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Magic Story -未踏世界の物語-
ボーラス年代記:双子と双子
2018年6月13日
「おい、今の聞こえたか?」
こすり、滑り、跳ねるようなその音はかろうじて聞き取れた。これほど静かな日でなければ、近くのエニシダの低木を風が鳴らす音だとネイヴァは思っただろう。槍を手に、彼女は雪に覆われた周囲の地形を見つめた。二人の頭上では目が眩むほどの急斜面が、氷峰と呼ばれる山の白く巨大な頂上へとそびえている。深く切り込む谷の底では、彼女らの猟団が新月から野営を行っていた。見渡す限り、カル・シスマの鋭い峰がその尖った歯列を空へ突き出していた。その更に上では気流に乗る龍らが物憂げに弧を描いていた。
この山にいる狩人は、龍と人間だけではなかった。
そのエニシダが育つ岩雪崩の跡を彼女は調べた。動くものは何もなく、だが弾けこすれるような音がもう数度聞こえた。
「ベイ、あれはゴブリンが岩をひっかく音だ」
ベイシャは十歩離れ、固い雪原を半分進んだ程にある落石の上に膝をついていた。うつむいたまま、彼女は黙らせるように片手を挙げた。
「ベイ」 ネイヴァは声を低く保った。「移動しないと」
「もうちょっと待ってよ。幻視はここに来いって言ってた。間違いなく」
「何もないだろ」
「あるの。ネイには見えないだけ」
「お前にだって見えるとは思わない。そんなことを言ったのは、おばあ様の気を引きたいからなんだろ。お前は私ほど優れた狩人じゃないからな」
ベイシャは肩越しに振り返り、顎を上げて視線を動かすいつもの表情を作った。氏族の誰もが、自分達二人はそっくりだと言う。だがネイヴァは、その気取った自己満足の表情を浮かべたことは絶対にないと思っていた。そしてこれからもないと。
「確かにネイは槍の狙いもナイフの扱いも上手いけど、その口を閉じなきゃ狩人としては役立たずだよ。そもそも何で文句を言ってるのさ、一緒に来る必要なんてなかったのに」
「聖なる山を登れって声をお前が聞いてる間、誰かが守らないといけないだろ。普通の氏族民には立ち入れないような……」 ネイヴァは言葉を切った。
巨大な熊が足を踏みしめるような低い衝突音が大気を震わせた。急斜面の上方で、固い雪の地面にひび割れが走った。
ベイシャは光に目を眩ませたかのように両手で顔を覆った。「来た」 危険を忘れ、彼女は畏敬を帯びた声で言った。
雪が砕け、滑りはじめた。ネイヴァは飛び出し、ベイシャを引きずり下ろすと岩の後ろに縮こまった。二人は背中を岩に押しつけ、わずかな張り出しの下に身をひそめた。雪崩の大音響が耳をつんざいた。ネイヴァはクルショク毛皮の外套を広げて両腕で支えた。雪は岩の上を流れ、そして轟音とともに斜面を下っていった。だが耐えられるかどうかはわからなかった。氷峰という名の通りにこの山の雪原は非常に堅固で、狩人は足を踏み入れることはなく、祖先の声に引かれた囁く者だけが歩く。だが今、数世代もの雪と氷が崩れ、二人を生き埋めにしようとしていた。
ネイヴァは死を怖れてはいなかった。だが不意に怒りが湧いた。巫師としての力を示したいとベイシャが決断し、この無謀な探索に自分を連れ出したのだ。そしてこれまでずっと一緒に生きてきた自分達は、氷の墓に閉じ込められて一緒に死ぬ。
ベイシャの両手が緑色の光を帯びた。その様子にネイヴァは驚き、恐怖を忘れた。雪が岩の上と両脇を流れ下り、古代の氷の中に埋葬されかけながら、ベイシャは押し砕くような雪に対し目の前に壁を作り出した。音を立てて雪崩が激突し、その障壁は内側に曲がった。それを打ち砕いて襲い来る雪を想像し、ネイヴァは息を止めた。
だが魔法の壁は持ちこたえた。
音が弱まった。轟音から静寂が次第に満ちていった。辺りはあまりに暗く、ベイシャの両手が不気味なか細い光に輝く様子だけが見えた。
《爪鳴らしの神秘家》 アート:Tyler Jacobson |
ネイヴァの声が喉で詰まった。吐息が目の前で白くなった、ただそれは彼女の吐息ではなかった。
壁は激しい吹雪の前兆のような白いもやとなって消えた。雪の中から、薄く透き通る人影が歩み出た。その姿は人間に似ていた。背は高く、痩せて、二本脚で歩く……だが雪の上ではなく、破壊的な雪崩が巻き起こした突風の上を。一体は月光の色に輝く目のような緑の斑模様の布を腰に巻き、他は水滴をまとう蜘蛛の巣のように繊細な薄布で身体を包んでいた。青白い皮膚からは髪や髭ではなく繊細な糸のような触手が伸び、奇妙な模様へと巻いては波打っていた。
ベイシャは耳を塞いだ、まるで何人もが一度に叫びを上げたかのように。雪崩の轟音に未だ聴覚が回復せず、もしくはその力がないためか、ネイヴァには何も聞こえなかった。精霊の声が聞こえたことはなかった、それらが何かを言っているのであればの話だが。ベイシャは白目をむき、一瞬倒れこみかけた。
ここに閉じ込めて食べるつもりだ! ネイヴァは槍を掴んだ。
ベイシャが不意に身をのり出し、ネイヴァの腕を強く掴んで下ろした。「駄目! 早まらないで。風の民は攻撃しに来たんじゃない。警告しに来たの」
その声が砕いたかのように、精霊たちは雪片の分厚い雲へと消えた。もしくはそれは彼らが去る際の隠蔽魔法だったのかもしれない。
「ネイ、考えなしに動くのはやめてよ! 聞かなきゃだめだよ!」
「何も聞こえないってば!」
「そりゃあね」
ベイシャは外套の雪を払い、張り出しの下から抜け出した。そして彼女の驚愕の声がネイヴァの骨を恐怖で震わせた。彼女はベイシャを押しやって外に出た。ネイヴァは常に怖いもの知らず、一方のベイシャは怖がりだった。だがそんなネイヴァであっても、目の前の光景は壮絶すぎた。彼女は雪崩が引き起こした破壊の爪痕に唖然とした。広い範囲で地面がむき出しになり、山腹の広範囲が縞と斑の模様になっていた。広大な雪原の半分が崩れて消え、流れ下った谷を巨大な雪の塊で満たしていた。
「おばあ様と皆が谷にいるんだぞ!」 彼らの死を予想し、ネイヴァは叫んだ。だが泣きはしなかった。涙で彼らが生き返ることなどない。
「皆大丈夫だよ」
「なんでわかるんだよ?」
「風の民が教えてくれた。彼らはおばあ様への伝言のために、私をここへ呼んだの」
「何て言ってたんだ?」
痛むかのように、彼女は目をこすった。「おばあ様に伝えないといけない」
「私じゃなくて? 信頼できないのか?」
「何でいつもネイはでしゃばるのかな」
「いつも出しゃばってなんてないだろ!」
かすかに轟く音が届いた。どこかの斜面で別の雪崩が起こったのだ。
「大声は雪崩も起こすよ」 ベイシャが囁き声で付け加えた。
「知らないとでも思うのか!」
「じゃあ何でまだ喋ってるのさ?」
ネイヴァは言い返すのをこらえた。ベイシャの言が正しいというのは苛立たしいが、その通りだった。大きな音を立てればまた容易く雪崩を引き起こしてしまう、その危険を冒すわけにはいかなかった。彼女は槍と荷物を掴んだ。二人は可能な限り急ぎ、雪原だったものを無事に横切った。雪崩は岩屑の一帯を直撃しており、岩を山の遥か下方まで飛ばしていた。巻き込まれて窒息したゴブリンの小さな群れの残骸を二人は発見した。
「何かがつけてきてるぞ」 ネイヴァが呟いた。
ベイシャは黙らせるように手を振った。
岩の上を何かが柔らかくこする音がした。ネイヴァは咄嗟に身を屈めつつ振り返り、その時血まみれのゴブリンが右の巨岩の背後から飛び出した。その鉤爪が彼女の頭を引っかこうとしたが、ネイヴァは槍の柄をその上半身に叩きつけ、よろめかせた。鉤爪の先端が革の肩鎧をとらえたが、彼女は相手の動きを利用して打ち返し、落とした。ゴブリンは地面に激突し、立ち上がろうと手足をばたつかせた。だが彼女の方が素早く、尻を切り裂いて動きを奪うと分厚い皮膚から筋まで貫き、続けて顔面を突いた。それは外れ、先端が岩をかすめた。ゴブリンは彼女の腕に噛みつき、歯が革の腕甲をとらえた。彼女はそのままゴブリンの後頭部を繰り返し強く叩きつけ、槍を持ち替えると目から脳までを一突きにした。
血が鮮やかに雪の上へと散った。
苦々しくも、彼女は雪崩に感謝した。一体のゴブリンは狩人にとって脅威ではないが、相手が多すぎたなら自分とベイシャは圧倒されてしまうかもしれなかった。
ベイシャはナイフを取り出し、雪崩に巻き込まれたゴブリン一体一体を蹴りつけては全員が死んでいるかを確かめた。ネイヴァは雪で刃を拭い、狩猟用の網を広げ、ゴブリンの小さな身体をその中に丸めて入れた。
「ネイ、今は誰も飢えてないよ。ゴブリンなんて食べたがらないよ」
「肉を残してくわけにはいかないだろ。龍も近くにいるんだから」
網を引きずりながら、二人は重い足取りで進んだ。やがて頑強なエニシダの木々の下、安定した地面が谷まで続いていた。雪崩の通り道からは白いもやの煙が今も空へと上がっていた。龍たちがそこに遊びを見つけ、遠くの峰から速さを競っては雪の塊に炎を吹きつけていた。雪解け水が弾けるように谷の裂け目へと勢いよく流れ下った。
《茨森の滝》 アート:Eytan Zana |
「皆が雪崩を生き延びたとしても、この洪水はどうすればいいんだよ?」 冷たい予感にネイヴァが呟いた。心配するのは嫌いだった。心配は怒りに繋がる。
「大丈夫だって、風の民が」 だがベイシャの声は震えており、その確信が揺らいでいるのがわかった。彼女はネイヴァへと手を伸ばし、二人は安心を求めて手を握りしめた。常にそうだった。息絶えた母の腹を助産婦が切り裂いて二人が産まれた時も、こうして互いの手を握りしめていた。
谷底の流れはうねって暴れ川となり、その岸を溢れ出して石と泥で茶色く濁り、植生を根こそぎにした。谷へ直接下ったなら洪水に飲み込まれてしまうため、二人は斜面に沿った遠回りの道を辿った。
「このゴブリンを投げ捨てていいなら、もっと早く動けるのに」 ベイシャが網の中にくるまったゴブリンの死骸を示した。
「お前をそうできたらってずっと思ってるんだけどな!」
ベイシャは笑って愚痴を止めたが、事実ネイヴァの心にはあらゆる惨事の予想が渦巻いていた。もし祖母が死んでしまっていたら? 龍王アタルカへ貢ぐための定住地、アヤゴルに向かうのが良いのだろうか? それとも新たな狩猟場を求め、カル・シスマの広大な版図に散らばる他の猟団に加わるのか? 小さな猟団が守りの固い洞窟に住んで監視する国境地帯へ向かうべき?
彼女は生き延びるつもりであり、それは自分達を受け入れてくれる人々を探すことを意味した。ベイシャが麦を炒る間にぼんやりする、もしくは獲物の皮を剥ぐ間にうっとりと空を見上げる様子を気にしない人々を。ベイシャが巫師だとわかっても自分達をアタルカに差し出さない人々を。いや、そもそもベイシャこそがこのゴブリンの死骸以上の重荷なのでは? この若く未熟な囁く者を、危険を冒して受け入れる集団がなかったとしたら、ベイシャの存在こそが自分達の命を奪うことになるのでは? 自分達二人だけで生きていけるのだろうか? それとも自分はベイシャを捨てるべきなのだろうか?
「あそこに!」 ベイシャが不意に立ち止まり、荒く息をついた。
水は退きはじめており、植生を一掃された谷底が見えた。木々すらも地面から引き抜かれ、流されてぐらつく塊へと積み上がっていた。そういった倒木や土の中、小高い丘があった。上部なモミの木に囲まれ、それは洪水の中に残っていた。皆がそこに避難しており、遠くからは蟻のように小さく見えた。
山腹を重い足取りで進むころには二人の両脚は泥に覆われ、ネイヴァの全身が痛んだ。だが丘に近づくと叫び声が二人を出迎えた。木々の間から一人の見張りが手招いた。幾つもの炎が燃やされ、大規模な猟団が暖をとっていた。命からがら逃れたためか天幕は失われ、だが狩人は装備を身に着けていた。
祖母は数人の負傷者を手当てしていた。二人の姿を見るとその厳格な表情がわずかに和らいだが、祖母が見せる感情はその安堵の欠片だけだった。
「ネイヴァ、それは?」
「待ち伏せしようとしたゴブリンの群れが死にました」
祖母はそっけなく頷いた。いつも通り、ネイヴァは正しいことをしたのだろうと解釈し、特に褒めることもしない。「ベイシャ、来なさい」
ネイヴァは他の狩人へと網を手渡し、祖母とベイシャを追って木々の間へ向かった。
「何があった? お前達が聖なる山に入り込んで雪崩を起こしたと噂する者もいる。私達はかろうじて逃げ出した。もっと悪いことに、この谷が蘇るまでには何世代もかかるだろう。アタルカが多くの肉を要求する今、自分達の分をこの豊かな狩猟場に頼っていたというのに」
「風の民です」
「風の民に会ったのか? 私達がアタルカに屈してから彼らが接触してくることはなかった。今はもう私達を信頼していないのだと思っていたが」
「その者たちは、おばあ様に伝えて欲しいことがあると」
「私に?」
「龍爪のヤソヴァに」
《龍爪のヤソヴァ》 アート:Winona Nelson |
ネイヴァは両手を拳に握りしめ、身体を寄せた。ベイシャがその言葉を口にしたことは衝撃だった。アタルカは龍爪の名を抹消し、耳に届く所で無謀にもその名を口にしたあらゆる者を食らう。
「ネイヴァ、ベイシャが話を終えるまで誰もここに近づかせないように」 祖母はベイシャの腕を掴んだ。「全てを話しなさい」
モミの木々の影の中、大気は常になく冷たく感じた。巨木の北側に陽の光が当たることはなく、古い積雪がその幹を半円に覆っていた。ベイシャは音を立てて全ての息を吐き出した。囁きの瞑想へ入り、風の民が与えた幻視へ沈むとその声はかすれた。ネイヴァは巫師ではないが、片割れの思考はいつもかすかに感じていた。彼女もまた世界の全てが荒れ狂う、激しい雪崩のさなかへと沈んだ。二人は記憶ではなく幻視へと没入していった。
一つの影があった、大きな影が。それは雲ではなく、夜でもなかった。広大な空にさざ波が走った。その影とは一体の巨大かつ荘厳な生物だった。恐ろしくも謎めいて強大、そして盲だった。あるいはそれは視界なき世界に生まれ、見るという概念を持たないか。その翼が天に嵐を起こし、嵐からは異なる色彩の卵石が落ちた。あるものは孵ることなく、だがあるものは落ちながらも孵り、広く深い空の中に身を伸ばし震わせた。卵ではないそれらは翼を広げた。此処であり何処でもない、狭間かつ両側に生きる巨大な影の子供達。球のように丸まった龍の雛が、氷と翼の嵐が吹き荒れる空から落ちた。
壮大な影が翼を一つ羽ばたかせ、そのような卵石が七つ、タルキールではない世界へと産み落とされた。とはいえ風の民の言語にその名はなかった。
まず最もまばゆい卵石が孵った。それは白い翼を広げて落下を緩め、目を開き、言葉を発した。「アルカデス・サボス」 自らを名付けることは自らの運命を決すること。名付けられるのは自らのみ。下界の劣等な獣らとは異なり、それらは自らを常に正しく知っていた。
そして金属光沢の鱗をまとう龍が上昇した。自分にも名があることに驚嘆しつつも、落ち着いたその声には好奇心が宿っていた。「クロミウム・ルエル。なるほど、名前って何を意味するんだろうね?」
赤緑色の大きなうねりが閃光を放ち、螺旋状の角が現れて荒々しい咆哮が上がった。「パラディア=モルスが私の名だ! 私だけの名だ!」
大型の卵石が二つ、既に死んでいるかのように落下し続けた。それらは固い地面に墜落し、土と岩を輪状に飛び散らせて山腹にクレーターを作った。
「ここは何処?」 クロミウム・ルエルが言った。彼は広大な台地の只中にそびえる独立峰の頂上へと下降し、わずかに優美さを欠いて――まだ幼いのだ――着地した。その山は滑らかな円錐形で、均整がとれていて小奇麗、その頂上には大きな火口があった。彼は火口を覗き込んだが、そこに落ちて壊れた巨大な卵はなかった。熱く硫黄臭を帯びた風がその深みから昇ってきた。「うわ! 熱くて気持ちいい!」
彼は翼を広げ、まだ柔らかい鱗に残る湿気を太陽で乾かした。しなやかな首を曲げ、彼は風景を見つめた。巨大な影は森から草原の広範囲を波打ち、遠くの山脈へと達した。それを追いかけるように陽光が戻り、風景を鮮やかな色彩に輝かせた。
《森林の地溝》 アート:YW Tang |
アルカデス・サボスがその隣に降りて陽を浴びた。「このあたりには木が沢山だ。それに見なよ、動物も色々、四足も二足もいる。荒っぽいのも、おとなしいのも。私達みたいに全部に名前があるんだ。あの川の向こうの建物の集まりは何だろ? すごくきちんとしてて面白そう」
赤緑の龍が降下し、二つの卵が飛び散らせたばかりのクレーターを探った。傷つき動かない龍がその中に横たわっているのを見て、パラディア=モルスは嘲りに鼻を鳴らした。「あの二体は弱くて孵らなかった。いい厄介払いだよ」
「見て!」クロミウムが空を見つめた。「もう二つ落ちてくる!」
小型の卵石が二つ、まるで後付けのように地面へと落ちていった。
「弱いのがまた落ちてきた」 パラディア=モルスはうめき、獣が群れる遠くの草原へ目を向けた。「私は狩りへ行く」
燃えるような怒りの息をひとつ吐き、パラディア=モルスは空へ飛び上がった。
最後の卵石二つは山腹の先に落ちていった。見失ったことで興味も消え、アルカデスは翼を広げて建物の集まりへと飛んでいった。それでもクロミウム・ルエルはその卵石二つの行方が気になった。年少の同胞、そして落下の衝撃がなかったことについても。
峰を旋回したが、その低い山腹には何もなかった。落下のクレーターも、産まれたばかりの龍が飛び上がることもなかった。ただ深い森と草原だけが広がっていた、まるであの卵石は消えてしまったかのように。あるいはそうなのかもしれない。もはやこの世界に存在しないのかもしれない、祖の翼がそれらを産み出したものの、盲の影に返したかのように。彼は迷った、アルカデスはどうするのか、彼を追いかけるべきか。その時、あの影の翼がまた一度羽ばたいたかのように、卵石が遠くの山脈のふもとに落下した。『子供達よ、卵石はまだ来るぞ!』 そう言っているかのように。
興味をそそられ、彼はそれらを見ようと飛び立った。
そのため、広げられた翼が彼の目に入らなかった。山麓の空地に墜落する直前、六個目のその卵石は緑色の龍を弾けさせ、数度転がった。そのぎこちない着地は近くにいた狩人の一団を驚かせた。彼らは鉄の槍と網を持ち、痩せて醜悪な猟犬を連れ、巨大な肉食獣を倒したばかりの所だった。その血はまだ流れ出しており、芳香と温かさを放ち、そのため彼女は孵るや否や腹をさいなむ飢えを感じた。そして咆哮を上げて威嚇し、彼らを遠ざけた。
「メレヴィア・サールである。死にたくなければ、その肉をよこすがよい」
狩人と犬は驚き、その不意の獰猛さに面して恐怖に圧倒された。そして耳をつんざく咆哮が最後の卵石の落下をかき消した。それは一体ではなく小さな双子の龍を孵した。彼らから二十歩ほども離れない森の中、二体は枝を折りながら降下し、針葉樹とシダのもつれた地面に墜落音が二度響いた。
「痛っ」 小柄な方の一体が言った。彼は地面で頭をこすり、流れる血を拭った。まだ柔らかな鱗を太い枝が引っかいた傷だった。
もう一体は傷ついた翼を広げようとしたが、身体の上に網のように覆いかぶさる枝にとらわれていた。更には折れた木の幹がその身体を押さえつけていた。「出られない」
「待ってて」 片割れを鋭い瞳で見つめ、もう一体が言った。「きみは、ニコルだよね」
「そうだよ。しー、黙って、ウギン。あれを見て。あいつら、何をあげようとしてるんだろ? 怪しいよ」
メレヴィア・サールは再び吼えた。狩人らは殺したばかりの獣から下がった。彼女は二足たちよりも大きく、だが死骸へ飛び突く際、右の翼を少し引きずった。落下による傷だった。狩人らはまるで会話するように視線を交わした。頷きと身振りを交わしながら、彼らは散開した。その物腰の何かが変化していた。彼らの慎重さと怖れは変わらず、だがメレヴィア・サールが獲物に食らいつくと、ゆっくりと取り囲むように動いた。下等で狡猾な存在らしく、悪賢く臆病に。メレヴィア・サールが頭をもたげて警告の煙を吹き出すと、彼らは後ずさった。だがその注意が食事に戻ると、再びにじり寄った。
「じっとして」 ウギンは騒音を立てて狩人らの注意を引きつけないよう、前肢の鉤爪と口を用いて注意深く枝を取り除いていった。
ニコルは目をそむけることができなかった。思考は狼狽し、腹の中には狂乱がうねっていた。飢えのように、血とこれから起こるものの予感が。あの小さく弱い二足どもが同胞を攻撃するとは?
狩人らは彼女の頭上へと巨大な網を投げた。驚きの咆哮とともにメレヴィア・サールはすぐさま身体を起こし、飛び立とうとした。狩人らは網の端を掴んでそれを防ごうとしたが、上昇する力によろめいて放り出され、彼らの足は宙を蹴った。だが木々の梢に達した所で網が完全に翼へと絡まり、飛翔力を失って落ちた。彼女は着地の際に一人を掴み、打ちつけて咆哮した。縄を噛み切ったが、翼は傷を負っただけでなく枝に引っかかり、飛び立つことはできなかった。犬が興奮に吠え、彼女が身をよじるとその脇腹に噛みついた。
ニコルはその様子を見ていた。「いそいで! 助けないと!」
「静かに。もし見つかったら捕まるよ。そんなことになったら大変だ」
ドラゴン アート:Jack Wang |
ニコルは不満に息を鳴らした。自分が動けないうちは何もできない、それは確かだった。苛立たしかった。こんなのは間違っている!
刺すような火花の咳一つで、メレヴィア・サールは最初の攻撃を押し返した。焼け付く炎の息に狩人二人が倒れた。皮膚を焼かれて彼らは苦痛の悲鳴を上げ、他の者たちは後退した。一人が命令を叫ぶと再び彼らは集合し、槍を構えた。そして叫び声を上げ、互いを激励しながら彼らは四方八方から攻撃した。メレヴィア・サールは鉤爪で一人の腹を切り裂き、内臓と悪臭が溢れ出た。だがその隙に指揮官は彼女へと回り込み、まだ柔らかい下腹部の鱗へ槍を突き立てた。熱い血がその傷から溢れ出て、狩人の頭から爪先にまで赤い飛沫が飛んだ。彼女が横にもがくと、引っかかった翼が恐ろしい音を立てて裂けた。別の狩人が身をよじる彼女の下へ潜り、だが今や頭部も隙だらけだった。狩人二人が右目を突き、犬はむき出しの腹部へ襲いかかり、柔らかな内臓を引きずり出そうと傷口を掻きむしった。
それでも彼女は戦った。彼女は龍であり、下等な生物に決して屈することなどない。彼女はその歯で犬を噛み砕いた。左半身を引きずり、二本の槍を目に刺したまま木々を見上げて逃走手段を探した。だが残る狩人からの逃げ道はなかった。特に指揮官は龍の血にまみれながら彼女を追った。
ニコルはまだ動けなかった。彼は口を開いて憤怒を吠えようとしたが、ウギンが鉤爪でそれを閉じ、黙らせた。「しーっ」
この日、幸運は幼龍二体の味方をした。狩られた龍は二体から狩人らを引き離していった。だが叫びと熱狂した吠え声は届いた。騒音にかき消されながら、狩人らを燃やそうとする龍の弱々しい咳が聞こえた。更に打撃音、苦痛の咆哮、苦悶の悲鳴、断末魔。
「急いで、ウギン! まだ間に合うよ。お姉ちゃんまだ戦ってるんだ!」
「右の後ろ脚をけって」
ニコルがその通りすると、重いものが動いた。
「それが最後だよ」
辛抱強くニコルは前方へ這い出ると、残った枝や土を地面に落としながらすり傷だらけの四肢を伸ばした。
彼とウギンが空地へ急ぐと、狩人五人と犬三匹の屍が転がっていた。そして勝利の合唱が大気を裂いた。まるで木々の間を突風が吹き抜けるように、絶命の匂いが過ぎていった。一体の龍の死は蜂蜜のように馨しかった。その甘味は力、とはいえ狩人らはそれをまだ知らない。
「だめだった」 とウギン。
怒りの熱がニコルの心深くに沸騰した。あいつらを燃やしてやる。燃やしてやるんだ。
ウギンは彼の右後ろ脚を掴んでニコルを止めた。「相手は沢山いてこっちは二体だ。それに僕らはお姉ちゃんより小さいだろ」
「僕らは無傷だ」
「お姉ちゃんにしてあげられることは何もないよ」
「仕返しできるよ。あんなちっぽけな奴らが僕らを攻撃するなんて許しておけない」
「まずみんなを見つけようよ。数は力だよ、あの狩人たちのように。あいつらも一人だったらお姉ちゃんを倒せるわけなんてなかった」
「みんなって?」
「一緒に落ちてきた他の龍。お兄ちゃんとお姉ちゃんたち。気付かなかった?」
ニコルは雲のない空と眩しく輝く太陽を見上げた。太陽は圧倒的で、他の何よりも堂々と輝き、眩しく力強く、影や恐怖とは正反対の存在だった。
「あの狩人なんて怖くないさ」彼は言った、太陽が何も怖れないように。
《山》 アート:Jonas De Ro |
「もちろんそうだよね」
「そうだよ!」
ウギンは幼いながらに賢明だった。口論から得るものは何もないとわかっていた。「行こう、ニコル。山の上まで登れば、他のみんなが見つかるかもしれない」
メレヴィア・サール以外の龍に気付かなかったとニコルは認めたくなかった。だがそれ以上に、恐怖に襲われた弱者のように逃げ去るのは嫌だった。それでも狩人の犬は新たな匂いを嗅ぎ取ったらしく、熱狂的に騒がしく吠えはじめていた。狩人らがちっぽけな存在であることは確かで、自分達の姉は既に五人を殺していたが、一人では絶対にできないことも力を合わせれば成し遂げられるということを、彼らは証明していた。
「どっち?」
「上だよ」
ウギンはぎこちない助走から翼の羽ばたき一つとともに跳ね、そして音を立てて落下した。大胆な殺戮者に追われていなかったら、可笑しい姿だったかもしれない。
「僕は飛べるよ」 とニコル。
熱狂した吠え声の合唱が強まり、数匹の犬が空地へ駆けこんできた。アドレナリンが湧き、彼を急かした。ニコルは先頭の犬へと飛びかかり、一噛みでその頭部を切断した。塩味の血が口に浸み、数度咀嚼した後に飲み込んだ。味わえればもっと良かったのだろうが、脇腹に歯が引っかかった。他の犬が彼を取り囲み、噛みついていた。
「ニコル! あいつらが来る!」
「いくじなしみたいに逃げるもんか!」
「慎重なのといくじなしは違うよ、その区別がつかない馬鹿じゃないだろ」
腹立たしいことにウギンの言葉は正しかった。ニコルは鉤爪を大きく振り払い、犬を下がらせた。だが更に多くが端の茂みから飛び出してきた。狩人の声は大きくなった。後ろ足を蹴り上げて翼を羽ばたかせ、彼は予想以上に素早く飛び上がった。それであっても、未だぎこちなかった。鉤爪の後ろ肢はモミの木の尖った葉をかすめた。彼はかろうじて再び木に引っかかることなく飛び去った。だが逃げおおせたと思った瞬間、何人かが空地へ辿り着いた。彼らはニコルを見上げ、明らかに畏れた。
ニコルは森の上へ舞い上がり、峰を目指した。不意に怖れ、彼は振り返った。ウギンの姿がなかった。
「こっちだよ!」 片割れは既に彼を追い越していた。
二体は競うように山頂へ向かい、不器用に翼を畳んで着地した。
ニコルは口元の血を前肢でぬぐった。その血は既に冷えて固まり、だが心臓の鼓動は今も高鳴り続けていた。あの獣の頭を裂いてやるのは何と簡単だったことか! 犬全部をそうすることもできた、あいつらは自分の鱗に歯が立たないのだから。危険なのは狩人だった。武器と協力とで、一人ではできないことを達成してのける。
すぐ近くにクレーターがあり、その中には一体の龍の死骸があった。自分やウギンよりもずっと大きかった。それは落下を生き延びられなかったのだ。
「どっちのほうが嫌かな」 彼は尋ねた。「孵らないのと、孵ったけどすぐに戦いになって、怖くて熱くてでもすぐに死んじゃうのと」
ウギンは答えず、風景を見つめていた。世界は新しいものではなく、だが自分達は産まれたばかりだった。まるで目でみたものを完全に理解することのできない幼子のように。緑森、黄緑色の草原、広大な台地を曲がりくねって進む銀色の川。あらゆる種類の生物がこの広い世界をさまよっていた。全てが発見される時を待っている。ウギンは視線を空へ向け、何よりも長い時間をかけて天を見つめた。
「僕たちは、どこから来たんだろうね。僕たちの始祖はどこに行ったのかな? 空の向こうには何があるのかな?」
「あれを見て!」 ニコルは一体の龍が動物の群れへと降下するのを見た。獲物が恐怖に逃げ惑う様を見つめるのは愉快だった。その龍は逃げる獣の一体を溢れる優雅さと力で掴まえた。
アート:Chris Rahn |
彼とウギンが落下した地点の枝や岩屑を発見し、犬が騒がしく吼えた。死んだ姉を思い、ニコルは狩人と犬を八つ裂きにしてやりたかった。だがあるいは、彼らに非などないのかもしれない。ただ求めるものをその好機に得ただけなのだ。非があるのは、生き残れなかった龍の方なのかもしれない。
耳には今もメレヴィアの断末魔が響いていた。死は素晴らしいものなどではない。不名誉なものだ。だが狩る側であることは、いくらか良いものだ。彼は岩の上に登り、上昇気流に飛び込もうとした。既にこの世界を感じはじめていた。自らの道を見出す助けとなる、目に見えぬ風と流れを。
飛び立つ前に彼はふと止まった、双子の片割れの存在がないことを感じ、そして振り返った。
ウギンはまだそこにおり、今も夢見るように風景を見つめていた。
ボーラスは声をかけた。「ねえ、みんなに追い付くんだろ。狩人のことを伝えないと。どうやれば仕返しできるかを考えないと。急ごうよ!」
ウギンは穏やかな視線をニコルへ向けた。その両目は謎を秘めた水晶のように深かった。
「龍爪のヤソヴァよ、そなたを探す者がある。我がもとへ来たれ」
警戒の叫びがベイシャのかすれ声を破った。ベイシャは荒々しく瞬きをし、幻視が退いてふらつき、そして祖母の頑強な腕へと倒れ込んだ。ネイヴァは槍を掴んで木々の端へと駆けた。
三体の龍が間に合わせの宿営の端に降り立っていた。それらはアタルカの血統、がっしりとした身体で頭には鹿のような角があった。大型の二体は威嚇するように炎を口に宿し、アタルカの血統のほとんどがそうであるように、筋道だった知性は備えていなかった。だが最小の個体は、その熱烈な瞳に狡猾なものがあった。龍詞のみであるが会話をし、意思の疎通が可能と思われた。
「大気に魔法を感じた。巫師を差し出せ、でなければ全員殺す」
ネイヴァの鼓動がはやり、口が乾いた。彼女は無傷の狩人らと視線を交わして槍を強く握りしめた。全員が彼女と同じように槍を上向きに持って敵意を示さぬように立ち、とはいえいついかなる時にも動けるよう身構えていた。それでも防御は龍に逆らうことを意味し、すなわちそれはアタルカと氏族との争いをもたらすかもしれない。人間はこの争いに勝てない、それは祖母が十八年前に理解したことだった。
戦って死ぬのと、生にすがるのではどちらがましだろう?
「この小さな猟団に、どのようなご用件でしょうか?」 祖母が木々の間から一人で現れた。彼女は丸腰だった。かつて氏族長の地位を示した龍爪の杖は秘密の洞窟深くに隠され、潜伏する囁く者に守られていた。偽物が作られてアタルカに捧げられ、破壊された。だが祖母はその存在そのものが武器といえた。祖母が何かを怖れる姿をネイヴァは見たことがなかった。「私はヤソヴァ、この猟団の母にして長です。栄誉ある血統の龍よ、名をお伺いしても宜しいでしょうか?」
その龍は地面へと無害に炎の一片を吐き出した。「大雪崩が氷と雪を山から落とした。いかにして生き延びたのだ? 木々のように引き裂かれなかったのはなにゆえだ? 魔法の臭いを感じた。龍王アタルカ様によりその行いは禁じられている」
祖母は背後に直立するモミの木々を示した。「この丘に留まっておりました」 それは嘘だった。この宿営について知る全員が、ここにはかまどや寝場所が何もないことを把握している。多少なりとも理解力があるならばそれを察するだろう。「雪崩と洪水は下へ流れていきました。旅を続ける許可を頂けますでしょうか」
その龍は一度、そして鈍い頭に思考が届いて二度目の瞬きをした。「どこへ向かうのだ?」
彼らはアヤゴルへ戻るまで、この豊かな森にひと月いっぱい留まる計画でいた。そのためネイヴァは祖母の次の言葉に驚いた。
「我々は狩猟の呼び手によってカル・シスマ東域の警戒に回され、敵氏族の侵入を警戒しておりました。日が高いうちに移動を続けたいのです。お手を煩わせましたお詫びと敬意を表しまして、ささやかですが食物を用意しております」
彼女はネイヴァの視線を受け止め、顎で網の方向を示した。他の狩人の手を借り、ネイヴァはそれを前方へ引きずり出すと屍を岩の坂に転がした。大型の二体は熱心に鼻を鳴らし、食べる許しを長に請うていた。小型のそれですら予期せぬ貢ぎ物に気を散らした。彼らは非常に強欲で、その飢えこそが付け入る隙となった。
龍たちがゴブリンに食らいつくと、祖母は全員を木々の中に下がらせた。「移動の準備を。動けない負傷者は私達が戻ってくるまで物資とともに残りなさい」
「どこへ行くんですか?」ネイヴァが尋ねた。
祖母は苛立つ視線を向けた。「今言った」
ネイヴァは恥ずかしさに頬が燃え上がった。指が袖をかすめ、振り返るとベイシャが隣にいた。彼女はまるで熱病のように顔を赤らめていた。
「ネイ、聞いた? 風の民がくれたあの幻視は、彼らからのものじゃなかった」
「じゃあ何から?」
「精霊龍ウギンから」
「ウギンは死んだんだろう。おばあ様はそこにいて死ぬのを見たって。何百回も聞いた話だ」
「うん。だからウギンの墓へ行かないといけない。あの幻視が何を示しているのかを確かめないと」
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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