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ストーリー

Magic Story -未踏世界の物語-

ボーラス年代記:炎と血

Kate Elliott
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2018年7月18日

 

 前回の物語:不実の囁き


 岩屋の外では龍の嵐が吹き荒れていた。出ても良いとは言われなかったが、ネイヴァは尋ねもしなかった。彼女は槍を掴むと通路を駆け、半ば岩に囲まれた張り出しから飛び出した。氷の破片と風が顔を叩いた。冷たい大気が皮膚を刺し、体毛を逆立てた。

 日没頃には空は澄み、頭上できらめく星が存在を主張していた。だが今岩の下から覗き見ても、あるのは暗闇だけだった。頭上に荒れ狂う嵐から、生まれたばかりの龍の咆哮と悲鳴が耳をつんざいた。

 稲妻は無数に枝分かれし、まるで子供の残酷な遊びや無慈悲に戦う戦士のような絶え間ない興奮の中、落ちては舞う龍の姿を照らし出した。渦巻く雲にはエネルギーが満ちていた。そして闇が再び彼女をのみこんだ。

 一つの人影が岩から飛び降り、彼女の隣に屈んだ。湿った毛皮の匂いから、それは寡黙なアイノクのダルカとわかった。

「ヤソヴァ様はどこにいる?」 彼は尋ねた。

「ここだ!」 祖母はネイヴァを押しやって現れた。

 稲妻が閃いた。熱い雨が叩きつけ、地面に当たって蒸気を上げた。火花が宙に散った。

 ダルカが声を上げた。「あのお方が!」

 ネイヴァは訝しんだ。あのお方?

 稲妻が長く閃き、天から地までを繋げた。それは炎をまとう巨大な枝角の形状を照らし出した。咆哮一つが轟き、だが百もの雷鳴のような大音響にネイヴァは膝をつき、そして息をのんだ。ダルカも倒れ、かろうじて手で身体を支えた。祖母だけが立ったまま、屈さず、杖を握りしめていた。

 
恐るべき目覚め》 アート:Véronique Meignaud

「龍の死骸が見つかった」 暴風の中、その叫びはかろうじて聞き取れた。

 不吉な稲光と同じ途方もない気配をまとい、その巨龍は岩場から身体を起こすと、嵐の中心へと飛び去っていった。容赦なく怒り狂い、巨龍は生まれ出たばかりの子龍らを夜の深くへ追いやった。稲妻の筋がその道を照らし、軌跡に雷鳴が轟いた。

 風の悲鳴は低い吠え声へと落ち着いていった。滝のような雨は薄い霧へと消えた。大嵐の上空で星空が少しだけ見えた。

 天頂にかかる太陽のように黄金の光が閃き、だがその輝きは一瞬にして消え、再び星が現れた。更に星の幾つかは降下する軌跡に消え、隠され、再び現れた。まるで何かの巨体が天から落ちたかのように。嵐に視界をやられたのではとネイヴァは目をこすり、だがもう一度見ると星は変わらず輝いていた。雨が止み、雲が晴れはじめた。きっと星が途切れたのは、ただのねじれた風と渦巻く雲のせいだろう。

 夜明けの気配が大気に光を滲ませ、暗い空に巨岩の姿を浮かび上がらせていた。通路からフェクが現れ、立ち止まって深く息を吸った。

「嵐は過ぎました」

 祖母は決断するように頷いた。「準備を。オイヤンを呼べ。動ける明るさになったらすぐに移動する」

「もしアタルカが戻ってきたら、私達は獲物にされるんじゃ?」 ネイヴァが尋ねた。

 祖母は苦々しく言った。「あの龍は雛をアヤゴルへ狩りに行かせた。子龍の技術くらいは気にするらしい」

「内臓はどうするんですか? 龍から切り取るのは大変だったんじゃないですか?」

「川が冷やしてくれているだろう。後で回収する。今は安全ではない」

「安全な時なんて来るの?」 ネイヴァは短気に尋ねた。

「最後に目にした龍が飛び去ったなら、という話だ」 祖母は東の方角を見つめた。地平線が黄金色に揺らめいていた。「フェク、先へ。残りは準備ができ次第出発する。テイ・ジンとベイシャは私の傍に。ネイヴァ、フェクと一緒に行きなさい」

「けどおばあ様――」 ネイヴァは言いかけ、だがテイ・ジンの表情を察して黙った。彼は年長者の命令にネイヴァが無謀にも反抗する様に驚いていた。ベイシャは片割れと視線を合わせ、咎めるようにかぶりを振った。

 彼女はうつむいて進み、老オークに並んだ。何故祖母はいつもベイシャを側に置いているのだろう。自分の方が優れた狩人で、何かあった時は祖母を守れるのに? それは不公平だった。

「今日はネイヴァが一緒か。俺は年でもう目が悪い。お前の方が鋭く良い目をしている」 岩が転がる荒地を抜けながらフェクは言った。そのオークは片脚を引きずっており、だが杖を第三の脚のように巧みに用いて不規則な地面に対処していた。

「それはどうも。黙って静かに進もうか」

 フェクの笑い声が静かに響いた。「あの凛々しい若者と歩きたかったのだろう?」

 ベイシャの穏やかな物腰や祖母の厳格な表情を羨むのは初めてではなかったが、ネイヴァの感情が全身へと広がった。表情に出さないよう、自分は強く冷静なのだと示そうとした。このオークは自分のことなど全く見てもいないように思えて、無言で笑っていたのだ。岩場を抜けて開けたツンドラに出ると、フェクの視線は熟練の狩人のそれとなって駆け、獲物の兆候を読んだ。折れた草の茎、地面に沈んだ足跡、白骨化した死骸、新鮮な糞。だがネイヴァはどれほど集中しようとしても、その思考は不満へとうねって戻った。祖母がベイシャを守り、自分は片足のオークと同行させられているのは不公平だった。自分を嘲り、氏族に加わってすらいない者と。彼は自分達の一員だと祖母は言ったが、今やそれは理にかなっていなかった。彼女は浅い水たまりへ向けて石を蹴った。その石は水面の氷を砕き、沈んだ。

 フェクが彼女の様子を一瞥した。「ネイヴァ、言いたいことは言った方がいい。言葉を詰まらせるよりも、矢のように放て」

 いいだろう。自分は挑戦を受けたのだ!

「どうしておばあ様はお前をかくまってるんだ?」

「片足が役立たずのオークをかくまう理由、でいいのか? ヤソヴァ様の行動には常に理由がある」

「おばあ様はウギンの墓にどんな答えがあるって考えてるんだ? どうやって殺されたのかの手がかり以外に、死んだ者にどんな答えがあるんだ?」

「死者の全てが無くなるわけではない。祖先は今も私達に語りかけている」

「アタルカがお母さんを殺したのは、祖先の話をしたからだ。死んだ者は放って狩りに集中する方がいいんじゃないのか」

「龍王にとってはそれで良いだろう。だが俺達にとっては良いものではないかもしれない。かつてとは違って龍王に仕えることを強いられるのだから」

「その言葉がアタルカに知られたらお前も食われるぞ」

「告げ口をするのか?」 問い質す声色で彼は言った。

「氏族を守るためなら、そうする」

 だがフェクをアタルカに売り渡すという考えは不快だった。この男の指摘は間違っていない。龍王の支配は過酷で強硬、自分達は気高い狩人ではなく下僕のように扱われている。彼女はアヤゴルにてアタルカにへつらういくじなしの語り手と同じにはなりたくなかった。あの龍は肉を運んでくる存在としか自分達を見ていないというのに。

 
龍を操る者》 アート:Chris Rallis

「お前が氏族から追い出されたのは、許されないことを喋ったからなのか?」

「許されないこと。俺は真実と言わせてもらおう。けどな、理由はそれじゃない」 引きずった左足をフェクは示した。「コラガン氏族では、ついて来られない者は置いていかれる」

「じゃあどうして潔く死ななかったんだ? そっちの方が立派だったんじゃないのか?」

「何が立派かは様々だ。戦い方も様々だ。それに価値はないと俺の氏族がみなしていても」 彼は人差し指と中指で額を叩いた。人間とは異なり、彼は手袋を必要としない。その手の分厚い皮膚は最悪の冷気にも耐えられる。細い傷跡が複雑に走って両手の甲に過酷な模様を描き、だがアタルカ氏族の鉤爪の印はなかった。オークはこのようにして年をとるのかもしれない、情にもろい子供達に生かされる萎れた老人、その手のしみのように。「多くのものに守るべき価値がある。龍爪のヤソヴァはそれをよくご存知だ」

「その肩書は許されてないって知ってるだろ!」

「口にしなければ、若者は忘れてしまう」

「使えないものは捨てた方がましだ。アタルカが私達を支配している、龍爪でもカンでもなく。好むと好まざるとに関係なく、今はそうなんだ」

 彼は喉笛を切る仕草をして見せた。横暴な態度に侮辱され、彼女は熱くなった。自分はヤソヴァの孫娘だというのに! もし自分が龍だったなら、この男を燃やしてやるのに!

 だがフェクはネイヴァの言葉を追求はしなかった。その舌が大気を味わい、背中が強張った。彼は背中の輪に杖を通し、二本の剣を抜いた。その滑らかな動きはネイヴァが驚くほどだった。真鍮製のその剣は彼が所有する最も価値あるもので、とはいえ氏族民が用いる黒曜石の刃ほどの鋭さはなかった。

「ネイヴァ、急いで戻れ。全員、岩屋に身を隠せと伝えろ」

 怒りは外套を流れ下る雨のように退いていった。彼女は振り返り、迫る危険を目にした。

 恐ろしくも静かに、巨大な影が向かってきた。あれほど尖って赤熱した枝角を持ち、かつ尋常でない速度で飛来する存在はただ一つ。ネイヴァは岩場へと全力で走った、だが彼女がいかに若く俊足だとしても、龍王ではなかった。アタルカの巨体が影と熱の波とともに彼女を追い抜き、岩場のすぐ外に着地した。地面が震えた。ネイヴァはよろめいて片手で身体を受けとめ、素早く立つと走り続けた。

 だが間に合わなかった。龍王は祖母と皆を見つけており、安全な岩場と彼らの間、槍が届く距離に降りていた。ネイヴァは足を緩めた。今は急ぐべきではないとわかっていた。アタルカは醜悪な見た目かもしれないが、その怒りが燃え上がったなら龍王より素早く動けるものなどないのだから。

 龍の咆哮が轟いた、それはあの雪原を半ば引き裂いた雪崩のようだった。長く熱い息とともに、龍王は手を伸ばしてダルカを鉤爪で掴んだ。

「小さいが美味い奴だ!」 龍王は唸った。「熊と同じくらいにな」

 そのアイノクは抵抗も降伏もしなかった。彼は気高い戦士であり、また抵抗に意味はなかった。

 祖母は歩み出て槍の柄を地面に三度叩きつけ、全員の視線を集めた。祖母は決して服従せず、畏縮することもない。「アタルカよ! 十八年間、我らが民は合意に基づき肉を捧げてきた。その痩せたアイノクよりもずっと満足できるものがある」

 巨大な目が瞬きをした。酸っぱく熱い息が襲い掛かった。「我が龍はいかにして死んだ? あれは我がお気に入りであった」

 アタルカが他の龍を気に入るなどあるのだろうか、ネイヴァは訝しんだ。この陰険で強欲な獣が。

 祖母は言った、「雛が殺したのだろう」

「雛らはあの血を察して食らった。殺したのではない」 龍王はダルカの頭部を噛みちぎるとその身体を高く放り投げた。それは視界から消え、龍の死骸が横たわる近くに落ちた。その死にネイヴァは陰鬱な気分になった、だが誰もが毎日死に直面しているのだ。少なくとも彼は苦しまず死んだ。

「本当のことを話せ、さもなくば他のアイノクを食らう」 アタルカは吼え、身を低くしてヤソヴァに迫った。「お前か?」

 祖母は身動きすらせず、龍王とダルカの血縁であるラカンとの間に立っていた。「私ではない。だが先程言った通り、もっと良いものを殺してある」

「アイノクの肉より美味いものか?」

「ずっと美味い。オジュタイの仲間がお前の龍を殺して内臓を食らった。私達はその余所者を殺し、お前の龍の復讐をした。次の食事は龍だ!」

 アタルカは顔を上げて空気をかいだ。嵐の辛辣な匂いは残ったままで、草と土、乾きかけの血と古い岩の匂いに混ざっていた。

 
龍王アタルカ》 アート:Karl Kopinski

「見せろ」

 祖母は皆へその場に残るよう合図し、アタルカの龍がオジュタイの龍の死骸を捨てた場所へと歩きだした。アタルカはヤソヴァの目の前の地面に前脚を叩きつけた。

「全員来い、全員」 立腹の火花が鼻孔から上がった。「お前はごまかしを使う奴だ。もし満腹にならないなら、全員食らう」

 背後に並ぶよう、祖母は片手で合図をした。

 ネイヴァは背を伸ばし、視線を前に向けたままでいた。龍と目を合わせることは挑戦を意味する、それをしてはならない。また従順に縮み上がったり、逃げ出すこともしてはならない。子供達は皆そう教えられている。怯えるよりは死ぬ方がましだった。彼女は皆を行かせ、ベイシャと視線を交わした。一緒に残りたいと片割れは躊躇し、だがネイヴァは進むよう促した。全員が先に行くとベイシャはようやく列の最後尾についた。アタルカと自分を隔てるものは何もなかった。龍王は彼女らの後につき、一歩ごとに地響きが起こった。息を吐くと、火花が彼女の身体を追い越していった。振り返らぬようこらえるのは困難だった、その動きが自分を守るものではないとしても。一払い、一吐き、それで自分は死に、消失する。だがきっと祖母はそうさせるだろう、だから自分もそうでありたかった。龍爪のヤソヴァの孫娘として存在を示したかった。屈することなく、生きた盾として危険から氏族を守るのだ。

 周囲の世界への感覚が広がっていった。この一歩が最後となるのかもしれない。この一息が、この鼓動が。テイ・ジンは彼女を振り返り、ベイシャの息は浅く、ラカンは悲嘆を押し殺し、他の皆は無言で身構えていた。全ての終わりに待っているものが死であったとしても。

 だがアタルカは彼らを生かしていた。あるいは捕虜を玩んで喜んでいたのかもしれない。自分達は龍王の寛容のもと生かされているのだ。龍王たちは古よりも力をつけていた。祖先は敗れて打ち砕かれた、ならばそれらを大切にする意味はあるのだろうか? 彼らに力があったなら、勝っていたのかもしれないのに。

 不意に、アタルカは跳躍すると歓喜の咆哮とともに素早く彼らを飛び越し、オジュタイの龍の死骸の隣に着地した。その細身の龍は巨大な戦いでひどく傷ついており、だがアタルカが死骸の匂いと凝固した血の味を吸い込むと、彼ら全員が身構えた、人間の武器に切り裂かれたのではないとわかるだろうか?

 龍王は尾を前後に打ちつけて猟団を岩の上へと追い詰めた。母を思い、ネイヴァはベイシャの前に出た。だが龍王の視線は巫師の能力を母から受け継いだ者ではなく、テイ・ジンへと向けられた。修繕した上着が幸運にも幽霊火の刺青を隠していたが、その風貌と剃髪は彼が他の者と異なることを示していた。

 アタルカは数度鼻を鳴らした。「この余所者は何だ?」

 祖母が龍王へと一歩踏み出した。「この者も我らが猟団の一員だ」

「は! オジュタイの匂いがする。あの気取った氷吐きのお喋りが」

 テイ・ジンは進み出て両腕を上げ、掌を前に向け、上腕を合わせて両手に幽霊火の刃を作り出そうとした。

「テイ・ジン! 自分で始末できぬことを始めるな」 誰も祖母には逆らわない。彼が従順に腕を下ろすと、祖母は再び注意を龍王へ向けた。「アタルカよ、この者はお前の勇名と獰猛さを耳にして私達に加わった。『気取った氷吐きのお喋り』ではなく、お前のような真の龍に仕えてこそ、この勇敢な戦士は役立つというものではないか?」

 アタルカは唸り、ぼんやりと頭を前後させた。まず死骸へ、そして痩せた若者へ。「こんな弱そうな者が狩りなどできるものか」

「賢さで成功する狩人もいる」

 テイ・ジンは歩み出た。「偉大なるアタルカよ、私には他にも役立たせるものがあります。一例として、多くの物語をお話しできます」

「話など退屈だ。肉のように美味くはない」 龍王は祖母へと淡く輝く視線を向けた。「オジュタイの龍と一緒にこの人間を食う。見ていてもいいぞ」

「好きにするがいい、アタルカ。だが考えてもみろ。オジュタイはこの若者を追うべくお気に入りの龍を遣わした。この男が自分の縄張りから離れ、他のもっと偉大な龍王に仕えるのが気にくわなかったのだ。オジュタイが死を望むこの若者を自分の氏族に生かしておく、つまりそれはお前の勝利ではないか?」

 冷酷な笑い声が氷水のように襲いかかった。「気に入った。食べてる間に話せ。それから決める」

 祖母はテイ・ジンを見た。彼は臆することなく進み出て老女の隣に立った。

「私が子供の頃、母より聞いた物語です。母は師から学んだとの事でした」

 小柄な龍の冷めゆく肉を龍王が引き裂く中、テイ・ジンは語りだした。


 遥か遠い昔、慈悲深き王がいた。その地のいかなる王よりも偉大な王であった。その王とは秀でた知啓と力のある龍であった。その王、ニコルはかつて同胞からは最弱と呼ばれ、双子の片割れであるウギンと共に生まれた大陸を旅し、世界の真実を知ろうとした。だが真実とは過酷なものだった。世界は過酷なものだった。最も秩序ある人間の国にすら、暴力と殺しが弾けた。誰もに行き渡る大地は広がり、豊かな草と豊富な獣があるというのに。

 その真実に心を乱し、若き龍は片割れと共に生誕の山へ向かった。何を求めているのかは定かでなく、だが何かがわかればと願った。古の山頂に到達すると、更に酷い展望が彼を待ち受けていた。

 輝かしく広がる生誕の山の麓に生きる人間は、野蛮な王を奉り上げていた。その跡継ぎもまた野蛮であった。

 彼らは、龍殺しであった。


 アタルカが顔を上げた。顎から腱と肉を滴らせながら、熱く輝く視線をテイ・ジンへと定めた。大気が予感に引きつった。龍王の注意を惹く、それは良いことではなかった。

 
オジュタイの学徒》 アート:Jason A. Engle

 彼は目をこすり、思考を晴らすようにかぶりを振り、呟いた。「龍殺しの話を語るつもりはありません。続けさせて下さい」


 汚らわしい術を用いて王と跡継ぎらは龍を狩ったが、龍の絶大な力と高貴な超越性については全く気にかけもしなかった。弱き人間は自分達よりも偉大なものの血と骨を食らい、その力を盗み取ろうと願った。槍と術を用いて、王は気に入らぬものを潰していった。王にへつらう者、王を喜ばせた者は富み、反逆を囁いた者は死んだ。戦えぬ者は耕作地にて労役に身を砕き、王を養った。逞しく強き者には槍と鞭が与えられ、彼らは反逆者を打ち、異邦人を降伏させた。年月と共に王は更に多くの人々を統べ、更に広くその国を広げた。欲深き者が栄え、弱き者は終わりない重き労役に苦しんだ。

 だが龍たちはそのような侮辱をいつまでも被ってはいなかった。無礼には返礼を。若きニコルは生誕の山にて人間の不法と弱者への扱いを目にし、行動せねばならないと知った。だが彼の片割れはそこまで大胆ではなく、文句を言い、躊躇した。だが同胞の死に対して復讐を敢行しないというのは、自ら死することに等しかった。

 残酷な術に劣勢となり、代わりに若き龍は人間を出し抜いた。無比の狡猾さで彼は跡継ぎらを反目させ、継承争いにて全員が死ぬまで戦わせた。その戦の間、片割れのウギンは人間の術によって無へと消し去られた。それは彼らからの復讐の鉤爪だった。だがその龍は勝利した。全ての上に立つのは龍、その勝利こそ自然の摂理。

 野蛮な王にとって代わり、若き龍は国の救い主と称えられ玉座を差し出された。かつて龍の血を飲み崇拝された者が、今や龍へ頭を垂れる。彼はかつて兄龍と長く論じ合った教訓によって支配した。彼ら龍は常に世界の視点と心を理解しようとしていた。そして、大切なウギンであればそうするであろうと考えたように行動することこそ、片割れを称える最良の方法だと知っていた。片割れもまた、自分にはそうするのだろうから。

 そして彼は秩序と平和のもと、何世代にも渡って公正かつ公平に統治した。


 呑みこんだばかりの脚の塊から、アタルカは一本の鉤爪を吐き出した。

「そんなものは話ではない! 狩りはどうした? 血は、砕けた骨は?」

 テイ・ジンは両手を合わせて頭を下げ、敬意を示した。「偉大なるアタルカ、続きをお聞き下さい。きっと満足して頂けるかと思います」

「違ったら、食うぞ」 巨大な尾を打ちつけ、龍王は首を下げて食らい続けた。

「シュー・ユン大師の指導下、最後の日々……」 彼はそう言い、だが口ごもった。その口が言葉を成したが音はなかった。視界が曇ったかのように、彼は再び両目に指を当てた。耐えた一瞬の後、彼の意志ではないように唇が開き、言葉が続いた。


 やがてその若き龍は第二の太陽として知られるようになった。彼は秩序と平和のもと、公正かつ公平に支配した。卑劣な龍殺しの凋落の物語は親から子へ、世代から世代へと伝えられ、慈悲深い龍の王のもと、一年に一度祝祭が催された。

 だが龍というのは欲深きもの。そして王国の外で、龍の数は増えていった。王もまた龍であり、その王国は質素だった。そのため自らのものを可能な限り守るべく、国境を堅固に防衛した。

 ある時、荒れ狂う龍が平和な集落を襲った。そこは平和な王国と、パラディア=モルスが長く狩猟場としていた縄張りとを隔てる川沿いにあった。

 ただちに彼は脅威を対処べく急ぎ、燃やされた村と殺戮から逃れる避難民の頭上を飛んだ。そして七体の巨大で騒々しい龍が、怯えて逃げ惑う家畜の群れを貪り食う様を発見した。略奪者らは頭上に旋回する王を一瞥し、だがそれだけで食事に戻った。何という侮辱だろうか!

 王は輪を描くようにそれらの周囲に炎を吐いた。飛べる龍を閉じ込める意図はなかった。注意を引くためだった。

「我が罪なき者を苛み、貴重な家畜を食らうのはなにゆえだ?」 彼は問い質した。

「我らは暴虐のアスマディの子。望むものは奪うのみ!」 それらは叫び、尾と鉤爪を振り回した。

「パラディア=モルスはどうした?」 彼は尋ねた。この劣等な龍たちが獰猛な姉を追い出せたことに驚いたのは事実だった。

「あいつは遠くへ追いやった。次はお前の番だ。この豊かな土地と肉は我らがものだ」

 その祖たるアスマディと同じく、彼らは好戦的かつ卑劣だった。王ほど傑出した龍であっても、単独でそれらを打ち負かすことは敵わない。だが王は独りではなかった。詩にて王を称え、その堂々たる寛大さと気高き洞察に相応しいことを示したいと切に願う者達がいた。そして王が教えを与えた賢き魔術師の学院と、士気高き戦士の軍隊があり、誰もが最強の敵へとその技を試したがっていた。王は失われて長い龍殺しの武器を所持していた。

 
アート:Yongjae Choi

 腹立たしい思考が一瞬、心に弾けた。叱るようにウギンの声が告げた。人が龍を殺すのが間違いならば、龍が龍を殺すことも間違いではないか。ニコル、メレヴィア・サールは何のために死んだ? 姉を守れなかった無念はどうした?

 姉の死と、王がまさに行おうとする復讐は異なるものだった。ウギンはこの真実を何ら目撃も理解もしていないのだから。そして何にせよ、ウギンは間違っていた。アスマディは粗暴な龍であり、その子らも慰みに平和な国を引き裂く乱暴者たちだった。彼らが無益な乱暴者であることは、ウギンですら理解しただろう。更に、ウギンはここにはいない。今は自らの強力な武器を用いる時だった。

 切々たる鐘と低い角笛が軍隊を召集し、弩と毒矢が持ち出された。術師らは黄金と黒のローブをまとって規律ある列で歩み、歌とともに進軍した。川岸にて彼らは七体の若き龍に対峙し、毒と魔術の無慈悲な矢弾を敵へと浴びせた。

 完勝だった。虐殺だった。

 毒矢は目標を違えることなく飛び、狡猾な術にて柔らかくなった下腹部の鱗を貫く様は実に高揚する光景だった。臓物が大地に溢れ、その下に捕われた者を焼いた。勝者の雄叫びと死にゆく龍の苦悶の悲鳴が交錯した。

 騒々しい自惚れ屋どもが翼を動かせぬまま地面に倒れ、心臓と肺が動きを止め、目が霞み、今際の息を吐く様はなんと胸のすく光景だろうか。勝利とは甘美なもの、それも最も危険かつ強大な生物である龍への勝利とあらば、更に甘美なものだった。

 だがその龍の一体は生き延び、敵わぬ速度で逃亡した。王は未だ完全な成体ではなかった。

「追いますか?」 急かすように将軍が尋ねた。

「無論だ!」 王ははっきりと思い出した。かつてアスマディとその兄弟らが、ただ楽しみのために自分を痛めつけ追い回した出来事を。それは彼らの卑しさを示すものだった。ようやくあの侮辱の仕返しができるのだ。

 士気高く、大軍は地響きを立てて動き、進軍し、騎乗し、守りの固い国境を越えていった。彼らはその龍の痕跡を追い、パラディア=モルスがかつて狩場としていた大平原を過ぎ、通過する街や村で物資を得た。大地は次第に乾き、やがて彼方に壁らしきものが現れた。だがそれは険しい丘、曲がりくねった峡谷、そして目もくらむような山稜の純然たる障壁だった。その先の北方に、アスマディと兄弟らが棲む大山峡が広がっていた。

 軍勢の中には反対する者もいた。糧食は減り、水は更に減っていた。臆病者は不味いことは知っていたが、若き王は不平を言う者を食らった。残る軍は平坦な草原と荒地を背後に、豪胆にも北方へと進んだ。

 夜明けを過ぎた頃、四体の龍が向かってくる姿が見えた。遠くからは然程手強くは見えず、だが近づくと、その巨体と獰猛な様相が明らかになった。リヴァイダス、ラーヴァス、ルブラの三兄弟、それらは近づく彼らへと侮辱を吼え、王を「ちび助」「最弱」と呼んだ。その侮辱すら彼らの頭の弱さを示すものだった。

 最大の個体はアスマディ自身で、その秀でた力を見せつけるように先頭を飛んでいた。前脚には戦いに敗れて逃れた龍が動かず掴まれていた。

 大地を震わす咆哮とともに、アスマディは軍隊にめがけてその龍を落とした。兵士らが押し合いながら避けようとする中、死骸は地面に落下した。落下の衝撃に投石戦士の一部隊が壊滅した。乾いた地面に血が流れ、龍の口から放たれた最後の火花が枯草に点火し、炎が弾けた。負傷者は悲鳴を上げ、折れた骨を皮膚ごと掴み、その間に癒し手らは龍の下敷きとなった仲間を助けようとした。

 笑い声一つとともに、アスマディは叫んだ。「逃げろ、小さなニコルよ。逃げるなら生かしておいてやろう」

 もっと若い頃であれば、王はそのような侮辱に悶え苦しみ、怒りに身を任せていたかもしれない。だが彼は将軍数人の首を文字通り切ることで怒りを宥めた。手下が無能だとしても、今は重要ではなかった。アスマディに好き勝手させる日々は終わったのだ。彼は狂乱した軍勢に新たな順列をつけ、頭部を失っていない将校を昇格させた。

 アスマディの無謀な挑戦は、彼へと不意の勝機をもたらした。相手は巨大で手に負えないかもしれないが、自分で思うほど賢くはないのだ。

 龍の死骸の首と長い尾を遮蔽に用いて、若き龍の王は弩を引くよう命じた。アスマディが旋回して兄弟に合流すると、弩兵らは毒矢を放った。彼らの腕は確かだった。そうでなければならなかった。できない者は奴隷の身分へ落とされるのだから。

 そのため矢弾は正確に、続けざまに命中した。ルブラは目に一本を受けた。その矢は致命傷にはならなかったが、麻痺性の毒が脳へ浸透していった。どこかの頂へ避難しようとしてか、彼は苦しみながら山を目指し、だがだが意識を失って運搬部隊のすぐ目の前に落下した。前衛部隊が剣と槍を掲げ、狂喜とともにその動かない身体へと殺到した。彼らは死した巨獣の熱き血に浴して勝利し、だが若き龍の王は従兄弟らの炎の息を避けるのが精一杯だった。

 
アート:Scott Murphy

 だがそこからは上手く進まなかった。アスマディ自身は五発を受けたが、鉄の矢はその分厚い皮を貫けなかった。彼は弩兵の列へ炎を吐き、弩を炎上させた。リヴァイダスとラーヴァスは降下して兵を咥え上げ、宙に放り投げて殺した。馬は狂乱し、乗り手を振り落として逃げた。補給部隊の荷車は不運な御者と馬丁ごと燃えはじめた。煙が立ち上り、地面に灰が散った。

「身の程知らずを後悔するがいい!」 弟と共にニコルを挟むように旋回しながら、アスマディは吼えた。「地面に突き刺して、生きたまま肉を食いちぎってやる!」

 軍勢の多くが死ぬか敗走した今、その脅しは空虚ではなかった。ただの力は今は役に立たなかった。命を救うのは卓絶した機知だけだった。

 若き王はその柔軟な精神的接触で、術師らをずっと支配していた。彼の命令で術師らは大規模な隠蔽呪文を織り上げ、煤けたもやで戦場を覆い隠した。その下で彼は残る軍勢とともに引き上げ、岩だらけの丘とよじれた峡谷へ向かった。弩二つが残っており、絶望の中で超人的な力を発揮した兵士に引かれていった。今も血に濡れたままの前衛部隊も加わった。神聖なる龍の血が龍の炎をも防いでくれたために生き延びた、彼らの司令官はそう語った。

 その言葉を留意し、一度だけ彼は息をついた。疲労し壊滅した軍は、負傷したリバイアサンのように両脇を崖に挟まれた深い峡谷へと入った。

「我が王よ、これは死の罠ではありませんか?」 将軍の一人が意見を述べた。

「来たる戦いを生き延びられなければ、そうなる」 彼は苛立ったが、その将軍に思い知らせる余裕はなかった。迅速に動き生き延びるためには、懲罰を遅らせねばならない時もある。

 峡谷の鋭い湾曲の先で彼は軍勢の歩みを止めた。軍の三分の一程が残っており、二台の弩に矢は七本あった。その矢は下等な龍の鱗を貫くが、古龍のそれはもっと固かった。だが目は脆い。そして彼には術師の一団が残っていた。

 時折、彼はウギンを思うことがあった。生誕の山を訪れた時、もしくは水上を飛ぶ時。内心、人の術が起こした不可視の風がウギンを消し去ったのだと彼は信じようとしていた。それが術でなかったなら、ウギンは最も重要な時に片割れを見捨てた只の臆病者でしかないということなのだから。ウギンがそこまで弱く恥知らずだとは信じたくなかった。彼は長きに渡り、ウギンの消失を再現できる魔術を見つけ出させようと術師の学院に研究を強いてきた。未だそれを成し得た者はないが、術師らは巨大な岩をも崩壊させられるようになっていた。

 全員がしかるべき時にしかるべき行いを成せたなら、勝機はある。

 吠え声が峡谷の壁に響いた。巨体が着地する轟音が地面を震わせた。

「待て」 落ち着かず、怯えた軍勢へと彼は命令した。「まだだ」

 リヴァイダスが姿を現し、視界から背後の峡谷を遮った。

 弩から、轟音とともに矢弾が巨体の龍へとまっすぐに放たれた。一本目は無害に肩の上を通過し、二本目は前肢の鱗の間に挟まった。龍はそれを振り落とし、笑い声と共に顔を上げた。

 ラーヴァスが空から降下し、その影が峡谷にかかった。

「今だ!」 若き王は叫んだ。

 術師らは一斉に、崩壊の呪文を頭上の龍へと放った。それは不可視の波のように命中し、ラーヴァスを包んだ。その龍は熱せられた岩のように爆発し、巨大な鱗が軍勢に降り注いだ。鋭い骨片に貫かれ、もしくは肉塊が命中して術師の半分が即死した。

 
アート:Even Amundsen

「ラーヴァス!」 悲嘆と怒りに叫び、リヴァイダスは矢弾が放たれると同時に弩へと炎を吐きかけた。その衝撃で矢弾は崖へと散った。若き王は無防備となり、焦げた弩と僅かに残る術師らと、血に濡れた前衛部隊だけが共に残された。

「アルカデスお兄ちゃんからこんなことは学んでないだろ!」 姿を消す直前、ニコルが思考を操作しようとした時、ウギンは怒りと共にそう叫んでいた。龍には通用しない、あの時ニコルはそう信じた。だがあるいは、ウギンには通用しなかっただけなのかもしれない。

 リヴァイダスを見上げながら、矢弾が一発だけ残っていると彼は知っていた。何としても得なければならない短く危険な勝機。

「這いつくばる蛆虫め、お前はこれから死ぬ」 リヴァイダスが息を鳴らした。

「少しいいかい?」 彼はリヴァイダスのぎらつく視線を受けとめた。彼は疑いの影という鉤爪をこの龍の心に沈め、その不満を喚起しようとした。「アスマディが君を送り込んだのだろう。あいつは危険を把握しながら、自分ではなく君とラーヴァスを送り出した。いつもそうなのか?」

 巨体の龍は躊躇した。抑圧された憤りの震えを見て、ニコルは更に続けた。

「あいつは自分が安全な時にだけ先頭を飛ぶ。あの支配にはうんざりしないか? 怒鳴り付けてばかりの横柄なやり方は嫌にならないか? ラーヴァスとルブラが死んだのはあれのせいだ。君達三体もいながら、あいつに取って代わらずにずっと従っていたのか? 今や君だけだ、どうする? あいつはずっと君を怖れてきた、同等な体格の君をね。だから君を格下に扱ってた。僕が力になろう、でも力を合わせなければいけない」

 彼はその鋭い心の毒矢を、リヴァイダスの今にも弾けそうな怨恨に押し付けた。人間と同じく、全くもって簡単だった。身体は強くとも、心は弱いのだ。

「来るよ! 君が攻撃したら、僕が術師で追い払う。あいつを金輪際追い払ってしまおう」

 アスマディが姿を現した。リヴァイダスは咆哮を上げて飛び立ち、対峙しようとした。無論アスマディは攻撃など予測しておらず、そのため最初の一撃を無防備に受け、右肩から血を流した。怒りの咆哮を爆発させて反撃し、若き王はその一撃に叩き飛ばされた。だがリヴァイダスはアスマディと同等の体格だった。攻撃によろめきながらも素早く立ち直り、炎の一吐きと尾の叩きつけで反撃した。

「今だ」 生き延びた術師らへと、若き王は言った。

 再び、彼らは崩壊の呪文を放った。だがそれは二体の巨龍に拡散してしまい、また術師も六人しか残っていなかった。そのため魔法は龍たちを僅かによろめかせたに過ぎなかった。

 とはいえそれを相手からの攻撃と考え、二体は苦痛と怒りに吼えた。

「裏切り者! 卑怯者!」 アスマディは叫び、リヴァイダスへと飛びかかった。遠い昔、アルカデスの街にて、あの温厚な若者が遺恨を刺激されて暴発し、自らの弟を殺害したその通りに。

 二体の戦いは続き、その衝撃と喧騒は丘に轟き、深い峡谷に響き渡った。

 復讐とは甘美なもの。だがどちらが勝利したとしても、その龍は王よりも大きかった。

 若き王は撤退した。血に濡れた前衛部隊を殺すのは必然だった。さもなくば古龍の血が弱き人間の肉体を守るという知識を彼らは伝えてしまう。術師は、隠蔽の呪文を唱えて平原へと撤退するまでは生きることを許したが、その後に殺した。世界には更に強大な龍がいると知れたなら、自分の所有物はそちらを崇拝することを選ぶかもしれないのだ。

 彼は急ぎ飛びながら、学んだ内容について熟考していた。どんなに心が鈍い者でも、強欲と嫉妬の炎は消えることはなく刺激することができる。ただ点火すべき一粒さえ見つけたなら、龍もまた簡単に屈服する。

 アスマディは自分を追ってくる、それは確信していた。そのためあの従兄を遠ざけておく手段を考える必要があった。

 彼は平和な王国へは戻らず、険しい山へ向かってリヴァイダス、ラーヴァス、ルブラの子らを探した。彼らが受け取った知らせは何と恐ろしいものだっただろうか! アスマディが弟たちを裏切ったのだ。何という恥辱だろうか。間違いなくあの巨龍は弟らの子孫をも消し去り、背信の痕跡を完全に消し去ろうとするだろう。

 純真な彼らを自らの目的に沿わせるのは驚くほどに愉快だった。王国に戻ることは無難で退屈に思え、彼は龍の新たな巣へ、燃やすべき次の縄張りを目指した。彼はパラディア=モルスを探した。姉は軽蔑するように頭を殴りつけてニコルを退散させようとしたが、今やアスマディがいかに無防備かを貪欲に聞いた。

 ああ、復讐とは何と甘美なのだろうか。

 やがて、この物語は暖炉を囲む人々によって、もしくは安全を求めて篝火に寄り集まる避難民によって語られることとなる。だが彼らも決して安全ではなかった。

 とある氏族の龍が、従兄の氏族の山々の砦を略奪した。雪をかぶる峰の只中にて、鉤爪と鉤爪、炎と炎との戦いが勃発した。焦げた肉が天から降り注ぎ、骨は谷底に砕けた。飢えた者は同類の血肉を飽きることなく食らった。

 腹が満たされるほどに、強欲と嫉妬が増大した。この口には更に大きな肉を。この鉤爪には更に遠くの獲物を。

 龍たちは人間の畑地と家畜へとその視線を向けた。ある者は野生の獣を狩るように、ただ人間を食らおうとした。他は人間を家畜のように扱い、飢えた時に食うために肥えさせようとした。人間に教授し導こうとした龍も僅かにいたが、その努力はしばしば恩知らずと誤解で報われた。才気あるクロミウム・ルエルですら自らではないものに扮して身を隠した。自分を賛美する筈の人間に嘲られぬように、もしくはその遠大な慈善行為を軽蔑する龍に食われぬように。

 強欲を留めておく檻などない。嫉妬を繋ぎとめる鎖などない。成長するごとにそれらは欲望と怒りに駆られ、そのため龍は飽きることなどない。その飢えが和らぐことなどない。

 
アート:Adam Paquette

 肉と力の飢えを満たすべく龍たちは広大な海を渡り、新天地に至った。だがそのような彼方の岸ですら飽和し、龍たちは歯と爪、炎と氷で相争った。龍の規範のもと、彼らは自分達を崇拝するか畏れる人間を集めて気高い戦団を立ち上げた。龍の力を求める術師らは腰を低くし、その魔法の才能にて奉仕を申し出た。何故ならその広大な世界の全てにおいて、龍ほどに強大な生物は存在しないのだから。時の始まりから、終わることのない果てまでも。

 賢明なアルカデス・サボスですら、秩序と平和と正しき支配という題目を掲げて熱弁を振るい、知識の囁きに心を刺激された結果、その力を大規模な戦へと投じた。

『君の掲げる自主自立も、知啓も、尊敬なんてされないよ。得ようとすればするほど、離れていってしまう』

 アルカデスもまた、遠縁の同胞が支配する要塞へと信奉者と共に進軍した。それらを打ち負かすと、彼は髄まで齧り尽くされたその骨を海へと投げ捨てた。渦巻く水がそれらを白い砂に変え、世界中の岸辺へと打ち上げた。

 幾つもの戦いが勃発しようとも、一体の龍だけは支配する者への信義を守り続けた。彼は片割れへの約束したことを今も忘れていない。人と龍の法を違えるのではなく、ただひとつだけの法を。

 ただひとつだけの法を。


 テイ・ジンは言葉を切り、口元を緩めてうつむいた。何かを言おうとしたのかを忘れたかのように、もしくは自分が何者かすら忘れたかのように。

 アタルカは顔を上げた。口からは靭帯が垂れ下がっていた。龍王は肝臓と心臓を丸のみにし、筋肉と脂肪を骨から引きちぎった。オジュタイの龍の腹部を切り裂いて内臓を漁ったため、ねばつく液体が前肢を覆っていた。龍王は口を広げ、更に広げ、その恐るべき歯の並びを見せつけ、そして轟く笑い声を上げると顎を閉じた。

「ただひとつだけの法だ。食らえ。美味な馳走であった。その余所者を生かしておいて良いぞ」

 龍王は翼を打ちつけて空へ飛び立ち、全員に膝をつかせた。そして直ちに視界から消え、カル・シスマのある北西へ向かっていった。

「頭が」 まるで骨が融けたかのように、テイ・ジンは身体の力を失った。彼は膝から落ちるように倒れ、手で頭を抱えた。

 ネイヴァは駆け寄り、だが祖母の手が先に届いて彼女を退散させた。祖母は隣に屈むと彼の頭を持ち上げ、両目を覗き込んだ。そして見たものに彼女は眉をひそめた。

「テイ・ジン、意識はあるか?」

「はい……ただ涙が出るほどの頭痛がしただけです」

「今の物語は、ウギンの話とよく似ていながらそうではないようだが?」

「わかりません。私はシュー・ユン大師の導きの最後の日々を語るつもりでした。カンの最後の会合と、彼らがいかにして龍に屈したのかを」

「その日とその後はとてもよく覚えている」

「そのような勝利の物語こそ、龍王を楽しませるだろうと思ったのですが」

「ならば、今の話はどこから来たのだ?」

 再び彼は目をこすり、そして恐る恐る立ち上がった。まるで脚が身体を支えられるかが定かでないように。「この話は……囁き声として脳内に聞こえてきたのです。あるいはとても幼い頃に母が話してくれて、今まで忘れていたものかもしれません」

 祖母は立ち上がった。「それは不吉な出来事だ。かつて、ある囁き声がタルキールの出来事を変えようとした。恥ずべきことに、それを聞いたのは私だった。ウギンの死はある意味、私に非がある。お前の師や風の民が受け取った幻視は、あるいはウギンからのものではないのかもしれない。だがそうだとしても、これまで以上に急いでウギンの墓へ辿り着かねばならない。だがまずはダルカの生涯、その狩りの腕前を称えよう。そして彼がひるむことなく死を受け入れたことを」

 
アイノクの足跡追い》 アート:Evan Shipard

 彼らはアタルカが食い荒らした血まみれの残骸から、アイノクの切り苛まれた身体を引き出した。彼のナイフと護符はまとめられてアイノクの血族に渡された。背負い袋の道具は貴重なことから、彼らの間で分かち合った。その後、アイノクの流儀にて、彼らはその死体を地面に横たえると石の輪で取り囲んだ。各々が短い祈りと短い記憶を捧げ、手の込んだものは何もなかった。あらゆる魂が祖先の領域へ向かい、そして次の狩りは常に迫っている。彼らが死者へ示す最大の敬意は、歩み続けることだった。年月を経ても、世代を経ても。

「彼の魂は私達の先を歩き、書かれざる今へ往く」 祖母はダルカの胸に大きな石を置きながら言った。それは氏族員の各々を結びつける恩義の重みを示すものだった。太陽もまた、血族を繋ぐものの一つだった。鳥や獣や虫が彼の死骸を食らい尽くすのを、太陽が見守ってくれる。

 そして祖母は下がった。「皆、準備はいいか?」

 ネイヴァは皆を見渡した。勿論のこと全員が準備を終え、槍やナイフを手にして荷物を背負っていた。氏族員は何があろうと常に動けるのだ。

「嵐が来る前にウギンの墓へ着かねばならない」

 祖母は皆の先頭に立って岩場を発ち、食われた残骸と砕けた骨、二体の龍の屍を後にした。ハゲワシが頭上を旋回し、残骸を食らう時を待っていた。先行したフェクが前方で足を止めていた。

 ネイヴァは空を見つめた。逃げ惑う家畜のように、暗い雲の残骸が南東へと吹かれていた。昇る太陽がその黄金の光をツンドラに注いでいた。遠くの丘の端に、奇妙に歪んだ螺旋形の岩が地面から伸びていた。鋭くも繊細なその形状に、一瞬彼女はそれが手の触れられる幻影のように思えた。

「また龍の嵐が来るんですか?」 ネイヴァは祖母へと尋ねた。

「思うに、もう来ている」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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