこの辺りの大気が不意に薄れたかのように。そしてタイヴァーは目を開けた。二人の目の前に、扉が立っていた。

「一体どこでそれを学んだの?」 ケイヤは深く息をした。

「スケムファーの術師たちは技巧の達人でね。そして私も達人中の達人に数えられる」 彼は歯を見せて笑った。「私はカルドハイムのあらゆる領界を巡ってきた。私の天賦の才はそれぞれ少々異なった形で現れるのだが」

 ケイヤは一歩近づき、何かが目にとまった。タイヴァーの首飾りに並ぶ魔除け、骨と宝石とよじれた金属片の中に、黒ずんで小さい八面体の石があった。その側面を覆うのは細かく、精密な彫刻――見覚えのある形。けれど、ここにあるはずがない。

「ああ」 タイヴァーは彼女の視線に気づき、その小さな石を光に掲げた。「自由に見てくれていい。英雄譚にも語られていない、とある辺境の領界で見つけたものだ。確かその名は――」

「ゼンディカー」 タイヴァーの言葉をケイヤは遮った。「びっくりした。あなたプレインズウォーカーなのね」

 彼の笑みと自信が揺らいだ。「その、プレインズウォーカー、とは何だ?」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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