MAGIC STORY

カルドハイム

EPISODE 02

サイドストーリー第1話:風は何処へ吹いている

Setsu Uzume
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2021年1月8日

 

注:この記事は二部に分かれた物語のその1で、次回に続きます……


 石と海の戦士を百人は収容した長広間。アザラシの脂肪と塩漬け肉の匂い、かまどの煙が立ち込めていた。カルドハイムには太陽も月もなく、夜は長くなるばかりだった。ニコ・アリスがまとう新品の胸鎧と肩甲には、櫓や鮫のヒレに似た作りの杖やルーン石の魔除けが放つかすかな光と、火鉢にこもる輝きがきらめいていた――まるでこの競技者が、凍り付くこの地までも夏の太陽を持ち込んだかのように。

アート:Eric Deschamps

 ニコは日焼けした指の間で丸石を転がし、その重さを量った。船乗りたちは別の氏族だった。彼らの顔面と腕には青色の刺青で同心円が描かれ、ニコの技術を探り疑うたびに、海のように波打った。

 卓の奥では七人の戦士がV字型に並び、角杯を手に持ってにやにやと笑い、あるいは顔をしかめていた。一人の船乗りだけが目を覆っていた。

 平静を保つニコの左にはキーエル、茶色の肌をしたカナーの神秘家がいた。この男は雪狐の毛皮を幅広の肩に張り付けるように広げ、首に下げた緑色のルーン石の鎖がその白い毛皮へと不気味な光を投げかけていた。編まれた髭をまとめる銀の飾りは、喋るたびに音を立てた。「三つ当ててからど真ん中だ!」

 集まった者たちにとっては、賭け事だった。ニコにとっては、自らの技の披露だった。ニコは踏み固められた石の床に片足を滑らせながら石を投げた。四肢の動きは精密で狙いは定かだった。石は一つの角杯に当たり、鉄製の皿の上を跳ねて進み、別の角杯に当たり、そして卓の奥にいる青い外套の船乗りが持つ杯の中へと音を立てて入った。その女性は唇を噛みつつ石を取り出し、他の者たちは笑い、歓声を上げた。

「上手いじゃないか、あんたら。その鎧は持って行きな」

 ニコは両手を広げてお辞儀をし、戦利品を身にまとった――カナーと領界路探したちが友好の証として交換した、だが不釣り合いな贈り物。このジャットモーへの彼らの訪問を祝すものだった。

 ジャットモーの居留地は、海と森との間の中立帯は築かれては燃やされ、また築かれてを数度繰り返してきたもので、焦げた石の基礎が海岸のすぐ近くに、折れた歯のように立っていた。現在残る建物はジャットモーの長広間、燻し小屋、そして巡回の罠師が避難所として用いる崩れかけの小屋だけだった。

 他の者たちは長広間の奥で燃やされている巨大な暖炉へと向かい、キーエルは温かい飲み物の入った石の杯をニコの手に押し付けた。「お前のためには、もっと難しくするべきだったな」

「じゃあ、次は転がってやりましょうか?」

「そして七本樹のエギルの英雄譚を聴かせてやるか? こいつらは失われた領界の七本樹を知ってるんだろうか。気にしなくていい、教えてやる。その鎧は馴染んだか?」

 大熊の背に乗って二週間の間、凍り付くツンドラの困難な旅をするよりも快適だった。到着した時の薄い衣服とサンダルの上に、分厚くかび臭い毛皮をまとうよりも快適だった。運命の工作員に追い詰められるよりも、そしてめくるめく色と音の変幻へと踏み入ってこの地へと、自由へと踏み入るよりも快適だった。

「いい感じです」 ニコは鎧の前面を撫でた。それは鋼板が埋め込まれた革製のコートで、その下には毛皮で裏打ちされた詰め物入りの布鎧、幅広の戦闘用ベルトがついていた。ニコが着ていた藍色の上質な衣服は縫い直されて両脇腹の部分に見えていた。テーロスの戦利品のように、ニコが置いてきた人生のように。泥の上に地図を書きながら、両者とも譲れない徹底的な議論を経て、テーロスとはカルドハイムの失われた領界、世界樹の折れた枝なのだとキーエルは結論づけていた。

 ニコは杯を空にした。「移動するまでどのくらいでしょうか?」

「蛇狩りのフィンがフリスの終わりを宣言するまでは留まる」 キーエルはそう呟いた。「冬が噛みついてくる前にフィンを急かすから、心配するな」 彼はカナーの人々が占領する一画を身振りで示した。熊の戦士たちは卓や椅子の上に座っていた、まるでそれが岩場であるかのように。休息中であってもカナーの人々は大地のように荒々しく、武器と毛皮で縁取られた鎧で膨れ、彼らが騎乗する巨大な白熊のように猪の焼き串と席とを往復していた。ニコは偶然彼らの通り道に出くわし、この生ける雪崩に巻き込まれ、疑問を口にする間もなく毛皮を着せられ食べ物を与えられたのだった。カナーの占い師であり一帯の地勢に詳しいキーエルは、二十人の熊乗りたちを森から危急の任務へと導きながら、道中ニコへの助言を絶やさなかった。

「フリスは客人の権利、でしたっけ?」

「俺たちの縄張り内でなら、そうだ。けれど外に出たら、平和と休戦の方が大切だ」 賭けの時にキーエルが見せていた陽気さが、もっと深刻な何かへと強張った。

 冬そのものが彼らを執拗に追跡していた。カナーが自分たちの森を離れると、例外なく柔らかな雪が追いかけ、霰と雷がそれに続き、やがて氷の槍がカナーを引き返させるか死に至らせる。それは古の神の呪いであり、カナーは新たな神へと懇願したが無視されていた。カナーが自分たちの土地に留まり続ける限り、周囲は安全だった。一方、呪いよりも悪いものもあった。

 キーエルはルーンで輝く杖を卓の端に立てかけた。「石背のオラフトはヴェドルーン……領界路探しの言葉でルーンの司祭だ。警戒心が強い。冬が彼らを捕える、あるいは出発の妨害をするかもしれないと考えたなら、ここに船を上陸させなかっただろう。フィンも立ち往生したかもしれない――戦いの中で呪いを活用したのは初めてではないだろうが」

「呪われていない者の所にわざと冬を持ち込んだのですか?」

 キーエルはかぶりを振った。「ここに来たのは協議のためであって、争いじゃない。『求める者には食物と屋根を分け与えよ』、フリスはそう定めている。まあ、ちょっと格好つけてるのかもしれないな、神々に見せつけるために。けれど悪いことじゃない。肘鉄を食らわせた物乞いは、変装したアールンドかもしれないんだ」

 アールンドは知恵の神、キーエルはそう説明していた。とはいえニコにとって、謙虚な神というのを想像するのは難しかった。エファラ神は善き者全てにその知恵を分け与えるが、身をやつして定命の中に紛れ込むなどいうことは決してしない。アクロスのようなもっと荒々しい場所でも、ケラノス神の天啓は稲妻のように閃いて与えられ、精神を活性化させて結果をもたらす――その神は策略や試しといったものを我慢できないのだ。

「皆さんの神々はそんなふうに姿を現すのですか? 仰々しくなどなく?」

 長い三つ編みの女性が暖炉のそばに座ると、会話と笑いの鈍い咆哮が燃え上がった。

「そう言われている。あるいは俺たちを行儀よくさせておくための、ただの作り話かもしれないがな」

 ニコは銀青色の髪を目の上から払った。「どちらが真実?」

「両方だ。さっさと食べろ、そうしたら熊の世話だ」

アート:Eric Deschamps

 有名無名の氏族員が長広間を通り、ベルトに刺したナイフを抜いて肉の塊を皿に切り落とし、火鉢に追加の薪をくべ、杯に甘く温かい飲み物を注いだ。船乗りや戦士、狩人、罠師たちが暖炉の周りに群がってその女性の物語を聴き始めると、広間に散らばる卓と椅子は空になっていった。辺りが静かになり、ニコもその女性の言葉を、深く豊かな調べとともにたやすく聴くことができた。

「……嵐をはらむ漆黒の翼が広げられ、帆裂きのトゥーラを取り巻く戦いに影と嘲りを投げかける。この日、トゥーラは死から逃れられないのだ。戦乙女の目にかなう唯一の死……」

 つぎはぎの毛皮とぼろぼろの分厚いローブ、すり減った鎧を着た十五人が、語り手を取り囲むように群がって座していた。語り手の女性は両手を広げた。編み髪は炎の明かりに艶めいてきらめき、鮮やかな紫色の瞳はその影の中にきらめく双子星のようだった。

「……だが戦乙女は常に対で飛ぶ。そして帆裂きは自らがとるべき道を知っていた。その刃を家族の血で汚すか、シュタルンハイムにて栄誉の座を得るか。かつての友、かつての兄。獣じみて泡を口に浮かべ、同族殺しが塵と煙の中から現れた。氏族を示す印は傷つき汚れ、もはや読めず――そして帆裂きは……武器を落とし……」

 熱中する聴衆から離れていながらも、まばらな人々が動きを緩めて耳を傾けた。初々しい若者は格子模様の遊戯版に使う骨片を弄ぶ手を止めた。強壮な老人たちは猪の焼き串から肉を切りながら、噂をするように含み笑いをした。

「……同族殺しは飛びかかり――帆裂きは突き、ふたりは一族のみが知る危険な戦いに突入した。やがて、帆裂きは剣をもぎ取り、同族殺しを地面に投げ、裏切り者自身の刃をその心臓に沈めた。誓いを立てたその大地へと……」

 ニコはあまりに夢中になっている別のカナーから、食べかけの燻製肉が乗った皿を奪い取った。靴と武器の森の下で、一匹の大きな灰色の猫がニコの目にとまった。分厚くふわふわした毛皮をまといながら、それは集まった戦士たちと同じほどに大きく手強く見えた。空色の光がニコの手から囁き出て、掌に小さな鏡が形を成した。正確な投擲で、それは猫へと滑るように向かっていった。両耳をぴくりと動かし、猫は飛びかかった――だが鏡は消えた。

「……復讐は果たされ、血たぎる怒りの波は今や凪いだ海のように鎮まり、帆裂きは膝をついた。心臓が鳴るごとに、その血に流れる毒は深くへ……」

 猫は尾を振り、鼻を鳴らし、ニコは次の鏡を投げた。それは飛びかかり、銀色の破片を叩き落そうとしたが、その前に消えた。ニコは三つめの鏡を投げた。猫は油断なく鼻を鳴らし、前足を上げて叩こうとし――そこでニコはまた別の鏡を出し、それによって猫の目の前でまたもや鏡は消えた。猫は身体を強張らせると、ニコが床に反射させた光が照らす箇所の匂いをかぎ、ニコへと目を狭め、そしてゆっくりと向かってきた。

「……帆裂きのトゥーラ、誓い守りのトゥーラ、呪い破りのトゥーラは、倒れ死した。戦乙女ふたりが翼を広げ、彼女の偉大なる行いを称えた。その勝利と過ちを……」

 ニコは猫の鼻先へと鏡を突き出した。猫は喉を鳴らして牙を見せ、ニコの指にそれをこすりつけようとした。だがニコが撫でようとするよりも早く、猫は鏡に噛みつくと獲物を楽しむために人のまばらな卓の下へと駆けていった。ニコは魔法を呼び戻し、鏡は無害に割れて消え去った。

「……戦乙女は答える、あらゆる死者が口にする問いへと。裏切り者はイストフェルへ、だが勇者は――彼女はシュタルンハイムにその座を得たのである」 語り手を取り囲む群衆は歓声を上げ、杯を掲げるとそれを飲み干した。

 猫は何もない床からニコを見上げた。騙された、という顔で。

アート:Raoul Vitale

 ニコはくすりと笑い、顎に四角く生えた無精髭を指で撫で、顔を上げた。語り手がニコを見つめていた。

 その女性は炎から小さな椀を取り上げ、誰か新鮮な雪を集めてきてくれと尋ねた。一人の称賛者が自身の足につまずく勢いで従った。語り手はその女性とすれ違うと、一直線にニコへと向かってきた。

 語り手は夏を思わせる笑みを浮かべ、招かれずともニコの向かいの椅子へと腰を下ろした。キーエルは顔をしかめて他のカナーたちを席から追いやった。「ずっと炎の前にいると、あの猪みたいに焼かれちゃう」 彼女はニコを品定めするように見、そしてキーエルへと質問を投げかけた。「占い師さん、長い旅をしてきたのでしょう?」

 キーエルは寛いだ様子でニコの隣に座ったが、その声にあった陽気な鋭さはなりを潜め、鷲の影を察した兎のような警戒をまとった。「これほどの美女との出会いがあるとは、長く旅をしてきた甲斐があるというものだ」

 彼女はふん、と鼻を鳴らした。「その言い回し、どのくらい練習した?」

「毎日だ。熊どもが好むからな」

「ええ、カナーについては私も聞いている」 彼女はくすりと笑った。雪が入った暖かな鉢を称賛者が手にして戻ると、中身はほとんど融けていた、彼女はそれを椅子の近く、蹴られないような場所に置いた。「強敵ちゃん!」

 ニコは身体を強張らせ、鏡を呼び出そうと身構えた。だがその女性の声を聞き、あの猫が鉢の所へとやって来た。語り手は猫を優しく撫でた。

「あなたの猫なんですか?」

「ジャットモーの猫ね。それとも船の、かしら。ネズミを捕ってくれるのよね。私は色々な所から来た色々な異邦人に会ってきたけれど、私の話にこんなに興味を持ってくれない相手は初めて」

 それが自分のことか猫のことなのか、ニコにはわからなかった。半ば反射的にニコは宮廷や公的行事に参列する際の表情を作ったが、称賛を述べるよりも早く、キーエルがニコの肩甲を叩いた。

「ビルギ、こいつはニコ。俺たちと一緒にいる限り、カナーの一員だ。ニコ、こちらはビルギ、幸運の賜物そのものだ」

 ビルギはニコへと目配せをし、ニコは銀髪の一房を払いのけた。「お会いできて光栄です」

「熊乗りのニコか? 氷足のニコか?」 キーエルがからかった。「こいつには偉大な運命が約束されている」

 ニコは既に偉業を成していた。投槍の正確さでは並ぶ者のない、無数の競争と試合を制した無敗の勇者。故郷では有名人だった。ここでは無名、だが新鮮な気分だった。「私はもういい靴を手に入れたから、氷足は別の誰かにあげてください」

「偉大な行いから名が生まれる。お前が自分で選ぶんだ」 別の称賛者が語り手へと、蜂蜜酒の杯と油漬け魚の切れ端が載った皿を運んできた。彼女は頷いて感謝を伝え、食べ始めた。「偉大な行いといえば、オラフトの姿が見えないわね」

「石背のオラフトはまだ船にいる。フィンも一緒だ」

 小さな震えがあった。まるで荷物を満載した荷車が橋を渡るような。

 キーエルはにやりとした。「今のを聞いたか? あいつらの大仕事が始まるぞ!」

 ビルギは目を丸くした。「領界路ってこと? ただの天気でしょ。何で蛇狩りが船乗りに会いにきたの?」

「悪い夢だ、ターグリッドの影並みに」とキーエル。「解釈が必要でな」

 ビルギは身を乗り出し、無言で尋ねた。

 キーエルもそうすると、フィンが自分たちへと語った内容を繰り返した。「何もない湖の上、砕けた船着き場。蛇の鱗の悪臭、そして三つの星が瞬いて――」

「シュタルンハイムが……瞬いて?」 ビルギが囁いた。

「瞬いて消えた」 キーエルはそう締めた。「星界の大蛇が檻を破り、真っ先にその光を飲み込むだろう」

「大げさすぎ」 ビルギは座り直した。「若い頃の夢は歳をとったら後悔になる、そういうことよ」

 キーエルは両手を広げた。「そうか? フィンは星界の大蛇の身体から鱗を一枚はぎ取って、盾にしているんだ。フィンとコーマは繋がっている。片方が相手を揺さぶったとして、そんなに信じ難いか?」

「あの男が肩に乗せた大きな斧は本当に見事、ってのは信じるわ」とビルギ。「どうしてそれでオラフトの所へ?」

「領界路探しの魔法が、大蛇に触れた血を必要としているのかもしれない。それとも古い借りを返すのか」 キーエルは細長い魚の骨を口から取り出し、皿の端に落とした。「あるいはシュタルンハイムへの脅威は、俺たち全員への脅威ってことか」

 氏族に対するその役割上、キーエルは常に警戒を怠らないが、おどけた物腰がそれを覆い隠している。だが蛇狩りのフィンはそのような遊びとは無縁だった。その男は雪崩のように迫る熊の戦士の先頭に騎乗し、巨大な鱗の盾を背負い、片手に大斧を、もう片手に手綱を掴んでいた。彼自身の乗騎は苔の緑色で、黒色の歯茎の間から荒い息を白く吹き出していた。この男は筋骨隆々とした狂戦士や盾の戦士、キーエルのような司祭を率いていた。そのような者たちは夢想することも、氏族の外へと軽々しく手助けを願うこともない。

「どうしてこの人に全部話すのです?」 ニコはキーエルへと尋ねた。

「噂話はすぐ広まるもの」 ビルギは肩をすくめた。「それと、あなたはナイフも杖もルーンも持っていないわね。退屈な人物のふりをしているけど、かえってそうは見えないわよ」 彼女は魚の切れ端を飲みこみ、両手それぞれに角杯を掴んだ。「小ネズミさん、いらっしゃい。熊に水をあげましょう」

 二人はビルギに続いて広間を出ると、凍り付く薄明の中へ入った。

アート:Kieran Yanner

 ビルギの靴がぬかるみを踏みつけ、枯草が泥の中に潰れた。「知ってる? 石背のオラフトって名前の由来は、刺されたけれど何時間も気づかなかったから、だって」

 領界路探しの船乗りたちとカナーの戦士たちはそれぞれ数人ずつが固まって静かに話していたが、彼女が通り過ぎると背筋を伸ばした。遠くで、熊たちがうるさく音を立てていた。

「背中を刺されて内臓に届かなかった? 本当でしょうか」 ニコは疑問を呈した。

 長広間のすぐ外、石のように堅い切株の幾つかには領界路探したちが座っていた。彼らの頬は赤く、腕まくりをしていた。ビルギが一つの角杯を手渡すと、彼らはそれを回しつつ貪欲に飲んだ。

「それでもその名前は定着して、伝わっていった。真実になったのよ」とビルギ。

「権力者は行為を飾り立てるものです。あるいは称賛者たちが彼らのためにそうする」とニコ。

 ビルギは振り返り、もう一つの角杯をニコへと渡した。「小ネズミさん、君は医者にも占い師にも見えないけど。傷跡を見てその原因がわかるのかしら?」

 ニコは腕を組んだ。代わりにキーエルが角杯を受け取り、おざなりに口にした。ニコにはその目的がわからない儀式に、礼儀正しくも嫌々参列しているかのように。

「背中を刺されて気付かないなんてありえません」とニコ。

「事故でも?」 柔らかく、ビルギは尋ねた。

 カナーの一団が騒々しい笑い声を上げながら波のように戸口から飛び出し、小便をするため風下へ向かっていった。

 ニコはかぶりを振った。「全然信じられないですよ」

「石背の話は真実だよ、蛇狩りよりもね」

 ニコは振り返った。そう言ったのは一人の領界路探しだった。長広間の壁にもたれかかり、肩は逞しく、顔は紅潮していた。彼女はニコと目を合わせると、雪へと唾を吐いた。

 キーエルは舌打ちをし、角杯を澱まで残らず飲み干した。

 ビルギはニコへと目配せをした。「真実への覚悟はいい、小ネズミさん?」

 甘い声であざけるように、キーエルがその領界路探しへと声をかけた。「何か言ったか? 魚の小便でうがいをしてる奴の声は聞き取れなくてな」

 領界路探したちはカナーの一団を肩越しに降り返ると立ち上がり、キーエルへと近づいてきた。親指をベルトや装具の紐、あるいは武器が収められている場所にかけながら。新しい手袋の中でニコの指がうずいた。あからさまな脅しではない。

 今はまだ。

「俺の兄貴は石背の船に乗っていた、あの攻撃があった時にな。そしてその傷を見た」 磨かれた鋼のような両目をした背の低い男が、凝視をビルギへとちらつかせた。そして威張るようににやりとして黒髪を払った。

 取り巻きがそれを支持した。「フィンの奴は名を証明できるのか?」

「兄貴はその現場を見てないんだろ」 キーエルが鋼の目を冷やかした。「どうせ寝てる間に刺されたんだろ? ごてごてして家が丸々載ってる船で!」

 更に何人もの戦士たちが、口に食べ物を入れたまま長広間から現れて近寄ってきた。全員が酔っていた。彼らは凶兆の知らせによって集められ、そして指導者たちは声の届かない所にいる。ニコは介入しようと、この状況を伝えに行こうと動いた――だがビルギが両肩に手を置き、止めた。

 鋼の目は歯をむき出しにして笑った。「苔舐めは青臭いキノコでも食ってろ。森の巣に逃げ帰れ」

 ビルギの首筋と肩の刺青が水色に揺れ、紫色の両目が燃え上がった。「カナーさん、どう答えるのかしら?」

 ビルギの呼びかけを追うように、罵声の波が広がった。酔った熊乗りたちも気づき、船乗りたちの群れの背後へと重い足取りでやって来た。緑色をした鋭角の刺青をむき出しの肩に入れたカナーが、キーエルと鋼の目の間に滑り込んだ。二人は身構え、だが領界路探しは引き下がらなかった。

「もう一度言ってやろうか?」 鋼の目が言った。「蛇狩りがやり合った蛇ってのはそいつの――」

 粉砕音と血飛沫を上げ、その侮辱はカナーの額と領界路探しの顔面の間で途切れた。

 キーエルはニコを背後に押しやった。守るためではなく、喧嘩の中へ飛び込むために。今やその場の誰もが腹に膝蹴りを入れ、喉を肘で突き、殴り、叩きつけていた――荒々しい笑い声と苦痛の叫び。あるカナーの肘が引かれて別のカナーの歯が砕け、そこで一人の船乗りが彼らに迫ると宙へ放り投げ、カナーたちは地面に背中を強打した。混乱の外から何かが視界の隅に閃き、ニコは咄嗟に脇に避けた。飛んできたものが鋭く刺さる音がした。

 クジラの骨。ニコの頭があった場所の壁に、領界路探しの武器が刺さっていた。

 その全てから離れて、未だ綺麗な雪の上で、ビルギが焦げた石壁に背を預け、刺青を輝かせながら、笑みとともにニコを見下ろしていた。

 ニコは凍り付いた。衝撃だった。ブレタガルド人には異邦人をもてなす多くの掟と物語があり、それらは儀礼的にフリスと呼ばれている。ビルギがこれを引き起こしたのだ、角杯を両側に渡して。船乗りたちに聞こえる距離で、自分へとオラフトの行いへの疑問を抱かせた――けれど何故?

 キーエルの叫びにニコははっとした。戦場の中で彼は旋回し、舞い、杖をひらめかせて領界路探しの二人を避けた。だが三人目が近づいた。

 ニコは攻撃の下をくぐり、斧とダガーを身軽にかわしながらぬかるみを進んだ。一人のカナーがニコと攻撃の間に飛び込んで屈み、ニコは跳び、転がり、その先に広がる戦場に着地した。

 ニコは両手を広げた。銀の欠片が凝集して鋭く尖った鏡となり、ニコの周囲をオーラのように周回してかすかな青い輝きを描いた。ニコは両手それぞれに破片を掴み、ダガーの形状へと伸ばし、一本また一本と的確な狙いで投げた。一人また一人と、キーエルを攻撃していた者は胸にそれを受けた。鏡の罠は、命中した相手が千粒ものガラスの破片へと砕け散る幻影を残し、標的を完全に吸収する。何も知らなければ、その武器は犠牲者を完全に抹殺したように見えるだろう。だが彼らは安全かつ痛みもなく、突き立てられたダガーの中にとらわれているのだ――そして破片は回転し、二本とも雪の吹き溜まりへ無害に刺さった。

アート:Aaron Miller

 キーエルに迫った三人目はこの絢爛たる技を見ておらず、彼の視界の外から切りかかった。ニコが次の破片を用意したその時、三人目がキーエルの腕を切りつけ、布地が裂けて肉を切り裂く音が聞こえた。占い師はびくりとして後ずさり、泥とぬかるみによろめいた。その隙に、領界路探しはキーエルの髪を掴むとその顔面に膝蹴りを叩きこんだ。

 ダガーを作る余裕はなかった。鏡の罠をもう一つ作り出したなら、エネルギーをそれに吸われて最初の二つを解放せざるを得なくなるだろう。それは安全とは言えなかった。ニコは三つめの鏡を短く平たく、掌に乗るほどの槍先の形にした。藍色の光がその痕跡を描いた。

 キーエルは雪に血を吐き捨てたが、頭がふらついている様子だった。領界路探しは得意そうな笑みでキーエルを見下ろし、近づこうと踏み出した。その足が地面を離れるや否や、ニコは鏡を投げた。

 石が皿の上を跳ねるように、平らな槍先が領界路探しの靴の下へと滑り込んだ。その女性は滑って派手に転び、凍った泥に頭を強打した。

 一つの鏡を回転させて戦況全体を確認しながら、ニコはキーエルへと駆け寄って身体を起こさせた。彼は呆然とし、鼻と唇から流血していたが歯は折れていなかった。その髭と狐の白い毛皮に血がまだらに散っていた。「ひゅう。今のやつの痛みは明日くるな」 怒るよりも楽しむようにキーエルは言った。「あの二人を氷にしちまったのか?」

「実際よりもひどく見えますが、無事ですよ」 ニコは領界路探しの手からナイフを引き抜き、その時、旋回する鏡の中に何かが閃いた。二つの罠は雪の中にきらめいていた。キールを攻撃した三人目は無力に横たわり、小さくうめいていた。そして自分たちは古い小屋を挟んで大きな一団からは離れていた。だが別の何かがいるのだ。見られている。

 背後の屋根の上に、翼を持つものが立っていた。長身で、美しく、恐ろしい――その純白の羽根は、冬のように青く清純な月光を放っていた。黄色の髪が濃茶色の顔を縁取り、灰色の苛烈な両目が興味とともにニコを見つめていた。

 ……戦乙女の目にかなう唯一の死。

アート:Campbell White

 彼女たちは見つめていた。ニコがその領界路探しにとどめを刺すのを待っているのだ。

 自身の両目、浮遊する鏡、そしてナイフの刃を用いて、ニコは全ての方角を一度に探った。物語の中では、戦乙女は常に対で飛ぶ。ニコは他の誰かを連れて行かせたくはなかった。

 雨とみぞれに穿たれた岩の上に、その戦乙女の片割れがいた。もっと淡い茶色の肌、きらめく黒髪を長く整然と編んでいた。その漆黒の翼には瑪瑙の緑の光が揺らめき、鎧はもう一体とは対照的に黒かった。

 ニコは息をのんだ。戦乙女がここにいるのは、誰かが死につつあるから。

 キーエルがここにいるのは、彼の楽園が危機に瀕しているかもしれないから。

 ニコがここにいるのは、説明する余裕がなかったから。

「キーエル、その人を安全な所へ」 ニコはそう言い、骨のナイフを投げ捨てて最後の罠を掌に乗せた。

 キーエルは尋ねず、素早くその通りにした。

 優雅な動きひとつでニコは立ち上がり、構え、そして銀の閃きを漆黒の翼へと放った。

 戦乙女は振り返る余裕すらなかった。罠はその翼のまさしく中間点に命中し、身体は千もの鏡の破片の幻影となって砕け――そして柔らかに、無害に雪へと着地した。

 罠は満員、だが今だけ保てば良かった。ニコは灰色の翼の方を振り返ることなく駆け出し、戦乙女の破片を雪から拾い上げると魔力を呼び戻し、最初の二つの罠を解放した。領界路探しふたりは雪の中に転がり、まごついたが怪我はなかった。ニコは二人を留めていた力を残らず最後の破片に込め、全ての面を強化し、境界を破ろうとする戦乙女を押し留めた。

 ニコは岸へ、船へ向かって駆けた。戦いを止められる戦士を呼んでくるのだ。彼らの司令官たちを。

 ニコは片手をついて船の側面を跳び越え、その先に転がり込んだ。海水がうねり、飛沫を上げた。ニコは戦乙女の破片を抱えたまま転がり、立ち上がった。

「オラフトさん!」

 侵入者に気付き、年長者ふたりが振り返った。フィンの金属鎧は熊の毛皮を挟まれていながらも鋭い音を立て、髭を飾る緑色のルーン石が桃色の皮膚へと不気味に輝いていた。

 領界路探しの方は茶色の皮膚にがっしりとして分厚い体格で、クジラのヒレに似た彫刻が先端を飾る木の杖を掴んでいた。頭は剃られ、優美な形の頬骨が広く髭のない顔の形を定めていた。緑と青のローブの裾は青一色に広がり、何かの海獣から引き抜いた長い牙の首飾りで留められていた。両腕と下腹部は露出され、頭頂部から指先までを青い円の刺青が飾り、淡緑色の両目はその地形の中の目印のようだった。この人物こそが石背のオラフト、キルダ海とこの船のヴェドルーン。そして機嫌は良さそうではなかった。

「お前か」 オラフトが呟いた。

「ニコ、何故一人でいる? キーエルはどうした?」 フィンが尋ねた。彼はニコと船の甲板、海図のように刻まれた黄金の線との間に踏み入った。

 ニコは素早く説明した。「全員が争っています――武器を持って、流血沙汰になっています。皆をけしかけた女性がいるんです。止めなければ!」

「女性とは?」 フィンが尋ねた。

「ビルギさんです――皆、我を失っています」 ニコはあの破片を護符のように差し出した。黒翼の戦乙女がその中で抵抗するのを感じた、まるで鷹が小鳥の檻の中で暴れるように。だが大したことはなかった。戦乙女は鏡を中から叩き、薄茶色の両目が光にひらめいていた。

 フィンとオラフトは即座にその意味を悟った。戦乙女の存在は死を意味する。

「それは完全にお前が抑えているのか?」 フィンが尋ねた。

 彼が「それ」と言う際の渇望をニコは気に入らなかった、「閉じ込められていますが、こちらの声は届きます」

 水平線上で、地震が起こるはずのない場所で、海が咳払いをするように鳴り響いた。オラフトは肩越しに振り返り、その杖がまるで別の世界の夜明けのように金色に輝いた。

 フィンは滑らかな動きひとつで斧を肩に乗せた。年齢によって力や動きが衰えている様子は全くなかった。「俺はスコーティを何とかする。お前はこっちだ」 奇妙な盾を取り上げながらも、フィンの両目は戦乙女の破片を見続けていた。「決定は戻ってからだ」

 オラフトは不満そうに同意した。

 フィンは船の手すりを跳び越え、砂の中に着地し、大喧嘩の中へ大股で向かっていった。まるで熊がリスたちの仲違いを解決しに向かうように。

 スコーティとは何、ニコはそう尋ねようとした。だがオラフトがその疑問に割り込んだ。「お前は戦乙女を捕えて、それがフリスを守るというのか?」

「フリスを守ります」 ニコはそう言い、片手を長広間へと向けた。戦士たちが今も蟻のように群れていた。「この争いに嬉々として飛び込まなかった者は私だけです。そしてどうやら、それを止めようとしたのも私だけです」

 雷鳴が彼方で低く鳴り、だが空に雲はなかった。「お前が? ビルギを止める?」 オラフトは嘲るように言った。「私はもはや領界路を止めることはできぬ。そして更なる数が開きつつある」

 領界路。キーエルはそれを、世界の間をつなぐ道だと説明していた。陸橋の凍結と融解のように、特に法則性もなく開いては閉じる。一つは良い狩りの徴候。二つは危険の。更なるものはドゥームスカール、領界が船と岩礁のように衝突して互いを引き裂く大災害を報せるのだという。

「お前はフィンに何をもたらしたかを自覚しているのか? 余所者よ、お前は戦乙女を捕えることができると証明し、害をもたらした」

「捕まるか死ぬかを選べと言われたら――」

「神々はそう考える」とオラフト。「星界の大蛇はかつてあらゆる領界を渡り、我らを獲物とする怪物を獲物としていた。スコーティが大蛇に別の終焉を企んでいようと、あるいはその檻の中で狂気に駆らせるままにしようと、その束縛は外れつつある。あるいは切られたのかもしれぬ」

「それが私の行いのせいだって言うんですか?」とニコ。

「何者かの行いだ」 オラフトは甲板に金色で輝く映像を示した。動かないものと動くもの、シンボルの満ち引き、一つの幻視が別の幻視に重なり、見つめ続けるのは辛かった。「蛇狩りのフィンはこの世界に二つを望んでいる。コーマと、シュタルンハイムだ。お前はあの者へとその両方を与える定めにあるようだ」

「征服の話をしてるんじゃありません。大災害を防がないと!」

「蛇狩りと我は共に、物事がどのように進むかを見た――ジャットモーのお前を、シュタルンハイムのお前を」 戦士たちの混乱の頭上でオーロラの光が弾けて広がり、そして消えた。オラフトは顎をその丘を顎で示した。「お前が行く所、破壊がついて行く」

「だからって、私が破壊をもたらすという意味にはなりません」 苦々しく、ニコは言った。

 また予言だ。フィンは何も言っていなかった。両親よりもましなのだろうか、あるいは悪いのだろうか。両親はニコの輝ける運命を信じており、疑いを口にすることなどできなかった。ニコ自身が何を望んでいるか、それを尋ねてきた者はいなかった。

 ニコは破片を見下ろし、鼻息を荒くした。「私はカナーではありません。フィンには仕えていません。そして私は前兆などではありません。ただの個人です。もし破壊が私について来ると確信しているなら、私をシュタルンハイムへと送ってください。戦乙女たちが備えられるように、警告と一緒に」

「我に殺されたいというのか?」

「いいえ。私はこれまでも世界の間を旅してきました」 中に捕らわれた戦乙女がオラフトにも見えるように、ニコは破片を掲げた。「戦乙女は死ぬことなく領界を行き来します。助け合うことができるなら、やってみなければなりません」

 ニコはそのヴェドルーンへと破片を差し出した。

 オラフトはその破片を受け取り、眺めた。緑色の目に、戦乙女の険悪な表情が何度も映った。ニコはそのヴェドルーンの頭の中で歯車が回るのを見つめた。死のやり取りから何が得られるのか、そしてフィンとの合意の前に成していた決定は。

 オラフトはニコを一瞥した。「お前はそれを達成できると心から確信している。何がそこまでそうさせている?」

 生涯に渡る訓練。投げ槍にではなく、生まれてすぐに受けた予言への揺るぎない献身。ニコは勇者となっていたはずだった。だがニコの技術を裏付けるものに魔法はなかった。選択だけがあった。毎日早起きすることを選んだ。愚痴を言わず修正することを選んだ――そして可能性を押し広げることを選んだ。あの予言はひとつの道だった。だが一人の勇者がどれほどの衝撃をもたらせるだろう? 最終的に、それは何らかの意味を持つのだろうか?

 ニコは競技会を思い返した。神託を思い返した。そして異なる道を選ぶことをどう感じたかを思い返した。「私は決して外しません」

多元宇宙の警告》 アート:Magali Villeneuve

「ならば正しい相手を狙うよう気をつけることだ」 オラフトは茶目っ気とともに言った。「蛇狩りは我に任せろ。別れを言ったなら船に戻ってくるといい。お前が必要とするものを与えよう」

「つまり……あなたは私を殺すつもりで?」

「違う。だが向こう側で何が起こるかについては……お前の責任だ」

 ニコは砂の上を戻った。頭は重く、身体は軽かった。ここは粗暴で、寒く、過酷な場所だった。ここの人々にとって楽園とは何を意味するのか、ニコは推測できなかった――だが同時に、常に世界の間を渡る存在で満ちた領界をほのめかしていた。領界路を進む方法を理解する力になってくれるかもしれない。学び、研鑽し、完成させることのできる技術がきっとある――そしてその全てをどうまとめればよいか、教えてくれる者がきっといる。

 傷を雪で固める戦士たちを見るにつれ、ここで教師を見つけるのは不可能だと明白になるだけだった。

 両陣営の若者たちは「血の支払い」や「価値のない借り」について、年長者たちから声高に叱られていた。「それも女神の目の前で! 恥を知れ」とビルギを示す者たちもいた。自分たちの傷を笑う者たちもいた。

 フィンの姿はどこにも見えなかった。代わりに、その背後に自称英雄たちの希望と誇りを引き連れ、ビルギが最初にニコを見つけた。

「ねえ見た、私が――」

「ビルギさん、皆さんに確かに伝えてください、私が――」

「皆が受けた傷がこれ以上なく見事で鮮やかなものになればいいわ。そうして誰もが知ることになる――」

 ビルギはニコより頭ひとつ長身であり、そしてどうやら女神であるらしいとしても、ニコは気にしなかった。ニコは彼女を押しのけた。

 ビルギはきょとんとした。喉元の組み模様の刺青が一瞬だけ青く揺れ、そして収まった。少しの間、ニコは何かとても古く恐ろしいものを垣間見た。それは膨大な力を蓄えたもの、最も穏やかな炎の残り火の中で待っている大火のように深くて危険な。ビルギが口を開きかけると、武器を抜きたいという衝動がニコの内にうねった。だがこの戦いはそうして始まったのだった。ニコは今や理解していた――これがビルギの力の本質。ニコはそれを厳しく制御し、抑えた。

「民同士に殺し合いをさせる神がいますか」 ニコはそう吐き捨てた。

 ビルギはニコへとにじり寄った。「別の世界へ忍び込んできて、何でもできるというのに猫と遊んでるだけの定命がいる?」

 ニコの両目が見開かれた。

「何をしろって言うためにここにいるわけじゃないのよ、小ねずみさん。私たちのことを知ってもらうため。私たちの喜び、怒り――その違いはほんの僅かだってこと。何を危険にさらすかを知らない限り、自由なんて何の意味もないってことを」 彼女は心臓の位置に手をあてた。「私たちから生き延びる力があるなら、何にだって生き延びられるわよ」

 その女神は人々を見つめた。彼らがもたつき、笑い、あの戦いなど友達同士の遊戯であったように混じり合う様子を。一人一人を、その刃から傷までを見つめながら、ビルギの笑みにあった熱意は愛とでも言えるような何かへと和らいだ。語り手としての彼女の心はまるで記憶、歴史、辛い教訓、途方もない偉業という船団を浮かべた大海のようで、目に映るものをその貴重な一角に加えているのだ。外から見れば、狂気かもしれない。だがその中の彼らにとっては、希望なのだ。

「ところで、キーエルはあそこ。彼はいい語り手だから、私の言葉の意味がわかるわよ」

 キーエルが近づいてきた。身なりが少々損なわれていた。彼はビルギに何かを挨拶したが、ニコは聞き逃した。ビルギはくすくすと笑い、傷を負った彼の腕を掴んだ。彼は苦痛に歯を食いしばり、彼女を平手で叩いた。ビルギは去り、長広間の中へ戻っていった。

「本当に神なんですか?」 ニコが尋ねた。

「そうとも、悪ガキの神だ」とキーエル。彼は腕をさすり、切りつけられた傷を確認した。キーエルは著しく治癒が速いのか、それともビルギに握られたことでそれが加速されたのか。「けれど止めることはできない。だから大目に見ている」

 ニコはビルギの言葉を熟考した。「正直を言うと……彼女がいつ真実を語って、いつ物語を語っているのかわかりません」

「それも楽しみの一部だ。ちなみにあの船乗りは無事だ。脳震盪を起こしてるだけだ。胃の中のものを吐き終わったら回復するだろう。あいつはオラフトの右腕なんだぞ? 殺さなかったのはいい判断だ。あの女の血の値段はお前の鎧全部でも払いきれなかっただろうからな。それとあの光の爆発を見たか? 思うに、別の戦乙女だ」

「それについてなんですが……」 ニコは白い息を吐き出した。どうしてこんなに言いにくいのだろう? 「オラフトさんは私をシュタルンハイムへ送る気です――生きたまま。警告のために」

「そんなことが可能ってのがそもそも驚きだが……フィンの幻視か?」

 ニコは肩をすくめた。「そういうことです。オラフトもフィンも、私の落ち度だと言っています」

 知り合って二週間になるが、キーエルは常に言うべきことを知っていた。「それが間違いだと証明するつもりだな」

「はい」 ニコの口の端が曲げられた。「一緒に来ますか?」返答が来ず、ニコは唇を舐めた。「ビルギが言っていました、私は何を危険にさらすか知らないといけないって……そしてあなたはいい語り手だって」

 カナーの司祭は杖を石に立てかけた、遠い昔に燃えて砕けた建物の古い基礎だった。彼は手についた血を清潔な雪で拭いながら、空にまたたくシュタルンハイムの光を見つめた。「お前は生まれた時から勇者になるべく定められていたと言ったな。決して狙いを外すことはなく、だから大きな試合でわざと負けることを選んだと。運命に逆らうことができるのか、それを試すためだけに」

 ニコは眉をひそめた。

「フィンはお前のことを見た。そして脅威だと言った。近くで見張って、必要とあらば止めろと俺に命令した」 キーエルはその指を曲げ伸ばした。「深い根、石の筋――全てが俺に語りかけてくる。空にそれができない時は、鳥が伝えてくれる。風は息をし、俺は聞く――だが俺は、フィンが何を耳にするかを選ぶ」

 ニコは口を開かなかった。息をすることすらできなかった。

「お前はあの船乗りを生かすと決め、俺はお前を止めないことを選んだ。友よ、お前が脅威だとしても、俺たちにとってのものじゃない」 キーエルは再びニコを見た。「予言、幻視、運命――そういうのは選択に説得力をくれる指示であって、選択を現実にするものじゃない」

 その言葉は、まるでビルギに埋めこまれたかのようにニコの口にのぼった。「ただの物語です」

「全くだ。俺は留まって、フィンが聞きたいことを確実に聞けるようにする。そして俺の番が来たならシュタルンハイムを見るさ。お前は」――キーエルはニコの肩を掴んだ。「そこに辿り着いて、自分が何者かを伝えて、何かとんでもないことをやれ」

「ええ。扉を蹴破って入って、顔面を殴りつけてやります」

「そうだ!」 キーエルは破顔し、綺麗になった手で杖を取り上げ、高く掲げた。「あいつらが逃げる隙も与えるなよ! 戦乙女殴りのニコ!」

 二人は笑い、そして抱擁し合い、背中を叩き合った。次に何が起ころうとも、ここには常に安心があるのだ。酒と、聞く耳と、拠り所とする固い地面が。

 最後の別れを言いたかったが、あの猫は見つからなかった。そのためニコはキーエルを岸に残し、領界路探したちの船に乗った。フィンは船を押して手伝うことで無言の同意を示し、オラフトの魔法が流れの中で舵を取った。船上で、ニコはそのヴェドルーンと捕われの戦乙女が押し殺した声で会話する所を見た。同じ地で生まれた者同士だけが知る秘密が交わされていた。黒髪に黒翼の戦乙女の名はアーヴタイル、そして漆黒の翼を持つものは死神と呼ばれている――オラフトは唯一そう明かしてくれた。

「ニコが無事に発ったなら、お前は解放されるだろう」とオラフト。「我が血の糧とこの船首にかけて」

「その言葉、しかと聞いた」 戦乙女は言った。威厳のある声色はガラスを通してくぐもっていた。「石背のオラフトよ、我らは全てを見ている。この日の誓いを守るか否かも覚えていよう。お前の客は危険をわかっているのか? 安全な帰還は約束できぬ。生きてシュタルンハイムに踏み入った定命はいない」

 オラフトはニコを見た。二人は同意に頷いた。

「誰かが最初の一人になるんです」とニコ。

 領界路探しの船はゆっくりと確かに、不自然なほどに落ち着いた水面を進んだ。オラフトは杖を掲げ、青色の刺青を魔力に燃え上がらせ、今まさに生まれようと轟きうねる領界路の入り口に向けて船を誘導した。

 ニコの意識の隅で何かが震え、制御下から滑り出た。あの戦乙女の身体は今も捕らわれていたが、その魔法はゆっくりと確かに、歳を経るように、千本もの小さな針のようにニコの掌握から滑り出た。弱点が露見し、ニコはひどく驚き焦った。だが鏡が屈した所を、ヴェドルーンの誓いが支えた。

 船を導き、指示し、エネルギーを抑えるオラフトの力を戦乙女の魔法が貫いた。領界路は波打って変化し、青い水面に黒色が重なった。魔力のもやを通して、幾つもの小舟が黒い水面に揺れ動き、遠くの水平線がわずかに危険な角度を描いた。小舟が一艘、好奇心旺盛な鴨のように、世界の境界に近づいていった。

 その好機にニコはすぐさま立ち、指を伸ばして手すりを掴み、跳び越えた。そして泥の匂いのする水飛沫を上げ、離れた小舟に着地した。新たな「下方」の角度に適応しようと胃袋がうねった。

 振り返り、ニコは片手を挙げて礼と別れを告げた。領界路探しのヴェドルーンへ。ブレタガルドへ。キーエルへ。

 背後で領界路が閉じ、黒い水面の上には深い薄明に代わって夜明け前の眩しい空が広がった。小舟は広大で入り組んだ船着き場に衝突し、それは故郷を歌うような光へと消えた。ニコは船から降り、鎧を正し、目にかかる銀紫色の髪を払うと、運命など誤りであると証明するために踏み出した。

 もう一度。

ニコ・アリス》 アート:Sara Winters

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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